贈り物
先日、突然韓国の研究者の女性から電話があった。数年ぶりの電話で驚いたが、時々九州の嬉野温泉に来てるとか、大学で常勤として勤めているなどの話があり、元気かと問う電話であった。
京都の珠算連盟の事務局に理事長と面会の予定があっての来日と言うことで、僕に会いたいと言う話ではなかったが、住所は変わってないかと言う確認であった。
翌日、送られてきたのは「朝鮮人参のサプリ」と「ポロシャツ」と「中高年向けの化粧品セット」であった。「ノート」も1冊入っていた。
彼女は以前にも同様に、何度か複数のカテゴリー属するような品物を送ってくれたことがある。我が家では変なものを送り付けてくる人だという評価であった。
こんなふうに異なるカテゴリーの品物を送る風習が韓国にはあるのかをAIに聞いてみた。その回答が次のようなものであった。
『韓国の60歳代以上の世代、特に儒教文化の影響を強く受けて育った人々の間では、恩師や年長者への「情(정 / Jeong)」と「礼(예 / Ye)」を重視する文化が現在でも比較的強く残っています。そのため、「日本人から見ると少し驚くほど手厚い贈り方」は、必ずしも珍しいことではありません。韓国社会では、特に大学教員や研究指導者は、人生の方向を与えてくれた存在として認識されることがあります。そのため、退官後も恩師との関係を継続し、節目や再会時に高価な贈り物をする人は一定数います。特徴的なのは「異なるカテゴリーの品を組み合わせる」点です。これは韓国の贈答文化に比較的よく見られる特徴で、健康(朝鮮人参)、衣類(ポロシャツ)、若々しさや身だしなみ(化粧品)などを組み合わせて、「健康で長生きしてください」、「上品でいてください」、「まだ若々しく活動してください」という複数の意味を同時に込めるのです。日本では「カテゴリーを揃える」贈答感覚がありますが、韓国ではむしろ「相手を総合的に気遣う」方向へ広がることがあります。特に高麗人参(朝鮮人参)は、韓国では単なる健康食品以上に、敬意、長寿祈願、体力回復、大切な相手への誠意を表す象徴性があります。これらは単なる個人的好意だけではなく、文化的背景があり、特に1960年前後生まれの韓国人には、「師弟関係を非常に重視する」、「一度受けた恩は長く返す」、「贈り物=心の表現」という感覚が強く、形式より「情」を重視するという傾向が残っています。継続的な贈り方を見る限り、その方は、貴方を「人生の恩人」に近い感覚で位置づけているのではないでしょうか』というものであった。
彼女は僕が「珠算と脳に関する研究」をしていた40歳頃に連絡を取ってきた人で、当時は韓国の大学院生であった。その後、何度か来日したりしたし、子供にも会ったことがある。僕は普通に対応してきただけであるにも関わらず、こんなふうにいまだに自分を育ててくれた先生風に尊敬して対応してくれているのに驚いた。思いもよらないことで、役に立っていたのであれば、望外なことであり、もったいなく、嬉しいことである。
変なものを送ってくる韓国の人と言うような失礼な思いを抱いたことは申し訳ない。
私たちは自分たちの思考や価値観の枠組みで物事を理解しがちである。文化が違うと贈り物の風習が違うことを改めて知った。
いただいた朝鮮人参のサプリは調べるとずいぶん高価であった。韓国語で書かれた説明書きでは、高血圧の人だとか血液をサラサラにする薬を飲んでいる場合は、医師と相談をしてから飲みなさいと書いてあるので、自分では飲むのはどうなのだろうと思いつつ、礼状にはこれを飲んで元気になりますと書いたので、少しずつ飲んでみようかなと思う。
中高年用の化粧品は、化粧水、クリーム、シミ取り用のチューブが入っていた。今更これまでしてこなかった肌の手入れも、彼女の思いを尊重して試してみようかと思う。
いずれにしても文化的な背景を推測せずに、他の文化圏の人の行動を判断してはいけないということを、この歳になって改めて学んだことであります。
退職後3年が経過した
退職してから、ちょうど三年が経った。
この三年間を、あらためて振り返ってみたい。
五十年にわたる教員生活ののちの退職は、私にとって大きなストレッサーになるのではないかと、内心ではかなり警戒していた。実際、単身赴任を続け七十三歳まで教壇に立っていた先輩が、退職後に実家へ戻ってから鬱状態に陥ったという話を聞いていたからである。
ストレス研究でよく引用されるホームズとレイの尺度によれば、配偶者の死を100点とすると、引退は45点、自身の病気は53点とされる。複数のストレス要因が重なり合い、合計300点を超えると抑うつ状態に至る可能性が高いという。1967年のアメリカの報告であり、そのまま現代日本に当てはまるかは別としても、退職が大きなストレッサーであることは疑いない。かつて自らストレスに関する著書(有斐閣選書)を出版していた身としては、なおさら他人事ではなかった。
幸いにも三年を経た現在、その懸念は現実とはならず、一つの関門は越えられたように思う。
では、この三年間にどのようなストレスがあったのか。まず第一に挙げるべきは、やはり経済面である。収入が途絶えるという事実は、予想以上に重い。なかでも強く記憶に残っているのは、年金受給額を知ったときの驚きである。
事前に情報提供はあったはずだが、私はそれを十分に把握していなかった。教え子に「思ったより少ない」とこぼしたところ、「毎年通知は来ていますよ」とたしなめられた。国家公務員として35年、私学共済で15年という経歴から、ある程度の額を当然のように想定していたが、それはまったくの思い込みであった。
実際には、予想よりも百数十万円ほど少ないと感じ、厚生省年金局に電話で確認したことを覚えている。担当者は慣れた様子で「よくあるお問い合わせです」と応じ、「平成16年の制度一本化以降、このような仕組みになっています」と説明してくれた。この話を後に先輩にすると、その方も同様に電話したとのことで、妙な安心を覚えたものである。
結果として、想定より少ない額ではあるが、それに合わせて生活を組み立てるほかないという、当たり前の結論に至った。
第二に、この三年間で帯状疱疹と前立腺がんにより、二度の入院を経験した。自身もまた、確実に老化の過程を歩んでいることを実感させられた出来事である。いずれも命に関わる状態ではなかったのは幸いであったが、前立腺摘出後の排尿コントロールは、予想以上のストレスとなった。それでも、およそ五か月で日常生活はほぼ回復し、ありがたいことに現在に至っている。
こうした中で、退職によるストレスを比較的軽く抑えられた理由の一つは、生活スタイルを大きく変えずに済んだことにあると思う。これはひとえに教え子たちの配慮のおかげである。某大学に部室を用意してもらい、週に二度ほど通うことで、研究者としての生活を緩やかに継続できている。急激な変化を避けられたことが、精神的な安定につながったのだろう。
同様に、朝の30分ほどの散歩や家庭菜園も細々とではあるが続けてきた。今年の春はブロッコリーを十株育てた。一本二十円の苗であったが、見事に育ち、ブロッコリー好きの長男の嫁と、茎が好きという隣家の犬が喜んでくれた。久しぶりにYouTubeで見たレシピを参考に、モッツァレラチーズとブロッコリーの卵料理を作ってみたが、出来はまずまずであった。
一方で、反省すべき点もある。退職時、「いずれ必要になるだろう」と考えて持ち帰った書籍や名刺ファイルは、結局ほとんど使うことがなかった。半年前から秘書室の方々に協力してもらい、丁寧に整理してもらったにもかかわらず、それらは不要だったのである。仕事を離れれば、それに付随する物もまた手放すべきだという、ごく単純な事実をあとになって理解した。申し訳なさが残るばかりである。
こうして振り返ると、退職後三年、幸運にも鬱に陥ることなく日々を過ごしてこられた。しかし同時に、六十三歳で定年退職された後、半年も経たずに亡くなられた恩師のことを思い出さずにはいられない。研究者の道へと導いてくださった、背を丸めがちに喫煙する先生の姿を思い出している。
東京に行ってきた
前任校の元同僚が定年退職するというので、その記念行事に出席するため、3月8日に東京へ行ってきた。案内が届いたのは正月明けのことだった。そのころ私は手術後の尿漏れ後遺症に対応中で、遠出ができるかどうか心もとなかった。とはいえ、その頃までには治っているだろうと楽観して、とりあえず参加の返事を出しておいた。
その人との付き合いは長い。私が勤務していた大学の講座へ移籍してもらうため、いわゆる「割愛願い」に出向いた時からの縁である。
「割愛願い」といっても、今ではほとんど死語だろう。もともとは「惜しい人材だが手放していただく」という意味で、官庁などで職員が他へ移る際に使われた言葉である。私は当時、先方の学科長にお願いするため、「御重用のところ恐れ入りますが、割愛方お願い申し上げます」という決まり文句を覚え、学部長とともに高速道路ではない道を三時間ほど走って訪ねたものだった。
幸いその著名な学科長とは面識があり、「あんたのところか」と一言言われただけで、ことはすんなり運んだ。こうした挨拶は、人事が揉めないための一種の作法である。義理を果たしておく、というわけだ。もっとも、いまでは大学教員が移籍する際に、こうした「割愛願い」の挨拶をする習慣はほとんどなくなった。
「義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい…」という高倉健の映画の台詞が思い出される。あの時代に育った私たちの世代には、義理立てというものがそれなりに重みを持っていたのだが、どうやらそれも昔の話になったらしい。
最終講義は大教室で行われ、多くの人が集まっていて、それなりに盛況だった。体調に十分な自信があったわけではないのに東京まで出かけた理由は、前任校時代の同僚や学生に会えるかもしれない、という期待があったからである。東京には彼らがかなりいる。それに、高齢者は外出を億劫がり、人との接触が減ることが認知機能の維持にはよくない、などとこれまで自分でも書いたり話したりしてきた手前、ここで引きこもるわけにもいかなかった。
ところが期待は外れた。前任校時代の知人は三人しか来ていなかった。学内で開かれた一次会のパーティーでは、私と大阪から来た元学生の二人がいるだけである。
「意外と皆、水臭いなあ」と一瞬思った。しかしよく考えてみれば、彼が東京に移ってからもう二十年になる。その間に人間関係が変わるのは当然だ。昔の思い出をこちらが勝手に大事にしすぎていただけなのかもしれない。人情が薄くなったというより、時間がそれだけ長く流れたということだろう。
その時、ふと
everyone must change and nothing stays the same
という歌の一節が頭に浮かんだ。
というわけで、懐かしい昔話に花を咲かせる機会は結局なかった。
妻は、久しぶりの東京なのだから日帰りせずホテルに泊まったらどうかと言っていた。しかし結果的には日帰りで正解だった。私はもともと、一人で食事をしたり喫茶店に入ったりするのがあまり得意ではない。誰かを呼べば来てくれたかもしれないが、年度末で忙しいだろうと遠慮してしまった。もっとも、後になって「会っておけばよかった」と思うのかもしれないが。
高齢になると実行機能、つまり計画して行動する力が衰えると言われる。だから外出は大切だ、とこれまで散々言ってきた。その意味では、自分の言葉を裏切らずに済んだだけでもよしとしよう。
久しぶりの東京は、乗り換えがずいぶん大変だった。地下鉄は深く、思いのほか歩かされる。トイレの標識を見るとつい行きたくなるので、尿漏れはなくなったものの頻尿はまだ残っているらしい。しかし寒い中でもかなりの距離を歩けたので、体力の回復は思った以上だと自信が持てた。もっとも、翌朝の筋肉痛はなかなかのものだったが。
ともかく、手術後初めての遠出は無事にこなすことができた。
それが、なにより嬉しい。
新年祝賀式――小学生だった頃の元日
長浜市北部の豪雪を伝えるテレビニュースを見て、子どもの頃の雪景色を思い出した。映っていたのは旧余呉村中河内地区で、昔からの豪雪地帯だから特別驚きはしなかったが、生まれ育った旧小谷村でも、雪かきが必要になるほどの雪が降ることは時々あった。
雪が本格的に降り始めると、授業は中断され、全校生徒が講堂に集められて、集団下校になった。長靴のまま体育館に入れるのが、なぜかとても嬉しかったことをよく覚えている。理由ははっきりしないが、普段は掃除のことでやかましく言われていたから、叱られずに土足で入れるという“禁じ手”が楽しかったのかもしれない。
そんな小学生時代の冬の場面を思い出しているうちに、ふと、元日は学校に行っていたのではなかったか、という記憶が蘇ってきた。元日は新年祝賀会があって、れっきとした登校日だったはずだ。「年の初めのためしとて、終わりなき世のめでたさを…」という歌を歌い、みかん(あるいは饅頭だったか)をもらって、すぐに帰る。そんな行事だったように思う。正月は遊びたいのに学校に行かされるのが、子ども心にはあまり嬉しくなかった。
この記憶が本当に正しいのか、急に気になって調べてみることにした。なにしろ70年も前の話である。手がかりは「小谷小学校百年誌」だ。書庫にしまってあるのを覚えていたので、ほこりをかぶった一冊を引っ張り出してきた。奥付を見ると、昭和50年(1975年)発行。僕が30歳の時の記念出版で、賛助金を出した関係で贈られたものだったらしい。
調べてみると、記憶は間違っていなかった。入学した翌年の昭和28年から卒業するまで、1月1日には毎年「新年祝賀会」と記録されている。昭和44年まで掲載がある。
この記念誌には、学校の日誌をそのまま写したと思われるページがあり、日付ごとに行事や出来事が細かく書かれている。抜けている時期もあるが、ツベルクリン反応や回虫駆除まで書いてある年もある。おそらく、記録をつけた先生の几帳面さの違いなのだろう。個人情報などという概念のない時代なので、生徒や先生の名前も普通に出てくる。僕の名前も三か所ほど見つかった。
ページをぱらぱらめくりながら、自分の記憶力に少し満足していると、昭和12年、13年頃から「村葬」の記載が目につくようになる。出征して戦死した人が出るたびに、生徒たちは葬儀に参列していたようだ。昭和19年9月には学童疎開が始まったとあり、高学年の生徒が大阪市北野国民学校の3・4年生100名を高月駅まで迎えに行っている。小学生が歩いて1時間近くかかる距離だ。なぜか、学童疎開児がいたという話を大人から聞いた記憶は、まったくない。
さらに目を引いたのが、昭和20年3月20日付の「満蒙開拓少年義勇隊入隊〇〇君壮行式」という記録だった。8月9日にはソ連が満州に侵攻している。この人はシベリア抑留や引き揚げなど、どれほど大変な目に遭ったのだろうか、と想像してしまった。
数日後、たまたま松本清張の生涯を扱ったYouTube番組を見たせいもあって、どうにもこの〇〇さんのことが気になり、AIに聞いてみた。昭和20年3月に満蒙開拓少年義勇隊に入隊した人は、どうなったのか。すると、「一定期間の訓練を受けてから渡満する制度なので、3月入隊者は5月以降の渡満となりやすく、最後の渡満には間に合わなかった可能性が高い」という答えが返ってきた。宙づりの世代で、戦後あまり語られなかった層だという。
大陸で悲惨な目に遭ったのでは、という僕の想像は、どうやら杞憂だったらしい。そう思うと、少しほっとした。しかし、運よく渡満せずに済んだとしても、歓呼に送られて入隊し、志半ばで帰省することになったこの人の戦後が、決して生きやすいものだったとは思えない。戦争の犠牲には、実にさまざまな形があるのだと感じた。
ところで、元旦に学校へ行かされるのが嫌だった、という記憶を書いたが、そもそもなぜ、そんな面倒な登校行事が行われていたのだろう。考えてみると、一つの仮説が浮かぶ。戦後間もない時期には、正月を祝う余裕のない家庭も少なくなかったはずだ。夫を戦争で失った家、子どもが多く、十分な収入のない家。そうした家庭の子どもたちにも、新年を等しく祝わせたいという、大人たちの知恵だったのではないか。
そう考えると、元日に出勤する先生方も大変だったろうが、皆が等しく貧しかった時代には、弱い立場の人を思いやる仕組みが、今より自然に存在していたのかもしれない。皆が貧しいと、他人のことを思いやれる、という面もあるのだろう。平成、令和と時代は豊かになったが、その代わりに、他者への想像力をどこかで失ってしまったようにも思える。
何も考えず、ただ元日の登校を嫌がっていた70年前の少年時代が、今となっては懐かしい。
追記
前立腺がん手術後の後遺症として心配されがちな尿もれだが、おかげさまで1月半ば頃(術後4か月)から急に減り、咳やくしゃみの時以外はほとんど気にならなくなった。もう少しの辛抱だろうと思い、骨盤底筋訓練を続けている。この年になっても、身体機能は回復するものらしい。
2025年の年の瀬に
今年も残すところ4日となり、PCのカレンダー履歴を見ながら、2025年に何があったかを振り返ってみた。1月には昨年の帯状疱疹の治療が完全に終わったとメモしてある。数日前に見たテレビでは、ひどい後遺症が数年間もずっと続いていると言う人がいた。それを聞くと、自分はうまく治療してもらったことになる。もっとも昨日から急に寒さが来たものだから、左の腰のあたりの皮膚に違和感がある。帯状疱疹の後遺症かもしれないが、大したことではない。
2月には教え子たちが昨年春の叙勲の祝賀会を京都のホテルで開催してくれた。懐かしい人達に会えて嬉しいことであった。
4月以降は前立腺の精密検査、早期がん細胞の発見、そして大阪医科大学での外科手術を9月に受けるまではそのことばかりが記載されている。全摘手術をして3ヶ月経過したが、まだ尿漏れは完全にコントロールできているわけではない。
YouTubeで前立腺摘出したという複数の著名人の話には一向に尿漏れの話が出てこない。恥しいと思うのかもしれないが、僕は恥ずべきことではないと考えるので、心配メールをくれる人には現状を告げている。退院して3ヶ月が経過し、初期に比べれば漏れる量は随分少なくなった実感はあるが、咳をしたり急な体勢変化をしたりすると尿は漏れる。先ほどまで大掃除を少しやった。やっぱり漏れる。尿漏れパッドを2回交換すればならなかった(漏れると言ってもパンツまで濡れるわけではない。尿パッドが漏れるだけで、吸収が早いので濡れ感はないのだが、自分の意思と関係がないことの違和感は大きいのです)。早く完治してくれればありがたいが、なんといっても老化による筋肉量の減少で骨盤筋のリハビリ効果はそれほどめざましいものとは言えない。日にち薬と言い聞かせて付き合っていくしかない。
10月ごろには八雲研究のデータで2論文を作成している。その際に集めて読んだ文献は70編を超えた。共同研究者が読むのは面倒なので、日本語の評論を書いてはと勧めるので書き、キリの良いところで打ち切り、数日前に投稿した。
僕は、今まで評論論文は原則的に書かないで生きてきた(依頼原稿で2−3書いたことはあるが)。大学院生の時に、先輩の元気の良い若い先生が、「評論なんて書くのは、実験のアイディアが枯渇した者のすることだ」と言われたのがずっと、こびりついているのである。
実験論文を書くアイデアはまだ枯渇してはいないけれど、共同研究者求めに応じることにした。この作業ではAIを使うことを覚えた。70編ほどの論文を集約するので、見落としやミスの可能性が高い。AIは例えば、文献をアメリカ心理学会様式で揃えてくれとか、雑誌の略記について揃えてくれと言うと、数秒でやってくれる。間違いなくやってくれるので作業がはかどるわけである(しかし、能力は退化してゆくのだろう)。
何度か共同著者と推敲を重ねて書き直たりしたので、3ヶ月ほどかかったことになる。どのような査読結果がくるのやら楽しみである。
今は記憶が80歳時にとても優れる人たちの、記憶以外の言葉の機能とか、空間機能とかがどのように縦断的に変化していくのかを調べようと思って、そのデータベースの作成に取り組んでいる。Excelが役に立つ。これがなければできない作業である。1時間ほどExcelの細かい数字を見ていると目が霞むので老人には辛い。作っているデータベースは2001年から2013年までの分を昔に業者が途中までやってくれたものを確認しながら作成しているところである。約7000人のデータなので簡単な作業ではないが、「こういうことが自分は好きなんだなぁ」と思うようになった。2014-2025までの整理は、次の仕事として待っている。完成したら、共同研究者たちの誰かが使うかもしれないと思いつつ。
振り返ると、2025年は半分以上が病気に関わっていたが、コツコツと神経心理学検査の縦断的なデータをいじっている作業が意外と好きなのだと、再発見した年であったと言えそうである。
来年は体の不調がなく過ごしたいものである。八雲研究の縦断的データをいじっていると、ほとんどの人は85歳までしか受診していない。このようなデータを見ていると、自分は少なくとも上半身だけでも元気で、好きなことで時間を費やせる幸運を再確認する。自分以外の家族には健康上に大したことがなかったことを合わせ考えると、年の瀬にあたり、幸運を享受できていることを有難く思う。
太城敬良先生を偲んで
太城敬良先生が11月3日の朝8時に亡くなったとの訃報のメールが、先生を囲む飲み会のメンバーから届いた。年に2回ほど、彼の元学生らに混ぜてもらい、5人ほどで天王寺で飲むのが恒例であった。ここ15年ばかりは太城さんはさまざまな病気を患い、弟さんが理事長を務める私立医大に何度も入退院を繰り返し、ほぼ満身創痍の状態であったが、彼は幹事に催促して会うのを楽しみにしてくれていた。とうとうダメだったかというのが、メールを受け取ったときの率直な感想である。
4年ほど前に、突然僕の勤め先の部屋を訪ねてきたことがあった。顔中打ち身で、あちこちが青く腫れており、誰だかよくわからなかった。同じ敷地内に娘さん一家と住んでおり、その娘さんの子供が付属幼稚園の園児で、催し物の時に尋ねてきたのであった。ダメだというお酒を飲んで顔から転倒したということで、娘さんは「まったく聞き入れない」とこぼしていた。太城さんらしいと思ったものである。
初めての出会いは、2回生のときの夏休み中で、当時院生であった彼が電気、木工、金工、写真の技術指導をしてくれたときであろう(当時僕は19歳だったはずだ)。これらの技術は実験心理学を行う上で必要であった。かまぼこ板に釘を打って、ハンダをつける指導を受け、練習をしたものである。反応時間測定の装置などは回路図を書いて自作したものであった(数年後にトランジスタが一般化して不要になったが)。写真はコピー機がなかった時代なので、学術論文を読むためには、接写・現像が必須であった。はがき大の写真に現像して読んだものである。装置は自作が原則であったので、木工や金工、電気などは必須の技術であった。これらの修業をする中で、教員と生徒との人間関係が作られていった。何でも外注し、PCに頼って実験する今日では想像できないだろうが、楽しくも懐かしい、セピア色の記憶である。
太城さんが助手になった頃には、和歌山へのキャンプなど、いろいろと遊びに連れて行ってもらったことも思い出す。彼は多趣味な人で、魚釣り、ビリヤード、ヨット、オートバイ、車、音楽鑑賞など多彩であった。3人の娘を産んだ奥さんが早逝したので、多趣味なことは慰めになったことであろう(翻って自分を考えると、彼のような趣味は何もない。お酒だけは共通するが)。もっとも、定年後はこれらの趣味で怪我や骨折を何度も繰り返していたが、人生を楽しんだことは間違いない。
彼は知覚心理学者で、逆転メガネの研究をしていた(ちなみに、敬良は「たから」と呼ぶが、阪大の産業心理学の先生であったお父さんが、ゲシュタルト心理学の創始者であるW.ケーラーにちなんで命名したという)。僕が学生の頃はプリズム視の実験をしていて、歪んだ角度で物が見えるメガネをかけて1日過ごす被験者になったことを思い出す。八尾の自宅からメガネをかけた状態で車に乗せられ、途中で気分が悪くなって吐いたのを覚えている。この種の研究はその後、海中探索船やおそらく宇宙船などで、ガラスを通して歪んで見える視覚特性の基礎となるものである。科研に採択されたときに、「流行らなくなっても同じ研究を20年もやっていれば、また陽の目を見ることがある」と言っていたのを覚えている。
太城さんの訃報を機に振り返ってみると、僕よりも4つ年上であり、いろいろと病気を抱えていたので(多分に不摂生のために)、仕方がないとも思うが、もう会えないと思うと喪失感は予想外に大きい。もう一度皆で集まりたいと思う。
60年前から、研究への取り組み方、学生への姿勢、社会人としての振る舞い方など、言葉では表現できないようなさまざまなことを学んできたと思うと、自分がともかくも大学教員として長く生活を送ってこられたのは、太城さんの影響が大であることに思い至る。
娘さんとの電話では、彼は前立腺癌ともう一つ別の癌の治療薬の併用で免疫機能が急激に落ち、帯状疱疹を発症し痛がるので、痛み止めを使うようになってから記憶が怪しくなったということであった。僕も帯状疱疹で入院し、前立腺がんもやって、「先生を真似していますよ」と言ったことである。長く親しくしていただいたことに改めてお礼を申し上げ、冥福を祈りたい。
柳本静子さんを偲ぶ会
11月2日に柳本静子さんを偲ぶ会が天王寺であった。前の勤務先の保健室にいた看護師さんで、通称「おばちゃん」と皆は呼んでいたらしい。10年ほど前に退職した職員だが、関係部署の職員の希望もあり、時々スポットで勤務していた。今年の3月まで大学に来られていたようである。
僕と同い年で、案内のパンフレットにあるように、ひまわりのような、陽気で元気で、お喋り付きの明るい人であった。今年の賀状には血液系の難病に罹患したが、良い薬に出会ったという記載があり、大学の入学者が減っていることを心配した記載があった(僕より大学への思いが強いなあと感心したことである)。
7月に急に亡くなられたとき、連絡をもらっていたが、自分のがん精密検査の都合で告別式も葬儀も参加できていなかった。偲ぶ会を計画していると聞いていたので参加した次第である。
まず、退職して10年も経つのに、元の職場のメンバーから偲ぶ会を計画してもらえる人は、寡聞にして聞いたことがない。40名ほどの職員、教員参加者がいたので、いかに彼女が慕われていたのか、「おばちゃん」に助けてもらったと思っている人間がいかに多かったかの証拠である。
彼女は学生支援センターにも関わっていたこともあり、問題を抱える学生だけでなく、若い職員や教員が気軽に相談していたようである。(生まれは徳島だが)大阪のおばちゃんの典型のようなタイプの人なので、想像以上に親身になって援助していたことが、偲ぶ会のスピーチからも明らかであった(こういう時男性は言葉に詰まりベソをかくものだ)。
僕は血圧が高そうだと自認すると保健室に行って血圧を測定し、彼女と(電動あんまチェアに寝ながら)しばらく話をして休憩することが多かった。話の内容は、大抵は学生、職員、教員の抱えている問題や大学経営の問題などで、いろいろな人間関係について情報提供してもらい(カウンセラーでないので、守秘義務はない)随分助かった。彼女のおかげでコロナの時の年度始めの健康診断を、学年暦をいじらずに実施できた。大きなヘマなしに学長職終えられた(自己評価なので甘め)と改めて感謝し、冥福を祈りたい。
実は、この偲ぶ会の頃には外科手術の影響もほぼ無くなっているだろうと「参加」の返事をしていたのだが、そういうことにはならずに、初めての不安いっぱいの遠出であった。手術で尿管を切り、支えている前立腺を撤去したのち繋いでいるので、排尿コントロールがしばらくダメなことは聞いていた。退院時の医師は3-5週間と言っていたので偲ぶ会の頃には大丈夫だろうと判断していたのだ。しかし、1ヶ月後検診の際に主治医からは尿もれ回復は3-5ヶ月と単位が伝達されたように、まだ十分回復していない現状での参加であった。吸水パッド200CCタイプの装着し無事に過ごすことができた。外出の自信もでき、大勢の懐かしい職員や教員に再会できて、嬉しい時間であった。自分が亡くなった後、本人は知る由はないが、残された家族の人たちには、たくさんの人が偲ぶ会に来て、感謝してくれるのを確認できたのは、慰めになったのではないかとか思った。
その後体調についてメモしておく。前の記事で、「前頭葉が関係するのだ」、「骨盤底筋の訓練をする」と述べたが、そんなに簡単なことでは無い。同様の悩みを持つ人も読者には来られるかもしれないので、記しておく。これまで尿道を下から支えていた前立腺をとってしまったので、枕木がなくなった線路状態にある。それを補うのは筋肉の強化でしかないと言うことで、「骨盤底筋を鍛えよ」になるわけだが、医師やネット情報での訓練案内が伝えるほどそんなに簡単なものではない。訓練はお尻の穴を萎めることを繰り返すわけだが、術後4週間位まではお腹の傷口が痛むので、下腹部に力を入れにくい。また、高齢になり筋力が衰えているので腹筋は弱くなっている。やっと、4-5日前から骨盤底筋を鍛える訓練ができているような気がするようになったが、容易ではないということである。情報では3ヶ月から5ヶ月で何とかコントロールできる人が多いということなので、がんばるしかない。
筋金入りの男からガンマンへ-2
ネットで前立腺癌のことを調べると、大事では無いと言うような内容がほとんどであった(とくに早期発見の場合には)。僕の周囲も、騒ぐほどのない風な扱いで、同情は希薄であった(僻みかも知れないけど)。自分もそう信じていたので、入院した日の看護師へのアンケートに、不安スケールは10点満点中3程度で、心配していないと回答したものだ。
ネット情報には辛さを指摘するものには出会わなかったので、術後の辛さを甘くみていたと、自由にならない体を持て余しつつ後悔したことであった(「経過観察」のセカンドオピニオンを得るべきだったかも、とでも後の祭りだしと、思ったことは記録しておこう。余計なことだけど読者に同様な事態が生じた際の参考になるかも知れない。
9/11の手術当日は6時に目が覚め、8時半ごろに中央手術室内に到着した。手術場には、ダヴィンチの表示のある機械があって、大きな手術室であった、麻酔医の言葉を聞いた記憶があるが、10秒余りで意識はなかった。ダヴィンチ・ロボット支援手術といっても、腹に5-6箇所穴を開けて、そこから器具を挿入し、遠隔操作するだけのことで、決して自動で手技が行われるわけではない。もう少し時間が経ってデータが蓄積されれば、AIが患者の内臓の状態などを計算して、自動的にガン細胞部位の切除が行われる日が来るのかもしれないが、現状ではそうでは無い。そのためのデータ提供ということでもある。
自分の病室に帰る時は尿意ばかり強く尿道カテーテルの違和感が残ったが、部屋に戻る途中の記憶は途切れであった。14時頃前に家内が来た頃は比較的気分も良く、両手にカテーテルの針先を貼り付けたまま、ピースの写真をLINEで息子たちに送った。
ここまではよかったのだ。家内が帰って2時間ほどすると、麻酔から覚めた内臓機能が活動をし始め、傷口が痛み始めた。内臓が動き出すと、傷口のある腹は焼けつくような痛みが次々と起きる(帯状疱疹の方が楽だった気もする)。この状態が4-5時間続いた。腹に穴を開けたので、傷口がいたむのは当然だろうと考えていたが、とても辛抱できる状態ではなくなった。腹水の袋+尿の袋+点滴+酸素飽和度センサーが左手に、右手には輸血用の針が口に刺したままの状態で動きが取れない(麻酔が完全に切れていないのか、体は動かせずに同じ姿勢で、背中が猛烈に痛くなった。25時半までは辛抱したが、ナースコールして痛み止めを入れてもらった。
こんな辛いことが全身麻酔の回復期にあるとは全く予期していなかったのだ。その後数時間は眠れて、翌朝気分は回復したが、これは大変だと思ったことである。翌日ナースが歩き始めないとダメなのでと、歩行訓練を指示された。何とか頑張ってベッドに起き上がって、3つの袋をぶら下げた状態で200メートル位歩いた。ナースは男の人は大抵痛がって歩かないのにと褒めてくれたし、早く歩くので驚いていた(自慢)。その日も自力で歩行の練習をしたが、部屋に戻ってベッドに倒れ込んで、頭を枕の位置まで移動すると、腹の傷口は痛むのだ(汗が吹き出る位であった)。
全身麻酔後の回復過程の辛さを教えるネット情報までしっかり確認しないといけないということである。最も痛みの記憶は忘却が早いのかも知れない。何度か手術歴のある複数の教え子(60−70歳代)は、僕の麻酔からの回復後の痛みの報告に、そうだったかなぁということである。辛さを早く忘れるので、ネットには上がりにくいのかも知れまい。
術後6日目に腹水のドレインをとってもらった。その翌日が退院であった。ナースに帰宅後のアルコールやカフェイン摂取について尋ねると、次回の診察日(1ヵ月後)までダメであると言う。「そうだろう、仕方がない」と思っていたが、その2時間後に主治医が来たので同じ質問をした。すると、「全然気にしなくていいですよ」と言うありがたい言葉であった。やはり情報は一つだけを鵜呑みにせず、複数確認することが大切だと痛感した。
9/18に退院し、現在は自宅で、骨盤底筋強化訓練をやり、自分で尿意をコントロールし、放尿できるように頑張っている。そもそも放尿のコントロールは前頭葉の役割であり、2010年に高次脳機能検査成績が低下している中高年に尿漏れが多いと、発表したことがある。トイレット訓練で尿意をコントロールするのは、2歳ごろの赤ちゃんの課題である。これを追体験することなのだと、頑張るしかない。
楽天的なのか、まだ退院して3日目だが、何とかなりそうな気がしている(がんばれ、僕の前頭葉!)。
ガンマンへ-1
以前の記事で、前立腺がんの疑いから精密検査を受けることを書いた。その続きとして、経過を記録しておきたい。
最初の精密検査はMRIであった。朝8時半からの予約に間に合うよう出かけた。眼科の紹介状もあったため、同日まとめて受診した。眼科の結果は異常なしで、白内障の手術も不要とのことで安心した。これは5月半ばのことである。
MRI検査は閉所恐怖症の気配がある自分にとっては不安を伴ったが、20分程度で終わると聞き、検査に臨んだ。検査着に着替え、寝台に横たわり、頭を固定された後、トンネルの中に入っていった。目を閉じていたせいか思ったほどの恐怖感はなく、無事に終えることができた。
検査の最中、かつて接点のあった米国の研究者M. Gazzaniga氏のことを思い出した。1980年代、左右脳研究の第一人者として知られ、日本にも何度か来日していた。初めて出会ったのはICUの研究会で、同じ宿舎に泊まり話した記憶がある。彼のPETによる初期研究では、右脳がネガティブ感情、左脳がポジティブ感情に関与するという報告があり、その当時は大きな衝撃を受けた。しかし後に、脳画像検査は強い騒音下で行われるという限界も知られるようになり、研究の信頼性について議論がなされるようになった。実際に検査を受けてみて、その意味を身をもって理解した。装置は道路脇に匹敵する騒音を発し、多様な音が絶えず続いた。このような環境での感情測定の難しさを改めて実感した。
MRIの結果は「一部に疑わしい箇所あり。針生検を実施しましょう」というものだった。2週間後、外来で生検を受けた。医師の説明では「20分ほどで簡単に終わる」とのことだったが、実際には強い痛みを伴った。麻酔は使用されたものの、肛門からエコー機械を挿入し、複数回針を刺す過程は大変つらいものであった。
結果は「10本中1本からがん細胞が見つかった」との診断であった。骨やリンパへの転移がないか確認するため、医大で骨シンチを受けることになった。6月半ばに検査を行い、幸い転移は認められなかった。
周囲からは「手術すれば問題ない」と言われることも多かった。しかし不安がまったくなかったわけではない。時折、気持ちが沈むこともあった。ただ、PSA値が低く、極めて早期で発見できたことは幸運だと受け止めた。
インターネットで調べると、80歳で初期の前立腺がんであれば「経過観察」が標準的とされている。それでも主治医は「元気そうなので、ダヴィンチ・ロボット支援手術をやりましょう」と提案した。最新の医療技術を受け入れることは、これまで長く生きてきた自分にとって、社会に対する一つの貢献でもあると考えた。
孫との夏休みの予定や八雲健診を終えてから手術をお願いし、9月10日に入院、11日に手術、18日に退院した。順調な経過であった。
胸にはすでにステントが入っている。まさに“筋金入り”となった私は、新たに「がんを経験した者:ガンマン」として歩みを進めることになったのであります。
25年目の八雲町健診
今年も北海道の八雲健診に参加することができた。2001年から参加しているので、今年で25年目ということになる(コロナで2年中断したため、実際は23年)。私たち高次脳機能班は9名のメンバーで参加した。1名の院生を除き、全員が大学教授という構成で、ほとんどが院生時代から参加しているベテランである。高齢化が顕著になっている証拠でもあり、若い人材を招かなければならない。本年度は、八雲町のスタッフを除き、名古屋大学を中心に67名の健診スタッフが参加し、3日間を無事終えることができた。
区切りが良いので、初めて参加した頃と最近の状況をいくつかの観点から振り返り、記録しておきたい。この健診には、名大整形外科学教室の長谷川先生のお誘いで2001年の夏から参加することになった。小牧空港に数名の院生を連れて集合した際、この事業の創始者である青木先生の許可を得ていなかったことを知り、冷や汗をかいたことを覚えている。青木先生は、かつて心理学者が参加していたが役に立たなかった、基本的に心理学はいらない、というご意見を持っていた。そのため、八雲健診データを用いて必死に論文作成に注力した。後年、青木先生から「心理班が一番よくやっている」とお褒めの言葉をいただいたこともある。
幸いなことに、科学研究費を継続的に獲得することができ、20年以上も参加を続けることができた。私たちは注意・言語・記憶・空間機能といった認知機能を個別に測定し、加えて日常生活の多様な特性を質問票で収集し、その関連を検討する方法論を用いている。この方法により4〜5名の院生が学位を取得し、研究職に就くことができた。税金を使って研究しているという意識を常に持ちながら取り組んできたつもりであり、現在もそのデータの解析に大半の時間を費やす日々を送っている。振り返れば、ラテラリティ研究から高齢者研究へと運良くシフトでき、研究者として活動的な生活を80歳の今日まで継続できたことになる。ありがたいことに、数年前から私たちの認知機能縦断データは他の研究班にも活用され始め、「Yakumo Study」と冠する論文が増えている。
さて、20数年前と最近を比較してメモを残すのは、「昔は良かった」と不満を述べるためではない。この間に地方自治体が貧しくなっていった実情を記録するためである。
初めて参加した頃は、規模は今より少し小さかったが、都会の多忙な医師や研究者がわざわざ田舎に来てくれるという町民感情がよく理解できた。その頃の初日の歓迎会は大きな結婚式場の披露宴会場で行われ、食べきれないほどのご馳走が並んだ。終了後には各研究班が2〜3本のワインをもらって帰り、宿泊先のホテルで楽しんだものである。現在も歓迎パーティーはあるが、ケンタッキーフライドチキンが提供されるハーベスター・レストランで開催されている。20年前は、空港に迎えに来てくれたバスに乗り込み、道中の洞爺湖近辺で豪華な弁当や海鮮丼が提供され、会場に到着後に健診機器の準備をするのが常であった。現在は、空港に迎えに来てくれた自治体職員から1人1000円の昼食代を渡され、空港で食事を済ませてから会場に向かい、健診準備に入る。途中の休憩はサービスエリアでのトイレ休憩だけである。初期の健診当日の昼食は、夕張メロン、イカそうめん、とうもろこし、じゃがいも+バター、じゃがいも+塩辛が食べ放題であった。今では各自に割り当てられた分を使い捨て発泡スチロールの食器で食べる。かつては大学院生を豪華な食事で誘い、応募者がかなりの数に上ったものである。
こうした差が生じた原因は言うまでもなく、自治体の財政が逼迫してきたためである。今でも精一杯のもてなしをしてくれていることは十分理解できるが、メンバーとはつい昔を懐古してしまう。原因は地方自治体の人口減少が主因だと思うが、適切な対応策を取れなかった政治の責任でもあり、その体制を継続させた国民にも責任があることは言うまでもない。2005年(平成17年)、八雲町は隣町の黒石町と合併した。いわゆる平成の大合併政策であるが、これにより公共サービスの弱体化が一層進んだように思える。
もっとも、60年前に社会人となった頃には、今日の豊かさは想像できなかった。毎日肉や魚を食べ、エアコンのある部屋で暮らし、車を持ち、安価に医療へアクセスできるのは驚くべきことである。100の資源を持つ社会が1割減となっても、50しか持たない社会が1割減となるのとでは意味が異なる。したがって、「貧しくなった」と声高に主張して外国人のせいにする類の考え方には賛同できない。
貧しい時代から豊かな時代を経験し、そこから徐々に豊かさが失われていく過程を体験できていることになる。栄えた社会はいずれ衰え始め、繁栄が永遠に続くわけではないことは世界の歴史が教えている。豊かになっていく社会と衰え始める社会のあり様を実際に体験できる人生を送っていることは確かであり、幸運でもある。いずれにしても、八雲町は財政状況が悪化する中でも25年間健診事業を継続してくれ、私たちは膨大で貴重な研究資料を蓄積することができた。関係者の尽力を心から賞賛したい。
盛りを過ぎれば衰え始めるのは、社会も人間の身体も同様である。今年は参加者が昨年度より若干増えたにもかかわらず、高次脳機能班への参加者は2割ほど減少し198名であった。今年は80歳以上の高齢者の参加が少なかった印象がある。外出ができなくなったり、施設に入所したりしたのかもしれない。
「先生、来年も来てくださいね」と、これまで言われたことのない言葉を数人から掛けられた。私がもう来られなくなるのでは、と映ったのかもしれない。老化が着実に進んでいることは自覚しているが、来年も同じ言葉をかけてもらえるようにしなければなるまい。