はったブログ
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16年ぶりの再会:教え子が運んでくれた幸せ

 ポーランドからの元留学生が無事に帰宅したとメールが届いた、「27年ぶりに再訪でき、日本料理が美味しかった、家族も大満足で、夢が叶って、幸せでした」とあった。この元留学生は国費留学生で2度来日し、在籍した2つの大学で、いずれも僕が受け入れ教員を務めた人である。母国ではドイツに近い都市にある大学の日本語学科の教員なので、日本語は読み書きも達者である(漢字の読み書きの脳機能研究をやっていた頃に来た人である)。日本語が丁寧で、振る舞いも今時の若い日本人より日本人らしい人である。

 

 16年前に、家内と一緒にポーランドを訪問したとき以来の再会である。その時、彼女は結婚して2人の子どもがいた。その時は日本大使館に勤めていた彼女の教え子に案内を頼んでくれ、ワルシャワを日本語で観光するなど、ずいぶん良くしてもらった。

 

 今回は夫と子ども2人を伴い、一家4人で来日したのである。あの時、連れて行ってもらった城の公園で、歩くのを嫌がっていた4歳の娘が20歳、長男は22歳の大学生になっていた。一家は2週間、日本での滞在を楽しんだ。東京に6日、京都に9日間滞在した。ありがたい時代になったもので、LINEで日本語のやり取りができ、前もって彼女からは「センセイは高齢ですし、私たちは自分たちであちこち旅行できるので気を使わないで欲しいけど、会いたい」ということであった。彼女は関西もよくわかっているので観光地を連れ回る必要はなかった。

 

 16年前の帰り際に、ぜひ日本にいらっしゃいと家内が言った時、とてもとても費用が大変で、と言っていたのを思い出す。家族4人で2週間も日本で遊べるようになったのは円安も後押ししたのだろう。16年前はおそらく日本円が1ドル100円位だったので、当時の僕たちはいい思いをした。今回は逆で、彼女らは日本の物価は安いと言っていた。円安を呪うよりも、一定の時間が流れ、豊かでなかった国が豊かになり、豊かであった国がそうでなくなっていく循環は、「代わりばんこ」に楽しい体験ができるので、今の若い人には気の毒だけど、それなりに悪い話ではないなあと思ったりした。

 京都に滞在中に4人を我が家に呼び、積もる話をした。日本語、英語、ドイツ語、ポーランド語が飛び交う3時間であった。彼女の夫は英語がダメだがドイツ語はOKということで、僕とはドイツ語でのやり取りとなった。彼女がまだ独身の頃に僕は彼女の実家にお邪魔したことがあり、すでに亡くなられたお母さんとカタコトのドイツ語で話したことがあった。その話を彼女が夫に伝えると、皆が無口と思っていた彼が、俄然喋り出した。YouTubeでドイツ語会話をたまに見ていることもあり、2-3割しか理解できなかったが、スーパーで寿司がいくらとか、スキーをやるなどのたわいない内容であった(と思う)。まあ、子供は英語で話すので1人取り残されている思いを彼がしなくてよかったのだったら幸いである。

 

 その後、彼女の希望で駅前の居酒屋で日本料理(創作コース)を食べた。本格的な日本料理とは少し違ったが、4人には珍しかったようで喜んでくれて安堵した。

 

 彼女のメールには27年ぶりに日本に来ることができて幸せだったと書いてあったが、僕も教え子が家庭を作り、幸せに暮らしていることを目の当たりにできて幸せであった。昔、政府が日本の大学に海外からの学生を呼び込む、いろんな施策をした時代があった(日本円が高かった頃である)。しかし、留学生の受け入れを敬遠する教員は少なくなかった。僕は若い時に留学先でお世話になったこともあり、留学希望者を受け入れてきた。何十年も経って、昔の留学生が会いたいと言ってくれる事は、法外な幸せである。昔の記憶が色々と蘇り、脳も元気になったように思える。

 

 先週、20数年前のインドネシアからの留学生が、正教授になったと知らせてき、来年2月に来日するので会いたいと言ってきた。若者が立派になって会いに来てくれることを経験できる年寄りはそれほど多くは無いだろう。振り返れば、教員は給料が安かったが、こういう楽しい経験は会社員ではむずかしかろうと思う。

 

 先月は、車をぶつけるし、芝刈り機は壊れるし、自室の椅子は老朽化で壊れるなど、不運続きであったが、前立腺の手術をしてちょうど1年が経過した先月中頃から尿漏れの状況が格段に改善した気がする。何より尿漏れを恐れて止めていた自己流体操や、菜園の作業ができるようになった。不運なことばかりが続くわけでもない。

草だらけの土地を耕し、ブロッコリーの苗を植え、サラダ菜の種をまいた。腰への湿布は欠かせない状態ではあるが、なんとなく嬉しい。

小さな事故が映した老い

 

何年ぶりかで車をぶつけた。ガソリンスタンド内での自損事故である。バックしていた際、薄いブロック塀の端に車が当たり、テールランプにひびが入り、ナンバープレートが曲がった。

車をバックさせたのは、給油中にイオン系列のクレジットカードへの入会を勧められ、その手続きをするため、給油後に車を移動させた時であった。このカードには300リットル分のガソリン割引特典が付き、現在のカードで払っている年会費が不要になり、ETC利用にもポイントが付くというので、ついその気になった。よく考えれば、1リットル当たり2~5円程度のガソリン代の違いは、大した得になる話ではない。家内には、「安いというスタンドまでの往復を考えれば」と呆れられるが、この貧乏性からくる行動の癖は、なかなか治らない。

カード加入の手続きを終え、帰ろうとした時になって、初めて車の後部の傷に気づいた。僕の車はサポートカーなので、バックの際に障害物があれば自動で止まる仕組みになっている。ぶつかった音はしたものの、車は自動で止まったものと思っていた。

5、6年前、スーパーの駐車場でバックした際には、自動停止機能のおかげで高級車にぶつからずに済んだことがある。しかし今回は、センサーが十分に作動しなかったらしい。ブロック塀の端が10センチほどの幅しかなく、センサーが障害物として捉えるには不十分だったのだろう、というのがガソリンスタンドの整備士の説明であった。

「これはディーラーだと修理費が20万円を超えるかもしれませんね。うちなら安くできますよ。今からならすぐ対応できそうです」と言うので、その場で修理を依頼し、車を置いて、整備士に自宅まで送ってもらった。

この話を息子にすると、「今さら新しいカードに入る必要はないんじゃないか」「ガソリンスタンドで修理しない方がいい」「話の分かる年寄りのように振る舞うのは危ない。そのうち騙されるかもしれない」などと言われた。さらに、事故を又聞きした教え子からは、「高次の知的機能は比較的保たれていても、注意のような基礎的な認知機能は加齢の影響を受けやすいものです。ご自身の注意の状態を自覚的にモニターする一つのきっかけにしていただければと思います」というメールまで届いた。まったく、その通りなのである。子どもたちに説教される年になったのかと思うと、腹が立つというより、微妙な感慨が湧いた。

自動車保険の証券を開いてみると、自己負担額は5万円で、それを超える修理費は車両保険でカバーされる契約になっていた。そうであれば、修理費の高低にかかわらず、ディーラーで直すべきだった。しかし、その場ではそこまで考えが及ばなかった。

なぜガソリンスタンドの整備工場で直すと即断したのか、夜になって考えた。長く中古車に乗っていた頃は、ディーラーに頼むと高くつくので、安い町工場で直してもらうのが常であった。新車に乗るようになってからも、ディーラーで直すという発想がすぐには出てこなかったのだろう。40歳代の頃に身についた思考様式が、今も根底にあるのだと思い至った。新車を買えるようになっても、貧乏性は抜けていない。

後日、ガソリンスタンドから電話があり、修理には2週間ほどかかるという。息子の言うように、ディーラーに頼んだ方がずっと早く直った可能性が高い。もっとも、自動車部品の不足が喧伝される昨今だから、必ずしもそうとは限らないが、いずれにせよ後の祭りである。

8月19日には、夜中から朝方にかけて3度、下血があった。慌ててその日の朝に病院へ行き、CT検査と大腸内視鏡検査を受けたが、幸い、特に大きな問題はなかった。大腸憩室からの出血だったようで、高齢者に多いという。薬もなく、特にすることはないとのことだった。実際、その後は何の問題もない。翌日、いつもの薬をもらいにかかりつけ医を訪ねると、動脈からの出血である可能性もあるため、下血した場合は救急車を呼ぶのが適切だと言われた。どうやら、まだ運は残っているらしい。

先週は久しぶりに発熱した。咳が2日ほど続き、37~38度の熱も2日ほどで治まった。おそらく、先月、家内がかかったインフルエンザがうつったのだろう。長引くことなく元気を取り戻してはいるが、免疫力が落ちていることは確かである。一連の下血騒動、自損事故、そして発熱は、身体機能と認知機能の衰えが着実に進み、少しずつ表に現れてきたことを示しているのかもしれない。

車庫に車がないと、何となく不全感があり、妙な感じがする。別に車でどこかへ行く予定があるわけでもないのに、不思議なものである。数年先、運転免許を返納しなければならなくなった頃には、こうした身体的な不全感を伴う、何ともいえない感覚を味わうのかもしれない。

このところ、各地で記録的な豪雨による被害が相次いでいる。地球が壊れ始めたのではないかと思うほどである。自宅の近辺ではそれほど雨は降っていないが、天気は芳しくない。

一方、これまで取り組んできたデータ解析からは、AIまで興奮気味になるほど面白い結果が得られた。しばらくはおとなしく論文の執筆に取りかかり、天気の芳しくない間は、憂鬱な出来事が続くこの時間の流れに新しい展開が訪れるのを待つことにしよう。悪いことの後には幸運も訪れる――そんなことわざを、今は信じて待つしかない。

訂正と、夏の新生活スタイル

  先回に書いた記事の内容に、訂正すべきことができた。

  まず、フィッシング詐欺にあった件である。詐欺にあって、楽天カードへの申告手続きの面倒くささを指摘し、その対応内容から、返金されるようには思えないと書いた。ところが、7月13日に26,602円が銀行口座に振り込まれていた。第三者による使用が確認できたというメールも来た。したがって、僕の思い過ごしでカード会社を疑っていたことが判明した。嬉しい誤算である。

  もう一つは、紛失した印伝のメガネケース(メガネも)についてである。カバンの横ポケットに入っていたのだ。5月に旅行した際に持っていた普段使わないカバンで、十分に探していなかったのである。名古屋での会議に持参したと思い込んでいたので、探す努力を怠ったのだ。全くの記憶錯誤であった。性格的にこの種の傾向があることは、家内から常に指摘されているが、面目ないということになる。

無くしたと思い込んで、新しいメガネを作ってしまったので、金銭的には得をしたことにはならないが、メガネケースが見つかったのは嬉しい。

  加齢のせいとは思いたくないが、「人間は思い違いをすることがある」という当たり前の事実を再発見した。

 

  この夏休み(と言っても毎日が休みなので、世間一般の表現を借りてという意味で)は、生活スタイルをいっときだけでも変更しようと考えた。

  毎日、パソコン画面に向かい、Excelの表に膨大な縦断データを整理する作業からの逃避である。かっこよく言えば、デジタル・デトックスをしようと企図したのだ。パソコンを開かない、YouTubeや映画などを見たりせず、活字を媒介とする情報入手に変更しようというわけである。

  理由の一つは、細かいExcelの数字ばかり見ていると目が霞み、肩や背中が凝って、湿布が必要な状態になってきたことである。そして、部屋の書棚に鎮座したまま、30年ほど目を通していない書籍を何とかせねば、目を通さないまま捨てる羽目になるのはもったいないと考えたからである。先回の記事に書いたように、書棚には昭和50年を記念して講談社が編纂した『昭和万葉集』20巻+別巻、合計21冊の本があるのだ。

 『昭和万葉集』というタイトルの通り、専門家が発表した歌だけではなく、新聞などに掲載された一般の人々の歌も拾い集め、古代の『万葉集』と同様の趣旨で編纂されたものである。

  なぜ裕福でなかった若い時代にこの全集を購入したのかはよく覚えていないが、父親が短歌の結社に属し、地元の人たちと万葉集の勉強サークルをやっていたことの影響かもしれない。いずれ歌を詠んでみたい、勉強してみようと思った時代があったのかもしれない(実現してはいないが)。

  この4週間ほどで、昭和元年から昭和18年ごろまでの5巻に、とりあえずは目を通した。一首一首を丁寧に吟味するというより、ともかく目を通そうとしただけなので、理解が乏しいことは言うまでもない。

  しかし、ともかく、昭和初期の日本社会の貧しさ、日中戦争への召集によってもたらされた暮らしの悲惨さ、戦死者の帰還を詠んだ歌の多さが記憶に残った。消耗品としての兵隊を準備するために、子供をたくさん産ませる政策の悲惨さがよくわかった。召集され、若くして志を無惨にへし折られ、亡くなった人たちの無念さが強く心に残った。

  この歌集には、それぞれの時代の社会状況についての記載が詳細な注として付されており、貴重な歴史書であると感じた。また、大衆は時代の流れ(威勢の良い軍人や政治家が作り上げるものだが)に、なすすべもなく流されていくものだということも理解できた。

  第6巻からは、来年の夏休みに読もうと思っている。

 

  もっとも、デジタル・デトックス生活は、実は3週間が限度であった。情けないことに、パソコンを開き、どうでも良い情報だと思いながらもYouTubeを見てしまったのであります。活字だけの生活にはもう後戻りできないなあと嘆いて、TVで高校野球を見ているこの頃であります。

6月の出来事と夏への意気込み。

 まずよかったことの一つ目。コロナ以降初めて北浜にある、退職前にはよく通った居酒屋で昔の同僚と飲んだ。職員から3年ぶりにラインが来て集まろうということになった(先日の知人の通夜に出かけた際、元の職場の数人に出会ったので、僕の様子が伝わったためかもしれない)。

居酒屋はコロナで大変だったので、営業しているか不安であったが、店は生き残っており、繁盛していた。親父さんは僕の病気のことを何処かで耳にしていたのか、元気そうと喜んでくれた。集まった5名には僕の様子が想像以上に元気に見えたらしく(まだ咳をする時に、少し漏れることもあるのだが)、喜んでくれた。例の如く、「紅生姜とタコの天ぷら」などを食した。味は昔のままであった。9時すぎから酔いが回ってきた職員らが職場の愚痴を話し始め、最終バスには乗り遅れたが、久しぶりに懐かしい顔を見ることができた。職場でそれほど嫌われていたわけでもなかったようだと少し安心した。

 2つ目は、国際学術誌に論文が通ったことである。投稿して、4日後に査読結果が来て、表題の1部を修正することと、論文を1つ引用せよと言うだけで済んだ。送り返した翌日には掲載決定の通知が来た。こんなに早く決着がつくことは思いもよらないので驚いた。まだ、研究能力は錆び付いていないかも知れないと思えたのはありがたい。この雑誌は著名な出版社のもので、医学系なので、掲載料は高い。電子版では3,400ドルであったが、昔どおりの紙ベースで良いとすると無料なので、挑戦した。もう、研究費がない私にはありがたいシステムで、退職後の知的な遊び道具が見つかったようものである。

 

 良くなかった悔しい出来事。楽天カードでフィッシング詐欺にあった。たまたま、明細をチェックしたら5月分は米国で4-5日おきに3回、合計20,000円弱が支出されていた。先月にも3000円弱の引き落としがあったが、PC APP STORES と記載されていたのでアプリでも使ったのかもと放任していた。調べると要注意の悪質アドウェアサイトである。たまたま確認をしていて見つけたものである。

 

 カード会社の詐欺にあったかもしれないことに対する対応は非常に面倒くさい。最終的に電話で問い合わせに至るまでには細かい文字を3ページほど読み進んでゆかねばならなかった。最終的には僕が申請した4件の引き落としについて、利用先に紹介するというだけで、返金をされる可動かは期待できそうにない。カードを止めて新しいカードにすると4日ほどで送られてきたが、書留ではなく、普通郵便であった。このカードはもう解約することにした。

 

 庭のルートラップと言う大きな植木鉢のようなものに育てているブルーベリーに、今年初めて20個ばかりの実がなっていた。紫色に変わり始めたので、1つを食べてみるとまだ酸っぱいので、もうしばらくだと思っていた。同じ頃、鳥が赤くなった畑のトマトを食べた形跡があるので、ブルーベリーの鉢にもネットをかけたのだが、風が強い日があって、それが剥がれていた。朝見ると熟れていたブルーベリーはすっかりなくなっていた。家内が取ったのかと聞くと、知らないという。鳥に食われたようである。悔しい。

 

 2週間ほど前から次の論文へと作業を進めるべく、かなり大きなデータベースを作っている(150人ほどの60歳からの認知機能検査の成績を縦断的にまとめ、検査ごとに成績の分布が違うので標準化得点に直して、統計解析のためにExcelの表に記入していくのである。現在、約150人分の認知機能検査成績を60歳以降について縦断的に整理し、検査ごとに標準化得点へ換算してExcelに入力している。全部で約15,000セルを埋める作業になる。

 作業を続けてきたために、肩こりと背中・肘が悲鳴を上げ始めた。マウスを使わなければいいのだが、入力しないと作業は進まない。湿布を貼り、休憩時間をなるべく挟むようにしているので作業ははかどらない。若くないので、仕方がないのだが、もどかしい気持ちが拭えない。まぁ、いつまでにしなければ良いと言うわけでもないので老体の身体機能と相談しながら進めるしかない。

 

 データベース作りの作業は時間つぶしにはなるが、知的な作業でもないと思い、区切りの良いところで、中断することにし、この夏休みは古くから持っている書架に鎮座する未読の購入した本を読むことにしようと決めた。昭和50年記念で講談社から出版された「昭和万葉集:20巻」に挑戦することにし、まずは4冊をと考えている。

 3年位前にも同じ思いをしたことがあって寿岳文章さんの名訳で知られるダンテの「新曲」3冊の装丁本セットに挑戦したことがある。昔はダンテを読むことが教養人の必須条件だったのだろうが、地獄編・煉獄編・天国編と3年かかりで読んだ感想はどこが優れるのかよくわからないであった。キリスト教やギリシャ神話が基礎知識にないとダメなことを実感しただけであったので、今年の夏は純日本風で行こうというわけである。

 気持ちだけで終わる可能性もないわけではないが、こんな計画を立てること自体が、実行系機能の訓練になるらしい。そう思えば、この夏の読書も悪くない挑戦である。

災難の5月

 

 5月はミスによる損害が大きかった。ミスによる損害額は、購入時の価格で計算すると15万円を超えるかもしれない。もっとも、どこかの「買取屋」に売るとしたら、3千円にも満たないだろうけれども。

 

 6日間ほど新緑の信州と山梨を楽しんだ後、帰宅したのだが、帰宅の際にゴミ袋に入れた洗濯物を他のゴミと一緒に「ゴミ収集場所」に置いてきてしまったのである。帰宅した翌日に洗濯物が少ないと家内が言う。思い出してみるとゴミ袋に入れたものを僕も集積所のゴミ箱に入れたのを思い出した。僕の捨てたゴミ袋に入っていた洗濯物には昨年買ってもらったブランドものの長袖シャツ、まだまだ着られるピンクの長袖シャツ(大阪では派手で着にくい)と数枚の下着が僕のもので、家内のブラウス2枚や比較的高価だという下着が入っていた。全部で15万以上するよと呆れられたが、どうしようもない。何か動作するときには一旦、確認せよと言われたけれども後の祭りである。

 

 加えて、旅行中に持参するのを忘れた老眼鏡をどこかにおき忘れたらしいことである。自宅を探しても見当たらない。旅行に行く前の5月13日に名古屋での会議に出て、その後新幹線で帰宅したのだが、その時に老眼鏡を使ったような記憶がある。忘れ物センターに確認したが、JR東海もJR西日本も該当するものはないと言うことであった。

 

 この老眼鏡は1番新しい世代のもので本を読んだり、書類を読んだりするためのもので、上下で焦点の異なるレンズが組み込まれている。パソコン画面で使用する際にはその1世代前の老眼鏡を使って充分なので、平生は2つの世代の眼鏡を利用していた。見つからないメガネは度数が合わなくなってきている気がしていたので、それほど惜しくはないが、ケースは3年前に甲府で買った印伝のもので比較的高価なものなのだ。メガネとケースを合わせれば6-7万はする。

 

 見つからないので、探すのを諦めて、昨日行きつけのメガネ屋で注文してきた。レンズだけで39,000円であった。と言うわけで5月には合計で15万円以上を失ったことになる。

 

 家内は歳をとったことを自覚せよと言う。僕もこれらのミスは老化のせいだと数日は気鬱気味であったが、思い返せば、50代の頃にも海外の町外れの電話ボックスに10万円が入った財布を置き忘れたことがある。物忘れは必ずしも老化のせいと言うわけではないと考えることにした。日本経済の活性化に老人として貢献したと考えることにした。

 

 今朝、コーヒーに入れるフレッシュミルクの蓋がなかなか開かないことがあった。つまむ力が確実に低下したことの証である。私が納得しているlate-in first-out理論によれば、発達の後期に獲得される手指の微細な運動機能が最初に老化による機能低下を起こすはずなので、確実に老化は進んでいることを自覚せざるを得ない。

 

 というわけで、5月は久々に旅行ができ、白州のウイスキー醸造所にも行けたのだが、後味は悪い。こんなことばかりが続くはずはないと思うことにしなければ。

 

贈り物

 先日、突然韓国の研究者の女性から電話があった。数年ぶりの電話で驚いたが、時々九州の嬉野温泉に来てるとか、大学で常勤として勤めているなどの話があり、元気かと問う電話であった。

 京都の珠算連盟の事務局に理事長と面会の予定があっての来日と言うことで、僕に会いたいと言う話ではなかったが、住所は変わってないかと言う確認であった。

 

 翌日、送られてきたのは「朝鮮人参のサプリ」と「ポロシャツ」と「中高年向けの化粧品セット」であった。「ノート」も1冊入っていた。

 

 彼女は以前にも同様に、何度か複数のカテゴリー属するような品物を送ってくれたことがある。我が家では変なものを送り付けてくる人だという評価であった。

 

 こんなふうに異なるカテゴリーの品物を送る風習が韓国にはあるのかをAIに聞いてみた。その回答が次のようなものであった。

 

『韓国の60歳代以上の世代、特に儒教文化の影響を強く受けて育った人々の間では、恩師や年長者への「情(정 / Jeong)」と「礼(예 / Ye)」を重視する文化が現在でも比較的強く残っています。そのため、「日本人から見ると少し驚くほど手厚い贈り方」は、必ずしも珍しいことではありません。韓国社会では、特に大学教員や研究指導者は、人生の方向を与えてくれた存在として認識されることがあります。そのため、退官後も恩師との関係を継続し、節目や再会時に高価な贈り物をする人は一定数います。特徴的なのは「異なるカテゴリーの品を組み合わせる」点です。これは韓国の贈答文化に比較的よく見られる特徴で、健康(朝鮮人参)、衣類(ポロシャツ)、若々しさや身だしなみ(化粧品)などを組み合わせて、「健康で長生きしてください」、「上品でいてください」、「まだ若々しく活動してください」という複数の意味を同時に込めるのです。日本では「カテゴリーを揃える」贈答感覚がありますが、韓国ではむしろ「相手を総合的に気遣う」方向へ広がることがあります。特に高麗人参(朝鮮人参)は、韓国では単なる健康食品以上に、敬意、長寿祈願、体力回復、大切な相手への誠意を表す象徴性があります。これらは単なる個人的好意だけではなく、文化的背景があり、特に1960年前後生まれの韓国人には、「師弟関係を非常に重視する」、「一度受けた恩は長く返す」、「贈り物=心の表現」という感覚が強く、形式より「情」を重視するという傾向が残っています。継続的な贈り方を見る限り、その方は、貴方を「人生の恩人」に近い感覚で位置づけているのではないでしょうか』というものであった。

 

 彼女は僕が「珠算と脳に関する研究」をしていた40歳頃に連絡を取ってきた人で、当時は韓国の大学院生であった。その後、何度か来日したりしたし、子供にも会ったことがある。僕は普通に対応してきただけであるにも関わらず、こんなふうにいまだに自分を育ててくれた先生風に尊敬して対応してくれているのに驚いた。思いもよらないことで、役に立っていたのであれば、望外なことであり、もったいなく、嬉しいことである。

 変なものを送ってくる韓国の人と言うような失礼な思いを抱いたことは申し訳ない。

 

 私たちは自分たちの思考や価値観の枠組みで物事を理解しがちである。文化が違うと贈り物の風習が違うことを改めて知った。

いただいた朝鮮人参のサプリは調べるとずいぶん高価であった。韓国語で書かれた説明書きでは、高血圧の人だとか血液をサラサラにする薬を飲んでいる場合は、医師と相談をしてから飲みなさいと書いてあるので、自分では飲むのはどうなのだろうと思いつつ、礼状にはこれを飲んで元気になりますと書いたので、少しずつ飲んでみようかなと思う。

 中高年用の化粧品は、化粧水、クリーム、シミ取り用のチューブが入っていた。今更これまでしてこなかった肌の手入れも、彼女の思いを尊重して試してみようかと思う。

 

 いずれにしても文化的な背景を推測せずに、他の文化圏の人の行動を判断してはいけないということを、この歳になって改めて学んだことであります。

退職後3年が経過した

 退職してから、ちょうど三年が経った。
 この三年間を、あらためて振り返ってみたい。

五十年にわたる教員生活ののちの退職は、私にとって大きなストレッサーになるのではないかと、内心ではかなり警戒していた。実際、単身赴任を続け七十三歳まで教壇に立っていた先輩が、退職後に実家へ戻ってから鬱状態に陥ったという話を聞いていたからである。

 ストレス研究でよく引用されるホームズとレイの尺度によれば、配偶者の死を100点とすると、引退は45点、自身の病気は53点とされる。複数のストレス要因が重なり合い、合計300点を超えると抑うつ状態に至る可能性が高いという。1967年のアメリカの報告であり、そのまま現代日本に当てはまるかは別としても、退職が大きなストレッサーであることは疑いない。かつて自らストレスに関する著書(有斐閣選書)を出版していた身としては、なおさら他人事ではなかった。

幸いにも三年を経た現在、その懸念は現実とはならず、一つの関門は越えられたように思う。

 

 では、この三年間にどのようなストレスがあったのか。まず第一に挙げるべきは、やはり経済面である。収入が途絶えるという事実は、予想以上に重い。なかでも強く記憶に残っているのは、年金受給額を知ったときの驚きである。

事前に情報提供はあったはずだが、私はそれを十分に把握していなかった。教え子に「思ったより少ない」とこぼしたところ、「毎年通知は来ていますよ」とたしなめられた。国家公務員として35年、私学共済で15年という経歴から、ある程度の額を当然のように想定していたが、それはまったくの思い込みであった。

 実際には、予想よりも百数十万円ほど少ないと感じ、厚生省年金局に電話で確認したことを覚えている。担当者は慣れた様子で「よくあるお問い合わせです」と応じ、「平成16年の制度一本化以降、このような仕組みになっています」と説明してくれた。この話を後に先輩にすると、その方も同様に電話したとのことで、妙な安心を覚えたものである。

 結果として、想定より少ない額ではあるが、それに合わせて生活を組み立てるほかないという、当たり前の結論に至った。

 

 第二に、この三年間で帯状疱疹と前立腺がんにより、二度の入院を経験した。自身もまた、確実に老化の過程を歩んでいることを実感させられた出来事である。いずれも命に関わる状態ではなかったのは幸いであったが、前立腺摘出後の排尿コントロールは、予想以上のストレスとなった。それでも、およそ五か月で日常生活はほぼ回復し、ありがたいことに現在に至っている。

こうした中で、退職によるストレスを比較的軽く抑えられた理由の一つは、生活スタイルを大きく変えずに済んだことにあると思う。これはひとえに教え子たちの配慮のおかげである。某大学に部室を用意してもらい、週に二度ほど通うことで、研究者としての生活を緩やかに継続できている。急激な変化を避けられたことが、精神的な安定につながったのだろう。

 

 同様に、朝の30分ほどの散歩や家庭菜園も細々とではあるが続けてきた。今年の春はブロッコリーを十株育てた。一本二十円の苗であったが、見事に育ち、ブロッコリー好きの長男の嫁と、茎が好きという隣家の犬が喜んでくれた。久しぶりにYouTubeで見たレシピを参考に、モッツァレラチーズとブロッコリーの卵料理を作ってみたが、出来はまずまずであった。

一方で、反省すべき点もある。退職時、「いずれ必要になるだろう」と考えて持ち帰った書籍や名刺ファイルは、結局ほとんど使うことがなかった。半年前から秘書室の方々に協力してもらい、丁寧に整理してもらったにもかかわらず、それらは不要だったのである。仕事を離れれば、それに付随する物もまた手放すべきだという、ごく単純な事実をあとになって理解した。申し訳なさが残るばかりである。

 

 こうして振り返ると、退職後三年、幸運にも鬱に陥ることなく日々を過ごしてこられた。しかし同時に、六十三歳で定年退職された後、半年も経たずに亡くなられた恩師のことを思い出さずにはいられない。研究者の道へと導いてくださった、背を丸めがちに喫煙する先生の姿を思い出している。

東京に行ってきた

 前任校の元同僚が定年退職するというので、その記念行事に出席するため、3月8日に東京へ行ってきた。案内が届いたのは正月明けのことだった。そのころ私は手術後の尿漏れ後遺症に対応中で、遠出ができるかどうか心もとなかった。とはいえ、その頃までには治っているだろうと楽観して、とりあえず参加の返事を出しておいた。

 その人との付き合いは長い。私が勤務していた大学の講座へ移籍してもらうため、いわゆる「割愛願い」に出向いた時からの縁である。

「割愛願い」といっても、今ではほとんど死語だろう。もともとは「惜しい人材だが手放していただく」という意味で、官庁などで職員が他へ移る際に使われた言葉である。私は当時、先方の学科長にお願いするため、「御重用のところ恐れ入りますが、割愛方お願い申し上げます」という決まり文句を覚え、学部長とともに高速道路ではない道を三時間ほど走って訪ねたものだった。

幸いその著名な学科長とは面識があり、「あんたのところか」と一言言われただけで、ことはすんなり運んだ。こうした挨拶は、人事が揉めないための一種の作法である。義理を果たしておく、というわけだ。もっとも、いまでは大学教員が移籍する際に、こうした「割愛願い」の挨拶をする習慣はほとんどなくなった。

「義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい…」という高倉健の映画の台詞が思い出される。あの時代に育った私たちの世代には、義理立てというものがそれなりに重みを持っていたのだが、どうやらそれも昔の話になったらしい。

最終講義は大教室で行われ、多くの人が集まっていて、それなりに盛況だった。体調に十分な自信があったわけではないのに東京まで出かけた理由は、前任校時代の同僚や学生に会えるかもしれない、という期待があったからである。東京には彼らがかなりいる。それに、高齢者は外出を億劫がり、人との接触が減ることが認知機能の維持にはよくない、などとこれまで自分でも書いたり話したりしてきた手前、ここで引きこもるわけにもいかなかった。

 ところが期待は外れた。前任校時代の知人は三人しか来ていなかった。学内で開かれた一次会のパーティーでは、私と大阪から来た元学生の二人がいるだけである。

「意外と皆、水臭いなあ」と一瞬思った。しかしよく考えてみれば、彼が東京に移ってからもう二十年になる。その間に人間関係が変わるのは当然だ。昔の思い出をこちらが勝手に大事にしすぎていただけなのかもしれない。人情が薄くなったというより、時間がそれだけ長く流れたということだろう。

その時、ふと
everyone must change and nothing stays the same
という歌の一節が頭に浮かんだ。

というわけで、懐かしい昔話に花を咲かせる機会は結局なかった。

 

 妻は、久しぶりの東京なのだから日帰りせずホテルに泊まったらどうかと言っていた。しかし結果的には日帰りで正解だった。私はもともと、一人で食事をしたり喫茶店に入ったりするのがあまり得意ではない。誰かを呼べば来てくれたかもしれないが、年度末で忙しいだろうと遠慮してしまった。もっとも、後になって「会っておけばよかった」と思うのかもしれないが。

高齢になると実行機能、つまり計画して行動する力が衰えると言われる。だから外出は大切だ、とこれまで散々言ってきた。その意味では、自分の言葉を裏切らずに済んだだけでもよしとしよう。

 久しぶりの東京は、乗り換えがずいぶん大変だった。地下鉄は深く、思いのほか歩かされる。トイレの標識を見るとつい行きたくなるので、尿漏れはなくなったものの頻尿はまだ残っているらしい。しかし寒い中でもかなりの距離を歩けたので、体力の回復は思った以上だと自信が持てた。もっとも、翌朝の筋肉痛はなかなかのものだったが。

ともかく、手術後初めての遠出は無事にこなすことができた。
それが、なにより嬉しい。

新年祝賀式――小学生だった頃の元日

  長浜市北部の豪雪を伝えるテレビニュースを見て、子どもの頃の雪景色を思い出した。映っていたのは旧余呉村中河内地区で、昔からの豪雪地帯だから特別驚きはしなかったが、生まれ育った旧小谷村でも、雪かきが必要になるほどの雪が降ることは時々あった。

雪が本格的に降り始めると、授業は中断され、全校生徒が講堂に集められて、集団下校になった。長靴のまま体育館に入れるのが、なぜかとても嬉しかったことをよく覚えている。理由ははっきりしないが、普段は掃除のことでやかましく言われていたから、叱られずに土足で入れるという“禁じ手”が楽しかったのかもしれない。

 

  そんな小学生時代の冬の場面を思い出しているうちに、ふと、元日は学校に行っていたのではなかったか、という記憶が蘇ってきた。元日は新年祝賀会があって、れっきとした登校日だったはずだ。「年の初めのためしとて、終わりなき世のめでたさを…」という歌を歌い、みかん(あるいは饅頭だったか)をもらって、すぐに帰る。そんな行事だったように思う。正月は遊びたいのに学校に行かされるのが、子ども心にはあまり嬉しくなかった。

 

  この記憶が本当に正しいのか、急に気になって調べてみることにした。なにしろ70年も前の話である。手がかりは「小谷小学校百年誌」だ。書庫にしまってあるのを覚えていたので、ほこりをかぶった一冊を引っ張り出してきた。奥付を見ると、昭和50年(1975年)発行。僕が30歳の時の記念出版で、賛助金を出した関係で贈られたものだったらしい。

調べてみると、記憶は間違っていなかった。入学した翌年の昭和28年から卒業するまで、1月1日には毎年「新年祝賀会」と記録されている。昭和44年まで掲載がある。

 

  この記念誌には、学校の日誌をそのまま写したと思われるページがあり、日付ごとに行事や出来事が細かく書かれている。抜けている時期もあるが、ツベルクリン反応や回虫駆除まで書いてある年もある。おそらく、記録をつけた先生の几帳面さの違いなのだろう。個人情報などという概念のない時代なので、生徒や先生の名前も普通に出てくる。僕の名前も三か所ほど見つかった。

ページをぱらぱらめくりながら、自分の記憶力に少し満足していると、昭和12年、13年頃から「村葬」の記載が目につくようになる。出征して戦死した人が出るたびに、生徒たちは葬儀に参列していたようだ。昭和19年9月には学童疎開が始まったとあり、高学年の生徒が大阪市北野国民学校の3・4年生100名を高月駅まで迎えに行っている。小学生が歩いて1時間近くかかる距離だ。なぜか、学童疎開児がいたという話を大人から聞いた記憶は、まったくない。

 

  さらに目を引いたのが、昭和20年3月20日付の「満蒙開拓少年義勇隊入隊〇〇君壮行式」という記録だった。8月9日にはソ連が満州に侵攻している。この人はシベリア抑留や引き揚げなど、どれほど大変な目に遭ったのだろうか、と想像してしまった。

数日後、たまたま松本清張の生涯を扱ったYouTube番組を見たせいもあって、どうにもこの〇〇さんのことが気になり、AIに聞いてみた。昭和20年3月に満蒙開拓少年義勇隊に入隊した人は、どうなったのか。すると、「一定期間の訓練を受けてから渡満する制度なので、3月入隊者は5月以降の渡満となりやすく、最後の渡満には間に合わなかった可能性が高い」という答えが返ってきた。宙づりの世代で、戦後あまり語られなかった層だという。

 

  大陸で悲惨な目に遭ったのでは、という僕の想像は、どうやら杞憂だったらしい。そう思うと、少しほっとした。しかし、運よく渡満せずに済んだとしても、歓呼に送られて入隊し、志半ばで帰省することになったこの人の戦後が、決して生きやすいものだったとは思えない。戦争の犠牲には、実にさまざまな形があるのだと感じた。

 

ところで、元旦に学校へ行かされるのが嫌だった、という記憶を書いたが、そもそもなぜ、そんな面倒な登校行事が行われていたのだろう。考えてみると、一つの仮説が浮かぶ。戦後間もない時期には、正月を祝う余裕のない家庭も少なくなかったはずだ。夫を戦争で失った家、子どもが多く、十分な収入のない家。そうした家庭の子どもたちにも、新年を等しく祝わせたいという、大人たちの知恵だったのではないか。

そう考えると、元日に出勤する先生方も大変だったろうが、皆が等しく貧しかった時代には、弱い立場の人を思いやる仕組みが、今より自然に存在していたのかもしれない。皆が貧しいと、他人のことを思いやれる、という面もあるのだろう。平成、令和と時代は豊かになったが、その代わりに、他者への想像力をどこかで失ってしまったようにも思える。

何も考えず、ただ元日の登校を嫌がっていた70年前の少年時代が、今となっては懐かしい。


追記

前立腺がん手術後の後遺症として心配されがちな尿もれだが、おかげさまで1月半ば頃(術後4か月)から急に減り、咳やくしゃみの時以外はほとんど気にならなくなった。もう少しの辛抱だろうと思い、骨盤底筋訓練を続けている。この年になっても、身体機能は回復するものらしい。

 

2025年の年の瀬に

 今年も残すところ4日となり、PCのカレンダー履歴を見ながら、2025年に何があったかを振り返ってみた。1月には昨年の帯状疱疹の治療が完全に終わったとメモしてある。数日前に見たテレビでは、ひどい後遺症が数年間もずっと続いていると言う人がいた。それを聞くと、自分はうまく治療してもらったことになる。もっとも昨日から急に寒さが来たものだから、左の腰のあたりの皮膚に違和感がある。帯状疱疹の後遺症かもしれないが、大したことではない。

 2月には教え子たちが昨年春の叙勲の祝賀会を京都のホテルで開催してくれた。懐かしい人達に会えて嬉しいことであった。

 4月以降は前立腺の精密検査、早期がん細胞の発見、そして大阪医科大学での外科手術を9月に受けるまではそのことばかりが記載されている。全摘手術をして3ヶ月経過したが、まだ尿漏れは完全にコントロールできているわけではない。

YouTubeで前立腺摘出したという複数の著名人の話には一向に尿漏れの話が出てこない。恥しいと思うのかもしれないが、僕は恥ずべきことではないと考えるので、心配メールをくれる人には現状を告げている。退院して3ヶ月が経過し、初期に比べれば漏れる量は随分少なくなった実感はあるが、咳をしたり急な体勢変化をしたりすると尿は漏れる。先ほどまで大掃除を少しやった。やっぱり漏れる。尿漏れパッドを2回交換すればならなかった(漏れると言ってもパンツまで濡れるわけではない。尿パッドが漏れるだけで、吸収が早いので濡れ感はないのだが、自分の意思と関係がないことの違和感は大きいのです)。早く完治してくれればありがたいが、なんといっても老化による筋肉量の減少で骨盤筋のリハビリ効果はそれほどめざましいものとは言えない。日にち薬と言い聞かせて付き合っていくしかない。

 10月ごろには八雲研究のデータで2論文を作成している。その際に集めて読んだ文献は70編を超えた。共同研究者が読むのは面倒なので、日本語の評論を書いてはと勧めるので書き、キリの良いところで打ち切り、数日前に投稿した。

僕は、今まで評論論文は原則的に書かないで生きてきた(依頼原稿で2−3書いたことはあるが)。大学院生の時に、先輩の元気の良い若い先生が、「評論なんて書くのは、実験のアイディアが枯渇した者のすることだ」と言われたのがずっと、こびりついているのである。

実験論文を書くアイデアはまだ枯渇してはいないけれど、共同研究者求めに応じることにした。この作業ではAIを使うことを覚えた。70編ほどの論文を集約するので、見落としやミスの可能性が高い。AIは例えば、文献をアメリカ心理学会様式で揃えてくれとか、雑誌の略記について揃えてくれと言うと、数秒でやってくれる。間違いなくやってくれるので作業がはかどるわけである(しかし、能力は退化してゆくのだろう)。

何度か共同著者と推敲を重ねて書き直たりしたので、3ヶ月ほどかかったことになる。どのような査読結果がくるのやら楽しみである。

 

 今は記憶が80歳時にとても優れる人たちの、記憶以外の言葉の機能とか、空間機能とかがどのように縦断的に変化していくのかを調べようと思って、そのデータベースの作成に取り組んでいる。Excelが役に立つ。これがなければできない作業である。1時間ほどExcelの細かい数字を見ていると目が霞むので老人には辛い。作っているデータベースは2001年から2013年までの分を昔に業者が途中までやってくれたものを確認しながら作成しているところである。約7000人のデータなので簡単な作業ではないが、「こういうことが自分は好きなんだなぁ」と思うようになった。2014-2025までの整理は、次の仕事として待っている。完成したら、共同研究者たちの誰かが使うかもしれないと思いつつ。

振り返ると、2025年は半分以上が病気に関わっていたが、コツコツと神経心理学検査の縦断的なデータをいじっている作業が意外と好きなのだと、再発見した年であったと言えそうである。

 

 来年は体の不調がなく過ごしたいものである。八雲研究の縦断的データをいじっていると、ほとんどの人は85歳までしか受診していない。このようなデータを見ていると、自分は少なくとも上半身だけでも元気で、好きなことで時間を費やせる幸運を再確認する。自分以外の家族には健康上に大したことがなかったことを合わせ考えると、年の瀬にあたり、幸運を享受できていることを有難く思う。

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