はったブログ
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老性を自覚

  歳をとったなあと感じ老性を自覚ことはずっと以前からあったので、70半ばとなって今更でもないのだが、それでも自分は毎日変わらずに生活できている(はず)と認識しているものだ。大抵の場合には、変わらずにできていることを、つまりPositiveな面に焦点を当て、逆の面には気づかないように適応メカニズムが働いている。しかし、この適応メカニズムでの閾値を超えるような事象が起きると、改めて歳をとったと自覚させられるのだ。最近2回も閾値を超えたのである。

 

  3月23日には卒業式を挙行した。コロナ感染状況は依然として収束の気配を見せないので、リモートでの卒業式という選択も議論したが、一生に一度の晴れ姿が映える状況を少々の危惧があっても、講堂に学生を集わせて実施しようと1月末には決めていた。幸い感染者が新たに出たという事もなく、好天の下で挙式できた。来賓を最小限にしたり、時間を短縮したり、1.2m以上離しての座席となるように学科ごとに半分に分けて午前と午後で2回同じ事をやった。式辞を2回読んだわけである。朝にモーニング服に着替え、昼ごはんを挟んで午後の式典が終わるまでそのままで過ごした。式典は30分ほどの時間に短縮しての2度公演というわけだが、終わるとドット疲れが襲ってきた。心底、疲れたと思ったのである。この予想以上の疲労感は、「歳を取ったな」という内なる囁きをもたらした。それでも、久しぶりに華やかな気持ちになったのを楽しんでか、和服姿の学生は4時過ぎまで写真を取り合ったり、談笑したりする姿があった。窓から学生らを眺めてリモートにしなくてよかったと思ったことである。

 

  金曜日の夜に、金融カード会社から本人を確認しての電話があった。家内から何度も電話があったが、内容は言わないと聞いていた電話である。請求書が送付してあるはずだが、入金がされていないと言う。PONTAカード利用での5,000円弱の支払い要求であった。確認するとガソリン代金ということであった。普段使わないカードだが、そういえば2月に1度だけスタンドで値引きになると知って使った記憶があるので、了解し、土曜日の銀行振り込みを約束した。電話の相手の口調は振り込み票を送ってあるはず、なぜ遅れるのか、というような感じの悪い対応で、明日振り込むと声を大きくしたのであった。電話でやりとりしている間にPONTAカードを作った記憶が蘇った。昨年夏に佐久市のガソリンスタンドで給油していると、アルバイトの高校生がカード作成を頼んできたのだ。作れば僕に現金1,000円をくれると言う。それじゃバイトの売上に協力するか、と作成した事を思い出した。しかし、カードは銀行口座と繋がっているものと思い込んでいた。あとで調べるとPONTAカードは使った金額の請求が来て振り込むというシステムである事、カード審査がないので若者が作りやすくなっているとあった。クレジットカードは銀行から自動的に引き落とされるものしか持っていないはずであった。しかし、利用後、請求書が来て振り込むというカードもあるのだ。カードで給油したら勝手に銀行口座から落ちるものだと思い込む固定観念が問題を招来したのだ。

 

  土曜日の朝、一番近いスーパーのATMから送金すべしと、家内から銀行のカードを預かって、ATMで実行しようとしたが、「窓口でしか扱えない」と表示が出て、振り込みできずに、記帳だけして帰宅した。家内は現金を引き出して送金すればよかったのにというので、再度出かけてATMにたどり着いたが、振り込みはできなかった。ATM単独の場所からは現金での取り扱いは不可というのを戻ってネットで調べて知った。家内は銀行カードが使えないはずなはないと言い張り、険悪な雰囲気になったのだが、その時、カードの入れ方の間違いの可能性を指摘されたのだ。家内の持っている銀行カードは2種の方向で矢印がついている。それぞれ違う機能らしい。それではと再度スーパーのATMに行って家内にやってもらうと、問題なく振り込み送金できたのである。カードの差し込み方向に2通りあって機能が違うことは当たり前だと、いうので自分の銀行カードを調べると矢印は1方向である。2つの方向のカードは銀行カードもクレジットカードも1枚もなかった。

  最近の銀行はカードのいろいろ機能を付けて、預金高に応じたサービスをするようになっているらしい。家内から言われるまでもなく、カードは1つの矢印で使うものだという固定観念が1日に3回もスーパーに行く結果を産んだのである。「歳をとったなあ」と思い知らされた週末であった。

 

  来週の入学式は三密を避けるために午前1回、午後2回の3部公演で挙行する予定になっている。摂生して備えねばなりませぬ。

なんだ、そういう事か

 しばらく記事にするようなこともなく、毎日を過ごしていた。入学試験を何度か実施したり、毎日大量の決済印を押したり、広告費や奨学金を削減せよという、ここ数年来の理事長の指示への対応には追われていたが、記事にするほどのことでもない(学生募集の効率を上げるためには広告宣伝費を増やす、奨学金を潤沢にという方向性を考えるはずと思うのだが、逆のベクトルなので苦労するのだ)。

 

 昨日、記事にしておこうと思う事件が起きた。ちょっと大層だが、「なんだ、そういう事か」と思ったことがあった。4-5日前にメールが届いた。「先に送ったメールの件ですが、日程を調整したいという」ララという女性からのメールなので、怪しい系のメールだろうと放置してあった。ところが、総務に電話が入り、「学長宛にメールを送ったが返信がない」と言ってきたのだ。英語で電話が取れるスタッフがいたっけ?と訝しい思いでいたら、英語に堪能な派遣さんがいたのだ。

 

 それではと、先のメールというのが届いてないと伝え、改めて送ってきた文面をみると、N Yの歴史のある著名な雑誌からのインタビュー依頼状であることが判明した。曰く、「コロナ感染状況下で日本の高等教育は世界的観点からは優れて行われている。ついては、その一つである貴大学にzoomでインタビューしたいので都合の良い時間を1時間欲しい」と言う。参考資料として2021年にインタビューした人名リストが付けてあった。そこには安倍晋三を始め2人の元文科大臣、日本の著名大学の学長名が30名掲載されていた。そのリストに驚いてしまい、なぜ僕のところにメールしてきたのだろうと不思議ではあったが、コロナ下でも対面授業を工夫して継続したうちの大学のシステムに気づいて誰かが情報提供したのかも知れない、などと想像を逞しくした。御多分に洩れず、都合よく情報を解釈したのである。「そうであったらいいな」と考えてしまったのだ。著名大学の学長と同格に扱ってくれると言うのかい、と気分を良くしたことも否定しない。

 

 コロナ下での教育という話題となれば、関連する英単語は確認しておかねばと、変異株とか部屋の消毒の徹底などの英語表現をメモしておいたりして、約束の時間を待ったのだ。しばらくぶりに英語を話すのでやや緊張していた。時間前には3度もトイレに行った。インタビュアーは若い女性2名で(僕が見て若いということですけど)あった。

 

 Zoomでのインタビューは問題なく始まり、大学の歴史、学生の特性や育てたい学生像などの話や僕の専門やキャリアの確認などで40分以上が過ぎた。2時から始まったので3時には外出の予定があり、話をコロナ下での授業に移そうとすると、留学生に望むことは何か、などと聞いてくる。自分のところは、留学生は受け入れていないというと、今後の計画などを聞くのだ。台湾との交流を皮切りに始めつつあるなどの話をしていると、残り10分ほどのあたりで、本題らしく、1ページの価格と半ページの価格がいくらであるということであった。ここで、「なんだ、そういう事か」と理解した。大学案内を、インタビュー記事をもとに雑誌に掲載しないかというわけである。国際的に著名な雑誌であるだけあって、1ページの価格は3万ドル弱、半ページは2万ドル弱であった。数年前に同じような企画を文藝春秋が持ち込んできたときは1ページ30万円であったことを思い出し、価格はそんなものかも知れないと納得したが、うちの大学や僕には縁のない提案である。

初めから宣伝広告を出しませんかとは言ってこないわけで、それも了解できることでもあり、腹が立つということはなかったが、自分が良いように想像していた類の話ではなかったので、2-3日浮かれ気味であった自分が気恥ずかしくなった。

 

 若い女性2人を相手に60分タダでおしゃべりできたので、準備に費やしたエフォートは相殺することにしよう、と考えている次第。掲載料の話になったときに、「そんな高い費用は理事長決済になる、きっと無理だよ」と伝えたとき、「ケチでしっかりしているから」の英語表現が思いつかず、「greed」とう単語が浮かんで使ってしまった。申し訳ない。言い間違いの中に無意識に抑圧されていることが浮かび上がるという精神分析に考え方に僕は全面的に賛成しているわけではないと記しておこう。

 

コロナ禍でのクリスマスカード

 どの国でもコロナ感染状況が酷いので、例年よりも時間がかかるかも知れないと考え、昨年の12月7日にクリスマスカードを投函した。郵便局でも配達は遅れるかも知れませんと言われたが、せいぜい5-6日遅延するぐらいだろうと高を括っていた。ところが、すでに当方は12月中にカードを受け取っている英国の元同僚は1月12日に届いたとメールがきた。郵便物では6週間近くもかかったことになる。

 1977年に英国の大学寮に滞在し、家内やゼミ学生らと手紙をやり取りした頃でも1週間ほどで到着した記憶があるので、英国のコロナ状況は大変なのだと思ったことである。今も存在はするようだが、Air Letterと称するものがあった(Air letter: a letter that is sent by aircraft, usually consisting of a single very thin of paper that is fold and then struck at the edges to form its own envelop)。切手が印刷してある紙片で、折り畳むと封書になる。ハガキのよりは内容が秘匿できるし、すぐに投函できる便利なものである。

 Air Letterで記憶が検索されるのは、日本人が誰もいない学生寮にいた頃のことで、寮には夏休みに帰郷しない留学生のみが少数残っているだけであった。この留学生たちとは仲良くなり現在もカードのやり取りをしている人もいる。今では想像もできないことだろうが、航空券を購入した旅行代理店ではヒースローからどうやって(ウェールズの首都で30万都市の)Cardiffに行くのか説明できない、現地で聞いてくれというような、海外情報のない時代であった。ちなみにその時の往復の航空券代金は約60万円であったと記憶する。

 寮での夕食(教員らは集合して、寮長の後を鳥のように行列して講堂のような広い食堂の壇上に横並びで座り、学生に向かって食べるのだ。給仕が付いていた。僕も教員とみなされ並んで食べていた)が終わると、ひたすら日本宛に手紙を書いた。毎晩2-3通書いていたので、いちいち切手を貼らずに済むAir Letterを愛用していたのだ。ノイローゼ状態だったのだろう。8週間で5Kg痩せ、持参したズボンが履けなくなり、街で生まれて初めてジーンズを買った記憶がある。子供用しか合わなかったが。今も、ストレスは結構高いと思っているが、一向に痩せることにつながらない。

 何故に手紙であったのか電話をすれば良いじゃないかと訝しがる読者もいるかもしれないが、電話代は法外に高かったのである。無事到着したことを伝える短い電話をした記憶(電報かも)があるが、4,000円ほどした(2食付きの寮費が1週間で10,000円程度であった)。電話をするには交換手と英語でやりとりをせねばならない時代であり、会話力に自信もなかったので、手紙にするしかなかったのだ。

 

 1月の終わり近くになって、ロンドン、サンパウロ、ポーランドからと僕の送ったカードがついたと書いてあるカードが順次届いた。ロンドンからのは、40年ほど在英している古い友人からで、僕のカードが届かないので「体調に不具合が生じたのだろう」と考えたとある。彼女は半年前に旦那さんを亡くしたとあるので、僕が死んだと連想したのだろう。日本のコロナがひどいようだけど、と記してあった。僕はロンドンに住んでいる方が大変と思うのだが、英国のニュースを見ると日本の方が大変と思うらしい。情報というものの伝わり方はややこしいものである。我々もT V画面だけに頼ると、情報は歪んで伝わることがあることに気をつけねばならない。

 サンパウロからのカードは日系3世の元留学生からで、数年前に定年になって夫婦で会いに来てくれた人で、僕がNHKの番組に出ているのを見たとあった。クリスマスカードが6週間も掛かったりするのに妙な時代だと考えてしまう。ポーランドからのカードも元留学生からのもので今回は家族写真が入っていた。僕の大学の部屋に以前送ってくれた彼女の子供の写真を飾っているが、今回送られてきた子供は18歳と15歳になっていてすっかり大人の様相が伺え、驚いてしまった。前にあってから10年ほどが経過しているとは言え、子供の成長の早さには驚かされる。しばらく家族写真を送ってこなかったので、「離婚したのかもしれない。旦那の文句をいっぱい言っていたから」という家内の推論は杞憂に終わり安心した。ポーランドもコロナで大変ということであった。

 

 コロナは世界中を席巻しているが、年内の届いたカードも年越しとなったカードからも友人やその家族は元気に過ごしていることがわかり、安堵したことである。コロナに感染し、闘病している人や収入が途絶えたという知らせは今のところ周辺からは聞こえてこない状況で新年を過ごせている幸運を有り難く思う

 

 予想以上に時間を要したクリスマスカードのやりとりであったが、考えてみれば40年前には英国へのAir letterが1週間でつくことに納得し、2週間後に返事が来ることを心待ちに機嫌よく暮らしていたのだ。internet電話でやりとりができ、電子メールでの送信に返信は即時に可能となったことが果たして効用ばかりなのかしらと考えてしまう。

 

 手紙を書く行為は、電子メールはinternet電話に比べて、企画・構成力、文章力、漢字の想起など前頭葉機能の関与度が高い。以前に八雲研究の一部として、院生と高齢者との手紙の交換を実験的に実施し、運動だけしかしない高齢者群と比べて前頭葉機能が維持されやすいという論文を書いた本人なので、加齢による前頭葉機能の低下を鈍化させるためにもカードや手紙は書かねばなるまい。

 

 そろそろ切り上げて、1週間後に迫った孫あての誕生日カードを書かねば。

コロナ禍での年末年始

 12月28日に出勤し、総務、入試、教務、学生支援、本部職員へ「stay home」と順次年末の挨拶をし、政治家のように忘年会を開くこともなく、2020年の仕事は終わった。このような何事もない年末、年越し、新年は経験がないことなので、一体何をして居たのか後年分からなくなることもあろうかと、メモをしておく次第。

 

 新年には、子どもが小さい頃は、滋賀と徳島の両方の実家を律儀に慌ただしく訪れて賑やかに正月を過ごしてものだし、名古屋大に移籍するまでは卒業した学生たちを呼んで大勢で新年会をしたものである。学生たちの子どもも参加して20人以上も狭い家に集ったものであった。彼らはもう還暦を済ませたとか、孫がいるという。ついこの間のことのようにも思えるが、かなりの時間がすぎて行ったことになる。

 

家内と二人だけの年越し、正月は人生で初めての経験であった。喧嘩せずに過ごせるかしらと心配しないでもなかったが、家内の部屋のT Vを新しくしたり、孫も夢中のLaQ(レゴのようなおもちゃ)をプレゼントしたりして、摩擦の軽減予防にも配慮はした。終わってしまえば、大きな揉め事もなく、過ごすことができた。

 

 29日には天気が良いので2階の自分の使用する2部屋の窓拭きをしたが、身体の柔軟性が低下し、いい加減な程度で済ませざるを得なかった。書架の古い雑誌や本を年明けのゴミに出せるように荷造りもした。大学生の頃に張り切って買い込んだ洋書も捨てることにした。キリがないので、束は10個を限度にこの作業もやめた。高圧洗浄機を出しての窓洗いや洗車もした。疲れないようにいい加減に作業するにとどめたので、大した筋肉痛に悩まされることなく5日までの1週間の正月休みは終えることができた。

 

 いい加減にとどめておくという癖がついたせいか、根気がなくなったのか1週間で書きあげる予定の論文は、途中で構成を大幅に変更し、2つの論文にしようと気持ちが変わったせいで、未だに完成していない。八雲研究の19年間の縦断データをもとに10年間でどの程度作業成績が低下するのかを個人別に算出した低下率で比べようとしている。文字を抹消する速度が10年間で低下する現象を40歳代から、50歳代から、60歳代から、70歳代からのデータで解析している。ホルモンの影響で「女性の優位は、60歳以降は無くなり、おっさんと同じになる」という仮説(15年ほど前にNorth Dakotaのシンポジウムで発表した)を補強する論文にしたいのだ。統計解析は長男に手伝ってもらい去年の8月に終わっているのだが、何やかやで、未完の作業となっている。この作業を1日の朝からしたことをメモしておきたい。何時まで、こんな事を面白いと思ってやるのかに興味があるからである。論文は年内に仕上げて、正月はLaQにトライするつもりであったが、LaQは出来ず仕舞いであった(家内は孫とリモートで作品を見せ合いっこしていた)。

 

 元旦には「夢殿」という諏訪の名酒の封を開けた。日頃飲んでいる、フルーティな山形の酒に比べて「日本酒!です」という主張がある。それでいて、後口のスッキリさが際立っている。美酒であった。「値段の高い酒は美味い、早く飲んでしまう」という経験則を強化することとなった。斯く左様に、コロナ禍の年末年始の時間は過ぎたのでした。

 

 年頭に、美酒を味わいながら次のような事を考えていた。年末には今年度末で大学を辞めると言う65歳定年後も働いていた友人の報を3件も聞き、大学の同級生の訃報も届き、取り残されたような妙な気分になっていたせいかもしれない。

 

コロナ感染拡大で、私たちは今まで経験したことのない、不自由さを味わった。自粛できない仕事に就くのかも知れない人たちへの非難、感染者や濃厚接触者への偏見・攻撃など、人の醜い一面を確認した。一方で、自らの感染への不安を乗り越えて検査や治療にあたる人たちも確認できた。人は、「誰もが弱い、誰もが強い」事実を確認した。生きていく上で私たちは様々な人たちのネットワークの中で生きていることも再確認できた。「さまざまな他者への想像力を保てること」は、世界中の人が目指すべき理念とされる、「多様性・ダイバーシティの尊重」に通じるものがある。

これらを若い人たちにどう伝えるか、あと暫く現役を続けることになっているが、課せられる課題は重い。少しずつ、焦る事なく取り組むことができるか、いい加減さを覚え始めた昨今の自分には「やや心許ないなあ」、と思うのである。

C. K. Leong(梁子勤)先生を偲ぶ

 12/6(月)の早朝、いつものようにメールをチェックしているとLeong の文字が目に付いた。開けてみると娘のSoniaからの訃報であった。11/30にC. Kは家族に看取られて安らかに逝ったということであった。コロナに感染して、とあったが、家族皆で見取りができたようである(カナダは日本とはコロナ対応事情が違うようだ)。

すぐに彼との思い出のいくつかを音楽家であるSoniaに返したが、昨年エドモントンの施設に移ったと聞いたので、死はどこかに予期はしていたものの、落ち着かない気持ちでいる。彼との思い出が浮かんで消えたりするので、思い浮かぶことなどを記録し、長年の厚情を謝したい。

 

 1977年始めのことであった。カナダから封書が来てサバティカルを利用して僕のところに来たいという内容であった。「読み処理過程:reading」の著名な研究者であることはのちに知ることとなったが、当時は名前を知らない人で、自分の方が海外で勉強したいと思うばかりだったので、まさか自分のところへという研究者がいることなど思いもよらなかった(直接押しかけるアメリカ人もその後はいた)。当時の大学の天王寺校舎は戦前からのボロい木造建築で、物置の一角に手作りの実験装置を備えて、迷惑がられながら実験していたものだ。今日の国立大学のように、外国人の訪問を可能にできる宿舎も予備の研究室にも余裕はなく、受け入れ可能状況はゼロであった。秋から英国に行くのでという理由で断った(嘘ではない)。それ以来の付き合いである。彼はオランダでサバティカルを過ごし、のちにOrton賞を獲得する仕事をして、読み書き障害の研究者として世界的に著名になった。

  1980年頃から日本語の読み処理過程の研究に手を出すようになって以来、再びLeong先生との付き合いがはじまった(というか頻繁となった)。

  彼も招待されていたトロント大学でのシンポジウムであった時(大学では後年、重点化やCOEなどグローバル研究の急に舵を切られて、教官は戸惑ったものだが、このような項目(招待講演)も業績リストに記載するようになったので、有り難かった。しかし、当時はまた留守にするのかと同僚は見ていたはずである)、チケットの書き換えを手伝ってくれ、帰路、彼の勤務するサスカチュアン大学に寄った。彼がヴィクトリア大学に移った時には講演を企画してくれ、謝金までもらった。この時は高校進学が決まった春休みだったので長男を連れて行った。思い返すと、シアトルから飛行機を乗り換えヴィクトリア島に行くのに冷や汗をかくことが起きた。旅行代理店のミスで、持っているチケットは、郊外の別の飛行場から出る便であることが、乗り換えカウンターでわかったのだ。乗り換えは一度空港を出て、海辺の別の飛行場からヴィクトリア湾に着く水上飛行機となっていたのだ。大慌てで切符を買い、シアトル空港から4時間遅れでやっとのことで、ヴィクトリア郊外の野原の小さな飛行場に到着した。ドアをワイヤーで巻いて閉めているようなオンボロの小型機で、騒音もひどく、長男は怯えていた。飛行場で降りたのは10人ほどの乗客だけである。客たちと係員とは顔馴染みという塩梅で、Leong先生に電話せねばと焦るのだが、なかなか手続きが進まずイライラが募ったこと、でも係員は親切に事務所内の電話を貸してくれたこと、彼が迎えに来てくれるまで待っている間に待合室に掲示してある夥しい児童の顔写真(誘拐、行方不明の捜索)を見て、長男がさらに怯えていたことなどを思い出す。

  Leong先生は高槻の家にも何度か来た。姫路城を案内したときに、彼が突然走り出して私らの入場券を買おうとするので、それを阻止するのにこちらも走った光景も思い出す。

  彼はヴィクトリア大学から再びサスカチュアン大学に戻り、定年後も特別教授待遇で80歳ごろまで研究室を維持していた。その頃、彼は教育大学が創設される事業に関与して半年ほど香港に滞在していた。契約が終わる前にシンポジウムを計画するので、今まで世話になっているから家内も連れてこいという連絡があり、香港に招待してもらった(前述の招待講演項目は個人的な繋がりでも点数が上がるものなので、それほど有効な業績指標かは?である)。

  漢字認知に関するテーマで、私の発表は笑いも取れ上々の出来であった(家内が見ていたので面目が立った)。講演したのは日本語表記の情動価に関係したもので、「▽▽が〇〇という名の店を開いた」の文例に、▽▽が北島三郎なら〇〇は漢字で店名を書くが、▽▽が篠ひろ子だったら、〇〇はひらかなで店名を書くという実験で、日本語表記(漢字、ひらかな、カタカナ)はそれぞれ情動価が違い、書き分けるという研究なのだ。▽▽を、香港での人気男優や女優名を調べて例題を聴衆に提示したのが受けたのだ。この訪問では、中華料理、お粥をごちそうになったが、家内はいまだにこれまでで一番美味しいものだという(何年後に香港に行くことがあり、お粥の店を探したが見つからなかった)。

 

  その後、リンパ腫を患ったという連絡があり、死ぬのではないかと案じたこともあったが、それを克服して、2014年の8月に来日した(メモで確認できた)。リンパ腫は大丈夫ということであったが胸部に何やら着けているように見え、以前のように元気で話し続けることは無くなっていた。京都の料理屋に詳しい同僚に紹介してもらい、行きつけない高級料理屋で家内と3人で飯を食べた。それが彼との最後である。ホテルに送って行った時に、これが最後かもという気持ちになったことを覚えている。この訪問の際に彼は一服の絵と斎白石の画集とを土産にくれた。絵はプリントだが、ザクロの静物画である。良い絵のように思えたので額に入れて勤務先の部屋に飾ってある。ザクロは多産の象徴と聞いているので、僕は2人、あなたは3人の子どもを育てたのだから、ふさわしいのか?と問うと、「タケシにはこの絵が相応しい」と言った。自分はPH. D.を一人しか出していないが、お前はザクロの実のように沢山のPh. D.を育てたからだと言う。褒められたのだ(褒められる体験が少ないので記録しておく)。数は自慢して良いけど、大した研究者には成っていないので、素直な友人は「アンタがあんなのを研究者にするから、本当はなるべき人間がなれなかったんだヨ」と言う。こう言う見方も一理あるので反論はしないが、外国の研究者が褒めてくれたことがある、というのは冥土での自慢話になるかも知れない。

 

  昨年のクリスマスカードは家族からの手紙が入っており、高齢になったので、親戚が多くいるエドモントンの施設に移ったということであった。Leong先生は香港大学の出身で、中国本土返還を嫌って国外に出て一流の研究者になり、3人の子供をI B Mの研究者、2人の娘をピアニストと音楽大学教員に育てた。そして家族に囲まれて静かに逝ったということだから、父親としても偉い人であった。そして私のような年下にも対等に親しくしてくれた。彼から海外の研究者との付き合い方の多くを学んだことを思い巡らすと感謝しかない。

 

  彼に情報が伝えられていないとは思うが、香港の中国本土返還時に香港から海外移住を決行したLeong先生は、昨今の香港事情を予期していたのかも知れない。そうだとしたら、偉いだけでなく凄い人である。

 ぽつりぽつりと40年来の知り合いが亡くなっていくのは、表現し難い気分に襲われる。寂しさと言うものなのだろうが、少しずつ募ってくる。長く生きると言うことは、こういう体験に馴化していくという発達課題をこなすことなのだろう。これからいくつもの発達課題をこなして行きたいかと問われたら、今は、「微妙」と言うしかない。

 

In memory of the teacher, C. K. Leong


In 1977, he informed me that he would like to come to me at Osaka Kyoiku University to spend a year for sabbatical leave. Since then, our friendship began. Unfortunately, I planned to study for 12 months at Cardiff University from the summer of 1977. therefore, joint research plans in Osaka did not come true, but since then, he visited to me in Osaka and Nagoya University many times. He invited me to a symposium hosted by him in Hong Kong with my wife. I also remember helping his student, Tamaoka Katsuo, with his doctoral dissertation. 

I visited Saskatoon home, and C. K. stayed at my house in Osaka several times, and we enjoyed Kyoto, Nara and Himeji. Needless to say, he is one of the world's top cognitive psychology researchers and his research achievements are enormous, but his humanity has nurtured many students and young researchers. 

Originally from the University of Hong Kong, he went abroad to
become a leading researcher, raising three children to be IBM researchers and two daughters to be pianists and music college teachers. He was also a great father. And he was equally close to younger people like me. I can only thank him for learning a lot about how to interact with overseas researchers.

I'm about 10 years younger than him, so I want to imitate the way he lives as a researcher and values his family and friends above all else. 

Here again, I thank him for more that 40 years friendship and many teachings.

思い違い

 先回、「Everyman’s Psychology」の翻訳書に「ジャガーを選ぶ人はどういう人かとかレーランドミニに乗る人は云々」が書いてあるはず、翻訳本を取り寄せ確認すると書いた。

 

 古本はアマゾンでの配達予定日よりも3日も早く届いた。記述は「確認できず!」であった。思い違いだったのだ。流行り言葉で言えば「フェイクニュ~ス」を発信したことになるので、訂正せねばなるまい。

送られてきた翻訳本「行動の洞察」はハードカバーの上製本で、近年目にすることの少ない立派な製本で、これも記憶とは違った。表紙に名前が出ていたのも記憶違いであった。2,000円の価格が付いていた。1977年の発刊なので40年以上前である。当時は値段が高くても本を買い・読んでいる人が一定存在したことがわかる。近年、本の価格は上がらず、読者減で販売数も減少傾向が止まらない(マンガ本は別らしいが)最近の出版業界の苦労が忍ばれる。

取り寄せた本を読み返すと、「交通事故の心理学」「自尊心」などの章があり、記載を丁寧に確認する作業をしたが、見当たらず、他の章かもしれないと全章探してみたが、見つけることができなかった。

 

 著者のJohn Cohenは1960年代の心理学の教授であり、大学数が増える(英国では1970年前後にも増えたが、 サッチャー以降にも多くのポリテクニックが大学になった)以前の英国の大学教授(教室には教授は1名のみ)なので、読み返してみるとその博識(ギリシャ神話や演劇)に圧倒されるのと、実験心理学者なのに精神分析学の影響を強く受けていたことがわかる。昔の大学教授になる人は凄かったのだ。精神分析学の影響が強いために、「ジャガーを選ぶ人」はミドルクラスの人間でありたいという願望を投影している、という類の記述があるはずと思い込んでいたが、思い違いだったのだ。この思い違いは強いもので、自分が1,000CCの車から2,000CCの中古に乗り換えた時に運転しながら、何となく偉くなったような尊大な感覚になり、その時にCohenの記述の通りだと感じたことをはっきり覚えている。思い込みも強いレベルのものである(どこか別のところで彼のこのような記述を目にしたのかも知れない。負け惜しみかも)。

 

 今回の記憶違いは他人に対して影響は少ないものだが、気を付けないと今後が心配と思った次第。もっとも、こういう事もこの先、忘れてしまうのかもしれないけど。

 

 取り寄せた翻訳本をルーチンの作業を後回しにして読んでいた昼休みに、秋学期から非常勤講師をするようになったと挨拶に来てくれた先生がいた。大教大を卒業し教職についた後で大学院を経て、今は私大の教員という60歳前後の先生で、工藤力先生のゼミであったと言う。彼が持参した記念誌「心理学教室40年年史」で、三田のセミナーハウスでの写真などを見ながら教育学教室と心理学教室のソフトボール対抗戦の話などをした。工藤さんの様子を聞くと、無くなったと言う。彼も最近まで知らなかったようで、「誰にも知らせるな」が工藤さんの遺言であったということである。元同僚で先年亡くなった先輩も「死んだことを知らせるな」ということで、葬儀もなかったことがあった。残されたものに面倒をかけたくないということかも知れないし、自分は元気であると思われていたいのかもしれないが、よく分からない。二人とも共通の性格特徴を持っていたように記憶するので、何か関連するのかもしれないが。自分は多分そのような指示はしないかも、と考えさせられたことである。

 

 彼が帰った後で、部屋に同じ記念誌があるのを見つけて写真などを確認すると、記念誌には教室員の写真には11名しか写っていない。16名だったはず、自分の記憶もそこまで変になったかと一瞬戸惑ったが、この記念誌が作られた平成元年には、工藤さんはじめ5名が心理学教室から新設された教養学科に移籍していたのだ。今ではその理由も正確には思い出せないが、教養学科に移る教官(当時は国家公務員なので)と心理学教室の教官との歪み合いは強烈で、裁判沙汰になった。実際に裁判にはならなかったが、当時教室主任の順番が回ってきていた僕は、てんてこ舞いであったことを思い出す。のちにこの顛末を冊子にして送ってくれた被告の管理職の先生もいた(探せば何処かにあるはず)。裁判沙汰の途中で工藤さんは東京の私学に移籍してしまった。その件を引き継がされた後輩の教官は事故で急逝したし、他の一人は私学に転出し、騒動は沈静化したのだ。来室してくれた彼が持参した記念誌を見るまで、自分が在籍した大教大心理学教室は16名だったと思い込んでいたが、John Cohen先生風に言えば、この教養学科設置に関わる揉め事を記憶から浮かばないようにしていたのだろう。

 

 「記憶は自分に都合よく歪み、再生される。都合が悪い記憶は再生されにくい」という心理学の知見を改めて確認した次第。気をつけねばなるまいと自分に言い聞かせるが、いつまでも覚えている自信はもう無い、と言っておくのが安全かな。

車種の選択

 勤務先では全授業で対面授業(変則的な様式を採用しつつ)を取り入れて2週間が経過し、キャンパスに学生が戻って活気を呈している。人が行き交う場である本来の姿に近づきつつある。今のところ感染者が出たということもなく、推移できている。もっとも、大阪での感染者数は、最近は100名を超えてもメディア報道はなく、何か作為的なものを感じないわけでもない。コロナ対策の行動様式を継続して行うことを間欠的に情宣する必要を忘れないようにしなければと、注意情報を出す時期の予定はメモしてある。

 

 感染トラブルが生じないおかげで、時間は素早く過ぎていくように思え、あっという間に10月が終わる。喜ぶべきことなのだろう。

 

 「お話二つに分かれまするが」というのは場面転換の際の、円朝の書き下ろしの言い回しであるが(三遊亭円朝のkindle版は全集が150円なのだ。言文一致表現の先駆者ということなので購入した。口演を活字にしたものなので、驚くような展開。例えば、ぶすりと刺されると呆気なく死んでしまう。その様子は描かれないなど、特段面白くて引き込まれてというのではないが、江戸弁の口調や古い言い回しを教えられたりするのだ)、今風に話題を変えて車について思うことを記しておこう。

 

 朝の散歩道はゴルフ場へと続くので、土日には高級車ばかりが行き交う。いつも思うのは、「どうしたらあんな高級車が買えるのだろう」という疑問である。珍しい車種を見送った後では、部屋に戻って値段を検索してみることもあるが(情けない癖だという自覚はある)、5、6百万あるいはその倍以上の価格を知ることもある。自分の給料は長く公務員で過ごしたので、平均的かあるいは少しマシな部類であったと思うが、そして定年後10年以上も働いているが、とても5百万もする車は買えない。10ヶ月前に車を買い替えた。下取りに2百万ほど足すのが精一杯である。もちろん国産車であるがサポート機能は優れており、通勤に使うのに十二分な機能を持っている。すでに18,000Kmを走った。トラブルは皆無である。先週点検にディーラーに行ったら、275万プラスしたらもっとサポート機能が良い車種が近々出ますが如何ですか?と聞かれた。そんなお金はないと、即ちに返事したことである。

 長年公務員として勤め、2人の子供を大学にやり(2人とも9年以上の学生生活を送ったので、4人の子供を大学にやったのと同じ)、普通に暮らしてきたつもりなので、何故高級車が買えないのか不思議な思いは消えない。高級車を買える人が親からの遺産をたくさん引き継いだとか株で儲けたというばかりではあるまいとは思うが、自分に利殖の才覚がなかったというのが疑問への一つの解である。もう一つはお金がなくても高い車に乗りたいという、つまりローンで購入しているという解もあるのかもしれない。

 車の選択は「その個人のいろいろな欲求の投影である。どんな車を選んだかでその人の性格がわかる」とJohn Cohenという1970年代Manchester大学の心理学の教授が「Everyman’s Psychology」という本の中に書いている。その具体的な内容が思い出せない。「よく覚えていますね」と言ってもらえそうなのだが、実はこの本の翻訳を当時の同僚で先輩の小野章夫先生と出版しているからである。小野先生は同じ職場になって数年後にManchester大学でPh. D.を取得された人で定年までかなりの年を残して急逝された。英国に留学をするにあたって色々とお世話になった。パイプタバコを教えてもらったことや翻訳の調整に枚方市の官舎に泊まりがけで招いてもらって大きなステーキをご馳走になったことや、髭が濃い人だったので、朝湯を沸かして散髪屋にあるようなシャボン泡立て器を使っておられた記憶が蘇る。鬼籍に入った同僚との1970-1980年代の日常生活が懐かしい。

 

 話二つに分かれますが、「Everyman’s Psychology」の翻訳は「現代心理学の諸相」という邦題で誠信書房から1977年に出版されているのを確認できた。自分の部屋の書架をくまなく探したのだが、見つからないのだ。アマゾンで検索すると古本の出展があるので、購入手続きをしたところである。したがって、ジャガーを選ぶ人はどういう人かとかレーランドミニに乗る人は云々、はまだ不明である。

翻訳本を取り寄せ確認したが、そんな記述は確認できず、とならないことを祈っている。記述がなければ、健忘症の進行は確認できるけど、それは受入はするけど、たいして嬉しくはない。

彼岸花は何処へ

 40度を越すような酷暑の夏であったが、確実に秋は訪れ、いつの間にか気温は平年並みとなった。コロナ禍はメディア報道が激減したせいで一段落しているかのような状況にある。日常生活状況はgo-toとかgo-eatとかの経済活性化策の動きはあるものの、大した変化があるような気にはなれない。相変わらず、マスク姿で人は行き交っている。

 

 夏休み明けから9月いっぱいにかけて秋学期をどう進めるかにエネルギーを費やした(消耗した?)。

結論として、感染対策の消毒やマスク着用を学生に義務付けた上で、10時始業、60分の対面授業プラス30分に相当する課題提出(遠隔での)を基本とすること、1.5m間隔の座席配置(着席記録提出)とすることなどを決めた。当然100名以上規模の授業クラスは教室に収まらないので、そういう場合は登録学生を2分し、隔週登校で対面授業(半数は動画配信される授業を遠隔で聴取)とするアイデアを捻り出した。この方式を導入するために、機材の購入、動画配信が不得手の教員には複数の研修会を実施し、加えて初めの3回程度は教務職員や情報センター員のサポートをつけるなどの配慮も決めた。この方式であれば、最大限に対面授業を増やせると考えるためである。しかし、3,000弱の授業コマがあり、履修登録(修正期間の担保)をみての教室配分の見直しなどの作業量は膨大であった。対面授業再開をせわしく迫ったり、10月から食堂を外部開放するなどと言い出したりと学園本部上層部の想像力の乏しさに、(温厚な私が:異論があるかも知れないけど)怒鳴りつけることもあった。教職員の協力でやっとこの新体制ができたのはありがたいことである。その他にも学生や同居家族に陽性者が見つかった場合のその後の授業体制のシミュレーションやガイドラインづくりも大変な作業であった。秋学期は始まって2週間が経過したが、本格的な授業は1週間後なので、何とか準備はできているような気がしているが、予想できないこともありうる覚悟している。

と言うように、遠隔授業が多い、レポートが大変と言う学生も気の毒ではあるが、教職員も通年にはない様々な負担を課せられて大変のである。それを粛々とこなしてくれていることに頭が下がる。

 

 過去8週間ほどのこれら作業で厄介だったのは、教員の間のITリテラシーのばらつきである。学生の学力のバラツキよりもはるかに大きな教員の能力(+動機づけ)のバラツキである。春学期では渋々あるいはサボりが見られたような情報を得ていたが、流石にもう聞くことが無くなく、リテラシーを獲得してくれたようである。

 

 このように忙しくて、秋の始まりを明確に意識する間もなく、季節感を意識せずにいる妙な気分の日が続いていた。何かしら変な感じだとモヤモヤする思いであった。昨日やっと思い当たる理由らしきものが見つかった。

 

 朝の散歩は続けているのだが、彼岸花を目にしていないに気づいたのだ。もう40年以上、ゴルフ場につづく府道に並行する集落近辺の車のあまり通らない道を毎朝往復2km(20-30分)歩いている。自宅を出て右手に行くと途中には道沿の水路、田圃と畦道、小さな野菜畑、後ろに里山があり、それを眺めて、季節の移り変わりを知るのだ。畑を覗いてはもうそろそろ植える苗を買わねばとか、新野菜に挑んでみるかと考えてみたり、追肥の様子や自分の作る野菜の生育具合と比較してみたりするのである。

 

 3年前に新名神の高槻ICができて、散歩道の両側の田圃や畑は埋め立てが始まっていた。道沿いの民家も立ち退きとなって取り壊され、本格的に整地され始めたのが今年の春からで、8月には水路、田圃、水路沿いの緑がすっかり姿を消した。田んぼの畔沿いに彼岸の頃には間違いなく咲く、赤い花の列がこの秋には消失してしまっていたのである。

今年畔沿いに咲き誇る赤い彼岸花を見ることがないことが、モヤモヤ感の正体に違いないと了解したのである。

 

 自宅から墓地公園の手前までの散歩コースは、距離は適切であるのと車が通らない、加えて道端の田んぼや畑、畦道の野草を愛でることに季節を味わうことから構成されていたことがよく分かった。50年前に山を切り開いた分譲地に移ってきた頃、緑に溢れていた周辺は住宅だらけとなり、子どもがザリガニとりに夢中であった田んぼの側溝も姿を消してしまうことになった。インターチェンジができて便利にはなったが自然を犠牲にする市街化の証人としては、気持ちは複雑である。

幸い、それでもまだ周辺に緑の自然は皆無ではない。自宅から左手に進路を取れば、田圃道で散歩に適した散歩ルートがありそうなので、距離と時間を計測し、新たなルーチンを決めねばなるまい。

 

 高槻I C近辺の埋立地は、流通ターミナルや工場が予定されているらしい。計画地図によれば、広大な埋立地の自宅に近いあたりにスーパーマーケットも予定されている。徒歩5分で冷えたビールが買えるとすると、彼岸花が消えたことの残念さは軽減できるかもと罰当たりなことを考えてしまうのでありまする。

夏休み

  今夏は酷暑という表現がぴったりで、40度近い最高気温が各地で報道された。

今年は2週間の夏休みとなるように年休を3日挟む予定表を5月ごろから表示してあったおかげで(予定は教職員からも確認できる仕組みになっている)、「夏休み」の表現に沿う休日が取得できた。もっとも、勤め先は8/13-19までを休暇にできたので3日だけ休んだということに過ぎない。今年の夏は、大学によっては休みを返上して補講や実習をしているので、私たちは幸運なケースなのだ。

 

  2月からの新型コロナ感染騒動で、疲れているのが自分でもよくわかった。8月になり、休みに入れるのを指折り数える日が続いていた。東京では地域を跨いでの行動は自粛せよということであり、大阪にもそれが広がらないことを祈って過ごした。

気温は23-25度の場所で大部分の日数を過ごせたので、贅沢をさせてもらったと思っている。ともかく、自分の研究データの整理と頼まれている挨拶文3本を書くこと以外はせずに、朝晩1時間ほどの散歩を基本に、だいたいは自分で食事の支度をし(レトルトカレーやトースト、素麺などが主だけれども)、その他はゴロゴロして過ごした夏であった。

 

  60歳を過ぎた頃に、将来の夏休みの過ごし方を熱心に考えた時期があった。私の先生の年齢の大学教員は信州に別荘を構えて、夏はそこで勉強するというのが流行した(ような、気がしていた)。実際にそういう先生は多くはないのだが、数人は知っている。そのような生活は現在ではあり得ず、オープンキャンパス、会議で夏休みに休める日数は自分が学生であった頃の先生たちの10分の1ぐらいで、憧れの生活様式であった。それに近い夏休みを過ごせたと言える。ありがたいことであった。

 

  振り返れば、どうなっていたのだろうと思うのだが、自分も定年後はそうあらねばと信州に別荘地を探しに出かけたり、情報を収集したりした時期があったのだ。実際に安曇野の「学者村」に出かけ、土地を購入しかけたこともある。「学者村」と称する別荘地は信州ではあちこちに存在したし、今もある。学者が購入する物件なので、土地の規模も環境設備もたいしたものではないのだが、バブルで皆が浮かれて流行した時期があったのだ。今では大抵の学者村は朽ちかけの建物が散在する状況だと思われる。

購入しかけた安曇野の物件は、関東の私大教授が自治体と組んで始めた「学者村」の中にあり、未舗装の道路、雑木林300坪ほどであったように記憶している。教授の息子である歯医者が「学者村」の組合を束ねていたので、熱病にかかったような状況にあったのだろう、数か所の中からある物件の購入を約束し、帰阪して連絡を待った。しかし、一向に連絡がないのだ。理由は不明である。おそらくは息子が私に提示した坪単価が低く過ぎて父親の了解を得られなかったのかも知れない。父親は開発した時期からの価格の低下を受け入れられなかったのだろうか、あるいは、素性の怪しい(育ちが異質の)人間を「学者村」には入れたくなかったのか、と推察したことであった。

  帰阪後、そこに建てるべくログハウスの掲載してある雑誌などを入手して熱に浮かされていた家内も私も、返事を待っている4、5日の間に急に熱が冷め「要らない」と考えるようになった。不思議な気持ちがするほど、要らないという気持ちは大きくなった。落ち着いて考えれば、土地を造成して建物を建てるには4,000万ほどが必要で、買うことなどあり得ないのだ。今はあの時失敗せずに済んだことに安堵するのだが、あの熱気はなんだったのだろうと、今でも解せない気持ちが強い。振り返れば、結婚を決めるとき、株を買ってみようとする時など、人生にはこの種の熱に浮かされ行動をしてしまうことを何度か経験するのかも知れない。この時に、散財を思いとどまれたせいで、何とか今の生活が可能となっていると振り返ることである。

  2週間の間に、仙台に住む孫との久しぶりの再会を計画していたが、コロナ感染状況から断念したこともあり、退屈する家内に急かされて、軽井沢→草津温泉→野沢温泉と遊んだ。息子の嫁が按配してくれたホテルでGo-toを利用して2泊した。どこも暑くて閉口したが、軽井沢では普段泊まることのない1泊3万もするホテル(1万円引)に泊まった。食事抜きで、である。玄関前の駐車場はポルシェ、ベンツ、B M W、レグザスが8割以上であり、国産の安い車の私は隅っこに駐車した(自分の気の小ささを体験)。「東京だからGo-toは使わない」とカウンターでの声が聞こえ、富裕層という人達の振る舞いの実際を垣間見ることができた。これらの人達は都知事の言う地域を跨いでの外出を控えていう依頼など関係なく、広大なよく整備されたゴルフ場で過ごしているのだろう。Go-toのおかげで、知識としては承知しているが実体を知らない、一つ上の階層の存在を実体験できたことになる。

  

  もう、8月が終わろうとしている。帰阪しての翌日から4日間は息をつく暇もないと言うレベルの忙しさであったが、近年にない充実した夏休みのせいで、凌ぐことができたようである。なお、夏休みの移動は私一人が車を運転した。まだ、元気じゃないかと、自分に言い聞かせている。

 

  富裕層の語からの連想だが、昨夕富裕層出身の安倍首相が退陣を表明した。私は、この人の話し方、行動様式に嫌悪感を持つようになっていたので、「潮時」とたいした感慨も生まれなかった。ただ、五輪の招聘時や森友・加計問題などで、「嘘を言ってはならない」と言う禁を犯したこと、その他にもいくつかの件でモラルの低下を招いた首相であったことは忘れないでおきたい。

新型コロナ感染騒動下の7月:感染者発見される

 新型コロナ感染騒動は6月中に一段落と予想していたが、あっけなく外れてしまった。6月中頃から新宿周辺の盛り場に繰り出す若者の間で感染者が増え出した。大阪でも増えるかもしれないという心配は7月に入り現実となった。

変則型の対面授業を6月1日から開始していたが、7月3日(金)の授業に出ていた1年生が夜に発熱してPCR検査で陽性となったという報告が8日に入った。

 8日の午後から休校・入構禁止として、授業をやめ、学生は帰宅させる処置。保健所の指導で濃厚接触者の特定作業が始まり、夜遅くまで教職員は大童であった。同じクラスで授業を受けていた学生で座席が1.5m以内の学生と教員合計37名が濃厚接触者と同定され、9日に保健所に出かけてPCR検査を受けた。

 濃厚接触者に陽性判定者が出ると、その学生が出ていた講義で近くの座席に座っていた者がPCR検査を受けねばならないという様に要検査者は鼠算式に広がることになる。検査当日9日の朝には5名が発熱という報告があり、「クラスターの発生!」のニュースがmediaで流されることを覚悟した。幸いなことに大阪府に在住の33名は発熱者が全員陰性であった。その2日後には、熱が下がらない学生が1名いて、再検査という知らせが届き、やっぱりダメかと再度覚悟をした。幸いこの学生も陰性であった。39度近い熱が、自分も感染しているかもしれないという不安から自律神経の働きだけで生じるのだ。

 13日(月)の週に入って大阪府以外の残りの学生の検査結果は陰性との報告が届き、17日(金)のお昼過ぎに保健所からの「経過観察終了」の連絡が届いた。対面授業は教室の定員の半分以下として教室を変更して授業をしていたが、それでも講義の一つとゼミの教室はでは座席の間隔を1.5m以上にすることができなかったことで、濃厚接触者の数が多くなってしまった。ただ、教室変更の際に座席指定にしてあったので濃厚接触者の特定は迅速にできたのは幸いであった。

 

 7月13日から1週間は授業を休み、20日以降は遠隔授業に戻して春学期を当初の学年暦を1週間遅らせて終了することにした。

という様に、記録していくと大したことがなかったかのように思われるかもしれないが、職員は、「感染者が出たが、自分の孫・子どもは大丈夫か?」という類の学生の保護者や親戚からの電話への対応に追われ、僕はと言えば、「保健所に行くTaxi代は自前で!」、「再び遠隔授業に戻すのは安易すぎるのでは?」などの件で経営側とのやりとりに、内容は公にできるようなものではないが、疲れたことだけは記しておく。最終的な意思決定はいつもながら難しい。

 

 6月1日から5週間、学生は大学キャンパスに来て、友人に再会できたし、1年生は、大勢での大学生として聞く講義、ゼミという形式の授業など、大学生活の一端を実体験できたことは大きいと考えている。

春学期終了まであと2週間となったが、数日前から全国的に感染者数が急増し始め、大阪での感染者数も連日100名を超えるようになった。近隣の複数の大学でクラスター発生とmediaに取り上げられている。今、落ち着いていられるのは、遠隔授業に戻したおかげである。

 大学によっては、4月から一度もキャンパスに学生を入れることをしていないとか、7月から対面授業を始めたので9月一杯は授業で夏休みはない、と聞く。コロナ騒動での学生への皺寄せは我が大学はまだ少ないのではないかと考えたりするが、どの様な評価が得られるかは他者のすることであるし、先のこととなろう。

 

 オリンピックの開催のために休日を寄せ集めて4連休にした7月23日からは、悪評高い「go to travel」が始まったが、雨の日が多く大した経済効果もなさそうである。僕は4日間、雨の合間にキュウリ・トマト・万願寺唐辛子、ミョウガを収穫したのと、1時間ほど泳ぎに行った以外は自宅から外には出ずで、つまらんなあ、と独り言を言いながら、データの集計や解析の準備をしていた。ますます、視力が低下していることを自覚せざるを得ず、というところであった。

 

 今年は天候不純で日照時間が短く、家庭菜園は不作であった。ゴーヤは満足なものは2本しか収穫できずで、職員に配ることは叶わなかった。ゴーヤ料理は僕の担当で、スパムとのチャンプルー、豆腐チャンプルー以外のレパートリーを披瀝する機会なしであった。ただ、キューリは2本の苗で140本収穫した。連日、浅漬け、佃煮などのキュウリ料理が続いているのであります。

なかなか梅雨が開けず、気持ちも天気も鬱陶しい7月もそろそろ終わりそうである。

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