はったブログ
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喜寿の7月

 

 7月7日にイギリスのジョンソン首相が辞職する意向を表明した。その理由は閣僚を含め次々と周囲の重職スタッフが辞職を表明する事態が続いたためらしい。辞職は彼に信頼が置けないという理由という。昨年末、コロナの感染拡大中に、国民には自粛を呼びかけていたにもかかわらず自分の誕生日パーティーを官邸内で実施し、そのことについて、後日ミステイクであったと謝罪をしたものの、嘘をついたこと、そして周辺人物のスキャンダルを覆い隠そうとするような言質があった、その二つが理由であるという。

首相であっても、ともかく嘘を言う人は認められない、ついて行けないというのが、次々と辞任して行く理由であると言うのだ。嘘を言うことは、人間として許せない、信用できないという強い倫理下でのスタッフの行動で、イギリスの政治家や官僚たちの倫理観の高さに、さすが憲政の母国と改めて感心した。

 その時に、つい連想したのは数年来の安倍元首相周辺の官僚や政治家のことで、彼が明らかに嘘をついていると知りつつも、それを覆い隠し、地位に連綿とするのが官僚や政治家の一般的特性と思っていたのが間違いであることを知った。あえて声高に言うと、イギリスに比べての日本の官僚や政治家たちの倫理感の低さが嘆かわしい!

 

 こんな安倍元首相に関わる過去を想起していた頃(7月8日)に、奈良で彼が若者に銃撃され、死亡したという緊急ニュースに接した。当初言われたような政治的な意見の相違による、いわゆる政治テロではなかったようだ。銃撃をした若者は自分で銃を作り、安倍さんはシンパと信じ込んでいる旧統一教会に家庭を崩壊させられた、怨恨理由によるものらしい。自分に票をくれる者については誰であってもどんな背景を持つ人であっても構わないというような振る舞いをする政治家の、ある意味で宿命的な悲劇と言わざるを得まい。

 

 さて、この7月で元気に喜寿の誕生日を迎えた。一向に日本の社会が豊かで健全な国に育っているという感覚を持てずにいる。むしろ、自分のことにだけ関心を持ち、自分の経済的な豊かさだけを追求したり、嘆いたりすることに終始したりすることばかりが増えているように思う。7月10日に参議院選挙があったが、社会問題に直接的・根本的に対峙しようとする投票行動はいっこうに伸長せず、投票率も低く相変わらずで、自民党が大量に得票した。無力感だけが残ったままである。

 

 今の僕の関心に夏野菜がある。カボチャを作ってみた。2本の苗を買って、1本は昨年までゴーヤを育てていた場所に植えた。土地は痩せている。以前はどうしようと言うくらい採れたゴーヤもここ数年収穫が激減していたし、ゴーヤチャンプルー料理も食傷気味なので、今年は育てるのをやめにした。別の1本は畑の端っこに植えて、塀に沿わせようとした。畑のカボチャは順調に育ち、野放図にみるみる蔓を伸ばし、一方の先端を止めたが、逆方向に伸びて手が届かない。月桂樹の木を覆い尽すまでになった。YouTube由来の知識で、受粉をしないとカボチャはならないと、その日を待っていたが、雌花と雄花とが同時に咲くと言う機会は極めて少ないことを知った(何本も苗を育てている場合には問題はないのだろうけど)。

 雌花が咲いている朝に雄花は開花せず、雄花が数多く咲いているのに雌花はないという状況が連日続くのだ。不十分な開花レベルで、トライした受粉は結局ほとんど成功せずじまいだ。雄花と雌花が時を同じく開花しないとダメということは、若者の結婚事情にも似ていると思ったことである。しかし、畑の苗からは一個のカボチャが赤ん坊の頭大に育ち、茎のコルク化も進み近日中に収穫できそうである。痩せ地の一本は頼りなげにゴーヤ用のネットを伝って成長中である。この蔓も僕が半ば強引に受粉させた雌花は成功せず、知らないうちにテニスボール大のカボチャができている。

 豊かな土地であればカボチャは実るというわけでもなく、豊かでない環境でもきちんと育つことがあるということだ。初めてのカボチャ栽培からの教訓である。先月末の猛暑で動きの悪かった蜂たちの活動が、7月に入ってようやくが活気を帯びてきたおかげだろうが、一人でに痩せ地のカボチャは受粉したようである。自然界というのは不思議なものである。

 

 僕自身はカボチャが好物というわけではないが、家内は時々かぼちゃを購入したりするので、今年の夏の野菜栽培はまあまあ合格と評価してもらえそうである(将来の食糧難の場合に備えても、カボチャ栽培技術をマスターしておかねばならない)。2本しかないキューリは今年も順調で、現在までに約80本を収穫し、キューリ料理のレパートリーはそんなにないと言うので、職場に配達する日が続いている。セロリも順調であるし、パプリカも順調だ。パプリカは黄色や赤にするまでには40-60日かかると言うので、観察中。ミントも大きく育ったので、ラム酒を買いに行って、ヘミングウェイが愛したというカクテル「モヒート」を楽しんでいる。暑い日にはジントニックよりも旨く感じられる。

 

 このように、古希の誕生日を猫の額ほどの菜園を相手にカボチャの生育を見守りつつ元気に過ごせている毎日を、有難いと思っておりまする。

出版ラッシュ?

 

 どういう巡り合わせか、自分が関わる本の出版が(大げさだけど)ラッシュ状態なのだ。

 先だって、「左対右 きき手大研究」の文庫本が化学同人社から発行された(5月15日刊)。この出版社が過去に選書で出したものの中から選び出して、文庫スタイルで始めたシリーズに入れてくれたものである。選書の内容ままでも良いという話だったが、出版後10年ほどの間に勉強した分を加筆した。

 その後、NHKが監修して「チコちゃんのギモン365」が7月1日刊で出版された。宝島社が出版元で、初版3万部という。僕が関わった回の記事のチェックをせよということで原稿を見た。印税はありませんということであった。放送5年分から厳選した、放送回に入れて貰えたことで満足だし、献本を孫と自分に贈ってもらったので文句はない(4年生の孫が届いた本を読めたと言ってきた)。

 この種の話に対応している頃に、日本文芸社からコンビニなどで販売するという「図説 左ききの話」を出すので、監修してほしいという依頼があった。7月半ばに刊行される予定で、アマゾンではすでに予約注文を始めている。

 実は本の監修という作業依頼は二度目で、最初の仕事は「騙された?」と思っているので、迷ったが編集者の対応が誠実だったので、「まあ、いいか」と引き受けた次第。監修本は、翻訳などを専門家でない語学の達者な人がした場合に、誤訳がないかを確認するのがたいていの場合で、友人もしているので、興味半分で引き受けた次第。

 最初の「騙された?」話は、僕の本が素人には難しいので分かりやすくしたいと言うことであった。自分の能力不足を補ってくれて、お金が入るのなら悪い話ではないと、卑しい魂胆があったのは否定しない。

 「騙され本」はアマゾンで検索すると、色も鮮やかな表紙でいまだに出ている。その度に不愉快な記憶が蘇るのだ。「選ばれし民…」というタイトルである。「騙された?」と思っているのは、このライター(2010年当時30歳代の男)は、日本文芸社の提案と同じように、化学同人選書のダイジェスト版を作りたいということであった。出張ついでにこのライターと会って、彼が送ってくる原稿に目を通す約束をした。正確に覚えているが、印税を提供するということであった。

 しばらくして1、2章分がメールで送られてきた。加筆修正をして送り返すことを2度ばかりした。「言い過ぎの部分」が多いので、直して送り返したのだった。その後、ピタッと原稿が送られてこなくなったが、自分の仕事も忙しいし、出版をやめにしたのだろうと思っていた。ところが、半年ほど経過した頃に、知人から僕の本が出ているという。慌てて梅田の旭屋本店に行って探すと、一冊だけ「選ばれし民…」の本が書架に見つかった。帯を著名な博物学関連のタレントが書いており、僕の名前は帯に隠れて見えないように小さな活字で印刷されていた。中身を見るとイラストがいっぱいの趣味の悪い構成で、とても自分の名前を冠するのは困ると思える(大したものではないけど)品物であった。

 僕のところには発行された本がきていない。何部くらい印刷されたのかももちろん知らせてきてはいない。

 文句を言わねばと、出版社を探すと(この出版社はHow toものや自己啓発本を電車の窓に貼り付けているのをよく目にしていたのだったが)、倒産したのか、もう存在しなかったのだ。どこにも文句を言って行く先が無い状態のままで、10年以上が経過している。

 ハッキリ言えるのはこの本は、僕は監修をしていない。内容に責任は持てない、というのが最初の監修にまつわる失敗談である。ライターも修正箇所が多くて対応が嫌になったのだろうが、音沙汰なしは、ダメである。追求する気はもうないが、アマゾンからは消してほしい、どうやれば良いのかわかる人は教えてい下さい。

 

 今回の日本文芸社の記述内容は、ライターは素人向けの書き方で間違いという箇所は数箇所あったが、ちゃんと目を通したので、内容に一定の責任を持てるものである。コンビニで見かけたら、購入ください。

 

 それにしても、きき手や左右脳の働きの違いの話題がこんなに長く続くのに驚いている。心理学研究のたいていの研究テーマは10年ほどわっと盛んになって、大勢が研究し始めるとすぐに消えていくものなのに、1974年にラットの左右脳の研究論文(左と右に異なる記憶を植え付けたら、ラットは困ってしまう、という内容)が初めて国際誌に掲載されてから46年も経過しているのに、消えていかない研究テーマとの巡りあったことになる。運がよかったとしか言いようがない。改めて、この研究テーマに導いて下さった平野俊二先生に巡り合った幸運を感謝したい。

 

 以上、2月ほどの間に僕が経験した出版ラッシュ(?)で、たいそうな言い方だが、キャリアハイの経験である。

 

 先ほどまで、MLBの大谷選手が、8回13三振奪取、ヒット1本6勝目の活躍をT Vで見ていた。前日2本のホームラン8打点で暴れたのに。キャリアハイというのはこういうのを表現する用語であろう。まさに、「オータニさん、スゴイ!」である。

連休を楽しんだ。お知らせも。

 連休には北信州にお酒を探す旅をした。野尻湖近くの小さな酒蔵(高橋助作酒造店)で一昨年見つけた「松尾」という酒が欲しかったのだ。ずいぶん遠いので、息子の情報では、信州の酒専門店が上田市にあるというので、まず、そこで探すことにした。目指す、「松尾の大吟醸」はなかったが、珍しい知らない酒がたくさんあり、店主の勧めもあって12本も珍しいものを購入した。自分が飲む量はそんなに多く無いので、持って帰って講釈を垂れながら知人に配ることになる。

 昨日読み終えた開高健を紹介する本では、彼は58歳で食道がんにより亡くなった。タバコの吸い過ぎと暴飲暴食が原因であったらしい。飲み過ぎには注意しなければならないが、最近では毎日飲むけれども一合の半分も飲めない。誰か相手がいないと飲めないタイプの酒飲みなのです。

今回の旅行では、葉わさびの醤油漬けを作りたいと、瓶詰め容器を大阪で整えて持参した。昨年、葉わさびが大量に売られていた店に直行するも目的の品はなかった。確認すると先程大量に購入していた人がいたということであった。わさびの醤油漬けの瓶詰めを購入し、食べてみたが私の記憶にある味ではなかった。日本酒のアテには水あめが少し入っており甘すぎたのだ。

 葉わさびの醤油漬けにこだわるのは、最初に食べた時の味の記憶からである。院生の頃に、山口県の山林労働者の検診手伝いに山奥に入ったとき、お茶請けに出され食したのが最初である。それ以来、鼻にツ-ンとくるあの香りと、シャキシャキした触感が忘れられないのだ。作り方を教わって、春の時期に葉わさびが売っているのを見ると自分で作った。新鮮な葉わさび小口切りにして熱湯をさっとかけて花カツオと醤油を懸けて密閉。冷蔵庫で一晩待つ。あくる朝密閉した瓶を開けると、わさびのズーンとする香で涙がぽろぽろと出そうになる。私の大好物の一つなのだが、どう言う理由か、最近では近くのスーパーで葉わさびを見かけない。

 帰りの朝、もういっぺん野菜の直売所によって確かめたが、入手できなかった。せっかく購入してきた密閉ビンは無駄になったが、すべてのことが思い通りになるというのも、怖いので、来年を期すことにしている(来年元気という保証はないけど)。

 

 上田市の酒屋を後に、須坂郊外の雷滝を見学することにして、新緑の北信州路をドライブし、前日の積雪が解け水量が多い滝を堪能し、その奥にある山田牧場を訪ねた。息子が小さかった頃に山田牧場でスキーをしたことがあるので、その後どんな様子か気になったのだ。最近の親と違って、子どもを旅行に連れて行ったことは数回しか記憶にないが、大学の教え子が毎冬バイトをしていたロッジに行ったことがあるのだ。僕はボーゲンしかマスター出来ずじまいで、教え子に呆れられたのを思い出す。

 昼時で山田牧場には何か食べるものがあるだろうと、近くのレストランで昼飯を食べた。このスキー場もかなりさびれている様子であった。40年程前にここにスキーに来たことがあるとおかみさんと話していたら、世話になったロッジの持ち主(2年ほど前に亡くなられたとは聞いていた)とは親しかったということであった。ロッジがまだ残っていると聞いて帰路、写真を撮ったことである。

 この地区はスイスの田舎のまちと交流があり、スイスのホルン吹きを招く行事が10年ぐらい続いたそうである。夏に来たときにロッジ「カナディアンクラブ」の主人(天王寺高校出身の女性)が、スイスのホルン吹きの人たちが泊まっており、「役場の〇〇さんが朝ご飯を一緒にしたいのでちょっと食べるのを待っているよう」に通訳してと言ってきたことがあった。ドイツ語しか分からないと言うことであった。大学の先生だから当然できると思われたのだろう(彼女の想定する昔の大学の先生なら可能なのだろうが)。ドイツ語で朝食はフリースティックと言うはずであるが、その時頭に浮かぶはずはなく、「朝」、「食う」、「待つ」、「〇〇サン」、「来る」と単語の原型を思わず並べた。ホルン吹きの客は意味を理解してくれて、僕は面目を保つことができたことを今でも覚えている。一緒にいた学生らにドイツ語ができないことはバレたが、度胸だけは誉めてくれたことを思い出す。

 レストランでの会話から40年以上前の記憶思い出す事ができたのだから、長駆運転してきた甲斐があったということである。葉わさびをどこかで売っていないかと聞いてみたら、自家製の「甘酢漬け」と「塩漬け」の葉わさびをオマケに賞味させてくれた。初めて味わう物で、悪くはなかったが、妄想上にある「醤油漬け」を超えるものではなかった。

 という訳で、「酒」と「葉わさび」を求めて、往復1,100Kmの運転を一人でやり遂げたゴールデンウイークであった(7割方はオートドライブのお陰だけど)。

 

 嬉しいニュースがある。2003年に発刊した神経心理学の本(医師薬出版)が増刷を知らせてきた。11刷となるわけで、何処かの誰かが教科書に採用してくれているに違いない。このブログの読者の中にそういう人が居られたら感謝申し上げたい。もう一つは、文庫本「左対右 きき手大研究」が新たに5月末に化学同人社から発刊されることである。13年前に「選書」で出したものに加筆した文庫本である。「選書」はいくつかの新聞書評に取り上げられ、評判がよかったのだが、ベストセラーというわけには行かなかった。

 この文庫本(D O J I N文庫)をブログの読者に献本してもいいのだが、幸か不幸か、住所がわからない。申し訳ないけど購入していただけるとありがたい。印税を増やしたいというやましい気持ちはありませんのでよろしく。

「late-in-first-out」or「first-in-late-out」?

 加齢に伴い認知機能が損傷された後でも情動機能は保持される。例えば、見当識が無くなった人でも喜・怒感情は保持され、介護者にセクハラめいた行為ができ、食欲は旺盛などというケースがそれである。脊椎動物の進化過程の中で、早期に発達した呼吸器や消化器系などの脳幹レベルでのコントロール機能は壊れにくく、系統発生的に後から進化したと考えられる前頭葉機能は加齢プロセスで脆弱であると指摘する際に、モデルというのもおこがましいが、「造成地モデル:新しく造成された土地(脳部位)は古くからの地盤(脳部位)に比べると脆い」と説明してきた。

 この考え方と同じ仮説を、最近の脳画像研究論文に見つけた。そんなに勉強家ではないので、何か新しい研究はないかと日常的に文献検索をして見つけたというわけではない。たまたま、投稿した論文の査読者から(得意げに)これこれの文献を考察部分に加筆せよと言って来た。遺伝学、内分泌学などの学術誌に掲載された論文を教えてくれていたので、仕方なく、探し出して読んだ論文に記載があるのを見つけたという次第。    

 ポルトガルのAna Coelhoらの論文で、J. NeuroSci. Res, 2021に掲載されたものだ。Wileyという大手出版社の電子版でインパクト・ファクターは4.8界隈を年毎に前後する一流誌である。

 内容は、新しい脳画像研究法で脳内の神経ネットワークが加齢に伴ってどう変化するかを、縦断的に検討したものである。脳画像研究は、脳のいろいろな部位のごく短い時間内の血流やブドウ糖消費等の多少を計算して、カラー表示する機能画像研究法(fMRI)が一般化している(と言っても、日本では医学部や病院にあるという意味で、近年雨後の筍のようにあちこちの大学にできた心理学部に設置され出したということではない。億円単位の設備だから日本では無理だが、中国は例外)。これは、細胞体の活動を対象にした手法だが、最近10年の脳画像研究に現れた新しいやり方は、神経線維の連絡具合を計算して、脳内の神経連絡ネットワークを画像表示する方法である。詳細な仕組みをわかりやすく説明する能力はないが、神経細胞の軸索線維の水分の流れる方向を検知するものらしい。当然コンピュータが活躍するのだが、どのようなアルゴリズム(計算手続)で画像化しているのかは僕にはわからないので、正しく計算できているの?と疑う気持ちがないわけではないが、新しい研究法として論文は急激に増加している。

 この脳内の神経線維のネットワークを解明する手法を使って、左右脳間を繋いでる交連線維と左右それぞれの脳内部位を連絡している連合線維との関連を縦断的に検討し、加齢に伴うプロセスでは連合線維が脆弱、という趣旨の論文である。彼女らの論文には「Structural connectivity decreases were mainly due to loss of association fibers, an observation which is consistent with the late-in-first-out hypothesis」とあった。

 前述した土地造成と同じモデルが記載されているのを見つけたということである。彼女らの論文では「late-in-first-out」と記載されており、「パーティか何かに、遅れてきた奴ほど早く帰っちゃう、こと?」かと考えたりしたが、参考文献に記載の原典にあたることにした。たどっていくと1999年のRaz, N.の論文が初出であり、それは脳画像に関する百科事典に掲載されていた。この事典は大手出版社から2015年に出され、値段は1,950ドル2,658ページであった。24-5万円もする本なのだ。その中の10ページ足らずを見たいだけなので、ちょっとした疑問に対応するには法外すぎる値段だ。あきらめてRazの別な論文を探していたら、幸いなことに記載を見つけ、大金を使わなくて済んだ(こういうプロセスは幾つになっても楽しいものです)。

 論文を読んでいくと、そこには「first-in-late-out:後で発達する脳の領域は、初期に成長する領域よりも加齢に伴う変性に対して脆弱」モデルと記載があった。「late-in-first-out」と「first-in-late-out」どちらの表現も同じ意味になるのかも知れないが、インとアウトの順番が違うのだ。「first-in-late-out」であれば、最初に入場した人は出るのが後になるということで、モデルの説明と合致する。

 

 このモデルに行動学的なデータが合致するかどうかは、20年間の縦断的データを有しているので、検討が可能である。データをいじる作業を続ける課題が見つかったという気持ちになったことである。最先端の脳画像研究で確認したのなら、それで十分!ということではない。わずか数ミリ秒間のごくわずかの神経線維の変化を、正しいアルゴリズムで計算されているか分からないのである。最終的な出力である人間行動で確認しなければ!と疑い深いのが、行動科学の研究者には染み込んでいるメンタリティなのだ。

 

 ここで教訓。改めて言うほどではないが、原典に当たることは大事。このモデルを行動学的な検証する場合には、ポルトガルの研究者の論文を使うはずで、そのまま引用していると恥ずかしい目に遭いかねなかった。一流の学術誌でも、査読者がごく初歩的なミスを見逃すこともあるのだ。どこかで思い違いをして彼女らは「late-in-first-out」と思い込んでしまったに違いない。引用の際に間違っては先達に失礼というものである。間違いは、一流の研究者もいろんなレベルでするものなのだ。

 

 25年ほど前には、前頭葉機能を使い続けないとダメになることの説明には「休耕田モデル」と称して、耕し続けない田圃はすぐ雑草に覆われる事実を近所の田んぼの写真をスライドにして授業に使っていた。学生は休耕田という単語を知らなかったので、がっくりきたことも覚えている。これは「use it or lose it」と英語で言うことや「廃用性障害」と医学分野では言うこともあとで学んだ。自分で見つけたように思いがちな説明も、どこかで同じことを別な言い方で記載しているわけで、思い上がってはいけないというのも教訓である。

 

 ともかくも、これからは「造成地モデル」は使わずに、順番を間違えないように気をつけねばならないが、僕はfirst-in-late-outを使うことにしよう

新学期が始まった

 変則形式であったが、3月23日に卒業式を無事終えた。変則とは午前と午後の2回に分けて人数減らして密着を減らす工夫をしたこと、保護者はライブ配信視聴、そして、時間短縮という意味である。5分程度で式辞を、という条件を満たして文章を作るのは結構大変であったが、ともかくも終われてホッとした。その次の週から他校園での卒業式、入学式が続いて忙しかった。幼稚園、高校、短大の式典にも出ねばならないためである。座っているだけの仕事ではあるが、礼服を着なければならないのは面倒で、出される弁当もほぼ同じ内容で、贅沢は言えないが食傷気味となるのである。4月1日は、学園職員の辞令交付式、短大入学式、大学教職員向けの所信表明、教員向け研修会をこなした。

 

 4月4日(月曜日)には大学の入学式をした、ここではモーニングを着るので、午前の式を終わっても午後の式典まで特別なシャツを着たままでで過ごさねばならず、そしてその間に保護者会での挨拶が2回入るので、疲れはしたがともかくも無事終えることができた。

 

 大学の卒業式と入学式は遅刻ができないので渋滞を避けるために7時前に自宅を出ることにした。午後の入学式が終わった4時頃には「疲れた。早めに帰る」と事務方に知らせて駐車場に向かったが、途中で要件を指摘されてまた戻った。それでも5時5分ごろには帰路に着いた。忙しい週だったのが終わったので、どの酒を飲もうかなどと考えつつ車を走らせたが、高速道路で渋滞に出会い、今までの最長記録、4時間5分もかかって9時を回っての帰宅となった(いつもは70分ほどで行き来できる)。トラックが横転して足場が道路を塞ぐ事故のための渋滞であったらしい。酒を飲む気力もなく、すぐ就寝した。眠りは良いものではなかった。

 渋滞はたまたま入力したナビが、「75分くらいかかります」と言う。そんなにかかるものかと、横着を決め込んで走行中の近畿自動車道から「阪神高速に入れ」とか、「東大阪J Cで降りて、13号線におりろ」という指示を無視して走っていると、途中で全く動かない状態が20-25分✖︎2回、あとは6キロほどでのノロノロ運転で、結局は4時間越えになってしまったのだ。ナビは「2時間経ったので休憩しましょう」は音声ガイドするが、3時間経過、4時間経過は文字表示しか出ない。「言うこと聞かん奴には言っても無駄だと」いう仕組みのようだ。それと、ナビは高速道を6キロの速度で走る時間が一定を過ぎると、高速にいるのか地道にいるのかが分からなくなるようで、途中から変な地道の画面が現れることも発見した(発見に意味はないが)。

 

 翌日は翌5日も6日も行事や会議がいっぱいで、疲れが出るのではないかと心配したがほとんど何もなく、「歳の割には体力がある」と、密かに自慢気味でいた。7日(木曜日)は幼稚園の入園式であった。木曜日は自宅研修日にしており通常ならゆっくりするのだが、新園長となったので、気を遣って大学に出た。30分ほどの式典を終えて部屋に戻った頃から急に背筋が痛くなってきた。なぜだろうと考える間も無く、渋滞での運転でハンドルを持つことでの背筋の過労のせいであることを理解した。疲れは翌日も翌々日も感じなかったのだが、60時間ほど経過して出てきたのだった。「歳の割には体力がある」のは間違いで「歳相応、いやそれ以上に体力は無くなっている」のだ。弁当を食べずに速攻、帰宅したことである。痛む背中で翌8日(金曜日)も高校の入学式に出た。

流石に、土曜日は背筋痛も消えた。3月末から4月初めの週は体力的にキツイ。今年度が3期目の任期最終年なので、なんとか最後まで体力が持つことを願うしかない。ともかくも、新年度の1週間は何とも幸先の悪いものとなった。

 

 体力の自覚症状の他にも、新たに老化の特徴だろうと思うことがある。それは記憶についてだ。まだ、単語を忘れるとか事象を思い出せないというような症状はないと思っているが、過去の事象についての心的距離(時間知覚)に変化が出てきた気がするのだ。つまり、数時間前の事象がずっとそれ以前の事象のように思えるのだ。10時の式典を終えてしばらくすると、それはずっと以前のものであったように思えると言う具合だ。認知症が進んだ老人が、「飯まだか?」と食べ終わってすぐに言うとエピソードを聞くが、案外食べ終わってからの心的時間が長く思えるようになったせいで、食べた事実を忘れているのではないのかも知れない。とすると、僕も認知症が始まったのかも知れない。別に個人的には嫌なことではなく、それもいいかも知れないと思っている(周囲は困るかも知れないけど)。自分が理解できなければ平気でいられるはずだ。類似の時間記憶の歪みの文献でも探そうかな、と思っている。

 

「幸先は良し」とはいかなかったが、新しい学期が始まった。物理的時間は定常に進んでいるようである。コロナ感染症の再拡大なしで春学期が終われることを願うばかりである。

何でもありの世界か?年度末に嘆く。

 ウクライナにロシア軍が侵攻して3週間以上が経過した。2-3日でクリミア半島の時と同じことが起きるのだろうという大方の予測に反して、まだ、キエフは陥落していないようだ。「まさか、侵攻しないだろう」という予想は希望的観測に過ぎず、何でもありうることが起きる世の中になってしまった。戦前の日本陸軍が「軍備や産業に欠かせない燃料資源を確保するのは、自衛のための行動だ」とする理屈で東南アジアや中国北部に侵攻したのと同じように、ウクライナの現政権を除くのは「自衛のための行動だ」という理屈らしい。

 

 ロシアのプーチンにも自分に都合の良い理屈はあるのだろうが、どんな屁理屈があるにせよ他国に侵攻した事実は確かで、彼の判断は非難されねばならない。それにしても、政治に携わる連中は平気で嘘をつき、そのうち自分でそれが嘘でないような気がしてしまうのか、その時々で都合よく振る舞うことに長けた人物であること、子どもや女性が逃げ惑ったり、死傷したりしていることにも何の後ろめたさも感じない人格特性を持つ人間であるのは、疑うことのない事実のようである。何はともあれ、権力にしがみつく老人の妄動で若い兵士が死んだりするニュースを見聞きするのは堪え難い。

 

 ロシアを含む東欧諸国は、ロシア正教の信者が多く、元は同根なので、ローマカトリックと大した違いはないはずだ(信者は違いを列挙するだろうけど)。プロテスタントの教会と違ってロシア正教教会はリトアニアのタリンの街で確認したが、豪華絢爛である。離婚も難しいはずだ。ローマ帝国が東西に分裂した時期に、西側がローマ・カトリックに東側が正教会(ギリシャ正教)としてカトリックの教義の本質的なもの(神の教えを信じて称え、人を愛する)を遵守する形で分かれていったと記憶している。無神論を標榜するソビエト連邦時代には軽視されていたロシア正教の再興の担い手の一人がプーチンだったはずで、「地獄行き」の不信心者と呼ばねばなるまい(政治的に都合が良いという理由で信者ズラをしただけなのかもしれないけど)。

 

 たまたま見たユーチューブの番組で、ケニヤの国連大使の短い演説には、品性や理性を見つけ、安心したことだ。彼は、帝国主義へのノスタルジアに浸って行動するプーチンを非難するものであった。曰く、アフリカは文化や言語、人種で国境が決まったわけではなく、パリ、ロンドン、リスボンで植民地を持つ旧主国が勝手にひいた国境線を受け入れ、国連憲章を遵奉し国家の運営を行なっているのに、先進国が人種だ、言語圏だとノスタルジアに染まって、侵略をするのは何ってことだ、という趣旨のことを述べていた。同感である。

 

 6-7年前に横浜の会議で同じテーブルを囲んだ女性一人しかウクライナに知り合いはいない。名刺を交換したときにウクライナはユークレインと英語では発音することを知ったことでその人を覚えている。その時もウクライナでは社会情勢が大変なのに会議に参加して大丈夫なのかを聞いた記憶がある。無事であることを祈るしかない。応援に出かけることは無理なのでカンパで勘弁してもらうしかない。

 

 先ほど、東京に住む従兄弟たちと合流して賑やかに温水プールで遊ぶ孫たちの動画が送られてきた。幸せそうで嬉しいが、ウクライナの惨状を知らせるT V画面との格差に、何とも言えない気持ちが起きる。

3月も終わりに近づき、明後日は卒業式である。コロナ感染状況下で不自由を了解し学業を続けてくれた学生、それを支えてくれた教職員に感謝の言葉を式辞では述べることしている。

 

「明日世界が滅びるとしても、今日あなたはりんごの木を植える」、開高健がどこかに書いていたフレーズが思い出される、年度末であります。

コロナ感染(オミクロン株)下の生活

 

 しばらくこのコラムを書くのから遠ざかっていた。令和4年に入って初めて書くことになる。頂いた賀状にはこのコラムを見て僕が元気でいることを確認しているという人が複数いたので、早く書かねばと気になっていた。

 結論としては、相変わらず元気にしていますのでご安心下さい。年末年始も例年どおりに過ごました。有り難く思っている。

 

 10月末のコラムでは、コロナの感染状況もほぼ終わりそうだと希望的観測を記載したが、その後の状況の変化は著しいので記録しておく必要があろう。

 大学では学生の感染陽性者はそれ以前の体調変化を含めて報告するようにしてあり、おそらく不安な状況を学生支援センターに電話したり、メールしたりすることで繋がりを確認したいという思いかもしれないが、学生たちはこまめに連絡してくれている。

 11月と12月はそれぞれ1名の陽性者が出ただけであったが、1月に入って、それも成人式以降に陽性者が爆発的に増加した。1月は73名であった。変異したオミクロン株の仕業らしい。2月に入って昨日までは、11名と減少傾向はうかがえるが、猛威を振るっている。感染の広がりは全国的で、子どもへの感染が急増というのがここ数日の傾向である。

 幸い、大阪府からの学校向けの対応策依頼が来た時には学年暦を終えていたので、教学面では混乱はほぼゼロで済んだ。大学はもう春休みに入ったので、3月末までに感染状況がピークアウトしてくれることを念じるだけである。

 

 自分自身の第3回目のワクチン・ブースター摂取は来週日曜に予約している。かかりつけ医からの指示に従っているだけで、他人より早く打ちたいという気持ちはない。蓮如が言う様に、「万歳の人身を得たりということを聞かず。今に至りて誰か100年の形態を保つべきや」は真理だと思っているので、できることはするが、なるがままで構わないのだ。

 

 12月と1月は仕事が忙しかったのだ。仕事というのはアカデミックな部分のことで、以前に出版した本を文庫本にして再版してくれるというので、2-3章分の加筆をしたことと、9月に投稿してあった2篇の論文の修正対応に苦労したからである。インパクトファクターがついている雑誌だけあって、査読者の指摘には合理性がある。面倒だという気持ちと、採択されれば77歳での論文になるぞという、相反する内言の葛藤のもとでの作業なので、進捗具合は捗々しくなかったのだ。昔なら、2-3時間集中できることもあったが、今では1時間が精一杯なのだから捗々しくなかったのは当然である。やっと、今週の火曜に投稿した。いつまでこんなことやっているのかと思わないわけでもないが、知的な作業を継続するのがsuper-agerへの道であると、論文にも書いたりしているので、言行不一致と言われないための作業である。

 

 正月二日には長男夫婦と大三島(今治市)を訪れた。何の事前の調べもなく、偶然に大山祇神社に参詣し、樹齢2600年と3000年という楠の巨木を2本見た。一見する価値のある樹木である。子どもと一緒に過ごせる関係を感謝せねばなるまい。

 

 今日2月11日は孫娘の9歳の誕生日で、一緒に祝ってやることは叶わないが、Face Timeでケーキを見せてもらう約束である。そう言えば、私たち夫婦の52回目の結婚記念日でもあるが、我が家での特別な予定はない。

 昨日酒屋で見つけたグレンリベット12年ものシングルモルトを、スコットランドのこの醸造所を見学した際に購入したロゴ入りのグラスを探し出して、舐めることにしよう。好きなラガヴーリンの16年ものと比較してスコットランドの東と西の産地の差異を確認するために。

元気か、一人で歩けんの? (年の瀬に)

 

 

  久しぶりに早く仕上がった年賀状を投函しようとしていた日に、大学時代の友人M君から喪中ハガキが届いた。奥さんが5月に亡くなったという。彼と亡くなった奥さんとは家内が同じ専攻だったので、子供が生まれる頃までは、互いの家を行き来して、家族ぐるみの付き合いをしていた。その後40年以上は、年賀状で近況を知らせる付き合いと密度は減っていたが、賀状には「逢いたいね」という決まり文句が書かれており、退職すればそのうちにと気にはしていた。

 家内が彼は友達が少ないから、落ち込んでいるはず。電話したらというので、40年ぶりに声を聞いた。

 

  昭和39年度の文学部新入生は90人で、男女比は半々だった。文学部には11専攻があり、恵まれた教育環境であった。男子学生ではM君とそのまま大学に残って地理学の教授になったY君と僕だけが「現役3人組」と周囲から呼ばれて、仲が良かった。浪人が多い大学だったので、1、2歳違いでも大人びた新入生に気後れして、3人はつるんでいたのだろう。今の学生のように飲みに行ったりすることはなく、口数の多い方でない3人はキャンパス内で話をしていただけである。M君は美術部(青桃会)に入っていた。米軍キャンプの撤収跡に残された、かまぼこ型の兵舎(ウナギの寝所と呼ばれていた)の一角にある木造の古い部室で話し込んでいたことを覚えている。どんな内容であったかは思い出せない。大学のキャンパスは米軍が駐留していたものが返還され、建物の壁には英語のペンキ跡が残ったままであった。文字は深い緑色であった気がする。

 

 電話は最初は僕のことを同定出来なかった。不信電話と思ったようで、「声が変わったから、分からなかった」と言うことであった。お悔やみを言うと、「まあ、もう」と落ち着いているようであった。

  亡くなった奥さんは、いつもショートカット姿で目立つ存在であった。2人がどうして仲良くなったのか、理由も覚えていないが、中・高の教員になる者が多かった中で、2人は共に小学校の教員となった。その後、神戸で小学校教員を全うしていると思い込んでいたが、奥さんは「55歳頃から若年性アルツハイマーとなり、75歳で亡くなる前の3、4年は僕を誰か分からなくなっていた。病院に行くと守衛さんか警察の人が来たようにみられていたわ」と言うことであった。この病気は映画やドラマで見かけて若干の知識はあるが、約20年間に徐々に進行する奥さんを見守り、身送るまでのM君のことを思うと、「大変やったなあ」としか、言う言葉が浮かんでこなかった。

奥さんは57歳で途中退職し、自分も60歳を待って教員を辞め、白馬に家を買って、春から秋まではそちらで2人静かに暮らしてきたと言うことであった。白馬に行くときは日本海回りなので、北陸道に入って長浜のあたりを通る時、僕の郷里であると言っては「逢いたいね」と言ってくれていたらしい。事情を知っていたら、何をさて置いても逢ったのに、残念としか言いようがない。

 

  彼は、「ところで、奥さん元気?」と聞いてきた。「元気や」と答えると、「自分で歩けてる?」と聞いてきた。「ああ」と答え、何言ってるの?と、予期しない問いかけに一瞬戸惑ってしまった。

彼にとって、「元気である」と言う基準は、「自分の足で歩けるか」であったのだろう。おそらく、長い年月、車椅子やベッドで過ごしたであろう、奥さんとの生活で獲得した基準に違いない。僕は、一瞬でも、「何言っての?」と思った、自分の想像力の欠如を恥じる気持ちを2日後の今でも拭えずにいる。人にはその人の生活経験の中から獲得した基準がある、相手が言葉をどのような定義で使っているのかの推論が適切にできるかは重要で、それが想像力で裏打ちされるコミュニケーション能力なのである。自分にはそこそこのコミュニケーション能力があると考えていたのは間違いで、まだまだ未熟なことを恥じたことである。

 彼は「大腸癌やって人工肛門をつけている。早稲田に入ったけどオーケストラばかりに熱中した独身の息子と2人で何とかやっている。まあ、寂しいとことはない」と言うことで、安堵はできた。僕が今の仕事を終えたら、ゆっくり、信州で積もる話をしようと約したことである。

 

 2週間ほど前に、名大時代の院生であった、優秀だが繊細すぎてすぐ挫けがちの男が、新宿に税理士事務所を開業したことを知らせてきた。彼は躓きそうになると僕のところに来ては色々と話をし、少し一緒に飲んでやると、次のステップに移れる、気になる教え子なのだ。これまでの20年間に3級の簿記試験を高校生と受験したことや税理士になってからのいくつかの職場でのトラブルの経緯、海外法人での勤務状況から開業までの振り返りを長文の資料で伝えてきた。「何とかやっていけそう」とあった。事務所の写真や自分のHPなども送信してきた。短く、“よく頑張った!”と返信し、涙腺を緩めてしまった。

明日は沖縄にいる名大時代の学生が逢いたいと言うので2人ほど当時の学生を呼んである。

 

 と言うように、年の瀬にあたり、自らの未熟さを知ると共に、教え子に頼られたり逢いに来てくれたりする幸せと、歩ける以上の元気さを持つ家族とに囲まれて、改めて自分の恵まれた環境を味わったことである。

 

 感謝の気持ちを仏教では「知恩」、「感恩」というがその先は「報恩」らしい。来年からは恵まれた老後に感謝するだけでなく、「報恩」を目指したいが、今しばらくは幸福な気分のままで、時の過ぎゆく感覚を噛みしめていたいのであります。

微かに陽射しが漏れてきた

 学生からのコロナ感染を報告は最近4週間ゼロとなった(学生は律儀に報告してくれているようで、最近は副反応での体調報告がもっぱらである。小さい大学だからできることかもしれない)。

ピタリと感染の広がりが止まったという印象である。これは全国的な傾向で、どうしてだろう?と問いたくなるが、専門家でもよくわからないという。約100年前のスペイン風邪も3年で終息したので、自然界の摂理なのかも、と思ったりする。

ワクチンを打っていない学生もいるので、感染状況が下火になったかと言って、今まで通り授業体制をという訳にはいかない。密集を避け、マスク着用、手指消毒を徹底し、対面授業も出来るものだけに、という方針を変えるわけにはいかない。薄曇りの状況は不変である。来年度は通常の状態に戻れることを祈るしかない。

 

 薄日が差してきた感がするのは個人的なことで、昨年投稿した2論文の修正指示に基づいてのやり取りが、昨週に無事終わり、掲載が決定のメールが来たからである。2022年にも研究業績が加筆できるので、嬉しい。

 

 いつまでそんな事をしているのかと言われそうだが、研究者である業態を保つか否かは僕には重要で、若い人に「論文を書け」と偉そうに言えるからと、まだ加齢に伴う認知機能低下はそれほどでもないと確認できるのが理由である。要は自己満足だけで、誰も褒めてはくれないし、賞金が出るわけでもない、ましてこの年齢になり、昇任などに関係はない。

 

 研究論文を書く作業は、掲載が決まれば愉快!となるが、それまでプロセスはストレスフルなもので、大方の人は40歳代で抜け出す。学務が忙しくなったり、子育てや家庭での仕事が増えたりすることを理由にして、作業中止を自己合理化する。個人により事情は違うので、論文を書かないのはダメな奴と決めつけるほど非寛容ではないが、僕はストレスフルな状況を楽しんでいる。

 何がストレスフルかと言えば、投稿した論文がいきなり「掲載可」となることはほぼ皆無で、査読者が何かと文句(問題点の指摘)を言ってくる(満点の評価をすることは、査読者の専門知の評価につながるので、必死に問題点が探される。自分でも同じことをしてきたので、文句はない)。論文を投稿し、文句を言われることは誰でも面白くない。40歳代になり職位が上がると、自尊心を傷つけることを避けようとする心的機制が働く。職位は大抵の教育機関では一定の業績(学務を含んでの)と勤務年数(教育歴)があれば、上がるので、何も自尊心を揺るがすことに拘らなくなるのだ(ろうと、推察している)。

 

 先週に決着した論文も、2回の修正を求められた。学術雑誌によっては査読委員の任期を定めて交代させることがある。最初の査読者の指摘に対応して改稿提出すると、別人に変わっていて、また違う問題点を指摘された。「前に言っていたことと違うじゃないか!」と指摘しても仕方がないので、また修正をするのだ。Native チェックをして投稿していても、「英文を修正せよ」などというコメントが書かれることは珍しくもない。一つの論文はインド人が経営する会社でのチェックだったので、米国人に会社に再度依頼した(研究費はあるので、可能であったが)。もう一方の論文は編集代表が僕に好意的で、査読意見への修正方法を教えてくれたので助かった。査読者が誰かで、当たり外れがあるものなのだ。

 

 査読者はほぼ絶対なので、指摘は間違っているなどと論戦を挑むと、ろくなことはないことは経験則なのである。1980年ごろにイタリアの学術誌に書いた論文の査読者に文句を言ったら、「English, this is poor」とやられ、rejectされたことがある。留学先の英国人の先生と一緒に書いた英語が、「イタリア人がダメと言うの?」と呆れたが、なす術はなかったことを思い出す。この話の記憶から連想を、記しておくと、そのころは、論文はタイプライターで書いたものである。タイピストという職種があった時代があった。もちろん自分にはタイピストはいないので、雨垂れのようにポツポツと打った。投稿は3部提出が普通で、カーボン紙を挟んで、打ち間違いは修正インクを塗っていた。1972年に平野俊二先生の友人に英文を直してもらい米国心理学会誌に投稿した論文の封筒が破れて、東京から戻ってきたと大学近くの郵便局から呼び出された。やり直しを嘆いていると(郵便代金が惜しかった)、生沢雅夫先生が「行先不明でなく、戻ってきた幸運を喜ぶように」と言われたことを記憶している。この論文があったおかげで、教員公募に引っ掛かり、職を得たのであった。思い返せば、良い先生に恵まれた運の良い人間であったのだ。あれから50年。今では論文投稿は電子媒体である。細かい文字でやたら多くの注意書きがあり、視力が疎くなったので、最近は一度で投稿手続きが成功することはない。先月新たに投稿した際には、研究者の倫理観が信用されなくなったのだろう「基本データの開示に同意」の項目ができていた。嘆かわしいことである。

 

 今回の2論文とも、コロナ下で時間をかけてデータ集計した縦断研究なので、何とか辛抱して改稿したことで受理された。何だか薄日が差してきたような気分になれたことである。

 

 このように相変わらず論文を書いたりして、ストレスフル→安堵→新たなストレス希求を繰り返す日々を送っている。昨日、既知の出版社から文庫本の話が来た。薄日は単なる希望的妄想でもなさそうで、今しばらくは、認知機能の鈍化に抵抗できそうかも知れない。

 もっとも、近未来に何があるかは分からない、と自分に言い聞かせてはいますが。

宮田洋先生を偲んで

 8月25日に逝去されたと、同僚から宮田洋先生の訃報を知らされた。関学生え抜きの先生で、「クラシカル条件付け」研究の大家であった。定年退職後、現在の私の職場にも在職されたようである。私が着任した頃は非常勤講師のコマを担当されていたが、そのころは小脳に病気が見つかったとのことで、自分ではまっすぐ歩けないので、若い女性の肩を借りて通勤しておられたのを覚えている。その数年後、学会でお目にかかった時には元気になられていたので、「不死身ですね」と言った覚えがある。

 

 人見知りの性格を持つと自認している私には、勤務校以外の心理学者と長期間親しく話をした先生は2人ほどしかいない。宮田洋先生はその一人である。

 

 親しくさせていただくようになったのは非常勤講師に呼んでいただいたのがきっかけである。30過ぎの頃であった(思い返せば、この頃が人生で一番輝いていた)。当時の指導学生が関学の大学院を受験していた。「八田さん、xx君はボーダーやねん」と電話があった。突然の電話で、どう答えて良いかもたついていると、「ところで来年度、非常勤に来てくれへんか」と言う。もちろん快諾したことである。誘いを断ったら不合格になったとは思はないが、xx君は合格し、今は、国立大学の教授になっている。

 

 集中講義ではないので、毎週1コマの授業のためにJ Rで大阪に出て、阪急神戸線を十三で乗り換え仁川まで、そして徒歩でハミル館へと片道2時間ほどかけて1年間通った。3年生向けの講義で、芝生が目の前に広がる階段教室に4-50人がいたように思う。当時の勤務先の天王寺分校校舎は戦前の小学校を改装した古い木造と、安物のプレハブ教室で構成されていたので、関学の時計台と芝生のある綺麗なキャンパスは羨ましい限りであった。

 講義内容は自分の研究テーマの左右脳の機能差(ラテラリティ)についてで、学生の食いつきはとてもよかった(と思う。3,4人の女学生は後年まで賀状をくれたりしたので、妄想でもないはず)。この時の講義ノートをもとにして後年有斐閣選書を出したのだった。

 本務先では、「教育心理学」、「児童心理学」、「心理統計学」など、教職関係の科目を講義するだけで、初めて自分が専門として研究している内容を話す機会を与えられたわけで、自分の研究を大先生が認めてくれているように思え、嬉しく楽しい経験であった。数年してから、再度学部と大学院の両方での非常勤講義を依頼され、その頃の学生で研究者になった人たちとは今でも仲良くしてもらっているのだからありがたい話である。

 

 講義の日は非常勤講師控え室ではなく、ハミル館の宮田先生の研究室に来るように言われて、お茶(コーヒーだったかも)をいただき、雑談をするのがルーチンであった。爾来40年余り本当に親しくさせてもらった。ダンディで育ちの良い、人と話すのが好きな先生で、研究者など周辺にいない環境で育った私には観察学習のモデルであったように思える。

 

 この雑談の中に二つばかり今でもしっかり覚えている話題がある。

 一つは、その頃腰痛で困っていた私は「中国針一発で治った」と言う話をした(24歳ごろから10年ほどの間は、丈夫な体というには程遠く、よく熱を出したりしていたものだ。栄養状態に問題があったのかも知れない)。宮田先生は「それは、たまたまちょうど治る時期だったかもしれんよ」とコメントされたのである。「比較をしないと軽々に結論を出すのはあかんよ」と、日常生活での科学的思考の大切さを教えられたことであった。当時、先生はテニスを熱心にされていて腰痛持ちでもあり、水泳が良いことも教えてもらった。「浜寺水練学校卒やから」と言うのを何度か聞いたことである。「泳いでいる?」と後年出会うと質問されるので、今でも僕が曲がりなりにも水泳を続けているのは、宮田先生に聞かれる時に、「辞めました」と言い難いというのが原因かもしれない。

 二つ目は、「科研を出すときは、半分以上仕事が進んでいるテーマで出さんといかんよ」と言う示唆である。今から、研究したいことを申請してもダメで、ある程度実績を示すべきという教えは、有り難かった。僕は科研費は長く、たくさん頂いてきたが、振り返ると、宮田先生の示唆があってのことだろうと思う。

 

 大先輩と頻回にコミュニケーションを取る経験から、永く生き残る教えが含まれるという事実は、これから僕も若い人と面倒がられても話をする機会を増やすべきかも知れないと思うことである。

 

 何年生まれかを知りたくて心理学会のオーラルヒストリーを検索して視聴してみると、1929年生まれということであった。先生のゆっくりした口調が懐かしく、亡くなられたとは信じがたい気持ちがする。僕はあの世を信じてはいないが、もし、何年か後で再会することがあり、「泳いでいる?」と問われても困らないようにせねばなるまい。

 

 じわじわと順番が近づいてきている気配を感じつつ、仲良くしていただいたことに感謝したい。

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