最後の最終講義
最終なのだから「最後の」というのはおかしいとお気づきかもしれませんが、字句の誤りではありません。昨春退職した大学の学内学会での講演に呼ばれて、また最終講義をしたのです。
名古屋大学に移籍するとき、名古屋大学を退職する際にと、2度も最終講義をさせて貰ったので3度目です。本当にもう最後になるはずです。
講演依頼の時には、テレビ出演の裏話でもいかがですかと言われましたが、芸人でないので90分も間が持たないし、昨春、退職時に依頼されて多忙なのでと断っていたこともあり、多忙でなくなったので、最終講義にするかと決めた次第です。10年以上在籍したそれぞれの勤務先で最終講義をして、15年の痕跡を話すのも良いかもと考えたわけです。有り難いですことであります。
最終講義はいつの頃からか大学教員が退任時にするものとなっており(著名な教授の最終講義を収録した「最終講義」というタイトルの大部の本(角川書店)を読んだ記憶があります)、1週間前にも名古屋大学での後輩教員の最終講義に出席しました。コロナ禍で久しくこの種の催しは無かったのですが、自分の過去の研究を紹介し、指導学生から花束をもらうという昔ながらのスタイルでした。久しぶりに出かけた名古屋大学は図書館前の芝生が大規模な工事中でありました。何でも地下に建物を作り、完成時にはまた芝生に戻すそうで、見てみたいものだと思ったことです。
ちなみに、自分の最終講義で1年ぶりに訪れた大学は何も変わっていないなあ、と感じました(大学自体の活力の差異なのかもしれません)。
最終講義では冒頭に、この種の講義は他人の自慢話を聞かされるので苦痛でしょうが、加齢に伴う脳の機能低下には「回想、懐かしさの感覚」は有効性が高いという最近の研究結果があるので、辛抱してほしいと断って話しました。1週間ほど前に世話役の先生にパワーポイントの資料を送付していたのですが、前日に自分が研究を始めた1960年代の社会の出来事や研究道具(手回し計算機や数表本)を付け加えることをしました。
講演はともかく終わり、懐かしい教職員との再会を喜んだのち、(講演料をいただいたので)若い教職員と上本町で飲み会をしました。皆からまだ若い!の声を聞かされ、調子に乗って久しぶりに11時過ぎの帰宅となりました。翌朝は二日酔い気味でしたが、自宅で過ごして就寝。その次の日の寝入りばなに、最後に付け加えたスライドの年代表記の間違いに気づきました。1964年の東京オリンピック(大学入学)、1968年3億円事件(大学卒業)、1969年東大安田講堂事件、…、1977年大学入試センター発足(大教大助手)と社会情勢のスライドを作っていたのです。この最後の1977年の記載は、大教大助手は1972年が正しいので、間違いなのです。その間違いを36時間後に誤りに気づいたことになります。
この記憶再生メカニズムはどうなっているのだろうと気になっています。心理学徒は「運動学習レミニッセンス」という現象を知っています。一定の運動を練習して中断すると、中断後再開時に運動成績が上がる現象で、運動に使われるネットワークが、物理学でいう慣性の法則のように継続するのだろうと解釈されます(多分そうだったのでは?レベルの知識ですが)。
人の時間記憶は物理的なものと同一ではありません。Mental Time Lineは変なもので、近い記憶は遠いものとして、遠い昔の記憶は近いものとして感じられる特徴があります。30年前の出来事がまるで昨日の出来事のように、2-3日前の出来事はずっと昔の出来事であったかのように心的に認識される特徴があり、高齢になるとこの歪みは拡大すると思われます。最近特にこのことを実感している毎日です。「ご飯を食べたのを忘れてしまう」は認知症の典型的なエピソードとされていますが、事実の忘却ではなく、Mental Time Lineのさせることかもしれないと考えたりしています。
僕のスライド記載事項の間違いに発表を終わって1日以上も後になって気づくというのは、「記憶のレミニッセンス」現象かも、と考え、調べねばと思っています。
もっとも、ここ2週間ほどは柑橘類の皮を使ったお菓子「ピール」作りにハマっています。柚子、文旦、柚香、スイートスプリングの4種について生産しました。ウイスキーの当てには絶好であると吹聴し、今日までに少しだけお裾分けした9人には(真実は?ですが)好評です。30個くらいの柚香の皮で300個くらいのピースを作るので、それを乾燥のために、一片ずつ並べている時間は、無心になれるなあと気に入っている作業なのです。
まだ、冷蔵庫にはもらった柚香が30個ほど残っており、これもピールにせねばなりません。こちらの優先順位が高いので、「記憶のレミニッセンス」現象の解明は、先行きが見通せません。
前途多難な2024年かも?
正月早々能登半島輪島沖を震源とする大地震が起きた。その時は自室でパソコンに向かっていた。かなり長い時間の比較的長い周期の横揺れがあった。大地震であったのだ。正月に里帰りをしていた人たちや帰郷する家族を待ち、楽しんでいた人たちには残酷な正月となってしまった。輪島の朝市の家並みが消火活動もされずに燃え盛っていく映像を見ていた。見舞う言葉も見つからない。暖かい部屋で被災画像を見ていると、身の置き所がない感じであった。
輪島の朝市や被災した珠洲、七尾などは30年近く前に、学生の実習巡回の際にレンタカーで回ったことがあり、海岸沿いを車で走りながら、「津波が来たら、ひとたまりも無いなあ」と何度か思ったことを思い出す。台湾とブラジルの知人から地震見舞いのメールが届いた。「レジリンス力を信じている」とあった。同感である。
被災者には申し訳ないが、3日から長男夫婦と下関の角島に車で出かけた。玄界灘の潮の流れがぶつかる光景は見応えがあった。帰路山口市にも寄った。院生の頃から15年ほど、毎年、ドサ周りと称していた山林労働者のレイノー病検診手伝いで宿泊した湯田温泉の林野庁の宿舎は無くなっていたが、道向かいの高級旅館「松田屋」は健在であった。いつかここに泊まろうと言っていた記憶があるが、メンバーには鬼籍に入ったものも出始め、思いは叶わずじまいになりそうである。あいにく瑠璃光寺は工事中で、美しい塔は見えずであったが(翌日に山口がNew York Timesが推薦する「2024年世界で今年行くべき観光地)の3位に挙げられたというNewsがあり、大丈夫?と思ったことである)、中原中也記念館(昔はなかった)に出かけた家族と離れて、僕は「山頭火の句碑」を探し出したり、必ず一度は食べた角のそば寿司の店を探したりで、古い記憶の確認ができた。
1月12日には、1歳の誕生日を迎える孫娘のお祝いに、3泊で仙台に出かけた。昨年はこの時期寒波襲来で、這々の体で空港に辿り着いて生まれたばかりの小さな赤ん坊を確認し、残雪のある凍った道路に苦戦したが、今年は穏やかで上天気であった。上の2人の孫には「一升(一生)餅」のイベントをしてあるので、3人目だからと言って省略するのは、後々不都合な事になろうと、出かけたのである。嫌がる孫に風呂敷包みを背負わせて歩かせる証拠写真は撮れた。誕生日の当日、この娘を預けられて1時間ほど留守番をしている間、たまたまiPadを弄っているときに、立ち上がり、2歩ほど2度歩いたのを動画に収めることができた。歩いたのはその時だけで、歩行器で歩く練習はしているようだが、3週間が経つがまだ歩いたとは聞かないので、遠路来た祖父母に特別サービスをしたのかもしれない。であれば、なかなかのものである。孫たちは順調に育っており、自分はこういう幸福な事で良いのかと思った事である。外食した先の帰りに店の階段を踏み外して転んだ(飲んでいた)が、気にするほどのことはなかった。
しかし、3日前に外出先で両手にものを持った状態で、同じように階段を踏み外し、転んだ。一瞬誰かを呼ばねばと思った転び方であったが、何とか駐車場までゆき、骨に異常はないと言い聞かせて車で帰宅できたが、左足は何かが変で、湿布を数枚貼り、眠剤の力を借りて寝ることができた。翌朝から太もも、足首、ふくらはぎ、膝裏、肩と、湿布を貼っていない場所に次々と痛みが生じて、4日目にも違和感は残り、完全に治った感じがしていない。
正月に2度も転倒するとは、明確に体幹、バランス機能、筋力が弱化している証拠で、老人になっていることを思い知らされたことである。約束していた先輩との飲み会は欠席することになった。
自分だけに幸せな時間が長く続くものではなく、「禍福は糾える縄の如し」である。転倒しても、大した怪我なく済んだのはまだ元気な証拠だと、Positiveに考えようとしないでもないが、ちょっと無理なように思えるのである。
今年はこれまで幸福であったお返しが来るやも知れぬと、覚悟しておかねばなるまい。何があっても受け入れる覚悟はできている(つもりの)2024年の正月であります。
年の瀬に
昨年末から今年末に掛けて、年齢が近い知人が次々とアッチの方に行ってしまった。知らせを聞いても感情が大きく揺れることがない自分に気づく。「誰それが亡くなった」としか言わないのを長男夫婦は「何ともないの?」と訝しがっていた。老化による感情鈍麻ということもあろうが、コロナ以降、家族葬とかで葬式に出なくなったために、棺の中の当人を確認して涙が出るという体験が失われてしまったことの影響も大きいと思う。現実なのか実感が伴わないのだ。
20年以上前のことになるが、母や父の葬儀は、自宅から会場までを近親者が棺を担いで行列し、沿道で大勢の人たちの見送りを受けて、地区内の寺の本堂で式典を行うものであった。2人とも12月の葬式で、白い装束を着て棺を担ぐ僕は寒くて震えながらであったが、沿道に人たちが並んで見送ってくれるのを嬉しく思ったものである。息子や家内は「江戸時代や」と呆れていたが、古い歴史を持つコミュニティの温かさを感じた。コロナ以降の社会情勢の変化として、人が集まることが激減しているのは、費用がかからない利点もあるが、面倒だという理由だけなら何とも寂しい気持ちになる(何といっても、式典や宴会文化が染み込んだ昭和人だもの)。
アッチの方に行ってしまった一人一人にまつわる記憶をメモしておかないと、後年このブログを読み返す際に訳がわからなくて困るかもしれないので、2023年アッチに行ってしまった知人の手掛かりだけを記しておく(このように書いていて、潜在的に自分はまだ生きているつもりなのだとrealizeした)。田巻義孝さんは、関学出身で信州大学を定年後、関西福祉科学大学に来た人で文博・医博の両方の学位をもっていた。単身赴任中の大阪の部屋で倒れていたところを運良く見つかり、一命を取り留めたのであった。教育学部申請に関して随分と助けてもらった。長野市の自宅を訪れた際に目にしたリハビリへの取り組みは、知的に優れる人の意志と根気の強さを確認したことであった。高坂祐夫さんは関西医大衛生学教室の助手の頃からの細川先生を囲む汀会のメンバーで、後年、大阪信愛女学院短大の学長をしていた。廣澤巌夫さんは同じく汀会員。山口大の公衆衛生学教室の助手の頃からの付き合いで、山林労働者の検診でずっと一緒であった。湯田温泉の営林署の宿で枕投げをしていた院生の頃から関西福祉科学大学で同僚となるまでの長い付き合いである。僕の着任時は学科長で、真面目な質なので会議が長くて皆は閉口していたものである。いつも彼の部屋で弁当を食べたことを思い出す。水嶋義次さんは先回紹介した通り、グリークラブに誘ってくれた人である。斎藤洋典さんは5-6歳年下で、彼が関学の院生の頃からの知り合いで、一緒に翻訳を出したりした。彼が誘ってくれたことで名大に移籍できたのである。名大では漢字の読み処理の国際学会を一緒にやった(中国の研究者はこちらからお金が出ないと来日できなかったので、工面に苦労したことを思い出す。研究環境は30年ほどの間に日中すっかり逆転した印象がある。日本の高等教育政策のエビデンスの一つである。政治は結果だと嘯く政治家は「精査しないと云々と言い逃れるだろうけど」)。
アッチに行ってしまった知人の名前を書き出すと次々エピソードが蘇ってくるが、ともかくも、僕の自己形成に影響したことは確かで、改めてご厚誼にありがとうと言いたい。
昨今は、幸いにも研究室をあてがわれ、週に2回ほど出かけて、機嫌よく研究者風の生活を送っている。春先には、時間に余裕があるので年内に4、5本論文を書き上げることは可能かもと考えていたが、2本目が8割程度のままで、歳を越しそうである。時間があるので、文献検索や参考文献読みの程度に歯止めがなくなる、作業課題の切り替えが下手になる、集中力が持続しないなど、振り返れば理由はいくつも見つかるが、能力と加齢が原因と帰属する事にしておこう。しかし、論文を書いて投稿し、見も知らぬ査読者の文句を聞くプロセスが自分は結構楽しいと思えるらしいことを確認した。今春から整理してきたdatabaseからは4、5本の論文が書けるはずで、来年も楽しめそうである。
10月初めに研究フィールドである北海道に夏休みの検診結果の説明会に出かけ、「80歳以上でも50-60歳代の記憶機能を持つsuper-agerになりましょう」と話した際に、「エスカレーターのように、一人でに辿り着けるわけではないので、自分からの努力も大切ですよ」と締め括ったのを思い出した。「アンタもな!」と言われないように、今年は宛名ソフトを使っていたのをやめて、漢字を忘れないように、数を200枚に減らして年賀状の宛名書きを手書きにした。まだ、漢字を忘れていないことが確認できたし(自己効力感が得られた)、知人がどこに住んでいるのかが再確認できたのも良い副産物であった。
上記したように、年齢が近い友人らが次々と鬼籍に入った年で、自分の順番の近づいていることをひしひしと感じ、自分の時はどのようにして欲しいとメモしておくべきか、自分ではわからないことなので、残されたものの好きにするのが良いと放念しておくべきのか、思案を始めている年の瀬である。
惜別:水嶋義次 君
大学時代からの一番の友人、水嶋義次君が亡くなっていた。水嶋義次君と書くとしっくり来ない。「ヨシジ」と呼んだ以外はあまり記憶にない。
コロナで途絶えているグリークラブの昭和42-44年卒あたりのメンバーが年に1−2度集まって飲みながら、たわいもない昔話をする会がある。その会に舞鶴から遠路参加している先輩が11月10日に、水嶋と連絡が取れない、電話が使われていない、8月に電話した時、体調が悪いと言っていたけど、何かあったのか知らないかと自宅に電話してきた(一番親しいのは自分であると誰もが認識しているので)。
慌てて、僕も「ヨシジ」宅に電話したが、出ない。メールを出したが、使われていないのか送信できなかった。そこで、彼の姉夫婦に情報をくれるように、僕のメールアドレスと電話番号を書いた葉書送っておいた。14日に葉書を見た「ヨシジ」の義兄から家内に電話があり(高齢になると音声言語では適切に情報が伝達できないことは留意事項である)、11月3日に亡くなり、葬儀を終えた、詳細は次女に聞くようにと、次女の携帯電話番号が別に送られていたEメールに記されていた。数回電話をかけてみたが、出ない(知らない番号には出ないのだろう。こう言う最近の常識も疎ましいが)。翌日の夕方、再度「ヨシジ」の家に電話をしたら奥さんが出て、11月1日(この日が正しい)に亡くなったということであった。
奥さんは足も目も悪いと聞いていたので、線香を上げに行っても良いか確かめ、11月16日に家内と九条の家に出かけ、2時間ばかり話すことができた。遺影と遺骨を前にして思わず嗚咽してしまった(写真は大フィル出演時の正装姿であり、送られて来たら自室に飾る予定)。まだ、感情鈍麻のレベルは老化しすぎていないことに自分でも驚いた。奥さんの足の状態も目の状態も予想していたほどではなく、何十年ぶりかの再会を果たした。寂しいと漏らしていた(翌日家内への電話では、我々に会って話をしたせいか、久しぶりによく眠れたということで安堵した)。
「ヨシジ」は5-6年前に咽頭癌になり(これは以前にも聞いており、酒を飲まなくなっていた)、最近は抗がん剤治療の副作用とかで間質性肺炎を併発していたとのことであった。10日ほど前に、テレビを見ていてソファから落ちた時に肋骨を折り、救急車で入院。その後転院した先の病院で、トイレに行く際に酸素を吸入する管が抜けたということであった。あっけない最後である。
僕の大学時代の記憶は「ヨシジ」抜きでは語れない。1歳年上の彼には兄弟のように仲良くしてもらった。西区の九条商店街近くの実家には数えきれないほど泊めてもらい、ネジ問屋の主であるオヤジさん夫婦や兄弟姉妹にも本当によくしてもらった。田舎からポッと出てきた18歳が、都会人・大阪人の振る舞いを学んだ場所であった。振り返ってみると、学生生活に適応して行けた原動力でないかと思う。初めて知り合った頃、僕は新しい学生服姿であったが、彼は濃い赤のジャンパーで通学していた。都会人であったのだ(姉が服飾関係の大学を出ており、着せられていたらしい)。「ハッタ、来てんのか、麻雀する?」という同居している姉さんの甲高い声が鮮明に蘇る。彼や家族と一緒に、クラシックのコンサートや演劇を見に行くという田舎者が知らない生活スタイルも教えてもらった(高槻の郊外に転居して以降、足は遠のいたが)。
店を閉めて近所に飲みに行って戻ってきたオヤジさんのイビキが聞こえる頃になると、2人で台所に降りて行って、冷蔵庫の「サントリー角瓶」を盗み飲みしたこと(当時学生はサントリーレッドを飲んでいたので、憧れの酒であった)、親父さんは必ず家族に手土産を下げて帰ること、難波のミュンヘンに何度も連れて行ってもらったことなどを記憶している。
僕をグリーに引き入れたのは「ヨシジ」で、地理学を専攻していた。彼はセカンドテノールからバスまで幅広く歌うことができた。卒業後は大フィル合唱団で活躍した。
グリークラブでの活動にまつわる膨大なエピソードは別にして、信州での夏合宿を終えた2年の時だったと思う。3大祭を見ようと2人で東北を旅行したことがあった。磐梯山の麓の宿の女子中学生が一緒に山に登ると親に言うので困惑したこと、弘前ねぶたを見るべく、宿をどうしようと駅のホームにいたところを行商姿のお婆さんに誘われて、恐々彼女だけが住む家に2泊も泊めてもらったこと、焼きイカと大きなおにぎりを弘前まで行く弁当に持たせてくれたこと、大鰐温泉の知り合いの旅館で温泉にタダで入れくれるよう頼んでもらったことなどが次々と思い出される。「長利つき」というこのお婆さんには帰阪後2人で電気あんま器をお礼に送った。達筆の礼状が届いた(2人はきっと偉くなると書いてあったので保存していたが、いつの間にか無くしたので、証拠品はないけど)。津軽半島の竜飛岬や下北半島の恐山にも行ったので、何日旅をしたのだろう。
彼は卒業後高槻市役所に勤めたが、途中から兄と一緒に父親の会社で仕事をし、趣味の合唱や音楽鑑賞、落語鑑賞を楽しんでいた。僕は本を出版すると必ず送っていた。彼はそのことを家族や周囲に自慢してくれ、弟が活躍するのを喜ぶような風であった(この気配は何度か気付かされたことがある)。一度も諍うことのなかった有り難い友人である。
彼との記憶を書き始めると際限がない。60年間も仲良くしてくれてありがとうと直接言う機会がなかったのが悔やまれる。夜中に目を覚ますと、「ヨシジ」にまつわるエピソードがいろいろと惹起され、再入眠が容易でないのは、しばらくは仕方のないことだろう。
「ヨシジ」が亡くなっていたことを複数の先輩に連絡し、「俺ら生きていても良いんのかなあ」と呟きあったことである。先の記事に記したような、健康で幸福な高齢者生活を送らせてもらえている幸運に感謝しながら、今しばらく生きていくしかないけど。
久しぶりの荒天下ドライブ
コロナ前の冬のことです。北海道の警察に研究協力依頼に行ったことがありました。知り合いの道議会議員に頼んで、警察署長に面会し協力を依頼したのです。この研究計画はコロナで中断を余儀なくされて予定通りには進捗しませんでしたが、共同研究者2名と千歳空港でレンタカーを借りて、吹雪の中を2時間走り、計画していた荒天での道路状況のビデオが撮影でき、喜んでいたのですが、八雲町で一泊した翌日は暴風雪の天気となりました。高速道路は閉鎖され、前も見えないほどの吹雪の中を地道で3-4時間ほど走り(若い共同研究者が運転して、僕の出番はなし)、千歳空港まで来ると、飛行機は飛ばず、急遽札幌駅近くに宿を取り(ぐしゃぐしゃの雪道で革靴は濡れて大変)、翌朝一番の飛行機で這々の体で帰阪したのでした。
1 0月初めにこの北海道の荒天を思い出す経験をしたのです。前日、講演依頼のあった自治体から連絡があり、悪天候が予想されるので、飛行機が飛ばない場合の対応の相談があり、飛んだ場合は予定変更で、空港まで車で迎えに来てくれることになりました。関西は好天続きであったので、北海道の天気予報は全く気にしていなかったのでした。
実は、連絡があった前々日から三重の民宿に友人らと旅行に行っていたのです。この1泊旅行は大学1年時からの友人6人での旅で、毎年大阪市内の何処かで食事をする会を続けてきたのですが、僕が退職したので泊まりがけでということになったのです。
友人が30年来通っているという有名な民宿は、大阪からは往復で500Kmを超える場所にあり、毎年この宿は話題には登るのですが、なかなか実現しなかったのです。ミシュランの星を取ったというのも頷ける宿で、確かに食べ物は豪華で、量が多くて、美味で、満足しました。お互い知り合って60年になり、バカなことばかりしていた頃を次々と回想したことであります。もちろん、全員80歳近くになっても腰は曲がらず、元気で飲み食いできる幸運を喜び合ったことであります(もっとも、卒業した夏に1人が急逝し、4人の心理学専攻の卒業生で残った3人がこの会のメンバーなのです。毎年彼女のことは話題にするのですが、思い返せば、今年は食べ物の豪華さに浮かれてしまい、早逝した彼女を話題にするのを忘れました。ゴメン!)。
話が横道に逸れましたが(これが老人の認知機能特性の一つ)、 要するに、北海道の天気予報は全く気にせずにいたのです。自己中心の思考という想像力の欠如も、老人の認知機能特性の一つであります。
朝一番の千歳行きは予定通り飛び、構えていたほど揺れずに着いて、迎えの人と合流して、八雲町まで高速道路を南下したのですが、途中で台風並みの強風と豪雨に出くわしたのです。車は時折横揺れで浮いているような感覚を何度も味わったことであります。この時、数年前の暴風雪下でのドライブが想起されたのです。北海道の自然の厳しさは、建物が林立する都会では経験できない類のものです。
無事、予定通り講演会場に着きましたが、台風並みの天気が理由でしょう、会場での参加者は30人ほどでした(検診結果を返却するので、何時もは100-150人ほど集まるのです)。80歳以上になっても60歳代の認知機能を持つSuper-agersになるためにどうしたら良いかを話しました。自治体の健診事業は40周年になりますが、2001年に僕たちが継続中のこの事業に参加するようになって24年目なのです。最初の参加時、2001年の自分の写真を見せて(この写真はアエラのカメラマンが撮影したクレジット付きのもので、遺影に最適と当時話していたものです)、もう使えない、人は老化するものであるというツカミは受けたので、前日の長距離運転の疲労感も忘れ、気分良く、同じ町内の40 Kmほど離れた別に地区でも話したのでありました。その後、用意してくれた温泉宿で泊まり、翌朝函館から帰阪しました。昨夜の荒天で倒木があったと言うことで、予定していた特急はキャンセルとなり、函館では時間の余裕はなく、そそくさと帰阪したのでした。
三重から北海道とハードな6日間を何とかこなせたので、この調子ならSuper-agersになれるかもと思うのですが、同時に「儚いのが人生と」言う蓮如の御文章も浮かんで来るのであります。
失敗エピソードの夏休み
9月半ばを過ぎても32−3度と大阪は暑いので(日本中がそうだけど)、涼しさを求めて、信州のいつもの宿で過ごすことにした。3泊して、日本平の久能山東照宮を訪れた。信州から静岡に抜ける高速道路が新しくできたので、簡単に行けるようになっている。
久能山東照宮は2年ほど前に知人が絶賛していた。日光の東照宮は前に見たこともあり、比較してみたい気持ちがあり、行きたかったのだ。知人はガイドさんが無料で色々説明してくれ、徳川家康のことに詳しくなったと喜んでいた。
日本平からケーブルカー5分で久能山へと行ったのだが、ともかく暑かった。3泊した22度の地点からの移動で、車はクーラーが効いているし、暑さを忘れていたのだ。
東照宮は、小じんまりとして、それなりであったが、石の階段は急で、段差が大きく、汗びっしょりになった。観光客もかなりいたが、無料ガイドは見つからなかった。這々の体で、ケーブルカーで駐車場に戻り、夢テラスという無料の施設(隈研吾の作品とか)に登って、クーラーのありがたさを感じたことであった。
ここからの富士山は絶景らしいが、案内員の話では、夏はほとんど見えないという。もちろん、霞んでいて富士山は見えなかった。この時は、近くの有名な日本平ホテルのビューサイドの部屋を予約しなくてよかったと思い、1,600円と高いのを承知で、昼ごはんに冷茶漬けを食したのであった。
その後、三保の松原を見て、予約しているビジネスホテルに向かった。4時過ぎに到着できるので、温泉と記載してあった大浴場に入って、夕飯を食べるところでもゆっくり探すべしと、車を走らせた。
ナビ任せで走っていると、静岡駅前であったはずなのに高速に入ってしまい、気づくと焼津を通過している。おかしい?と気付いたのであった。高速を降りねばと思いつつ走っていると、ナビから藤枝市の郊外で降りる指示が出た。
町外れのコンビニで停車し、ナビを入れ直さねばとホテルの電話番号を再確認したが、間違ってはいなかった。家内は静岡駅前のホテルの電話番号と違うと言い出し、慌てて予約サイトを確認したが、僕の入力した電話番号は間違っていない。そこで、携帯の画面を拡大すると、ここで初めて、同じホテルだが、静岡駅前でなく、藤枝駅前のホテルを予約していたことに気づくのであった。
結局、藤枝駅前の同名のホテルに予約が入れてあり、事なきを得たが、文字の小さい予約サイトの確認を怠ったためのミスであった。これからこういう間違いが多くなるのだろうか。
すっかり疲れてしまい、外に食事に出ようとしたが、依然として暑いので、夕食は同じ建物内にある寿司屋風居酒屋のようなところで食べることとなった。期待していなかったが、この店は値段の割に美味しいものが多く、怪我の功名であった。もっとも、静岡駅前と異なり、大浴場は温泉ではなかった(セット料金の朝ごはんは豪華ではないが美味で堪能した)。
というように、相変わらず、何かの失敗エピソードが生まれる夏休みでありました。
閑話休題
宿の近くを散歩していると道路に白い花びらのようなものがたくさん落ちていた。散歩しているおじさんが、これが家に入ってくると嫌だね、というので、よく見ると2センチほどの長さの白い虫が無数に、それこそ目を背けたくなるほどうじゃじゃと道路脇の溝にいるのだ。花びらではなく、虫の死骸であった。この虫は、キシャ・ヤスデという虫で、8年に一度地下から、大量に地上に出てくるらしい。虫を轢いて汽車が止まることがあるので、この名前だと言うことである(ウキべディアによる)。気味が悪いが、地中で落ち葉などを分解してくれている、役に立つ生物らしい。2週間あまりで消えてしまうとのことで、今年は珍しいものが見られた夏休みでもあった。
8年に一度地表に出て死ぬという生き物と出会い、自分は10倍近くも長く地表に居るが、キシャ・ヤスデのように役に立つ生き物であり得ているかと思ったことであります(ムシすれば良いのかもしれませんが)。
約1,300Kmを一人で運転したので、自らの元気さを確認できた夏休みでもありました。
アカデミックな生活アゲイン
最近40日ほどは孫らが帰郷して夏風邪をひいて長く咳に悩まされたが、10数年ぶりにアカデミックな生活に戻ったと言える嬉しい日々を過ごしている。
話が外れるが「アカデミック」という単語を発すると、必ずと言って良いほど対連合でアクセントの間違い事件を思い出してしまう。
30年以上も前のことである。今は大学教員になって、来年定年だというT君とモントリール大学でのシンポジウムに出て、その帰路バンクーバー大学の図書店に寄った。店内は広く、近くにいた店員に「アカデミック」な図書のコーナーを尋ねたのだが、全く通じなかった。二人で何度も「アカデミック・ブック」というのだが、きょとんとされるばかりで、通じない。単語の綴りを言い始めると、「オー、アカデミック」と、大きな反応で分かってくれた。発音は「デ」を強調するもので、我々の平板な発音ではダメなことを、つまりアクセントが大事、ということを思い知らされたエピソードである。
最近のアカデミック生活アゲインの第1は、北海道八雲町での健診事業に8月の終わりに3泊4日で参加したことである。コロナで2020年2021年と中断していたのを昨年から再開されたのだが、コロナ感染を注意して参加者を絞っての実施であった。今年は従来通りに戻した形式で行われた。この自治体と名古屋大学の共同事業は40周年ということで、これほど長く続く事業は稀有である。関係者の皆さんのおかげであることは寄稿を依頼された記念誌にもしっかり書いたつもりである(ついでに心理班はきちんと学術誌への論文を出してきていることも記しておいた)。
心理班と整形外科班は任意参加であるの受診者は少なめだが、心理班には今年は240人ほどの参加があり、縦断的な資料を蓄積できた。
ただ、今年の八雲町は暑かった。例年飛行機を降りると「涼しいー」なのだが、大阪と大きな違いはなかった。健診会場は、整形外科班や血液データ収集班が、冷房のある広い会場を使うので、我々の使う和室にはクーラーはない。大阪が35-6度で暑いと言っても、日中仕事をする場所はエヤコンで冷やして過ごしているので、室温32-3度の中でずっと8-9時間も検査をするのは10人のスタッフ全員初体験で、大変であった。職員が自宅から持ち込んでくれた扇風機を4-5台入れても(たいていの個人宅にはクーラーも扇風機もないとのこと)、暑い空気を混ぜ返すだけであった。初めての経験であり、このことが住民健診のデータに影響しないか気になることで、これらを考慮するのも縦断研究は大切だなと学んだことである。
目下、我が心理班は2020年と2021年度を除いた22年分のデータが蓄積できているのを、解析をしているところである。10年後に再受診している個人を特定し、2008年と2009年に収集している、「気持ちの上での年齢と暦年齢の差異」のデータから、10年後の認知機能や運動機能の様子を検討する課題と、記憶検査成績が50歳代の平均値を上回る75歳以上の個人を特定し、super-agersと呼ばれる日本人の特性を検討する(これは、数年前からハーバード大学医学部が始めた話題)課題に取り組んでいる。
複数年に渡る個人データの、それも他の研究班のデータとの同定・照合はなかなか大変で、拡大したエクセル表を相手に目が霞んでくる作業を行なっている(誰かに助けて貰えばと言われるが、そしてヘルプを申し出てくれる人もいるが、作業の説明を間違いなく伝達する手間も惜しいので、自力でやっている)。こういう作業が面白いと思える自分が不思議だが(面白いのかと問われると?)、作業の進捗を考え、年齢を自覚すると、今のような自分のクローンが2人ほど欲しい。
アカデミック生活の第2は、10数年ぶりに9/6からの日本神経心理学会に参加したことである。高知で開催され、350km余りの距離を車で出かけた。京大の教授の研究会に参加できないか、紹介して欲しいと臨床心理学が専門の義娘が言うので、彼に会うのが主目的であったが、この春で定年になったという旧知の私立医大の教授の講演を聞くことができ、終わってから、久しぶりに立ち話ができた。
てんかん学が専門の彼は、発作が生じてから意識を取り戻して元の状態に戻るまでの間の「発話」を調べ、失語症患者の回復プロセスで生じる「発話」の性質の変容の類似性を主張している人である。何年もかかる失語症患者に比べて10-30分ほどで調べられることに気づいた彼に感心するばかりで、セレンディピティ(serendipity)とはこういうことができる人を言うのだろう。
立ち話では、あまり世間に役に立たない研究は楽しいねと言って、次回どこかで再会できるかわからない、誰と会っても一期一会だと、頷きあったことである。
灼熱のU S Jの7月
前回の投稿からしばらく時間が経過したのは、夏風邪を引いたことと、細かい作業を要する仕事があったからです。発熱はなかったのですが、喉の痛みが4日程続き、晩酌もままならない状態が続いたのです。咳が昨日辺りでようやく治ったので2週間続いたことになります。
7月22日に仙台から帰郷した次男一家の孫が源で、家内も、22日に集まった長男夫婦も移されました。
コロナで昨年は中止した帰郷で3年ぶりであり、小5と小1の二人はU S Jに行くのを楽しみにしていたのです。1週間ほど前から盛り上がってLineで盛んに催し物などを知らせてきていました。数年来、信州の涼しい気候の下で合流していたのですが、孫たちはもはやU S Jの方が断然魅力的なのです。6ヶ月の3人目の孫娘も来たので、U S Jへはこの赤ちゃんの世話のために荷物番を頼まれていたのです。もちろん、僕は同道するつもりでしたが、(高価な)切符を買っていると言うので、家内まで同道することになりました。数日前までは、行かないと言っていたのですが、一緒に行くことになりました。
言われるままに7時前に自宅を出て、8時前にゲート前に並んで、入場。ともかく暑い日で、暑さ対策は色々と次男夫婦が準備していましたが、僕たちは何の知識もないミニオン館にならぶ孫たちを尻目に、外のカフェで荷物と赤ちゃんの番をして、日陰を探して休んでいたのです。昼前のこの時点でも相当に暑く、37-8度はあった筈ですが、風もあり、耐えていられたのですが、ニンテンドー・エリアでは暑さにまいりました。孫たちの目的はスーパーマリオで、U S Jに近年付設した(らしい)このエリアに入ることでした。特別に入場規制があるらしく、入ったら戻れないということで、暑さが一段と増してきている中を、ともかく入ったのですが、このエリアは元々のU S Jに付け足したので狭いところにさまざまな遊具などが詰め込んである、暑さ対策は何もしていない、ベンチも樹木の緑もない、とんでもない非人間的な場所でありました。2度と行かないぞと固く誓える場所であリマス。
もっとも、このエリアは人気らしく(狭いこともあってか)ぎゅうぎゅう詰め状態でした。客は大半が外国人(アジアからの)で、スーパーマリオが見える入り口のトンネルでは、「オー」と感嘆の声をあげていましたが、ゲーム自体を知らない僕には、何の感興も起きないエリアでした。実は、このトンネルだけが日陰で、他は灼熱状態(入場口の辺りと違って地面はアスファルト(コンクリートかも)で、おそらく40度くらいの暑さであったと思われます。
家内と2人、トンネルでへたり込んで、バギーの荷物番をしていました。3時頃までは辛抱していましたが限界と判断し、我々は3時半ごろに退散したのでした。孫たちは7時過ぎまで居て、小1が2時間並んでも乗りたいと言う乗り物に乗って帰ってきたのでした(お姉ちゃんの後を追いかけているおとなしい男の子と思っていましが、この小1は意外と意思が強いことを知リました。このようなpositiveな感想は自分の子どもでは決して思い浮かばないけど)。
ともかく、暑かったので、この時体力をかなり消耗したと思います。
U S Jだけにしておけば良かったのですが、我々は白浜アドベンチャーワールドにつれていくことを2年ほど前から約束してあり、パンダハウスに宿泊の予約を入れていたのでした。USJから2日後に白浜まで車2台で出かけることになりました。こっちの方は初めてではなかったので、休憩所で荷物番はそれほど苦痛ではなかったのですが、涼しいところを探し回っていたものです。しかし、体力は消耗したはずで、孫の風邪への感染に対抗する免疫力は残っておらず、風邪を引いた次第なのでした。
次男一家は7泊して帰っていきました。孫たちは「じいじと寝る、ああばと寝る」とか言っており、ばあばとは寝たようです。3世代家族では祖父は疎外される存在なのは30年ほど前に助産師学生との研究で報告したことがあり、その通りであることを確認したことであります。
嵐のような1週間でありました。世間で耳にする「孫は来て嬉しい、帰ってくれて嬉しい」を実体験した、Realizeしたことであります。
「誰でも体験できる感慨ではない」と自らに言い聞かせて、なかなか治らない咳に対峙した2週間でもありました。この歳になって、孫に振り回され、赤ちゃんを抱いて重さや質感を味わえ、「幸福な高齢者としての生活」を営めていることに間違いはありません。このタイトルの本を以前出版したことがあるのを思い出しました。Amazonで、まだ、買えると思います。
と言うわけで、以上がしばらく寄稿しなかった理由です。
7月からスペースを提供してくれる大学が見つかり、週に2回ほど9-17時で出かけ、気分転換をしながら、研究者生活を維持しています。
八雲研究の一端として、「暦年齢よりも気持ち年齢を若く推定する老年者の認知機能」についての論文を8月1日に投稿しました。と言うように、退職後も何とか元気に過ごせているので報告いたします。
6月が終わる(楽天的な32歳)
退職してから3ヶ月が過ぎた。前々回の記事に書いたように、依然として同じルーチンで毎日を過ごしている。
午前中は送られてくるメールや論文をチェックした後、30分程度の散歩。朝飯を食べてT Vを見た後(ワイドショー番組も長時間見るに耐えないが、エンジェルスの大谷のニュースが救い。他者を貶しあうことばかりが蔓延する当節、唯一、褒め称え合うことができる滅多に無いことだからに違いない)、論文原稿を書いたりして2時間ほどを過ごし、午後は読書と英国留学時に書いていた手書きの日記(メモ)の電子化とで、2-3時間という生活を維持している。
日記メモの電子化は8ヶ月分が終わり、1978年6月の欧州旅行に出かけるところまでが、昨日までの進捗状況である(メモを音声入力して、wordを修正するのだが、滑舌が悪いことと、音声認識機能が不十分なのか、結構手間がかかり、時間が潰せるのだ)。
今までの作業の感想を記しておくと、
まず、エピソードには覚えていることや思い出せないことが混在していることに気づく。世話になったことや人名を見て思い出せる場合と、さっぱり分からなくなっていることが少なくないのに気づく。学生寮に住んだ最初の8週間は、早く研究に着手せねばという焦りばかりが記してある。そして、日本人恋しくて探し出した松下電気の社員(工場の英国進出の下拵えにドイツから転勤したばかりの幼い子づれ一家で、家族が合流した際にもよくしてもらった)の名前を失念していた。忘恩の徒と言うべきで、やはり、記録をとっておかないと40年後での記憶想起は、実に頼りない。
そして、驚くほど積極さと信じられないほどの楽天的行動エピソードに驚くのだ。松下電気には、電話をしてタクシーで、用事もないのに(日本語が話したくて)押しかけたのだ。毎日のように何通も手紙を日本に送ったりしており、ちょっと、ノイローゼ気味だったのかもしれない。
11月4日にヒースローで家内と子供を迎え、合流しての暮らし方が大変ということで、中古車を購入している。20万円ほどで院生から購入したFord Escort(バンで、後ろにバギーが載せられるので便利だった)は故障ばかりしている記載がある。エンジンがかからない(スターターが回らない)ことが何度も起きているのに、懲りずに車で出かけている(そして故障して、AAを呼んでいるのだ)。AAは日本のJAFに相当する会社で、何度も助けてもらっている(当時携帯電話はないのに、どうして呼べたのかは不明)。
自動車は故障するものという理解が当時では常識だったせいか、スタートしない車があると、周りの誰もが自発的に押しがけ(車を押して動かしてもらいつつ、エンジンを掛けるとスタートするのだ)を手伝ってくれるのだ。自分の車は故障のたびに、ダイナモ(発電機)をはじめ部品を新しくしていたので、決して安い買い物ではなかった。3歳児と生後数4ヶ月の子どもがいるのに、よくも懲りずに故障ばかりする車で出かけたものである。無謀な父親としか言いようがない。
4月末には春を待ちかねてドライブに出かけている。その直前に車検を通しての出発だったが、50Kmも行かないうちにノイズが気になり出し、道中で見つけたFordのディーラーで見てもらうと、「サイドブレーキのケーブルが出す音なので、切断した」という。当時の英国の仕事ぶりにも驚くが、そのまま日帰りで運転しているのだ、ドライブは中止と考えていないのだ。もう、大丈夫と楽天的に考えたのだろうか。
今の自分は決して積極性が高い、楽天的な人間とは考えていないので、日記で確認した積極性や楽天さはどうしたことか、若さの故なのだろうか。
若さとは楽観的であることなのだと結論づけてしまうと、確実に歳を取ったのだと思わざるを得ない。もっとも、「今の30代はそんなに楽観的な若者はいない」と言われると、日本が高度成長期に入った頃の時代精神がなせる業だったのかも知れない。
人を育てると言うこと
最終講義、退職祝いなどの行事は、周りを煩わせたくないので断ってきたが、5/13日に大教大の元ゼミ生らがホテルでパーティをしてくれた。同窓会をやりたい、家内に会いたいからと言われると断るわけにもいかない(5月の連休BBQや新年会は60歳過ぎまで自宅でやっていたので、元学生らは家内の方が親しい場合がある)。
名大に移籍する時、還暦の祝い、大阪に戻った時と何度も集まってもらったので、もう静かにfade outしたいと考えていたが、そう言うわけにも行かなかった。言うまでもなく、何度も教え子に祝ってもらえるのは教師冥利に尽きることである。
参加者は16名で大部分が元・現役の研究者。話題は30-40歳代の僕のゼミは英文をやたら読ませた、英語で論文を書かせた、厳しかったと言うのであった。その頃、いずれ業績主義の時代が来ると言うのが口癖で、論文を書けとうるさかったらしい。
当時は学術論文を書くことや英語論文を書くことが、今ほどやかましく言われない時代であったが、英語、英語と言っていたのだろう。僕は英語が苦手で、大学進学の際に英語がもっとできれば、というタイプであったので、コンプレックスの裏返しかもしれない。
このパーティから帰宅した夜に突然、英語を書き始めた原点を思い出したのでメモしておきたい。ひょんなきっかけで、英語で文章を書くきっかけがあり、それを育ててくれた指導者がいた事を思い出したのだ。
昭和40年の話である。時間割では2年次の初級実験(毎週実験をやり、次週にレポート提出。これで心理学専攻生は8人から4人になった)に続いて、3年次に上級実験という科目があった。1年間自分でテーマを見つけて実験を行い、年度末にレポートを出す、というものだ。
皆と同じように、夏休みに論文を検索し、写真接写して(英文誌を読むように指示されていたと記憶する)、ハガキサイズに拡大した論文を読むのだ。たまたま、ラットの心拍の恐怖条件付けを取り上げることにした。このテーマは、自律神経系が条件付けられることを意味し、後に行動療法の基礎となる知見なのだが、その意義や重要性は20年ほど後で知った。当時は理解できておらず、ただ、先行研究を追試しようとしただけであった。
計画は了解してもらえたが、「ラットの心拍を記録できる、脳波計のようなものはない」ということであった。クラブの後輩(電気科専攻)に事情を話すと手伝ってくれることになり、日本橋の古道具屋でトランスなどの電気部品をかき集め、2月ごろにやっと、ラットの心拍を増幅して記録できる装置が完成した。
ここまでで時間切れとなり、条件付けの実験までには至らないまま、上級実験計画は「ラットの心拍を記録した」というところで終わった(翌年の卒論では、元々の計画の光刺激+電撃を対提示にして条件付け反応を立証できたが)。
不完全燃焼の実験レポートで、心拍を記録した20センチほどの記録用紙をデータとして提出した。情けなかったのと悔しかったのだろう、3ページほどの顛末レポートは英文で提出した(元気の良い助手の先生が英文誌に論文を掲載し、威勢が良かったことの影響かもしれない)。
思いがけず、科目担当の生沢雅夫先生は、丁寧に赤字を入れてレポートを返してくれた。英文の誤りを添削してあり、全面真っ赤で、恥ずかしかった記憶しかない。生沢先生は「優」をくれた。
その3年後に、平野先生がカリフォルニア工科大の知人に僕の英文を送ってくれ、手直ししたものが、米国心理学会雑誌に掲載されたおかげで、助手の公募に、幸運にも、勝ち残ったのであった(これらの経緯は以前にどこかに書いた記憶がある)。
修論を英文で公刊できたのは、平野先生のお陰だとこれまで思っていたが、そのような動機づけを導いてくれた源は、実は、上級実験のレポートでの僕の拙い挑戦を馬鹿にせず、丁寧に対応してくれた生沢雅夫先生にあるのではないかと思い至ったのだ。人を育てると言うことは、面倒でも丁寧に若者の無謀な挑戦を応援することなのだ。そういう指導者に出会えた幸運を、パーティをキッカケで確認できた事になる。教え子たちに改めて感謝したい。
いずれにしても、教育の成果は何10年も経過して発現する場合もあると言う事だ。この間まで数年間悩まされてきた、「教育成果の見える化」と称し、卒業1年後にアンケートを取れなどという教育行政での要求には、たいした意味はないことは明らかである。