退職1ヶ月が過ぎた
退職して1ヶ月が過ぎた。3月末に誘われていた何組かの食事会は、時間を持て余す可能性を考えて4月、5月にとお願いしてある。4月に入って週に1回のペースで、大阪市内に出向いる。かつての同僚(教員も職員も)と再会すると、異口同音に、毎日何をしているかと問われるので、毎日の過ごし方を報告しておきたい。
通常よりも長く、73歳まで大学に勤務した先輩が、退職後半年くらいうつ状態に陥ったことを耳にしたことがあり、ストレス・マネジメントを上手にせねばなるまいと、2月あたりから考えていた。
ストレスの強さは、配偶者の死がナンバーワンと古い心理学の教科書には書かれているが、退職のストレス価も非常に高かったように記憶している。慣れ親しんだ環境が一変するわけなので、当然である。環境の変化をできるだけ大きくしないのがマネジメントとして一番ではないかと判断して、そのように心がけている毎日である。
退職したら、暇だから、スポーツジムに行くとか、ゴルフを習うとか、新しい行動習慣を獲得せねばと考えるのは、面倒くささが返って心理的に負荷と思うのだ。
職場に行かない日を、これまでどのように過ごしてきたか、その通りにしようと考えたのである。つまり、退職までの土曜日や日曜における時間の過ごし方を踏襲することが一番であろうと結論づけ、そのようにしている。おかげで、今までのところ、うつ状態には陥らずに済んでいる。そして、不思議なことに、時間がゆっくり流れる割に、過去のことは遠い昔に思えるのだ。
具体的には、基本5時台に起床。コーヒーを3杯分淹れる。6時台にP Cに向かい、メールとニュースをざっとチェック。その後、30-40分の散歩に出る(だいたい同じルートを辿るが、数日後に開店するスーパーの準備状況の進捗を見るために、ルートを変えることもある)。そして、朝食。30-40分T Vを見て(つまらない番組ばかりになったものだと嘆きつつ)、2杯目のコーヒーを手に書斎(と呼ぶこともある自室)に戻る。
自室で論文を書く作業とか、関連論文を検索して、pdfにして整理、と言う具合に読み書き作業をして約2時間が過ぎると、昼ごはんの時間になっている(退職したのだから昼の準備は自分でせよという無言の圧力を検知して、自分で準備することもある)。文献をpdfかできることは拡大して読めることで、高齢者には何とも有難いことである。
午後は、現在は2つのことで3時間ほどが過ぎる。一つは、1977年に英国に行った期間に殴り書きしていた日記の電子化である。古いノートを読んで音声入力をしたものを自分のメールの送り、それを読み出して手を入れるのだ。滑舌が悪いのと英国の人名や地名が多いので、けっこう手間がかかる。3-4日分を1日に電子化するペースなので、夏頃までこの作業が続くはずである。イスラエルに滞在していた時の日記もあるので、当分時間潰しには困らない。2つ目は読みたかった本を読むである。新潮社刊の評伝「吉田健一」を読み直している。648ページの大部なもので、当分時間潰しにはなる。
吉田健一は吉田茂の長男で英文学者だが、酒の旨さの文章での表現力は抜群で、開高健と双璧と思っている(政治家の子供でも優秀なのは、家系図を開かせて、地盤を継ぐなどと言うことはしない)。彼がどこかに書いていた、「自分は少しも苦労せずに、つまり自分から解ろうと努力しないで何かが頭に入ってくるような情報には、碌なものはない」と、気に入っているフレーズなので、卒業式辞で紹介した。
自室での時間が長くなるので、腰の状態を警戒して、5時過ぎにもう一度30分弱ほどの散歩に出る。
というのが、4月に入ってからの1ヶ月の過ごし方である。夕食時にはたくさんの人からいただいた銘酒を味わっている。(おそらく高価なのだろう、高価なものは美味い!)と悦に入っているのは言うまでもない。
退職記念に書道の道具一式をもらったのだが、以前の生活様式を踏襲することに専心しているために、まだ、開封せずにある。この調子では、何時になるのかしらと、思うことである。
最後の卒業式を終えて
3月23日に最後の卒業式を行なった。コロナ感染防止策として昨年通り300名程度のサイズになるように学科を群にわけ、10時開催と13時開催の2回に分けてである。天気予報では雨となっていたので、着物姿が多いはずで気の毒な場面を予想していたが、午前の部はほとんど降らず、午後も小雨が時々降る程度で安堵した。マスクの着脱は自由としてあったが、7割ぐらいは着用していたように思う。
3年間のコロナ対策で遠隔授業やマスク・手洗い、クラブ活動や飲み会の自粛など、青春を謳歌すべき時期に不自由な学園生活を強いることになったが、2020年4月1日には学習支援ソフトmanabaのアカウントを新入生にも配布できており、他大学でのような、数ヶ月の自宅待機というような措置を講じることなく済んだ。学年暦通りの教育活動がコロナの3年間でもできたのは幸運であった。
大学を去るまでの期間が少なくなるにつれて、どういう気持ちが生じるのだろう、眠れなくなるのかもしれない、卒業式で感極まるなどということになるのかと想像していたが、24日の理事会・評議員会を含め、主な行事は終わったが、全くそういうことは起きずに、淡々と気分の高まりも落ち込みもなく、終末までの時間を送っている(高齢による感情鈍麻かも知れないけど)。
卒業式では、『新しい旅立ちに不安もあるかも知れませんが、この先に何が待ち受けていようと、新たな環境のもとで、これからの人生を、皆さんはしなやかに、強かに生き抜いて欲しいと考えます。そのためにはまず「自らが動くこと」、そして「他者を頼ることに躊躇しないこと」が秘訣だと思います。何の準備も意図もなく、何気なく歩いていて気がつけば、チョモランマの頂上にいた、ワールドカップでスペインに勝利した、W B Cで優勝していたとかいうようなことはありえません。「意図を持って日々努力することでしか、物事は成就しない」のです。「自分は少しも苦労せずに、つまり自分から解ろうと努力しないで何かが頭に入ってくるような情報には碌なものはない」という格言を思い出します。さらに、自分で動いてみて、行く手に不安を感じたとき、うまくいきそうにないと判断したときは、他者に頼ることに躊躇しないことです。
日本人は,主に稲作栽培で生き延びてきました。連綿たるその歴史の中では知識のある外国人や先達に自ら教えを乞い、頼り、そして、絶えることなく次世代にその知識やわざを伝えることで今に至っているのです。多様性を認めながらの共生社会の原型はここ柏原の地が賑わっていた、1500年以上前の飛鳥時代に見ることができるのかも知れません。先輩、友達、親などの他者に頼ることに躊躇せず、困ったときには頼ってください。もちろん頼るべき選択肢に、皆さんと一緒に学んだ本学教職員も含まれています。そして、そのうち、頼られる大人になって下さい』と訴えた。
『さらに、これまでも卒業生には、一貫してお願いしていることですが、皆さんは、福祉社会の実現に科学の目を持って取り組むことを理念とした大学を卒業します。福祉の基本は平和であることが第一の条件です。私には、昨今、我が国に平和から乖離する方向性が芽生えているような気がして、危惧しています。皆さんは将来何があっても平和を志向し、「全ての人の幸せを願う」を忘れずに行動してほしいと思います。「正しい」という尺度は時代により変わりえますが、「平和を希求する」ことと、「他者のため、世のために役立つことをなすことが、人間にとって最高の行為である」という考え方は、時代を超えて普遍であろうと思います』と結んで、式辞とした。
式典の時間を30分程度に短縮しているので、思いの丈を存分にとはいかなかったが、本学の学生の特徴を考えた上での挨拶文としたつもりである。9年間も若者に卒業式で自分の思いを述べられ、幸せな高齢者だと思う。27歳で教育公務員助手から始まり、講師→助教授→教授→学部長→学長と全ての職階を経てきた。元気でなんとかこなしてこられたのは関わりのあった全ての人のおかげである。
3週間ほど前に父親の法事の際に、「余生でなく、他人にサービスする与生」を過ごすようにと年若い住職に言われた言葉が耳に残っている。そうありたいものである。
元職員や元学生が退職を機にと、飲み会をしてもらっている。まだ、お酒を飲める体力に、そして、少しも変わらないですねというお世辞に気をよくしている年度末である。
28日には職員が集会を開いてくれるらしい。その時に惜別の情、極まって、というような姿を見せるのを期待されているのかも知れないが、上手く演じられるか、心配というのが退職1週間前の現状であります。
部屋の掃除と片付けの日々
現在の居室から荷物を整理する作業を進めている。3月25日には学外者とのWEB会議があるので、ゆっくりの整理でも良いかと思っていたが、事務からは3月14日ごろまでにほとんどの作業を、と言われている。引越し業者のスケジュールにより、次の入居者の荷物が入れられないためらしい。この季節は、昇進や移動で研究室の玉突き状態が生じるのだ(講師は2人部屋から個室へ、学部長はすこし広い目の部屋があてがわれるのです)。
それでは早々に部屋を開け渡し、残っている年休で骨休みを、ということには残念ながら、ならない。3月末までルーチンの会議や入学試験、法人内の短大、高校、幼稚園の卒業式があるので、休むわけにはいかないのである。
2週間前から少しずつ整理を始めた。引越し業者に丸投げできるほど作業は単純ではない。前々任校→前任校→今の大学と、2度引っ越しは経験したが、今度は終点の自宅になる。極力荷物はこの場所で整理しなければならない。貸し倉庫に保管という選択肢はないことにしてある(遺品整理に子供を煩わしたくはない)。言うまでもなく、自宅に十分な保管スペースが確保できるわけがない。
手伝いますとの声はかけてくれるが、かえって時間がかかるので断って、自分でやっている。職員もルーチンの仕事があるので気の毒だし、何より「これはゴミ」、「これは残す」、「これは検討する」などを、即座に指示するのは面倒なのだ。
部屋の荷物は、①進行中の研究関連の検査器具やデータ、②書籍、③その他諸々(古い備品、文献資料、など)に大別できる。全2者は、元学生の勤務する大学に送りつけた(スーツケースとダンボール10個ほど)。荷物の開封時には手伝うと言って、問答無用で送付した。②の一部は図書館職員に委ねることができた。問題は③である。古い備品、資料などは、実は目に触れない戸棚や引き出し、ファイリング・キャビネットにあるのだ(大切なものはしまい込んでしまう無意識行動の証である)。この整理に意外と日数を要している。立ちっぱなしの作業なので、腰が痛い。
出てくるものは、古い記憶がよみがえるものが多い。振り返れば、50年の研究者生活は手書き謄写版→青焼コピー→乾式コピーを経験し、ペラペラの5インチフロッピー、3.5インチのフロッピー、MO、USBと記録媒体の進化プロセスを辿る道であった。情報センターの尽力で3.5インチ以降の記録はほぼ読み出してもらい、別途記録し直すことができた。3.5インチは4MBだったのに、今や2テラの記憶媒体なのだ。適当な言葉も出ない変化である。よくぞ対応して生きてきたものだと思う。
30代の頃の海外との交流書状や写真で、残してあったものは、pdf化した(後で見直すことなど多分ないだろうとは思いつつも)。交換教授でイスラエルに昭和58年に出張したおりの書類には、飛行機運賃が95万(エコノミー)で、日当が60米ドル/dayとあったのを見つけたりすると、当時のテルアビブでのエピソードを回想して作業は捗らない。
院生の頃から文献カードを作っていたが、そのカードが出てきた。外国文献社のカードはホールソートできるようになっている(エクセルの並び替え機能の原型)ので当時の研究室では流行していた。5,000枚が一箱で、それ以上の枚数が残されてきた。これまでの引越しでは捨てるに忍びなかった山のようなカードは、廃棄した。山積みのカードの写真は残した。文献を複写して読み、カードに整理する作業で、研究していると実感していた、そんな時期があったように思い出す。現在、文献はpdfをPCで画面を150-200%拡大すると、読むことができるので、有り難い。もっとも、昔のままであれば、老眼が進んで文献が読めなくなったので、研究者引退!と言えたはずで、それも良かったかも知れない。
まだ、古いPCや周辺機器の整理が残っている。電子機器が活用できるようになって次々と新しいものを購入し、廃棄し、また購入と、随分と費用を使ったことを思い知る。いただいた研究費に相応する成果が出せたかと問われると、「もちろん」と言う勇気はない。しかし、20名近いゼミ生らが研究者に育ってくれているので、彼らの成果をひっくるめれば、「トントンです」と言えるかも知れないと、都合よく、思うことである。
そう言えば、先週、退職を知った教え子の一人が東京から、出張帰りに高槻で、一席設けて、労ってくれた。教師冥利につきるというものである。まだしばらくは、部屋の掃除と片付けの日が続くのです。腰にカイロを貼っての作業であります。
寒波到来の月末
1月23日からの週は10年に1度の寒波襲来という天気予報の通りになった。おかげで、いろいろなことが起きた。仙台に3人目の孫が生まれて、家内が手伝いに行って不在のこの期間は、一人でなんでもせばならない多忙な時期となった。
まず1月23日(月)。昼過ぎの会議中に突然左の耳が聞こえにくくなった。ちょうど飛行機に乗って気圧が変わるときに経験する耳がツーンとする感じになってしまったのだ。口を大きく開けたりすると聞こえが戻るが、それもそのうち有効ではなくなり、一晩寝れば良くなっているかもしれないという淡い期待を抱きながらも、木曜日に病院に行こうと思って帰宅した。
翌24日(火)は午後から夕方にかけて気温が極端に下がるという天気予報なので、迷ったが車での通勤をあきらめて、入試のための8時の職員朝礼に出るために、朝早く出勤した。耳のことがだんだん気になりだし、18時からの会議まで時間があったので、保険証なしで、大学近くの耳鼻科に突発性難聴ではないかと診察してもらいに行った。なんと左耳に耳垢が詰まっていたのが原因であった。2ヶ月ほど前に病院で耳の精密検査を受けた時、左右の耳垢を専門医が取ってくれたので、どうして急に左耳に垢がたまったのかは謎である。しかし、聞こえ難くさはなくなった。突発性難聴かもと、心配していた自分がおかしいくらいで、自分はラッキーと思ったことである。
予報通り、午後から雪が降り始めた。早く帰りたかったが、18時過ぎからの会議で、19時過ぎに大学を出ることになった。雪は大したことはなかったが大阪駅に着くと、JRは雪のための遅延でダイヤは乱れに乱れていた。60分遅れ70分遅れの表示を横目に新快速に乗りこむと、運よく2・3分で出発した。ところが途中で信号待ちが何度かあり、高槻駅には45分程の遅延で到着した(隣の線路を各駅停車が何度も追い越して行った。各停に乗れば遅延なく済んだのだが)。その頃の高槻は吹雪で、バスを待っている間も地吹雪のようであった。21時頃にやっと帰宅し、急いでお風呂沸かし、レトルトご飯とカレーでお腹を満たして床に着いたのであった。このときも、車で通学しなくて良かった。夏までには新しいタイヤに変えなきゃいけないと思っていたので、この積雪では運転は難しかったかもしれないと、自分の判断に、ラッキーと満足していたのであった。翌朝のテレビは、前日20時頃からJR新快速は高槻から山科あたりで信号機の氷結で何本も運行できなくなり、6時間も8時間も電車の中に閉じ込められたと、ニュースを報じていた。自分も30-40分遅ければ、缶詰状態にあっていたかもしれない。自分はラッキーだったのだ。
翌水曜日は会議が多く、特に人事教授会などが予定されていたが、自宅周辺の積雪は10cmばかりで、市営バスは運転を見合わせ11時後まで動かなかった。JRも同様に運転を見合わせてみたため、大学には出勤しないことにした。木曜日は研修日なので2日間の休日となった。家内に言われていた風呂掃除やゴミ出し、トイレ掃除などで一日を費やした。文句を言われずに済んでラッキーと思ったことである。
1月28日土曜日には生まれたばかりの孫娘を見るために、飛行機を予約してあった。朝の7時半ごろのバスで阪急電車を使い、モノレールで伊丹空港に行く予定でいた。早く準備ができたので、迷ったが、6時50分のバスに乗った。この日も寒く、道路は前日の雨が凍り、バス停まで荷物を持ちながら、やっとたどり着いたのであった。バスは定刻に来た。空港には余裕を持って着けると思っていたら、バスは、5分程で駅にたどり着くあたりまで来たが、「陸橋上でドラッグが横転したため通行止めです。降りてください」ということになった。阪急の駅まで荷物持ちながら凍っている道路をおそるおそる30分ばかりを歩いてやっとたどり着いたのであった。予定していた時間のバスであれば、バスは不通で空港には予定通りつけなかったと思う。なかなか、ラッキーと感じたことであった。
仙台で予定どうり、孫娘に会うことができた。生まれたときの体重が少なかったので退院は遅れ、自宅に戻って3日目であった。赤ちゃんは思ったより大きく(見えた)、よく飲み眠るので安心した。仙台は雪こそなかったが道はまだ凍っている部分が多く、外に出ず、孫の相手をして過ごした。6歳の孫(男)は慣れてくると、ここぞとばかり体をぶつけてきたり、夜一緒に寝ると言う。およそ一年ぶりの孫との再会を果たし、祖父としての幸せな感情を満喫した。
31日(火)に家内と帰阪した。疲れてるので、タクシーで帰ることにした。代金は6,000円ぐらいかと思っていたが、中国自動車道が工事中で阪神高速経由ですと運転手がいう。伊丹から豊中IC+吹田ICを経由しての道のりで、3角形の長い方の2辺を通ることになった。料金は2倍になった。ラッキーとは行かなかった。
この10日ほどの間に、自分はついているな、ラッキーだなと思っていたが、タクシーの件を含めると、必ずしもそうでもない。そんなに良いことばかりが続くわけには行かないのが人生なのです。
と、いう具合に、寒波襲来の1月末はあっという間に終わったのでした。
2022年を振り返る
あと1日で2022年は終わる。今年も忘年会への誘いは一件もなかった。コロナ前であれば11月の末から12月末にかけて日程を調整するのが大変、というのが通常であったのに、コロナ3年目で慣れたとは言うものの少し寂しい。
コロナの感染状況が一向に下火にならず、ここ2-3日新たな感染者が増えている状況にあり、大阪府は黄色から赤に注意信号を変化させた状況なので、忘年会を!というような呼びかけが出るはずもない。まだほとんどの人がマスクをしている。ロンドンに住む友人のクリスマスカードには、感染者はいるようだが、マスクをする姿は皆無で、コロナはもう忘れ去られていると報じていた。
と言うわけで、師走も静かに暮れていく中で、記録を残しておきたい。後年、読む機能は残るが、書くことは叶わないとなった場合に懐かしむ資料となればという思いからだ。
仕事の方は、次年度の予算申請についての各部署からのヒアリングが朝から晩まで続くスケジュールは今年も同様であった。大学の建物は建設されてから約30年が経過し、あちこちにガタが来ている。その修復工事費の見積もり額は膨大で、学生数が増えて収入が充分という状況ではないので、通常の教育・研究予算へのしわ寄せをいかに減らすか、ため息まじりの日が10日ばかり続いた。今年は、阪神高速道路の工事の影響で通勤に使っている近畿自動車道では毎日のように数ヶ所で渋滞が発生し、いつもは60-70分で住む通勤時間が2倍以上かかる。混む時間帯を避けたいのだが、予算ヒアリングのスケジュールは朝から入っているのでそういうわけにもいかず、通勤に体力を消耗したというのが特記事項である。
2022年の重大事件を記録しておく。その第1は2月24日のロシアのウクライナ侵略であろう。ロシアの侵略計画はうまくいかずに戦争状態は今も続いている。ロシアのエネルギー政策の影響が秋口から日本にも襲ってきて、物価が高騰している。アベノミックス由来の円安も加わって、大変だ。ネット情報では、数年前には1万円を下回っていた、モルトウイスキーの「ラガブーリン」は倍ほどの値段になっていた。まだ2本分ストックはあるが、もうすぐ年金生活者になるので、買うのは無理になるかも知れない(と書いておけば、誰かがプレゼントしてくれる可能性もゼロではないのでメモしておく)。
第2は7月8日の奈良での選挙演説での安倍晋三銃撃事件である。銃撃犯は旧統一教会と彼との関係を恨んでの犯行ということが明らかになるにつれて、カルトと自民党との関連が炙り出され、政治家の卑しさが露わになるという社会状況になったことも記しておこう。その後の数ヶ月の社会状況は、半世紀以上前の学生運動が下火になる頃に「一点突破、全面展開」(状況は不利だが、一つのきっかけで、ガラリと様相は変わるのだ、という意味)」と叫んでいた、落ち目のセクトのスローガンが蘇ってきた。社会状況は大きく様変わりしたことを記しておく。
ウクライナ侵略を引き金に中国の台湾侵攻を連想する世相を追い風に、岸田政権は突然専守防衛策の転換と防衛費を賄うための増税を打ち出しできた。この先どうなるのかわからないが、歴史の大きな転換期に差し掛かっている印象を肌に感じる。じっとして傍観しているだけの人間ではいけないと思うので、仕事に行かなくて良い自由の身になれば、若い頃に戻って街頭でのデモ行進なんかに参加したいとものだ(もっとも、邪魔になると言われる可能性もないわけではないが)。
と言うわけで、元首相銃撃事件から学生運動の頃の標語が想起され、そこから、デモに参加していた学生時代が想起されて、「事あれば、街頭に出ようか」と意気込んでいるのであります。
クリスマスの賑わいにも年末の賑わいにも程遠い一年であったと改めて記録しておきたい。長男夫婦が帰省するというので、体力に応じた程度に部屋の整理やガラス磨きぐらいはせねばならない。できるかどうかは不明だが、それだけの気力だけはある、2022年末である。
年末にあたり、教え子の池田和夫、親しくして頂いた箱田裕司、丁野恵鏡の諸氏が、それぞれ、60,代、70代、80代で亡くなられたことも記しておく。
我が身は、コロナ感染もなく無事に年を越せることを喜びたい。
退職準備を開始
今年度末が任期切れとなるので、退職する。学長を3期9年も務めたことになる。これまで2期以上の人はいないので、長くやらせてもらったことになる。2-3年で別の大学に移るつもりであったのに、都合15年も在籍したことになる。静かにフェードアウトしたい。
あと100日余りで部屋を出なければならないので、12月に予定の廃棄書類の提出日に合わせて、いらない文書や本を束ね始めた。今の大学に来てからはできるだけ専門書等は購入しないようにして、電子ジャーナルを中心に学術情報を得るようにしてきたので、それほど大量の廃棄本は無い。しかし、本棚からいらないものをと探していると、いろいろな思いが浮かんで、作業は捗らない。たとえば、製本された博士論文の処置だ。博士論文はハードカバーで製本し、背表紙に金文字でタイトルをつけたものを提出することが求められていた時期がある。そのために古い博士論文はハードカバーである。それが合計23冊、その後はソフトカバーでも良くなり、それらも合計2冊ある。自分が主査や副査の学位論文もあるし、議論したことのある学生からの謹呈本もある。
問題はこれらを本人に返却すべきかだ。もらったものを邪魔だから返すというのも失礼だろうし、自宅に持って帰るわけにも行かない。自宅にはスペースが乏しいからだ。場所がないというだけでなく、自分が死んだ後で家族が処置に困るだろうということもある。さてどうしたものか、もうしばらく考えねばならない。
振り返れば、27歳で大阪教育大の助手の仕事についてから(当時には珍しく、公募人事であった。僕が蹴落とした事になる応募者のその後はどうなったのだろうと、時に思い、その人たちに恥ずかしくないように生きねばという想いはある)、たくさんの学生を指導してきた。すべてというわけではないが、大多数の元学生たちの自己実現を手助けできたのではないかと思う(歳を取ると何でも都合よく解釈するので)。「一番幸せな人生は、次の世代の行く末を、安心して見送り、消えていけるもの」という箴言をどこかで見たことがある。幸せな人生であると改めて思う。
大学の部屋の書物を整理する際に、自宅の本棚にもなにがしかは入れなきゃならないと思い、思い立って自宅の本棚からいらないものを捨てる作業もしている。学部生の時代に購入した学術書は、値段が高いものであったので蔵していたが、すでに内容も古いし、躊躇なく廃棄準備ができた。一方で、思い出があり、捨てられないものも見つかった。例えば、森北出版の「バローの数表」という本がある。裏表紙を見ると昭和26年が初版で、僕のは昭和39年18版のものだ。全部で208頁からなっているベストセラーだ。内容は、数字ばかりで、1から1万までの2乗、3乗、平方根、立方根、逆数、などが印刷されているだけの内容である。この数表とそろばんと手回し計算機(Tiger社製の片手では持てない鉄の塊のようなもの。自室には廃棄されたものをアンチークとして飾っている)で、統計の授業を受けたのだ。いまではボタン一つでできる相関係数や分散分析、因子分析などもこれらの神器で行った。統計計算の仕組みなどは理解できたが、随分手間がかかり、毎週実験演習のレポート提出のために、実験データを仲間同士が分担しながら計算し、駅の待合室の電灯の下で持ち寄ったものだ。
僕は心理学を専攻したものの、その内容についてよく知らなかったのでこんなものかしらと思って履修しただけだが、心理学を学ぶことに意識の高い学生の中にはフロイド選集なんかを読んでいる人もいて、実験と統計処理が必要なレポートを作成する作業と自分の考えていた心理学とは違うと言う学生もいた。2年生の初めに8名いた心理学専攻生は卒業時には4人になっていた。一人は卒業した年に亡くなった。残り3人は時々集まっている。
捨てられないなと思ったもう一冊は、緑の表紙の『E. F. Rindquist;Design and Analysis of Experiments in Psychology and Education. Boston: Houghton Mifflin Co.』の本である。統計の先生であった生澤雅夫講師は、この393pageのテキストを用いて1年間分散分析の授業をされた。学生も当然英語はできるものとみなしてのことだったのか分らないが、我々学生は付いて行くのに必死であった。一年では単位が取れないのが普通とされている科目で、忘れもしないが、試験は10時に始まって4時に解答を回収するものであった。3要因の分散分析を、数表と手回し計算機でやった。今から考えると、生沢先生はその後、「潜在構造分析」の統計書を出版されたので、学生と一緒に勉強しておられたのかもしれない。先生は海軍兵学校の最後の頃の学生で、京都大学を経て着任されて間もない頃であった。定年後、神戸学院大学に心理学教室をつくられたが、すでに鬼籍に入っておられるので、確認しようがない。
という具合に、部屋の整理をはじめているが、なかなか進まない師走なのです。
人間ドックの結果から
人間ドックの結果、何か厄介な大きな疾病が見つかったということではないので、まずはご心配なく。
人間ドックは30年以上、毎年受診している。自分の中年期から現在までの身体機能についての変化データはしっかり蓄積されているはず。この辺りの年齢でもっと節制していれば、いくつかの血液検査指標はと反省しても、過ぎてしまった歳月は戻りはしないが、それでも、開示請求が可能なら、見てみたい気がしないでもない。
ここ数年はほとんど同じような検診結果で、肝臓が肝硬変直前状態であること、血糖値が基準値ギリギリで、日本酒などは控えた方が良いことなど、自分でも気がつくが、そのつもりはない(次男から、酒をやめて長生きしたいかと聞かれた時に「否」と答えてある)。大きな変化は幸いなことに見つからず、身体機能には急激な劣化は、まだ見つからなかった。身長も青年の時から比べれば3cmばかり低くなっているが、昔の老年心理学の教科書に記載されていたデータ、すなわち20代から70代の間に身長は7-8cm低くなる、を考えれば少ない。これは週に一回だけれども水泳を続けているおかげではないかと信じて、取り立てて楽しいわけではないが、プール通いを継続している。
今年の人間ドックのフィードバックには、データ表のほかに紹介状が封筒に入れられてあった。紹介状は耳鼻咽喉科の専門医宛であった。そういえば検診時に聴力が少し下がっていますねと看護師に言われたのを思いだした。高齢になれば高い周波数の音が聞きづらくなるのは通常のこと(正常な老化)で、わざわざ耳鼻咽喉科に出かけることもないか、と思ってはみたが、研修日で、特に予定がなかったので、買い物がてらに駅前の病院に出かけることにした(この病院の前身が高槻に進出した頃からの馴染みなのだ)。阪急百貨店にビックカメラが入ったので、風呂の脱衣室の電球が切れており、ちょっと寄ってみて電球を買うことを展望記憶課題として、9時40分ごろに病院に入った。
2年前に皮膚科に来た折に比べると患者は満杯であった(あの頃はコロナ感染への不安からか病院は空いていた)。病院の待合室は女性の老人でいっぱいだった。女性に比率は視野に入る範囲では8対2で女性ばかりであった。この比率の際の原因は?などと考えてみたり、自分のことはそっちのけで、こんなに老人が多くては、医療費が嵩むはずだと思ってみたりしたことである。
予約をしてないので待たされることは覚悟して、読書の準備もしていたのであるが、待ち時間は予想を超えて2時間超となった、途中で看護師が気にかけてくれて先に聴力検査をやってしまいましょうということで、人間ドックよりも少し精密な聴力検査を受けた(ノイズを重ねて刺激音を提示する条件が加わったのだ)。またしばらく待って、やっと診察の順番が来た。
診察室に入り、60代と思しき医師から耳の診断を受けた。最初、聴力検査の高音部が30デシベル以上であるが、これは高齢になれば普通ですからということであった。自分の理解していることと同じなので、やはりと思っただけであった。
ところが、医者が耳を覗くと耳垢がずいぶん溜まっているという。思いもかけないことであった。医師に耳垢を取ってもらったが、右耳(この側の聴力が落ちているという)はなかなか耳垢が取れないのだ、いろいろと器具を変えたりして試みるがなかなか取れない。鼓膜に耳垢がこびりついてなかなか剥がれないので、薬剤の溶かしましょうということになった(耳鼻科の診察の待ち時間が長いはずで、待ち時間でイラついていた自分を反省したことである)。
別室で右の耳に液体を注がれ15分間安静を指示された。右耳は炭酸水がはじけるようなシュワシュワ音がずっとしている状態が続いた。左耳を枕にして、右耳に薬剤が入っているので看護師が色々世話を焼いてくれているらしいが、話はほとんど聞こえない。15分経って、右耳からそっと液体を脱脂綿に戻すとそこには黄汁が付いていた。
そのあと、医者はちゃんと取れたと言ってくれた。少し耳をいじった時に出血があったようで薬剤を塗布されて、解放された。次の診察の予約は必要がないということであった。要するに、耳垢取りに病院に来たのであった。
もう一度聴力検査をして確認するプロセスはなかったので、聴力が改善したかは不明だが、都合3時間以上を耳垢取りに要したことになる。
昼飯を買ってきてくるようにとの家内の指示は無効となって、特に食欲もなかったので、そのまま帰宅した。買い物は忘れなかった(前頭葉機能にまだ顕著な低下はないようだ)が、買って帰ったLED電球はソケットのサイズが間違っていた。後日買い直しと言うことになる。9時過ぎに自宅を出て16時前に戻ったので、1日は耳垢掃除だけに費やされたことになる。
誰かに耳掃除をしてもらうということは初めての経験で、況や耳垢がたまっていたのはなんとも恥ずかしい。数年前からある耳鳴りが小さくなったような気がしないでもないが、日常生活で耳が遠くなったことを自覚してはいないので、耳垢撤去の効果がいかほどか不明なままである。
とまあ、思いもかけないことにつながる場合もあるので、人間ドックフィードバックをもとに、精密検査を受けることは意味があると思ったこと小春日和の秋の1日であった。
あっという間の9月であった。
9月は何をしたと言う記憶がないのに、あっという間に終わってしまった。9月の最終週まで大学は夏休みなので学生の姿もまばら。コロナ感染の心配も少なく、大した事件が起きなかったこともあるが、時間が早く過ぎると感じる老人の心的特性のせいかもしれない。
昨日の出来事がかなり昔のことのように思えたり、早朝に泳いできた日曜日の昼過ぎには、その事実もかなり以前のことのように思えたりする。年をとると過ぎてしまったことが、物理的な時間よりも以前のことのように思えることは、よく知られた記憶錯誤現象だが、「過ぎてしまったことは仕方ないじゃないの」という、菅原洋一の歌じゃないけども、高齢者の適応メカニズムなのだろう。喜怒哀楽の感情を長く継続させなくて済むことで、エネルギーを消耗させないで日常の生活を安穏に過ごさせるメカニズムかなと思う。
「安倍晋三は家庭を崩壊させた元凶である」と信じ込んで、その怨念を何年間も継続させて復讐をするというようなことは、若者だけが可能なのだろう。その後の社会事象からは「一点突破、全面展開」と大学紛争時に耳にした慣用句が記憶からポップアップしたことである。9月27日に、国葬という形式で葬儀が行われたが、賛否が別れる行事なので大学で何もしないという選択をいち早く通達した。
怪しい記憶でも、想起させるのは加齢防止に有効と聞くので、何をして時間を過ごしてきたかを振り返えろう。大半は過去の八雲研究のデータベースをいじって、肩を凝らし、手を強ばらせて、目を霞ませながら毎日を過ごしていた9月であった。
最近の高齢者研究では、80歳以上で5-60歳レベルの認知機能を維持している人をSuper-agersと呼び、この人たちの脳画像で、神経細胞層の形態や神経連絡の特性を検討する発表が増えている(ように思う、多くの研究者ができることではないので、限られた研究拠点での大人数での共同研究なので、僕の錯視かもしれないが)。
お金のかかるの脳画像研究は無理だが、Super-agersが壮年期、初老期にどのような認知機能特性だったのか、どのような日常生活を過ごしていたのか、血液検査や尿検査から見る生化学的な特徴はどんなものか、などの疑問は必然的に次々と浮かぶ。
この種の検討には我々の八雲研究は挑戦できると思い、挑もうかと思案している。縦断的資料を持たない研究グループにはできないはずであり、追従研究は出そうにないからだ。
自分自身がSuper-agersになれるかは別にして、この検討テーマを研究グループの後輩たちが挑戦できるように、基礎的なデータベースを作っておこうと3週間ほど前から取り組み始めたのだ。心理班は既に21年分の高次脳機能縦断検査データを電子化しているが、最初の2-3年間は、縦断研究を計画して同一の検査項目を同じやり方で収集してきたわけではない。そのために、各年度ごとに注意や記憶などのデータが揃っているかを確認して、同一の形式でデータを揃え直す必要がある。
2001年からのデータ整理をし始めたが、なかなか厄介で、ある年度では、受診者氏名が漢字とかな読みが併記してあり、漢字表記だけの年、カタカナ表記だけの年があったりする。平均して300-460人くらいが一年間に検査を受診してくれているので、それらを揃えるのは意外と大変なのだ。
漢字だけの年のデータファイルにはカタカナ表記を記入し、エクセルの並べ替え機能を使ってデータを揃えるのだが、ある年には東を「アズマ」、別の年度には「ヒガシ」と記入してあったり、幸子を「ユキコ」とかいた年もあれば、「サチコ」記入してある年もある。性別や年齢を頼りに揃えなければならない。350人規模の人名漢字表記をカナ表記に揃えるエクセル画面での作業だけで、手は強張り始め、目は霞んでくる。
この作業をまだ途中だが続けている。この種の単純な作業もそれほど嫌ではない自分に驚いている。加齢で喜怒哀楽の感度が弱ってきたのか、はたまた、作業に飽きる前に手が痛くなったり、背中がこわばったり痛くなったりするので、適当に休憩が挟まっていることが良いのかもしれない。あと、2-3週間は必要なように思うが、単純作業に夢中になって、数週間前に考えたSuper-agersの研究計画の中身を忘れないように、頭の片隅に置きながらの毎日である。自分は何をしに来たんだっけというような、短期記憶の把持機能が、今やってる作業が終わるころまでにないことを祈るしかない。
この種の作業中であることは、後輩には伝えている。後輩が使ってくれれば、嬉しいことで、次世代に繋げるというだけでいいのかもしれないけど。一つくらいはとっかかりの論文を書きたいとも思っている。
「いつまで飽きずにやってるの?」と言われそうだが、50年以上続けてきた生活様式を変えるのは、一気に老化が進んでしまいそうで、不安なのである。
とまあ、何をしたかよく思い出せない9月も、振り返れば、相変わらずの日常生活であったということであります。
悲喜こもごもの8月であった。
まず「悲」から。僕の40年以上前の指導学生で高知大学教授の池田和夫君が亡くなっていた。彼は京大を卒業し、国家公務員の上級職に合格していたにもかかわらず、大教大の私のところに来た。研究者になりたいというのが理由であった(京大の方が有利と思うのだが、当時の関西圏の院生の間では大教大の大学院の方が可能性が高いとされていたらしい。旧帝大のその頃の先生は学生の指導は最大の関心事とは見做されていなかったのかも知れない。できる者は自分で育つということなのだろう)。
僕のところで一緒に珠算熟達者の左右脳機能差研究を行なった。左右脳の機能差は学習の経験によって変化し得ることを立証した研究は、神経心理学のトップ・ジャーナル「Neuropsychologia」に掲載された。博士課程は京大に戻り、その後北大の助手・京大の助手を経て、高知大学に職を得た。彼のキャリア形成プランはうまくいったと言えるかもしれない。その後も一緒に国際学術研究でスイスやイギリスに一緒したり、高知で何度も遊んだものだ。
詳細は差し障りがあるので書かないが、6年ほど前にパーキンソン病に似た難病を患った。数年以内に歩行ができなくなり、認知機能が劣化し、死に至るという難病であった。幸いなことに、症状を急激に回復する治療法が見つかり、元どうりの生活ができるようになったというメールを2017年の9月にもらっている。難病が見つかった頃に年賀状のやり取りは終了という連絡をしており、僕のところにも以後、連絡がなかった。8月初めに何となく気になって、大学のホームページを探すと彼の名前がなかった。そこで、知り合いを通じて情報を探した。
入院生活を終えた後、好きだったアルコールを断つことができず、病状は悪くなり、勤めも2年ほど前から休職していたらしい。1月31日に自宅で一人亡くなっていたのが2月5日に見つかったという。
気の毒な死に方であった。自分の教え子が定年を待たずになくなるという知らせは、なんとも形容しがたい。澱んだ気持ちは3週間後の今でも僕の中を漂っている。知り合いの尽力でお墓の場所が分かったので、墓参をして気持ちの整理を付けねばなるまい。
二つ目の「悲」は、上記に比べるのも憚れるレベルだが、コロナの感染のためにお盆の頃に孫たちと一緒に軽井沢郊外で遊ぶ約束が実行できなかったことだ。テレビ電話で時々孫たちの様子は見聞きできるけれども、それで満足できるというものでもない。次の機会を待つしかない。
「喜」もあった。嬉しいことの第一は、2年間中止されていた北海道八雲町での健診事業に参加できたことである。2001年から参加し2019年で途絶えていた。我がチームは9名全員PCR検査を行ない、認知機能検査も感染予防に最大限留意しながら、データを集めることができた。人数制限されたこともあって、従来のように400人規模という訳にはいかなかったが、297人の資料を収集できた。コロナの感染状況の中で、研究活動が再開できたとっていうのはありがたい。「喜」である。あと何年関われるかは未知数だが、継続してゆく体制はほぼ整っているので、安心している。
「喜」の第二は、一年越しにやり取りしていた論文が最終的にパスし、出版契約、校正作業を終えることができたことである。八雲町の健診でのデータを元に利き足による身体のバランスの差異を報告する内容のものだ。都合4回やり取りした事になるが、最後の修正要求は、高齢者に関する英語記述についてであった。アメリカではエイジズム運動が心理学会に影響を与えているようで、高齢者という表現で差別感を持たれる用語は不可という。「elders, the aged, elderly people, seniors」などは不可。「older adults, older people, the older population」が望ましいので、修正せよという指摘であった(アメリカ心理学会のガイドラインが添付してあった)。どれも日本語に直せば一緒のように思うが、ニュアンスに差異があるようで、語学力の未熟さを思い知るばかりである。
日本のように何事にも年齢が関わる社会と違って、アメリカでは年齢は差別を生む事項の一つと考えられているらしい。人種、性別と同じように自分でコントロールできない事項については、差別とみなされるらしい。日本で当然のように考えられている年齢による定年制などアメリカでは不可ということだろう。
儒教の思想が染み込んでいる自分としては、一定の年齢で「終わり」と言ってもらえる方が有難いが、人それぞれかも知れない。
という具合に、悲しいことも嬉しいこともあった8月でした。
喜寿の7月
7月7日にイギリスのジョンソン首相が辞職する意向を表明した。その理由は閣僚を含め次々と周囲の重職スタッフが辞職を表明する事態が続いたためらしい。辞職は彼に信頼が置けないという理由という。昨年末、コロナの感染拡大中に、国民には自粛を呼びかけていたにもかかわらず自分の誕生日パーティーを官邸内で実施し、そのことについて、後日ミステイクであったと謝罪をしたものの、嘘をついたこと、そして周辺人物のスキャンダルを覆い隠そうとするような言質があった、その二つが理由であるという。
首相であっても、ともかく嘘を言う人は認められない、ついて行けないというのが、次々と辞任して行く理由であると言うのだ。嘘を言うことは、人間として許せない、信用できないという強い倫理下でのスタッフの行動で、イギリスの政治家や官僚たちの倫理観の高さに、さすが憲政の母国と改めて感心した。
その時に、つい連想したのは数年来の安倍元首相周辺の官僚や政治家のことで、彼が明らかに嘘をついていると知りつつも、それを覆い隠し、地位に連綿とするのが官僚や政治家の一般的特性と思っていたのが間違いであることを知った。あえて声高に言うと、イギリスに比べての日本の官僚や政治家たちの倫理感の低さが嘆かわしい!
こんな安倍元首相に関わる過去を想起していた頃(7月8日)に、奈良で彼が若者に銃撃され、死亡したという緊急ニュースに接した。当初言われたような政治的な意見の相違による、いわゆる政治テロではなかったようだ。銃撃をした若者は自分で銃を作り、安倍さんはシンパと信じ込んでいる旧統一教会に家庭を崩壊させられた、怨恨理由によるものらしい。自分に票をくれる者については誰であってもどんな背景を持つ人であっても構わないというような振る舞いをする政治家の、ある意味で宿命的な悲劇と言わざるを得まい。
さて、この7月で元気に喜寿の誕生日を迎えた。一向に日本の社会が豊かで健全な国に育っているという感覚を持てずにいる。むしろ、自分のことにだけ関心を持ち、自分の経済的な豊かさだけを追求したり、嘆いたりすることに終始したりすることばかりが増えているように思う。7月10日に参議院選挙があったが、社会問題に直接的・根本的に対峙しようとする投票行動はいっこうに伸長せず、投票率も低く相変わらずで、自民党が大量に得票した。無力感だけが残ったままである。
今の僕の関心に夏野菜がある。カボチャを作ってみた。2本の苗を買って、1本は昨年までゴーヤを育てていた場所に植えた。土地は痩せている。以前はどうしようと言うくらい採れたゴーヤもここ数年収穫が激減していたし、ゴーヤチャンプルー料理も食傷気味なので、今年は育てるのをやめにした。別の1本は畑の端っこに植えて、塀に沿わせようとした。畑のカボチャは順調に育ち、野放図にみるみる蔓を伸ばし、一方の先端を止めたが、逆方向に伸びて手が届かない。月桂樹の木を覆い尽すまでになった。YouTube由来の知識で、受粉をしないとカボチャはならないと、その日を待っていたが、雌花と雄花とが同時に咲くと言う機会は極めて少ないことを知った(何本も苗を育てている場合には問題はないのだろうけど)。
雌花が咲いている朝に雄花は開花せず、雄花が数多く咲いているのに雌花はないという状況が連日続くのだ。不十分な開花レベルで、トライした受粉は結局ほとんど成功せずじまいだ。雄花と雌花が時を同じく開花しないとダメということは、若者の結婚事情にも似ていると思ったことである。しかし、畑の苗からは一個のカボチャが赤ん坊の頭大に育ち、茎のコルク化も進み近日中に収穫できそうである。痩せ地の一本は頼りなげにゴーヤ用のネットを伝って成長中である。この蔓も僕が半ば強引に受粉させた雌花は成功せず、知らないうちにテニスボール大のカボチャができている。
豊かな土地であればカボチャは実るというわけでもなく、豊かでない環境でもきちんと育つことがあるということだ。初めてのカボチャ栽培からの教訓である。先月末の猛暑で動きの悪かった蜂たちの活動が、7月に入ってようやくが活気を帯びてきたおかげだろうが、一人でに痩せ地のカボチャは受粉したようである。自然界というのは不思議なものである。
僕自身はカボチャが好物というわけではないが、家内は時々かぼちゃを購入したりするので、今年の夏の野菜栽培はまあまあ合格と評価してもらえそうである(将来の食糧難の場合に備えても、カボチャ栽培技術をマスターしておかねばならない)。2本しかないキューリは今年も順調で、現在までに約80本を収穫し、キューリ料理のレパートリーはそんなにないと言うので、職場に配達する日が続いている。セロリも順調であるし、パプリカも順調だ。パプリカは黄色や赤にするまでには40-60日かかると言うので、観察中。ミントも大きく育ったので、ラム酒を買いに行って、ヘミングウェイが愛したというカクテル「モヒート」を楽しんでいる。暑い日にはジントニックよりも旨く感じられる。
このように、古希の誕生日を猫の額ほどの菜園を相手にカボチャの生育を見守りつつ元気に過ごせている毎日を、有難いと思っておりまする。