概算要求雑感
病気辞任の学部長に代わり概算要求に関わった。いままで概算要求について全く知らないわけではないが、部局全体のそれも他部局にまたがるような規模のものに関わる経験は始めてである。約2ヶ月に渡るやっかいな交渉ごとも昨日で大方の目途がついたという感じでいるが、学ぶことが多かった。以前、これらの交渉時に感じた鬱憤を書いたことがあるが、その後の過程で必ずしも他部局の交渉者が分からず屋でひどいとも言えないことが判った。しかし、それは決して言うわけにはいかないレベルのもので、政治的折衝にはある種の欺瞞や駆け引きが付随することも経験した。
今になって思うことは、こんなにもめたのは、当事者が俯瞰的に事態を捉えていなかったことに起因すると言える。独立行政法人化を目前にした時代での概算要求というものの特性をしっかり把握できていれば、もっと簡単にことは済んだ可能性が大である。責任者が俯瞰的に捉えていなければならないはずなのに、そうではなかったということである。責任のなすり合いをするつもりはないが、俯瞰的にものを見ることを時々はしないと、的を外してしまうということである。昨今、流行語の抵抗勢力なるものも、渦中にある人に流れが見えないため、それなりに懸命に悪気なく動いているが、事態に棹さして、そのように呼ばれてしまう羽目になるのであろう。
今回の概算要求折衝においては、幸い僕らのグループは大学トップの意向や構想を直接知りうる手だてがあったため、ほぼ望んでいる形で収拾できた。直接交渉している相手よりもさらに上位にある基本理念・構想を知りえたので、(途中では混乱させられ、気分を害したりどなり合ったりで、往生したが)最後はうまくまとめることができたのである。つまり、もめている交渉ごとを俯瞰できたことがよかったのだと思っている。
ときどき鳥になり、自らを取り巻く状況を俯瞰することが大切なのだということを学んだ。Bird Viewの大切さを知ったということである。つまり、If I were a birdの気持ちで、返り見ることである。このことは、単に反省することを意味しているのではない。反省ならサルでもできる。少し高見から自分を捉え、自らの行動の戦略を立てる、律することである。これは、サルにはできないことであると同時に、NOVAに駅前留学しなくても可能だ。
学部長は大変
2月末まで学部長事務取扱という職にある。大臣から交付された辞令をもらっているので,学部長の職を正式にやるためのものである。もう少しで終わる。先週の教授会でごくろうさんの拍手をもらって,一段落と思っていたが,とんでもなかった。新研究科創設の概算要求に関係して,他の部局との折衝が暗礁に乗り上げてきたからである。本省交渉が始まって7ヶ月にもなる今頃何を行っているのかというのが率直な感想で,(実は総長もそう言っているのを側聞している)。詳細を書くわけにはいかないが,この,定員の新規増は不可能というご時世で10人近い人間をあげますと言うのに,要らないと言うのだから気が知れない。曰く,今ある学部の構成が崩れる,学生定員が埋まらなくなるかも知れない,くれるという人間が若すぎて,云々である。大学の今後,社会環境の将来を見据えてどうかという視点を欠いている,コンテクストの読めない人達が相手なので,虚しい気になる。もらってしまえば,後は何とでも出来るとうものだが,そう言う知恵はないのだろう。
改革の時期には,トップにある者が,交渉の経過に一任を取り付けて臨機応変に進めなければ取り残されることが分からない部局のようである。そういうことは民主的でないと単純に信じ込んでいるらしい。結局は,トップが信頼されていない,トップなど信頼しないという構成員から成り立っているようである。
気位は一流である様子は,種々うかがえるが(移籍されると悪貨が良貨を駆逐しかねない,業績審査を云々),外からはそれほどのものとも思えない。学生定員が埋められないなどという話は,学生指導もできない(すなわち,謹慎中か何か知らないが)定員を抱える人達が言えた義理ではない,などと,言いたいことはいっぱいで,あまり怒鳴らずに交渉するのはストレスフル極まりない。
昨日はちょっと大声を上げてしまったが,罵倒し合う会でもやってくれれば,負けはしないのだが。こんな文章でも書いて発散するしかないのかなあ,とため息をついているのだ。
早く,春よ来い。
父の死
平成13年12月15日の午前2時に父が亡くなった。90歳であった。人生における重要な事件なので忘れることはないとは思うが、付随する詳細なことについては時間とともに怪しくなるはずなので、記録しておこう。
父の死は予期していなかった。正月は当然越せると考えていたからである。世話をしてくれている兄が、熱が高くなったので一度見に帰ってはと電話をしてきたこともあって、1週間前の8日に父を見舞った。僕が行ったときには熱も下がっており、もちろん痩せて、衰弱している様子はうかがえたが、僕を同定することもできて比較的元気な様子であった。
12月15日は土曜日であり、普通ならば自宅に帰っているのであるが東海神経心理学研究会を開くことになっていたので、シンポジオンに泊まった。ふだん泊まる職員クラブよりもベッドが快適で9時間も眠り、いつもよりやや遅い7時過ぎに研究室に出た。すると留守電が入っており、家内が父の死を知らせていた。携帯電話には兄も家内も留守電を入れていたのだが、習慣になっていないのでチェックしていなかった。
予期していなかった割には比較的落ち着いていたと思うのだが、研究会のことを頼むために早起きの渡辺さんに電話してすぐに研究室に来てもらい、8時過ぎに高槻の自宅に帰り、車で滋賀の実家に駆けつけた。12時過ぎであった
(ここまでは1月2日に書いたものである。)
異常に忙しい日が続いて、続きを書くことができなかった。もう2月近くが立って、詳細は怪しくなっている。やはり、記録は時間をおいてはいけないことを痛感しているが、それでも、書いておこう。
帰った頃はみぞれ混じりの寒さであった。すでに近所や親戚が集まっており、僕は、遺骸の置かれている部屋に行き対面した。痩せた顔は穏やかでありギリシャ時代の哲人の風であった(これは後で坊さんが表現したことばだが、同感であった)。そのとき涙は出なかったが、兄嫁らが入ってきて、ことばを掛けられたのを機に涙が突然,猛烈に出た。滂沱のようにと言っておこう。何がどうということでの涙ではない。自分でも何故なのか判らない。悲しい、残念というようなラベリングができないものであったように思う。
田舎での葬式であり、とくに何ができるということでもないので、親戚のものの指示に従って、線香の番をしているというだけであった。その部屋に暖房を入れるわけにはいかないので、ひどく寒かった。夜に悪寒がし、発熱してしまった。それまでも風邪気味の体調で、下痢気味であったが、午後は体調悪化がひどくなり、通夜が始まって、お膳が出されたときも、吸い物の一口でトイレに走るという状態であった(その後、3日間何も食べられない状態がつづくこととなった)。父用に処方されていた抗生物質などを飲んだが、熱は下がらなかった。
父が高齢であったことや、すでに1年あまり自宅で寝たきり状態であったこともあり、父の死を嘆き悲しむという雰囲気よりも、一つの時代が終わったという感慨の方が親戚や家族にも強かったように思う。望み通り、自宅で死ねたのを幸いと思うことにしようというのがみんなの気持ちのようであった。僕自身もそのことに違和感はなかった。むしろ、亡くなった父に想いを馳せることより、自分の体調が思わしくないことが心配であった。というのは、17日に学部長に代わって、一日中ある部局長の会議にでられるかや、18日の教授会を切り回せるかが気がかりであったのだから、利己的なものである。
結局、下痢止めと絶食で17日の会議は何とかこなせたし、18日の教授会も大過なくこなすことができた。このときの体験を述べよう。
17日の夜は大学の宿舎に泊まった。もちろん、一日中絶食していた。18日の朝、眼が覚めかけのときに,妙な意識を体験した。父が僕の身体に頭から入ったように感じたのである。僕は、霊魂や死後の世界云々には全く関心がなく、信じない人間であるが、憑依感のようなものを持ったことを記しておこう。その日の午後にある教授会は問題なくこなせるような予感がした、父がついているような安心感を持ったのである。50を過ぎた男が何をいっているのかと感じる人が多いと思うが、初めての妙な体験であったことを告白しておく。
絶食のおかげと学部長の代理という仕事のストレスであろう,1週間で3キロ痩せた。減らさねばと思っている体重にはやや足らないが、これも父親の死のおかげである。本当は風邪のせいで痩せたのであるが父親の死でしばらくの間でもげっそりしているように見えたらしいので、ちょっと得をしたかなと思わないでもない。
郁子
郁子は"むべ"と読む。知り合いの女の子の名前というのではない。僕も辞書を引くまでモむべモという漢字を知らなかった。広辞苑によればアケビ科の常緑蔓性低木。5月頃白色で淡紅紫色を帯びる花を開き佳香があると書いてある。アケビ科なので当然秋にアケビのような実を付けるが、開裂しない。
実は我が家の小さな庭の片隅に4~5年前に母親の実家から分植した"むべ"に始めて一つだけ実がなった。母親の実家が改築をして、庭にある"むべ"の木を切るので分けたいと伯父が持たせたものだ。母親の実家のモむべモの木は大きく、毎年実を付けるのだが、たくさん実がなるわけではない。食したのは子どもの頃に1~2回だけである。甘い、アケビに似た味だったと思う。アケビと同じように種を包んでいる袋のようなものが甘いのだ。種が多くずるずるとすすって食べたことを覚えている。天皇が食する食べ物なのだなどと能書きを聞かされながら食べたはずである。
伯父は死んだ母親につながるものだからと分けてくれたのだが、育つとは思っていなかった。庭の片隅にとりあえずという程度の気持ちで植えたのに、今では蘇芳(すおう)の幹の半分ほどの高さにまでそのつるを巻き付かせている。この蘇芳の木は長男が生まれたときにお祝いと三戸秀樹氏が贈ってくれたものなので、26年にもなる。改築をしたときに捨てられそうになったのを2株に分けて今の場所に移植したのだが、春には赤い小さな花をいっぱい咲かせ、その後で大きな葉っぱを茂らせる。しかし、"むべ"が精力を吸い取るのか、一方の"むべ"の花の咲き方は他方に比べて元気がない。
始めてのたった一つの"むべ"の実は、小さいが一人前に薄紫のきれいな色をしている。始めて実がなるのは嬉しいものだ。"むべ"の実は、派手ではなく、うまく表現できないが、ひそやかで、平安朝の雅なイメージにマッチするたぐいの薄紫なのである。
夏の始めに実が付いていることに気づいて、熟れるのを待っていた。色がきれいに変わったところを待ちかねて実をもいだ。
居間のサイドボードに飾られた"むべ"の実は、すでに13回忌を終えて、日頃忘れがちである母親のことを憶い出させる解発刺激となっている。"むべ"の木を我が家に分植させた伯父の深慮はこのようのところにあったのかも知れない。
今年は気づかなかったが、広辞苑が言う春の白色の花の佳香を来年は嗅いでみようと思っている。まさか、母親に匂いがすることはないだろうが。
高校での講義
福井県立高校で心理学とは何かについての授業をした。これは、高校の進路指導の一貫と言うことで、2年生に大学でのいろいろな学部についてのイメージを与えるという趣旨のものである。まことに結構なことだと、「国文学」がテーマの学部長と「心理学」がテーマの僕とで出かけた。内実は、この種のことを他の忙しい先生方に依頼するのは如何なものか、執行部でかぶりましょうということでもあった。
大したことでもないと思っていったが、実はそうでなかった。
その第1は50分で授業というのは大変難しいということを知った。時間配分がままならないのである。「現代心理学は心のケア風の臨床心理学だけではない」、「名大の心理学研究者の学部別構成の特徴」、「情報行動論の構成」、「その他の大学での心理学研究」、「実際に大学で、あるいは自分がやっている研究の具体例」、「心理学を学ぶのに必要な心構え」などなど、言いたいことがたくさんあるのをどのように凝縮するかは実に難しかった。「情報文化学部の構成」など言い忘れたことも多い。そのうち生徒らが感想を教えてくれるのであろうが、笑いをとろうとそれなりにあがきもしたが、評価に自信はないのが正直なところである。教育実習では授業計画案を作成させるが意味のあることだと今頃判った次第である。
第2は高校2年生はずいぶん幼い印象でとまどってしまったということがある。純朴な地方都市の高校生だからかも知れない。大学の講義では、このおっさんの言うこと聞いておくか、という雰囲気なので、適当に冗談など交えて客をいらう(翻訳しにくい大阪弁)のは難しくないが、真面目な目でじっと聞こうとしている対象を相手には冗談も言いにくかった。真面目すぎる相手を扱うには新しい工夫が必要に思えた(真面目すぎる女性に言い寄られた経験のないことが災いしているのかも知れない)。
このように、不完全燃焼気味の時間を過ごすと疲労感は強い。運悪いことに、帰りの特急はグリーンを含めて指定席皆無、自由席はぎゅうぎゅう詰めで2時間程立ちっぱなしであった。かくて、疲労感は倍増。まあ、これも管理職手当の一部かと納得しつつ、新しい経験には新しく学ぶべきことが多い、未熟者であることを自覚させられたという次第である。次回があれば捲土重来を期したいものである。
研究指導とアカハラ
学生に研究を指導することは実に難しい。昔から大学院レベルだけでも指導教官と学生の間がややこしくなって、というたぐいの話に事欠くことはなかった。前任校ではその種のトラブルが教官同士にまで拡大し、裁判沙汰にまでなったことがある。裁判記録(実際は裁判にはならなかったが)に当時教室主任であった僕の名前まで載っている。
名大でも今日のように大学院生が急増すると、教官と学生の間のトラブルは必然的に多くなる。実際、増えているようである。難民などと称しているが、別な指導者を探索している学生を見かける。若い時期は短いのでこの種の時間が長期化するのは双方ともに不幸なことで、個人レベルだけでなく、社会的にも損失が大きい。
ア カハラに分類されるトラブルの原因は双方にあるというのがおそらくは正確であろう。教官の要因には、学生の能力レベルが低く期待することができないという不満が大方のようである。これこれの論文をまとめて読め、データを集めたのだからすぐに分析せよ、分析結果があるのだから論文にしろなど、教官の期待や要求に迅速に対応できないことへの不満である。自戒を込めてであるが、とくに教官が若い場合には要求はきつくなる。自分は同じことを長くやってきているのだから理解が深くて当然であり、学生はこれから学習していくのだということに思いが至らない。昔の自分はどうであったかを振り返っても、ネガティブな記憶は変容しているか抑圧されているので気がつきにくい。来てくれた学生に合わせて指導という風には、思いは心の隅にあっても、なかなかそうはいかないものである。逆に学生側からは、教官が十分にケアしてくれない、自由にやらせてくれない、自分を認めてくれないなどの要因が主なものであろう。客数が増えれば必然的に自分に配分される役者の流し目は減るので、望んでも仕方がない。自由にやらせてくれない(自分の研究テーマを押しつける、自分流の考えを押しつける)という不満もあるようだが、これも教官側の研究スタイルなので仕方があるまい(もっとも客が来なくなれば困るはずであるが)。客の要求に併せて商売の種類まで変えるわけにもいくまい(中には出し物を多数持っている教官もいるかも知れないが)。自分を認めてくれないという不満は教官側の要求水準との不一致でしかない(前述のように客の層に併せて出し物を変えるというまでに至らない役者もいる)。
結論的には客である学生の方で、教官の研究テーマ(出し物)、研究スタイル(指導法)、学生への要求水準(客層のえり好み)をしっかり見極めることしかあるまい。それと、いったん切符を買って入場したが、これは違うと思ったら、日暮れまでに残された時間は短いのだから、早めに退場して、別のところに入場することである。
もっとも、途中退場すると役者の方から恨まれるなどと斟酌する向きもあるかも知れないが、役者も毎年別な客が入場するので、大して気にはしないものである。少なくとも、役者の端くれである私はそうである。途中入場も一向に気にしない。
同時多発テロ事件、そのとき
大きな事件があると、そのとき自分は何をしていたのかに付随する記憶が生じる。神戸沖で起きた阪神大震災の早暁、自分はトイレの中にいて戸棚から皿が飛び出し割れる音を聞いていたと記憶している。しかし、この種のエピソードも長い時間の間にはゆがむといわれるので、備忘録的な意味で9月11日夜10時頃に米国で起きた同時多発テロ事件にまつわる出来事をメモっておこう。識者が盛んに指摘するようにこの事件は世界史に大きな転換をもたらすかもしれないからである。
大勢の人がちょうど始まったニュースステーションを見ていて云々と言うが、自分は寝ていて朝まで事件を知らなかった。6時頃珍しく家内に「大事件が起きている」と起こされたのである(家内は2時頃までテレビに釘付け状態であったようである)。10日夜には木暮君の送別会があり、台風が襲来していたので研究室で10時半頃就寝。翌朝6時50分の新幹線に飛び乗り、自宅にいったん戻って風呂に入り、9時前に近所の看護学校でD-CATの再検査信頼性検討のためのデータ取りをした。自宅に戻って昼食後、再度大学に戻り、4時からの将来構想委員会に出席した。委員会はかなりもめて、久しぶりに興奮気味で7時半頃帰路についた。つまり、この日は新幹線に3回乗ったことになる。11日の朝に起きにくかったのもこのためである。
名古屋に向かう新幹線の京都駅ホームで、並んで待っていると、待合室に2歳ぐらいの男の子を連れた母親がいた。しばらくすると「キイェー」と妙な音がした(人間の声とは思えなかった)。男の子が待合室の自動ドアと硝子の壁に挟まれていたのである。幸い子どもは怪我もなかった様子であったが、このとき「世の中何が起こるか判ったものじゃないなあ」と強く感じたのを覚えている。
12日の朝テレビで知った同時多発テロ事件でも「世の中何が起こるか判ったものじゃないなあ」と再度感じた。映画を見ているようで、報道にも臨場感はなかった。あまり強い感情が生起しなかったように思う。
この事件のおかげで、12日の神経心理学会評議員会で招待講演の先生が来日できないことを知り、事件はわれわれにも影響することを知った。
ところでこの記事は当分読み直さないようにしようと思う。自分の記憶の変容を数年後に検討するためである。
スコットランドでの出来事
どこかの大学の観光学の教授が、日本人の旅行は確認型で(つまり、雑誌や本で見た名所を訪れ、やっぱり写真どおりだと確認する)、欧米の、旅行の歴史が古い国民の旅はエピソード発見型であると言っているのをテレビで見た。日常性を離れ、何かふだん出会えない出来事に遭うことを楽しみに旅をするのだという。この夏の私の旅はまさに欧米型であった。
8月末、久しぶりにスコットランドを旅した。ここ数年はアイルランドに出かけることが多かったのだが、シングルモルトの醸造所を訪ねてみたかったのである。この旅で大きな忘れ物事件を起こしてしまった。Edinburghを抜けてAberdeenへ行く行程であった。そのまま行けば問題は生じなかったのであるが,最短距離ではなく,緑の多い山側の道を選択したのであった。確かに綺麗なスコットランドらしい風景を楽しんだ。途中でPitlochryという観光地に12時前に到着。このままでは2時には大学につけないが3時ごろにはいけるであろうということであったのだが,昼飯を食べに入ったレストランが混んできて,結局1時間半近く昼飯にかかってしまった。
この後,スコットランドで最小の醸造所に行く。この時点では3時ごろに到着ならいいかと,思っていた。比較的まあいいか風に考えていたのであった。しかし,実際にはそれから先が山の中の速度を出せない狭い道であり,大きな幹線道路に出るのにずいぶんかかることが判明するに至ってあせってしまった。2時半ごろになり、遅れるという電話をしなければということで公衆電話を探すが,山道を走れど走れどなかなかみつからないのである。やっと1台見つけたのは故障。電話のありかを聞くのに2から3回とまる始末。ようやくRuvernという村のはずれで1台見つけて電話。1時間遅れることの承認をとった(実際は2時間待たせた)。少し気持ちに余裕が出た感じがしないでもなかったが,その後渋滞気味の道路をいらいらしてやっと,大学に。そこから電話してVernetti先生を訪問。前にMontrealで出会った院生も待っていてくれた。恐縮する。彼女はイタリアのパドバ大学でDel-Antonio教授の弟子であることが判明。世間は狭い。もっとも僕がパドバ大学で講演した1978年には彼女は入学前であったそうな。教授の弟は有名なテロリストで、獄中にいるとか。作業記憶で著書のあるLogie教授にも会う。
この後が大変なのである。部屋にもどり,皆と食事にと考えたころに赤色のポーチ(共通財布)がないことに気づく。どうやら電話boxに置き忘れたらしい。財布をおいて小銭を出し、その上に電話番号のプリントした紙をおいて電話をかけ、紙だけもって出たらしい。財布には10万円ほど入っている。パスポートや帰りの切符は別にしてあるので放念するかどうか迷ったが,村はずれの、人が使わなさそうなboxであった気がしたので,戻って探すことに。岩原君が飛ばしてくれたおかげで,1時間ほどで問題のboxを発見。しかし,赤色のポーチはなかった。150kmの距離を戻っての探索である。Boxの前の民家になかったかということで聞いたが,当然知らないということ。もう一つ前の故障していた小学校前のところかも、ということで10kmほど戻ってその電話boxにも行ったがない。荷物置き台の高さの記憶から先に探索した赤色のboxに相違ない。
一応警察に届けておきたいということで,宿舎に戻ることにする。途中,かなり飛ばしていた。するとすれ違ったパトカーに岩原運転手が気づく。Uターンしている。スピード違反でやられた,と一瞬顔色が変わる。案の定パトカーは追いついてきて停車命令。ところが出て行くと若い警官は先ほど大金を置き忘れたという通報を受けたので君らかという。ほっとして,連絡先や,内容物はお金,crossのボールペン,昔,ブラジル人の留学生Terezaが餞別にくれた英国製の皮ケース入り櫛であることを知らせ、名刺を渡して連絡を待つことに。村の人が見つければ知らせるであろうという警官の希望的観測に,それほど真剣ではないにしても安心。
というような忘れ物事件があったのである。帰国後2週間たったが、連絡はない。ぼくは傘や万年筆を忘れるような経験が今までほとんどないので、老化したのかと一時期は自尊心を喪失気味であった。しかしである。僕たちは欧米型の旅をしたのであり、実際ふだん出会えない出来事を経験したのだからいいじゃないかと思うことにした。お金は出てきても出てこなくても、そんなことはどうでもよいのだ。これは必ずしも負け惜しみではないのだ。
八雲町検診と老性自覚
8月3日から5日まで北海道八雲町で行われた町民検診に参加した。何でも20年続いている検診らしい。明治初期に尾張藩下級武士らが移住した八雲町は名古屋とつながりが深く、名大医学部が関係しているのである。検診は3日間で千名規模の大がかりなものであり、朝から8時間のスケジュールで名大、藤田保健衛生大を中心とする41名の検診団が八雲町の職員の補助を得て行った。7時40分にホテルにバスが迎えに来て18時過ぎに帰るハードなもので、認知機能班5名は昼食20分程度の休み以外はトイレに行くこともできなかった。話せば長くなりややこしいのではしょるが、認知機能班は急に総括者に相談せずに加わったひんしゅくグループなのである。もともと、5分程度しか時間を割いてもらえなかったところに7種類のデータをとる算段をした(この種の厚かましさは僕のスタイルで欲張りなのである)ので一人当たり15分ほどかかり、大停滞を作り出した。全体の総括者は不愉快であっただろうが、せっかくの機会なのでわがままを押し通してしまった。この報いはたくさんの業績を作ることを当然視されることや、来年の認知機能班の検査様態の見直しに跳ね返るはずであるが、それはそのときのことである。ともかく、5年は続けるようにという総括者の意向を了解することで今回は済みそうである。
数週間前に実施した岩倉市での経験もあり、さすがに木暮、渡辺、伊藤(恵)伊藤(保)らの高齢院生は60から80代の老年者を対象に上手に検査をこなした。すべての院生にもこの種の経験をさせた方が望ましいと痛感したことを記しておきたい。なぜなら、個人実験の被験者を自分でリクルートする必要もあり、心理学を専攻する院生であれば、さまざまな種類の人間とコミュニケーションがとれる訓練が要ると考えるからである。
検診の話が長くなったが、今回は自らの老性を自覚することが多かった。その第1は忘れ物をしたことである。8月1日は来客もありバタバタして落ち着きなく帰宅。8月2日の朝6時55分の電車で名古屋空港へ向かったのである(9時10分集合であった)。前夜帰宅が遅かったので4時起床。荷造りと少し仕事をして家を6時40分に出た。車で5分ほど走ったときに髭をそり忘れているのに気づいた。数分後にはパソコンの電源コードを忘れたこと、携帯電話を忘れたことに気づいた(物忘れ検査をしに行くのに自分で物忘れをするとは!)。パソコンはホテルで仕事をするつもりであったが、一度もそのような機会はなかった。毎夕、歓迎会、送別会、温泉ツアー、ホテルでの2次会とイベントがあったためである。睡眠不足は避けられなかった。
第2は、身体が疲れやすくなったことである。僕は実はバテバテであった。われわれのグループは1泊温泉で遊んだ。帰路、千歳空港で測った血圧は、遊んで休息したはずなのに168-110というものであった。北海道で2度倒れるのは避けなければならない。
来年はあまり働かないようにしようと老性自覚と身の処し方を学んだ次第であった。
Bar ラジオ
こんな表題を出されても大方の人には何のことかわからないであろう。Barの名前である。酒場の固有名詞である。以前に大阪の「吉田Bar」の名前とともに目にしたことはあるが、最近になって岩原君から何度も記憶を喚起させられていたものである。彼にいわせると日本で一番有名なBarということになる。「吉田Bar」の主人は最近無くなったことが新聞に出ていたので、彼のいうこともウソではないのかも知れない。
「Barラジオ」は青山3丁目にある。8月13日と14日に彼と青山学院大学であったことば工学研究会に出た。ついでに行こうということになった。そのために宿は道向かいの子どもの城にとった(11時門限なので注意)。研究会の懇親会が終わった9時半から夜の青山通りを13日は酷暑と言うしかない猛烈な暑さであったが歩いた。金曜日の夜ということもあり大変な人出である。東京は人が多い。岩原君に言わせると着飾ったブスがやたら多いということになる(差別発言は僕がしたのではない)。
電話で場所を確認し、15分ほど歩いてたどり着くと満席ですと断られてしまった。せっかく来たのだからということで、外で15分ほど待った。懇親会の酔いもあったのだが、その間に2回空席を確認に地下にあるBarまで行くという熱心さである。
蝶ネクタイの若いバーテンが外まで空席ができたことを知らせに来てくれたので地下2階にある(ように思えた)Barまで進む。雰囲気は一言、重厚、格式高い感じである。カウンターは10席ほど、テーブルが6席ほどでそれ程広くない。天井までの棚には酒瓶と上等そうなグラスが並んでいる。
カウンターに陣取ったわれわれはまず、ジントニックとXYZというカクテルを注文した(隣には気取ったおじさんが一人、ウイスキーと氷水を前にしてじっと前を見ていた。気障を地でいく御仁であった)。ナインティナインの岡村が60過ぎになったような蝶ネクタイの物静かなおじさんが僕にジントニックを優雅な仕草で、差し出した。量は少なめであったが、まろやかな味である。僕がトニックウオーターは何かを聞くと自宅でも飲んでいるシュウェップスという。腑に落ちない顔に気づいたのかそれに炭酸を混ぜていますということであった。岩原君のカクテルも味見をしたがアルコールの味が微妙に隠され、まろやかさが際だつ感じがした。この後で飲んだマティニも、何とかインディゴにも同じ感想を持った(味を文章表現するだけの文才はない。開高健ならどう表現するのであろうかねえ)。
われわれ二人が、棚に並んでいるシングルモルトを調べたり、バカラのグラスを賞味しているのを見て怪しい2人組と思われたのか、われわれの飲み物はすべて岡村爺さんが作ってくれた。得体の知れない2人組は資本を出す八田おやじと店を開く予定の岩原バーテンの組み合わせと感じたに相違ないと帰路お互いがうなずきあったのであった。ちなみにこの人こそが有名な「Barラジオ」のオザキさんなのである。カウンターにカクテルの豪華本が2冊あったがこの本の著者なのである。他の客の飲み物は3人ほどいる若いバーテンが作っていたので岩原君は後からやたら感激していた。何でも彼によれば日本中のバーテンのあこがれの人ということであるから、きっと名古屋のバーに行っては自慢するに違いない。
合計5杯の飲み物と突き出し2皿でしめてお代は13000円也。ちょっと高いが仕方がないかと納得できるBarであった。誰か行きたい人がいたら案内しますので、おごって下さい。