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15年度末に考える

来週の教授会で来年度から実施する学部学生による授業評価の要項を承認してもらうことになっている。教官(4月からは教員だ)にとって気持ちの良い事柄ではないことは承知しているが、役目上、お願いせねばならない。私が大学評価・学位授与機構で教育評価の手伝いをしていることは知られていて専門家という目で見られているふしがあるので、無礼なことだと息巻き、論争をしようという教員はわが情報文化学部にはいないはずである。
 教育心理学という著書を書く際に教育評価について勉強したことはあるが、いわゆる専門家と思ってはいない。評価などというものが大学や病院の前置詞のように使われだしたのは最近のことで、法人化を控えてまるで水戸黄門の印籠のようにマスコミで使われているのは愉快ではない。
 そもそも、大学や病院に評価などという用語がなぜ使われ始めたかのだろう。教育評価は授業で全員が100%教師の教えることを理解できないと見なされるので、どこが、どれくらい理解されていないかを測定することで教師の教育活動を改善することをめざして評価がなされるのである。学生がつねに100%理解できるのであれば評価は成立しないし、必要はない。
 かつて、大学や病院は評価を必要としなかったのである。なぜか。答は簡単で、教育、研究に大学教授はその職にかなう存在であり、病気の治療に医師はその職にかなう存在であったからである。戦前は少なくとも大学教授たりうる人や病院の医師たりうる人が大多数であったために評価など、世間では気にもとめなかったのであろう。もちろん、昔は今日のような情報化社会とは異なり、大学教授や医師の様々な様態が露わにならなかったことも原因の一部ではあろう。しかしながら、今日、国民一般が大学や病院を評価しようとする動きに違和感を覚えなくなって、当然と見なされている現状は情けないことだと思わざるを得ない。その任にたり得ていないとする見方が多数となってしまったのである。
 30年ほど前に、京大の中国文学の助教授で作家でもあった高橋和己は学生に「清は官たりうるか、官は清たりうるかと」と問われて職を辞した。その後、大学紛争の時代に入るのであるが、あの頃に大学人が身を正す動きが生まれれば今日のようなことにはならなかったのではないかと、先輩を恨めしく思わないでもない。しかし、他者に責任を押しつけるのは卑怯なので、われわれも法人化を来月に控え評価を甘受せねばならなくなっていることの原因を振り返り、評価が大学には不要とされる日を目指さねばなるまいし、その必要を痛感している。
 あなた達には評価は不要ですといわれるようなレベルで、研究成果を出しているか、学生指導ができているか、と問われるようになったことの原因や過程を熟考して新しい年度を迎えたいと考えている。

 今回はまじめですね、と言われそうだが(本来の性格はそうなのですよ)、われわれ教授側だけでなく、学生諸君にも同じように、君達は学生たり得ていましたか、が問われるのですぞ。

水難の相あり(2/25)

先週末に那覇市に出張したのだが、水にまつわる災難に次々と相遇した。災難は続く時には続くものである。土曜日はいい天気であった、出張であまった時間を名護市へのドライブで楽しんだりした(それが主たる目的の主張であったのだろうなどと疑うのはよくない)。日曜日の朝は雨であった。ホテルを10時にでなければならないので、10時に傘を借りて同行している男(女性とかけないところが悔しいのだが)とホテルを出て国際通りの市場に行こうとした。20mほど歩いたところで今までおよそ経験したことがない雨が降ってきた。南国のスコールというのはこれかという類のものである。視界が利かないほどの雨量で思わず自動販売機のテントの下で雨宿りを余儀なくされた。止む気配もないので通りかかったタクシーに飛び乗り、ともかく三越百貨店までたどり着いた。ズボンは裾がびしょぬれである。道向かいが市場なので、時々雨の漏るアーケードをぶらぶらして土産など買って、三越に戻り、早めの昼ご飯を食べた。
 外に出ると雨は上がっており、南国だなあ、雨も豪快だと帰路についたのであった。空港には2人の子供を見せに沖縄在住の教え子が来てくれた(3歳と8か月の女の子を両手に抱いたので2日後でも腕は痛い)。
 飛行機の中で第2弾の水難である。昼ご飯の豆腐のみそ炒めが塩分多めだったのでのどが乾いており、飛行機が水平飛行になるとすぐビールを注文した。テーブルの右端にあるコップ置きに飲み差しのプラスチックのコップをおいてつまみを食べている(ANAのビールのつまみは美味しい)と右膝が冷たい。変に思ってコップを取り出すと、わずかに底の部分に割れ目があり、そこからビールがこぼれていたのだ。コールボタンで係員を呼び、コップを取り替えてもらった。小銭がないので同行の男に払ってもらったのを覚えていたのか。ややこしい人間に見えたのか(やくざと若い付き人に見えないこともない構図ではある)。別の係員が小さいタオルをもってきて謝っていた。関西空港に着く頃になって主任という係員が改めて謝罪とクリーニング代を持参しサインを求めてきた。あんまり丁寧なのでうるさいと思いつつもサインをして2000円をちょうだいした。まあ、お金をもらってビールを飲んだ(少し右膝が冷たかったが)わけである。
 空港をでて、電車に乗り込み後数分で出発なのとただでビールが飲めたなどと浮かれて話していると、強風ために連絡橋が閉鎖、バスで対岸まで振り替え輸送というアナウンスがあった。数分前にでた電車は動いていたので、運が悪かったのだ。この頃、関空周辺は那覇市の早朝のような天気で強風雨であったのだ。僕らを雨が追いかけてきたと言うわけである。
 腹も減りだし、疲労気味の2人は無言のまま天王寺まで来て、そこで分かれた。男は嫁さんに車で迎えに来さす算段をしていた。結局1時間遅れで8時過ぎに高槻駅に着いた。大阪からの電車ではそれほど気にならなかった雨が、その頃急に強まっていた。ここからが第3の水難なのである。電車の中ではタクシーで帰ってという話もしていたのだが、駅のコンビニで1000円の傘を買い、駐車場まで歩いてしまった(このときタクシーのことは頭になかったのだから習慣というものは恐ろしい)。駅から数10m行くと例の土砂降りが襲ってきた。服はもちろん、昨年ドイツで買った新しい靴には水が入りぐしょぐしょ状態である。あわててともかくも車に乗り込んだ。いつものように右折で道路に出ようとしたとき車の右前方が何かにひかかったような鈍い音がしたのだが、バックしてハンドルを切り直し、5分で自宅に到着。ひどい目にあったなどと言って就寝。
 翌朝のことである。昨夜少し車に傷が付いたかも知れないと、家内に調べてもらうと傷はないということであった。やれやれと乗り込もうとしたらドアに部分にかなりのへこみが見つかった。前方と意識していたのだが運転席の真横だったのだ。とんだ災難であった。研究費を消化するための出張で罰が当たったのかも知れない。

 修理工場に電話で修繕を依頼をしたら、17万ほど修理費が必要という。保険など使ったことがないのだが始めて自動車事故保険を使うことになった。お金もつらいと思っていたら、全額保険で済むそうで、次年度の保険料も数千円上がるだけということで、目出度しというべきかも知れない。ただ、運転はうまい、事故などしたことがないという自慢を今後出来なくなったのはつらい。とまれ、水難の繰り返しの出張であった。

落選

これまでに何度かCOEの申請計画作成で大変だと書いてきたので、結末を知らせずにおくのもどうかと思い、落選したことを報告しましょう。「合格した、当選した」は言いやすいのですが、不合格や落選の結果を他人には言いたくないというのが偽らない心情ですが、説明責任というものも最近はやかましいし、報告することで、昨今の大学の教員が如何に大変かが分かってもらえるのではないかと甘えに似た考えもありまする。
12月に行われた申請計画の説明会では、話が大きすぎ、誇大妄想的と言われたので、もっともなことだと、話を縮小したのは以前に書いたとおり。認知心理学の対象を拡大して社会的な事象を取り扱うものにしたのです。以前のはミクロからマクロまでを包括的に扱い、そのうち心の起源から社会事象までを説明する人間観・自然観を構築するという壮大な話を、個としての人間から社会事象までを対象にするというように、まさに話半分にしたのです。申請計画は程良くまとまり(と自画自賛)、追加して加えなければならない項目を書き足して、厚みが1センチ程度の申請計画書を準備したのです。
1月28日(水)は全学教育科目の試験、代議員会が予定されているのですがこれらは他人に頼んで第2回の説明会に出たのでした。説明時間は10分間で質疑は予定を越えて10分ほど。審査委員の中には心理学関係は素人で(当たり前なのだが、こういう時はそこまで思いが行かずに共通の認知的枠組みがあるように錯覚するものである)、認知心理学のパラダイムを越える新しい方法論を提示しているのに、「行動主義の心理学とどのように違うのか見えない」などという人までいて、評価委員の知ったかぶりをする程度の低さに唖然としながら(叱ったりせずに)、説明を終えました。申請計画案を作った中心メンバー5人でその夜は飲みに出ることにしていたのですが、出かける前に審査委員の一人から、「落ちましたよ」の連絡がありました。
この連絡で、思いの外さっぱりした気持ちになり自分でも驚いたくらいです。夜は遅くまで飲んだのですが、やけ酒というものではなかったですよ。
学内選考では、文系で法学研究科の申請が残ったようです。関係するセンター組織を持っていることや、以前から法学研究科の案を期待している噂は聞いていたことや、メンバーが対抗意識を燃やしていた教育学研究科の申請よりも評価が高かったらしいこと、既に採択されたCOEのメンバーからはお金の使いにくさなどを聞いていて、通っても地獄だなあと感じていたことなどがさっぱりした気分をもたらしたのであろうと思います。
使った時間を教員の時間単価で計算すると、莫大な金額になるのは当然で、2ヶ月間ずいぶん時間を使ったが、がんばっても結果が出ないと仕方がないのは社会では当たり前のこと。部局単位で申請する形式をとるので、こういう制度が出来ると、申請しないとやる気がない、通らないと大した研究をしていないと見なされるのではないかと、動いてしまうのが現在の大学教員の立場なのです。悔しいけど組織に生きるものの性ですかね。このように、現在の教員は忙しいのです(もっとも、全員がと言うわけではないのですがね)。2ヶ月間の議論はもちろん全く無駄というのでもないので、何とか別に生かす方向を模索せねばならないのですけど、少し先になりますかねえ。
数日前に聞いた話では、「君らはあまり真剣でなかったでしょう」と言われたということです。そのメンバーのところは既にCOEが採択されており、事務局長のような仕事をしている若手なのですが、夜中の2時まで計画を纏めるために他部局のメンバーと折衝したとか、不採択といったんされたのだが、異議を申し立ててがんばり通した、などということでした。
自分たちはがんばったつもりでも、もっとがんばっているところがあるのだなあということであります。世間は広いと言うが、その世間は幾重にもあるのですねえ。ここのところ、若い人には示唆的ですね。
申請計画の代表者として早速お詫びのメールを翌朝送ったことでありました。さあ、自分の研究にもどるぞとその朝には考えたのですが、申請計画7億の予算などという誇大妄想の世界に2ヶ月間浸っていると、すぐには戻れないものです。数日前からやっと復帰し始めたというところで、けじめの報告となった次第です。

新発見!

予備的研究の結果であるが、新発見があった。手際よく、それ向けに書く英語力があれば、Natureも問題なかろうという類のものである(最近COE申請計画書に没頭させられているので、誇大妄想の傾向が増悪しているのだろうと、いうなかれ)。すごい発見なのだから。
昨年秋に、整形外科の先生と共同で北海道八雲町の老年者を対象に予備的実験を実施したのだが、その結果が分析できたのである。8週間という短い期間であったが、8月の住民検診に参加した70歳代の40名をランダムに抽出して(といっても、役場の保健婦さんの手助けを借りてだが)、物忘れ防止群と転倒予防群に分けて、介入実験を実施した。僕は前者の指導者で整形の先生は後者の指導者である。僕のところは、名大の院生と文通するのが課題である。手紙に何を書かせれば毎週返事が来るのか等々は企業秘密であるが、8通の手紙のやりとりが行われた。
話がずれるが、院生も八雲の老年者も結構楽しく文通をしたようである。両方とも手紙など書かないので、大変であったとは思うが、新鮮な経験であったらしく、課題が終わってからも年賀状のやりとりをしている人もいる(問題が生じると困るので、手紙はすべて八田研究室宛になっているのでわかるのだ)。今までの人生で一番うれしかった想いでは「小学校に入学時にランドセルを買ってもらったこと」などが書いてある手紙を受け取った院生は、胸に迫るものがあるようで、真剣に将来を生きていこうという気持ちがわいてきたようなことを言っていた(教育的な効果も付随する実験でもあるのだ)。
転倒防止群はボール遊びや、チューブを使っての体操、万歩計を付けての散歩などを課すグループであった。12月に院生を連れて北海道に出かけ、8月の住民検診と同じ内容の認知機能検査を参加者全員に実施した。参加者の動機付けを維持するために、課題を実施することの意味や重要性を4週間毎に全員を集めて講義した(そのために僕と整形の先生は北海道を日帰りで往復した)。
認知班での結果は次のようなものである。物忘れ防止群は、ことばの流暢性、負荷のある条件での文字抹消で、6~7%水準で8月に比べて成績の増加が見られた。転倒防止群では増加がなく、2群での交互作用の傾向があるというわけである。整形班の運動機能の成績でとくに僕が注目している重心動揺検査の結果では、8月の成績に比べて物忘れ防止群は成績に微増傾向、転倒防止群は成績の悪化が見られたのである。悪化はおそらく、8月の検診時のようにゆっくりと検査を受けるのではなく、会場に来てすぐ検査を受けたために疲労効果があったせいだろう。
結果は、前頭葉機能を働かせる介入をしたグループでは認知機能の改善に加えて、バランスを主とした運動系機能の改善も同時に起きたことを示していた。この結果は、僕の休耕田モデルに合うのだ(これについては、以前に野球拳モデルと称して書いた。最近では上品になるように呼び方を変えたのだ)。時間的に先行して退化する前頭葉機能を再活性すると、筋運動系機能も衰えないということになる。別な言い方をすれば、運動だけしていては前頭葉機能の劣化を鈍化させる効果はないことを示唆している。
僕も時間があれば水泳やウオーキングを心がけているが、それでは不十分なのだ。こうやって文章を書かねば駄目なのだな。
すごい発見だと思いませんか。対象数が少なく、介入期間も短いので、科学的な主張としては万全ではありませんが、2ヶ月で傾向がでるのだからすごい!
ともかく、50歳代の読者、あるいは知り合いの50歳以上の中高年者に教えてあげてくださいな。

再発か?

15年ほど前に健康診断で腫瘍マーカーに異常値がでて、その病院の知り合いの看護科長に「先生、癌や」と言われ、大騒ぎした時期を知っている人には表題は「癌の?」と受け取られるかも知れないが、そっちの方ではない。閉所恐怖症の方である。誰もが何らかの神経症症状を有していると言われるが、僕のは先端恐怖症傾向と閉所恐怖症傾向である。尖ったものが自分の方向を向いている(植木の枝、箸など)と気になって動かさないといられない。閉所恐怖症の方は、込み合っている電車、飛行機(座席について、飛び立ち平行飛行になるまで)、新幹線のロケットみたいな車両は基本的には駄目である。おかげで、患者の訴えはよく理解でき、かつては、乗り物恐怖症の患者の治療は得意であった。
閉所恐怖症の症状が始めてでたのは20年ぐらい前で、大阪駅で環状線から東海道線に乗り換えるべく、停まっている電車に駆け込んだときに起きた。僕が乗り込んでから、ものすごい数の客が乗り込んできて身動きがとれなくなった。身体の自由は利かず、天井だけしか見えなかった。その電車は故障から運転が再開された最初の電車だったのだ。ドアがやっとしまったのがその状態で発車しないのだ。このとき、動悸、冷や汗など神経症症状がでたのだ。いても立ってもいられない状態となった。乗客が多く、閉まらないので電車のドアが何度か開いたり閉まったりしている隙に、電車を飛び出たのであった。
その後、前述したような混雑状態は苦手となり、交感神経緊張症状がでるようになったのである。
しかし、最近は閉所恐怖症の傾向は軽減してほとんど気にすることはなくなっていた。一人で飛行機に乗ることにも慣れてきたのだが、今朝、大変なことが起きた。出勤すべく、高槻駅で電車を待っていると、新大阪辺りで線路に人間が入っているということで、電車が来なくなった。寒い朝で足下がすっかり冷えて早く電車に乗りたいし、行列の前の方にいた加減で運転が再開されやっと到着した最初の電車に乗る羽目になった。すでに30分は遅れていたので、乗客は大勢、後ろから持ち上げられるように車両に入った。全く身動きがとれない混雑具合である。案の定すぐに電車は発車しない。ドアに乗ろうという乗客がいるためである。数分のことであったのだろうが、20年前の記憶が蘇り、動悸が高まる気配が生じたので、3名ほどをかき分け、降ろしてくれと言って、外にでた。
結局、次発の各駅停車で京都駅にそして新幹線に乗ったのだが、動悸と消耗感は大学に着いても残っていた。今日は仕事になりそうもないので、コラムを書くぐらいしか出来そうにない。しばらく静養させて欲しいという状況にない。困ったことである。

初夢(2004/1/10)

最近は以前のように9時に寝て気がつけば5時までというように、一度も目覚めることなく眠れることはなくなり、夜中に何度か目覚めるという老人型の睡眠形態が増えている。しかし、夢を見るということは少なくなっており睡眠研究の本で読んだように加齢に伴い睡眠が断続的になり夢を見ることも増えるというわけでもない。
昨夜は1時過ぎに目が覚め、夢を見ていたことに気づいた。事務官に腹を立てて怒っている夢である。大阪教育大学での頃の夢で、実際に事務官を怒鳴りつけたことがあったのだが、そのことについてである。本気で事務官に腹を立てたのは今までで一度きりなので深層の深いところに記憶が残っているのであろう(学生を泣かせたことは何度かあるが、本気で怒鳴るということはなかった、はずである)。それほど自覚はないが、鬱積されたものがあるにちがいない。
当時の大阪教育大学では移転構想が何度も頓挫して大変であった。実験室の天井の高さを、一部屋だけ天井を張らずに高くするという案を作成し概算要求事項として主計課に提出したのだが、特別な措置なので平面図と理由だけでなく、設置する器具についての見取り図を添えよというのが事務官の要求であった。当時はこんな作業ばかり、採用されてから10数年繰り返して来ておりうんざりしていたのと、どうせ建物が建つのでもないのにという気持ちもあり、「設計図を書くのは事務の仕事だろう」、「教官の研究を援助するのが事務官の仕事だろうが、こんなことに時間をとらすな」と担当の係員を怒鳴ってしまった。あとで係長が取りなしに来てこちらも反省したのだが、本気で腹が立っていた記憶がある。結局、その年には移転も、もちろん建物も建たなかった。副産物は、以後「八田は怖い奴だ」というように事務側の態度が変わったような気がしている(鈴木某と外務省の関係のミニチュア版である)。
今年度末で名古屋大学に来てちょうど10年になるが、名古屋に来ても同様のことがあった。僕は平成6年4月1日に着任した。小さな古いスツールが1つ以外何もない空っぽの部屋をあてがわれた(現在の229号室である)。机や本棚ぐらいあると思っていたのだが何もなかったし、それまでに何の問い合わせもなかった。歓迎されていないのか、他人には無関心なのか当時は不明であったが(おそらく両方だろう)、予算は決まっていないので、好きなように揃えてくれということであった。名大教育学部の助手から私大に移っていた教え子に来てもらい、物品の発注などの仕方を教わり4月半ばになって始めて研究室の様相を呈するようになった。新設学部なので授業も少なかった。当時、人間情報学研究科棟が建っていなかったので実験室(旧教養部)に間借りをしていた院生に手伝ってもらい荷物の移動をしたものである(キャスター付きの椅子に乗せて段ボール箱を運んだ)。
横道にそれたが、名古屋大学に来ても同じ様なことがあったという話であった。移籍して2年目の頃、情報行動論実験室の整備予算の請求をさせられた。実験室も整備していない状況であったので、最初の数年間学生は基礎的な実験をせず仕舞いであった。人間情報学研究科棟ができて居候の院生が移り始めて実験室の改装が行われたのだが、その前のことである。要求書は平面図だけでなくパソコンで3次元図、つまりパースを描いて添付してくれと言うのが会計係長の要求である。工学部から来た係長なので当然のことであったのだろうが、予算が付いていないので改装ができる段階にないのに無駄なことだと腹立たしく思った。指導生ではなかったが工学部出身の院生に頼んで描いてもらった(お礼のウイスキーは自腹である。この院生は僕の英国時代に我が家にテレビを見に来ていた新聞記者でその後高校教員になった男の教え子であることが判明した、世間は狭い)。
言うまでもなく、このときの予算要求書は実らなかった。しかし、このとき、会計係長を怒鳴りつけていないのは言うまでもない。世の中の仕組みを少しは理解するようになっていたのかも知れない。
 このように、初夢からの連想は愉快なものではない。今年の初夢はこのようにあまり、楽しいものではなかった。今年は前途多難ということかな?

多忙な年末になったわけ(COE奮戦記)

いつも忙しいといっているし事実そうなのだが、多忙な年末であったわけは16年度予定されていることがわかったCOE(Center Of Excellence)プログラムに僕が拠点リーダーで挑戦しているからである。世界に通用する研究拠点を作るという政府の方針で2年前から始まり、大学人(博士課程のある大学)を振り回しているものである。名大は2年間に13件採択されて自慢しているのだが、文系の採択は1件しかなく、理系から文系が軽んじられる傾向を助長している。情報文化学部・人間情報学研究科のスタッフは、新構想で作られ(設置審査会で業績審査がある)新しく集められたので軽んじられるのに我慢がならない、自分達は旧態然としている名大文系などに業績では負けていないという自負がある(ようだ)。さらに、基幹大学では名前の知られた心理学の先生は、何らかの形でCOEの恩恵にあずかり(心理学でCOEを取っていなくても、メンバーの一員として潜り込んでいる)よい思いをしているらしいこともあって、部局長は不可、とされているが環境学研究科では単なる教授だという変な解釈で僕が拠点リーダーにさせられることとなった。
そこで、ともかく、約1月かかって申請案を作成した。「情報論的人間観によるヒューマニティーズの解体と再構築」というタイトルで、認知論的心理学集団が核となり、細胞から、社会現象までを包含する世界観・人間観を構築し文理融合の方向で人文科学を再生させるという案である。曰く「こころの原子論」、「こころの社会論」という新領域を誕生させ、それらの理論に基づいて「ソーシャル・インターフェイス」という人工環境、社会環境設計指針をつくるのだ!というものである。情報が早く入ったので取り組みは早くから始められたが、
その準備に文字通り忙殺された。何時間も議論し、自己陶酔の中で作り上げた格好になった。昨日は大量の資料づくりも大変であった。僕の部屋のプリンターのインクが2個もなくなった。助手がいないので朝6時から印刷もやった(前日、東京で一日会議があり、クリスマスイブの誰もいない大学で10時頃まで仕事をしていたので、相当疲れた)その後、学内での1次ヒヤリング会が行われた。10分間の発表なので発表の練習もした。
総長以下学内審査委員会での発表は言いたいことを言っては来たが、いかんせん、3つの新概念を理解させるのには時間が短すぎた(無理な案を作るのがいけない)。審査結果はなかなかシビアなものであった。冷静になればもっともなことで、曰く、5年でそんなことまで無理だよ、八田さん誇大妄想的だよ、意気込みは判るけど、、。
僕は今年の夏この種の審査委員を経験しているので、審査委員のコメントもよくわかる。後で、こうすればよかったと悔やむ点も多い。
1月終わりに第2次のヒヤリングがあり、修正意見を入れてどれだけ申請案が改善されたかが問われる。
くじけないで申請案を作り直す作業を年明けから始めるつもりである。「Ever onward」と言っておこう。
 伝えたいのは、僕達はがんばっているゾ、ということである。「八田さんいつまでがんばるの?もういいんじゃないの?」という声が聞こえないわけでもないがね。
 まあ、そんなこんなで年を取るのを忘れそうであります。

もうおしまいだな

勤労感謝の日の振替休日があったために、3連休となった。そのうちの1日は、幹事をやっている新年会の会場での打ち合わせを兼ねて秋の京都を味わうのも悪くないと思っていたのだが、会場の営業社員が休暇を取って留守というので予定を取りやめたせいで、3日連続して自宅にいる羽目になった。タイトルも覚えていない小説を1冊半読んだのと、水泳と、スーパーへの送り迎えとで3日が過ぎた。残りの大半の時間はテレビを見ていた。ほとんど一日中テレビを見るというのは近年ないことである。昔はワイドショーを見てから出勤していて、コマーシャルや、時事ネタで授業の際に受ける材料を得ていたものだが、最近の学生はテレビを見ないせいか、たまに見たテレビでのギャグやコマーシャルネタも講義では受けないことが多い。困ったことである。
 一日中テレビを見た結果が今回のタイトルである。テレビはもうおしまいだ、というのが感想である。どの局も似たような内容の番組をやっている。出演しているタレントも限定されている。一番多かった番組は、司会者が雛壇に並ばせたタレントに、テーマを与えてしゃべらせる、それを司会者がいらう(いじる)というもので、たいていは愚にも付かない、エピソードを披露しているに過ぎない。タレントの日常のエピソードなど楽屋話にすぎず、芸ではない。芸ではないものを披露するのはタレントではないはずで、つまり、普通人にはない才能を披瀝するものではない。このことは、メディアに乗るのは普通人であることで十分、あるいはそのことが望ましいということになる。この頃のタレントという人種が近所で普通に歩いていそうな、格段の美男子、美女ではないことの理由がわかったような気がする。
 テレビがこんなにおもしろくなくなったのはなぜだろうか?どうでも良いことだが3連休で僕の頭を占めていたことなので、独断に基づく推論を展開しよう。Keywordは、組織の過剰肥大である。別にテレビ業界を熟知しているわけではないが、過去数週間にテレビ3社から利き手についての問い合わせがあったことで独断が形成されたのである。この利き手ブーム(?)は今年ヤンキースの松井選手が活躍したことが原因らしい。最初に電話をかけてくるのは、番組名を言うが、たいていは下請けの企画会社社員である。このレベルの人が我々とのやりとりを下に一定の構想を作るとそれをテレビ会社のディレクターレベルに話が行くらしい。その話を受けた上司が判断して番組の内容が決定されるらしい。上のレベルに話を持っていくときに我々と協議したことは明確にしないらしく、それぞれの段階で同じような質問を何度もされる。要は、テレビの制作現場の実際は下請け、孫請けにまる投げされているのである。ボトムアップ方式なのである。独断と偏見によればこのような構造では、斬新なものは出来てこない。例外はあるだろうが、このような構図の下層に行けば行くほど、創作能力、知的レベルは低くなるはずだからである。能力の高いはずのテレビ本局の制作部員はおそらく、知恵を絞って、創作や問題解決に当たることを放棄して、下から上がってきた企画を選んでいるだけなのだ。組織が大きくなることでこういう図式が生まれるのであろう。弱小の組織は失敗できないので他で受けている類似番組を作るのが常態化するのだろう。かくて、金太郎飴のような番組が生まれ、すぐ消えるということになる。そして、誰も真剣に見るのに値する番組は生まれなくなってしまう。もうおしまいなのだ。
階層のトップが必死で考え、斬新な企画を押し進める努力をしないと、肥大した組織は、おしまいになるのだ。
 実はこんな風な考え方が浮かぶのも、総長選挙の最終段階を迎えているせいかも知れないのですけどね。

楽しい日々へのヒント

よく考えれば楽しい思いをしたという話を書く。忙しくて何も楽しいことがないと思っている人には参考になるかも知れない。
火曜日は部局長会など一連の会議が月に一度の割合で大学の本部である。今月は8時半からの会議が12時まで続き、昼ご飯を食べて(ときには30分しかないこともある)6時頃まで続くという予定であった。何種類もの会議があるので、事務方は次々変わるが、会議参加メンバーは変わらないので、大変疲れるのが通常である。役職手当をもらっていることもあるのでさぼるわけにはいかない。
今週の火曜日は大学評価機構の仕事があり、4時過ぎに退座して急遽大阪大学に向かった。新大阪までののぞみの切符を2枚買ってあったので、名古屋駅で座席をとろうとすると、何度入れても機械は反応しない。おかしいと思い駅員に不満げに確認すると、切符は古いひかりの自由席のものであった。僕の間違いで、違う切符を持ってきてしまったのだ。気は焦るし、疲れは忍び寄るしうんざりして夜8時からの会議に出た。この日は5時、起床12時就寝である。翌朝、阪大に出かけて12時頃まで機構の仕事をした。前日欠席しているのであまり内容はよくわからず、早く終わらないかばかり考えて過ごした。3時から教授会を主催せねばならないので気が焦っていたのである。
疲れて、うっとうしい気分でともかく新大阪駅まで行くとのぞみは出たところで、ひかりで名古屋に戻るしかない。焦る気持ちでうんざりということであった。
ひかりの自由席に席を取り焦る気持ちでいらいらしていると通路を隔てて陣取っている肉付きの良いおばさん(60歳前か)がいた。なぜ気になったかというと落ち着きがなかったからである。様子を見ていると弁当を食べ始めた。自宅から準備したもののようで、僕が買い込んだ駅弁を食べたのに触発されたのかも知れないが、おにぎり2個、パックに入れたおかず(テイシュの箱サイズ)を食べ始めた。食べ終わってからが驚きなのである。食べ終わると、まずゴミを捨てに行った(こういうところは僕もすぐに捨てるタイプなので、気持ちはわかる)。戻ると、カバンから歯ブラシを出し、何も付けずにいきなりガシ-ガシと磨きだした。ひとしきり磨くとまた洗面所に行った。戻ると今度はデンタルフロスを出して歯の掃除を始めた。きれい好きなおばさん、と思っていたら、突然カバンからチョコレートヌガーのようなものを出し、かじり始めた。食べ終わると続いてあられの袋を出しボリボリやりだした。一連の動作を流れるようにこなすのに思わず見とれてしまった。自分は何とも思っていない一連の動作も、他人が見ると笑いをこらえるのが難しくなる。おかげで、いらいらした気分も疲労感も消え、名古屋までには楽しくなってしまった。
 前日に名古屋から大阪へ向かうべく名古屋駅で何度も座席指定をとろうとしていた僕を誰かが見ていたらきっとおかしかったことだろう。
 ともかく、しんどい、つらいきついなどと言っている時も他人の目で眺めると気分が変わる事もあるということですわ。しんどい、吐き気がするというほどがんばって勉強している人は参考にしてください。

タラの木とイタドリの花(10/5)

このコラムも説教じみた内容が多くなって来ているのを自覚しているので、今日は自然を対象にしようと思う。
久しぶりに土曜日と日曜日に2連休で家にいる(久しぶりを確認するために電子手帳で確認すると5月5日~6日以来のことである)。昨日は午前中に皮膚科にいって湿疹の薬をもらっただけが仕事で、映画を2本見て、ごろごろできた。
運動不足を補わねばと昨日は半ば強迫的に散歩をしたのだが、今日は昔のようにぶらぶらと散策風になった。ゆっくり歩くといろいろと発見があるものである。いつもより少し足を伸ばして墓地公園の入り口までの坂道を歩いていると道ばたにイタドリ(スカンポ)の花を見つけた(以前はセントバーナードが2頭いていつも吠えていた段ボール業者らしい家は墓石を売る店に衣替えをしていた。墓石屋は儲かる商売らしい最近よく新装開店を見かける)。
スズランのような形で白い小さな花びらが重なっているのがイタドリの花であることを知った。個々の花びらはスズランのように釣り鐘状ではなく開いているのだが、花びらが鈴なりになっているのでそんな連想をしたのであろう。スズランはみずみずしさを感じるが乾燥しているように思えて造花のような印象を受けた。可憐な花であるが花びらが小さいのと量が多いので近づいてみないとそのよさは分からない。イタドリは春先には存在感を示すが今までその花がどういうものかは知らなかった。
坂道のイタドリは30センチほどの背丈の小さいものなので、帰路は自動車が通る道路に出て大きいイタドリを探し、その花を見ようとしたのだが、下刈りがなされていて、10センチほどの新芽しか見つからなかった。少しがっかりした気分でしばらく歩くとタラの木に大きな花が付いているのを見つけた。タラの木は牛蒡の様な太さで棘があり堅いので下刈り作業で切られずに済んだのであろう。タラの木の花には感動した。神社のお払いで巫女さんが持つ鈴の大きなものを想像されたい。その鈴の部分に当たるところはちょうど分子構造の模型のようなのだ。鈴に当たる花軸(正式には何と言うのかは知らない)には5ミリほどの小さな箒状の白いものが途中にあり、数センチ先の先端には2センチほどの黒い粒がリング状になっているのである。クレオソートのリング(粒の数は10~15で一定ではなかった)が突き出ているのだ。このような構造の花軸が房のようになって巫女さんの持つ鈴のような印象を与えるのである。その造形の美しさは目を見張らせるものがあった。
タラの芽は春先天ぷらにして食べるもので春にしか存在を知られない。里山で子供時代を過ごした僕でも始めてタラの木の花に気づいたのである。
ゆっくりと物事は見るものである。人間は関心を持つときだけしか草花を見ていないのだ。ある短い時期だけ見ていては物事は見えてこないのだなあ。生きていく中ではゆっくりとした時間が必要だなあと思い知ったことであった。
 一時期に受けたものとは違う考え方が、時期をおいて眺めると生まれるものである。一度、ダメだと思ったデータも時期をおいて眺め直すと新しい発見に繋がるのかも知れないなあ、などといってしまうと説教じみてくるので、今日は止めておこう。