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初夢(2004/1/10)

最近は以前のように9時に寝て気がつけば5時までというように、一度も目覚めることなく眠れることはなくなり、夜中に何度か目覚めるという老人型の睡眠形態が増えている。しかし、夢を見るということは少なくなっており睡眠研究の本で読んだように加齢に伴い睡眠が断続的になり夢を見ることも増えるというわけでもない。
昨夜は1時過ぎに目が覚め、夢を見ていたことに気づいた。事務官に腹を立てて怒っている夢である。大阪教育大学での頃の夢で、実際に事務官を怒鳴りつけたことがあったのだが、そのことについてである。本気で事務官に腹を立てたのは今までで一度きりなので深層の深いところに記憶が残っているのであろう(学生を泣かせたことは何度かあるが、本気で怒鳴るということはなかった、はずである)。それほど自覚はないが、鬱積されたものがあるにちがいない。
当時の大阪教育大学では移転構想が何度も頓挫して大変であった。実験室の天井の高さを、一部屋だけ天井を張らずに高くするという案を作成し概算要求事項として主計課に提出したのだが、特別な措置なので平面図と理由だけでなく、設置する器具についての見取り図を添えよというのが事務官の要求であった。当時はこんな作業ばかり、採用されてから10数年繰り返して来ておりうんざりしていたのと、どうせ建物が建つのでもないのにという気持ちもあり、「設計図を書くのは事務の仕事だろう」、「教官の研究を援助するのが事務官の仕事だろうが、こんなことに時間をとらすな」と担当の係員を怒鳴ってしまった。あとで係長が取りなしに来てこちらも反省したのだが、本気で腹が立っていた記憶がある。結局、その年には移転も、もちろん建物も建たなかった。副産物は、以後「八田は怖い奴だ」というように事務側の態度が変わったような気がしている(鈴木某と外務省の関係のミニチュア版である)。
今年度末で名古屋大学に来てちょうど10年になるが、名古屋に来ても同様のことがあった。僕は平成6年4月1日に着任した。小さな古いスツールが1つ以外何もない空っぽの部屋をあてがわれた(現在の229号室である)。机や本棚ぐらいあると思っていたのだが何もなかったし、それまでに何の問い合わせもなかった。歓迎されていないのか、他人には無関心なのか当時は不明であったが(おそらく両方だろう)、予算は決まっていないので、好きなように揃えてくれということであった。名大教育学部の助手から私大に移っていた教え子に来てもらい、物品の発注などの仕方を教わり4月半ばになって始めて研究室の様相を呈するようになった。新設学部なので授業も少なかった。当時、人間情報学研究科棟が建っていなかったので実験室(旧教養部)に間借りをしていた院生に手伝ってもらい荷物の移動をしたものである(キャスター付きの椅子に乗せて段ボール箱を運んだ)。
横道にそれたが、名古屋大学に来ても同じ様なことがあったという話であった。移籍して2年目の頃、情報行動論実験室の整備予算の請求をさせられた。実験室も整備していない状況であったので、最初の数年間学生は基礎的な実験をせず仕舞いであった。人間情報学研究科棟ができて居候の院生が移り始めて実験室の改装が行われたのだが、その前のことである。要求書は平面図だけでなくパソコンで3次元図、つまりパースを描いて添付してくれと言うのが会計係長の要求である。工学部から来た係長なので当然のことであったのだろうが、予算が付いていないので改装ができる段階にないのに無駄なことだと腹立たしく思った。指導生ではなかったが工学部出身の院生に頼んで描いてもらった(お礼のウイスキーは自腹である。この院生は僕の英国時代に我が家にテレビを見に来ていた新聞記者でその後高校教員になった男の教え子であることが判明した、世間は狭い)。
言うまでもなく、このときの予算要求書は実らなかった。しかし、このとき、会計係長を怒鳴りつけていないのは言うまでもない。世の中の仕組みを少しは理解するようになっていたのかも知れない。
 このように、初夢からの連想は愉快なものではない。今年の初夢はこのようにあまり、楽しいものではなかった。今年は前途多難ということかな?

多忙な年末になったわけ(COE奮戦記)

いつも忙しいといっているし事実そうなのだが、多忙な年末であったわけは16年度予定されていることがわかったCOE(Center Of Excellence)プログラムに僕が拠点リーダーで挑戦しているからである。世界に通用する研究拠点を作るという政府の方針で2年前から始まり、大学人(博士課程のある大学)を振り回しているものである。名大は2年間に13件採択されて自慢しているのだが、文系の採択は1件しかなく、理系から文系が軽んじられる傾向を助長している。情報文化学部・人間情報学研究科のスタッフは、新構想で作られ(設置審査会で業績審査がある)新しく集められたので軽んじられるのに我慢がならない、自分達は旧態然としている名大文系などに業績では負けていないという自負がある(ようだ)。さらに、基幹大学では名前の知られた心理学の先生は、何らかの形でCOEの恩恵にあずかり(心理学でCOEを取っていなくても、メンバーの一員として潜り込んでいる)よい思いをしているらしいこともあって、部局長は不可、とされているが環境学研究科では単なる教授だという変な解釈で僕が拠点リーダーにさせられることとなった。
そこで、ともかく、約1月かかって申請案を作成した。「情報論的人間観によるヒューマニティーズの解体と再構築」というタイトルで、認知論的心理学集団が核となり、細胞から、社会現象までを包含する世界観・人間観を構築し文理融合の方向で人文科学を再生させるという案である。曰く「こころの原子論」、「こころの社会論」という新領域を誕生させ、それらの理論に基づいて「ソーシャル・インターフェイス」という人工環境、社会環境設計指針をつくるのだ!というものである。情報が早く入ったので取り組みは早くから始められたが、
その準備に文字通り忙殺された。何時間も議論し、自己陶酔の中で作り上げた格好になった。昨日は大量の資料づくりも大変であった。僕の部屋のプリンターのインクが2個もなくなった。助手がいないので朝6時から印刷もやった(前日、東京で一日会議があり、クリスマスイブの誰もいない大学で10時頃まで仕事をしていたので、相当疲れた)その後、学内での1次ヒヤリング会が行われた。10分間の発表なので発表の練習もした。
総長以下学内審査委員会での発表は言いたいことを言っては来たが、いかんせん、3つの新概念を理解させるのには時間が短すぎた(無理な案を作るのがいけない)。審査結果はなかなかシビアなものであった。冷静になればもっともなことで、曰く、5年でそんなことまで無理だよ、八田さん誇大妄想的だよ、意気込みは判るけど、、。
僕は今年の夏この種の審査委員を経験しているので、審査委員のコメントもよくわかる。後で、こうすればよかったと悔やむ点も多い。
1月終わりに第2次のヒヤリングがあり、修正意見を入れてどれだけ申請案が改善されたかが問われる。
くじけないで申請案を作り直す作業を年明けから始めるつもりである。「Ever onward」と言っておこう。
 伝えたいのは、僕達はがんばっているゾ、ということである。「八田さんいつまでがんばるの?もういいんじゃないの?」という声が聞こえないわけでもないがね。
 まあ、そんなこんなで年を取るのを忘れそうであります。

もうおしまいだな

勤労感謝の日の振替休日があったために、3連休となった。そのうちの1日は、幹事をやっている新年会の会場での打ち合わせを兼ねて秋の京都を味わうのも悪くないと思っていたのだが、会場の営業社員が休暇を取って留守というので予定を取りやめたせいで、3日連続して自宅にいる羽目になった。タイトルも覚えていない小説を1冊半読んだのと、水泳と、スーパーへの送り迎えとで3日が過ぎた。残りの大半の時間はテレビを見ていた。ほとんど一日中テレビを見るというのは近年ないことである。昔はワイドショーを見てから出勤していて、コマーシャルや、時事ネタで授業の際に受ける材料を得ていたものだが、最近の学生はテレビを見ないせいか、たまに見たテレビでのギャグやコマーシャルネタも講義では受けないことが多い。困ったことである。
 一日中テレビを見た結果が今回のタイトルである。テレビはもうおしまいだ、というのが感想である。どの局も似たような内容の番組をやっている。出演しているタレントも限定されている。一番多かった番組は、司会者が雛壇に並ばせたタレントに、テーマを与えてしゃべらせる、それを司会者がいらう(いじる)というもので、たいていは愚にも付かない、エピソードを披露しているに過ぎない。タレントの日常のエピソードなど楽屋話にすぎず、芸ではない。芸ではないものを披露するのはタレントではないはずで、つまり、普通人にはない才能を披瀝するものではない。このことは、メディアに乗るのは普通人であることで十分、あるいはそのことが望ましいということになる。この頃のタレントという人種が近所で普通に歩いていそうな、格段の美男子、美女ではないことの理由がわかったような気がする。
 テレビがこんなにおもしろくなくなったのはなぜだろうか?どうでも良いことだが3連休で僕の頭を占めていたことなので、独断に基づく推論を展開しよう。Keywordは、組織の過剰肥大である。別にテレビ業界を熟知しているわけではないが、過去数週間にテレビ3社から利き手についての問い合わせがあったことで独断が形成されたのである。この利き手ブーム(?)は今年ヤンキースの松井選手が活躍したことが原因らしい。最初に電話をかけてくるのは、番組名を言うが、たいていは下請けの企画会社社員である。このレベルの人が我々とのやりとりを下に一定の構想を作るとそれをテレビ会社のディレクターレベルに話が行くらしい。その話を受けた上司が判断して番組の内容が決定されるらしい。上のレベルに話を持っていくときに我々と協議したことは明確にしないらしく、それぞれの段階で同じような質問を何度もされる。要は、テレビの制作現場の実際は下請け、孫請けにまる投げされているのである。ボトムアップ方式なのである。独断と偏見によればこのような構造では、斬新なものは出来てこない。例外はあるだろうが、このような構図の下層に行けば行くほど、創作能力、知的レベルは低くなるはずだからである。能力の高いはずのテレビ本局の制作部員はおそらく、知恵を絞って、創作や問題解決に当たることを放棄して、下から上がってきた企画を選んでいるだけなのだ。組織が大きくなることでこういう図式が生まれるのであろう。弱小の組織は失敗できないので他で受けている類似番組を作るのが常態化するのだろう。かくて、金太郎飴のような番組が生まれ、すぐ消えるということになる。そして、誰も真剣に見るのに値する番組は生まれなくなってしまう。もうおしまいなのだ。
階層のトップが必死で考え、斬新な企画を押し進める努力をしないと、肥大した組織は、おしまいになるのだ。
 実はこんな風な考え方が浮かぶのも、総長選挙の最終段階を迎えているせいかも知れないのですけどね。

楽しい日々へのヒント

よく考えれば楽しい思いをしたという話を書く。忙しくて何も楽しいことがないと思っている人には参考になるかも知れない。
火曜日は部局長会など一連の会議が月に一度の割合で大学の本部である。今月は8時半からの会議が12時まで続き、昼ご飯を食べて(ときには30分しかないこともある)6時頃まで続くという予定であった。何種類もの会議があるので、事務方は次々変わるが、会議参加メンバーは変わらないので、大変疲れるのが通常である。役職手当をもらっていることもあるのでさぼるわけにはいかない。
今週の火曜日は大学評価機構の仕事があり、4時過ぎに退座して急遽大阪大学に向かった。新大阪までののぞみの切符を2枚買ってあったので、名古屋駅で座席をとろうとすると、何度入れても機械は反応しない。おかしいと思い駅員に不満げに確認すると、切符は古いひかりの自由席のものであった。僕の間違いで、違う切符を持ってきてしまったのだ。気は焦るし、疲れは忍び寄るしうんざりして夜8時からの会議に出た。この日は5時、起床12時就寝である。翌朝、阪大に出かけて12時頃まで機構の仕事をした。前日欠席しているのであまり内容はよくわからず、早く終わらないかばかり考えて過ごした。3時から教授会を主催せねばならないので気が焦っていたのである。
疲れて、うっとうしい気分でともかく新大阪駅まで行くとのぞみは出たところで、ひかりで名古屋に戻るしかない。焦る気持ちでうんざりということであった。
ひかりの自由席に席を取り焦る気持ちでいらいらしていると通路を隔てて陣取っている肉付きの良いおばさん(60歳前か)がいた。なぜ気になったかというと落ち着きがなかったからである。様子を見ていると弁当を食べ始めた。自宅から準備したもののようで、僕が買い込んだ駅弁を食べたのに触発されたのかも知れないが、おにぎり2個、パックに入れたおかず(テイシュの箱サイズ)を食べ始めた。食べ終わってからが驚きなのである。食べ終わると、まずゴミを捨てに行った(こういうところは僕もすぐに捨てるタイプなので、気持ちはわかる)。戻ると、カバンから歯ブラシを出し、何も付けずにいきなりガシ-ガシと磨きだした。ひとしきり磨くとまた洗面所に行った。戻ると今度はデンタルフロスを出して歯の掃除を始めた。きれい好きなおばさん、と思っていたら、突然カバンからチョコレートヌガーのようなものを出し、かじり始めた。食べ終わると続いてあられの袋を出しボリボリやりだした。一連の動作を流れるようにこなすのに思わず見とれてしまった。自分は何とも思っていない一連の動作も、他人が見ると笑いをこらえるのが難しくなる。おかげで、いらいらした気分も疲労感も消え、名古屋までには楽しくなってしまった。
 前日に名古屋から大阪へ向かうべく名古屋駅で何度も座席指定をとろうとしていた僕を誰かが見ていたらきっとおかしかったことだろう。
 ともかく、しんどい、つらいきついなどと言っている時も他人の目で眺めると気分が変わる事もあるということですわ。しんどい、吐き気がするというほどがんばって勉強している人は参考にしてください。

タラの木とイタドリの花(10/5)

このコラムも説教じみた内容が多くなって来ているのを自覚しているので、今日は自然を対象にしようと思う。
久しぶりに土曜日と日曜日に2連休で家にいる(久しぶりを確認するために電子手帳で確認すると5月5日~6日以来のことである)。昨日は午前中に皮膚科にいって湿疹の薬をもらっただけが仕事で、映画を2本見て、ごろごろできた。
運動不足を補わねばと昨日は半ば強迫的に散歩をしたのだが、今日は昔のようにぶらぶらと散策風になった。ゆっくり歩くといろいろと発見があるものである。いつもより少し足を伸ばして墓地公園の入り口までの坂道を歩いていると道ばたにイタドリ(スカンポ)の花を見つけた(以前はセントバーナードが2頭いていつも吠えていた段ボール業者らしい家は墓石を売る店に衣替えをしていた。墓石屋は儲かる商売らしい最近よく新装開店を見かける)。
スズランのような形で白い小さな花びらが重なっているのがイタドリの花であることを知った。個々の花びらはスズランのように釣り鐘状ではなく開いているのだが、花びらが鈴なりになっているのでそんな連想をしたのであろう。スズランはみずみずしさを感じるが乾燥しているように思えて造花のような印象を受けた。可憐な花であるが花びらが小さいのと量が多いので近づいてみないとそのよさは分からない。イタドリは春先には存在感を示すが今までその花がどういうものかは知らなかった。
坂道のイタドリは30センチほどの背丈の小さいものなので、帰路は自動車が通る道路に出て大きいイタドリを探し、その花を見ようとしたのだが、下刈りがなされていて、10センチほどの新芽しか見つからなかった。少しがっかりした気分でしばらく歩くとタラの木に大きな花が付いているのを見つけた。タラの木は牛蒡の様な太さで棘があり堅いので下刈り作業で切られずに済んだのであろう。タラの木の花には感動した。神社のお払いで巫女さんが持つ鈴の大きなものを想像されたい。その鈴の部分に当たるところはちょうど分子構造の模型のようなのだ。鈴に当たる花軸(正式には何と言うのかは知らない)には5ミリほどの小さな箒状の白いものが途中にあり、数センチ先の先端には2センチほどの黒い粒がリング状になっているのである。クレオソートのリング(粒の数は10~15で一定ではなかった)が突き出ているのだ。このような構造の花軸が房のようになって巫女さんの持つ鈴のような印象を与えるのである。その造形の美しさは目を見張らせるものがあった。
タラの芽は春先天ぷらにして食べるもので春にしか存在を知られない。里山で子供時代を過ごした僕でも始めてタラの木の花に気づいたのである。
ゆっくりと物事は見るものである。人間は関心を持つときだけしか草花を見ていないのだ。ある短い時期だけ見ていては物事は見えてこないのだなあ。生きていく中ではゆっくりとした時間が必要だなあと思い知ったことであった。
 一時期に受けたものとは違う考え方が、時期をおいて眺めると生まれるものである。一度、ダメだと思ったデータも時期をおいて眺め直すと新しい発見に繋がるのかも知れないなあ、などといってしまうと説教じみてくるので、今日は止めておこう。

論文の審査(9/5)

院生の諸君には、あるいはこのコラムを読んでくれている若い研究者を対象に、論文審査にまつわることを書きましょう。
 その前に、現在、大学評価・学位授与機構が進めている教育評価に関係する仕事をしています。旧帝大の文学研究科のを担当していますが、審査委員名は公表されているのでこの種の仕事をしていることを話しても問題はないはずです(もちろん詳細は秘密ですが)。率直に言えば、文学や歴史、哲学などが中心の文学研究科の院生の研究業績はみすぼらしいものに違いないと思っていました。しかし、先入観は間違いでした。時代は変わっているのですね。個人差はあるのでしょうが、現在の環境学研究科心理学講座の院生の比ではありません。がんばって、諸君が研究発表(論文)をしてくれねば、我々教官の評価が悪くなるのです。「できる学生は一人でやれるし、そうあるべきだ」という種の発想は時代遅れになってきました。先生受難の時代です。
 そうはいっても、代わりに書いてあげるわけには行かないので、論文作成に関わるKnow howを伝えようとしているのです。
 最近、次のようなことがありました。20か月ほど前に神経心理学の著名な雑誌に投稿しました。2か月ほどで修正コメントが来ました。それから2月ほどして修正稿を送り返しました。以後、連絡が無いままでしたが、こちらも失念していたのに気づき、8月中頃にどうなっているのかを尋ねました。すると、ネット上にすでに修正稿へのコメントが記載されているはずだと編集作業をしている出版社から返事がありました。探してみると、確かに返事があるのですが、何も書いてありません。再度問い合わせると、編集委員長のコメントをメールで送ってくれ、2月の時点で受理されたことが判りました。ただ、PDFで送り送った図を違う形式で送り直せということでした。ネット上に張り付けるのがうまくいかないので、出版社に添付で送り張り付けてくれるよう依頼しました。これで、万事完了と思っていたら、昨日メールが来ました。最初の編集委員長とは別人です。修正稿を読んだが、2~3問題点があり、論文は不採択というものでした。狐につままれた様な思いでほっておこうかとも思いましたが、受理済みのはずである旨メールを書きました。
今朝、だめといった委員長からそうでした間違いでした済みませんという返事がきました。
これらの騒動から院生諸君への教訓です。
?投稿して返事が遅ければ問い合わせること。査読委員はたいてい忙しいので忘れていることがある。やりとりにはいろいろなことがあるのを我慢すること。
?おかしいと思ったら文句を言うこと。僕の場合も、文句を言わなければ時間を掛けた論文が1本なくなるところでした。
?審査は委員によって評価が変わることを理解しておくこと。僕の場合も2番目の編集委員長は、けんもほろろなコメントでした。読んでいないなという感じで、アメリカの雑誌に入ってくるなと言う差別感さえ感じました。一度だめと言われても、別のところの編集委員は評価が違う可能性があることを頭に入れておくことです。
?「蓼食う虫も好きずき」、「あばたもえくぼ」という例えばちょっと違いますが、不可と言われた論文でも雑誌が変われば可となることもあるので、辛抱強く挑戦することです。
以上の教訓は、論文を書いて投稿することが前提ですけどね。がんばって下さいよ。

何か変だ(8/28)

 今年の8月はものすごく忙しかった。思い返せば、初旬に北海道で実験による資料収集、名古屋での大学説明会、東京での大学評価基準作成関連の2種類の会議、大阪での学会、京都での研究会と飛び回っていた。この他に大学内の委員会や膨大な量の大学評価関係の書面作成があった。例年、夏には海外に学会関係で出かけて息抜きができていたのに、今年は自宅でのんびりという日は一日もなかったといっても過言ではない。今までの人生で一番忙しい8月であったような気がする。日本の大学で教えている米国人の友人に忙しさを嘆くと、I sympathize with your situation! I have experienced only 1/100th what you have endured, but I also have the strange feeling that the "reward" for a good research career is bureaucratic punishment!!! Something is wrong here と返事が来た。そうだよなあ、うまいこというなあ、と感心した。日本では少し大学で目立つと(それは研究者としてなのだが)、大学での管理職的仕事が当然のように割り振られてくる。管理職をしていると、東京での会議などの委員に当然のように指名されてしまう。この種の委員は大学に配分されるので非協力的な印象を与えないために引き受けざるを得なくなる。ますます、仕事は増え、新幹線に乗る回数が増えることになる。まさに命を削っている感覚があるが、東京での会議に出てみるともっと忙しそうな人が大勢いるので、愚痴も言えないなあと思ってしまう、という仕組みが次第にできあがる。忙しい者はますます忙しく、使える者はどんどん使おうとしているようで、まさに、bureaucratic punishmentを受けているようである。
何かが変である。
 先週は大阪からほぼ満員ののぞみに乗り(駅の予約掲示ではたいてい満席となっているが、以外と空いているときがあるのだ)、空席にとりあえず陣取り、京都、名古屋、新横浜と予約客がこなかったので、ラッキー!と、とてもうれしかったのだが、予約する時間もなく新幹線に飛び乗り、空いている席に座ってみて、停車駅で、予約客がこないのを喜んでいる場合ではない。何か変だ、と思っているうちに、自分の研究の進捗が明確に変だとなってしまうのはごめん被りたい。そうかといって言って、いつまで論文書きなどやっているのかと白い目で見られるのも困るし、悩ましいことである。

ベルリンに行ったけど

ベルリンでの国際神経心理学会に総勢5人ででかけた。科研の成果発表をせねばならないということもあり、嫌がる院生(?)を省みず、発表を申し込んでおいたのだ。全員に口頭発表をさせたいと教育者の使命感で申し込んだが、ポスターに回された発表もあった。口頭発表はシンポジウム形式となっていたので、くくりにくい種類の発表は口頭発表にはできなかったようである。
ポスターになった発表は欧州では未発達の分野で、シンポジウムには取り上げられないということもあったのであろう。しかし、われわれの発表は最新号の特集でCognitive reserveと呼ぶ新しい領域として認知され始め、神経心理学の最先端を走っているらしいことがrealizeできたことを旅立つ前日に知ったので、気分良く参加できた。
初めてのベルリンでの印象を記す。
フランクフルト経由で夕方ベルリンに到着したが、何と言っても暑かった。異常に暑かった。この頃、ロンドンでは最高気温38度というから、ベルリンもそれに近かったのだろう。
全般的には西ドイツとは違う印象を得た。暗いというのでもないが、かつて訪れたことのある南ドイツ地方とは何かが違った。ベルリンの壁を見学したあとに気づいたのだが、ベルリンはプロシアで、バイエルンとは違うのである。
われわれがイメージする多種多様なドイツ、ビール、ソーセ-ジ料理はベルリンでは見つけにくかった。イタリア料理屋ばかりが目に付き、ビールの種類も限られていた。
印象の違いを感じたのは、たとえば、こんなエピソードである。全員で帰国の当日、サンスウシー宮殿に行ったときのことである。土曜日でもあり、切符売り場には長い行列ができていた。並んでみると、全然進まない。炎天下に15分ほど待ってその理由がわかった。一人の売り子が、客にどの場所を見るか質問し(客は質問する)、やわら、おぼつかない手つきでパソコン操作をして切符を打ち出す。つまり、印刷した切符を準備して短時間で売るというシステムをとらない。行列している客も入場者が全員並んでいるので、行列はやたら長くなるのである。僕がまとめて切符を買おうとすると売り子は驚いた様子で他の人間は?という。代表が並んで、他の人間は外で待っているというシステムを理解できないようである。
 もっとも、買った切符には家族券で1ヶ月有効とあった。長く滞在してゆっくり見学するのだから、長く並んだという10分や20分がどうした、たいしたことないでしょうということなのかも知れない。南ドイツではこのようなことは経験しなかった。
僕はメッチェン、エッセン、ドッペル、アルバイトなどのドイツ語が蔓延する時代の大学生なので、他のメンバーよりドイツ語を知っている。しかし、忘れている単語が、状況によって記憶庫から引き出されるのには驚いた。多少は英語が話せるようになり、日常会話では単語を並べれば良いことを知ったことの転移的要素もあるのだろう。中央駅はこの方向で良いのか?は、ナッハ・ハウプトバンホフ・レヒト?(toward main station right?)で通じるのだ。訪ねた男は、そうだ、15分だ、でも、線路の上歩くなよ、と言っていた(ように聞こえた)。こんな様子なら、大学生の時に苦労しなかったのにと思ってしまうが、苦労したから痕跡があるということなのかも知れない。
全員で一緒に宮殿を見学しその後帰途についたが、ベルリンからフランクフルト空港について、成田行きに乗る頃、どっと疲れがでた。飛行機に乗り込んだ頃は、倒れるのではないか?という恐怖に襲われた。死ぬのではないかと本気で思った。保険には入ったがもう少し金額を増やしておけば良かった、でも公務災害になるからと、真剣に考えていた。今までに一番強く感じた恐怖感であったことを告白しておこう。配られた、夕食のそうめんだけ食べて、ともかく寝た。3時間後には気分は改善しており、死なないな、と安堵したものである。ついで、6時間、合計9時間は寝た。成田では、元気になっていた。
もちろん、帰りの機内では何も食べられなかった。往路では白ワインを前部味見したので、帰路は赤を制覇と思っていたのだが、お酒は飲めなかった。残念!
炎天下で若い人と一緒に歩いたのはまずかった(とあとで反省した)のだ。
気持ちだけで、若い人と一緒にいるとこれからは危険かもしれないと思った次第である。だけど、年寄りと一緒に海外旅行もいただけない。悩ましいことである。

たら・れば(15/6/8)

「たら」・「れば」とは、もし何々だったらという仮定の話で、もしこれこれだったらとか、何々だったらという、ことを言う。未練たらしいことを考えるのは嫌いで、僕は基本的には考えない質である(と自分では思っている)。しかし、全然考えないかというとそうでもない。めったに考えないが皆無ではない。先週末に2回も考えてしまった。珍しいことである。
一つ目は池田小学校児童殺傷事件に関してである。報道ではまる2年たつのを機会に被害者遺族と文科省、付属小との間で賠償がまとまったという。それを期に、辞任を申し出ていた山根校長が校長職を辞任するという新聞報道があった。遺族の一人が教授職も辞任するのが筋だというコメントが出ていた。付属の校長職は大学の教授の併任であり、実際は名前だけのものである。山根さんは僕より1年上だが、大阪教育大では、このあたりの年齢の心理学と教育学の教授が5つほどある付属学校の校長を併任する仕組みになっている。心理学では僕より年少の2人が別の付属学校の校長を併任している。たまたま池田の付属の校長が当たったというだけなので、山根さんには運が悪かったとしかいいようがない。昔一緒にソフトボールに興じたから言うのではないが、山根さんは真摯に対応してよくやってきたと思う。遺族などからの責めは大変だったろうと同情を禁じ得ない。
僕が名古屋大に移らなかっ「たら」と考えてしまった。池田付属の校長を併任していた可能性は少なくない。僕だったら、山根さんのようには平身低頭、誠実に対応できなかったと思う。付属は廃止すべきだと昔から僕は主張してきたから、たぶん大騒ぎを起こしていたに違いない。事件以後、安全マニュアルが作られ市町村の教育委員会に配布されたが、大半は読んでいないという記事を載せていたが、前記のコメントを述べた遺族は翌日の新聞で、そこでもコメントを寄せており、そういう事態は池田小学校に問題があるという、訳の分からない幼児性の強い八つ当たりを言っていた。こういう遺族を相手に僕は一悶着起こさずには居られまいと思う。山根さんに激励の手紙を出そうと思ってしまった。
2つ目は、アカデミックな話である。以前に行動の終止メカニズムを勉強したい旨のことを書いた。たまたま、文献を検索していたら、2編の関連論文が見つかった。1999年と2002年の新しいもので北欧の研究者によるものである。これから読もうと思っているが、それらの引用文献にDimond先生の研究2編が記載されているのに気づいた。1971年頃の仕事である。僕がここ1年ほど前から気になっている問題意識をすでに30年も前に取り上げていたのだ。僕がDimond先生に出会ったのは1977年なのでこの種の仕事は知らなかった。追いつけない研究者というものに30歳の頃に出会えたことをありがたいと思うしかないが、先生が43歳というような歳でなくなるのではなくせめて10年ほど長生きしてくれてい「れば」、という思いに駆られたことであった。

祝吟について

祝吟とはお祝いの歌のことである。僕の田舎の風習で、最近は消えつつあると言ってもよいが、結婚式、銀婚式、竣工式、などお祝い事で行われる。僕の大学合格祝いの集まりでの祝吟のいくつかは、短冊が残っていて、今でも持っている。雅な風習のようであるが、なぜ滋賀の湖北の農村にこのような風習があるのか判らない。土地柄が古く文化的なのだということにしておく。
ともかく、祝い事に呼ばれた客はそれぞれが、名前などを読み込んだ歌を持ち寄って、宴会の途中で披瀝しあうのである。一族の中の右筆がそれらを和紙に書き上げ、鴨居に次々と張り出すのだ。
よく考えてみると、この習慣にはいくつかの利点ありそうである。一つは、祝吟の披瀝があるので、泥酔できない、酒の量が少なくてすむ安上がりである。さらには、新しく加わったよそ者の知的水準を推定でき、地域の人材足るかを見極めるのに使えるなどである。
僕は両親の金婚式の時にまねをして一首詠んでみたら、なかなかよいとおだてられ、それ以来、結婚式などに呼ばれると祝吟を呈することにしている(時々は親孝行のつもりで父に見てもらったりした)。評判は悪くないように感じているが、本当のところはわからない。
もともとは、書かれた歌を、つまり文字をみて評価するものなのだが、結婚式など大勢の前で披瀝するときは、音声情報だけになるので、あまりできのよくない歌が案外評価が高いことも、その逆もある。
覚えている作品の例をあげてみよう。
「秋の陽に、樹々それぞれに輝きて、前山にこだます、君の歌声」。これはコーラスが趣味の前山君と児玉陽子さんの結婚式。予想外に受けた。
「町角を素顔の君と語らいて、歩めば博き夢のいや増す」。これは角博文君と小池素子さんの結婚式。作風が変わったと言われた。
「雪解けて、垣のくぼみに咲いでし、まこと若芽ぞ、春は生れ来る」。これはいったん別れて再度よりを戻した久保真人(まこと)君と柿崎聡美さんの結婚式である。以外と評判が良くなかった。
昨日は、岩原昭彦君と寺田和恵さんの結婚式があった。仲人役ということだったので、当然ながら一首詠んだ。
「岩原に夢を和恵て、歩み来て、樟蔭の下、君と憩う」。樟蔭短大で知り合ったカップルなのである。ちょっと、訛って苦しいが、まあまあの出来ということにしておこう。
 以前に「はったの野球拳モデル」の話を書いた。この先、老化に向かう僕としては認知機能の低下を鈍化させるのに祝吟を作るのは有効なはずである。ご希望の向きは申しつけ下されば作って差し上げることができます。ただし、認知機能低下が閾値を超えないまでにお願いします。