休肝旅行
通称NANと呼ばれている米国のNational Academy of Neuropsychologyの第24回年次大会に単身参加した(もちろん発表はした)。同行を誘った人もいるのだが、入試があるとか忙しいとかという理由で断られたので、一人で出かける羽目になった。3泊5日の旅行である。4年ほど前にモントリオールに一人で出かけて以来の単独行である(同行者がいると荷物を見ていてもらってトイレに行くなどで便利なのだ)。この学会は米国では国際的に活動しているINS(International Neuropsychological Society)よりも組織が大きいらしいので、一度見てみたかったのである(実際参加者は人数的には多かった)。以前にも参加の機会があったのだが、同時テロの2ヶ月後だったこともあり、僕は取りやめた。院生の伊藤君は参加し、大いに刺激を受けた様子で興奮して帰ってきたのを覚えている。
今回は前日まで、いや当日まで忙しかった。午前中に教授会の事務方との打ち合わせを10時過ぎに終えて、成田に直行した。このとき、時間を勘違いして地下鉄までダッシュしたが結局予約していた新幹線に5分の差で乗り遅れることとなった(乗り遅れた新幹線の切符では新たに座席指定は取れない、自由席でなければダメなことを知った)。予定よりも東京駅には20分ほど遅れたにもかかわらず成田空港には予定よりも1時間も早く着いてしまった。パソコンの経路情報も当てにならないのである。
待ち時間が長いので、査読論文などを空港で読んで時間つぶしをするしかないと思っていると予定していた時間よりも30分も早い搭乗となった(バスで出かけるのでゲートを出るのが早いのである)。乗客がそろったのでということで、出発予定時刻よりも早く飛行機は飛び立った。飛行機の時間も当てにならない。とまれ、ミスであったことがそうでなかったかのような、変な案配でシアトルに着いた。大きなややこしい空港でやっと荷物を取り出した頃に急に便意を催した。空港では都合2回もトイレに行く羽目になった。10年ほど前にはこの空港で乗り間違えたこともある縁起の悪い空港である。痛むおなかを押さえつつタクシーでWestinホテルに到着(学会の会場でもある)。朝の10時頃で、すぐにトイレという状況であった。部屋に入れるのは3時以降なので、荷物を預けて町でも見ようかと当てもなく数分歩くと便意を催し、ホテルに戻る、ロビーでうたた寝して、また町へ出かけるが10分ほどでホテルに戻りトイレに駆け込むという状況であった。海外で体調崩すのはここ20年間ほどはなかったことなので、加齢のためだと元気をなくしてしまうこととなった(そのために活動量は減少した)。近所に薬局を見つけて下痢止めを購入した。不思議と下痢の英単語は浮かんできたので助かった。1錠でぴたりと止まったのだから向こうの薬はきついのだろう。
そういうわけで初日は7時前から入眠。翌日は一日予定もなく朝飯を学会場で食べて、ポスターを少し見回ったりして過ごした。町にも出かけたが寒いのでホテルにいることが多かった。おかげで原稿書きなどの手持ちの仕事ができた(そうするしか仕方がなかったのだが、こういうときにPCを持ってきていないのだ)。そういうわけでホテルの向かいのビルの3階にある食堂(真ん中にテーブルがたくさんあり、各国の料理が周囲で売られている様式)で晩飯を食うしかなかった。どの売り場でも2人前以上の量が提供され5ドルほどの値段であった。この種の食堂ではアルコールが売られていないので、結果的に4日間アルコールを飲まずに過ごしたことになる。結局、毎日非連続ではあるが10時間以上寝たので、休肝と睡眠をとるためにシアトルに行ったことになる。
さて、NAN学会であるが、とくに開業している臨床神経心理家に特化しているような性質を感じた。保健の点数の請求の仕方の講習、多動児、学習障害児、などの発達上の神経心理学的問題を取り上げたテーマが多いこと、検査の妥当性など神経心理学的評価法、司法神経心理学的な問題が多い印象を受けた。個別発表は早朝7時半から9時までが3日間で数がかなり制限され、発表の採択率は低いと聞いている(ちなみに真ん中の時間はワークショップで、聴講は有料、参加者のレベル指定あり)。僕らの発表が採択されたのも注意機能のスクリーニング検査としてのD-CATの信頼性と妥当性についての発表だったために違いない。米国以外からの発表は2件だけであったと記憶している。アメリカで開業していたり、研究志向ではなく治療志向の強い臨床心理の専門家のための学会だなあ、というのが結論である。日本から参加するのは新しい検査でもつくって売り出すときぐらいしか意味はなさそうである。
そういうわけで、今回は肝臓のためには役に立つ学会であった。
困ったなあ
3週間ぐらい前から気になっていることで、今朝理由が判明して一段落ということがある。歯を磨いた後に口をすすぐのは誰でもすることで、僕も当然行う。バナナ味の歯磨きやイチゴ味の歯磨きを使う年ではないので当たり前のことである。3週間前にふと気になりだしたのだが、普通にコップに汲んだ水を口に含んで「ガラガラ、ペ」をした後に鏡を覗き込むと、口の両端に歯磨きの泡がしっかり残るのであった。わざわざ、水にぬらした手で両端を拭わないといけないのだ。それまでにも同じ動作を無意識にしていたのかも知れないのだが、急に気になりだした。なぜ、こんなにしっかり口唇の端に歯磨きの泡が残るのかをずっと考えてきた。歯磨きの量、「ガラガラ、ペ」の回数や含む水の量に関係するのかも知れないと思って、いろいろなパターンを試みてみたが、結果には余り変化がない。
コップの水で口をすすいで歯磨きの動作が終わるだけの行為と、それに加えて手で水をすくい口の両端を拭わなければならない行為に要する心的負担はかなり違うのである。とくに、イラチの僕としては気に入らない,困った状態に陥ったことになるのだ。とくに、晩ご飯の後のほろ酔い加減が持続中に、さあ寝ようかと歯磨きを手早く済ませたい僕には困ったことなのである。以前に勤めていていたクリニックの医者からは「歯磨きは、3,3,3です」とよく聞かされたものだ。3度の食事後3分以内に3分かけて歯磨きをするのがよいという教えであるが、僕の身には付いていない。
理由が今朝判明した。何のことはない、太ってほっぺたに肉(多分脂肪)が垂れ下がってきたので、口唇の両端に着いた歯磨きの泡が流れ落ちにくくなっている、と推論したのだ。何ということはない、老化が原因ということなのだ。
困ったことの原因が老化というのなら、今現在にも他に困ることがある。論文や本を読む集中力が減退したことである。これは多分に老眼によるのだが、緩い読書用のめがねを掛けないと細かい文字の論文や本は読めない。読書用のめがねを掛け始めて10年以上になるが、いっこうに度が進まない。つまり同じめがねで用が足りるのである。今年の8月の人間ドックでは視力が両眼とも2.0と判定され、僕の視力はどうなっているのかと思っている。
視力が戻ったといっても怪しいもので、読書用のめがねを掛けないともちろん論文は読めない。
読むと目が疲れるので文字を書こうとするようになる。じっとしていられないのがいけないのだが、その方が楽なのである。したがって、原稿を書こうとする。頼まれ原稿は滅多にないので、学術論文を書かざるを得なくなる。実際、2編を平行して書いているのだが、書き出すと参考文献を読む必要がつぎつぎと生じてくる。少し読もうとすると目が異様に疲れる。どうすればよいのかと困っているこの頃である。
一定の年齢になると、困ったことがでてくるのを実感するようになったが、これからますます困ったことが多くのなるのだと思うとなかなか大変である。
というように、僕は自分の困りごとで精一杯になりつつあるので、若い人はご理解下さいよ、言ってふてくされるしかない。
打たれ強く行こう!(04/10/6)
しかし、その資金を提供する団体のHPをみると類似のプロジェクトでの採択率は6%ほどなのだから、通らない確率の方が高いのだし、せっかく作った研究計画なので別などこかで規模を縮小して申請すればよいではないか、などと自分を慰めている。次、行ってみよう!という気分である。
このような申請の失敗経験はあまり披瀝したくはないのだが、このコラムの読者の多数を占める院生には有益なのではないかと考え、敢えて紹介することにした。したがって、下記のことはしっかり理解するようにしてもらいたい。
失敗体験は心理学で言う欲求不満耐性を育ててくれる。昨朝のコーヒータイムでの雑談で唐澤先生から次のような話が紹介された。東京の某有名大学の先生の指導学生の話である。大変優秀で、数学も英語も強く、勉学にも積極的に取り組む理想的な院生で、本人も自信があるという院生であったそうな。先生は将来研究者になるためには英文の論文を書く習慣を付けさせよと考え、Psychological Report誌に投稿させたという。この雑誌自体はそれほど評価が高いというものではないが、米国から出版されており。歴史が古く世界中に流布していることでは定評があるし、現在では著明な研究者でも駆け出しの頃には数編書いているということが珍しくないものである。
評価が高いというわけでもないとはいってもこの雑誌には査読があるので、当然コメントが帰ってくる。この院生が書いた論文に対して、コメントは「英語が読めない」と書いてあったそうな。つまり、英語が下手すぎるというコメントだったらしい。このコメントにショックを受けたのかその院生はすっかり自信をなくしてしまい、先生は困っているという。唐澤説では、いままで何でもよくできてお利口だったのに始めて×といわれたショックから立ち直れない状態でしょうということである。欲求不満耐性が育っていないのである。
冒頭の僕の話から明らかなように、欲求不満耐性が育っていない院生はこれからの研究者には向かない。早々に別の進路を考慮した方が賢明である。われわれが例えば心理学研究の論文を査読して、「書いてあることがわからない、日本語が分からない」などのコメントをすることは珍しくないのだから、英文で始めて書いた論文の英語にダメだしされたところで,怯むことがあってはならない。外部資金の申請も頻繁に行い、頻繁に不採択となることを経験していくことであろう。
院生の諸君はゼミでも経験していると思うが、研究者をするということは、自分で一番よいと考えたことやここまでできたら文句ないだろうというものでも、不十分と批判され、否定される、そういうことの繰り返しである。そういう繰り返しはもうごめんだ、と感じた頃から研究者生命は終わるのだ(それでは、これからはよい教育者になります、というわけにいかないのが大学などに職を得た人の難しいことなのだが、この話はここではやめておこう)。僕はもう少しは研究者でいたいと思っていますので、失敗してもめげるわけにはいきません(辛いのお!;関西の漫才師横山たかし風に発音すること)。
とまれ、打たれ強く行こう!
失念(04/08/27)
昨日は大事なことを失念した。金曜日だったので少し早めに大学をでた。高槻駅から家内の携帯に電話すると、予想に反して家内が電話に出た。最近血圧が高いと神経質になっているので、そのような類のことでなにかあったのかと思っていると、どうしてこんなに早いのかと言う。通常、駅からの家内宛の携帯電話には家内は出ないことになっていて、5回ほどコールして切ることになっている。電話代がかからない形で門を開けてもらう約束になっているからである。家内は、予定表には何かがあると書いてあるという。「エッ」と思わず声が出た。そこで、ハタと失念したことに気づいたのである。5時半から北京大学に留学する事務の人の簡単な壮行会をするから出てくれと、事務長から言われていたのをすっかり忘れて帰ってしまったのだ。引き返すわけにも行かず、明後日謝るしかない。昼過ぎに事務長からは再確認されていたのに、この始末である。「加齢のせいですよ」、と言う声が聞こえそうだが、それでは身も蓋もないので、なぜ忘れたのかを分析してみた。
金曜日は早朝からともかく忙しかった。7時前に昔の教え子の子どもが大阪で2日後にある名古屋大学説明会に出たいので場所を知らせてくれというメールに対応したり、集中講義に来てもらっている非常勤の先生との対応、10時からは建築学の教室での科学研究費の会合、1時には博士論文の構成への指導で昼御飯はカップ麺、という状況であった。さらに、院生と協議中に東京女子医大の高名な先生から2年後の学会を引き受けよという話が飛び込んできた。全国規模の学会は引き受けたことがないので、当然辞退したいのが、そうも言えない事情もあり、承諾してしまったのだが、これで、すっかり調子が狂ってしまった。院生との話もそこそこに、期日や会場の選定など一気に僕の認知リソースは満杯になってしまったのだ。挨拶状が来ていたことを思い出して、名古屋市の観光課に助言を求めたら、候補会場をリストにして送ってくれるという。これでほっとしてしまったのだ。
疲労感が一気にどっとでたので、早めに帰宅したという訳なのである。
数年前にも10万円ほどポンド紙幣がはいっている財布を電話ボックスに置き忘れてことがある。このときは、アバディーン大学の先生との約束の時間に2時間近く遅れそうになり、断りの電話を掛けるべく、必死に1時間以上も電話ボックスを探し、やっと見つけて、遅れるということを伝え相手は待っていると言ってくれ、ほっとした。その後で、電話機の上に置いた財布を置き忘れたのだ。警察に届けたが、直ぐに出てくるよ、ここはスコットランドの田舎だからという警官の言葉に期待したが、結局出てこなかったことがあった。電話ボックスの前の家の人が警察に通報してくれたので警官が追いかけてきてくれ、届けることができたのであった(このときは、てっきりスピード違反で捕まったと観念し、肝を冷やしたのだった)。
どうやら、認知リソースが満杯で、それが何とか対応できたとほっとしたときに失念が起きるらしい、というのが現在の僕の分析結果である。つまり、容量一杯一杯に張りつめた状態が続き、それが弛緩できるとなった頃にabsent mindednessが起きるというわけである。
したがって、失念は学生諸君でも起こすのであるし、加齢が主たる原因で失念が起きるわけではない(というのは何とかの負け惜しみであろうか)はずである。
もちろん、しばらくコラムを書かなかったのは多忙のせいで、忘れていたわけではないことは言うまでもない。
叔母の死
6月21日の夜に、自宅で介護していた家内の叔母が亡くなった。三原キクエという名前である。家内と一番上の姉が最後を看取った。82歳ということで、昨今の女性としては早い気もしないではないが、9年ほど患っていた骨髄腫との闘病の結末としてはかなりの期間であり、もう十分に病と闘ったといえる。
周囲のものは悲嘆にくれているというよりも、むしろ安堵感と満足感を味わっているというのが正直なところである。満足感は、大阪に住む3人の姪(家内は一番下になる)が、長い闘病生活を交互に介護して、世話になった過去に恩返しができたと思えていることに起因するようである。
叔母には子どもがいないので、叔母の介護にまつわり、感じたことなどを記すことで、三原キクエという女性が存在したことを、このコラムの読者だけにでも伝えておきたい。世間的には、特別に著名でもない女性の人生にも、いくつも学ぶことがあるからである。
結婚して2年ほどで夫が病死したので、叔母は戦後すぐに、実家に身を寄せたらしい。新婚生活は戦時中の大阪で、病気の夫を抱え食料もなく苦労したようで、夫の死後、食糧事情の良かった鳴門に身を寄せたという。結婚生活は2年ほどであったらしい。当時、実家は塩田を営んでおり、人出も要りようであるし、食料の基幹となる塩を生産できる「浜屋」は裕福であったはずである。
昭和26年に家内の母親、つまり兄の嫁が亡くなり、そのまま、再婚もせずに3人の姪と1人の甥(当時3歳のはず)の面倒を見た人である。つまり、家内をはじめとする姪や甥には母親同然の人であったはずで、最終的に介護をすることに、特段の不思議はない。しかし、何度も入退院を繰り返した阪大病院では、親の面倒も見ない子どもがいる今日、叔母さんの世話をするのは感心だと、いろいろな人から幾度もいわれたようで、姪たちの自尊感情や効力感を刺激したはずである。
いくつかの事情から、高槻の私の家で晩年を過ごすこととなった。最後は病院でなく家で死なせてあげようということになり、それが実現した。このことは本人も感謝してくれたので、周囲の介護している姪たちに満足感を醸成している。
最期の2週間ほどに思いをやると、いくつもの発見があった。
まず、末期の医療は条件が整えば在宅でも不可能ではないということである。叔母には癌性の疼痛があり、死ぬ2~4週間の阪大病院では周りの者も夜眠れない時もあったが、自宅に連れて帰り、疼痛をコントロールする貼り薬や緩和剤で、よく眠るようになった。最近は優れた薬が開発されているのを知った。介護制度ができたおかげで、1日に3、4度はヘルパーさんが介護を手伝ってくれ、家内の心的、身体的負担はずいぶんと軽減された。この制度の有用性を実感できた。
第2は記憶や意識についてである。叔母は疼痛緩和剤のせいで意識水準が低下すると「おかあさん」、「お父さん、助けて」などしっかりした口調で発話することがあった。このような呼び方をするのは自分の親以外には考えられないということなので、幼児期の記憶が検索されたのであろう。私の母親の場合もせん妄状態にあるときに小学生の時の先生との会話を繰り返したことがあるので、古い記憶は死ぬまで貯蔵され、検索されうることを示すように思える。自分が同じような意識水準の時に誰の名前を検索するのか、興味が(心配でも)ある。
第3は薬で低下している意識水準が、死ぬ前日辺りから戻ることがあるのを知ったことである。帰宅した次男が話しかけても、寝てばかりだった叔母が、死ぬ前日、帰る挨拶をすると、何度もうなづくことができた。死ぬ当日、大学に出かける前に体位交換を手伝うと、急に何かを話しはじめ、家内が「有り難うといってるの?」というとおとなしく眠りに戻った。低下した意識水準は定常ではないことを体験できた。
第4は、生き方についてである。叔母は損な役割ばかりしてきたかも知れないとも言ったことがある。しかし、最後の数年は姪たちの世話をたいそう喜んでいた。自分の幸せを追求することは、二の次にして幼い4人の兄の子どもの面倒をみることで人生を終えた人である。幸いにも叔母はその自分の貢献に見合うことを最後は返してもらえたようにも思えるが、甥や姪の面倒を見ている時期にそれらを期待してのことではあるまい。
自分の幸せを追求することは誰でも熱心にできる。しかし、自分の幸せを二の次にして他者をサポートすることは容易ではないのに、それをできる人もいる。叔母はそのような人生を送った人であった。
今年の連休は叔母の介護で、休みらしいものはなかった。そのことを英語を見てもらっているイスラエルの友人に書いておいたところ、添削に次のようなメモがあった。
「It is gratifying to know that you are able to help someone who really needs you」
私も、そろそろ自分の幸せを二の次にして他者のために、と改めて思う。コマーシャルじゃないが、読者諸氏も、よーく考えよう、「お金より大事だよ~」。
電子メール
先週、佐世保市の小学生が友達の首をカッターナイフで斬りつけ殺してしまったという事件が起きた。その後の情報ではネットでのチャット仲間を悪口を書かれたので、殺そうと何日か前から計画していたのだという。痛ましい事件で、あらためて、時代が変わると人間の行動は変わることを思い知らされた。時代が変わると人の行動は変わるということは、心理学者は食いはぐれることはないということかも知れず、一方では喜ぶべきことかも知れない、などと不謹慎なことを考えたりする。
数年前にNTTとの共同研究を提案した際に「物忘れするコンピュータを作ろう」と提言し、数人の仲間からは興味を持たれた。記憶は忘却される性質を持っており、これがある意味での適応機制となっていると考えたからである。実際にデータを収集しMemory誌に発表してあるのだが、2年という時間を境にして人は急激に事件や物事を忘れる傾向があるという結果であったと記憶している(2年ほどたっているのっで怪しい?)。仏教での3回忌は死後3年目に執り行われるので、関係があるのだろうと思ったりした(論文ではこの部分は削除された)。
佐世保の小学生も、悪口を言われても口頭であれば、帰宅してご飯でも食べているうちにその怒りの大方は、おそらく忘却されたのであろうが、パソコンの画面では何時までも消えない。何日もパソコンでチャットの文章を再確認するたびに怒りは昂進していったのであろう。適当な時期が未だ解明できていないのだが、記録が消滅していくコンピュータの作成という研究は続ける必要があるようである。
パソコン上での会話の文章は文字言語であり、音声言語がもつプロソディ(韻律情報)はうまく伝達されない。つまり、情動価が文字言語では伝わりにくいのである。パソコンでの会話のやりとりに情動価をどのようにして乗せるかの研究はすでに始めているけど、急がないといけない。
数日前にある大学の4年生から、これこれの文献を送ってくださいというメールが送られてきた。4月のはじめには単位の申請を間違っていたので、事務室に行って登録の修正をしてくださいというメールでの依頼があった。両方とも無視しているが、音声言語で頼まれてきたら受諾していたかも知れない。
文献の依頼は、昔は指導教官の添え書きと返信用の切手を同封して依頼されるのが普通であった。突然身も知らない人から、文献を送れと言われても(依頼は丁寧な文章ですが)、探す手間、送付する手間、費用など一方的に提供しなければならない義務もなかろうと思う。自分は忙しいので、事務室に出かけて手続きの修正をして下さいと丁寧に言われても、10分以上もかかる研究科の建物出かける気にはならない。この種のメールでの依頼は無礼だろう!と思ってしまう。
このようにPCのメールで易怒性が高まるのは、文字言語の特性に起因するのでしょうか、あるいは、老化の兆しなのでしょうか?(兆し?すでに老人だと思ってますよ、なんて声もあるかな)
弱気
前回コラムを書いてからしばらく時間がたったので何か書かねばと思うのだが、元気が出ない。朝早く起きて、ばたばたとせわしなく動き回る元気のよい躁病のような男だと思われている節もあるので元気が出ないことも書いておこう。
今年は5連休であったのだが、結論からいえば、予定していた仕事はほとんど手につかず、すっかり自分に自身をなくした日々であった。理由の一つは同居している家内の方の叔母の具合が悪くなって先月末から阪大病院に入院したことがある。急に嘔吐やふらつきがあり、近医で点滴を受けたりしたのだが、下血があり連休前に緊急で入院した(これは、新たに投与された薬剤の副作用のようであったが、日頃親切にしてくれる若い医者なので訴えたりはしない。何といってもコミュニケーションは大事ですね)。したがって、連休中は家内を阪大病院まで何度か送り迎えする羽目になった。それだけでなく、残された洗濯物を洗うことや、食事を作ることなどが加わった。阪大病院までは15キロほどなので、空いている時間帯だと30分ほどで近道をすれば行き来できるのだが、混む時間帯だと1時間ほどかかる。
午前中に家内を送って自宅に戻ると11時前で、4時頃に迎えに行けばよいので、かなりの時間が残る。家内が病院に付き添いで泊まる日はもっと時間がある。昔ならこんな場合にはすぐ仕事に取りかかれたものなのだが、ほとんど仕事をしようとする気が起きなかった。実は2本ほど論文を書くべく院生に新たなデータ分析を無理してお願いしてあったのだ。たいていは、ごろんと横になり、テレビを見るか新聞を見てしまっていた。ときに、これではいかんとパソコンを起動しては見るのだが、10分もしないうちに目がかすんできたり、涙が出て仕事にならないのである。夜は小説を10分も読まないうちに眠くなってしまうのであった。
僕は切り替えが早くできる質で、複数の論文を同時並行で書いたり、複数の小説を同時に読んだりするのは問題でなかったのだ。仕事が速いのはそのためであると自認してきたのだが、それができなくなってしまったようなのである。
もう、研究者は廃業ということなのかとすっかり弱気になってしまった。
連休中の1日だけ気分転換にと思って友人の家探しについて回ったが、途中で右の奥歯が浮き出し、天気は良かったが気分は晴れなかった。結局、連休明けに歯医者に行かざるを得なくなった。医者の話では抜歯しかないとのことだが、その抜歯の予定日であった今日の診察で、まだ歯が浮いているので抜くのは後日ということになった。
昨日は同志社での学会に参加し、夕方のみに誘われたが勘弁してもらった。弱気なのだからそれどころではないのだ。もう、研究もいい加減にするしかないのかと思っていたら、今朝唐澤さんが部屋に来て週末の学会でへろへろです、何も手につきませんという。彼女の話を聞いて少し気分がよくなった。nativeチェックを頼んでいたのが戻ってきて英文を直すという連休中に唯一した仕事を投稿という形で今日決着を付けたし、唐澤さんがそうなら、まだ40歳ぐらいの体力なのかもと思えたからである。
でも、もう終わりが近いなあと思う気持ちは去りがたく、弱気の虫は完全には退治できませぬ。
花見だ、明るくね。
今年の年度末は何ともあわただしいことであった。3/24(水)に年度末の最後の教授会があり、3/25(木)は卒業式、3/26(金)から2泊の出張。3/29(月)と3/30は送別会。3/31は大学基準協会への出張。4/1は法人発足式と部局長会。4/2は学部ガイダンス。という具合で、大方の先生は休んでいるときに、何ということはない、役職でずっと働いていたということである。教授会の出席率も芳しくなく、同じ日に開催された「特色ある大学教育、いわゆるCOL」の学内ヒヤリングにも頼んでいた人には結局断られ、自ら資料を造り、説明に出かけ、教授会に駆け戻るという有様で、春休みを決め込んでいる教員に対して、当方は燃え尽き症候群に一歩手前という状態であった。自分一人が駈けずり回っているが周囲は踊る気配がないというわけである。教授会で少し強い口調で嫌みを発言はしたが、本当は休んでいる人にいわねばならないことなので、カタルシスは得られずに終わった。明白な形で周囲に当たらずに済んだのは、僕も人間ができてきたせいなのか、あるいはあきらめることを覚えたのかも知れない(とまれ、管理職は大変なストレスにさらされるのです)。
4/2(土)は夜に元学部長の退職送別会をするということで、大阪に帰らず、研究室で一日過ごした。まとまった時間が取れ、最近根気がなくなっているわりには思いの外、作業がはかどり、書きかけの論文を何とか纏め上げることができた。もう一度読み返しnativeに見てもらえば良いところまで来た。すると、気分がほぐれたのである(僕は管理職を本業と見なしていないので、本業の方に進捗があると、気分が良くなるのですね)。
合計5人で、新瑞橋から石川橋まで桜見物にでかけた。3月中は時間が取れなくて退職送別会ができず、ちょうど桜の時節なので桜見物をしゃれ込もうとなったのです。なぜか急に風流を追求しようと幹事の先生が言い出し、僕には桜で一首歌を詠めということであった。少し肌寒いくらいであったが、約2キロあるという山崎川の桜並木はちょうど見頃で予想外の綺麗さであった。ソメイヨシノが大半で、開花の様子は一様に満開で淡いピンクの並木は人通りもそれほど多くなく快適そのものであった。皆は、こういう場所を良く知らなかったとか、日頃こういう散策を楽しむ余裕が欲しいなどと何度も繰り返すことであった。
石川橋の近くの料理屋で3時間近く和食やそばを食べつつ歓談した。途中で、用意していた色紙に一首書いて元学部長に謹呈することとなった。この人は新古今和歌集の研究者として知られる人なので、大リーガーに野球少年が挑むようなものである。僕は嫌がったのだが、幹事の盛り上がりに水を差すもの如何かと思い次の一首を呈したのであった。
「川筋に緑の風の吹き初めて、桜木美し、喜美と春の夜」
元学部長は田中喜美春先生であり、名前を読み込んだのである。この一首からは、まるで芸者さんと春宵を楽しんだようにも解釈されかねないが、黄色を主体とした春先から桃色が優勢になり、緑色に包まれる日本の春の兆しを喜美春先生と楽しんだ夜でしたという意味である。
田中先生は喜んでくれた様子で、色紙を持って帰られた。とまれ、僕の郷里の祝吟の風習(コラムに以前書いたことがある)などの話で、座は盛り上がったことであった。僕の創作力にも皆からさほど軽蔑を受けることはなかったので、めでたし、めでたしである。
新しい学期が始まってしまった。いろいろうっとうしいことがあった年度末だが、気持ちを明るく行こう、という気分になることができた春の宵であった。
15年度末に考える
教育心理学という著書を書く際に教育評価について勉強したことはあるが、いわゆる専門家と思ってはいない。評価などというものが大学や病院の前置詞のように使われだしたのは最近のことで、法人化を控えてまるで水戸黄門の印籠のようにマスコミで使われているのは愉快ではない。
そもそも、大学や病院に評価などという用語がなぜ使われ始めたかのだろう。教育評価は授業で全員が100%教師の教えることを理解できないと見なされるので、どこが、どれくらい理解されていないかを測定することで教師の教育活動を改善することをめざして評価がなされるのである。学生がつねに100%理解できるのであれば評価は成立しないし、必要はない。
かつて、大学や病院は評価を必要としなかったのである。なぜか。答は簡単で、教育、研究に大学教授はその職にかなう存在であり、病気の治療に医師はその職にかなう存在であったからである。戦前は少なくとも大学教授たりうる人や病院の医師たりうる人が大多数であったために評価など、世間では気にもとめなかったのであろう。もちろん、昔は今日のような情報化社会とは異なり、大学教授や医師の様々な様態が露わにならなかったことも原因の一部ではあろう。しかしながら、今日、国民一般が大学や病院を評価しようとする動きに違和感を覚えなくなって、当然と見なされている現状は情けないことだと思わざるを得ない。その任にたり得ていないとする見方が多数となってしまったのである。
30年ほど前に、京大の中国文学の助教授で作家でもあった高橋和己は学生に「清は官たりうるか、官は清たりうるかと」と問われて職を辞した。その後、大学紛争の時代に入るのであるが、あの頃に大学人が身を正す動きが生まれれば今日のようなことにはならなかったのではないかと、先輩を恨めしく思わないでもない。しかし、他者に責任を押しつけるのは卑怯なので、われわれも法人化を来月に控え評価を甘受せねばならなくなっていることの原因を振り返り、評価が大学には不要とされる日を目指さねばなるまいし、その必要を痛感している。
あなた達には評価は不要ですといわれるようなレベルで、研究成果を出しているか、学生指導ができているか、と問われるようになったことの原因や過程を熟考して新しい年度を迎えたいと考えている。
今回はまじめですね、と言われそうだが(本来の性格はそうなのですよ)、われわれ教授側だけでなく、学生諸君にも同じように、君達は学生たり得ていましたか、が問われるのですぞ。
水難の相あり(2/25)
外に出ると雨は上がっており、南国だなあ、雨も豪快だと帰路についたのであった。空港には2人の子供を見せに沖縄在住の教え子が来てくれた(3歳と8か月の女の子を両手に抱いたので2日後でも腕は痛い)。
飛行機の中で第2弾の水難である。昼ご飯の豆腐のみそ炒めが塩分多めだったのでのどが乾いており、飛行機が水平飛行になるとすぐビールを注文した。テーブルの右端にあるコップ置きに飲み差しのプラスチックのコップをおいてつまみを食べている(ANAのビールのつまみは美味しい)と右膝が冷たい。変に思ってコップを取り出すと、わずかに底の部分に割れ目があり、そこからビールがこぼれていたのだ。コールボタンで係員を呼び、コップを取り替えてもらった。小銭がないので同行の男に払ってもらったのを覚えていたのか。ややこしい人間に見えたのか(やくざと若い付き人に見えないこともない構図ではある)。別の係員が小さいタオルをもってきて謝っていた。関西空港に着く頃になって主任という係員が改めて謝罪とクリーニング代を持参しサインを求めてきた。あんまり丁寧なのでうるさいと思いつつもサインをして2000円をちょうだいした。まあ、お金をもらってビールを飲んだ(少し右膝が冷たかったが)わけである。
空港をでて、電車に乗り込み後数分で出発なのとただでビールが飲めたなどと浮かれて話していると、強風ために連絡橋が閉鎖、バスで対岸まで振り替え輸送というアナウンスがあった。数分前にでた電車は動いていたので、運が悪かったのだ。この頃、関空周辺は那覇市の早朝のような天気で強風雨であったのだ。僕らを雨が追いかけてきたと言うわけである。
腹も減りだし、疲労気味の2人は無言のまま天王寺まで来て、そこで分かれた。男は嫁さんに車で迎えに来さす算段をしていた。結局1時間遅れで8時過ぎに高槻駅に着いた。大阪からの電車ではそれほど気にならなかった雨が、その頃急に強まっていた。ここからが第3の水難なのである。電車の中ではタクシーで帰ってという話もしていたのだが、駅のコンビニで1000円の傘を買い、駐車場まで歩いてしまった(このときタクシーのことは頭になかったのだから習慣というものは恐ろしい)。駅から数10m行くと例の土砂降りが襲ってきた。服はもちろん、昨年ドイツで買った新しい靴には水が入りぐしょぐしょ状態である。あわててともかくも車に乗り込んだ。いつものように右折で道路に出ようとしたとき車の右前方が何かにひかかったような鈍い音がしたのだが、バックしてハンドルを切り直し、5分で自宅に到着。ひどい目にあったなどと言って就寝。
翌朝のことである。昨夜少し車に傷が付いたかも知れないと、家内に調べてもらうと傷はないということであった。やれやれと乗り込もうとしたらドアに部分にかなりのへこみが見つかった。前方と意識していたのだが運転席の真横だったのだ。とんだ災難であった。研究費を消化するための出張で罰が当たったのかも知れない。
修理工場に電話で修繕を依頼をしたら、17万ほど修理費が必要という。保険など使ったことがないのだが始めて自動車事故保険を使うことになった。お金もつらいと思っていたら、全額保険で済むそうで、次年度の保険料も数千円上がるだけということで、目出度しというべきかも知れない。ただ、運転はうまい、事故などしたことがないという自慢を今後出来なくなったのはつらい。とまれ、水難の繰り返しの出張であった。