はったブログ -27ページ目

春だなあ(4/16)

 ここ数ヶ月の「はったのコラム」を振り返ってみると、かつては、自然の移り変わりなどをテーマとした優雅な(?)内容のものが少なくなかったのに、どうも世知辛い話や教訓めいた内容ばかりになっている。そんな人間になってしまったのかと思われるのはしゃくなので、春でもあることだし今日は草花の話をしたい。今朝も例の如く、朝の散歩に出かけた。普段のような体調管理のトレーニングではなく、ゆったりとした気分でぶ~らぶらと散策しようと心づもりをしていたので、いつもとは逆に旧部落の狭い路地を抜けて、田んぼの畦道を進んで桐の花でもみて、山裾から太閤道のハイキングコースを逆に抜けて家に戻ろうと考えたのであった。
 タンポポが咲いているなあと思いつつ、田んぼの畦道を進むと、4~5本あった山裾の畑の桐の木はすべて切り倒されて3メートルほどの長さの根元が2つと小枝が山積みされて残されていた。両手で抱えきれないほどの太さに育っていた桐の木なので40年は経つ木であったと思っていたのに無惨なことであった。
 娘が生まれると屋敷に桐の木を植えて、娘が嫁に行くときの道具を作るなどというような話も耳にした記憶がある。持ち主の娘さんにおめでたいことでもあったのか、はたまた、もう嫁にも行きそうにないほど年を取ったのであきらめて切り倒したのかも知れないなあ、などと思ったことであった。
 太閤道は、天下分け目の天王山につながる、高槻市営墓地公園の裾が入り口担っている有名なハイキングコースで、金龍寺跡をへて山崎駅のあたりの宝寺につながる(金龍寺跡までしか行ったことはない)。もちろん舗装などしていない。しばらく行くと、ヤブツバキの花が落ちて道路は一面濃い紅色に染まっていた。道の周囲は濃い緑色の広葉樹の葉が多いために紅色はひときわ目立つ。椿の花びらのそばに薄紫色のすみれが3本咲いていた。「すみれの花咲く頃~、初めて君を知りぬ」という宝塚の歌は春の歌だったのだ、などと思いがけない発見した気分になり、しゃがみ込んですみれの花の一つをよく見てみると、花びらは5つであった。そう言えば「五弁の椿」なんとかという(水上勉?)小説があったはずなので、椿も花びらは5つなのだ、と気づくと、急になぜ5つなのかが気になりだした。手の指が、足の指が5本であるのは、なぜなのだろう、3本で多分問題なく運動機能は可能のはずである。このように考えだすと、自然界には遺伝子に規定されて5という数に何か大きな意味があるに違いないと思うようになってしまった。
 そうなると、太閤道の野花の花弁の数を探すことに注意が集中してしまう。事実、次に見つけたユキヤナギの白い小さな花をとり調べると、花びらの数は5つであった。先週末にはもう少しで満開だと思って見上げた墓地公園に続く土手の桜並木は7割ほどが花びらを落としていたが桜の花びらは5枚であった。家に帰ってネットで調べなくてはと思いつつ、舗装道路に出て黄色のレンギョウの花をちぎって、数えてみると4枚であった。そう言えばタンポポは5枚どころの花びらではない。自宅のもどり家内が植えているパンジーの花びらは5枚だったが、私の散歩途上で生まれた仮説はあえなく否定されることとなった。
 久しぶりに春の野を散策して、程よい疲労感もあり気分は良かったのだが、そう言えば、今朝の自分は、観察→仮説→仮説検証→仮説の修正という思考パターンであり、こういうのがしみ込んでいるのだ、何も考えずに頭を弛緩したいと思って散策しようとしたはずなのにと考え込んでしまった。ネットで調べるなどということは止めにしたのであった。休日なのだもの。

ああ~長崎はひどい、雨だった

 長崎に出張した。シーボルト大学という新設の大学で情報関連の授業がどうなっているのか、心理学に関係するポストを医療系の学部で獲得するにはどうすればよいのかを探るのが真の目的の出張であるが、マラッカ海峡で海賊に拉致された会社の社長が記者会見で述べたように、公式の目的と真の出張目的がやや異なることがあることについては、目こぼしを御願いするしかない。
 余った時間でグラバー邸を訪問した。17歳の頃に高校の修学旅行に来たことや、好きだった女の子らと何とか一緒に写真が撮れないかともだえていたのを懐かしく思い出したりしたことであった。新しく知ったことは、キリンビールの生まれるもとはグラバーらが関係していたこと、意外と狭いところに住んでいたのだなということや、旧長崎高等商業が東京、神戸に続いて長崎に3番目に出来たということである。長崎大学の経済学部は伝統があるということである。

 長崎シーボルト大学で学んだことの一番重要なのは、約束は当てにならないということである。長崎県には2つの県立大学があり平成20年度には合併するらしい。噂なのかも知れないが、数年前に大学設立のために集められ当時は70歳まで勤務できるとされて就任した教員も合併時には選抜されるようである。見せてもらった職員紹介の本では僕よりもかなり年長の教員の方が多数おられる印象を受けた。開設時にかなり無理をして教員を集めた印象をうけたが、3年後に合併するときには篩いにかけるようである。「新しい組織ですので、連続していません、悪しからず」ということなのだろう。よい方法だとは思うが、管理者側か、教員側かどちらの側で判断するかで大いに異なる。気をつけねばと思った次第。
 思案橋界隈で飲んでホテルに帰る頃には夜から雨になった。「雨の丸山、訪ねても、冷たい雨が降るばかり…」などとクールファイブの歌を思わず口ずさみながら宿に帰り寝た。疲れていたのか爆睡した。
 翌朝は天気予報の通りに雨だった。知人迎えに来てもらった8時頃はたいした雨ではなかったのだが、だんだん雨脚がひどくなった。大学によった後で長与町で高速艇に乗るころには風も出てきた。20分ほどで縦揺れのする船を下り、空港について10時25分の飛行機に乗るべくチェックインをすませ、待合室に入っていくと、逆走する人がぞろぞろ出てきた。飛行機のキャンセルが出たのである。前線の通過ということで、飛行機は悪天候のために海上空港である長崎空港に着陸できずに福岡空港につぎつぎと降りているという。僕の乗る予定のANAは悪天候の表示だけで、なかなかキャンセルが出ない。あわただしく電話を大声でかける人や(たいていはキャンセルを楽しんでいるように思えたが)、朝の便から遅い便に切り替え、待ち時間の長さをしつこく繰り返すおっさんのグループなどで、何とも異様な風景の待合室であった。ガラス越しの滑走路には強い雨がアスファルトを叩きつけながら吹き抜けていく。
 僕は福岡空港まで連れて行かれるのかも知れないと思いつつ比較的冷静であった。この日は何も予定がなかったからである。出張前日に水曜日の教授会の打ち合わせを4時からやることにしていたのだが、事務方の都合で水曜日の朝に変更してあったために、月曜のこの日は高槻に帰ればよいだけの予定であった。
 幸いなことに50分遅れで出発の表示が出た。伊丹には結局1時間遅れで、揺れながら着陸した。5分後発の空港からのシャトルバスに運良く乗り込むと、今度は御堂筋で事故があったらしく、経路を変更されて25分で着くところを50分も掛かって雨の新大阪に着いたことであった。トラブルは重なるものである。

 教訓。1)余裕を持ってスケジュールを作っておかないと精神衛生に悪いことになる。2)世の中には何が起こるか予測不能であるということ。3)結局、僕は福岡まで連れて行かれて新幹線で帰ることにはならなかったので、憑いているのかも知れないと、ポジティブに思うべきであるということ。4)キャンセルで移動があったときに荷物があると困ると判断して土産を買うのを控えて得をしたかも知れないということ。
 あわただしい出張のために、うまい酒と新鮮な料理とおしゃべりに終始してしまい、クールファイブの歌をカラオケで歌うことを失念してしまった。残念!!。

贈ることば(3/19の案)

 3月25日は卒業式である。豊田講堂での全学の式典を午前中に済ませると、午後は各学部や研究科で証書の授与式が行われる。全学の式典では学部長や研究科長は楽曲に合わせて入場し壇上に座る。それほど緊張することもないが豊田講堂が狭いので研究科と学部の2回に分けて式典が行われるので、出たり入ったり面倒ではある。豊田章一郎さんは同窓会長になったのだからうんと立派な新豊田講堂を寄付してもらいたい(現在改築案は進行中であるのだが、うんと張り込んで欲しいものである)。
慌ただしい年度末なので、卒業式が近い実感はなかったのだが、昨日答辞の原稿に手を入れたこともありにわかに実感が沸いてきた。今年は情報文化学部の卒業生代表が答辞を読む順番なのである。9年に1度の巡り合わせである。
午後の各学部での証書を個別に渡した後で、学部長の挨拶をせねばならない。学部長としての任期が終わるので、最後の挨拶となる。自宅に帰る新幹線の中でいつもは居眠りをするのだが、妙に気になり挨拶をどのようにするか考えてしまった。たいていは行き当たりばったりでやってきたのだが、次のようなのはどうだろうかと思った次第である。
「卒業、おめでとう。情報文化学部の所定の課程を終えて卒業されることに心からお祝いすると共に、これまでの諸君の研鑽・努力に敬意を表します(ちょっと、堅いかな?)。情報文化学部は21世紀の諸課題に対処できる人材を育成するという社会の要請の下で、名古屋大学9番目の学部として11年前に創設されました。言うまでもなく、21世紀の課題とは高度情報化が生み出す問題であり、環境問題であります。このような課題は従前の学問体系では取り組み難い複雑な側面があり、文理の両方にまたがる教養と課題にアプローチできる人材が求めらるのであります。諸君は名古屋大学では唯一このような志向性を持つ学部カリキュラムで教育を受け、今日に至ったのですから、自信を持って産業社会、あるいは上級研究機関で羽ばたいて欲しいと願うものであります。
羽ばたけといっても、未知の世界であり、どのようにすればよいのかと不安があるでしょう。私から一つアドバイスしましょう。連帯を求めよ、ということであります。言葉を換えて言えば、コミュニケーションを模索せよ、人脈の構築を探れということであります。30年前に東大全共闘の山本義隆は、連帯を求めて孤立を怖れず、とアジテーションしました(この辺は言ってもわからんかもなあ)。個の自立を必要とした当時の日本人のメンタリティが背景にありますが、今日の諸君は利己的、自己中心的と言われるようになり個の過大な重視が問題とされるほどであります(嫌みに聞こえるかも?)。21世紀の諸課題は、一つの学問デシィプリン、単一の思考体系では取り組めない複雑性を有しています。異分野の融合でしか取り組めない側面を有しています。情報文化学部の卒業生はこのような志向性に優れると確信しています。連帯を求めよ、これば私からのアドバイスであります。これまで私は、将来はこのようなテーマが取り上げられるようになるだろう、こういう要件が研究に求められるだろうなどという点であまり外した経験はありません(本当は、はずれた予言は忘れているのだとは思うのだが、ここはこう言うしかない)。名前とはそぐわない体型のおばさんの予言よりは確かであります(ここは笑いが取れるはず)。
連帯を求めよ、コミュニケーションを模索せよ、人脈の構築を探る、それが秘訣であろうと信じます。
我々は巣立ちゆく諸君を誇りに思うと共に案じてもいます。いつでも立ち戻って、新たな活力を得て下さい。飛び立つ諸君が若鳥であれば、わが情報文化学部は古巣であり、船出するのであれば我が情報文化学部は造船所であり、母港であります(ちょっと、大げさかな)。私たちはいつでも歓迎します。
長くなりましたが(と一応自覚していることを披瀝しておいて)、以上の助言を諸君へのはなむけの言葉と致します。」

 挨拶はいつもより長くなるかも知れない。挨拶の長いので定評があるのは学校の先生と年寄りと相場が決まっている。僕も両方を兼ね備えてきたので文句はないだろう。

よ~く考えよう

 大学院重点化についての功罪が、先週末の日本経済新聞でかなりの紙面を割いて論じられてしまった。しまったと完了形を使うのは、我々大学人仲間の雑談で話題になっているレベルと思っていたのだが、新聞記者にまで知られてしまったという思いがするからだ。重点化は1990年頃から、欧米の主要な大学では大学院レベルの教育が中心なのに、日本では遅れているということで始まった。基幹大学とされる旧帝大を大学院大学化するのが目的で、教官(今は教員)を学部から大学院に籍を移して学部を併任するシステムとしたものである。諸般の事情で中途半端だったと僕は思っていますが詳細は面談にて。この改革で基幹大学には大量の予算が配分され、重点化が旧帝大以外にも広がるはずと準備に奔走した多くの大学の関係者の羨望(恨み)の的となったものである。名古屋大学の情報文化学部も重点化に遅れまいとして、かなりの荒療治を行い、環境学研究科と情報科学研究科に教員が移籍した経緯があり、僕などはずいぶん恨みも買ったに違いない。
 日経新聞が報じるのは、大学院の重点化が欧米に肩をならべるものにならないのではないかという指摘です。このような指摘は我が心理学講座について考えてみるときに、頭が痛いことになる。院生の定員はほぼ倍増し、今年も8名の博士課程後期の学生を入学させることとなった。定員を埋めないと予算の面での不利益が生じる恐れがあり、社会環境学専攻の他講座のことを考え多めに採らざるを得ないのである。
 博士課程後期は基本的には研究者を育てるという目的でカリキュラムが作られているし、入学試験の面接でも「心理学が好きです、できれば研究者になりたいです」という受験生を受け入れている。しかし、常識的に考えておおかたの学生には研究者のポストは得られそうにない。なぜなら、心理学関係の教員の募集は少ない、というかほとんどないに等しい。学位を取得しても、それが研究者のポストを手に入れることと同義ということではなくなってしまっている。たいていの大学ではそのポストが継続されるとしても10年に1人~2人の研究者がいればよいのである。数年前までは心理学(臨床心理が多かったが)のポストも若干はあったのだが、大学の心理学系の新設ブームは終わり、定員の埋まらない大学の閉鎖が予想されるようになってきた。先は真っ暗で、気の毒としか言いようがない。僕も早く辞めてポストを空けねばと思わないわけではないが、そうはいっても焼け石に水の感がありますし、僕の生活設計もありまする。
 そこで、院生の諸君は自らの進路をよ~く考えねばならないと思う。心配性の僕が考えてみると以下の選択肢があるかと思うのだが参考にしてもらえれば幸いである。
1) 今まで指導教員が言ってきた指示通りに、論文を書く。国際一流誌にすげ~といわれるほど大量に書く。日本でだめでも欧米でポストがあるかもしれないからである。
2) 心理学以外の分野にも進出する。異分野の学会で発表して、隙間の研究テーマを開拓して、比較的ポストのありそうな(と、かってに思っている)工学や環境学などの研究ポストをねらう。そのためには活動性や社交性を高めねばならない。
3) 大学など以外での研究職に類したものを目指す。そのためには、公務員や一般企業での採用試験に耐える知識や自己アピール力を身につける。
4) 宝くじを当てるか玉の輿(逆玉も可)に乗るように方針を切り替える。身綺麗にして異性の関心を得る。コミュニケーション力をつける。
 どれも簡単じゃない!と文句がでそうなことは承知している。
 我々の側も研究者を育てるという目的を降ろしてカリキュラム改革をする。誤解を恐れずに言えば、潰しのきく人材を育てるようなカリキュラムに変更する必要がある。これは、大変なので、僕の次の世代の先生に託すしかありませんけどね。
 いずれも嫌だという人がいるかも知れないが、若いときに目指した人生をスケジュール通りに送れるということは、滅多にない。だから人生は面白いとも言える。「人生いろいろ」などと、小泉某のように無責任でおれない僕などは若い院生のことを考えると、夜も眠れないことがある。如何にすれば院生が食べていけるようにできるかに頭を悩ましている。眠りの浅いのは老化の印ですなどと、真顔で言わないようにしましょう。

学位は運転免許?

僕の研究室は近所の教官のたまり場になっている。理由はいくつかあるが、その第1は、僕の部屋は比較的空間が残っており、客が座る椅子があることと持ち込んだ書類やコーヒーカップを置くスペースがテーブルにあるからである。最近次第にものが増えてきて、テーブルの上にも書類が占める面積が増えつつあるが、それでも近所の教官の研究室とは断然差があるのだ。僕が整理整頓がよいと自慢する話を書くのではない。たまり場での四方山話の一部を照会し、院生の諸君へ情報提供をするのが目的である。
表題のような話題は比較的頻度が高い。心理学からは次は誰に学位が出せそうかね?などと言う質問がよく出てくる。もちろん別の講座の教官からである。××君か、○○さんかなどと無責任に評定をしているのを知らせておきたい。   無責任にとはいうものの、それは不確定な要素が多いからであって、皆それなりの物差しを当てて学生を評価しているのだ。学位はこの頃運転免許みたいなものだから、出来るだけ出そうという方針は共有しているが、運転免許を与える側としては、いくつかの基準枠を持っていることを情報として伝えておこうと思う。もちろん講座会議で議論してという類のものではないので、独断に過ぎないかも知れないが、それでも伝えておく価値がありそうに思えるのだ。
学位運転免許説で、年齢に当たるのが入学試験だろう。学科試験に当たるのは査読論文を複数持つことである。さて、話はここからが大事なのだ。学科試験に通っただけで、運転免許は出ない。路上教習があるのだ。それに当たるものは何かを考えて欲しい。僕は、学位を出して研究者、教育者として送り出せるかどうかは路上教習の様子を判断せねばと考えている。
 路上教習の内容には、?自分の研究を他者に簡潔に紹介でき、理解させ・興味を喚起できる能力、?他の領域への関心度・理解度あるいは好奇心、?下級生や同僚に対する指導力あるいはコミュニケーション能力、?共通して使う施設や器具のメンテナンスへの関心、?周囲が何を期待し要求しているかを察知する能力、などである。これらは、就職先で求められる研究者としての役割、教育者として求められる役割、組織維持のための構成員として若手に要求される仕事内容、人間関係に不可欠なものである。ちなみに、今までに学位を出した院生は路上教習には合格点を出せると思っている。どこへでも出せる人材であると判断している(少し言い過ぎかも?)
つまり、自分の研究だけに関心があり、論文を書くだけでは運転免許取得はおぼつかないぞ、ということである。
実験室の使い方、院生全体への通知へのレスポンスの悪さ、卒論発表会への参加状況や反応、などを考えると、次の路上教習合格者をつぎつぎと出せるのか心配になっているのだ。自分のことにしかリソースは使わない、自分の研究で精一杯では話にならないと言い放っておこう。

年頭雑感(1/4)

 暮れの大掃除のついでに本箱の整理をしようと思い立ち、幾ばくかの本を廃品回収に出した。もっとも、家内も僕も高血圧気味でそれを言い訳にして掃除は最小限にとどめたので、大掃除というほどのことをしたわけではない。ただ、贈呈された本や雑誌が増えて机の上を占拠したために、やむなく昔の本で必要のない本を本箱から取りだし、それらを収納しようとしただけのことである。  洋書を中心に10冊ほどを捨てただけなので、何のことはない机の上に若干の空間ができただけで本箱は満杯状態のままである。
 昔の大学の先生は書架や書庫を持つのが普通だったのだろうが、僕の周囲にはそんなぜいたくな人はいない。僕は雑誌を中心に研究を展開する領域なので自宅に本はほとんどない。それでもいっぱいになるのだから、そもそも家が狭いということである。
 捨てる候補に昭和40年刊の異常心理学講座の2冊を選び出したのだが、この2冊は捨てるのをやめた。理由の一つは、大学の心理学教室の同級生の遺品である趣旨のメモがあったことと、ジャクソニズムについての概説があったためである。同級生は卒業した年の夏に病気でなくなった人で、死後遊びに行ったときに親からもらい受けた本であるとメモ書きがしてあった。この友人のことについては書くのは辛いので止めておこう。正月2日間でジャクソニズム、ネオジャクソニズム、ジャネの紹介などの章を読んだ(元旦早々から勉強したわけである)。みすず書房の異常心理学講座は12巻から成っており、井村恒郎、島崎敏樹、村上仁、宮本忠雄、などの編集になるもので心理学講座と銘打たれてはいるが、心理学者は成瀬悟策(九大の先生で催眠研究で有名)だけで、それ以外はすべて精神医学者による執筆である。昭和30年代は精神医学者が心理学(人の心の有り様)に関心を示していたのに、心理学の研究者はネズミでの実験や精神物理学的実験にしか関心を示さなかったのであろう。
 僕の死んだ友人は精神物理学的実験以外を取り上げなかった大学での心理学ではなく、異常心理学などに関心があったらしいがそんな忖度はさておいて、元旦に40年前の本を読んでの感じたことを記しておきたい。
 ジャクソニズムというのは神経心理学の研究者ならみんな知っている英国の19世紀の研究者で脳機能の階層性を主張し、偏狭な機能局在論に対抗したヒューリング・ジャクソンの考え方のことである。ネオジャクソニズムはフランスの研究者らがジャクソンの考え方に修正を加えたことを言うのだが、当時の日本の精神医学者はさまざまな様態の精神異常の症状を統一的に理解する理論を模索し、ジャクソニズム、ネオジャクソニズムを理解しようとしていたのが分かる。包括的な理論を持たないと断片的な知識や症状の記載は意味をなさないことを随所で主張している。今日のわれわれには耳の痛い主張で当節の大方の研究の弱いところである。大きな枠組みの中で自分の実験や調査を解釈する視点を持たねばならないのだ、と教えられた感じがする。また、無意識などとは反対の極にあると考えてきたジャクソニズムはジャネやフロイドと連結するものがあることも知ることができた(図書館には僕が読んだ本はあると思うので確認下さい)。
 第2に感じたのは語学力の重要さである。編者らは読者も何度か目にした名前だと思う(岩波新書などがある)が、ドイツ語、英語、フランス語をよくした人たちであることが引用文献などから分かる。僕を含めた大方の現在の心理学の研究者には英語だけの語学力しかない。包括的にものを考えたり、古典を読むには英語だけではやっていけない。僕はもう遅いので無理だが、読者は今からでも英語以外の語学をマスターすることをアドバイスしたい。
 「ヨン様ブームなのでハングル勉強してま~す」という声が聞こえそうだが、ちょっと違うと思うけど、それでもまあいいかな。
 元旦からの読書は反省すべきことをいくつか教えてくれたが(手遅れも含めて)、還暦になる今年に当たって、もっと基礎から勉強しろと死んだ友人が示唆したのかも知れないと思はないでもない。心機一転、がんばりたいと考えたことでありました。

熟女との夜(12/27)

12月も半ばを過ぎた16日に院生主催の忘年会があった。この日の午後から急に気温が下がって寒かったことにも原因があったのか、参加者は教員3名と院生5名で例年になく寂しいものであった。30名以上の院生がいるはずなのに、何とも寂しいことである。この頃の若者の、自分の外にある世界には無関心、という傾向が強まる一方のような気がした。会費が惜しいというのでは多分ないのであって、先生や他人ととりとめもない話をするのは嫌だということのようである(ひがみかも知れないが)。たいていの若者は以前でもそれほど社会性があったわけではないが、それでも飲み会などには参加したものである。そこで、先生達があるいは先輩らが自分をどのように見なしているかなどの情報を得ようとしたものである。「論文を書いているか?」などと言われて、がんばらねば、相手にされなくなるのではないかと内省したものであるが、どうもそういうことにも関心が無くなっているようである。
 公募による教員の採用形態が多くはなってきているが、人づてに人材の募集があるのも現状ある。どのような学生なのか充分な情報がないと推薦しにくいことも院生らは解っておく必要があろう。
 先日、地方国立大の先生から次のようなメールが来た。「学部卒のM1が,忠臣蔵を知らないといったので,現職院生と2人で息をのみました。忠臣蔵はおろか,「赤穂浪士」「大石内蔵助」「吉良上野介」「浅野内匠頭」のいずれも聞いたことさえない,とのたもうたのです。再びちなみに,そいつは香川の丸亀市出身です。つまり,海の向こうは赤穂と言ってもさしつかえない場所で育ったわけですが。まあ,そういうのは関係ないのでしょう」。と呆れていた。この先生は病的な忠臣蔵フリークで、自分に関係がないことに関心を示さぬ院生の自己中心性に怒りを覚えたらしい。地方大学にはアホもいるわい、と思って午後の会議に豊田講堂の方へ歩いていく途中に、「マゴニモイショウ」て何?と連れに聞いている学生あり、学生答えて曰く「まあ、だいたい分かるけどな」で終わりであった。名大生に間違いないので、地方大学にはアホもいるわいという差別的発想は反省せねばならないと思うことしきりである。この頃の若い奴はどうなっとるのか!
 気温だけでなく寒い忘年会に出て、風邪を引いた僕は翌日、熟女達との飲み会に誘われており、大阪に出かけた。以前に勤務していた大学の初期の卒業生らで、50歳を越えた人たちである(そういうのは熟女と言わずにおばんと呼べという人がいるかも知れないが)。卒業後30年以上も経っているが飲み会とカラオケに誘ってくれたのだ。エネルギーを吸い取られたのかその翌日から風邪はひどくなったのだが、うれしいことであった。
 教育に携わる者が薄給でも我慢できるのはこういう楽しみがあるためだと考えてきたのだが、この頃の学生の様子では30年後に先生と忘年会やカラオケをするという光景はあり得ない、と思うことであった。寂しいことである。

休肝旅行

 通称NANと呼ばれている米国のNational Academy of Neuropsychologyの第24回年次大会に単身参加した(もちろん発表はした)。同行を誘った人もいるのだが、入試があるとか忙しいとかという理由で断られたので、一人で出かける羽目になった。3泊5日の旅行である。4年ほど前にモントリオールに一人で出かけて以来の単独行である(同行者がいると荷物を見ていてもらってトイレに行くなどで便利なのだ)。この学会は米国では国際的に活動しているINS(International Neuropsychological Society)よりも組織が大きいらしいので、一度見てみたかったのである(実際参加者は人数的には多かった)。以前にも参加の機会があったのだが、同時テロの2ヶ月後だったこともあり、僕は取りやめた。院生の伊藤君は参加し、大いに刺激を受けた様子で興奮して帰ってきたのを覚えている。
今回は前日まで、いや当日まで忙しかった。午前中に教授会の事務方との打ち合わせを10時過ぎに終えて、成田に直行した。このとき、時間を勘違いして地下鉄までダッシュしたが結局予約していた新幹線に5分の差で乗り遅れることとなった(乗り遅れた新幹線の切符では新たに座席指定は取れない、自由席でなければダメなことを知った)。予定よりも東京駅には20分ほど遅れたにもかかわらず成田空港には予定よりも1時間も早く着いてしまった。パソコンの経路情報も当てにならないのである。
待ち時間が長いので、査読論文などを空港で読んで時間つぶしをするしかないと思っていると予定していた時間よりも30分も早い搭乗となった(バスで出かけるのでゲートを出るのが早いのである)。乗客がそろったのでということで、出発予定時刻よりも早く飛行機は飛び立った。飛行機の時間も当てにならない。とまれ、ミスであったことがそうでなかったかのような、変な案配でシアトルに着いた。大きなややこしい空港でやっと荷物を取り出した頃に急に便意を催した。空港では都合2回もトイレに行く羽目になった。10年ほど前にはこの空港で乗り間違えたこともある縁起の悪い空港である。痛むおなかを押さえつつタクシーでWestinホテルに到着(学会の会場でもある)。朝の10時頃で、すぐにトイレという状況であった。部屋に入れるのは3時以降なので、荷物を預けて町でも見ようかと当てもなく数分歩くと便意を催し、ホテルに戻る、ロビーでうたた寝して、また町へ出かけるが10分ほどでホテルに戻りトイレに駆け込むという状況であった。海外で体調崩すのはここ20年間ほどはなかったことなので、加齢のためだと元気をなくしてしまうこととなった(そのために活動量は減少した)。近所に薬局を見つけて下痢止めを購入した。不思議と下痢の英単語は浮かんできたので助かった。1錠でぴたりと止まったのだから向こうの薬はきついのだろう。
 そういうわけで初日は7時前から入眠。翌日は一日予定もなく朝飯を学会場で食べて、ポスターを少し見回ったりして過ごした。町にも出かけたが寒いのでホテルにいることが多かった。おかげで原稿書きなどの手持ちの仕事ができた(そうするしか仕方がなかったのだが、こういうときにPCを持ってきていないのだ)。そういうわけでホテルの向かいのビルの3階にある食堂(真ん中にテーブルがたくさんあり、各国の料理が周囲で売られている様式)で晩飯を食うしかなかった。どの売り場でも2人前以上の量が提供され5ドルほどの値段であった。この種の食堂ではアルコールが売られていないので、結果的に4日間アルコールを飲まずに過ごしたことになる。結局、毎日非連続ではあるが10時間以上寝たので、休肝と睡眠をとるためにシアトルに行ったことになる。
 さて、NAN学会であるが、とくに開業している臨床神経心理家に特化しているような性質を感じた。保健の点数の請求の仕方の講習、多動児、学習障害児、などの発達上の神経心理学的問題を取り上げたテーマが多いこと、検査の妥当性など神経心理学的評価法、司法神経心理学的な問題が多い印象を受けた。個別発表は早朝7時半から9時までが3日間で数がかなり制限され、発表の採択率は低いと聞いている(ちなみに真ん中の時間はワークショップで、聴講は有料、参加者のレベル指定あり)。僕らの発表が採択されたのも注意機能のスクリーニング検査としてのD-CATの信頼性と妥当性についての発表だったために違いない。米国以外からの発表は2件だけであったと記憶している。アメリカで開業していたり、研究志向ではなく治療志向の強い臨床心理の専門家のための学会だなあ、というのが結論である。日本から参加するのは新しい検査でもつくって売り出すときぐらいしか意味はなさそうである。
 そういうわけで、今回は肝臓のためには役に立つ学会であった。

困ったなあ

3週間ぐらい前から気になっていることで、今朝理由が判明して一段落ということがある。歯を磨いた後に口をすすぐのは誰でもすることで、僕も当然行う。バナナ味の歯磨きやイチゴ味の歯磨きを使う年ではないので当たり前のことである。3週間前にふと気になりだしたのだが、普通にコップに汲んだ水を口に含んで「ガラガラ、ペ」をした後に鏡を覗き込むと、口の両端に歯磨きの泡がしっかり残るのであった。わざわざ、水にぬらした手で両端を拭わないといけないのだ。それまでにも同じ動作を無意識にしていたのかも知れないのだが、急に気になりだした。なぜ、こんなにしっかり口唇の端に歯磨きの泡が残るのかをずっと考えてきた。歯磨きの量、「ガラガラ、ペ」の回数や含む水の量に関係するのかも知れないと思って、いろいろなパターンを試みてみたが、結果には余り変化がない。
 コップの水で口をすすいで歯磨きの動作が終わるだけの行為と、それに加えて手で水をすくい口の両端を拭わなければならない行為に要する心的負担はかなり違うのである。とくに、イラチの僕としては気に入らない,困った状態に陥ったことになるのだ。とくに、晩ご飯の後のほろ酔い加減が持続中に、さあ寝ようかと歯磨きを手早く済ませたい僕には困ったことなのである。以前に勤めていていたクリニックの医者からは「歯磨きは、3,3,3です」とよく聞かされたものだ。3度の食事後3分以内に3分かけて歯磨きをするのがよいという教えであるが、僕の身には付いていない。
 理由が今朝判明した。何のことはない、太ってほっぺたに肉(多分脂肪)が垂れ下がってきたので、口唇の両端に着いた歯磨きの泡が流れ落ちにくくなっている、と推論したのだ。何ということはない、老化が原因ということなのだ。
 困ったことの原因が老化というのなら、今現在にも他に困ることがある。論文や本を読む集中力が減退したことである。これは多分に老眼によるのだが、緩い読書用のめがねを掛けないと細かい文字の論文や本は読めない。読書用のめがねを掛け始めて10年以上になるが、いっこうに度が進まない。つまり同じめがねで用が足りるのである。今年の8月の人間ドックでは視力が両眼とも2.0と判定され、僕の視力はどうなっているのかと思っている。
 視力が戻ったといっても怪しいもので、読書用のめがねを掛けないともちろん論文は読めない。
 読むと目が疲れるので文字を書こうとするようになる。じっとしていられないのがいけないのだが、その方が楽なのである。したがって、原稿を書こうとする。頼まれ原稿は滅多にないので、学術論文を書かざるを得なくなる。実際、2編を平行して書いているのだが、書き出すと参考文献を読む必要がつぎつぎと生じてくる。少し読もうとすると目が異様に疲れる。どうすればよいのかと困っているこの頃である。
 一定の年齢になると、困ったことがでてくるのを実感するようになったが、これからますます困ったことが多くのなるのだと思うとなかなか大変である。
 というように、僕は自分の困りごとで精一杯になりつつあるので、若い人はご理解下さいよ、言ってふてくされるしかない。

打たれ強く行こう!(04/10/6)

 夏休みの前半,かなり気合いを入れて書いた研究費の申請はどうやら不採択となったようである。もし、書面審査で通ることがあれば面接があり、そこでいただける金額も特定されるのだが、その期日に残り2週間となったのに連絡がないのだ。採択されれば5年間に億の単位の金額を受け取れるはずであったので、A4の書類を20数枚も書いたのだが、報われずという結末となりそうである。もし、という話をしてもしようがないのだが、採択されれば数名のポスドクを採用できるので、院生の就職状態にも貢献できるし(僕たちは院生の将来のことも心配はしているのです)、助手のいない心理学系の教員は研究と教育に専念できる体制が組めるし、僕自身のたまっているデータの整理もできる、などと楽しい思惑を胸に意気込んで書いたのだが、報われなかったようである。競争相手のあることでもあり仕方がない。通常のいわゆる競争的研究資金の申請書を前もって誰かに読んでもらい、意見を聞いて練り上げるというようなことは今までしてこなかったのだが、今回は数人に目を通してもらい、意見を参考にして修正・加筆をした。今から考えると、申請書に特別研究員(ポスドク)を雇いたいことを強調しすぎたかな、ちょっと、事大主義的に書きすぎたかな(これは、過去3年間COEの申請計画を策定する経験から身に付いてしまったようで、ともかく、自分のところが如何にすごいか、すばらしい実績があり、研究成果を挙げうる可能性が高いかを、誇大妄想的に書く習性が遺伝子に刷り込まれた)、申請者の年齢が高すぎたかな、など反省したくなることはなくもないが、諦めるしかない。
 しかし、その資金を提供する団体のHPをみると類似のプロジェクトでの採択率は6%ほどなのだから、通らない確率の方が高いのだし、せっかく作った研究計画なので別などこかで規模を縮小して申請すればよいではないか、などと自分を慰めている。次、行ってみよう!という気分である。
 このような申請の失敗経験はあまり披瀝したくはないのだが、このコラムの読者の多数を占める院生には有益なのではないかと考え、敢えて紹介することにした。したがって、下記のことはしっかり理解するようにしてもらいたい。
 失敗体験は心理学で言う欲求不満耐性を育ててくれる。昨朝のコーヒータイムでの雑談で唐澤先生から次のような話が紹介された。東京の某有名大学の先生の指導学生の話である。大変優秀で、数学も英語も強く、勉学にも積極的に取り組む理想的な院生で、本人も自信があるという院生であったそうな。先生は将来研究者になるためには英文の論文を書く習慣を付けさせよと考え、Psychological Report誌に投稿させたという。この雑誌自体はそれほど評価が高いというものではないが、米国から出版されており。歴史が古く世界中に流布していることでは定評があるし、現在では著明な研究者でも駆け出しの頃には数編書いているということが珍しくないものである。
 評価が高いというわけでもないとはいってもこの雑誌には査読があるので、当然コメントが帰ってくる。この院生が書いた論文に対して、コメントは「英語が読めない」と書いてあったそうな。つまり、英語が下手すぎるというコメントだったらしい。このコメントにショックを受けたのかその院生はすっかり自信をなくしてしまい、先生は困っているという。唐澤説では、いままで何でもよくできてお利口だったのに始めて×といわれたショックから立ち直れない状態でしょうということである。欲求不満耐性が育っていないのである。
 冒頭の僕の話から明らかなように、欲求不満耐性が育っていない院生はこれからの研究者には向かない。早々に別の進路を考慮した方が賢明である。われわれが例えば心理学研究の論文を査読して、「書いてあることがわからない、日本語が分からない」などのコメントをすることは珍しくないのだから、英文で始めて書いた論文の英語にダメだしされたところで,怯むことがあってはならない。外部資金の申請も頻繁に行い、頻繁に不採択となることを経験していくことであろう。
 院生の諸君はゼミでも経験していると思うが、研究者をするということは、自分で一番よいと考えたことやここまでできたら文句ないだろうというものでも、不十分と批判され、否定される、そういうことの繰り返しである。そういう繰り返しはもうごめんだ、と感じた頃から研究者生命は終わるのだ(それでは、これからはよい教育者になります、というわけにいかないのが大学などに職を得た人の難しいことなのだが、この話はここではやめておこう)。僕はもう少しは研究者でいたいと思っていますので、失敗してもめげるわけにはいきません(辛いのお!;関西の漫才師横山たかし風に発音すること)。
とまれ、打たれ強く行こう!