はったブログ -27ページ目

田中敏隆先生を偲んで

 6月23日に田中敏隆先生の葬儀が大阪府松原市の自宅で行われた。元大阪教育大学の学長で、日本心理学会の理事長や学術会議の会員でもあった人である。83歳であったが、元気という言葉を絵に描いたような御仁であった。5月の末に珍しく自宅に2日続けて電話があった。用向きは心理学会の理事長の選挙に関わる話であったのだが、そのことはそっちのけで開設準備委員長をしているという来年度開設予定の大学のことを、例によって熱っぽく話されていた。
 「90歳まで学長の予定やねん」、「先生の元気さにはかないません」、と相づちを打つと、「きみ、何言うとるねん、きみも定年になったら手伝ってもらわなあかん」などと会話したばかりであった。その後、すぐに交通事故に遭われて入院し、6月20日に亡くなられたということであった。
 交通事故の件はごく親しい人でも知らされていなかったようで、訃報の連絡を受けたときは脳血管性の病気にちがいないと推察したほどエネルギッシュな先生であった。全く何がおこるか分かりはしない。まさに、「朝に紅顔あって、夕べには白骨となれる身」であることを実感させられるできごとであった。
 葬儀に出席して先生を偲んでみると、自分の教員生活の開始時からの関わりが次々思い起こされる。忘年会では必ず、「野崎参り」を踊られるので、われわれは「野崎参り~は、屋形船で参いろ~、どこを向いても菜の花畑、粋な日傘に蝶々が留まる~、呼んで見ようか土手のひと~」と、大声で歌わされたものである。先生のこれ以外の芸は見たことはない。当時の大学教員は凝集性が高かったのか、忘年会や旅行をしたものである。当時は「かなわんなあ」と思っていたが、今では懐かしいのだから、私も年を取ったのである。
 いつも前向きで、バイタリティに溢れていて、大きな声で話す、分かりやすい素直な人柄であり、若い教室員は陰で「敏ちゃん」と呼んでいた。私が助手に採用された頃は教室主任で、採用前に先生の部屋の、椅子が2つ、机が一つの貧弱な応接セットで面接を受けた記憶がある。面接に来るようにと連絡があったときに、「大学はどこにありますか」と聞いたらしく、「失敬なやっちゃ」と後日言われたことがある。大阪市立大学からは電車で15分ほどの距離にあるのに、大阪教育大学天王寺分校の場所を知らなかったのだから、当時の私もいい加減なものである。採用には関係がない面接であったが(当時には珍しい公募で人事が行われていた。書類選考で選ばないと人事は不正が起きるとされたらしい)、選考が終わったのでどんな男か見ておきたいということであった。
 田中先生は天王寺師範から新制大学の大阪学芸大学の助手になり、大阪教育大学長までずっと一つの大学で過ごされた。学長になられたが、任期途中で退任され私学に移られた。助手のポスト削減を学長が独断で文部省に報告したことの責任を教授会で追求されてのことであったと記憶している(法人化になった現在の大学では考えられないほど、当時は教授会の権限が意識されていたのである、大学はずいぶん変わった)
 大阪教育大学では、当時は教員の学閥意識が強く、東京文理大学(東京教育大学)、広島文理大学(広島大学)、その他、の3つのグループが併存しており、先生は名溪会のリーダー的存在であった。私の採用された頃には、心理学教室は16名の大所帯であった(聞くところによれば、大阪教育大学の心理学教室は来年度から5名の教員になるという、ずいぶん変わったものである)。
 葬儀の時にも紹介されていたが、40歳以前に文学博士を取得されたり(当時としては格別に早く、出身校でない京都大学からの学位であることも珍しかった)、在外研究制度による英国留学も早い時期にされていた(当時、地位の低かったはずの学芸大学の教官にこのようなことが可能だったのは、学位を取ったことに理由があるのだろう)。田中先生はこれらのことに言及されることが多かったので、当時の若い教室員はみんな学位を取るのが早かったし、在外研究員制度の恩恵に預かった者が多かった。論文を書き、業績を蓄積することや留学することの重要性を教えてもらったことになる。
 田中教授(つづいて北尾教授)八田助教授のペアで大学院第2講座を担当した頃には、田中先生が引き受ける留学生や院生の世話をさせられ、愚痴ったものだが、大阪教育大学心理学教室の卒業生が、今日多くの大学で教員のポストを得て活躍できている一因には彼の存在があったのである(当時、教員養成系大学で修士課程を持つところは2カ所しかなかった)。まさに田中先生のお陰を間接的にでもこうむっているいる者は少なくないことになる。
 様々なことが思い起こされるが、教え子が大阪教育大学心理学教室の教室主任をしていて定員削減を嘆いているのを聞くと、日本の国立大学は大きく変わったと思う。私が27歳で教員生活を始めて30年が経っただけなのに、である。最近30年間に日本の大学を取り巻く状況は大きく変わったが、この変革期に何とか対応できたのは田中先生のこのような、研究志向という無形の影響を受けてのお蔭かも知れないと思う。感謝せねばならない。
 定年が視野に入ってきた私には、83歳を超えても現役でやるという気持ちにはなれそうにない。ただ、田中先生のあの元気さには脱帽である。
合掌。

COE申請書虚偽記載(誤記)問題(6/1)

 茶飲み友達の間でのここ数日の最大の関心事は、数学系のCOE申請書におけるメンバーの業績虚偽記載(誤記)の問題である。今日の朝刊各紙の記事では、調査委員会が活動中で、他のCOEについても調査を始めるとあった。何か、おかしな方向に話が展開しているように思える。そんなことではなく、不心得者の取り扱いをどうするかであろう。
 先週の最初の新聞記事からなので真実か不明ではあるが、サブリーダーの藤原教授(敢えて匿名にはしない)のCOE申請書の個人業績に虚偽の記述があったということである。このような大変な事実を大新聞が書くからには真実である可能性が高い。8編の業績記載のうちの3編が掲載予定となっているが、事実は不採択で掲載されていない論文で、虚偽の記載というのである。私はCOEの申請に都合3回アプライさせられ、何度も個人業績表を提出したので、申請書の様式や事情については熟知しているつもりである。3回目は申請代表者になったが、すべての申請は学内選考会で落ちたのである(最後の自分が代表者である申請の学内ヒヤリング審査委員から、後日、審査委員に説教したのはあなただけだと言われたことがある。誇大妄想的な計画だが、こういうものがCOEの本来の目的にかなうものだ、といったらしい)。学内選考には大学の基本方針もあるので、もちろん学内ヒヤリングで不可とされたことを恨んではいない。数学系のCOEが採択となり、私たちのが不採択になったのをねたんでのことではもちろんない。
 藤原教授のコメントを新聞で読むと、誤記したので申請書の手直しを申し出たい、とあったが、とんでもない心得違いをしていると私は指摘したい。学術雑誌に論文を書くことを研究業績蓄積の主たる手段としている研究者が、自分の投稿した論文が採択か不採択かあいまいで記憶違いなどということはあり得ない。まして、著名な雑誌に投稿した論文の結末を間違えることなど断じてないと思う。1年に何本もの論文を投稿することのない数学の分野では間違う確率はジャンボ宝くじに当たるよりも低い。化学や医学の分野でのように、毎週のように論文を投稿する分野の研究者でもない、と考える。つまり、誤記ではなく、虚偽を記載したと判断できる。掲載予定という文言は印刷中の論文にしか使わないのは常識である(査読中のものが掲載予定というのなら、大きな申請書を書く前に大量の通りそうにない論文を、一流誌に投稿して申請書にリストアップすることが横行するだろう)。申請時に古くない業績を書かねばならないプレッシャーから意図的に虚偽の記載をしたのだと考えざるを得ない。
 このような場合には、本人は退場しかなかろう。問題はきわめて深刻であると考えるからである。日本でも欧米でも、外部からの研究費の獲得は申請書を通じて、それに基づいて審査され、採択になったり不採択になったりするシステムが採用されている。このシステムは問題もないものとして通用してきているのに、このシステムの根幹を覆す行為を行ったからである。申請書に記載する業績リストに虚偽はないことが、当然ながら約束事として、このようなシステムは機能しているのである。したがって、虚偽の記載で大金を得たのであるから詐欺行為となってしまったということになる。自ら退場するしか道はないと私は考えている。冷酷で、厳しすぎるという読者もいるかも知れないが、株主の虚偽の記載をして問題となった西武鉄道などの例からわかるように、社会が作り上げ健常に機能しているシステムを覆すような場合は、退場しかないのである。
 読者には研究職を目指す人が多いと思うので、老婆心で言うのだが、くれぐれも藤原教授のようなことは許されないことを肝に銘じておいてもらいたい。
 
 そんなにこのことを問題視するのなら、調査委員会とか総長に直接言えばよいではないかと言う指摘も聞こえそうだが、現在のところ研究生活復帰へのリハビリテーション中であるし、世間からはもう十分嫌がられているので、コラムに書いているのであります。

困った風潮

4月1日から個人情報保護法とかいうものができて、さまざまな場所で困っているらしい。先週末にあった会合では、看護実習の報告書の作成に従来のように学生がカルテを借り出して夜に書くということができないとか、待合室で患者の名前を読み上げてはいけない、病室に名札を出してはいけない、など僕には過剰な反応としか思えないような風潮を耳にした。心理テスターとして大学病院にバイトにいってもらっている院生には、患者の個人情報を国家資格がないと見せられないので、と断られることが先週にあったので必ずしもよそ事ではなくなっている(国家資格の心理専門家をつくらにゃ問題は解決しない)。法律でできないことになりましたと言われると、そうですかというしかないようにも思えるが、果たしてこんなことでよいのであろうか。
 僕には過剰反応としか思えないのである。実習の報告書を学生が病院で書く時間も、個々の臨床場面での実習指導者が10人ほどを割り当てられる学生のとんでもない日本語や文章にいちいち赤を入れる暇などあるはずもない。こんなことは、これまでは学生がカルテを借り出して夜に報告書を書いて学校の教務の先生が赤を入れて、実習担当者の了承をもらうという仕組みで何の問題も生じてこなかったと思うのだが。学生にも指導者にも個人の情報の保護についての自覚ですまされてきたのだが、信用できないというのであろう。患者の氏名を隠すのは時に必要なことがあるのは理解できるが、番号や記号で同定しようとすればミスは当然増加することであろう。 
 昨日の大学院の入試に関する話題では、今まで公開がやかましく言われて面倒だと思っていたのに、著作権上の問題からWebで過去の入試問題を公表できなくなったという。2次的な使用は著作権上出来ないというのだが、過剰反応のように思える。通常入試に著作が載ると出典を明らかにすることで印税や著作権の問題はクリアされることになっている。過去の入試問題を出版して金儲けをする場合には印税の支払いが必要なのは言うまでもない(某大学で僕の著書の一部が使用されたことに関わって、問題集を出版する会社から印税を支払われた経験があるので、このことについては確かである。ちなみに印税は700円未満であったので最低保障の1000円を銀行に振り込まれたのだ)。
 Webに掲載できないので受験生は大学の教務に来て閲覧するしかないことになる。遠方の受験生には不利益が生じるのだが、訴えられたら負けるというのである。訴えられればよいと僕はまじめに思うのだ。自分の文章が入試に使われて大学が公表する過去問題として2次的に使われたと言って著作権の使用料を払えという人がいたら会いたいものだ。そんな人がいるのなら、これまでにも入試に自分の作品を使われたといって騒いでいるはずである。名誉なことで、自分を宣伝してくれたと喜ぶことはあっても問題にする人はいないと断言しても良い。
 個人情報の保護法も著作権も社会の中で問題が生じたときにスムースに生活できるように法律が作られたはずで、不自由にされるのなら法律など不要である。枝葉末節なことでスムースであった社会活動がぎくしゃくするのは、御免被りたい。

春だなあ(4/16)

 ここ数ヶ月の「はったのコラム」を振り返ってみると、かつては、自然の移り変わりなどをテーマとした優雅な(?)内容のものが少なくなかったのに、どうも世知辛い話や教訓めいた内容ばかりになっている。そんな人間になってしまったのかと思われるのはしゃくなので、春でもあることだし今日は草花の話をしたい。今朝も例の如く、朝の散歩に出かけた。普段のような体調管理のトレーニングではなく、ゆったりとした気分でぶ~らぶらと散策しようと心づもりをしていたので、いつもとは逆に旧部落の狭い路地を抜けて、田んぼの畦道を進んで桐の花でもみて、山裾から太閤道のハイキングコースを逆に抜けて家に戻ろうと考えたのであった。
 タンポポが咲いているなあと思いつつ、田んぼの畦道を進むと、4~5本あった山裾の畑の桐の木はすべて切り倒されて3メートルほどの長さの根元が2つと小枝が山積みされて残されていた。両手で抱えきれないほどの太さに育っていた桐の木なので40年は経つ木であったと思っていたのに無惨なことであった。
 娘が生まれると屋敷に桐の木を植えて、娘が嫁に行くときの道具を作るなどというような話も耳にした記憶がある。持ち主の娘さんにおめでたいことでもあったのか、はたまた、もう嫁にも行きそうにないほど年を取ったのであきらめて切り倒したのかも知れないなあ、などと思ったことであった。
 太閤道は、天下分け目の天王山につながる、高槻市営墓地公園の裾が入り口担っている有名なハイキングコースで、金龍寺跡をへて山崎駅のあたりの宝寺につながる(金龍寺跡までしか行ったことはない)。もちろん舗装などしていない。しばらく行くと、ヤブツバキの花が落ちて道路は一面濃い紅色に染まっていた。道の周囲は濃い緑色の広葉樹の葉が多いために紅色はひときわ目立つ。椿の花びらのそばに薄紫色のすみれが3本咲いていた。「すみれの花咲く頃~、初めて君を知りぬ」という宝塚の歌は春の歌だったのだ、などと思いがけない発見した気分になり、しゃがみ込んですみれの花の一つをよく見てみると、花びらは5つであった。そう言えば「五弁の椿」なんとかという(水上勉?)小説があったはずなので、椿も花びらは5つなのだ、と気づくと、急になぜ5つなのかが気になりだした。手の指が、足の指が5本であるのは、なぜなのだろう、3本で多分問題なく運動機能は可能のはずである。このように考えだすと、自然界には遺伝子に規定されて5という数に何か大きな意味があるに違いないと思うようになってしまった。
 そうなると、太閤道の野花の花弁の数を探すことに注意が集中してしまう。事実、次に見つけたユキヤナギの白い小さな花をとり調べると、花びらの数は5つであった。先週末にはもう少しで満開だと思って見上げた墓地公園に続く土手の桜並木は7割ほどが花びらを落としていたが桜の花びらは5枚であった。家に帰ってネットで調べなくてはと思いつつ、舗装道路に出て黄色のレンギョウの花をちぎって、数えてみると4枚であった。そう言えばタンポポは5枚どころの花びらではない。自宅のもどり家内が植えているパンジーの花びらは5枚だったが、私の散歩途上で生まれた仮説はあえなく否定されることとなった。
 久しぶりに春の野を散策して、程よい疲労感もあり気分は良かったのだが、そう言えば、今朝の自分は、観察→仮説→仮説検証→仮説の修正という思考パターンであり、こういうのがしみ込んでいるのだ、何も考えずに頭を弛緩したいと思って散策しようとしたはずなのにと考え込んでしまった。ネットで調べるなどということは止めにしたのであった。休日なのだもの。

ああ~長崎はひどい、雨だった

 長崎に出張した。シーボルト大学という新設の大学で情報関連の授業がどうなっているのか、心理学に関係するポストを医療系の学部で獲得するにはどうすればよいのかを探るのが真の目的の出張であるが、マラッカ海峡で海賊に拉致された会社の社長が記者会見で述べたように、公式の目的と真の出張目的がやや異なることがあることについては、目こぼしを御願いするしかない。
 余った時間でグラバー邸を訪問した。17歳の頃に高校の修学旅行に来たことや、好きだった女の子らと何とか一緒に写真が撮れないかともだえていたのを懐かしく思い出したりしたことであった。新しく知ったことは、キリンビールの生まれるもとはグラバーらが関係していたこと、意外と狭いところに住んでいたのだなということや、旧長崎高等商業が東京、神戸に続いて長崎に3番目に出来たということである。長崎大学の経済学部は伝統があるということである。

 長崎シーボルト大学で学んだことの一番重要なのは、約束は当てにならないということである。長崎県には2つの県立大学があり平成20年度には合併するらしい。噂なのかも知れないが、数年前に大学設立のために集められ当時は70歳まで勤務できるとされて就任した教員も合併時には選抜されるようである。見せてもらった職員紹介の本では僕よりもかなり年長の教員の方が多数おられる印象を受けた。開設時にかなり無理をして教員を集めた印象をうけたが、3年後に合併するときには篩いにかけるようである。「新しい組織ですので、連続していません、悪しからず」ということなのだろう。よい方法だとは思うが、管理者側か、教員側かどちらの側で判断するかで大いに異なる。気をつけねばと思った次第。
 思案橋界隈で飲んでホテルに帰る頃には夜から雨になった。「雨の丸山、訪ねても、冷たい雨が降るばかり…」などとクールファイブの歌を思わず口ずさみながら宿に帰り寝た。疲れていたのか爆睡した。
 翌朝は天気予報の通りに雨だった。知人迎えに来てもらった8時頃はたいした雨ではなかったのだが、だんだん雨脚がひどくなった。大学によった後で長与町で高速艇に乗るころには風も出てきた。20分ほどで縦揺れのする船を下り、空港について10時25分の飛行機に乗るべくチェックインをすませ、待合室に入っていくと、逆走する人がぞろぞろ出てきた。飛行機のキャンセルが出たのである。前線の通過ということで、飛行機は悪天候のために海上空港である長崎空港に着陸できずに福岡空港につぎつぎと降りているという。僕の乗る予定のANAは悪天候の表示だけで、なかなかキャンセルが出ない。あわただしく電話を大声でかける人や(たいていはキャンセルを楽しんでいるように思えたが)、朝の便から遅い便に切り替え、待ち時間の長さをしつこく繰り返すおっさんのグループなどで、何とも異様な風景の待合室であった。ガラス越しの滑走路には強い雨がアスファルトを叩きつけながら吹き抜けていく。
 僕は福岡空港まで連れて行かれるのかも知れないと思いつつ比較的冷静であった。この日は何も予定がなかったからである。出張前日に水曜日の教授会の打ち合わせを4時からやることにしていたのだが、事務方の都合で水曜日の朝に変更してあったために、月曜のこの日は高槻に帰ればよいだけの予定であった。
 幸いなことに50分遅れで出発の表示が出た。伊丹には結局1時間遅れで、揺れながら着陸した。5分後発の空港からのシャトルバスに運良く乗り込むと、今度は御堂筋で事故があったらしく、経路を変更されて25分で着くところを50分も掛かって雨の新大阪に着いたことであった。トラブルは重なるものである。

 教訓。1)余裕を持ってスケジュールを作っておかないと精神衛生に悪いことになる。2)世の中には何が起こるか予測不能であるということ。3)結局、僕は福岡まで連れて行かれて新幹線で帰ることにはならなかったので、憑いているのかも知れないと、ポジティブに思うべきであるということ。4)キャンセルで移動があったときに荷物があると困ると判断して土産を買うのを控えて得をしたかも知れないということ。
 あわただしい出張のために、うまい酒と新鮮な料理とおしゃべりに終始してしまい、クールファイブの歌をカラオケで歌うことを失念してしまった。残念!!。

贈ることば(3/19の案)

 3月25日は卒業式である。豊田講堂での全学の式典を午前中に済ませると、午後は各学部や研究科で証書の授与式が行われる。全学の式典では学部長や研究科長は楽曲に合わせて入場し壇上に座る。それほど緊張することもないが豊田講堂が狭いので研究科と学部の2回に分けて式典が行われるので、出たり入ったり面倒ではある。豊田章一郎さんは同窓会長になったのだからうんと立派な新豊田講堂を寄付してもらいたい(現在改築案は進行中であるのだが、うんと張り込んで欲しいものである)。
慌ただしい年度末なので、卒業式が近い実感はなかったのだが、昨日答辞の原稿に手を入れたこともありにわかに実感が沸いてきた。今年は情報文化学部の卒業生代表が答辞を読む順番なのである。9年に1度の巡り合わせである。
午後の各学部での証書を個別に渡した後で、学部長の挨拶をせねばならない。学部長としての任期が終わるので、最後の挨拶となる。自宅に帰る新幹線の中でいつもは居眠りをするのだが、妙に気になり挨拶をどのようにするか考えてしまった。たいていは行き当たりばったりでやってきたのだが、次のようなのはどうだろうかと思った次第である。
「卒業、おめでとう。情報文化学部の所定の課程を終えて卒業されることに心からお祝いすると共に、これまでの諸君の研鑽・努力に敬意を表します(ちょっと、堅いかな?)。情報文化学部は21世紀の諸課題に対処できる人材を育成するという社会の要請の下で、名古屋大学9番目の学部として11年前に創設されました。言うまでもなく、21世紀の課題とは高度情報化が生み出す問題であり、環境問題であります。このような課題は従前の学問体系では取り組み難い複雑な側面があり、文理の両方にまたがる教養と課題にアプローチできる人材が求めらるのであります。諸君は名古屋大学では唯一このような志向性を持つ学部カリキュラムで教育を受け、今日に至ったのですから、自信を持って産業社会、あるいは上級研究機関で羽ばたいて欲しいと願うものであります。
羽ばたけといっても、未知の世界であり、どのようにすればよいのかと不安があるでしょう。私から一つアドバイスしましょう。連帯を求めよ、ということであります。言葉を換えて言えば、コミュニケーションを模索せよ、人脈の構築を探れということであります。30年前に東大全共闘の山本義隆は、連帯を求めて孤立を怖れず、とアジテーションしました(この辺は言ってもわからんかもなあ)。個の自立を必要とした当時の日本人のメンタリティが背景にありますが、今日の諸君は利己的、自己中心的と言われるようになり個の過大な重視が問題とされるほどであります(嫌みに聞こえるかも?)。21世紀の諸課題は、一つの学問デシィプリン、単一の思考体系では取り組めない複雑性を有しています。異分野の融合でしか取り組めない側面を有しています。情報文化学部の卒業生はこのような志向性に優れると確信しています。連帯を求めよ、これば私からのアドバイスであります。これまで私は、将来はこのようなテーマが取り上げられるようになるだろう、こういう要件が研究に求められるだろうなどという点であまり外した経験はありません(本当は、はずれた予言は忘れているのだとは思うのだが、ここはこう言うしかない)。名前とはそぐわない体型のおばさんの予言よりは確かであります(ここは笑いが取れるはず)。
連帯を求めよ、コミュニケーションを模索せよ、人脈の構築を探る、それが秘訣であろうと信じます。
我々は巣立ちゆく諸君を誇りに思うと共に案じてもいます。いつでも立ち戻って、新たな活力を得て下さい。飛び立つ諸君が若鳥であれば、わが情報文化学部は古巣であり、船出するのであれば我が情報文化学部は造船所であり、母港であります(ちょっと、大げさかな)。私たちはいつでも歓迎します。
長くなりましたが(と一応自覚していることを披瀝しておいて)、以上の助言を諸君へのはなむけの言葉と致します。」

 挨拶はいつもより長くなるかも知れない。挨拶の長いので定評があるのは学校の先生と年寄りと相場が決まっている。僕も両方を兼ね備えてきたので文句はないだろう。

よ~く考えよう

 大学院重点化についての功罪が、先週末の日本経済新聞でかなりの紙面を割いて論じられてしまった。しまったと完了形を使うのは、我々大学人仲間の雑談で話題になっているレベルと思っていたのだが、新聞記者にまで知られてしまったという思いがするからだ。重点化は1990年頃から、欧米の主要な大学では大学院レベルの教育が中心なのに、日本では遅れているということで始まった。基幹大学とされる旧帝大を大学院大学化するのが目的で、教官(今は教員)を学部から大学院に籍を移して学部を併任するシステムとしたものである。諸般の事情で中途半端だったと僕は思っていますが詳細は面談にて。この改革で基幹大学には大量の予算が配分され、重点化が旧帝大以外にも広がるはずと準備に奔走した多くの大学の関係者の羨望(恨み)の的となったものである。名古屋大学の情報文化学部も重点化に遅れまいとして、かなりの荒療治を行い、環境学研究科と情報科学研究科に教員が移籍した経緯があり、僕などはずいぶん恨みも買ったに違いない。
 日経新聞が報じるのは、大学院の重点化が欧米に肩をならべるものにならないのではないかという指摘です。このような指摘は我が心理学講座について考えてみるときに、頭が痛いことになる。院生の定員はほぼ倍増し、今年も8名の博士課程後期の学生を入学させることとなった。定員を埋めないと予算の面での不利益が生じる恐れがあり、社会環境学専攻の他講座のことを考え多めに採らざるを得ないのである。
 博士課程後期は基本的には研究者を育てるという目的でカリキュラムが作られているし、入学試験の面接でも「心理学が好きです、できれば研究者になりたいです」という受験生を受け入れている。しかし、常識的に考えておおかたの学生には研究者のポストは得られそうにない。なぜなら、心理学関係の教員の募集は少ない、というかほとんどないに等しい。学位を取得しても、それが研究者のポストを手に入れることと同義ということではなくなってしまっている。たいていの大学ではそのポストが継続されるとしても10年に1人~2人の研究者がいればよいのである。数年前までは心理学(臨床心理が多かったが)のポストも若干はあったのだが、大学の心理学系の新設ブームは終わり、定員の埋まらない大学の閉鎖が予想されるようになってきた。先は真っ暗で、気の毒としか言いようがない。僕も早く辞めてポストを空けねばと思わないわけではないが、そうはいっても焼け石に水の感がありますし、僕の生活設計もありまする。
 そこで、院生の諸君は自らの進路をよ~く考えねばならないと思う。心配性の僕が考えてみると以下の選択肢があるかと思うのだが参考にしてもらえれば幸いである。
1) 今まで指導教員が言ってきた指示通りに、論文を書く。国際一流誌にすげ~といわれるほど大量に書く。日本でだめでも欧米でポストがあるかもしれないからである。
2) 心理学以外の分野にも進出する。異分野の学会で発表して、隙間の研究テーマを開拓して、比較的ポストのありそうな(と、かってに思っている)工学や環境学などの研究ポストをねらう。そのためには活動性や社交性を高めねばならない。
3) 大学など以外での研究職に類したものを目指す。そのためには、公務員や一般企業での採用試験に耐える知識や自己アピール力を身につける。
4) 宝くじを当てるか玉の輿(逆玉も可)に乗るように方針を切り替える。身綺麗にして異性の関心を得る。コミュニケーション力をつける。
 どれも簡単じゃない!と文句がでそうなことは承知している。
 我々の側も研究者を育てるという目的を降ろしてカリキュラム改革をする。誤解を恐れずに言えば、潰しのきく人材を育てるようなカリキュラムに変更する必要がある。これは、大変なので、僕の次の世代の先生に託すしかありませんけどね。
 いずれも嫌だという人がいるかも知れないが、若いときに目指した人生をスケジュール通りに送れるということは、滅多にない。だから人生は面白いとも言える。「人生いろいろ」などと、小泉某のように無責任でおれない僕などは若い院生のことを考えると、夜も眠れないことがある。如何にすれば院生が食べていけるようにできるかに頭を悩ましている。眠りの浅いのは老化の印ですなどと、真顔で言わないようにしましょう。

学位は運転免許?

僕の研究室は近所の教官のたまり場になっている。理由はいくつかあるが、その第1は、僕の部屋は比較的空間が残っており、客が座る椅子があることと持ち込んだ書類やコーヒーカップを置くスペースがテーブルにあるからである。最近次第にものが増えてきて、テーブルの上にも書類が占める面積が増えつつあるが、それでも近所の教官の研究室とは断然差があるのだ。僕が整理整頓がよいと自慢する話を書くのではない。たまり場での四方山話の一部を照会し、院生の諸君へ情報提供をするのが目的である。
表題のような話題は比較的頻度が高い。心理学からは次は誰に学位が出せそうかね?などと言う質問がよく出てくる。もちろん別の講座の教官からである。××君か、○○さんかなどと無責任に評定をしているのを知らせておきたい。   無責任にとはいうものの、それは不確定な要素が多いからであって、皆それなりの物差しを当てて学生を評価しているのだ。学位はこの頃運転免許みたいなものだから、出来るだけ出そうという方針は共有しているが、運転免許を与える側としては、いくつかの基準枠を持っていることを情報として伝えておこうと思う。もちろん講座会議で議論してという類のものではないので、独断に過ぎないかも知れないが、それでも伝えておく価値がありそうに思えるのだ。
学位運転免許説で、年齢に当たるのが入学試験だろう。学科試験に当たるのは査読論文を複数持つことである。さて、話はここからが大事なのだ。学科試験に通っただけで、運転免許は出ない。路上教習があるのだ。それに当たるものは何かを考えて欲しい。僕は、学位を出して研究者、教育者として送り出せるかどうかは路上教習の様子を判断せねばと考えている。
 路上教習の内容には、?自分の研究を他者に簡潔に紹介でき、理解させ・興味を喚起できる能力、?他の領域への関心度・理解度あるいは好奇心、?下級生や同僚に対する指導力あるいはコミュニケーション能力、?共通して使う施設や器具のメンテナンスへの関心、?周囲が何を期待し要求しているかを察知する能力、などである。これらは、就職先で求められる研究者としての役割、教育者として求められる役割、組織維持のための構成員として若手に要求される仕事内容、人間関係に不可欠なものである。ちなみに、今までに学位を出した院生は路上教習には合格点を出せると思っている。どこへでも出せる人材であると判断している(少し言い過ぎかも?)
つまり、自分の研究だけに関心があり、論文を書くだけでは運転免許取得はおぼつかないぞ、ということである。
実験室の使い方、院生全体への通知へのレスポンスの悪さ、卒論発表会への参加状況や反応、などを考えると、次の路上教習合格者をつぎつぎと出せるのか心配になっているのだ。自分のことにしかリソースは使わない、自分の研究で精一杯では話にならないと言い放っておこう。

年頭雑感(1/4)

 暮れの大掃除のついでに本箱の整理をしようと思い立ち、幾ばくかの本を廃品回収に出した。もっとも、家内も僕も高血圧気味でそれを言い訳にして掃除は最小限にとどめたので、大掃除というほどのことをしたわけではない。ただ、贈呈された本や雑誌が増えて机の上を占拠したために、やむなく昔の本で必要のない本を本箱から取りだし、それらを収納しようとしただけのことである。  洋書を中心に10冊ほどを捨てただけなので、何のことはない机の上に若干の空間ができただけで本箱は満杯状態のままである。
 昔の大学の先生は書架や書庫を持つのが普通だったのだろうが、僕の周囲にはそんなぜいたくな人はいない。僕は雑誌を中心に研究を展開する領域なので自宅に本はほとんどない。それでもいっぱいになるのだから、そもそも家が狭いということである。
 捨てる候補に昭和40年刊の異常心理学講座の2冊を選び出したのだが、この2冊は捨てるのをやめた。理由の一つは、大学の心理学教室の同級生の遺品である趣旨のメモがあったことと、ジャクソニズムについての概説があったためである。同級生は卒業した年の夏に病気でなくなった人で、死後遊びに行ったときに親からもらい受けた本であるとメモ書きがしてあった。この友人のことについては書くのは辛いので止めておこう。正月2日間でジャクソニズム、ネオジャクソニズム、ジャネの紹介などの章を読んだ(元旦早々から勉強したわけである)。みすず書房の異常心理学講座は12巻から成っており、井村恒郎、島崎敏樹、村上仁、宮本忠雄、などの編集になるもので心理学講座と銘打たれてはいるが、心理学者は成瀬悟策(九大の先生で催眠研究で有名)だけで、それ以外はすべて精神医学者による執筆である。昭和30年代は精神医学者が心理学(人の心の有り様)に関心を示していたのに、心理学の研究者はネズミでの実験や精神物理学的実験にしか関心を示さなかったのであろう。
 僕の死んだ友人は精神物理学的実験以外を取り上げなかった大学での心理学ではなく、異常心理学などに関心があったらしいがそんな忖度はさておいて、元旦に40年前の本を読んでの感じたことを記しておきたい。
 ジャクソニズムというのは神経心理学の研究者ならみんな知っている英国の19世紀の研究者で脳機能の階層性を主張し、偏狭な機能局在論に対抗したヒューリング・ジャクソンの考え方のことである。ネオジャクソニズムはフランスの研究者らがジャクソンの考え方に修正を加えたことを言うのだが、当時の日本の精神医学者はさまざまな様態の精神異常の症状を統一的に理解する理論を模索し、ジャクソニズム、ネオジャクソニズムを理解しようとしていたのが分かる。包括的な理論を持たないと断片的な知識や症状の記載は意味をなさないことを随所で主張している。今日のわれわれには耳の痛い主張で当節の大方の研究の弱いところである。大きな枠組みの中で自分の実験や調査を解釈する視点を持たねばならないのだ、と教えられた感じがする。また、無意識などとは反対の極にあると考えてきたジャクソニズムはジャネやフロイドと連結するものがあることも知ることができた(図書館には僕が読んだ本はあると思うので確認下さい)。
 第2に感じたのは語学力の重要さである。編者らは読者も何度か目にした名前だと思う(岩波新書などがある)が、ドイツ語、英語、フランス語をよくした人たちであることが引用文献などから分かる。僕を含めた大方の現在の心理学の研究者には英語だけの語学力しかない。包括的にものを考えたり、古典を読むには英語だけではやっていけない。僕はもう遅いので無理だが、読者は今からでも英語以外の語学をマスターすることをアドバイスしたい。
 「ヨン様ブームなのでハングル勉強してま~す」という声が聞こえそうだが、ちょっと違うと思うけど、それでもまあいいかな。
 元旦からの読書は反省すべきことをいくつか教えてくれたが(手遅れも含めて)、還暦になる今年に当たって、もっと基礎から勉強しろと死んだ友人が示唆したのかも知れないと思はないでもない。心機一転、がんばりたいと考えたことでありました。

熟女との夜(12/27)

12月も半ばを過ぎた16日に院生主催の忘年会があった。この日の午後から急に気温が下がって寒かったことにも原因があったのか、参加者は教員3名と院生5名で例年になく寂しいものであった。30名以上の院生がいるはずなのに、何とも寂しいことである。この頃の若者の、自分の外にある世界には無関心、という傾向が強まる一方のような気がした。会費が惜しいというのでは多分ないのであって、先生や他人ととりとめもない話をするのは嫌だということのようである(ひがみかも知れないが)。たいていの若者は以前でもそれほど社会性があったわけではないが、それでも飲み会などには参加したものである。そこで、先生達があるいは先輩らが自分をどのように見なしているかなどの情報を得ようとしたものである。「論文を書いているか?」などと言われて、がんばらねば、相手にされなくなるのではないかと内省したものであるが、どうもそういうことにも関心が無くなっているようである。
 公募による教員の採用形態が多くはなってきているが、人づてに人材の募集があるのも現状ある。どのような学生なのか充分な情報がないと推薦しにくいことも院生らは解っておく必要があろう。
 先日、地方国立大の先生から次のようなメールが来た。「学部卒のM1が,忠臣蔵を知らないといったので,現職院生と2人で息をのみました。忠臣蔵はおろか,「赤穂浪士」「大石内蔵助」「吉良上野介」「浅野内匠頭」のいずれも聞いたことさえない,とのたもうたのです。再びちなみに,そいつは香川の丸亀市出身です。つまり,海の向こうは赤穂と言ってもさしつかえない場所で育ったわけですが。まあ,そういうのは関係ないのでしょう」。と呆れていた。この先生は病的な忠臣蔵フリークで、自分に関係がないことに関心を示さぬ院生の自己中心性に怒りを覚えたらしい。地方大学にはアホもいるわい、と思って午後の会議に豊田講堂の方へ歩いていく途中に、「マゴニモイショウ」て何?と連れに聞いている学生あり、学生答えて曰く「まあ、だいたい分かるけどな」で終わりであった。名大生に間違いないので、地方大学にはアホもいるわいという差別的発想は反省せねばならないと思うことしきりである。この頃の若い奴はどうなっとるのか!
 気温だけでなく寒い忘年会に出て、風邪を引いた僕は翌日、熟女達との飲み会に誘われており、大阪に出かけた。以前に勤務していた大学の初期の卒業生らで、50歳を越えた人たちである(そういうのは熟女と言わずにおばんと呼べという人がいるかも知れないが)。卒業後30年以上も経っているが飲み会とカラオケに誘ってくれたのだ。エネルギーを吸い取られたのかその翌日から風邪はひどくなったのだが、うれしいことであった。
 教育に携わる者が薄給でも我慢できるのはこういう楽しみがあるためだと考えてきたのだが、この頃の学生の様子では30年後に先生と忘年会やカラオケをするという光景はあり得ない、と思うことであった。寂しいことである。