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花の色は

例のごとく朝の運動(散歩)に出かけたのが、門を出て(と言っても鉄扉にすぎない)向かいの家の庭から満開の山吹の花が道路に溢れんばかりに咲いているのが目に入った。これこそ、「山吹色」だ!と感じ入っていると、最近山吹の花を見ることも少なくなったので、きっと子ども達は実物を知らずに色名を覚えるのだろうなあ、と気になりだした。具体物と語彙との対連合がないままに語彙を覚えるのは難しかろう。「空色」は最近の子どもでも対連合が出来そうだが、本当の「空色」かどうか怪しいものだ、『東京には本当の空がない』なんてあったのは「智恵子抄」だったのかな、などと思考は妙な形で展開していった。

 右隣には数年前に遊水池を埋め立てて10数戸が新築され、大きな家が建っている(敷地の割に家が大きいという意味)。垣根はすべて赤芽、玄関先にはハナミズキ、と建物は様々な形なのに、庭周りが画一的なので安っぽい印象を醸し出してしまう(余計なお世話ですけど)。

 しばらく歩くと、菜の花が川の土手を覆っている、「菜の花色」って言わないのは何故だろう。たんぽぽも黄色以外のものは見ないのに、「たんぽぽ色」と言わない。「藤色」や「桃色」という単語は目にするのに、と墓地公園に至る坂道からみえる薄いピンクの山桜を見やったことであった。濃淡に程度こそあれ、「桃色」以外の桃はない、「すみれ色」もパンジーと呼んでいる洋物以外に色調に多様性がない、「栗色」には栗があの色調以外のものがない。「柿色」のしかり、Japanese redと呼ばれるもの以外の柿を見たことはない。「リンゴ色」と言わないのは紅いリンゴ以外に青いリンゴもあるからに違いない、「チューリップ色」と言わないのも赤や、黄色や、紫など多様な色調があるから言わないのに違いない、つまり、色調が一義的に決まっているとされるものは「何々色」と呼び、多様な場合には使わないのだ、と法則性を発見したような気がしてきた。

 墓地公園に至る坂道では鴬が数カ所で煩く甲高い声を鳴き交わしている。坂道の道ばたの薄緑の新芽の樹の間をせわしなく飛び回る鴬(声の割には本体は小さい)を眺めつつ、「左様、鴬も薄緑色しかいない」と、思いついた法則性に気を良くしつつ、Uターンをして帰路についた。このように、書くと心内辞書からつぎつぎと色名を検索して言語流暢性が高いことを誇示しているように思われると面映いし、情緒不安定のように思われるのも癪なので種明かしをすると、すべて、散歩の途中で現物を目にして浮かんだものである。ものを目にしてでのことであり、想像上での出来事ではない。

 家に近くまで来た時に「バラ色」という語彙が頭に突然浮かんできた。バラは様々な色調があるのに「バラ色」という。私の思いついた法則性に関する仮説はもろくも崩れ去ってしまった。どうやら、色調の一義牲だけでなく、花弁や花全体の印象に意味的な部分からも「何々色」という語彙は生じているらしい。などと、いろいろと愚にもつかないことを思いめぐらせて約30分の朝の運動は終わるのであった。

 ただ歩いているだけ(筋運動系)の訓練を続けるだけでは、加齢に伴う脳機能の低下は防止できない、前頭葉機能も使わねばだめなのである!(この仮説は以前のコラムに書いたので検索して参照されたい)という私の仮説に基づいた有意義な朝の運動であったということです(今朝は昨夜よく寝たせいか、気持ちに余裕があるのでいろいろ考えていたということで、いつもいろいろ考えている訳ではない)。

 ところで、この文章に出た花や樹木やその実際の色を知らないという読者はいないでしょうね、恥ずかしいですぞ。

忙しいのは何故だ (大学法人化の功罪)

名古屋大学だけでなく、国立大学はすべて独立行政法人となって4年目を迎える。どうやら功罪が顕わになりはじめる時間が経ったと言ってもよい。結論を言うと、構成員の一部である教員の立場からみて、功よりも罪の方が多くなっている印象を否めない。実感として法人になって良かった点を上げると、わずかしかない。これまで、旅費はたとえば6万と決められていれば、それ以上は使用できなかったのが枠を自由に動かせるようになったのは、有り難いことである。6万以上必要な場合は自費であったのだから、私のように最低3つぐらいの学会に毎年出席する者にとっては助かる(もっとも、科研費があったので実際のメリットはなかった)。学会参加費や年会費もいわゆる講座費から支出できるようになったのは有り難いことである。しかし、この程度しか思い浮かばない。
 具合が悪くなったことは、いっぱいあげられる。まず、第一に運営交付金(これまでのように税金から来る校費)が減らされることである。これは毎年減少するのだから、講座費自体も減少していくことになる。名大で今年度は一人当たり20から30万円は減額となるというから、地方大学の友人がぼやいていた「金がない」状態が到来しそうである。研究費が減ると、研究できても、金のかからない研究に特化していく傾向は否めそうにない。そういう場合は外部資金を獲得すればよいではないかという理屈が主張されるが、最近の外部資金の申請書は実績のない若い人には取りにくい形式になっている(たとえば、単独よりも多人数のプロジェクト形式という具合)。名大のように大きな大学で研究チームを構成するのに支障がない大学にいる教員は救われるが、小さな大学の教員は、自由に使える研究費が30万とか50万とかである。パソコンを買えば終わりということである。新しい研究を始めることを端から諦めざるを得ない。私のように、小さな大学でも自由に研究を進められた時代を過ごせた者から見ると、気の毒としか言いようがない。大きな大学のボスに連なって研究費の裾分けに預かるような、理系の教員の研究システムに倣えばよいではないかということでは、自由な発想を研究テーマにして育てる研究は生まれてこないであろう。実際に振興調整費などの数億円の外部資金を何度も取っている同僚の話では、こういうものを取りに行くのはもう止めたいという。何度もある中間評価への対応やプロジェクトメンバーの作業の配分や打ち合わせなどに忙しくなるばかりで、暇が欲しいだけと、研究科長が大きな外部資金を取りに行ってくれという要請にも渋っていた(私の貧弱な外部資金の取得経験でも理解できる思いである)。
 第2は忙しくなったことである。忙しくなった原因は研究、教育以外の活動に配分する資源が増えたためである。大学は一つの会社組織を作られねならないので、執行部が肥大化した。それまで総長、副総長2名と部局長で名古屋大学の執行体制が動いていたのだが、さらに新たに副総長は5名だか6名だかが増え、総長補佐なるものが10数人任命されて執行部が構成されるようになった。大学の本部(執行部)が動きやすいように官僚的組織がしっかり作られ、それはそれで悪いということはないのだが、いわば大きな政府になったのである。大学の総人数は減りはすれども、増えないのであるから、何のことはないそれぞれの学部・研究科で役に立ちそうな人材は本部に召し上げられ、作業をさせる体制になったということである。
 このように優秀な人材を本部に取り込まれると、必然的に学部や研究科での教育や研究指導に配分されるそれぞれの先生の資源は減ることになる。それはTAやRAを手当てして補うということが行われてはいるが、有能と判断させるような先生が学生に直接教える、指導するのと大学院生が指導するのとは同じであるはずがない。短絡的に言えば、大学執行部の肥大化は教育の荒廃を招くということである。かく言う私も執行部にあったときにはTAに授業を委ねて会議に出ねばならなかったり、資料の作成に従事せねばならなかった。心理学系の学部での教育は十分なものではなかったというしかない。
 心理学系に進む学生がここ数年激減したのは、希望者が多すぎて厳しい指導をする予定などと脅かしたためだけではないのかも知れないのだ(そこで、今年は罪滅ぼしの気持ちを込めて、TAに任せない講義や演習指導をしようと取り組んでいる。エライ!)。TAには僕の授業の進め方を見学させる形式に近いやり方に変えようとしているのだが、そうすると原稿を書いたり、論文を落ち着いて読んだりする時間がとれない。
 第3は、といろいろあげつらいできそうであるが、授業の準備をせねばならないので愚痴を書き連ねている暇はない。
 あの、ルネ・デカルトは「宇宙は機械だ」という発想を生み出し、その後の自然科学分野の急激な進歩の原点となったわけだが、彼は裕福な家庭に育ち、病弱のために寄宿舎の朝のお祈りの時間を免除されて、ベッドで空想に耽けることが許されたためにあのような発想が可能となったという。暇と豊かさを保証しないと創造的な仕事は生まれないというのは真理のようである。法人化は研究者に暇と豊かさを保証しないことだけは確か、というのが現時点での評価かな。

教えなければいけないのだ(3/7)

全学教育の試験の結果が公表されたらしく、成績に納得のいかない学生からの問い合わせが先週に2件あった。いずれも医学部の女子学生からである。今年は問題作成時に余裕があったので、過去の問題様式をからがらりと変え、記述式の回答を7割にしてみた。採点に時間がかかって後悔したことであった。予想通り不可の比率が例年よりも高くなってしまったが、試験の採点をしなければならない頃になると忙しくなったので、評価基準の再考はせずにおいた。4割強が不可となったのかも知れない(忙しいので計算していない)。
 一人目は突然に来て、「あのう、実験に5回も参加しているんですけど」と言う。文脈が読めなかったのだが、メールをしてきた学生かと聞くと違うという。「試験で不可になっていたんですけど」と言うのでやっと用向きが分かった。 仕事中であったが(すっかり人間が丸くなったこともあり、突然に来て、用向きが言えないのはどういう了見か!とは言わずに)本人の試験の答案と110点の学生の答案見せてあげたら、「分かりました」と帰って行った。あっけない感じがした。高校と違って先生は職員室にいつもいるわけではないし、アポイントメントをとるものだと説教しなかったのを悔いていたので、2人目には丁寧に説明をした。この学生はメールでアポイントメントを取って来た学生で、先の学生よりも賢そうであった(医学科であった)。この学生にも本人の試験の答案と110点の学生の答案見せたら、納得できましたという。そこで、今年の問題の特徴と回答の仕方を説明し、自分で考えること、論理的な文書を書くこと、教授する側の意図を正確につかむことの重要性を説明した。受験で点数がとれても大学での成績は直結しないことや、将来社会人として働くときに有効な能力を学部の間に磨くように20分ほどかけて説明した。この学生は理解した様子で、「お忙しいのに時間を割いて頂いて有り難うございました」と礼儀正しく挨拶をして帰って行った。地頭(ジアタマ)のよい学生は理解も早い。5点ばかり加点できないこともない答案であったが彼女が大学での学習を舐めなくてすむようにと、教育的配慮から加点しなかった。「教えれば分かる」のである。
 「教えねばならない」と思った別な件は、僕のところの院生である。科研費が若干余ったので、好きなものを買うように言って、書類を作成してもらってくるように指示した(これくらいは、科研費の目的外使用には当たらないはずです)。「何でもよいのですか?」というので、何でも好きなものを買ってよいと言ったのだが、3人で生協に行った彼女らの買い物は、文具を1点ずつであり、3ページの伝票が出来上がっていた。品目を見ると、コーヒーやチィッシュなどが入っている。字義通り自分たちが欲しいものを買ったのである。科研費であれば、買えないカテゴリーがあることを知らなかったようである。自明のことで理解しているはずと思ったのが間違いであった(僕にも非があるんで現金で支払った)。何事も教えておかねばいけないのである。
 もっとも、学生だけに「教えなければいけないのだ」と感じている訳ではない。先月の教授会は6時間以上もかかった。学位審査結果の報告が長引いたのである。各専攻で審査した結果を教授会で説明し投票し、過半数で学位は認定される仕組みとなっている。前もって研究科長から数が多いので3分以内の説明にせよ、という指示があり、各指導教員の説明はなべて短かった。しかし、一般の構成員からの質問が次々とあり時間がかかったのである。質問は同じ人からであり、そんなことは専攻レベルの審査会で聞いておけよ、と言いたくなるものであった。見ていると、成績の良い生徒が質問をして(得意気というと言い過ぎか)いる雰囲気であった。長引く教授会でお蔭ですっかり身体が冷えてしまい、僕はその夜から下痢に悩まされる羽目になった。空気を読むのですよ、と教えなければいけないのだ。
 「何でも教えなければいけない」ような学生と先生が増えたということかな。

子どもを育てよう

 先週末に正月に帰省しなかった次男が年度末で家に戻り、仙台から岐阜県に転居する準備の合間をぬって長男も帰ってきたので、久しぶりに家族4人が勢揃いすることとなった。長男が来週に結婚するので、2日間はまさに僕が家内と築いてきた家庭での、家族全員による最後の時間であり晩餐となった。
 4人での食事(肉を食べていないという次男のリクエストでステーキを食べた。最近はステーキを敬遠している僕も相伴した)では、ワインが2本、缶ビールが6~8本に続いて、秘蔵のスコッチを飲みつつ食事は4時間近く続いた。  安い発泡酒(スーパーで女子大生の売り子が気の毒そうに見え、くじ引きもついていたので、つい買ってしまった代物である。もちろん籤ははずれであった)を先に飲ませようと謀ったが、子どもらも30歳にもなると、うまいビール、高い酒をしっかり意識して選ぶようになっており、発泡酒は未だ残ったままである。
 話題はたわいもないことが多く、何を話していたのかも定かではないが、こういう時間がもてることが幸せというのかも知れないと感じていた。
 長男はともかく僕が怖かったという。全く記憶にないのだが、悪さをした長男を抱きかかえて(というのだから、幼稚園の頃かも)橋の上から川に投げられそうになったという。幼児期はサルと同様の知能レベルかも知れないので、こういう恐怖による条件付けも有効だったらしい。
 次男は要領が良かったのか、あまり叱ることは少なかったように思う。長男と僕や家内との関係を観察学習し、上手く振る舞ったようである。宿題をだらだらやっている長男を叱っていると、近くにいた次男は文字も読めないくせに絵本を逆さまに持って勉強しているまねをしていた。観察学習だ!と実感したことは別にもある。僕がトイレで新聞を読む(悪いマナーであるのだが、辞められない)のをいつ見ていたのか、幼稚園にも行かない年齢の長男が便器に腰掛けて新聞を持っているのを見て愕然としたのを覚えている。親の行動様式を真似るのである。バンデューラのモデリングの理論はその通りだと納得した。 その頃から、意識してなるべく子どもには僕が書斎で仕事をする姿を見させるように意図したのだが、真似をして熱心に机に向かい勉強するようにはいかなかった。意図通りにはいかなかったが、2人ともともかく大学に入り大学院に進むようになったのは、モデリングの効果が少しはあるのかも知れない。
 子供が生まれて、あっという間の30年であったが、長男は社会心理学の研究者の道を歩むようになったことや次男は医学の道に進むようになったのは、人間を対象にする仕事は楽しく、生き甲斐があると自認している僕にとっては嬉しいことである。上手く子育てができたといっても良いのかも知れないので、僕の育児の原則を披瀝しておこう。若い読者に参考になるかも知れないからである。
 僕は、自分の親がしていたように子どもを育てようと何時からか考えるようになっていた。親にしてもらったように子どもにしてあげる、という簡単な原則でやって来たつもりである。
 最近になると、今年は何本論文を書くぞ!などと意気込んでいた頃もあったのに自分の研究もたいしたことはない、どうせ20年もすれば消え去るだけであると思えるようになった。自分の研究も、自分が関わった教え子もたいしたことはないかも知れないが、次の世代、その次の世代にすばらしい人材が生まれる可能性を残せたのかも知れないと肯定的に考えるようにしている。
 子育ては大変だと最近は子どもをわざと作らない、なるべく生まないようにして自分たちの生活を楽しみたいという傾向が強いと聞くが、成人した子どもと酒を酌み交わせる幸福感や子育てが終わりを告げることの安堵感は子どもを育てないと味わえない。
 今日の結論は、昨日の参議院の国会での論戦の影響を受けてではありませんが、読者諸君は子どもを産みなさいということであります。

戦略の重要さ(1/31)

 以前に今日の大学院問題と題して、これからの大学院はカリキュラムを改革せねばならないという趣旨をこのコラムに書きました。院生は研究者以外の仕事にも目を向けよ、などと述べた。これらの重要さを否定するつもりはないのですが、大学院に進学する人の多くが今でも研究者を志向しているのは変わりがない様子なので、それならばと、一つの戦略を教授しようというのが今回の記事の趣旨であります(最近、戦略が成功した例が加わったので、強気なのであります)。もっとも昨年あたりから大学院への進学(とくに博士課程)希望者は減少傾向が顕著で(このことは私の所属する研究科に限っての現象ではなさそう)あり、昨今の大学院(カリキュラムなど旧態然としたままの)の肥大化の実情が若い人々にも推察(実感)できるようになってきた証左かもしれません。博士課程への進学者が減少の一途をたどるようなことでは我国の将来、ひいては世界の将来にマイナスであることは自明ですから、優れた人材は何とか将来の教育者、研究者に育ってもらわねばなりません。将来にマイナスであることは自明であるといっても(自分のことにしか関心を持たなくなっている昨今の若者には)、ピンと来ない人がいるかも知れませんが(と自動的に考えてしまうところがもう老人なのです)、教育者に優れた人材が入ってこなくなった社会に明るい将来はないのです。優れた人材はその職場が魅力あるものでなければ集まりません。日本が貧しかった1950年代までは小学校や中学校の先生、医師、国鉄、電電公社、官庁などに優れた人材が集まっていたために(選択肢がなかっただけですが)、その後の日本の急激な発展があったと考えられます。ミスの多いJRや問題の多い学校の先生、医者にまつわるトラブルは起きにくかった理由であると思うのです。経済の発展によって古い時代に魅力のあった職業よりも魅力のある企業が生まれ、優れた人材はそちらに移行してしまったのが、昨今の我が国の社会問題の根幹にある、と思ったりしますが、話が長くなるので、省略。
 結論だけ言えば、教育に関連する職場は高い賃金や自由闊達に過ごせる時間、環境が保証されねばなりません。そうすれば優秀な人材は企業よりも研究者を目指すからです。法人化して大学職員の給与を下げるなどということはもっての外であり、差し当たり給与を1.5倍ぐらいにはすべきということです(お酒を飲み過ぎて書いているわけではありません。念のため)。名大も来年度以降に運営交付金が減るので、職員の賃金を削減せねばならないかもという議論が密かにあるやに聞きますが、とんでもない話で、くれるのが少なければ稼ぐ道を考えようではないかと、いうのが執行部の役割の常識だと思いますが、これも話が長くなるので、省略。
 さて、戦略とは何か早く教えろと言うつっこみが聞こえますので説明しましょう。「採用する側が何を望むか」を考慮に入れた院生生活を送るべしというのが結論です。ここ数年、院生が全員参加するゼミに出て気づくのは、①自分の研究を他者に聞いて欲しい、関心を持って欲しいと思っていないらしい(少なくともそういう気持ちが聴衆に伝わらない、②自分以外の発表に関心を示さない(極端な場合は出席しない)、③論文を書こうとする気配がない、などであります。①は、自分のやっていることを他者(素人)に伝えるknow・howが育たないことにつながり、突然に就職面接を受けるような事態になったときに対応できないのです。②は大部分の教育・研究職の職場は教育が主体であり、評価の高い学術誌に論文を次々書けば事足りるというような職場は日本には一桁もないことを知る必要があります。自分の専門分野以外の知識、それも先端部分に違いない他の研究にまつわる知識を持たないような人は求められないことを自覚せねばなりません。広い範囲の知識があり、どのような科目でも教えられる能力を持つ人が採用側の求めるところと考えるべきです。③は言うまでもないことですが、学位は早めに取得し求人を待つ態勢でいることが肝心なのです。  
 今月に入って2名の院生が大学に常勤として就職できることになりそうですが、求人側の話はたいていの場合に突然なのです。2名とも数週間前に突然話が舞い込んだのですが、それらに対応できる態勢があったために話はうまく行くことになったのです。相手の出方を予測して備えているのは重要な戦略です。つまり、求人先が欲しがる分野(たいていは、未発達で未整備)にそれなりの業績を持って(あるいは関心があることを立証できる証拠があって)、学位を取って(すぐとれる態勢で)いることが重要です。院生はたいていが若いので、取り組み始めたテーマに魅惑されるのは解りますが、その魅惑に溺れ過ぎてはいけません。極論すれば心理学のトピックスはせいぜい10年程度しか持ちません。一般に心理学の研究者は、今面白くてたまらないというテーマでも数年すれば、次のテーマに移ることを余儀なくされます(とどまって、化石となる人もいますけどネ)。自分が学位を取れる頃に求められる領域はどういうものかを読んで、業績を平行して蓄積する戦略を考えるべきであります(どういう領域がよいのですかに答えるのは難しいのですが)。
 まだまだ、言いたいことはありますが、酔いが回ってきたので続きはまた別の機会に。

年の瀬に(12/26)

 今年は京都女子大の集中講義を年末に入れたことで、20日の夜遅くに高槻に戻って(整形外科の忘年会に招かれて大変おいしいアンコウ鍋をご馳走になったためである。名古屋にも飛切り美味いものがあるのだ!)25日の日曜まで5日も連続して自宅にいることになった。21日の京都女子大では来年度から北尾先生の後任で着任する御領先輩が来学されており、一緒に帰ることとなった。定年1年前には自覚がないがストレスは強いらしく、うつ的になったり下痢としたりするとのことであった。僕も用心せねばならない(数年後、コラムなど書けなくなるかも知れない)。
 21日までは香港帰りの残務もあり、前回に書いた筏津さんの追悼会があったりで、フル回転していたので5日の自宅滞在は急ブレーキがかかったような感じである。定年後の時間の過ごし方を北尾先生と長々と論じた後でもあり、ずっとテレビの前にかじりつくのも如何なものかと、年賀状を買いにいったりしたが書く気にもなれず、結局久しぶりに机に向かって読書をすることとなった。   
 読んだのは、藤沢周平のごく初期のエッセイ集「昭和56年初版の周平独言」である。例のごとく味わって読むのではないのだが、「大石内蔵助の真意」、「3人の予言者」は味わい深かった。後者は清河八郎、石原莞爾、大川周明のことで、いずれもカリスマ性の高い人物で庄内人の気質を共通項に見いだせるというものである(どういう人物かはネットで調べて勉強してください)。この本は近々永田鉄山の本を書くと言っていた川田稔教授に進呈することにしている。
 「現代心理学の歴史:シュルツ著、倍風館刊」も半分まで読んだ。これは、19日の学部演習の際に精神物理学の紹介をしようとして、部屋に教科書を探しにわざわざ戻ったのだが、ウェーバー・フェヒナーの法則が記載されている本は最近の教科書にはないことを発見し(数年前に出版された心理学研究法の本にもないとはどういうことだ!)、学生にコピーを持ってくると言った手前資料を探さねばと、数少ない蔵書から探しだしたものである。もちろん、この本には丁寧に記載がある。ウェーバーやフェヒナーに至るまでのデカルトからの記載がある。実に面白い(以前に一度読んだ形跡があるが、新たな深い理解ができたように思う)。再読すると新たな面白みがあることに気づいたので、先日亡くなった南博著の「日本人論:岩波書店1994年刊」も読み始めた。これも実に面白い。国語学者らの日本人の性格を日本語の特性から論じている大正時代の著述の紹介に、日本語表記処理の認知心理学の端緒が見出せることに驚いた。
 今月初めに香港に行ったのは、漢字認知の心理学に関する国際学会(2~3年おきにアジア諸国で、回り持ちで開催しているもので、10年前に名古屋で開催した)である。僕は国際委員ということなので、言語機能処理の性ホルモンの影響をしゃべったのだが、今度は南博の本の原典を探して日本語表記に認知については日本では大正時代からやっていたと報告するのも悪くないと思った次第である。学会主催の晩餐会で、台湾のLiu先生と僕が漢字認知のパイオニアワークをしたと褒めてもらったが、事実誤認というか、必ずしも正確ではないようで、大正時代の国語学者こそ、褒められるべきであろう。この学会には、中国の大学の若い先生が急増しているのが強い印象として残った。行われている研究は10年以上遅れている気がしたが、英語でのプレゼンテーションが以前とは格段に進歩している。若い中国の研究者は漢字認知の古典的な研究をよく知っていた。米国への留学生が母国で教鞭をとるようになってきたのだ。日本人の院生諸君の奮闘を願わないではいられないが、昨今の就職難ではモチベーションも揚がらないであろうねえ。
  という具合に、急ブレーキがかかった僕の休日からは、古いものを訪ねることの面白さが発見できた。定年後もこういう楽しみがありそうな気がしてきた。温故知新というやつの重要さである。別に年をとってきたので僕のことをもっと大事にしろという含意をこめての主張ではありません。念のため。

筏津さんを偲ぶ会 (初めての失敗)12/16

 筏津さんが急逝してから1ヶ月が過ぎようとしている。彼を偲ぶ部会を計画し昨夜無事終えることができた。彼と同じ講座の川田教授が音頭を取る形で貝沼教授と私の3人で実質的な実行委員会をつくり、4回ほど集まって環境学研究科の同僚と研究分野が近い他大学の先生に声をかける程度のこじんまりではあったが印象深い偲ぶ会ができた。短い連絡期間、限られたルートしか使わなかったにもかかわらず60名ほどの参加者を数えた。ただ一人の指導院生の中野さんの挨拶は参加者の涙を誘うものであった。心の底から紡がれる言葉は美しく、心に染み入るものがあった。
 筏津さんの両親、妹、奥様が参加下さり、遺影と数日前に届いた勲記、位記を飾って、「花の木」で立食談話会の形式であった。食事の前に彼の経歴や学問業績の紹介をしてもらい、食事後何人かが思い出話をするスケジュールであり、貝沼教授らしい卓越した計画性をうかがわせる進行であった。学問業績はミュンヘンで一緒であったという慶応大の北居教授(この人は滋賀県立虎姫高校の後輩である)が手際よい説明をして下さり、スケールの大きな研究を進めていて評価が高いことが理解できた。筏津さんの誇大妄想ではないことが理解できた。元学部長の田中喜美春教授は筏津さんの研究構想を了解し、格調高い惜別の言葉を述べられた(國文学者は違うと感じた)。
 ほどなく、僕の順番となった、少しお酒を飲んでいたのは事実なのだが、上手く挨拶ができなかった。予定の半分も話せなかった。胸に迫るものが何度か来て、話は支離滅裂となった。最後に「さびしい」と鳴き声で言うことしかできなかった。実行委員長となっていたのに、参会のお礼を言うべきことも失念したし、6月に彼も編集委員であった「人間環境学研究」に追悼号を出すアナウンスも失念した。数日前から頭の中では話の組み合わせを概略作っておいたにもかかわらずである(ちなみに、私は挨拶原稿は基本的に書かないが、これまで大きなヘマをすることはなかった)。
  2週間ほど前に家内から筏津さんが死んで少しは落ち着いたかと聞かれた。「もうだいたい吹っ切れた、仕事に戻れる、香港の学会の準備もあるし」と答えると、家内は「やっぱりね。気持ちの切り替えが早いわ」と皮肉を言われ、「どうせ私が死んでもすぐ吹っ切れるのでしょう。再婚でも何でもしたらいいけど」などと会話はあらぬ方向に展開し、とんだとばっちりを受けた。
 筏津さんが部屋に来なくなって4ヶ月近くになり、気持ちも落ち着いていたはずなのに、筏津さんの人となりを知ってもらえるエピソードは半分も紹介できなかったのですこし書いておこう。僕が紹介したかったのは、如何に彼が少年のような性格であったかと避けられない死に直面したときに示した行動様式の乖離である。
 先月のコラムに書いたが、彼は毎日部屋に1~3度来て喋っていくのである。「自宅は億ションだ、ローンは払い終わった」「世界的に評価される法思想史のパラダイム変換的な本を書いた」「奥さんが自分を選んだ、下宿にお茶漬けを食べに来てもいい、といわれてね」などが繰り返された自慢話の主要なものである。「俺は、庭付き、1戸建てだよ」、「俺の本は1万部売れたものがあるし、新しいのはこれまでに4千部は売れてるよ」、「俺なんか筏津さんより2年も早く学生結婚してるよ」と、からかいつつ相手してやると「そ-か」と気落ちしていたものである。僕の部屋に客が持ってきたお菓子があると必ず2個は食べるのである。「もう一ついいか?へへへ」というのが常であった。
 今から思うと弟が兄に様々なチャレンジをして楽しんでいたように思える(筏津さんの妹さんが帰り際に私に同様の指摘をしておられた)。
 以前家内が一度研究室に来たことがあるのだが、帰る家内を例の如く大きく開けた窓からタバコを吹かしながら、家内に「またね-」と大きく手を振るのである。あとで家内は「50過ぎのおじさんとは思えないね、子どもみたいな人やね」と述懐したものである。その後、筏津さんが部屋に来て、「八田さんの奥さん、若いときは綺麗だったのか?」と真顔で聞いてきた。僕はちょっとむっとした記憶がある。
 こんな稚気あふれた筏津さんであったが、8月以降病気が深刻なもので免れない死、極端に近い死に直面してからは、大人の男であった。気持ちに大きなブレを示すことはなく死を受容した。兄貴分としては、偉かったと言ってあげたい。心から褒めてあげたいと思う。
 という具合に話をするつもりであったのだが、彼と子どもの頃の話をいろいろしたという下りに、両親の座っておられる姿が目に入ってしまい、涙が急に出て、あとは支離滅裂のていたらくであった。
 数週間前に家内に言った言葉は撤回し、「どうやら未だ吹っ切れてはいないようです、もうしばらく友人を亡くした気の毒な夫として労ってもらえると有り難いのですが」と言うことにしよう。

 偲ぶ会を催した12月15日は父の4回目の命日でありました。帰宅して線香の臭いのする仏壇を見て気づいた次第。忘恩の息子であることに反省!

筏津さん Aufwiedersehen (11/10)

 11月8日は通夜、昨日は筏津さんの葬式があった。葬式から帰ると、大学では何事もなかったかのように時間が流れている。忘れないうちに彼のことを記しておく。書いておかないと仕事に戻れそうにもない。

 名古屋大学に来てから最も会話量の多い同僚と言えるのが、すぐ隣の研究室の筏津さんである。7時前後に研究室に来て、一仕事終えた8時半頃から毎朝一緒にコーヒーを飲み、一日が始まり、午後にも1~2回は部屋に来て話をするという関係であった。先にどちらが部屋に来ているかで、勝った、負けたといっていたものである。話題は学内政治から研究のこと、奥さんのこと、院生のことなど様々で、ほとんどは彼がしゃべり、僕は聞き役であった。40歳を過ぎてから学者を始めたというのが口癖で、取り憑かれたように勉強しているようであった。午後部屋に来るときは、今日は何枚原稿を書いた、何ページ読んだ、などを報告するのが常で、通夜で奥さんは、「ヤスヒロさんは褒められるのが好きでしたが、自分では役不足と思っているようで先生に迷惑をかけていたんですね」ということであった。
 1998年に最初の単著「失われた契約理論」を上梓してから自分の研究視野が開けたようで、法律や哲学のことに疎い僕にも盛んに研究のアイデアを聞かせてくれた。ともかく沢山話をした。彼の育ち方や家庭のことなどいろいろ知る機会があった。切りがないので詳細は別の機会に譲るが、彼が死んで寂しくなったことだけは確かである。ここ数ヶ月はコーヒーを彼抜きで飲むたびに、寂しさは募る。

 何故40歳を過ぎてから、奥さんが言うように正月3ケ日も家にいられず研究室に行きたがるほどの研究三昧の生活をするようになったのだろうか?
 日本が貧しかった最後の時期に大学生活を送った、田舎育ちの優等生の真面目さがそうさせたのだと僕には思える。大学生が自分と社会とを視野に入れていた時代精神を持つ彼は、大学の先生はあるいは学者は、こうでなければという理想像を描いて、忸怩たる30歳代の自己との決別を企図したのだと思える。学生運動にも関わったことがあると言っていた彼は、理想とする研究者像に近づくことで、学生運動で人生の表舞台から退場せざるを得なかった仲間への贖罪感を補償しようとしたのではないかなどと思いを馳せたりするのである。自分を中心に置き、社会を視野に入れることを2の次にする彼よりも数年後の世代であれば、もう少し生活を楽しみ、研究生活も楽しんで長生きできたかも知れない。彼は「自分は子どもがいないが、3冊の本を書いたので生きた証は残せたと」述べたことがある。「八田さんはゴミみたいな論文を沢山書くけどなあ。弟子も多いかも知れないけどあんたを抜く奴はいないんだろう」などと憎まれ口を叩くので、通り一遍の相づちしか打たなかった気がするが、もう少し素直に褒めてあげれば良かったと思うことしきりである。

 筏津さんは今年も例年通りミュンヘンに夏休みに行く積もりで、今年は前半に奥さんとビジネスで飛んで5星のホテルで遊んでから大学に行くと言っていた。切符を予約したと例のごとく部屋に来て話している彼の右頚部に腫れを見つけたので、「検査を受けてから行った方がよいぞ、切符のキャンセルは早くしないと手数料が取られるぞ」などと気軽に言ったことで彼は検査を受けに病院に行ったようである。検査を受けたと行ってきた言う彼の右頚部にも腫れが目立ってきていた。
 7月25日の朝に「リンパ腫の疑いだって」と言ってきたので、その場で病理学者の中島泉前副総長と連絡を取って相談するように言った。このとき僕は、彼は手遅れの状態にあるのではないかと直感した。彼は半年位しか持たないのではないかと思った記憶がある。彼の言うことを記録しておかねばと感じてその後は逢うたび発言をメモった。検査の結果を告げに来たのは8月23日の午後である。以下はその写しの一部である。

8/23 午後14時~16時
筏津来室:
・ 人生何があるかわからないものだ。

・ 源発巣が特定できないが、このままでは7ヶ月の余命、化学療法で10ヶ月の余命50%と言われた。

・ ここまでの人間になれたのは、いろいろと賭をして、それに連続して勝って来たことなのだから、負けるときがあってもしようがない。ずっと勝ち続けている人間は、賭に勝ち続けてきているのを忘れているのだ。
・ 日赤の医者はざっくばらんで良いのだが、もう一つ命を預ける気にならない。ゴルフやけをしている。肺ガンの源発巣がわからないという。こんなケースは初めてで1000人に1人だろうというが、名大の先生はそう言うことは2~3%あるといった。
・ 原語の文章を院生が読むのと助教授レベルが読むのでは読み方が違うので、正確な表現ができない日赤での治療は辞めることとした。
・ 免疫療法をやることに気持ちは傾いている。東京で1週間に1回、良くなれば月に1回で済むらしい。化学療法をやっていない方が効果は大きいと言うことだ。
・ 中島泉先生にセカンドオピニオンの依頼をした件で返事が来ているか(メールを)確認に来た。病理の読み違いの確率はゼロでないかも知れない。
・ 源発巣がわからないで化学治療をしてマイナスの影響があるかも知れない。
・ 「奥さんはショックを受けているだろう?」→家内は大変だ。
・ 人間は、いつかは死ぬのだから仕方がない。生まれたときに死ぬことは決まっている。「キュブラーロスの調査では最終的にはすべての人間は死を受容できるようになって死ぬから心配するな」
・ 免疫療法で上手くいけば、定年ぐらいまではいけるだろう。
・ 1年間休職して免疫治療に専念することを考えている。授業に迷惑が掛からないのはどういう方法かを考えている。
・ 汗がよくでる。身体はだるいね。「夏は誰でもそうだ」
・ 「発汗のシステム免疫のシステムと気力の関係を説明する。俺の本を読んでおくべきだったな。意志が免疫機能には効くのだ」
・ タバコと運動は気をつけるようにしている。

 以上のように、彼は癌と闘う気力を示したが10月に入ると「分かった。吸わない」と言っていたタバコを吸うようになった。10月に入ると痛みがひどいと言うようになり、10月14日には「ホスピスに行って来た」と言った。それが彼を話した最後である。10月26日には入院して、11月8日夜に亡くなった。
 彼は、癌が分かってからも何度か話をしたが、弱音を見せることはなかった。もう少し「あかんたれ」かも知れないと思っていた僕には意外でもあった。偉かったよ。

 筏津さんの死去のニュースは僕の旧指導学生にも大きな衝撃を与えたようで、メールや電話が僕のところに何通か寄せられた。彼は僕の部屋に出入りする心理学の院生と話をするのが好きで、直接褒めることの苦手な僕から院生の評価を聞き出しては告げ口していた。「八田さんがだいぶん英語が読めるようになったと言っている。学位論文が書けそうと言っている」などと、ことある毎に励ましていたようである。旧指導学生からの感謝の気持ちを伝えると共に、僕からもお礼を言いたい。

 筏津さんは葬式の話をするとき、「××ちゃん、××ちゃん」と年のかなり離れた女性に泣いてもらっていた先輩の先生の葬式のことを何度も話題にし、そう在りたいもんだなどと言っていた。そういう類と思しき女性は葬式には現れなかったが、心理学の女学生は泣いてくれたのを今度逢ったら教えよう。

 また、逢おう。しかし、もう20年ほど先にしてくれる方が、僕には好都合である。あまり早いと、アンタが気にしてくれた学生がどう育ったかの詳細が報告できないから。
Aufwiedersehen. Herr Professor Doctor Ikadatsu.
                               八田武志

英国の子育て

しばらくコラムを書かなかったのは、英国に出かけて遊んでいたからである。正真正銘の遊びで、2週間一切仕事に関連することはしなかった。当然、年休を取ってのことである〔念のため〕。家内が還暦だ、今まで何もしてもらっていないと騒ぐものだから要望を聞いて、28年ぶりにかつての留学の地Cardiffを再訪した。もっとも、僕は何度も出かけているのだが、家内は28年振りである。ついでにアイルランドにも出かけ、運転手、通訳、ガイドで大変だったのだが、そのことには触れない。僕は帰国後2Kg痩せていたということで、中身は類推出来よう。まあ、たいした諍いもなく帰国できたので、目出度し、目出度しである。とまれ、2人とも元気で還暦を迎えられたことを喜ばなければならない。友人が現在大病を患っているので、楽しい話はあまり書きたくはないが、印象的であった英国での子育てについて書いておく。
 僕が留学していた28年前に院生であった2人が共同でリバプールで暮らしているのを訪問した。共に臨床心理学が専門で一人は大学教授、一人は役人で高い地位にある。50歳である2人は現在5歳の女児を育てているのだ。6ベッドルームの立派な家に91歳になる母親と同居している。その家に2泊したに過ぎないのだが、その折の育児の観察から感じたことを記載しよう。
 一人の娘は人工授精で未知の人間の精子を使って自分で産んだ女児(カーラ)であり、一人の娘は中国人の孤児を養女(ゾイ)としたのである。めろめろになるほど可愛い娘である。英国ではミドルクラスに属する彼女ら(階級意識は昔と変わらず、彼女らだけでなくいろいろな場面で意識させられた)はそれぞれの子どもをかわいがって育てている。したがって、2泊の間に感じた印象はミドルクラスの子育ての特徴とみなしてよいと思う。
 印象に残ったことの第一はことばの教育についてである。幼稚園に通っているゾイちゃんは母親と宿題を20分ほどかけてやって見せた。宿題は5つの子音の発音を動作とともに繰り返すというものである。話し方に氏育ちが現れるというのは、このような幼児期の訓練に起因しているらしい。最近わが国でも国語力の低下が指摘されているが、正しい日本語の発音を教えるという視点は家族にも、教育者の中にもないように思える。
 第2は約束のさせ方についてである。子どもが食事や遊びのときにきちんと座ることなど、姿勢については親はほとんど注意をしなかった。ただ、遊んで食事に集中できない子どもに親が食べ物を口に運ぶ際に、契約という発想の一端を感じた。「これを食べるのね?」「食べるといったのは間違いないのね?」という類の問いかけを盛んに送り、[yes]の答えを発するまで食べさせないのである。日本であれば、このような契約的な発言はせず、子どもが途中で食べることを放棄しても、「残して、しょうがないわね」と親が食べるというようなことだが、彼女らはそのようなことはしないのである。約束をさせ、それを実行するという契約行為を幼児期から繰り返すのだなあと感じた次第である。グローバル化が進む日本では契約社会などと五月蠅いことだが、欧米では幼児期から契約という概念が染みこんでいくのだろう。
 2人の親は子どもと同じ部屋でベッドを並べて寝ていることに、罪悪感をもっていたようである。幼児教育の専門家は独立心を養うために幼児期から別の部屋で寝させるべきと主張し、そうするのが英国では普通である。28年前に住んでいた家にも子ども部屋があり、外から鍵が掛かるようになっていたのを覚えている。ゾイちゃんは中国からもらわれてきた当時一人では情緒が安定せず眠らなかったようで、仕方なく同じ部屋でベッドを並べて寝ている、いけないと言われているんだけどということであった。日本では親と子どもが幼児期は添い寝をするのが普通でとくに問題はない、と言うと2人ともこちらの予想以上に喜んでいた。幼児教育の専門家にも伝えると言うことであった。アタッチメントの形成には必要なことだ、僕など小学6年まで母親と同じ布団で寝ていたもんだ、と調子に乗って付け加えた。言ってしまった後では、ちょっと恥ずかしい気持ちではありました。
 亡くなって久しい母親をつかの間、思い起こしたことでありました。

Minot学会参加記

 5年ごとに開催されているInternational Behavioral Development Symposium に参加してきた。アメリカのNorth Dakota州のMinotという人口3.5万の小さな町の大学で開催された。ずっと快晴で、涼しい快適な気候であった。日本では38度ということであったので、暑い中で仕事をしている人には申し訳ない気持ちである。
僕は5年前に参加したので2度目である。90名ほどの参加で40題の発表が行われる。日本からは今度も僕だけであった。Miyamotoという〔性転換した〕女性がいたが、1世であるという割には、(宮本を漢字で書けたが)日本語はほとんど出来なかった。7時半に大学の食堂で朝食、9時開始、6時終了で1時ごろランチ、7時半からディナーというスケジュールが4日間続いた。4日間も同じ釜の飯を食うわけなので参加者と会話することが多く、意義多い学会である。心理学者はかなり参加しているが、性差をやっている人が多く、認知と性差は3題で、そのうちの1題はねずみである。ねずみでもworking memoryという用語を使うらしいことを知った。
 基本的には生物学者が多く、性ホルモンとシナップスの話なども含まれたが、多くは、性差は脳が決めるとする主張の研究発表が(sex difference is coming from brain)、(sex lies between ears, but not between legs)基本である。日本のジェンダー学者が聞いたら卒倒しそうな研究ばかりである(ハワイの研究者は最近、朝日と毎日新聞からインタビューを受けたが、日本ではジェンダーフリー教育を進めるらしい、ばかげている、ということでした。私が言っているのではありません、フェミニスト様)。
 Sexual orientationはホルモンが決める、同性愛は周産期の性ホルモンにより作られる、という趣旨が発表のほとんどである。したがって、メスのねずみに性ホルモンを投与すればオスのような行動をするとか、周産期の男性ホルモンが骨の形成期に及ぼす影響を人差し指と薬指の骨の長さの比で推定できる、とかいう発表が多く見られた(ゲイは女性と同じように男子よりも比が小さい数値になるらしい。日本人のデータはまだないということであった)。
 カナダの若い女性はゲイ、レスビアン、ヘテロの実験群のペニスの反応やワギナの血管収縮を測定して性的興奮が云々なんていう発表をしていたり、オーガズムの長さや頻度が云々などという発表をするアメリカの若い女性もいた。とても日本では出来そうにない実験研究である。
 僕は言語機能の性差、女子の優位性は、閉経後は消滅する。女性ホルモンの影響だろう言う発表をしたのだが、何人かからこんなこと調べたらとか共同研究のアイデアを送るという人がいて刺激的であった。発表では、冒頭の「現在日本では真夜中でして、途中で寝てしまうかもしれませんが、そのときは地震、津波と叫んでくれれば起きますから」は受けたが、仕込んだネタの成功率は5割にとどまった。まだまだプレゼンテーション能力は未熟でだめである。
 最近の日本の学会ではじっくり話すことも少なくなり、刺激を受けるような発表もない。もう年寄りなのだから学会で発表は遠慮すべきかもしれないなどと思っていたが、今回のような学会では、まだまだ現役で居たいものである。海外では高齢の研究者はいっぱいいる。
 飛行機でのトラブルはあったけれども、着いてからの時間は快適だった。悪いことばかりは続かないということでしょう。

閑話休題
発表の中でmannerismという語が何度も出てくる発表があって、代わり映えのしない性行動と考えるとどうも話がつながらない。医学辞書を引いたら、奇妙なしぐさ(ゲイの人がするような特有の仕草)のことであることを知った。広辞苑を引くと、確かにマンネリズムは芸術の分野で限定して使う語で、いつも同じの、代わり映えのしない意味であった。これまで知らなかった。新たに購入して持参した電子辞書のおかげである。持ってくるかどうか迷ったが、持ってきた値打ちがあったというものである。