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年の瀬に(12/26)

 今年は京都女子大の集中講義を年末に入れたことで、20日の夜遅くに高槻に戻って(整形外科の忘年会に招かれて大変おいしいアンコウ鍋をご馳走になったためである。名古屋にも飛切り美味いものがあるのだ!)25日の日曜まで5日も連続して自宅にいることになった。21日の京都女子大では来年度から北尾先生の後任で着任する御領先輩が来学されており、一緒に帰ることとなった。定年1年前には自覚がないがストレスは強いらしく、うつ的になったり下痢としたりするとのことであった。僕も用心せねばならない(数年後、コラムなど書けなくなるかも知れない)。
 21日までは香港帰りの残務もあり、前回に書いた筏津さんの追悼会があったりで、フル回転していたので5日の自宅滞在は急ブレーキがかかったような感じである。定年後の時間の過ごし方を北尾先生と長々と論じた後でもあり、ずっとテレビの前にかじりつくのも如何なものかと、年賀状を買いにいったりしたが書く気にもなれず、結局久しぶりに机に向かって読書をすることとなった。   
 読んだのは、藤沢周平のごく初期のエッセイ集「昭和56年初版の周平独言」である。例のごとく味わって読むのではないのだが、「大石内蔵助の真意」、「3人の予言者」は味わい深かった。後者は清河八郎、石原莞爾、大川周明のことで、いずれもカリスマ性の高い人物で庄内人の気質を共通項に見いだせるというものである(どういう人物かはネットで調べて勉強してください)。この本は近々永田鉄山の本を書くと言っていた川田稔教授に進呈することにしている。
 「現代心理学の歴史:シュルツ著、倍風館刊」も半分まで読んだ。これは、19日の学部演習の際に精神物理学の紹介をしようとして、部屋に教科書を探しにわざわざ戻ったのだが、ウェーバー・フェヒナーの法則が記載されている本は最近の教科書にはないことを発見し(数年前に出版された心理学研究法の本にもないとはどういうことだ!)、学生にコピーを持ってくると言った手前資料を探さねばと、数少ない蔵書から探しだしたものである。もちろん、この本には丁寧に記載がある。ウェーバーやフェヒナーに至るまでのデカルトからの記載がある。実に面白い(以前に一度読んだ形跡があるが、新たな深い理解ができたように思う)。再読すると新たな面白みがあることに気づいたので、先日亡くなった南博著の「日本人論:岩波書店1994年刊」も読み始めた。これも実に面白い。国語学者らの日本人の性格を日本語の特性から論じている大正時代の著述の紹介に、日本語表記処理の認知心理学の端緒が見出せることに驚いた。
 今月初めに香港に行ったのは、漢字認知の心理学に関する国際学会(2~3年おきにアジア諸国で、回り持ちで開催しているもので、10年前に名古屋で開催した)である。僕は国際委員ということなので、言語機能処理の性ホルモンの影響をしゃべったのだが、今度は南博の本の原典を探して日本語表記に認知については日本では大正時代からやっていたと報告するのも悪くないと思った次第である。学会主催の晩餐会で、台湾のLiu先生と僕が漢字認知のパイオニアワークをしたと褒めてもらったが、事実誤認というか、必ずしも正確ではないようで、大正時代の国語学者こそ、褒められるべきであろう。この学会には、中国の大学の若い先生が急増しているのが強い印象として残った。行われている研究は10年以上遅れている気がしたが、英語でのプレゼンテーションが以前とは格段に進歩している。若い中国の研究者は漢字認知の古典的な研究をよく知っていた。米国への留学生が母国で教鞭をとるようになってきたのだ。日本人の院生諸君の奮闘を願わないではいられないが、昨今の就職難ではモチベーションも揚がらないであろうねえ。
  という具合に、急ブレーキがかかった僕の休日からは、古いものを訪ねることの面白さが発見できた。定年後もこういう楽しみがありそうな気がしてきた。温故知新というやつの重要さである。別に年をとってきたので僕のことをもっと大事にしろという含意をこめての主張ではありません。念のため。

筏津さんを偲ぶ会 (初めての失敗)12/16

 筏津さんが急逝してから1ヶ月が過ぎようとしている。彼を偲ぶ部会を計画し昨夜無事終えることができた。彼と同じ講座の川田教授が音頭を取る形で貝沼教授と私の3人で実質的な実行委員会をつくり、4回ほど集まって環境学研究科の同僚と研究分野が近い他大学の先生に声をかける程度のこじんまりではあったが印象深い偲ぶ会ができた。短い連絡期間、限られたルートしか使わなかったにもかかわらず60名ほどの参加者を数えた。ただ一人の指導院生の中野さんの挨拶は参加者の涙を誘うものであった。心の底から紡がれる言葉は美しく、心に染み入るものがあった。
 筏津さんの両親、妹、奥様が参加下さり、遺影と数日前に届いた勲記、位記を飾って、「花の木」で立食談話会の形式であった。食事の前に彼の経歴や学問業績の紹介をしてもらい、食事後何人かが思い出話をするスケジュールであり、貝沼教授らしい卓越した計画性をうかがわせる進行であった。学問業績はミュンヘンで一緒であったという慶応大の北居教授(この人は滋賀県立虎姫高校の後輩である)が手際よい説明をして下さり、スケールの大きな研究を進めていて評価が高いことが理解できた。筏津さんの誇大妄想ではないことが理解できた。元学部長の田中喜美春教授は筏津さんの研究構想を了解し、格調高い惜別の言葉を述べられた(國文学者は違うと感じた)。
 ほどなく、僕の順番となった、少しお酒を飲んでいたのは事実なのだが、上手く挨拶ができなかった。予定の半分も話せなかった。胸に迫るものが何度か来て、話は支離滅裂となった。最後に「さびしい」と鳴き声で言うことしかできなかった。実行委員長となっていたのに、参会のお礼を言うべきことも失念したし、6月に彼も編集委員であった「人間環境学研究」に追悼号を出すアナウンスも失念した。数日前から頭の中では話の組み合わせを概略作っておいたにもかかわらずである(ちなみに、私は挨拶原稿は基本的に書かないが、これまで大きなヘマをすることはなかった)。
  2週間ほど前に家内から筏津さんが死んで少しは落ち着いたかと聞かれた。「もうだいたい吹っ切れた、仕事に戻れる、香港の学会の準備もあるし」と答えると、家内は「やっぱりね。気持ちの切り替えが早いわ」と皮肉を言われ、「どうせ私が死んでもすぐ吹っ切れるのでしょう。再婚でも何でもしたらいいけど」などと会話はあらぬ方向に展開し、とんだとばっちりを受けた。
 筏津さんが部屋に来なくなって4ヶ月近くになり、気持ちも落ち着いていたはずなのに、筏津さんの人となりを知ってもらえるエピソードは半分も紹介できなかったのですこし書いておこう。僕が紹介したかったのは、如何に彼が少年のような性格であったかと避けられない死に直面したときに示した行動様式の乖離である。
 先月のコラムに書いたが、彼は毎日部屋に1~3度来て喋っていくのである。「自宅は億ションだ、ローンは払い終わった」「世界的に評価される法思想史のパラダイム変換的な本を書いた」「奥さんが自分を選んだ、下宿にお茶漬けを食べに来てもいい、といわれてね」などが繰り返された自慢話の主要なものである。「俺は、庭付き、1戸建てだよ」、「俺の本は1万部売れたものがあるし、新しいのはこれまでに4千部は売れてるよ」、「俺なんか筏津さんより2年も早く学生結婚してるよ」と、からかいつつ相手してやると「そ-か」と気落ちしていたものである。僕の部屋に客が持ってきたお菓子があると必ず2個は食べるのである。「もう一ついいか?へへへ」というのが常であった。
 今から思うと弟が兄に様々なチャレンジをして楽しんでいたように思える(筏津さんの妹さんが帰り際に私に同様の指摘をしておられた)。
 以前家内が一度研究室に来たことがあるのだが、帰る家内を例の如く大きく開けた窓からタバコを吹かしながら、家内に「またね-」と大きく手を振るのである。あとで家内は「50過ぎのおじさんとは思えないね、子どもみたいな人やね」と述懐したものである。その後、筏津さんが部屋に来て、「八田さんの奥さん、若いときは綺麗だったのか?」と真顔で聞いてきた。僕はちょっとむっとした記憶がある。
 こんな稚気あふれた筏津さんであったが、8月以降病気が深刻なもので免れない死、極端に近い死に直面してからは、大人の男であった。気持ちに大きなブレを示すことはなく死を受容した。兄貴分としては、偉かったと言ってあげたい。心から褒めてあげたいと思う。
 という具合に話をするつもりであったのだが、彼と子どもの頃の話をいろいろしたという下りに、両親の座っておられる姿が目に入ってしまい、涙が急に出て、あとは支離滅裂のていたらくであった。
 数週間前に家内に言った言葉は撤回し、「どうやら未だ吹っ切れてはいないようです、もうしばらく友人を亡くした気の毒な夫として労ってもらえると有り難いのですが」と言うことにしよう。

 偲ぶ会を催した12月15日は父の4回目の命日でありました。帰宅して線香の臭いのする仏壇を見て気づいた次第。忘恩の息子であることに反省!

筏津さん Aufwiedersehen (11/10)

 11月8日は通夜、昨日は筏津さんの葬式があった。葬式から帰ると、大学では何事もなかったかのように時間が流れている。忘れないうちに彼のことを記しておく。書いておかないと仕事に戻れそうにもない。

 名古屋大学に来てから最も会話量の多い同僚と言えるのが、すぐ隣の研究室の筏津さんである。7時前後に研究室に来て、一仕事終えた8時半頃から毎朝一緒にコーヒーを飲み、一日が始まり、午後にも1~2回は部屋に来て話をするという関係であった。先にどちらが部屋に来ているかで、勝った、負けたといっていたものである。話題は学内政治から研究のこと、奥さんのこと、院生のことなど様々で、ほとんどは彼がしゃべり、僕は聞き役であった。40歳を過ぎてから学者を始めたというのが口癖で、取り憑かれたように勉強しているようであった。午後部屋に来るときは、今日は何枚原稿を書いた、何ページ読んだ、などを報告するのが常で、通夜で奥さんは、「ヤスヒロさんは褒められるのが好きでしたが、自分では役不足と思っているようで先生に迷惑をかけていたんですね」ということであった。
 1998年に最初の単著「失われた契約理論」を上梓してから自分の研究視野が開けたようで、法律や哲学のことに疎い僕にも盛んに研究のアイデアを聞かせてくれた。ともかく沢山話をした。彼の育ち方や家庭のことなどいろいろ知る機会があった。切りがないので詳細は別の機会に譲るが、彼が死んで寂しくなったことだけは確かである。ここ数ヶ月はコーヒーを彼抜きで飲むたびに、寂しさは募る。

 何故40歳を過ぎてから、奥さんが言うように正月3ケ日も家にいられず研究室に行きたがるほどの研究三昧の生活をするようになったのだろうか?
 日本が貧しかった最後の時期に大学生活を送った、田舎育ちの優等生の真面目さがそうさせたのだと僕には思える。大学生が自分と社会とを視野に入れていた時代精神を持つ彼は、大学の先生はあるいは学者は、こうでなければという理想像を描いて、忸怩たる30歳代の自己との決別を企図したのだと思える。学生運動にも関わったことがあると言っていた彼は、理想とする研究者像に近づくことで、学生運動で人生の表舞台から退場せざるを得なかった仲間への贖罪感を補償しようとしたのではないかなどと思いを馳せたりするのである。自分を中心に置き、社会を視野に入れることを2の次にする彼よりも数年後の世代であれば、もう少し生活を楽しみ、研究生活も楽しんで長生きできたかも知れない。彼は「自分は子どもがいないが、3冊の本を書いたので生きた証は残せたと」述べたことがある。「八田さんはゴミみたいな論文を沢山書くけどなあ。弟子も多いかも知れないけどあんたを抜く奴はいないんだろう」などと憎まれ口を叩くので、通り一遍の相づちしか打たなかった気がするが、もう少し素直に褒めてあげれば良かったと思うことしきりである。

 筏津さんは今年も例年通りミュンヘンに夏休みに行く積もりで、今年は前半に奥さんとビジネスで飛んで5星のホテルで遊んでから大学に行くと言っていた。切符を予約したと例のごとく部屋に来て話している彼の右頚部に腫れを見つけたので、「検査を受けてから行った方がよいぞ、切符のキャンセルは早くしないと手数料が取られるぞ」などと気軽に言ったことで彼は検査を受けに病院に行ったようである。検査を受けたと行ってきた言う彼の右頚部にも腫れが目立ってきていた。
 7月25日の朝に「リンパ腫の疑いだって」と言ってきたので、その場で病理学者の中島泉前副総長と連絡を取って相談するように言った。このとき僕は、彼は手遅れの状態にあるのではないかと直感した。彼は半年位しか持たないのではないかと思った記憶がある。彼の言うことを記録しておかねばと感じてその後は逢うたび発言をメモった。検査の結果を告げに来たのは8月23日の午後である。以下はその写しの一部である。

8/23 午後14時~16時
筏津来室:
・ 人生何があるかわからないものだ。

・ 源発巣が特定できないが、このままでは7ヶ月の余命、化学療法で10ヶ月の余命50%と言われた。

・ ここまでの人間になれたのは、いろいろと賭をして、それに連続して勝って来たことなのだから、負けるときがあってもしようがない。ずっと勝ち続けている人間は、賭に勝ち続けてきているのを忘れているのだ。
・ 日赤の医者はざっくばらんで良いのだが、もう一つ命を預ける気にならない。ゴルフやけをしている。肺ガンの源発巣がわからないという。こんなケースは初めてで1000人に1人だろうというが、名大の先生はそう言うことは2~3%あるといった。
・ 原語の文章を院生が読むのと助教授レベルが読むのでは読み方が違うので、正確な表現ができない日赤での治療は辞めることとした。
・ 免疫療法をやることに気持ちは傾いている。東京で1週間に1回、良くなれば月に1回で済むらしい。化学療法をやっていない方が効果は大きいと言うことだ。
・ 中島泉先生にセカンドオピニオンの依頼をした件で返事が来ているか(メールを)確認に来た。病理の読み違いの確率はゼロでないかも知れない。
・ 源発巣がわからないで化学治療をしてマイナスの影響があるかも知れない。
・ 「奥さんはショックを受けているだろう?」→家内は大変だ。
・ 人間は、いつかは死ぬのだから仕方がない。生まれたときに死ぬことは決まっている。「キュブラーロスの調査では最終的にはすべての人間は死を受容できるようになって死ぬから心配するな」
・ 免疫療法で上手くいけば、定年ぐらいまではいけるだろう。
・ 1年間休職して免疫治療に専念することを考えている。授業に迷惑が掛からないのはどういう方法かを考えている。
・ 汗がよくでる。身体はだるいね。「夏は誰でもそうだ」
・ 「発汗のシステム免疫のシステムと気力の関係を説明する。俺の本を読んでおくべきだったな。意志が免疫機能には効くのだ」
・ タバコと運動は気をつけるようにしている。

 以上のように、彼は癌と闘う気力を示したが10月に入ると「分かった。吸わない」と言っていたタバコを吸うようになった。10月に入ると痛みがひどいと言うようになり、10月14日には「ホスピスに行って来た」と言った。それが彼を話した最後である。10月26日には入院して、11月8日夜に亡くなった。
 彼は、癌が分かってからも何度か話をしたが、弱音を見せることはなかった。もう少し「あかんたれ」かも知れないと思っていた僕には意外でもあった。偉かったよ。

 筏津さんの死去のニュースは僕の旧指導学生にも大きな衝撃を与えたようで、メールや電話が僕のところに何通か寄せられた。彼は僕の部屋に出入りする心理学の院生と話をするのが好きで、直接褒めることの苦手な僕から院生の評価を聞き出しては告げ口していた。「八田さんがだいぶん英語が読めるようになったと言っている。学位論文が書けそうと言っている」などと、ことある毎に励ましていたようである。旧指導学生からの感謝の気持ちを伝えると共に、僕からもお礼を言いたい。

 筏津さんは葬式の話をするとき、「××ちゃん、××ちゃん」と年のかなり離れた女性に泣いてもらっていた先輩の先生の葬式のことを何度も話題にし、そう在りたいもんだなどと言っていた。そういう類と思しき女性は葬式には現れなかったが、心理学の女学生は泣いてくれたのを今度逢ったら教えよう。

 また、逢おう。しかし、もう20年ほど先にしてくれる方が、僕には好都合である。あまり早いと、アンタが気にしてくれた学生がどう育ったかの詳細が報告できないから。
Aufwiedersehen. Herr Professor Doctor Ikadatsu.
                               八田武志

英国の子育て

しばらくコラムを書かなかったのは、英国に出かけて遊んでいたからである。正真正銘の遊びで、2週間一切仕事に関連することはしなかった。当然、年休を取ってのことである〔念のため〕。家内が還暦だ、今まで何もしてもらっていないと騒ぐものだから要望を聞いて、28年ぶりにかつての留学の地Cardiffを再訪した。もっとも、僕は何度も出かけているのだが、家内は28年振りである。ついでにアイルランドにも出かけ、運転手、通訳、ガイドで大変だったのだが、そのことには触れない。僕は帰国後2Kg痩せていたということで、中身は類推出来よう。まあ、たいした諍いもなく帰国できたので、目出度し、目出度しである。とまれ、2人とも元気で還暦を迎えられたことを喜ばなければならない。友人が現在大病を患っているので、楽しい話はあまり書きたくはないが、印象的であった英国での子育てについて書いておく。
 僕が留学していた28年前に院生であった2人が共同でリバプールで暮らしているのを訪問した。共に臨床心理学が専門で一人は大学教授、一人は役人で高い地位にある。50歳である2人は現在5歳の女児を育てているのだ。6ベッドルームの立派な家に91歳になる母親と同居している。その家に2泊したに過ぎないのだが、その折の育児の観察から感じたことを記載しよう。
 一人の娘は人工授精で未知の人間の精子を使って自分で産んだ女児(カーラ)であり、一人の娘は中国人の孤児を養女(ゾイ)としたのである。めろめろになるほど可愛い娘である。英国ではミドルクラスに属する彼女ら(階級意識は昔と変わらず、彼女らだけでなくいろいろな場面で意識させられた)はそれぞれの子どもをかわいがって育てている。したがって、2泊の間に感じた印象はミドルクラスの子育ての特徴とみなしてよいと思う。
 印象に残ったことの第一はことばの教育についてである。幼稚園に通っているゾイちゃんは母親と宿題を20分ほどかけてやって見せた。宿題は5つの子音の発音を動作とともに繰り返すというものである。話し方に氏育ちが現れるというのは、このような幼児期の訓練に起因しているらしい。最近わが国でも国語力の低下が指摘されているが、正しい日本語の発音を教えるという視点は家族にも、教育者の中にもないように思える。
 第2は約束のさせ方についてである。子どもが食事や遊びのときにきちんと座ることなど、姿勢については親はほとんど注意をしなかった。ただ、遊んで食事に集中できない子どもに親が食べ物を口に運ぶ際に、契約という発想の一端を感じた。「これを食べるのね?」「食べるといったのは間違いないのね?」という類の問いかけを盛んに送り、[yes]の答えを発するまで食べさせないのである。日本であれば、このような契約的な発言はせず、子どもが途中で食べることを放棄しても、「残して、しょうがないわね」と親が食べるというようなことだが、彼女らはそのようなことはしないのである。約束をさせ、それを実行するという契約行為を幼児期から繰り返すのだなあと感じた次第である。グローバル化が進む日本では契約社会などと五月蠅いことだが、欧米では幼児期から契約という概念が染みこんでいくのだろう。
 2人の親は子どもと同じ部屋でベッドを並べて寝ていることに、罪悪感をもっていたようである。幼児教育の専門家は独立心を養うために幼児期から別の部屋で寝させるべきと主張し、そうするのが英国では普通である。28年前に住んでいた家にも子ども部屋があり、外から鍵が掛かるようになっていたのを覚えている。ゾイちゃんは中国からもらわれてきた当時一人では情緒が安定せず眠らなかったようで、仕方なく同じ部屋でベッドを並べて寝ている、いけないと言われているんだけどということであった。日本では親と子どもが幼児期は添い寝をするのが普通でとくに問題はない、と言うと2人ともこちらの予想以上に喜んでいた。幼児教育の専門家にも伝えると言うことであった。アタッチメントの形成には必要なことだ、僕など小学6年まで母親と同じ布団で寝ていたもんだ、と調子に乗って付け加えた。言ってしまった後では、ちょっと恥ずかしい気持ちではありました。
 亡くなって久しい母親をつかの間、思い起こしたことでありました。

Minot学会参加記

 5年ごとに開催されているInternational Behavioral Development Symposium に参加してきた。アメリカのNorth Dakota州のMinotという人口3.5万の小さな町の大学で開催された。ずっと快晴で、涼しい快適な気候であった。日本では38度ということであったので、暑い中で仕事をしている人には申し訳ない気持ちである。
僕は5年前に参加したので2度目である。90名ほどの参加で40題の発表が行われる。日本からは今度も僕だけであった。Miyamotoという〔性転換した〕女性がいたが、1世であるという割には、(宮本を漢字で書けたが)日本語はほとんど出来なかった。7時半に大学の食堂で朝食、9時開始、6時終了で1時ごろランチ、7時半からディナーというスケジュールが4日間続いた。4日間も同じ釜の飯を食うわけなので参加者と会話することが多く、意義多い学会である。心理学者はかなり参加しているが、性差をやっている人が多く、認知と性差は3題で、そのうちの1題はねずみである。ねずみでもworking memoryという用語を使うらしいことを知った。
 基本的には生物学者が多く、性ホルモンとシナップスの話なども含まれたが、多くは、性差は脳が決めるとする主張の研究発表が(sex difference is coming from brain)、(sex lies between ears, but not between legs)基本である。日本のジェンダー学者が聞いたら卒倒しそうな研究ばかりである(ハワイの研究者は最近、朝日と毎日新聞からインタビューを受けたが、日本ではジェンダーフリー教育を進めるらしい、ばかげている、ということでした。私が言っているのではありません、フェミニスト様)。
 Sexual orientationはホルモンが決める、同性愛は周産期の性ホルモンにより作られる、という趣旨が発表のほとんどである。したがって、メスのねずみに性ホルモンを投与すればオスのような行動をするとか、周産期の男性ホルモンが骨の形成期に及ぼす影響を人差し指と薬指の骨の長さの比で推定できる、とかいう発表が多く見られた(ゲイは女性と同じように男子よりも比が小さい数値になるらしい。日本人のデータはまだないということであった)。
 カナダの若い女性はゲイ、レスビアン、ヘテロの実験群のペニスの反応やワギナの血管収縮を測定して性的興奮が云々なんていう発表をしていたり、オーガズムの長さや頻度が云々などという発表をするアメリカの若い女性もいた。とても日本では出来そうにない実験研究である。
 僕は言語機能の性差、女子の優位性は、閉経後は消滅する。女性ホルモンの影響だろう言う発表をしたのだが、何人かからこんなこと調べたらとか共同研究のアイデアを送るという人がいて刺激的であった。発表では、冒頭の「現在日本では真夜中でして、途中で寝てしまうかもしれませんが、そのときは地震、津波と叫んでくれれば起きますから」は受けたが、仕込んだネタの成功率は5割にとどまった。まだまだプレゼンテーション能力は未熟でだめである。
 最近の日本の学会ではじっくり話すことも少なくなり、刺激を受けるような発表もない。もう年寄りなのだから学会で発表は遠慮すべきかもしれないなどと思っていたが、今回のような学会では、まだまだ現役で居たいものである。海外では高齢の研究者はいっぱいいる。
 飛行機でのトラブルはあったけれども、着いてからの時間は快適だった。悪いことばかりは続かないということでしょう。

閑話休題
発表の中でmannerismという語が何度も出てくる発表があって、代わり映えのしない性行動と考えるとどうも話がつながらない。医学辞書を引いたら、奇妙なしぐさ(ゲイの人がするような特有の仕草)のことであることを知った。広辞苑を引くと、確かにマンネリズムは芸術の分野で限定して使う語で、いつも同じの、代わり映えのしない意味であった。これまで知らなかった。新たに購入して持参した電子辞書のおかげである。持ってくるかどうか迷ったが、持ってきた値打ちがあったというものである。

どないなってるねん

 5年に一度の割合で開催されているInternational Behavior Development Symposiumを今年も開くという知らせを受け、ちょうど投稿したところの論文の内容がぴったり合うので出席することにした。8月3日から8日まで米国のノースダコタ州のMinot大学で行われる小規模な催しなのである。先回は小暮君と一緒したのだが、こじんまりとして面白かったので今回も出ようとしたわけである。シンポジウムの趣旨は、性差が生物学的要因で決まることをさまざまな分野の研究者が論じるもので、今回はsex and cognitionのセクションに入れられている。全部で40題しか採択されない学会である。ゲイの団体のお金がバックにあると聞いており、国際性を持たせるには日本からの参加申し込みは採択せざるを得ないのであろう。今やっと、ホテルについて一段落というところでこれを書いている。書いておかないと忘れそうなのと、気持ちが治まらないためである。
 始めて中部国際空港セントレアから成田を経由していくので、少し早い目に家を出た。前もって調べたスケジュールよりも30分ほど早く家を出た。結果的にはこのことが大きく貢献した。何事も余裕を持って事にあたるべし、という見本のような話である。予約してあった「のぞみ」は京都で10分送れていた。JR尼崎の事故以来、新快速などはよく時間が遅れるので、早めに出ておこうとしたのだが、JR京都線は問題なかったのに新幹線が遅れたのである。かつては時間通りが国鉄、JRの看板であったのに困った現象である(安全性優先というだろうが、時間通りで安全なのが大事なのである、トレードオフではない)。
 おかげで、ほぼ予定の時刻の20分前、国際線であったので2時間20分前にセントレアに着いたのである。「こじんまりとした、使いやすそうな空港だわい」と思っていたら、カウンターで、サイパンから名古屋経由成田行きはキャンセルになりました。間に合うので新幹線で成田に行ってくださいという。結果的には間に合ったが、ひどい話で新幹線に乗りなれていない人や成田イクスプレスを使った経験のない人では間に合わなかったであろう。名鉄特急で12時5分に名古屋駅に着くので12時23分のぞみに乗ってくれれば14時26分に成田空港第2ターミナルに着きます。品川で乗り換えてくださいという。最近は名古屋駅の中央切符売り場では新幹線の切符を買うのに15分は行列があるのを知っているので、広小路口で切符を買うことにした。渡されたYahooの路線案内どおり12時23分発ののぞみに切符を買おうとすると禁煙席はないという。グリーンにしようかと迷ったが、禁煙席でなくてもよいことにしてホームに入った。すると、新幹線は30分以上の遅れであった。遅れて入ってきた「のぞみ」にともかく乗り込み空席を探して座ることができた〔迷う必要はなかった〕。座席指定の電車を待ってはいけないのである。新幹線はともかく乗ってしまって空いている席に座ることである。品川に指定されたよりも5分早くついたので、ついているなあ、と感心して成田行きのホームに下りると電車は人身事故で10分前に出ているはずの電車が出るところであった。遅れていて今度もついていたのである。ともかく、切符もなしに乗り込んだが、今度は大混雑で座れることはなかった。Yahooの案内図では第2ターミナルで降りて徒歩空港へとなっていたが、何と言うことなしに電車の壁をみると航空会社とターミナルの一覧表が出ていた。僕の乗るNWは終点まで行って第1ターミナルが降りる駅なのである。やれやれと思ってカウンターに続く行列に並んでいると、ミネアポリス行きの客を探しており、優先してチェックインしてもらえた。ボーディングのゲートに着いたのはほとんど3時過ぎであった。3時35分発であったのだが、乗り込むと搭乗機はすぐに動き出した。
 セントレアの姉ちゃんに言いたい!あんたの書いたスケジュールで乗れるはずがない!自分で試しに乗り替えをしてから指示をしろ!僕は運良く遅れている電車が続いたので何とか間に合ったが、僕のような早足でなく、新幹線の切符の売り場も知らない人だったら、そして運良く(?)電車が次々と遅れを生じなかったら確実に乗り遅れていただろう(こんなとき責任は誰がとるのだろうか、調べなくては)。お詫びはNWのくだらない機内販売の割引券などである。NWとセントレアは国際線としては未熟すぎるので、もう乗らないつもりである。
ミネアポリスでは入国審査に50分かかってしまった。テロ対策か何か知らないがてきぱきやろうといい気がない。待ちくたびれ入国審査を終えてダッシュでMinot行きの飛行機に滑り込んだしだいである(ノースダコダ州立大学のあるMinotが税関の係官もこれはどこ?と聞く始末。ミノーと呼ぶらしい)。おかげで、朝から何も食べられず、両替もできず、免税店も見ることもなしであった。財布に残っていた100ドルだけで暮らすしかない。
室内プールではしゃぐ子供の声がうるさいけれども、ついたホテルは快適である。
今朝からの出来事はJR関係が3件の時間遅れ、飛行機のキャンセルが重なったためであるが、正確無比といわれた旧国鉄マンの気概はどこに行ってしまったのか?電車の時間を、遅れを見越して予定を立て旅せねばならない時代になってしまったのだろうか?30年前に日本の経済発展のシンボルとして正確さを誇りにし、英国をはじめ時間通りでないことを嘲笑していたような時代があったけれども、あれは幻なのだろうか?
「どないなってるねん!責任者でてこい!」である。

前期の試験から(7/27)

 全学教育科目の前期試験(人間と行動)の採点を行った。今年は火曜日の1限目であり、学生のそろうのが9時頃からとなるはずなので、8時45分から始まる授業の冒頭に10分程度「八田の遺言」と称して、雑談(時事放談)をすることにした。今年を入れて定年まで5年であることを紹介して、授業でやる脳に関する知識項目よりも遺言の方が君たちには大事かも知れないと言っておいた。
 対象学生は2年生であり、様々な学部の混合でもあるので、学生の出席率は芳しくないはずと予想していたが、あながちそうでもなかった。結構多くの学生が最始から出席していた。このような真面目さはこのごろの学生の特徴なのか、はたまた、僕の遺言に関心があるのか判別しがたいところではある。そんなこともあって、試験問題に「遺言で記憶に残る話題を取り上げ、その理由も書きなさい」を加えてみた(これで出席していたかは推定できる)。このような形で回答を書かせると漢字の誤記がかなり出る(神経繊維、損症、気億、脳外症、などである。10年ほど前にこのような学生の誤記を集めて Kanji writing error出現メカニズムについての論文を数編書いたことがある。金の掛からない研究であった)。
 回答のなかには授業中での「遺言」ではない、単なる挿話が混じっていたり、「脳は自転車であると言う話が面白かった」など、理解不能なものもあった。
「遺言」とは言っても熟慮し準備をして話すというのではない。その朝の思いつきを話しているので全部覚えているわけではない。そんな趣旨ではなかったはずというものもあったが、おおむね学生は真面目に僕の伝えたいことを記憶にとどめていたようである。
 一番記述の多かったものは、すなわち記憶にとどまったものの第1位は、「不条理は受け入れるしかない、2年辛抱すれば記憶は大幅に鈍化する」であった。これは、JR尼崎の事故の時に触れたことで、不条理に出会って他者に当たり散らしても詮無いことである。こういう時の振る舞いで人間性がわかる」と言った記憶がある。ある学生は「最近振られたけど2年待てばよいのですね」とあった。第2位は最初の講義で言ったことで、「大学の学生定員数から考えて昔の名大生と現在の学生は違う、しかし、努力すれば何とか追いつけそうなレベルの頭脳なのだから心して勉学せよ」であった。また、「君たちは知的レベル、体力、家庭環境などに恵まれたのだから、社会に還元する気持ちを持て」と言った。かなりの学生は、そんなこと言われたことがないので驚いたが心すると書いていた(驚いたと言われる方が驚くが、名大生は真面目で結構なことである)。第3位は「先生の言った恋人の作り方。あせらない、まめに連絡する、追わない、求めないは大変参考になった」と言うものである。全然覚えていないがストーカー殺人事件があったことに触れて、彼女や彼氏のいない君たちに教えてあげると言ったようである。なかには、先生の「ア、マ、オ、モ」は至言ですと書いた者までいた。最初何のことかわからなかった。なかなかコミュニケーションというものは難しいものである(恋愛に関して僕にめざましい戦歴があるわけではないので、至言といわれてしまうと恐縮するしかない)。第4位は「80過ぎた年寄りは自転車に乗ってはいかん」についてのものであり、そのように言ったらしい。先日なくなった先輩が自転車事故で死んだときに言ったようである。「老人の速度見越し能力は自分が判断するよりも断然劣っているからだ」といったとのことである。自分の祖父や祖母に伝えたと言うから(間違った言質ではないが)下手なことは言えない。「人生何があるかわからんから毎日大事に生きなきゃいかん」と言ったことも印象に残ったという。これが第5位であった。理学部のCOEに関わっての僕の意見も賛同を得ていた(このことは以前のコラム参照のこと)。2~3名の学生は中国での反日デモの頃に、日本でも1970年頃はもっと暴力的なデモをしていたことを紹介したのだが、そんな昔のことを実体験している人と同席しているのが驚きという学生もいた(年齢を思い知らされることであった)。
 学生は僕が雑談で話していることを結構関心を持って聞いている。思った以上に真面目にとらえることに改めて気づかされた。大学生でも先生の発言の影響力は大きいのである。昨今は思っていることを発言する傾向が強いことの自覚はあるが、気をつけなければいかん、というのが採点後の感想でありまする。

田中敏隆先生を偲んで

 6月23日に田中敏隆先生の葬儀が大阪府松原市の自宅で行われた。元大阪教育大学の学長で、日本心理学会の理事長や学術会議の会員でもあった人である。83歳であったが、元気という言葉を絵に描いたような御仁であった。5月の末に珍しく自宅に2日続けて電話があった。用向きは心理学会の理事長の選挙に関わる話であったのだが、そのことはそっちのけで開設準備委員長をしているという来年度開設予定の大学のことを、例によって熱っぽく話されていた。
 「90歳まで学長の予定やねん」、「先生の元気さにはかないません」、と相づちを打つと、「きみ、何言うとるねん、きみも定年になったら手伝ってもらわなあかん」などと会話したばかりであった。その後、すぐに交通事故に遭われて入院し、6月20日に亡くなられたということであった。
 交通事故の件はごく親しい人でも知らされていなかったようで、訃報の連絡を受けたときは脳血管性の病気にちがいないと推察したほどエネルギッシュな先生であった。全く何がおこるか分かりはしない。まさに、「朝に紅顔あって、夕べには白骨となれる身」であることを実感させられるできごとであった。
 葬儀に出席して先生を偲んでみると、自分の教員生活の開始時からの関わりが次々思い起こされる。忘年会では必ず、「野崎参り」を踊られるので、われわれは「野崎参り~は、屋形船で参いろ~、どこを向いても菜の花畑、粋な日傘に蝶々が留まる~、呼んで見ようか土手のひと~」と、大声で歌わされたものである。先生のこれ以外の芸は見たことはない。当時の大学教員は凝集性が高かったのか、忘年会や旅行をしたものである。当時は「かなわんなあ」と思っていたが、今では懐かしいのだから、私も年を取ったのである。
 いつも前向きで、バイタリティに溢れていて、大きな声で話す、分かりやすい素直な人柄であり、若い教室員は陰で「敏ちゃん」と呼んでいた。私が助手に採用された頃は教室主任で、採用前に先生の部屋の、椅子が2つ、机が一つの貧弱な応接セットで面接を受けた記憶がある。面接に来るようにと連絡があったときに、「大学はどこにありますか」と聞いたらしく、「失敬なやっちゃ」と後日言われたことがある。大阪市立大学からは電車で15分ほどの距離にあるのに、大阪教育大学天王寺分校の場所を知らなかったのだから、当時の私もいい加減なものである。採用には関係がない面接であったが(当時には珍しい公募で人事が行われていた。書類選考で選ばないと人事は不正が起きるとされたらしい)、選考が終わったのでどんな男か見ておきたいということであった。
 田中先生は天王寺師範から新制大学の大阪学芸大学の助手になり、大阪教育大学長までずっと一つの大学で過ごされた。学長になられたが、任期途中で退任され私学に移られた。助手のポスト削減を学長が独断で文部省に報告したことの責任を教授会で追求されてのことであったと記憶している(法人化になった現在の大学では考えられないほど、当時は教授会の権限が意識されていたのである、大学はずいぶん変わった)
 大阪教育大学では、当時は教員の学閥意識が強く、東京文理大学(東京教育大学)、広島文理大学(広島大学)、その他、の3つのグループが併存しており、先生は名溪会のリーダー的存在であった。私の採用された頃には、心理学教室は16名の大所帯であった(聞くところによれば、大阪教育大学の心理学教室は来年度から5名の教員になるという、ずいぶん変わったものである)。
 葬儀の時にも紹介されていたが、40歳以前に文学博士を取得されたり(当時としては格別に早く、出身校でない京都大学からの学位であることも珍しかった)、在外研究制度による英国留学も早い時期にされていた(当時、地位の低かったはずの学芸大学の教官にこのようなことが可能だったのは、学位を取ったことに理由があるのだろう)。田中先生はこれらのことに言及されることが多かったので、当時の若い教室員はみんな学位を取るのが早かったし、在外研究員制度の恩恵に預かった者が多かった。論文を書き、業績を蓄積することや留学することの重要性を教えてもらったことになる。
 田中教授(つづいて北尾教授)八田助教授のペアで大学院第2講座を担当した頃には、田中先生が引き受ける留学生や院生の世話をさせられ、愚痴ったものだが、大阪教育大学心理学教室の卒業生が、今日多くの大学で教員のポストを得て活躍できている一因には彼の存在があったのである(当時、教員養成系大学で修士課程を持つところは2カ所しかなかった)。まさに田中先生のお陰を間接的にでもこうむっているいる者は少なくないことになる。
 様々なことが思い起こされるが、教え子が大阪教育大学心理学教室の教室主任をしていて定員削減を嘆いているのを聞くと、日本の国立大学は大きく変わったと思う。私が27歳で教員生活を始めて30年が経っただけなのに、である。最近30年間に日本の大学を取り巻く状況は大きく変わったが、この変革期に何とか対応できたのは田中先生のこのような、研究志向という無形の影響を受けてのお蔭かも知れないと思う。感謝せねばならない。
 定年が視野に入ってきた私には、83歳を超えても現役でやるという気持ちにはなれそうにない。ただ、田中先生のあの元気さには脱帽である。
合掌。

COE申請書虚偽記載(誤記)問題(6/1)

 茶飲み友達の間でのここ数日の最大の関心事は、数学系のCOE申請書におけるメンバーの業績虚偽記載(誤記)の問題である。今日の朝刊各紙の記事では、調査委員会が活動中で、他のCOEについても調査を始めるとあった。何か、おかしな方向に話が展開しているように思える。そんなことではなく、不心得者の取り扱いをどうするかであろう。
 先週の最初の新聞記事からなので真実か不明ではあるが、サブリーダーの藤原教授(敢えて匿名にはしない)のCOE申請書の個人業績に虚偽の記述があったということである。このような大変な事実を大新聞が書くからには真実である可能性が高い。8編の業績記載のうちの3編が掲載予定となっているが、事実は不採択で掲載されていない論文で、虚偽の記載というのである。私はCOEの申請に都合3回アプライさせられ、何度も個人業績表を提出したので、申請書の様式や事情については熟知しているつもりである。3回目は申請代表者になったが、すべての申請は学内選考会で落ちたのである(最後の自分が代表者である申請の学内ヒヤリング審査委員から、後日、審査委員に説教したのはあなただけだと言われたことがある。誇大妄想的な計画だが、こういうものがCOEの本来の目的にかなうものだ、といったらしい)。学内選考には大学の基本方針もあるので、もちろん学内ヒヤリングで不可とされたことを恨んではいない。数学系のCOEが採択となり、私たちのが不採択になったのをねたんでのことではもちろんない。
 藤原教授のコメントを新聞で読むと、誤記したので申請書の手直しを申し出たい、とあったが、とんでもない心得違いをしていると私は指摘したい。学術雑誌に論文を書くことを研究業績蓄積の主たる手段としている研究者が、自分の投稿した論文が採択か不採択かあいまいで記憶違いなどということはあり得ない。まして、著名な雑誌に投稿した論文の結末を間違えることなど断じてないと思う。1年に何本もの論文を投稿することのない数学の分野では間違う確率はジャンボ宝くじに当たるよりも低い。化学や医学の分野でのように、毎週のように論文を投稿する分野の研究者でもない、と考える。つまり、誤記ではなく、虚偽を記載したと判断できる。掲載予定という文言は印刷中の論文にしか使わないのは常識である(査読中のものが掲載予定というのなら、大きな申請書を書く前に大量の通りそうにない論文を、一流誌に投稿して申請書にリストアップすることが横行するだろう)。申請時に古くない業績を書かねばならないプレッシャーから意図的に虚偽の記載をしたのだと考えざるを得ない。
 このような場合には、本人は退場しかなかろう。問題はきわめて深刻であると考えるからである。日本でも欧米でも、外部からの研究費の獲得は申請書を通じて、それに基づいて審査され、採択になったり不採択になったりするシステムが採用されている。このシステムは問題もないものとして通用してきているのに、このシステムの根幹を覆す行為を行ったからである。申請書に記載する業績リストに虚偽はないことが、当然ながら約束事として、このようなシステムは機能しているのである。したがって、虚偽の記載で大金を得たのであるから詐欺行為となってしまったということになる。自ら退場するしか道はないと私は考えている。冷酷で、厳しすぎるという読者もいるかも知れないが、株主の虚偽の記載をして問題となった西武鉄道などの例からわかるように、社会が作り上げ健常に機能しているシステムを覆すような場合は、退場しかないのである。
 読者には研究職を目指す人が多いと思うので、老婆心で言うのだが、くれぐれも藤原教授のようなことは許されないことを肝に銘じておいてもらいたい。
 
 そんなにこのことを問題視するのなら、調査委員会とか総長に直接言えばよいではないかと言う指摘も聞こえそうだが、現在のところ研究生活復帰へのリハビリテーション中であるし、世間からはもう十分嫌がられているので、コラムに書いているのであります。

困った風潮

4月1日から個人情報保護法とかいうものができて、さまざまな場所で困っているらしい。先週末にあった会合では、看護実習の報告書の作成に従来のように学生がカルテを借り出して夜に書くということができないとか、待合室で患者の名前を読み上げてはいけない、病室に名札を出してはいけない、など僕には過剰な反応としか思えないような風潮を耳にした。心理テスターとして大学病院にバイトにいってもらっている院生には、患者の個人情報を国家資格がないと見せられないので、と断られることが先週にあったので必ずしもよそ事ではなくなっている(国家資格の心理専門家をつくらにゃ問題は解決しない)。法律でできないことになりましたと言われると、そうですかというしかないようにも思えるが、果たしてこんなことでよいのであろうか。
 僕には過剰反応としか思えないのである。実習の報告書を学生が病院で書く時間も、個々の臨床場面での実習指導者が10人ほどを割り当てられる学生のとんでもない日本語や文章にいちいち赤を入れる暇などあるはずもない。こんなことは、これまでは学生がカルテを借り出して夜に報告書を書いて学校の教務の先生が赤を入れて、実習担当者の了承をもらうという仕組みで何の問題も生じてこなかったと思うのだが。学生にも指導者にも個人の情報の保護についての自覚ですまされてきたのだが、信用できないというのであろう。患者の氏名を隠すのは時に必要なことがあるのは理解できるが、番号や記号で同定しようとすればミスは当然増加することであろう。 
 昨日の大学院の入試に関する話題では、今まで公開がやかましく言われて面倒だと思っていたのに、著作権上の問題からWebで過去の入試問題を公表できなくなったという。2次的な使用は著作権上出来ないというのだが、過剰反応のように思える。通常入試に著作が載ると出典を明らかにすることで印税や著作権の問題はクリアされることになっている。過去の入試問題を出版して金儲けをする場合には印税の支払いが必要なのは言うまでもない(某大学で僕の著書の一部が使用されたことに関わって、問題集を出版する会社から印税を支払われた経験があるので、このことについては確かである。ちなみに印税は700円未満であったので最低保障の1000円を銀行に振り込まれたのだ)。
 Webに掲載できないので受験生は大学の教務に来て閲覧するしかないことになる。遠方の受験生には不利益が生じるのだが、訴えられたら負けるというのである。訴えられればよいと僕はまじめに思うのだ。自分の文章が入試に使われて大学が公表する過去問題として2次的に使われたと言って著作権の使用料を払えという人がいたら会いたいものだ。そんな人がいるのなら、これまでにも入試に自分の作品を使われたといって騒いでいるはずである。名誉なことで、自分を宣伝してくれたと喜ぶことはあっても問題にする人はいないと断言しても良い。
 個人情報の保護法も著作権も社会の中で問題が生じたときにスムースに生活できるように法律が作られたはずで、不自由にされるのなら法律など不要である。枝葉末節なことでスムースであった社会活動がぎくしゃくするのは、御免被りたい。