田中敏隆先生を偲んで
6月23日に田中敏隆先生の葬儀が大阪府松原市の自宅で行われた。元大阪教育大学の学長で、日本心理学会の理事長や学術会議の会員でもあった人である。83歳であったが、元気という言葉を絵に描いたような御仁であった。5月の末に珍しく自宅に2日続けて電話があった。用向きは心理学会の理事長の選挙に関わる話であったのだが、そのことはそっちのけで開設準備委員長をしているという来年度開設予定の大学のことを、例によって熱っぽく話されていた。
「90歳まで学長の予定やねん」、「先生の元気さにはかないません」、と相づちを打つと、「きみ、何言うとるねん、きみも定年になったら手伝ってもらわなあかん」などと会話したばかりであった。その後、すぐに交通事故に遭われて入院し、6月20日に亡くなられたということであった。
交通事故の件はごく親しい人でも知らされていなかったようで、訃報の連絡を受けたときは脳血管性の病気にちがいないと推察したほどエネルギッシュな先生であった。全く何がおこるか分かりはしない。まさに、「朝に紅顔あって、夕べには白骨となれる身」であることを実感させられるできごとであった。
葬儀に出席して先生を偲んでみると、自分の教員生活の開始時からの関わりが次々思い起こされる。忘年会では必ず、「野崎参り」を踊られるので、われわれは「野崎参り~は、屋形船で参いろ~、どこを向いても菜の花畑、粋な日傘に蝶々が留まる~、呼んで見ようか土手のひと~」と、大声で歌わされたものである。先生のこれ以外の芸は見たことはない。当時の大学教員は凝集性が高かったのか、忘年会や旅行をしたものである。当時は「かなわんなあ」と思っていたが、今では懐かしいのだから、私も年を取ったのである。
いつも前向きで、バイタリティに溢れていて、大きな声で話す、分かりやすい素直な人柄であり、若い教室員は陰で「敏ちゃん」と呼んでいた。私が助手に採用された頃は教室主任で、採用前に先生の部屋の、椅子が2つ、机が一つの貧弱な応接セットで面接を受けた記憶がある。面接に来るようにと連絡があったときに、「大学はどこにありますか」と聞いたらしく、「失敬なやっちゃ」と後日言われたことがある。大阪市立大学からは電車で15分ほどの距離にあるのに、大阪教育大学天王寺分校の場所を知らなかったのだから、当時の私もいい加減なものである。採用には関係がない面接であったが(当時には珍しい公募で人事が行われていた。書類選考で選ばないと人事は不正が起きるとされたらしい)、選考が終わったのでどんな男か見ておきたいということであった。
田中先生は天王寺師範から新制大学の大阪学芸大学の助手になり、大阪教育大学長までずっと一つの大学で過ごされた。学長になられたが、任期途中で退任され私学に移られた。助手のポスト削減を学長が独断で文部省に報告したことの責任を教授会で追求されてのことであったと記憶している(法人化になった現在の大学では考えられないほど、当時は教授会の権限が意識されていたのである、大学はずいぶん変わった)
大阪教育大学では、当時は教員の学閥意識が強く、東京文理大学(東京教育大学)、広島文理大学(広島大学)、その他、の3つのグループが併存しており、先生は名溪会のリーダー的存在であった。私の採用された頃には、心理学教室は16名の大所帯であった(聞くところによれば、大阪教育大学の心理学教室は来年度から5名の教員になるという、ずいぶん変わったものである)。
葬儀の時にも紹介されていたが、40歳以前に文学博士を取得されたり(当時としては格別に早く、出身校でない京都大学からの学位であることも珍しかった)、在外研究制度による英国留学も早い時期にされていた(当時、地位の低かったはずの学芸大学の教官にこのようなことが可能だったのは、学位を取ったことに理由があるのだろう)。田中先生はこれらのことに言及されることが多かったので、当時の若い教室員はみんな学位を取るのが早かったし、在外研究員制度の恩恵に預かった者が多かった。論文を書き、業績を蓄積することや留学することの重要性を教えてもらったことになる。
田中教授(つづいて北尾教授)八田助教授のペアで大学院第2講座を担当した頃には、田中先生が引き受ける留学生や院生の世話をさせられ、愚痴ったものだが、大阪教育大学心理学教室の卒業生が、今日多くの大学で教員のポストを得て活躍できている一因には彼の存在があったのである(当時、教員養成系大学で修士課程を持つところは2カ所しかなかった)。まさに田中先生のお陰を間接的にでもこうむっているいる者は少なくないことになる。
様々なことが思い起こされるが、教え子が大阪教育大学心理学教室の教室主任をしていて定員削減を嘆いているのを聞くと、日本の国立大学は大きく変わったと思う。私が27歳で教員生活を始めて30年が経っただけなのに、である。最近30年間に日本の大学を取り巻く状況は大きく変わったが、この変革期に何とか対応できたのは田中先生のこのような、研究志向という無形の影響を受けてのお蔭かも知れないと思う。感謝せねばならない。
定年が視野に入ってきた私には、83歳を超えても現役でやるという気持ちにはなれそうにない。ただ、田中先生のあの元気さには脱帽である。
合掌。
「90歳まで学長の予定やねん」、「先生の元気さにはかないません」、と相づちを打つと、「きみ、何言うとるねん、きみも定年になったら手伝ってもらわなあかん」などと会話したばかりであった。その後、すぐに交通事故に遭われて入院し、6月20日に亡くなられたということであった。
交通事故の件はごく親しい人でも知らされていなかったようで、訃報の連絡を受けたときは脳血管性の病気にちがいないと推察したほどエネルギッシュな先生であった。全く何がおこるか分かりはしない。まさに、「朝に紅顔あって、夕べには白骨となれる身」であることを実感させられるできごとであった。
葬儀に出席して先生を偲んでみると、自分の教員生活の開始時からの関わりが次々思い起こされる。忘年会では必ず、「野崎参り」を踊られるので、われわれは「野崎参り~は、屋形船で参いろ~、どこを向いても菜の花畑、粋な日傘に蝶々が留まる~、呼んで見ようか土手のひと~」と、大声で歌わされたものである。先生のこれ以外の芸は見たことはない。当時の大学教員は凝集性が高かったのか、忘年会や旅行をしたものである。当時は「かなわんなあ」と思っていたが、今では懐かしいのだから、私も年を取ったのである。
いつも前向きで、バイタリティに溢れていて、大きな声で話す、分かりやすい素直な人柄であり、若い教室員は陰で「敏ちゃん」と呼んでいた。私が助手に採用された頃は教室主任で、採用前に先生の部屋の、椅子が2つ、机が一つの貧弱な応接セットで面接を受けた記憶がある。面接に来るようにと連絡があったときに、「大学はどこにありますか」と聞いたらしく、「失敬なやっちゃ」と後日言われたことがある。大阪市立大学からは電車で15分ほどの距離にあるのに、大阪教育大学天王寺分校の場所を知らなかったのだから、当時の私もいい加減なものである。採用には関係がない面接であったが(当時には珍しい公募で人事が行われていた。書類選考で選ばないと人事は不正が起きるとされたらしい)、選考が終わったのでどんな男か見ておきたいということであった。
田中先生は天王寺師範から新制大学の大阪学芸大学の助手になり、大阪教育大学長までずっと一つの大学で過ごされた。学長になられたが、任期途中で退任され私学に移られた。助手のポスト削減を学長が独断で文部省に報告したことの責任を教授会で追求されてのことであったと記憶している(法人化になった現在の大学では考えられないほど、当時は教授会の権限が意識されていたのである、大学はずいぶん変わった)
大阪教育大学では、当時は教員の学閥意識が強く、東京文理大学(東京教育大学)、広島文理大学(広島大学)、その他、の3つのグループが併存しており、先生は名溪会のリーダー的存在であった。私の採用された頃には、心理学教室は16名の大所帯であった(聞くところによれば、大阪教育大学の心理学教室は来年度から5名の教員になるという、ずいぶん変わったものである)。
葬儀の時にも紹介されていたが、40歳以前に文学博士を取得されたり(当時としては格別に早く、出身校でない京都大学からの学位であることも珍しかった)、在外研究制度による英国留学も早い時期にされていた(当時、地位の低かったはずの学芸大学の教官にこのようなことが可能だったのは、学位を取ったことに理由があるのだろう)。田中先生はこれらのことに言及されることが多かったので、当時の若い教室員はみんな学位を取るのが早かったし、在外研究員制度の恩恵に預かった者が多かった。論文を書き、業績を蓄積することや留学することの重要性を教えてもらったことになる。
田中教授(つづいて北尾教授)八田助教授のペアで大学院第2講座を担当した頃には、田中先生が引き受ける留学生や院生の世話をさせられ、愚痴ったものだが、大阪教育大学心理学教室の卒業生が、今日多くの大学で教員のポストを得て活躍できている一因には彼の存在があったのである(当時、教員養成系大学で修士課程を持つところは2カ所しかなかった)。まさに田中先生のお陰を間接的にでもこうむっているいる者は少なくないことになる。
様々なことが思い起こされるが、教え子が大阪教育大学心理学教室の教室主任をしていて定員削減を嘆いているのを聞くと、日本の国立大学は大きく変わったと思う。私が27歳で教員生活を始めて30年が経っただけなのに、である。最近30年間に日本の大学を取り巻く状況は大きく変わったが、この変革期に何とか対応できたのは田中先生のこのような、研究志向という無形の影響を受けてのお蔭かも知れないと思う。感謝せねばならない。
定年が視野に入ってきた私には、83歳を超えても現役でやるという気持ちにはなれそうにない。ただ、田中先生のあの元気さには脱帽である。
合掌。