台南行
3月15日から4泊5日の日程で台湾を訪問した。主な目的は台南市にある成功大学との学術協定締結の下仕事という類いのもので、交互に国際シンポジウムを開催することと、およびそのテーマを何にするかを先方の社会経済科学院の陳学部長と相談するのが目的であった。陳学部長とは旧知で、昨年も2年前の香港での学会でも会ったし、1997年に名大で開催した漢字認知の国際シンポジウムにも参加していた人である。
今回の話の発端は昨年末、この学部長が4人のメンバーを連れて、日本の数カ所の大学を、学術協定締結を目的に訪ねたことにある。僕がいるので名大にも来たというわけである。そのお返しに僕が個人的に訪問したのだが、このことに関わってのシンポジウムの話を書くのが目的ではない。始めて訪れた台南市について紹介するのが目的である。ただ、今回の学術協定の件も、台湾の大学も乱立気味で、台湾政府が世界的水準の大学を目指し数校に限って予算を特別配分するという施策を打ち出して以来の一連の大学運営に関連するものらしい。ここ数年来の日本の大学でのCOE騒ぎと同じ動向が台湾にもあるようで、大学人が忙しいのは日本に限ったことではなさそうである。
実は台湾は始めてである。乗り継ぎで数度空港に居たことはあるが、免税店をぶらつくことしかできていない。目的の台南市は文字通り台湾の南部にあり、南端の高雄市から60キロほど北に位置している。台北市は北端に位置している。台北には昨今大勢の観光客が行くようで、実際に帰路泊まった台北のホテルには中高年の日本人おっさんが溢れていた。台北は大都会で日本の都会とほとんど変わらない印象を受けたが(したがって、個人的にたいした興味を抱けなかったが)、台南は印象的で楽しかった。大学の先生達は、日本人の観光客に台南市にも来てほしいと何度も訴えていたので、歓待してくれたお礼もかねて台南市の宣伝をしておこうと思う。高雄にはゴルフ好きの日本人は来るらしいが台南にまで来る人は少ないらしい。
台南市は言わば日本の京都に該当するようである。日本が統治し、台北に首都機能を移転するまでは最も古くからの大きな町であったということである。古い町並みのために開発が遅れ隣接の高雄市が目覚ましく人口を増やしたにもかかわらず20年来同じ規模のままということである。若い読者は歴史を知らないかも知れないので記しておくと、戦前日本は台湾を植民地として統治していたのだ。同様に植民地としていた韓国で戦後に反日感情が醸成されたのとは対照的に台湾での対日感情は良好である。この背景には、蒋介石の終戦時の対日政策があるのだが、これらの詳細は歴史書で調べてほしい。
植民地統治時代に日本がつくったインフラに対しての評価は今でも高い。例えば、台湾南部の灌漑ダムをつくった土木技師の八田與一(私の係累ではない)は銅像があり、今でも崇められていると聞いた。そのため、日本統治時代の建物がいくつもある。現在でも使用されていたり、修復保存されている。東京帝大出の森本という若い建築家に欧米風の建築物を数多くつくらせ、行政府を構成したとのことであり、いくつかの建物はシンガポールで見かけるものと酷似しており英国風の美しいものであった。なお、これらの情報は博物館でボランティアのガイドさんから聞いた受け売りである。このガイドさんは僕と同い年であり、日本語は話せない(80歳代の人は日本語が話せる)。成功大学のキャンパスにもいくつも戦前の日本が立てた建築物があり、現在でも使用されている。 成功大学は鄭成功(台湾独立の英雄)に因んで命名されている(歌舞伎演目の国姓爺合戦を参照のこと)。前身は1930年代創立の台南高等工業で、つまり日本統治下で開学した由緒ある大学であり、台湾で2番目に大きいということである(戦前の高等工業は高度なレベルの教育機関で現在の東京工業大もその一つである)。台北に台北帝大をつくった戦前の文部省が台湾南部にも高等教育機関を設けたのであろう。台北市の都市概観が近代的で日本の大都市と代わり映えしないが、台南に行けば古い台湾の情景が味わえるのは魅力である。20年前の香港の路地裏で味わったようの情景が残っているのだ。もっとも、郊外には新しい集合住宅やショッピングセンターができて来ているので、あと10年もすれば古い町並みは消えていくと思われる。早めに観光に行くのがお薦めである。
朝ご飯を古い町並みの露天風の食堂で食べたが、120円ほどで驚くほど美味しいお粥が味わえた(この種の小規模食堂がいっぱいある)。80歳ぐらいのお爺さんが「美味しい?」と日本語で聞いてくれる。それ以外の店員との会話は通じない。町の様子が香港の古い部分と似ているので英語で話してしまいがちだが、英語はほとんど通じない。ただ、漢字の古い書体での筆談でやり取りはできるので、全くコミュニケーションが取れない訳ではない。国は國と書かねばなどと、漢字による筆談でのやりとりは楽しいものである。
物価は台南の場合は日本の約半分という印象である。タクシーの基本料金は250円ほど、高雄空港から台南のホテルまで60キロほどあるがハイヤー料金は6000円ほどである(自分で払った訳ではないが)。食べ物は相対的に思ったより薄味で何を食べても美味しい(大学の近くでご馳走になったフランス料理風のもの以外は)。果物が豊富で種類も多い。大学の先生に果物が珍しいというと、マンゴー、スターフルーツに加えて名前も知らない果物を食べきれないほどプレゼントしてくれた(実際食べきれずに台北のホテルに置いて来た)
要するに台北と違って気候も南国なので果物が豊富なのである。そう言えば台南では半袖で過ごしているのに同じ日に台北ではみなダウンを着て冬の服装であった。気候が温暖で(夏は暑いだろうが)過ごしやすいのだ。
歓待してもらったお礼として、これくらいの紹介では足りないかも知れないが、もう疲れて来たのでこれくらいにしておこう。読者の皆さん、台南を訪問することをお薦めしますよ。
初体験
タイトルから森鴎外流の「ヰタ・セクスアリス」などを予想された読者には申し訳ないが、論文執筆にまつわる戯言を記すのにすぎないので、そのつもりで。「ヰタ・セクスアリス」て何ですか?には答えないので、各自調べましょう。
僕が誇れることだと自認して来た数少ないことに、「依頼原稿は断らない、締め切りを守る」ということがある。これまでの経験で依頼されて締め切りまで半年近い余裕があるのにすぐに原稿を送りつけたことはあるが、遅れたことは一度もない。これが過去形になったという話である。
ここまで読まれた読者の中には、「嫌なことを言う」と胸がチクチクし始めた御仁もいるはずである。現在編集中の本にも締め切りは数ヶ月も前に終わっているが原稿が届かない執筆予定者は複数いるので、もしこれを読んでいるのなら、チクシクしてもらわねば困る。ブログなど読んでいる暇があれば、ということである。
どうも、文系の研究者は原稿締め切りを守らないのが普通で、むしろかっこいい、とさえ思っている節がある。出版社の側でも脱稿の遅滞を前もって計算して出版計画を立てているように思わないでもない。一般社会ではあり得ないことで、契約不履行で罰せられても仕方がないはずである。
数年前にElsevierという世界的な大手出版社から、何でも30年ごとに改訂するという事典の項目執筆の依頼を受けたことがある(ちょっと自慢)が、その際には、まず要約を提出させられ、その結果をみて正式な執筆依頼文書が届いたのだが、期日までに送付しなかった場合の罰則(罰金)が書かれた数10ページにもわたる執筆契約書(冊子)が届けられたことを経験したことがある。出版が遅延した場合の責任を問う内容で、もちろん気の弱い私は締め切りを遵守した。
今回締め切りを守れなかったのは、次のような事情のためで、言い訳などできる類いのものはない。
原稿依頼は昨年9月頃、脳画像を用いた利き手研究についてreviewを書いてほしいというもので、学会英文誌の編集長からであった。こちらからお願いしたことがあってバーターのような形での依頼であったが、大変光栄なことだと、これまでreviewは書かないことを信条にして来たのだが引き受けてしまった。reviewは書かない、とうのは院生の頃先輩から、「reviewなど書く奴は研究のアイデアが枯渇した者のすることだ」、と言われていたことの後遺症というか刻印付けのためなのである。Review論文の価値を、すべて疑うものではない。
12月初旬から関連文献を検索しだすと、過去12年間に限定しても140編ほどが集まることとなった。簡単だが予想以上の量ということで、電子ジャーナル化の功罪半というところである。その中で直接論文に引用するものしないものの判別や(pdfでの印刷文字が小さすぎる!)、構成の試行錯誤などで結局のところ1月末にという約束は3週間遅れた。この間に年末の様々な行事や期末試験などが重なったのが遅延の理由であり、特別病気になったという訳ではなかったが、初体験のストレスは重く気弱な(しつこい?)私にのしかかっていた。1月末からはかなりがんばって、近来珍しいくらい集中して机に向かったせいで腰痛を招来してしまったが、この顛末については別に記載する予定である。
依頼者側から2月10日過ぎに催促のメールが来てしまった。かくて、私の初体験が生まれたという次第。
脳画像研究を集中的に読んでの、論文内容自体とは直接関係しない感想を今回は次の通りである。
まず、脳画像研究論文は著者の数がやたら多い。そのために引用文献作成にはかなりの時間を要した(これが遅延の理由というつもりはないが)。執筆要項では7名までは省略するなと書いてあるくらいなので、それ以上の多くの人間が関与する研究が一般的なのである。類似した内容の論文には順番を変えて多くの著者が、ということも珍しくはない。心理学研究に馴染んで来た者としては、このようなスタイルの業績数が多いことをどう評価したらよいのだろうかと考えてしまった。また、実験計画に危うい者も少なくない。被験者が5人の実験研究で分散分析を使うことの問題点(データが正規分布を仮定できることがANOVAの基本と私は教えられている)に斟酌していないなど、実験心理学者をチームに入れている場合が少ないためであろう(このことはreview論文には書いておいた)。
著者が多くなる他の理由に、機器購入に関連することもあろう。高価な機械の購入には多くの人間が使う、という購入申請書が書かれたはずで(書かないと申請は通るまい)、一端購入したfMRIなどの機器の高い維持経費は、「たくさん研究発表をした」ということで評価がOKという仕組みが生まれるので、単純に著者が多い、本当は誰が考えた実験なの、とクレームを付けるのを憚れる部分もある。
とかく高価な機械や設備、新しい施設を入手できたときは万歳なのだが、その後の維持は大変である。山のてっぺんにある校舎まで300段も階段を上るのは大変とういうことでエスカレータが設置されて喜んだが、その後のメンテナンスに悲鳴をあげている大学もある。僕も数年前に大型の予算申請を書いたことがある。3000万ほどの機械を組み込んでの億単位の申請書で、20ページ以上の申請書を書いた当時は、不採択の結果は面白くなかったが、採択されていれば今頃大慌てしているに違いない。昨年、そのとき申請した機械を別の研究機関で借用してデータを取ることができたが、実験・データ解析の過程の煩雑さは予想もしなかったレベルであった。負け惜しみでなく、不採択でよかったと思っている。そうでなれば、機械を使う実験の計画や実施、その大量のデータ処理に奔走しているに違いないからである。
大きな金額の研究経費をせしめて、一時は得意かも知れないがジワジワ苦悩が始まる経験をするよりも、慎ましく、アイデアに溢れた単純な実験研究を旨とすべしということである。
話は飛ぶが、送られて来た雑誌を捨てる前にパラパラ見ていると、現役時代に500万の人は一月25万弱で老後が過ごせるが、1000万の人は50万弱ないと惨めな思いで過ごすことになるという、フィナンシャルアドバイザーなる人の記事が目に留まった。僕の定年後の生活設計は未定だが、現在の研究費や収入は激減することを覚悟せねばいけないのだなあと考え込んでしまった。
何時飲めなくなるかも分からないから、美味いビールにしようと主張して、最近はエビスやプレミアムビールを購入していたのだが、年金生活の準備にはラガービールを経て、発泡酒に向かう準備に入らなければならない時期に来ているようである。
かくて、始めての締め切り破りの経験は、定年後の心構えにまで影響を及ぼす事件となったのであります。
僕が誇れることだと自認して来た数少ないことに、「依頼原稿は断らない、締め切りを守る」ということがある。これまでの経験で依頼されて締め切りまで半年近い余裕があるのにすぐに原稿を送りつけたことはあるが、遅れたことは一度もない。これが過去形になったという話である。
ここまで読まれた読者の中には、「嫌なことを言う」と胸がチクチクし始めた御仁もいるはずである。現在編集中の本にも締め切りは数ヶ月も前に終わっているが原稿が届かない執筆予定者は複数いるので、もしこれを読んでいるのなら、チクシクしてもらわねば困る。ブログなど読んでいる暇があれば、ということである。
どうも、文系の研究者は原稿締め切りを守らないのが普通で、むしろかっこいい、とさえ思っている節がある。出版社の側でも脱稿の遅滞を前もって計算して出版計画を立てているように思わないでもない。一般社会ではあり得ないことで、契約不履行で罰せられても仕方がないはずである。
数年前にElsevierという世界的な大手出版社から、何でも30年ごとに改訂するという事典の項目執筆の依頼を受けたことがある(ちょっと自慢)が、その際には、まず要約を提出させられ、その結果をみて正式な執筆依頼文書が届いたのだが、期日までに送付しなかった場合の罰則(罰金)が書かれた数10ページにもわたる執筆契約書(冊子)が届けられたことを経験したことがある。出版が遅延した場合の責任を問う内容で、もちろん気の弱い私は締め切りを遵守した。
今回締め切りを守れなかったのは、次のような事情のためで、言い訳などできる類いのものはない。
原稿依頼は昨年9月頃、脳画像を用いた利き手研究についてreviewを書いてほしいというもので、学会英文誌の編集長からであった。こちらからお願いしたことがあってバーターのような形での依頼であったが、大変光栄なことだと、これまでreviewは書かないことを信条にして来たのだが引き受けてしまった。reviewは書かない、とうのは院生の頃先輩から、「reviewなど書く奴は研究のアイデアが枯渇した者のすることだ」、と言われていたことの後遺症というか刻印付けのためなのである。Review論文の価値を、すべて疑うものではない。
12月初旬から関連文献を検索しだすと、過去12年間に限定しても140編ほどが集まることとなった。簡単だが予想以上の量ということで、電子ジャーナル化の功罪半というところである。その中で直接論文に引用するものしないものの判別や(pdfでの印刷文字が小さすぎる!)、構成の試行錯誤などで結局のところ1月末にという約束は3週間遅れた。この間に年末の様々な行事や期末試験などが重なったのが遅延の理由であり、特別病気になったという訳ではなかったが、初体験のストレスは重く気弱な(しつこい?)私にのしかかっていた。1月末からはかなりがんばって、近来珍しいくらい集中して机に向かったせいで腰痛を招来してしまったが、この顛末については別に記載する予定である。
依頼者側から2月10日過ぎに催促のメールが来てしまった。かくて、私の初体験が生まれたという次第。
脳画像研究を集中的に読んでの、論文内容自体とは直接関係しない感想を今回は次の通りである。
まず、脳画像研究論文は著者の数がやたら多い。そのために引用文献作成にはかなりの時間を要した(これが遅延の理由というつもりはないが)。執筆要項では7名までは省略するなと書いてあるくらいなので、それ以上の多くの人間が関与する研究が一般的なのである。類似した内容の論文には順番を変えて多くの著者が、ということも珍しくはない。心理学研究に馴染んで来た者としては、このようなスタイルの業績数が多いことをどう評価したらよいのだろうかと考えてしまった。また、実験計画に危うい者も少なくない。被験者が5人の実験研究で分散分析を使うことの問題点(データが正規分布を仮定できることがANOVAの基本と私は教えられている)に斟酌していないなど、実験心理学者をチームに入れている場合が少ないためであろう(このことはreview論文には書いておいた)。
著者が多くなる他の理由に、機器購入に関連することもあろう。高価な機械の購入には多くの人間が使う、という購入申請書が書かれたはずで(書かないと申請は通るまい)、一端購入したfMRIなどの機器の高い維持経費は、「たくさん研究発表をした」ということで評価がOKという仕組みが生まれるので、単純に著者が多い、本当は誰が考えた実験なの、とクレームを付けるのを憚れる部分もある。
とかく高価な機械や設備、新しい施設を入手できたときは万歳なのだが、その後の維持は大変である。山のてっぺんにある校舎まで300段も階段を上るのは大変とういうことでエスカレータが設置されて喜んだが、その後のメンテナンスに悲鳴をあげている大学もある。僕も数年前に大型の予算申請を書いたことがある。3000万ほどの機械を組み込んでの億単位の申請書で、20ページ以上の申請書を書いた当時は、不採択の結果は面白くなかったが、採択されていれば今頃大慌てしているに違いない。昨年、そのとき申請した機械を別の研究機関で借用してデータを取ることができたが、実験・データ解析の過程の煩雑さは予想もしなかったレベルであった。負け惜しみでなく、不採択でよかったと思っている。そうでなれば、機械を使う実験の計画や実施、その大量のデータ処理に奔走しているに違いないからである。
大きな金額の研究経費をせしめて、一時は得意かも知れないがジワジワ苦悩が始まる経験をするよりも、慎ましく、アイデアに溢れた単純な実験研究を旨とすべしということである。
話は飛ぶが、送られて来た雑誌を捨てる前にパラパラ見ていると、現役時代に500万の人は一月25万弱で老後が過ごせるが、1000万の人は50万弱ないと惨めな思いで過ごすことになるという、フィナンシャルアドバイザーなる人の記事が目に留まった。僕の定年後の生活設計は未定だが、現在の研究費や収入は激減することを覚悟せねばいけないのだなあと考え込んでしまった。
何時飲めなくなるかも分からないから、美味いビールにしようと主張して、最近はエビスやプレミアムビールを購入していたのだが、年金生活の準備にはラガービールを経て、発泡酒に向かう準備に入らなければならない時期に来ているようである。
かくて、始めての締め切り破りの経験は、定年後の心構えにまで影響を及ぼす事件となったのであります。
年の始めに(2007/1/7)
慌ただしい年末はあったという間に過ぎて新しい年となった。例年にも増して新年への切り替わりが実感できていない。時間の経過が早く感じられるのが老人の特徴であると発達心理学の本に記載はあるが、高齢化だけではないように思える。昔ほど歳末を実感させるできごとや年が変わったことを寿ぐ時間や機会が減ったためではないかと思う。年末年始にTVを見る機会がなかった今年は、何時が元旦で大晦日なのかの手がかりがなかったように思える。
たとえば、10年前であれば12月20日頃には大学での講義も終わり、年賀状を準備したり、大掃除をしている人々をみかけたものだ。近所そろって、30日頃には一斉に大掃除をし、洗車している姿を見かけたものである。今年は近所の家庭には軒並み病人がいるようで、洗車も大掃除もやらなかったり手短に済ませたようである。正月で一時帰宅というような患者がいては掃除どころではあるまい。私のところもそういう事態を迎える日も遠くはないであろう。
28日に次男が帰宅したので、我が家は例年通りのレベルの大掃除ができた。網戸を洗い、窓を拭き玄関のタイルを磨くなどした。来年は国家試験を控えているので多分協力は得られそうにない。我が家も次回の大掃除は手短なものにならざるを得まい。2日後に来た筋肉痛を考慮するともうそろそろ限界である。
12月は27日まで授業があったので、自分の年賀状は29日に投函するのがやっとであった。誰もが同じ事情なのか、今年の年賀状は元旦に届いたものは例年の半分くらいであった。もう年賀状を出さなくなってきたのかと思っていたら6日頃まで毎日少しずつ届いて結局は例年と大差のない枚数となっている。何のことはない、元旦に年賀状が届くようにという気持ちが持てなくなっているのか、時間に余裕がないのである。
大晦日は長男が嫁と帰宅したので6時頃から飲み始めることとなった。年末にいろいろな知人からご馳走をたくさん贈ってもらっていたので、ゆっくり新しく来た嫁を交えて団らんになるなあと思っていたのだが次男の早いピッチに惑わされたのかワインを3本飲んだあたりで私は床に着いてしまった。気づいたら元日の朝であり、私以外のメンバーは除夜の鐘を突きに近在のお寺と神社に初詣に行ったようで、神社でもらったと思しき祝い箸がテーブルに置いてあった。今年に始まったことでもないが、年が変わる区切りの時間をまた見逃してしまったのだ。
元日は私の郷里に嫁を紹介すべく車で帰ったのだが、コンビニはいうまでもなくたいていの店舗が営業しているのに気づいた。かつてのように3ヶ日はどこもが休みで、よそ行きの服装を着た人々が晴れがましく行き交うゆったりと時間が流れるというような雰囲気はどこからも感じられなかった。地域の皆が一斉に休むということがなくなってしまったのだ。一斉に休むことで、時間を静止させ、新たな時間の再始動を感じていたのであろう。今日のように各自が自由に時間を制御できている感じが持てるのは悪いことではないが、かつてコミュニティが持っていた凝集性は時間を共有するということにも決め手があったような気がする。
「前髪(青年団に入る前の児童の組織)」と呼ばれて地区のふれ事などをしていた子どもの頃(昭和30年頃かな)には野良での仕事を地区全体が一斉に休むという日があった。一軒一軒触れて回るのであるから、禁を破って仕事にでるような家庭はなかったはずで、時間を止め、時間を始動させるけじめを知恵として持っていたのであろう。
のんべんだらりと時間が流れ、区切りもけじめもなく生活をしていくことが、現代に生きるわれわれが便利さと引き換えにしたことなのかと思うと忸怩たるものを感じずには居れない。
今年こそは時間がゆっくりと流れることを実感できる生き方を追求したいと思うのである。豊かな時間であったと思えるのはどんな時なのだろうと考えてみると、よく知らない人とゆっくり語り合う、ゆっくり歩いて空や木々の緑を十分鑑賞する、静止した時間を味わうために仕事に関係しない本をゆっくりと読む、などではないかといろいろ思案したことであった。
これらの思いとは一致しない、1月4日から始まった非常勤講師の講義に向かう新幹線の中でのことでありました。
たとえば、10年前であれば12月20日頃には大学での講義も終わり、年賀状を準備したり、大掃除をしている人々をみかけたものだ。近所そろって、30日頃には一斉に大掃除をし、洗車している姿を見かけたものである。今年は近所の家庭には軒並み病人がいるようで、洗車も大掃除もやらなかったり手短に済ませたようである。正月で一時帰宅というような患者がいては掃除どころではあるまい。私のところもそういう事態を迎える日も遠くはないであろう。
28日に次男が帰宅したので、我が家は例年通りのレベルの大掃除ができた。網戸を洗い、窓を拭き玄関のタイルを磨くなどした。来年は国家試験を控えているので多分協力は得られそうにない。我が家も次回の大掃除は手短なものにならざるを得まい。2日後に来た筋肉痛を考慮するともうそろそろ限界である。
12月は27日まで授業があったので、自分の年賀状は29日に投函するのがやっとであった。誰もが同じ事情なのか、今年の年賀状は元旦に届いたものは例年の半分くらいであった。もう年賀状を出さなくなってきたのかと思っていたら6日頃まで毎日少しずつ届いて結局は例年と大差のない枚数となっている。何のことはない、元旦に年賀状が届くようにという気持ちが持てなくなっているのか、時間に余裕がないのである。
大晦日は長男が嫁と帰宅したので6時頃から飲み始めることとなった。年末にいろいろな知人からご馳走をたくさん贈ってもらっていたので、ゆっくり新しく来た嫁を交えて団らんになるなあと思っていたのだが次男の早いピッチに惑わされたのかワインを3本飲んだあたりで私は床に着いてしまった。気づいたら元日の朝であり、私以外のメンバーは除夜の鐘を突きに近在のお寺と神社に初詣に行ったようで、神社でもらったと思しき祝い箸がテーブルに置いてあった。今年に始まったことでもないが、年が変わる区切りの時間をまた見逃してしまったのだ。
元日は私の郷里に嫁を紹介すべく車で帰ったのだが、コンビニはいうまでもなくたいていの店舗が営業しているのに気づいた。かつてのように3ヶ日はどこもが休みで、よそ行きの服装を着た人々が晴れがましく行き交うゆったりと時間が流れるというような雰囲気はどこからも感じられなかった。地域の皆が一斉に休むということがなくなってしまったのだ。一斉に休むことで、時間を静止させ、新たな時間の再始動を感じていたのであろう。今日のように各自が自由に時間を制御できている感じが持てるのは悪いことではないが、かつてコミュニティが持っていた凝集性は時間を共有するということにも決め手があったような気がする。
「前髪(青年団に入る前の児童の組織)」と呼ばれて地区のふれ事などをしていた子どもの頃(昭和30年頃かな)には野良での仕事を地区全体が一斉に休むという日があった。一軒一軒触れて回るのであるから、禁を破って仕事にでるような家庭はなかったはずで、時間を止め、時間を始動させるけじめを知恵として持っていたのであろう。
のんべんだらりと時間が流れ、区切りもけじめもなく生活をしていくことが、現代に生きるわれわれが便利さと引き換えにしたことなのかと思うと忸怩たるものを感じずには居れない。
今年こそは時間がゆっくりと流れることを実感できる生き方を追求したいと思うのである。豊かな時間であったと思えるのはどんな時なのだろうと考えてみると、よく知らない人とゆっくり語り合う、ゆっくり歩いて空や木々の緑を十分鑑賞する、静止した時間を味わうために仕事に関係しない本をゆっくりと読む、などではないかといろいろ思案したことであった。
これらの思いとは一致しない、1月4日から始まった非常勤講師の講義に向かう新幹線の中でのことでありました。
風邪?(食事中には読むのは薦めません)
先週の火曜日10時半頃のことであった。机に向かってパソコンで作業をしているとき、ふと吐き気を感じ、流しを目指した。椅子から立ち上がり研究室の流し台まではせいぜい4歩の距離である。時間にすれば2秒以内であろう。にもかかわらず、ヴォーという感じで吐いてしまった。吐瀉物は流し台にシンクにうまく届いたのは半分、あとは流し台の壁面、吊るしてあったタオルに投げつけられたのであった。今まで経験したことのない嘔吐であった。確か吐くという英語はVomitであったと思うが、擬音として誕生した語に違いない。ヴォーという恐ろしい勢いの吐瀉であった。
朝方少しだけ寒いな,と感じて目が覚めた記憶がある。食欲がないので小さなリンゴを半分だけかじって研究室に到着したのであった。吐瀉物はリンゴのこなれていない欠片ばかりで、鼻の穴から口の中、流し台、タオル、床面に散らばることと相成った。何ともあっという間の出来事であった。その10分ほど前にもゲップのついでにリンゴの欠片が口の中に踊りでてきており、「ノロウイルスの仕業だ!」と確信したことであった。
11時過ぎには部屋を出て東京に講演のために向かう予定があったので、スライドの並べ替えなどをしていたのだ。嘔吐の後はかなり気分が持ち直した。「もう年齢も年齢だし,無理するのは止めようか、でも今から中止を申し出るのも相手には迷惑なことだし」などと、どうしたものかと思案したのだが、「止めたいな」と思うのを振り切って出かけて倒れた札幌の学会での20年ほど前の記憶などがよみがえり、思い切って先方に電話し、予定のキャンセルを申し出たことであった。そのときにはまだリンゴの破片が残っているせいか声もかすれ気味で,相手にも僕の緊急性が伝わったようであった。その直後から下痢が始まった。
新幹線に乗っていたら、あるいは嘔吐が1時間後であったらと考えるとぞっとしてしまう。おそらくは近隣の乗客とか検札に来た車掌に未消化のリンゴ片をひっかぶらせていたに違いない、あるいは下痢でパンツを汚すようなことが生じていたかも知れない。PTSDになって新幹線に乗れなくなってしまうようなことになった可能性は大である(少し大げさかも)。不幸中の幸いであったと考えることにした。
そのまま下宿に戻り、ともかく寝ることにした。何も食べなかったのだが途中で起きることもなく、翌朝6時頃まで眠っていた。翌水曜日は遠いので非常勤講師を休むことにしたが、午後から夕方までの2つの会議には出席した。木曜日には非常勤の講義にも出かけた。もちろんこの間食欲もなかったのだが、栄養ドリンク以外固形物は食べずにいた。一週間前にこの非常勤先の事務の女性にお茶を出してもらって、雑談した折りに、彼女は「胃腸に来る風邪をひいてひどい目に遭っています」と言っていた。そのとき、僕は運動しているから風邪など数年ひいた記憶がないと自慢したばかりであった。火曜日に嘔吐したが、一日で終わったみたいで驚異の快復力だ!と自分に言い聞かせつつ話していると部屋に来た吉崎先生は、学校からの父兄宛のニュースでその手の風邪がはやっているようです、でも「2日ほどで治るらしいですよ」と言う。何ともバツの悪いことであった。
思い返せば2週間連続で土日に身体を休ませることができなかったために免疫力が落ちていたための嘔吐騒ぎであった。体力の衰えを自覚せざるを得ないということである。
しかし、最近ポジティブ心理学なるものが話題になっているが、ここで体力の衰えや老化を思い知り沈んでしまっていてはいけない。そこで、絶食で2Kg痩せられたのは高血圧対策としては、大変望ましいことだ、と結論づけることにした。年末は集中講義などで、土日に身体を休めることができない予定が待っているのだが、この予定をどうポジティブに自分に言って聞かせればよいか思案しているところである。
朝方少しだけ寒いな,と感じて目が覚めた記憶がある。食欲がないので小さなリンゴを半分だけかじって研究室に到着したのであった。吐瀉物はリンゴのこなれていない欠片ばかりで、鼻の穴から口の中、流し台、タオル、床面に散らばることと相成った。何ともあっという間の出来事であった。その10分ほど前にもゲップのついでにリンゴの欠片が口の中に踊りでてきており、「ノロウイルスの仕業だ!」と確信したことであった。
11時過ぎには部屋を出て東京に講演のために向かう予定があったので、スライドの並べ替えなどをしていたのだ。嘔吐の後はかなり気分が持ち直した。「もう年齢も年齢だし,無理するのは止めようか、でも今から中止を申し出るのも相手には迷惑なことだし」などと、どうしたものかと思案したのだが、「止めたいな」と思うのを振り切って出かけて倒れた札幌の学会での20年ほど前の記憶などがよみがえり、思い切って先方に電話し、予定のキャンセルを申し出たことであった。そのときにはまだリンゴの破片が残っているせいか声もかすれ気味で,相手にも僕の緊急性が伝わったようであった。その直後から下痢が始まった。
新幹線に乗っていたら、あるいは嘔吐が1時間後であったらと考えるとぞっとしてしまう。おそらくは近隣の乗客とか検札に来た車掌に未消化のリンゴ片をひっかぶらせていたに違いない、あるいは下痢でパンツを汚すようなことが生じていたかも知れない。PTSDになって新幹線に乗れなくなってしまうようなことになった可能性は大である(少し大げさかも)。不幸中の幸いであったと考えることにした。
そのまま下宿に戻り、ともかく寝ることにした。何も食べなかったのだが途中で起きることもなく、翌朝6時頃まで眠っていた。翌水曜日は遠いので非常勤講師を休むことにしたが、午後から夕方までの2つの会議には出席した。木曜日には非常勤の講義にも出かけた。もちろんこの間食欲もなかったのだが、栄養ドリンク以外固形物は食べずにいた。一週間前にこの非常勤先の事務の女性にお茶を出してもらって、雑談した折りに、彼女は「胃腸に来る風邪をひいてひどい目に遭っています」と言っていた。そのとき、僕は運動しているから風邪など数年ひいた記憶がないと自慢したばかりであった。火曜日に嘔吐したが、一日で終わったみたいで驚異の快復力だ!と自分に言い聞かせつつ話していると部屋に来た吉崎先生は、学校からの父兄宛のニュースでその手の風邪がはやっているようです、でも「2日ほどで治るらしいですよ」と言う。何ともバツの悪いことであった。
思い返せば2週間連続で土日に身体を休ませることができなかったために免疫力が落ちていたための嘔吐騒ぎであった。体力の衰えを自覚せざるを得ないということである。
しかし、最近ポジティブ心理学なるものが話題になっているが、ここで体力の衰えや老化を思い知り沈んでしまっていてはいけない。そこで、絶食で2Kg痩せられたのは高血圧対策としては、大変望ましいことだ、と結論づけることにした。年末は集中講義などで、土日に身体を休めることができない予定が待っているのだが、この予定をどうポジティブに自分に言って聞かせればよいか思案しているところである。
間違い(11/17)
僕の教え子からしばらくぶりのメールが入って、「明日帝王切開です。心細いです。先生祈って下さい」という内容であった。彼女の今回の妊娠が双子であることが分かってから、入退院を繰り返す彼女に僕は絶対に大きな子どもにして生むようにと何度も励ましてきたのだった。かつて、左利きが双生児に多いこともあり乞われて双生児の研究を手伝ったことがある。双子には低体重児出産が多く,脳に障害を持つ場合が少なくないという知識があったためである。
昨日,携帯メールが届いた。「男児2700g女児2200gで無事生まれました。私も無事に病室に戻りました。本当に長かったです。ありがとうございました。」というものであった。やれやれである。メールを受けてもう産み月になっていたのだと再認識して,親ではないのだが実際に僕は祈った。神様に祈るなどということをするようになったのは何時頃からなのだろうか。
メールを受けたときにも念じたことは念じたのであるが、神社で正式に(お賽銭を入れ、鈴を鳴らして柏手を打ってという意味である)無事の出産を祈ったのだ。「祈るはめになった」というのが正確かもしれない。祈った神社は渋谷の金王神社である。不思議な巡り合わせでこの神社で教え子の無事のお産を祈ることになったのだが、こういうのを人によっては重視し、神様のお導きとか考えるのであろう。
なぜ、僕が渋谷の神社でという疑問が生じよう。これが間違いのためなのである。僕は渋谷駅から10分ほど歩いたところにあるホールで開催されたある助成金の授賞式にでかけたのだが、時間を間違ったために、近くをぶらぶらしているうちにビルの谷間に隠れたように鎮座している金王神社にたどり着いてしまったのだ。ちなみに金王神社は渋谷氏という豪族が(たしか鎌倉時代から)いてその城跡に位置しているという銘表の記載があった。実は3時からの式典だったのだがぼくは13時と勘違いをして、それも当日の朝書類を確認しているときに、20分前に到着して交通費の清算を済ませるようにという小文字を見逃していたのに気づき、慌てて名古屋駅に飛んでいったのである。12時半過ぎにホールに着くことができた。ホールの玄関に式場の案内等が張り出してあり,場所に間違いない、間に合ったと安心して、とりあえずトイレを借りて一人先客のいるロビーで座ったのであった。人が少ないのが気になったのか、何気なく書類を取り出してはじめて13時ではなく午後3時であることに気づいたのだ。別に悪いことをしたのではないのだが、いたたまれなくあわててロビーを飛び出したものの行く宛はない。2時間という時間をどう過ごすのかが僕には問題なのだ。知人を研究室に訪ねるには時間は足らない。僕は一人で喫茶店に入り時間を過ごすという行動様式を持たないので、10分ほど歩いて渋谷駅にもどり、百貨店をぶらぶらし、本屋を覗いて買うつもりもない本を見るなどで時間を過ごさざるを得なかった。それでも時間を持て余し、ホールの近辺を探訪することにしたのである。その際に偶然にもビルの谷間に隠れるようにある金王神社に遭遇したのであった。神社の境内に入って,「そうだ!お産の無事を祈っておかねば」と気づいたのであった。
つまり、僕が時間の勘違いをしなければ,神社に行き着くことはなく神様に祈るということもなかったのだから、間違いのおかげということになる。もし、大きな新生児での出産が何かしら目に見えないもののおかげというのであれば、神様に感謝せよということであり、時間の勘違いを僕に強いたのではあるまいか、などと年取り臭い思案をしているところである。もっとも、教え子はなかなか子どもに恵まれずに、自分のせいであろうと病院で検査した結果、母親に問題はないが父親の精子の濃度が稀薄すぎるという診断で、旦那がしょげていたという過去を持ち、一児を設けての今回の妊娠であった。
そんな訳で、間違いにもいろいろあり、嬉しい結末をもたらすものもあるのだということです。2時間も歩き回った割には筋肉痛にもならずに、まだまだ、若いのかもしれないとほくそ笑んでいるのです。
昨日,携帯メールが届いた。「男児2700g女児2200gで無事生まれました。私も無事に病室に戻りました。本当に長かったです。ありがとうございました。」というものであった。やれやれである。メールを受けてもう産み月になっていたのだと再認識して,親ではないのだが実際に僕は祈った。神様に祈るなどということをするようになったのは何時頃からなのだろうか。
メールを受けたときにも念じたことは念じたのであるが、神社で正式に(お賽銭を入れ、鈴を鳴らして柏手を打ってという意味である)無事の出産を祈ったのだ。「祈るはめになった」というのが正確かもしれない。祈った神社は渋谷の金王神社である。不思議な巡り合わせでこの神社で教え子の無事のお産を祈ることになったのだが、こういうのを人によっては重視し、神様のお導きとか考えるのであろう。
なぜ、僕が渋谷の神社でという疑問が生じよう。これが間違いのためなのである。僕は渋谷駅から10分ほど歩いたところにあるホールで開催されたある助成金の授賞式にでかけたのだが、時間を間違ったために、近くをぶらぶらしているうちにビルの谷間に隠れたように鎮座している金王神社にたどり着いてしまったのだ。ちなみに金王神社は渋谷氏という豪族が(たしか鎌倉時代から)いてその城跡に位置しているという銘表の記載があった。実は3時からの式典だったのだがぼくは13時と勘違いをして、それも当日の朝書類を確認しているときに、20分前に到着して交通費の清算を済ませるようにという小文字を見逃していたのに気づき、慌てて名古屋駅に飛んでいったのである。12時半過ぎにホールに着くことができた。ホールの玄関に式場の案内等が張り出してあり,場所に間違いない、間に合ったと安心して、とりあえずトイレを借りて一人先客のいるロビーで座ったのであった。人が少ないのが気になったのか、何気なく書類を取り出してはじめて13時ではなく午後3時であることに気づいたのだ。別に悪いことをしたのではないのだが、いたたまれなくあわててロビーを飛び出したものの行く宛はない。2時間という時間をどう過ごすのかが僕には問題なのだ。知人を研究室に訪ねるには時間は足らない。僕は一人で喫茶店に入り時間を過ごすという行動様式を持たないので、10分ほど歩いて渋谷駅にもどり、百貨店をぶらぶらし、本屋を覗いて買うつもりもない本を見るなどで時間を過ごさざるを得なかった。それでも時間を持て余し、ホールの近辺を探訪することにしたのである。その際に偶然にもビルの谷間に隠れるようにある金王神社に遭遇したのであった。神社の境内に入って,「そうだ!お産の無事を祈っておかねば」と気づいたのであった。
つまり、僕が時間の勘違いをしなければ,神社に行き着くことはなく神様に祈るということもなかったのだから、間違いのおかげということになる。もし、大きな新生児での出産が何かしら目に見えないもののおかげというのであれば、神様に感謝せよということであり、時間の勘違いを僕に強いたのではあるまいか、などと年取り臭い思案をしているところである。もっとも、教え子はなかなか子どもに恵まれずに、自分のせいであろうと病院で検査した結果、母親に問題はないが父親の精子の濃度が稀薄すぎるという診断で、旦那がしょげていたという過去を持ち、一児を設けての今回の妊娠であった。
そんな訳で、間違いにもいろいろあり、嬉しい結末をもたらすものもあるのだということです。2時間も歩き回った割には筋肉痛にもならずに、まだまだ、若いのかもしれないとほくそ笑んでいるのです。
秋は来ぬ
金曜日に送別会があり飲んで帰ったので,駅前の駐車場に置いている車をとりに6時頃家を出た(もちろん,朝である)。30分強を歩いて駐車場まで行かねばならないのだが、幸い天気もよいので、何時もよりゆっくり目に歩くことにした。最近は飲酒運転への取り締まりが厳しいので、飲んだ日はタクシーで帰り、翌日車をとりに行かねばならない。昔は飲んで酔ったまま運転して帰り、無事玄関にたどり着いてぶっ倒れた記憶がある(ただし、30年ほど前の英国での話で時効)。
雲一つない空なので、何かしら秋になったと季節を実感できるものはないかと、歩道を注意深く見回しながら日吉台の高台からJR駅に向かって緩やかな坂道を下ったのだが、途中で朝帰りに違いない疲れきった20歳前後の娘とすれ違ったのと、すすきが貧相に2カ所ばかり生えているのを見かけただけで、何もなかった。35年前に日吉台に家を構えた頃は雑木林や山で緑が多かったのだが、道中は隙間なく住宅が建ち並び、自然の緑はすっかり姿を消してしまった。何軒かの家の垣根にキンモクセイが咲いてはいたが、あの存在を主張する匂いはほとんどしなかった。不思議なことに、大勢いるはずの散歩する中高年の姿も見かけなかった。
車で家に戻ると(たった5分である)、散歩から戻る中高年の一群が下のバス停からの坂を上ってくるのに遭遇した。自宅は緩やかな傾斜の裾に位置しており,車で戻るのは坂を下ることになる。坂の一番裾にバスが通る道路が走っている。その道路の下は田んぼである。田んぼは古くからの集落を囲み、集落は天王山に連なる山裾に位置している。僕の散歩コースでもあるのだが、6時頃には大勢の中高年者が、数人ずつ何組も田んぼが両側に広がるバス通りに平行する農道を行き来しているのである。
翌朝(すなわち日曜日の朝)、1週間ぶりに例のごとく農道を歩いた。山は緑のままで、全く紅葉の気配はないが、そこに秋は来ていた。稲刈りが6割ぐらいの面積で終わっているのである。コンバインを使うので、一気に稲刈りは終わってしまうのだ。コンバインは稲を刈り取り、脱穀し、10センチほどの長さに藁を切り刻み,田んぼの表面にばらまくという作業を一度に済ませるので、田んぼに表面を覆っている切り藁の何とも言えない匂いが農道に漂っている。子どもの頃に一束ずつ鎌で刈り取った時に出た、あの匂いである。稲刈りは田植えよりも子ども心に楽しいものであった。収穫の喜びというものを感じ取っていたからかもしれない。稲刈りをしたことのない人には分からないかも知れないが。稲を刈った時の匂いと、籾殻を焼く匂いは、懐かしい秋の香りである。父や母と一緒に半世紀前に嗅いだ匂いなのだと思ったことであった。
とまれ、秋は山裾に広がる田んぼには一気に来ていた。日吉台からJR駅に面する住宅に住む中高年者を見かけなかったのは,彼らが自宅近くを散歩するのではなく、僕と同じ思いを求めて農道あたりに出て来ているに違いない。
雲一つない空なので、何かしら秋になったと季節を実感できるものはないかと、歩道を注意深く見回しながら日吉台の高台からJR駅に向かって緩やかな坂道を下ったのだが、途中で朝帰りに違いない疲れきった20歳前後の娘とすれ違ったのと、すすきが貧相に2カ所ばかり生えているのを見かけただけで、何もなかった。35年前に日吉台に家を構えた頃は雑木林や山で緑が多かったのだが、道中は隙間なく住宅が建ち並び、自然の緑はすっかり姿を消してしまった。何軒かの家の垣根にキンモクセイが咲いてはいたが、あの存在を主張する匂いはほとんどしなかった。不思議なことに、大勢いるはずの散歩する中高年の姿も見かけなかった。
車で家に戻ると(たった5分である)、散歩から戻る中高年の一群が下のバス停からの坂を上ってくるのに遭遇した。自宅は緩やかな傾斜の裾に位置しており,車で戻るのは坂を下ることになる。坂の一番裾にバスが通る道路が走っている。その道路の下は田んぼである。田んぼは古くからの集落を囲み、集落は天王山に連なる山裾に位置している。僕の散歩コースでもあるのだが、6時頃には大勢の中高年者が、数人ずつ何組も田んぼが両側に広がるバス通りに平行する農道を行き来しているのである。
翌朝(すなわち日曜日の朝)、1週間ぶりに例のごとく農道を歩いた。山は緑のままで、全く紅葉の気配はないが、そこに秋は来ていた。稲刈りが6割ぐらいの面積で終わっているのである。コンバインを使うので、一気に稲刈りは終わってしまうのだ。コンバインは稲を刈り取り、脱穀し、10センチほどの長さに藁を切り刻み,田んぼの表面にばらまくという作業を一度に済ませるので、田んぼに表面を覆っている切り藁の何とも言えない匂いが農道に漂っている。子どもの頃に一束ずつ鎌で刈り取った時に出た、あの匂いである。稲刈りは田植えよりも子ども心に楽しいものであった。収穫の喜びというものを感じ取っていたからかもしれない。稲刈りをしたことのない人には分からないかも知れないが。稲を刈った時の匂いと、籾殻を焼く匂いは、懐かしい秋の香りである。父や母と一緒に半世紀前に嗅いだ匂いなのだと思ったことであった。
とまれ、秋は山裾に広がる田んぼには一気に来ていた。日吉台からJR駅に面する住宅に住む中高年者を見かけなかったのは,彼らが自宅近くを散歩するのではなく、僕と同じ思いを求めて農道あたりに出て来ているに違いない。
学会を開催して
9月22日と23日の両日、名古屋国際会議場で第30回日本神経心理学会を主催した。9月21日には名大で各種役員会を開催した。多くの有能な準備委員会メンバーの支えがあって無事終えることができた。有り難いことである。まだ会計の処理が残っているが一段落と言ったところである。
どんな規模のものであっても学会というものを引き受けると、人間関係が悪くなったとか、スタッフが円形脱毛症になったとか、あまりよい話は聞かないので心配はしていたが、そういうことは起きずに済みそうである。準備委員会のメンバーには何か生じていたかもしれないが、耳にはしていない。僕はレンドルミンの世話になる回数が斬増したくらいである。
大騒ぎせず、通常の一部であるかのように学会が終わりたいというのが僕の望みであった。おおよそ、満足できる形で開催できたのではないかと思っている。
そうは言っても全く問題がなかったという訳ではないので、たまっているものを、吐き出しておこう。こうして心的バランスをとるのが関西人の特性である(と、関西人の独自性を東北人の嫁が指摘している)。
日常的でない諸作業を実行する学会準備では、通常は見えないさまざまな人間の本当の姿がかいま見られる。東京や大阪から手伝いに駆けつけてくれる卒業生がいるかと思えば、ランションセミナーをやりましょう、担当しますと言ってくれていたのだが、途中からいなくなり、他の先生に役割分担以外の仕事を押しつけてしまうことなど様々である。みんなそれぞれに忙しいのだから声高に非難は出来ないけれど。
今回の学会では院生の手伝いをボランティアという形で募集した。メールでは「賃金は払わない」と明記しておいた。バイト料は多少なりとも自腹を切ってでも払うつもりであるが、「金をくれるのなら手伝うけど」という学生は、いらないと考えたためである。「お金がでないのでは…」と言っている院生の声も聞いたが、「バイト代は出さない」と返事しておいた。結局17名が登録してくれた65%程度であった。院生の諸作業にお金を払う習慣をつけた責任の一端は僕にあるので、自業自得ではある(多の大学ではこういう習慣はないそうである)。僕の学生時代は、毎日ネズミの部屋の掃除や餌、水の手配、猫のご飯炊き(いつも市場で魚のアラを20円分買うので、魚屋のおばちゃんと顔見知りになった。自分で食べるのだろうと思われていたに違いない)を手伝う毎日であった記憶がある。しかし、謝金をもらった記憶はない。先生の仕事を手伝えるのは嬉しいぐらいに思っていた。先輩の実施する長時間の辛い知覚実験の被験者の場合でも同様であった。手伝うことは当然であり、喜んでもらえることで皆良しとしていた。
自分のことで一杯一杯です、というのが昨今の若者の心理特性であり、お金がなしでは貴重な自分の時間は渡せないということらしい。このようになったのは、大学に研究費が多くなった副産物なのであろうか。寂しい限りである。しかし、院生諸君はできるだけ教員と接触して良好な人間関係を構築するよう努力した方がよい。先達との会話からは金銭で買えない情報が埋もれていることもある。自分が見込みがあると一生懸命に取り組んでいると思っている研究も、他の分野の研究者の批判に耐えられないこともあろう。そういう場合は、テーマを変える柔軟性を持つ方がよいと思うが、大学院に入学後教員と相談してテーマを変更したというような話をあまり聞かない。一人前でないという意識が持てないのかも知れないと思ったりしている。
最近のように若い人向けの研究職への就職が困難になってくると、業績だけを評価して採用を決めることはしない。公募して、数人に的を絞った後はさまざまなルートで協調性、ハラスメント危険性などの人となりを調べるのである。指導教官に「業績はあると思いますので、そちらの責任で採用して下さい」と回答されるのと、「業績はもちろん、人間的に特上でお薦めです。私が保証します」と回答される違いの効果は誰でも理解できよう。業績だけを評価基準で採用して人間関係に困っている話や、研究よりも教育や学校運営に有用かで判断されるようになったのが原因である。
最近の心理学系の公募では30~50倍の倍率を覚悟せねばならない(社会学の先生の話では最近の東京の3流私学で150倍を超えたそうな)ので、業績はうんとたくさん優れたものを蓄積することが大事だが、それだけではないことも知るべきであろう。
その他にもいろいろ感じたことはあるのだが(そして、それらを根に持って生きていくのだろうが)、疲れてきたのと、忘れ始めているので、この辺で。なんだか、結局いつもの如く、若い人への苦言となった。こういうのが何よりも老化の特徴であり、自覚はある。
どんな規模のものであっても学会というものを引き受けると、人間関係が悪くなったとか、スタッフが円形脱毛症になったとか、あまりよい話は聞かないので心配はしていたが、そういうことは起きずに済みそうである。準備委員会のメンバーには何か生じていたかもしれないが、耳にはしていない。僕はレンドルミンの世話になる回数が斬増したくらいである。
大騒ぎせず、通常の一部であるかのように学会が終わりたいというのが僕の望みであった。おおよそ、満足できる形で開催できたのではないかと思っている。
そうは言っても全く問題がなかったという訳ではないので、たまっているものを、吐き出しておこう。こうして心的バランスをとるのが関西人の特性である(と、関西人の独自性を東北人の嫁が指摘している)。
日常的でない諸作業を実行する学会準備では、通常は見えないさまざまな人間の本当の姿がかいま見られる。東京や大阪から手伝いに駆けつけてくれる卒業生がいるかと思えば、ランションセミナーをやりましょう、担当しますと言ってくれていたのだが、途中からいなくなり、他の先生に役割分担以外の仕事を押しつけてしまうことなど様々である。みんなそれぞれに忙しいのだから声高に非難は出来ないけれど。
今回の学会では院生の手伝いをボランティアという形で募集した。メールでは「賃金は払わない」と明記しておいた。バイト料は多少なりとも自腹を切ってでも払うつもりであるが、「金をくれるのなら手伝うけど」という学生は、いらないと考えたためである。「お金がでないのでは…」と言っている院生の声も聞いたが、「バイト代は出さない」と返事しておいた。結局17名が登録してくれた65%程度であった。院生の諸作業にお金を払う習慣をつけた責任の一端は僕にあるので、自業自得ではある(多の大学ではこういう習慣はないそうである)。僕の学生時代は、毎日ネズミの部屋の掃除や餌、水の手配、猫のご飯炊き(いつも市場で魚のアラを20円分買うので、魚屋のおばちゃんと顔見知りになった。自分で食べるのだろうと思われていたに違いない)を手伝う毎日であった記憶がある。しかし、謝金をもらった記憶はない。先生の仕事を手伝えるのは嬉しいぐらいに思っていた。先輩の実施する長時間の辛い知覚実験の被験者の場合でも同様であった。手伝うことは当然であり、喜んでもらえることで皆良しとしていた。
自分のことで一杯一杯です、というのが昨今の若者の心理特性であり、お金がなしでは貴重な自分の時間は渡せないということらしい。このようになったのは、大学に研究費が多くなった副産物なのであろうか。寂しい限りである。しかし、院生諸君はできるだけ教員と接触して良好な人間関係を構築するよう努力した方がよい。先達との会話からは金銭で買えない情報が埋もれていることもある。自分が見込みがあると一生懸命に取り組んでいると思っている研究も、他の分野の研究者の批判に耐えられないこともあろう。そういう場合は、テーマを変える柔軟性を持つ方がよいと思うが、大学院に入学後教員と相談してテーマを変更したというような話をあまり聞かない。一人前でないという意識が持てないのかも知れないと思ったりしている。
最近のように若い人向けの研究職への就職が困難になってくると、業績だけを評価して採用を決めることはしない。公募して、数人に的を絞った後はさまざまなルートで協調性、ハラスメント危険性などの人となりを調べるのである。指導教官に「業績はあると思いますので、そちらの責任で採用して下さい」と回答されるのと、「業績はもちろん、人間的に特上でお薦めです。私が保証します」と回答される違いの効果は誰でも理解できよう。業績だけを評価基準で採用して人間関係に困っている話や、研究よりも教育や学校運営に有用かで判断されるようになったのが原因である。
最近の心理学系の公募では30~50倍の倍率を覚悟せねばならない(社会学の先生の話では最近の東京の3流私学で150倍を超えたそうな)ので、業績はうんとたくさん優れたものを蓄積することが大事だが、それだけではないことも知るべきであろう。
その他にもいろいろ感じたことはあるのだが(そして、それらを根に持って生きていくのだろうが)、疲れてきたのと、忘れ始めているので、この辺で。なんだか、結局いつもの如く、若い人への苦言となった。こういうのが何よりも老化の特徴であり、自覚はある。
八雲町での検診から
今年も北海道八雲町での検診に出かけた。8月3日の朝の飛行機で函館まで行くと、町のバスが迎えに来てくれるのだ。当日の飛行機には40名ほどが乗り込んだ、別便での参加者もあり、八雲町の病院からの応援もあるので検診スタッフは90名近くなる。それに、町の保健婦さんたち職員やボランティア(受診者の誘導係)が加わるので大規模であると共に非常に洗練された検診体制であると自慢できる(25年も続いているので、洗練されるのは当然だが、この洗練化過程に私は寄与していない、6年前に加わったのでfree rider的存在である)。翌日から3日間実施されるのである。
今年も我々心理班は前頭葉機能を測定すべく、言語流暢性、記憶力、注意力、心的回転力、構成失行検査などを行った。これまでの5年間の経験から検査項目は精選し、15分で可能としている(もっとも、耳が遠い人や雑談したがる人がいるのできちんとは行かない)。今年の検診から気づいたことを書いておこう。①町村合併により参加者が減った。例年は900人規模であるのに、有料化以後600人弱になっている。これは有料化(2000円)されたためとか。実施している検診内容は、それぞれの班の研究データを収集する側面を許されているので、豊富であり、詳しいので2000円はただのような値段に思えるが、年寄り2人がくると4000円となるわけで、バカにはならない。去年やったから今年は止めておこうとなるのだろう。町村合併して自治体が豊かにならねば合併の意味がなさそうに思えるが、さまざまな要因があるのであろう。残念なことである。
ただ、検診担当者は時間的に余裕が出来、ゆっくり昼飯がごちそうになれることとなった。最初の頃は昼飯も20分程度でへろへろになるほどであった(かつては、院生の間では、しんどいから八雲検診は敬遠されている気配もあったが、今年は天国であったといえる)。昼ご飯がおいしいのだ!ルビーメロンも、トウキビもスイカも食べ放題!
②検診項目に自信が持てるようになった。精選した検診項目はこれまでも自信はあったのだが、先月名古屋市総合リハビリテーションセンターでの共同研究で主な検診項目の脳機能画像を測定した。近赤外光トポグラフィでの確認である。予想以上に推定脳活動域と検査項目との対応関係がよかったのだ。たとえば、letter fluencyは前頭前野、 word fluencyは側頭葉から頭頂葉にかけて活性化が著しいという予測は統計学的にも確認できたのである。このことから、検査項目の成績のばらつきを見て、脳機能の推論が自信を持って言えるようになった。我々が今回の被検診者で問題に気づいて保健師さんに伝えると、彼女らの日常観察の結果を一致しているのである。少しデータを吟味すれば、個人別に高次脳機能低下を鈍化させる処方箋が住民に返せるかも知れないと思う。またその介入の効果測定も保健師さんの協力があれば可能となろう。それができれば、八雲町の皆さんに恩返しが出来るというものである。
③高次脳機能に関しても夫婦関係のシステム性(相互依存性)を確認できた。パーキンソンを病む夫が、行動が思い通りにならないので怒るので困っていると2年前に相談を受けたことがある。そのときは夫の脳機能は成績が悪かった。奥さんは全く問題なかったのであるが、今年の検診で夫は少し体重も増え、検査成績も改善していた。しばらくして受診した奥さんは2年前に比べると驚くほど成績が低下していた。病気の人を介護していると健康なのに、介護の必要性が低下すると健康でなくなる家族のシステム機能があるようである。夫がもう一度身体が不自由になってくれば、奥さんの脳機能検査の成績が上がるのであれば、夫婦関係のシステム性(相互依存性)を確認は確かなものとなるが、期待して良いのか悪いのか倫理的にも分からない。とまれ、人間は一人で生きているのではなく、他者と相互に依存しながら過ごすことではじめて正常な脳機能が維持できるのだ、と誇大妄想的に言っておこう。
④異性の検査者が好まれる。次々来る受診者を7ブースある検査者の誰の所に行くように指示するかは私の役割である。楽そうに見えるが、けっこう難しい判断がいるのだ(時間がかかりそうな人はベテランに、待ち時間が長くなりそうだと先に血液検査に行かせる、など)。「あちらの先生に行って下さい」と言っての間違いは、3人ほど経験した。いずれも異性の検査者に、私の指示を無視して行くというものであった。おばさんは若い男の検査者に、おっさんは若い女の検査者に無意識的に足が向かうようである。来年はこのことを加味して配分せねばと反省している。
八雲町の検診参加者はすべて善人である。言うまでもなくスタッフもいい人ばかりである(美味いものを食べさせてくれるから言っているのではない)。15分ばかりかかる検診も、だれ一人不平や不満を言わずに受けてくれる。都会での検診では考えられないことである。昨日返ったばかりなのに、来年の予定を楽しみにする理由がここにある。定年後は八雲町に移住するかな?
今年も我々心理班は前頭葉機能を測定すべく、言語流暢性、記憶力、注意力、心的回転力、構成失行検査などを行った。これまでの5年間の経験から検査項目は精選し、15分で可能としている(もっとも、耳が遠い人や雑談したがる人がいるのできちんとは行かない)。今年の検診から気づいたことを書いておこう。①町村合併により参加者が減った。例年は900人規模であるのに、有料化以後600人弱になっている。これは有料化(2000円)されたためとか。実施している検診内容は、それぞれの班の研究データを収集する側面を許されているので、豊富であり、詳しいので2000円はただのような値段に思えるが、年寄り2人がくると4000円となるわけで、バカにはならない。去年やったから今年は止めておこうとなるのだろう。町村合併して自治体が豊かにならねば合併の意味がなさそうに思えるが、さまざまな要因があるのであろう。残念なことである。
ただ、検診担当者は時間的に余裕が出来、ゆっくり昼飯がごちそうになれることとなった。最初の頃は昼飯も20分程度でへろへろになるほどであった(かつては、院生の間では、しんどいから八雲検診は敬遠されている気配もあったが、今年は天国であったといえる)。昼ご飯がおいしいのだ!ルビーメロンも、トウキビもスイカも食べ放題!
②検診項目に自信が持てるようになった。精選した検診項目はこれまでも自信はあったのだが、先月名古屋市総合リハビリテーションセンターでの共同研究で主な検診項目の脳機能画像を測定した。近赤外光トポグラフィでの確認である。予想以上に推定脳活動域と検査項目との対応関係がよかったのだ。たとえば、letter fluencyは前頭前野、 word fluencyは側頭葉から頭頂葉にかけて活性化が著しいという予測は統計学的にも確認できたのである。このことから、検査項目の成績のばらつきを見て、脳機能の推論が自信を持って言えるようになった。我々が今回の被検診者で問題に気づいて保健師さんに伝えると、彼女らの日常観察の結果を一致しているのである。少しデータを吟味すれば、個人別に高次脳機能低下を鈍化させる処方箋が住民に返せるかも知れないと思う。またその介入の効果測定も保健師さんの協力があれば可能となろう。それができれば、八雲町の皆さんに恩返しが出来るというものである。
③高次脳機能に関しても夫婦関係のシステム性(相互依存性)を確認できた。パーキンソンを病む夫が、行動が思い通りにならないので怒るので困っていると2年前に相談を受けたことがある。そのときは夫の脳機能は成績が悪かった。奥さんは全く問題なかったのであるが、今年の検診で夫は少し体重も増え、検査成績も改善していた。しばらくして受診した奥さんは2年前に比べると驚くほど成績が低下していた。病気の人を介護していると健康なのに、介護の必要性が低下すると健康でなくなる家族のシステム機能があるようである。夫がもう一度身体が不自由になってくれば、奥さんの脳機能検査の成績が上がるのであれば、夫婦関係のシステム性(相互依存性)を確認は確かなものとなるが、期待して良いのか悪いのか倫理的にも分からない。とまれ、人間は一人で生きているのではなく、他者と相互に依存しながら過ごすことではじめて正常な脳機能が維持できるのだ、と誇大妄想的に言っておこう。
④異性の検査者が好まれる。次々来る受診者を7ブースある検査者の誰の所に行くように指示するかは私の役割である。楽そうに見えるが、けっこう難しい判断がいるのだ(時間がかかりそうな人はベテランに、待ち時間が長くなりそうだと先に血液検査に行かせる、など)。「あちらの先生に行って下さい」と言っての間違いは、3人ほど経験した。いずれも異性の検査者に、私の指示を無視して行くというものであった。おばさんは若い男の検査者に、おっさんは若い女の検査者に無意識的に足が向かうようである。来年はこのことを加味して配分せねばと反省している。
八雲町の検診参加者はすべて善人である。言うまでもなくスタッフもいい人ばかりである(美味いものを食べさせてくれるから言っているのではない)。15分ばかりかかる検診も、だれ一人不平や不満を言わずに受けてくれる。都会での検診では考えられないことである。昨日返ったばかりなのに、来年の予定を楽しみにする理由がここにある。定年後は八雲町に移住するかな?
ギリシャは暑い、痛い
応用心理学会の国際学会がアテネであったので参加してきた。結論は気乗りのしない学会には行くべきではない、ということである。僕は基本的には大きな国際学会には日本であったとき以外は参加しないできた。今回はトヨタとの共同研究をやっている心理学側の者らが前年から行こう、行こうと盛り上がっていたので、最終判断は自分で申し込んだのだから文句は言う宛はないが、ついその気になったのである(トヨタの金で行ったわけではない)。
学会の最初の日と最後の日に発表が組み込まれるという遊びようがないスケジュールで困ったと思っていたのだが、東京で重要な会議が入って、最後の発表の日には帰国していなければならないことになった、この時点でキャンセルしようとそのつもりになったが、学会事務局は申し込んだホテル代金は返金しないとある。5星のホテルにしたのでかなりの金額を捨てることになる。学会参加費と合わせると13~4万にもなるのは嫌だと思って思い切っていくことにしたのだ。
不満の第1。ホテルはしょぼかった。24時頃にホテルに着いたのだが、洗面セットがない。お茶のセットもない。バスタブも意外と小さい。テレビはギリシャ語ばかり。CNNだけの情報しか英語では入らない。ネットのサービスがない(あるのはあるが、時間当たりが高い)。有名なアメリカのホテルチェーンだのにである。オリンピックを開催したのが信じられないほどである。
第2の不満。日差しが暑い。ともかく暑い。アクロポリスは歩くのには規模が大きすぎる。汗が流れるのだが、風が吹くと急に乾く(これは気持ちがよい)。埃っぽい。サングラスがないと埃と日差しで歩けない。歩道が狭い(すれ違えない幅である)。車の運転が乱暴(歩道のラインの真ん中で止まる)。
不満の第3。食べ物が塩分過多。とにかく塩辛い。高血圧の僕には良くない。よけいに水やビールを飲むしかない。乾燥しているからアテネの人は塩分を取らねば身体が持たないのであろう。身体に水分が貯まる暇がないせいか、肥満の女性を見ることは少なかった(日本人ほど細くはないが)。
不満の第4。学会費が高い。約6万もする。だのに、学会鞄は貧弱な布袋一つ、会場では1日1杯分のコーヒー券しかくれない。レセプションに食べ物がない(どこでもそうだが)。
不満はそれくらいかな。痛いのは僕の水虫。出かける前から水虫をうつされ(多分プールで)ていた。当然、医者の薬に加えて売薬も沢山持参した。飛行機の中では靴を脱いで蒸れない配慮をしていたのだが、アテネの街を歩くときにうっかり靴で歩いたのであった。暑さのせいであろう。気がまわらなかったのである。顔面の汗は風で乾くので気分は爽快だが、足は蒸れ、蒸れの持続であることを失念してしまったのだ。3日目から足先の水虫は異常増殖、その周りに湿疹ができてしまった(帰国した当日に皮膚科で確認ずみ)。右足は腫れはじめ、歩くと痛みが走るようになったのだ。リンパがはれるようになったらどうしようかとびくびくであった。帰路にショッピングを楽しみにしていたドゴール空港では移動もままならず、5時間じっと座っているしかできなかった(それも痛い、痛いと言いつつ)。今度アテネに行く人はサンダルは必携である。
ただ一つ良かったことがある。日中は暑いので(7時頃から20時頃まで)、2時間ほど観光にでると部屋に戻り、休むしかない。この間に持参したPCで懸案の原稿を書くことができた。400字×25枚は書けたのである(完成版ではないが)。アテネが心地よい気候で、食べ物がうまくて、と言うことであれば、多分観光に駆けめぐって時間を潰したはずなので、原稿を書くどころではなかったに違いない、と思うことにする。怪我の功名ということにしないと。持ち出しの金額と釣り合わないからである。
学会の最初の日と最後の日に発表が組み込まれるという遊びようがないスケジュールで困ったと思っていたのだが、東京で重要な会議が入って、最後の発表の日には帰国していなければならないことになった、この時点でキャンセルしようとそのつもりになったが、学会事務局は申し込んだホテル代金は返金しないとある。5星のホテルにしたのでかなりの金額を捨てることになる。学会参加費と合わせると13~4万にもなるのは嫌だと思って思い切っていくことにしたのだ。
不満の第1。ホテルはしょぼかった。24時頃にホテルに着いたのだが、洗面セットがない。お茶のセットもない。バスタブも意外と小さい。テレビはギリシャ語ばかり。CNNだけの情報しか英語では入らない。ネットのサービスがない(あるのはあるが、時間当たりが高い)。有名なアメリカのホテルチェーンだのにである。オリンピックを開催したのが信じられないほどである。
第2の不満。日差しが暑い。ともかく暑い。アクロポリスは歩くのには規模が大きすぎる。汗が流れるのだが、風が吹くと急に乾く(これは気持ちがよい)。埃っぽい。サングラスがないと埃と日差しで歩けない。歩道が狭い(すれ違えない幅である)。車の運転が乱暴(歩道のラインの真ん中で止まる)。
不満の第3。食べ物が塩分過多。とにかく塩辛い。高血圧の僕には良くない。よけいに水やビールを飲むしかない。乾燥しているからアテネの人は塩分を取らねば身体が持たないのであろう。身体に水分が貯まる暇がないせいか、肥満の女性を見ることは少なかった(日本人ほど細くはないが)。
不満の第4。学会費が高い。約6万もする。だのに、学会鞄は貧弱な布袋一つ、会場では1日1杯分のコーヒー券しかくれない。レセプションに食べ物がない(どこでもそうだが)。
不満はそれくらいかな。痛いのは僕の水虫。出かける前から水虫をうつされ(多分プールで)ていた。当然、医者の薬に加えて売薬も沢山持参した。飛行機の中では靴を脱いで蒸れない配慮をしていたのだが、アテネの街を歩くときにうっかり靴で歩いたのであった。暑さのせいであろう。気がまわらなかったのである。顔面の汗は風で乾くので気分は爽快だが、足は蒸れ、蒸れの持続であることを失念してしまったのだ。3日目から足先の水虫は異常増殖、その周りに湿疹ができてしまった(帰国した当日に皮膚科で確認ずみ)。右足は腫れはじめ、歩くと痛みが走るようになったのだ。リンパがはれるようになったらどうしようかとびくびくであった。帰路にショッピングを楽しみにしていたドゴール空港では移動もままならず、5時間じっと座っているしかできなかった(それも痛い、痛いと言いつつ)。今度アテネに行く人はサンダルは必携である。
ただ一つ良かったことがある。日中は暑いので(7時頃から20時頃まで)、2時間ほど観光にでると部屋に戻り、休むしかない。この間に持参したPCで懸案の原稿を書くことができた。400字×25枚は書けたのである(完成版ではないが)。アテネが心地よい気候で、食べ物がうまくて、と言うことであれば、多分観光に駆けめぐって時間を潰したはずなので、原稿を書くどころではなかったに違いない、と思うことにする。怪我の功名ということにしないと。持ち出しの金額と釣り合わないからである。
恐ろしげな話
日曜日に家内の父親、即ち義父の33回忌と昨年自宅で看取った家内の叔母の3回忌の法要が鳴門市であり、参加した。家内の実家は真言宗なので僕の実家の浄土真宗とは法要の様相がずいぶんと異なっている。真言宗は装飾が浄土真宗よりも派手であり、まつりごとも数多くで、平安時代に貧しい層の支持を受けなくなったことは社会科の時間に習ったとおりである。もっとも、僕の実家の方が田舎なので、お経の時間は有意に長い(丁寧である)。お坊さんのお経の後に卒塔婆を持参して墓参する習慣は僕に実家にはない。いくつかの差異を観察して興味深かった。真言宗では般若心経が有名だが、十三仏真言というのがあり、不動明王は、「のうまくさんまんだ、ばざらだん、せんだん、まかろしゃだ、そわたや、うんたらた、かんまん」。釈迦如来は、「 のうまくさんまんだ、ぼだなん、ばく」。 文殊菩薩 は、「おん、あらはしゃのう」。普賢菩薩は、「おん、さんまや、さとばん」。地蔵菩薩 は、「おん、かかか、びさんまえい、そわか」。弥勒菩薩は、「おん、まいたれいや、そわか」。薬師如来は、「おん、ころころ、せんだり、まとうぎ、そわか」。観世音菩薩は、「おん、あろりきゃ、そわか」。勢至菩薩は、「おん、さん、ざん、ざんさく、そわか」。阿弥陀如来は、「おん、あみりた、ていせい、からうん」。阿しゅく如来は、「おん、あきしゅびや、うん」。大日如来は、「おん、あびらうんけん、ばざら、だどばん」。虚空蔵菩薩は、「のうぼう、あきゃしゃ、ぎゃらばや、おんあり、きゃまり、ぼり、そわか」というように、マントラを7回繰り返すのである。3回忌は薬師如来、33回忌は大日如来というように決まっている。昨年も気づいていたことであるが、それぞれのマントラは口を大きく開けたり、閉じたりせねばならないので構音の訓練に都合がよく、前頭葉の機能訓練に適していると思ったりして興味深かったのである。読者もどれかのマントラを唱えることを習慣にすると「あ・え・い・お・う・あ・う」などと叫んでいるよりも効果があるかも知れない。
真言宗では33回忌の次は50回忌ということらしいのだが、氏神信仰では、死んだ者は30年で神になれると柳田国男が言っているので、外国から入ってきた仏教の方が戒律は厳しいことになる。社会が豊かになると厳しい戒律の方が好まれるのというのであれば、このことは別な意味で興味深い。
日曜日はこのような調子で、やや宗教的な心的スキーマのまま、ワールドサッカー「日本対クロアティア」を見ることもなく就寝した(引き分けたので無理をしなくてよかった)。
ここからが恐ろしげな話である。月曜日の早朝、例の如く散歩から帰り門を閉じると、門の中にカラスが横たわっているではないか。大きなカラスで、鳴き声で変に思ったという家内は死んでいるのかも確かめずに居た。確認すると死んでいるので僕が始末した。口先の辺りに吐瀉物の様なものがあったのでネコに襲われたとか、喧嘩して負けたというのではなさそうである。あまり気分良い経験ではないが、カラスが庭に落ちて死ぬというのは確率的には宝くじに当たるよりも少なそうである。何かとんでもなく良いことが起きるのかも知れないと思うことにして、昼前に大学に出かけた。メールをチェックしていると、[Hatta family research]という怪しげなタイトルのメールが届いていた。開けてみるとアメリカの大学の人類学の先生がHatta Yaekoという1885年?生まれの人間と関係がないかを確認するものであった。疎開地は滋賀県であったとあるので、何か関係があるのかも知れないが、少なくとも僕の記憶にはそんな名前の縁者はいない。この先生は花嫁人形の人類学的著書を書いている途中でYaekoさんが重要人物らしい。2つのメールには文献が添付されており、「血に塗られた人形: Bloodstained doll」というタイトルであった。ぱらぱらと目を通すと恐山の話などが記載されている。夏休みに帰ったら八田家の家系を調べねばなるまい。この人類学者は僕の作った「Doll Location Test」を今後の研究に使えないかと考えているという。Doll Location Testを使った英文で書いている心理学研究論文を通じてHattaにたどり着いた模様である。アメリカ人の人類学者が僕を捜し出す確率も高くはないとおもうので、妙な気分にさせられる事柄が続いた週明けでありました。
真言宗では33回忌の次は50回忌ということらしいのだが、氏神信仰では、死んだ者は30年で神になれると柳田国男が言っているので、外国から入ってきた仏教の方が戒律は厳しいことになる。社会が豊かになると厳しい戒律の方が好まれるのというのであれば、このことは別な意味で興味深い。
日曜日はこのような調子で、やや宗教的な心的スキーマのまま、ワールドサッカー「日本対クロアティア」を見ることもなく就寝した(引き分けたので無理をしなくてよかった)。
ここからが恐ろしげな話である。月曜日の早朝、例の如く散歩から帰り門を閉じると、門の中にカラスが横たわっているではないか。大きなカラスで、鳴き声で変に思ったという家内は死んでいるのかも確かめずに居た。確認すると死んでいるので僕が始末した。口先の辺りに吐瀉物の様なものがあったのでネコに襲われたとか、喧嘩して負けたというのではなさそうである。あまり気分良い経験ではないが、カラスが庭に落ちて死ぬというのは確率的には宝くじに当たるよりも少なそうである。何かとんでもなく良いことが起きるのかも知れないと思うことにして、昼前に大学に出かけた。メールをチェックしていると、[Hatta family research]という怪しげなタイトルのメールが届いていた。開けてみるとアメリカの大学の人類学の先生がHatta Yaekoという1885年?生まれの人間と関係がないかを確認するものであった。疎開地は滋賀県であったとあるので、何か関係があるのかも知れないが、少なくとも僕の記憶にはそんな名前の縁者はいない。この先生は花嫁人形の人類学的著書を書いている途中でYaekoさんが重要人物らしい。2つのメールには文献が添付されており、「血に塗られた人形: Bloodstained doll」というタイトルであった。ぱらぱらと目を通すと恐山の話などが記載されている。夏休みに帰ったら八田家の家系を調べねばなるまい。この人類学者は僕の作った「Doll Location Test」を今後の研究に使えないかと考えているという。Doll Location Testを使った英文で書いている心理学研究論文を通じてHattaにたどり着いた模様である。アメリカ人の人類学者が僕を捜し出す確率も高くはないとおもうので、妙な気分にさせられる事柄が続いた週明けでありました。