学会を開催して | はったブログ

学会を開催して

 9月22日と23日の両日、名古屋国際会議場で第30回日本神経心理学会を主催した。9月21日には名大で各種役員会を開催した。多くの有能な準備委員会メンバーの支えがあって無事終えることができた。有り難いことである。まだ会計の処理が残っているが一段落と言ったところである。
どんな規模のものであっても学会というものを引き受けると、人間関係が悪くなったとか、スタッフが円形脱毛症になったとか、あまりよい話は聞かないので心配はしていたが、そういうことは起きずに済みそうである。準備委員会のメンバーには何か生じていたかもしれないが、耳にはしていない。僕はレンドルミンの世話になる回数が斬増したくらいである。
大騒ぎせず、通常の一部であるかのように学会が終わりたいというのが僕の望みであった。おおよそ、満足できる形で開催できたのではないかと思っている。
 そうは言っても全く問題がなかったという訳ではないので、たまっているものを、吐き出しておこう。こうして心的バランスをとるのが関西人の特性である(と、関西人の独自性を東北人の嫁が指摘している)。
 日常的でない諸作業を実行する学会準備では、通常は見えないさまざまな人間の本当の姿がかいま見られる。東京や大阪から手伝いに駆けつけてくれる卒業生がいるかと思えば、ランションセミナーをやりましょう、担当しますと言ってくれていたのだが、途中からいなくなり、他の先生に役割分担以外の仕事を押しつけてしまうことなど様々である。みんなそれぞれに忙しいのだから声高に非難は出来ないけれど。
 今回の学会では院生の手伝いをボランティアという形で募集した。メールでは「賃金は払わない」と明記しておいた。バイト料は多少なりとも自腹を切ってでも払うつもりであるが、「金をくれるのなら手伝うけど」という学生は、いらないと考えたためである。「お金がでないのでは…」と言っている院生の声も聞いたが、「バイト代は出さない」と返事しておいた。結局17名が登録してくれた65%程度であった。院生の諸作業にお金を払う習慣をつけた責任の一端は僕にあるので、自業自得ではある(多の大学ではこういう習慣はないそうである)。僕の学生時代は、毎日ネズミの部屋の掃除や餌、水の手配、猫のご飯炊き(いつも市場で魚のアラを20円分買うので、魚屋のおばちゃんと顔見知りになった。自分で食べるのだろうと思われていたに違いない)を手伝う毎日であった記憶がある。しかし、謝金をもらった記憶はない。先生の仕事を手伝えるのは嬉しいぐらいに思っていた。先輩の実施する長時間の辛い知覚実験の被験者の場合でも同様であった。手伝うことは当然であり、喜んでもらえることで皆良しとしていた。
 自分のことで一杯一杯です、というのが昨今の若者の心理特性であり、お金がなしでは貴重な自分の時間は渡せないということらしい。このようになったのは、大学に研究費が多くなった副産物なのであろうか。寂しい限りである。しかし、院生諸君はできるだけ教員と接触して良好な人間関係を構築するよう努力した方がよい。先達との会話からは金銭で買えない情報が埋もれていることもある。自分が見込みがあると一生懸命に取り組んでいると思っている研究も、他の分野の研究者の批判に耐えられないこともあろう。そういう場合は、テーマを変える柔軟性を持つ方がよいと思うが、大学院に入学後教員と相談してテーマを変更したというような話をあまり聞かない。一人前でないという意識が持てないのかも知れないと思ったりしている。
 最近のように若い人向けの研究職への就職が困難になってくると、業績だけを評価して採用を決めることはしない。公募して、数人に的を絞った後はさまざまなルートで協調性、ハラスメント危険性などの人となりを調べるのである。指導教官に「業績はあると思いますので、そちらの責任で採用して下さい」と回答されるのと、「業績はもちろん、人間的に特上でお薦めです。私が保証します」と回答される違いの効果は誰でも理解できよう。業績だけを評価基準で採用して人間関係に困っている話や、研究よりも教育や学校運営に有用かで判断されるようになったのが原因である。
 最近の心理学系の公募では30~50倍の倍率を覚悟せねばならない(社会学の先生の話では最近の東京の3流私学で150倍を超えたそうな)ので、業績はうんとたくさん優れたものを蓄積することが大事だが、それだけではないことも知るべきであろう。
 
 その他にもいろいろ感じたことはあるのだが(そして、それらを根に持って生きていくのだろうが)、疲れてきたのと、忘れ始めているので、この辺で。なんだか、結局いつもの如く、若い人への苦言となった。こういうのが何よりも老化の特徴であり、自覚はある。