秋は来ぬ | はったブログ

秋は来ぬ

 金曜日に送別会があり飲んで帰ったので,駅前の駐車場に置いている車をとりに6時頃家を出た(もちろん,朝である)。30分強を歩いて駐車場まで行かねばならないのだが、幸い天気もよいので、何時もよりゆっくり目に歩くことにした。最近は飲酒運転への取り締まりが厳しいので、飲んだ日はタクシーで帰り、翌日車をとりに行かねばならない。昔は飲んで酔ったまま運転して帰り、無事玄関にたどり着いてぶっ倒れた記憶がある(ただし、30年ほど前の英国での話で時効)。
 雲一つない空なので、何かしら秋になったと季節を実感できるものはないかと、歩道を注意深く見回しながら日吉台の高台からJR駅に向かって緩やかな坂道を下ったのだが、途中で朝帰りに違いない疲れきった20歳前後の娘とすれ違ったのと、すすきが貧相に2カ所ばかり生えているのを見かけただけで、何もなかった。35年前に日吉台に家を構えた頃は雑木林や山で緑が多かったのだが、道中は隙間なく住宅が建ち並び、自然の緑はすっかり姿を消してしまった。何軒かの家の垣根にキンモクセイが咲いてはいたが、あの存在を主張する匂いはほとんどしなかった。不思議なことに、大勢いるはずの散歩する中高年の姿も見かけなかった。
 車で家に戻ると(たった5分である)、散歩から戻る中高年の一群が下のバス停からの坂を上ってくるのに遭遇した。自宅は緩やかな傾斜の裾に位置しており,車で戻るのは坂を下ることになる。坂の一番裾にバスが通る道路が走っている。その道路の下は田んぼである。田んぼは古くからの集落を囲み、集落は天王山に連なる山裾に位置している。僕の散歩コースでもあるのだが、6時頃には大勢の中高年者が、数人ずつ何組も田んぼが両側に広がるバス通りに平行する農道を行き来しているのである。

 翌朝(すなわち日曜日の朝)、1週間ぶりに例のごとく農道を歩いた。山は緑のままで、全く紅葉の気配はないが、そこに秋は来ていた。稲刈りが6割ぐらいの面積で終わっているのである。コンバインを使うので、一気に稲刈りは終わってしまうのだ。コンバインは稲を刈り取り、脱穀し、10センチほどの長さに藁を切り刻み,田んぼの表面にばらまくという作業を一度に済ませるので、田んぼに表面を覆っている切り藁の何とも言えない匂いが農道に漂っている。子どもの頃に一束ずつ鎌で刈り取った時に出た、あの匂いである。稲刈りは田植えよりも子ども心に楽しいものであった。収穫の喜びというものを感じ取っていたからかもしれない。稲刈りをしたことのない人には分からないかも知れないが。稲を刈った時の匂いと、籾殻を焼く匂いは、懐かしい秋の香りである。父や母と一緒に半世紀前に嗅いだ匂いなのだと思ったことであった。
 とまれ、秋は山裾に広がる田んぼには一気に来ていた。日吉台からJR駅に面する住宅に住む中高年者を見かけなかったのは,彼らが自宅近くを散歩するのではなく、僕と同じ思いを求めて農道あたりに出て来ているに違いない。