はったブログ -23ページ目

劣化?

4月から新幹線での通勤ではなく、JR京都線(昔の東海道線)、環状線、近鉄南大阪線を使うようになった。通勤ダイヤの乱れの頻繁さに驚いている。別に統計を取っているわけではない。しかし、誇張するようだが3日と連続して電車の遅れがないことはないのではあるまいか。特にJRの場合がひどい。人身事故が発生した、線路に人が入った、急病が出た、信号機の故障などが原因とアナウンスされることが多い。以前よりも事故が多くなり、人間がひ弱になったということなのだろうか。いずれにしても、かつての、時計代わりとなるほど正確に運行されていた国鉄時代の姿は今何処と言いたい。
 外国から知人が来て電車が時間に正確であることや、定められた位置に寸分たがわず停車するのに感嘆する姿に、優越感を持ったことが懐かしい。
 30年前にレスター大学での研究会に呼ばれてその帰り電車に乗り間違ったことがある。講演を終えて雑談でもしていたのか、電車に乗り遅れるかも知れないということで、急ぎ車で駅まで送ってもらうことになった(渡英3ヶ月頃のことで、電話での依頼を断る語学力がない状態での招待講演であった)。4時前の電車で確かバーミンガムを経てカーディフに向かう特急の切符を渡されていたと思う。教えられた番号のプラットホームに駆け込んで停車している電車に飛び乗るという状態であった。空いている座席を見つけてほっとした頃に車内放送があった。拙い語学力ではあったがロンドンという単語が聞き取れたので、いぶかしく思い車掌に聞くと、確かにロンドン行きであるという。間違った特急に乗ってしまったのである。車掌に確認すると、この特急は遅れているので多分君の乗るべき特急は同じホームに15分ほど遅れて着くはずという。仕方なくロンドンまで行き、地下鉄でカーディフ行きの電車のでるパディントンまで行って帰宅するという、ちょうど、三角形の2辺を辿ってのコースとなった。火事場の××力で、拙い英語を駆使し無事11時半頃には帰宅できたのであるが、どのようにカーディフまで帰るべきか、乳飲み子のいる一月ほど前に合流したばかりの家族が心配しているに違いない、などと気が気ではなかった。
 このトラブルの原因はイギリスの鉄道のいい加減さにあると、英国のストの多さや車の修理のいい加減さなどと一緒にその頃に何度か話題にしたことがある。当時の日本の正確無比の国鉄ダイヤ、信頼の置ける技術などと比較し、イギリスのだめなことなどを吹聴したはずである。

 何のことはない、30年前の嘲笑していた事態がわが国のものとなってしまったのだ。ひどい劣化である。何故なのだろう。
 3日と続けてダイヤ通りに運行できないJRとなってしまった原因にはいろいろなものがあるだろうが、一つに尼崎の事故以降の安全運行の遵守方針があるように思える。ちょっとしたトラブルについてもしっかり確認した後でないと進むなというマニュアルが出来ているのだろう。電車の定時運行を安全確認の御旗で二の次にしているように思える。安全運行を重視すること自体悪いことではないので止めろとは言えないが、安全確認も度がすぎるとスムーズに物事は流れない。具合の悪くなった人がいるので緊急停止ボタンが押され、電車が止まるというケースも最近では頻繁に経験する。
 新幹線では次の駅までが長いためか、はたまた、元気のよい年代のビジネスマンが乗客の多数を占めるせいか、緊急停止ボタンが押されるようなことを経験することがない。在来線では安易に停止ボタンを押す人が増えているのだろう(駅のホームがすぐ先に見える距離でも、後数秒間が待てないらしい、他の乗客の不都合などに想像が向かないのかも知れない)。
 どうも、経営効率にばかり眼を奪われ、運転手の労働条件が尼崎の事故の遠因だと避難されると、極端な安全マニュアルを採用するというように、最近は何事にも極端に走りすぎる傾向を感じてしまう。
 このような信頼の置けないJRの状況に対する不満は(おとなしい私でも醸成されている?)、尼崎の事故の記憶が風化する頃に吹き出すと、その不満を受けダイヤ遵守へと極端に傾いて、また再び安全運行がおざなりにされるのではないかと心配である。
 ダイヤの遵守と安全運行のいい頃合い加減を見つけられなくなって、「ほどほどに」という結論を生み出す思考体系の喪失が、現代人の劣化の実態ではないかと考えてしまう。
「どうしたらよいのか?」と問われても解決策はにわかには思いつかないが、おそらくは「ゆとり」の重視かも知れないと感じている。「ゆとり」のなさは決定事項の効用と限界を俯瞰するしなやかな思考力を封じてしまうように考えるのだが如何なものであろうか。
JRも過密なダイヤにしないこと、休養十分で体調の良い状態での労働を保証するのが肝心ではないか、乗客も体調の悪いのに他所に行かないですむ生活の有り様が解決策ではないかと、最近は休日がなく過労気味を自覚しつつ思料しているのであります。

選択的注意

 最近の関心事に家庭菜園の野菜の生育具合がある。3月に居間を改装したのに併せて庭の片隅に菜園のスペースを設けた。中国の餃子問題などから近頃世間を賑わせている、食料輸入や自給率への関心からという訳ではない。芝生を張る面積を広くしたくないという家内の意図から生まれたもので(これまでも芝刈りは私の仕事であったが)、2坪ほどの広さの菜園という言葉も重荷になるような類いのものである。
 幸い新しい勤務先の大学の同僚はマンションの屋上にかなりの規模の菜園を育てているらしいので、先達からいろいろと指導が得られるのである。数日前にこの同僚からもらった韓国チシャは、「これ一株でも食べきれないくらいの大きさになる、焼き肉を巻いて食べるべし」と言われたのだが、一晩のうちにナメクジに食べられて無惨な姿になってしまった(ナメクジは当然、塩漬けの刑に処せられた)。
 5月の連休前に慌ただしく植え込んだのは、茄子、キュウリ、ゴウヤ、ブロッコリー、枝豆、トマト、バジルの苗であり、青シソ、ダイコン、ネギ、チンゲンサイは種から育てることにした。欲張ってたくさんの種類を植え込んだのは、何が育ち易いかの検討も狙ってのことである。したがって、それぞれは2-3本しかない。今までのところすべてが何とか順調に育っている。キュウリや茄子は30センチ以上の背丈となり、もう花をつけている。茄子は我が家に犬が来る以前に栽培した経験がある。「親の意見と茄子の花は千に一つの仇もない」の言葉通り、結構収穫できた記憶があるので、楽しみである。
 ブロッコリーや枝豆のような柔らかい葉にはすぐ青虫がつく。毎朝、毎夕に葉の表裏を検査して青虫を取り除かねばならない。この作業に追われていると言えば言い過ぎか(農薬なしに野菜を栽培することの困難さを痛感している)。ダイコンとチンゲンサイは間引いたものを既に3度ほど収穫し、おひたしや油揚げと煮て食べるという快楽を味わっている。異なる種類の青虫が異なる種類の野菜の葉っぱに憑く。青虫(蝶の幼虫)にも若葉の種類による好みがあるらしい。
 このような、菜園作りのままごとのようなことを始めてからは、朝の散歩の道中に散在する農家の畑や個人の家の庭先の野菜の生育具合が気になって仕方がない。今まで、全くと言ってよいほど眼を向けることがなかった他人の畑や庭の茄子の育ち方、キュウリの添え木の作り方などに眼が奪われるのである。これぞ、選択的注意の現象に他ならない。このことを家庭菜園の先達である同僚に話すと彼も同感で、自分の奥さんが妊娠中は、世の中は妊娠中の人ばかりに思えたと話を広げることであった。
 自らが関心を持つものがpop-upするわけである。人間関係でも同様なことが起きるに違いない。自分が関心を持てる子どもや人間にだけがpop-upして処遇されることになるはずである。
 人間の処理能力には限界容量があるので、何かに選択的注意を向けている時間には、何かを抑制しているはずなので気をつけねばならない、と分別の出来始める年齢になると考えるのである。そうなると、私が菜園の野菜に選択的注意を向けることで何を処理抑制しているのか考えねばならないと思うのだが、それが何かは、論文を書くことかもしれないけれども、現在では判然としない。
 しかしながら、選択的注意を受ける対象というものは、たいていは人間ではよい関係が構築され、上手く育つことが多いので、ともかく私の育てる野菜の豊作は保証されているようなものである。昨日、研究会の後で、連れて行ってもらった藤が丘の焼き鳥屋で食べて美味であったミニトマトの串焼きを真似る日は、すぐそこに来ている(はずである)。

CNS2008学会にて

4月の11日からサンフランシスコの学会に来ている。新規採用者がいきなり海外出張?と顰蹙を買いそうなであるが、以前から申し込んである学会と採用話の際にお願いしていたので了解されたわけである。第1回の講義が休講という羽目になったが、学生には帰ってから事情を説明するしか仕方がない。
来ている学会はCognitive Neuroscience Society創設15年目にあたり、今年の大会はM. Gazzanigaに捧げると題された特別な企画があったこともあり、愛知淑徳大学の吉崎君の誘いを受けて同道した。彼はサンフランシスコが5回目ということでガイドとしても問題がない。心理学に関係する読者ならM. Gazzanigaの名前を知らない人は少ないはずで、2年ほど前にも慶応大学での心理学会に来日している。僕は35歳の頃にICUでの合宿で数日間一緒したことがある。2メートルほどの長身でその頃からすでに禿頭の陽気な御仁である。ノーベル賞をもらった離断脳研究で有名なR.Sperryの弟子というか共同研究者である。邦訳された著書が何冊もある。
 特に顕著な彼の神経科学での功績をたたえての特別な大会で、初日には著名な研究者の講演シリーズが準備された。Hilliyard, S., Kosslyn.S., Blakemore,C., Tulving, E., Ladavas, E., Posner, M., Pinker, S., LeDoux, J.の8名の講演者のすべては、その名前を論文や本で見聞きしている人たちで、このようなメンバーが一堂に会するということは空前絶後となるに違いない。高校野球で甲子園を目指しているというのが日本の若い研究者や院生だとすると、メジャーリーガーで殿堂入り目前の神経科学研究業界での選手、とでも言えば、想像してもらえるであろうか。僕も彼らの論文を引用したこともあるし、されたこともある、ラテラリティ研究に関わった僕と同時代の人たちである。
当然のことながら、このようなメンバーによる講演は巧みで、得ることが多い。たとえば、
その1、一人が30分の持ち時間であったが、すべてのメンバーが2分と違えずに講演した。Harvard大学のPinkerのように、一回も詰まることなく、アナウンサーのようによどみなく話した人も、スライドを一人だけ使用しなかったToronto大学のTulvingのもごもごした話でも時間が厳守されていた。話しなれているというだけでの技ではない。
その2、全員の講演で笑い声の起きないことはなかった。関係性の理解がないとわからない種類の冗談もあったが、平均して5分程度に一度は笑いを取っていた。まさに聴衆をエンターテインしている、という感じである。
その3、領域は厳密には同じでないにかかわらず、聴衆が理解できる形でのまとめ方にも学ぶべきところは多かった。詳細な話に入る際にも一度俯瞰した情報を与えてから、話を進めていくやり方は、未学者を相手に話す場合のひとつの方略として有効なことがわかる。
その4、情報提示の工夫にもすばらしく手の込んだものがあった。写真や音声、動画の使い方、自分とGazzanigaとの関係の説明、指導者として彼の長所と短所などを盛り込んでの研究のまとめなのである。これらを予定時間内に組み込むのだから、情報の取捨選択に相当の準備と計画が必要なはずである。
 というわけで、世界的レベルで超一流の研究者の発表能力はすごいとしか言い表せない。ほとんど全員からGazzanigaは結構コケにされていたが(それをうれしがっていた)、彼はマフィアのボスと誰かが言ったように、アイディアをだし、金をだし、酒を飲ませて研究チームに人を集める、組織を立ち上げる、という能力が高い人のようである。Gazzanigaは僕の英国時代の先生であるDimondとの共同研究もNaturen掲載されたものがあり、歴史にIFはないけれども、Dimondが早世しなければ…などと、想像を逞しくしたことであった、

 実は、今回の学会参加も「これからのんびりと研究主体から教育中心へと滑走し着地していこう、その前の息抜き」と密かに思いながら参加したのだが、彼らの講演を聴いて、これからも論文を書き、国際学会にでかけて、そこで海外の若い研究者からrespectされる情景も悪くはないなあと思い始めている。まだ、研究者として引退するのもさびしい気がしてきた。
 それぞれの講演者が聴衆から万来の拍手をもらい、賞賛を受けるのを眼前にしてうらやましく感じたことであった。まさか、吉崎君の狙いが私の心変わりの招来にあるというのではなかろうが。

 ここ5日間ほどのサンフランシスコは快晴で、空はあくまで青い。風は強く、ときには寒いと思わせたり、夏のようだと思わせたりする。揺れ動く私の気持ちのように、というのは大げさかな。

転職ストレス

転職というのは厳密には職種が変わることを意味するはずで、私の場合は、職場は変わるが仕事の内容に大きな差はないので(厳密にはそうでもなさそうだが)、当たらないかも知れないが使うことにする。配置換えというのが適切かというと同じ法人ではないので、もっと違うような気がする。とまれ、今回の名古屋大学を3月31日に退職して4月1日から関西福祉科学大学に勤務するようになったことに伴うストレス体験の話を書く。
そんなもの無いでしょうと言う声が聞こえそうであるが、あるのだ、あったのだ。しかし、自分が予想していたものとは案外異なっていたので、読者もいずれ体験することだし、父兄がもうすぐという場合も考えられるので参考になろうかと思うのだ。
 退職記念パーティをしてもらってからも、三重大であった学会に出席しそのあと、科学研究費で計画していたワークショップを3月24日に実施したので、メンタルストレスの主要な要因である「喪失感」を味わっている暇はなかった。科研の報告書2種類を年度内に名大の方に提出することを決めていたので、慌しいだけの日々であった。25日が卒業式で、そのあと院生らの追い出しコンパがあったり、26日には名古屋市総合リハビリセンターの研究チームが送別会を金山で開催してくれたので、それにも参加した(研究チームへの参加は今後も続けさせてもらえるようで、神経心理学から足を洗う必要は当分はなさそうである)。27日に運送屋に荷物の運搬を依頼していたために、ワークショップ後の数日間は、ただ、ばたばたしていたことしか記憶にない。この間に中学時代の同級生に会ったり、家内が新婚のころに勤務していた薬局の娘(当時高校生)が、子供が名古屋の大学に入学したといって突然3人の子供と研究室に訪ねて来たりした。したがって、名大を去るというような特別な寂しさや感慨を抱くこともなく、ばたばた感や慌しかったという印象だけが強調されている。
 研究室の引越しも名大の院生や学部生が手伝ってくれ、受け取る側では3名の卒業生が駆けつけてくれたので、引越業者の到着時刻は2時間以上遅れたにもかかわらず、新しい研究室の片付けはあっという間に終わってしまった。持つべきものはこのように手伝ってくれる若い人である。自分で作業していたら、今頃は必ず腰痛でダウンということになったであろう。言うまでもないが関西福祉科学大にいる友人らも引っ越し作業を手伝ってくれた。
「新しい状況への適応」も「喪失感」と並ぶメンタルストレスの主要因であるが、友人らがいるおかげでこの点では若い院生のころに帰ったような安堵感を味わうことが多く、大いに助かっている。
 転職ストレスの話はどこに行ったのかと、気になりだしたことであろうから、本題に入ろう。
 私のように、類似の職場に移動する、それも知己が複数いて気楽なところへの移動であるにもかかわらず妙な「喪失感?」を味わったのである。それは、引越しが終わった28日と29日のことであった。疲れているはずなのに3時ごろに覚醒してしまうのである。そして体感するのは暗澹とした感覚である。具体的に何が原因かを追究できないようなくらい闇の感覚であった。別に寝ぼけていたということではない。10分ほどで、睡眠導入剤を飲んだ。うつになるのはこのような感覚から引き込まれるのではないかと考えたことであった。30日にも睡眠導入剤を使ったが、その後は従来のような睡眠パターンとなった。
今では、おそらくは自分が居なくても誰も困るわけではない、職場は機能していく、時間は流れていくことに依拠した「孤独感、喪失感」なのではないかと分析している。また、10日間ばかりのばたばたしていた期間での肉体的疲労、緊張、興奮の持続による精神的疲労が加味してのことだろうと思われる。大げさなようだが、うつ病になる入り口を覗いたのだろうと思っている。
 私の場合は何度も言うように恵まれた転職であり、ありがたいことに多くの人に祝福されて(たぶん)の転職であるが、それでもうつ病になる入り口を覗いたようなことが起きるのだ。
60歳の誕生日で会社を退職して、次の仕事が決まらない人や、余った時間をどう過ごそうとするか模索しなければならない人の転職ストレスは如何に大変なものかが容易に推察できるというものである。そのような時期には身体的、精神的に疲労しないように十分気をつけなければならないと思ったことであった。
 左様に、働くお父さんは大変な思いをするのだから、若い読者は心して接すべきである。また、そういう日が近い読者は覚悟して臨む必要がある、というのが体験者の思いであります。 

送別会(鳥羽潮路亭にて)

 急な話が持ち上がり、今年度末で名古屋大学を退職することになったことは、前に書いたとおりである。講座の先生方や院生の皆さんには大変迷惑をかけることになったにも関わらず、3月6日には最終講義や退職記念パーティなど、定年で辞める教員と同様の行事をしてもらい有り難いことであった。
 15年ほど前の秋口に名大が創設する新学部へ移らないかという話があり、2~3日のうちに決断をと迫られ、その結果名大への配置換となって以来ずいぶんと長い年月が経ったにも関わらず、一瞬のような気がしないでもない。その間に国立大学法人化をにらんだ2度の改組を経験した(国立大学法人化は失敗であると、思っているがこのことは別の機会に書くこともあろう)。その期間には評議員や学部長代行、学部長を務めたこともあり、一瞬と思える時間はきっかけを与えられると際限なくエピソードが広がる。
 思いがけなくも、改組の頃の情報文化学部の主要メンバー8名が私の退職に際して送別会を鳥羽への一泊旅行という形で催してくれた。日帰りで帰らなければならない先生まで参加してくれた。当時のメンバーの凝集性を今日まで維持できるのは、退職して昔が懐かしいというだけではなく、当時の学部運営が如何に大変であったかの証左である。
 一風呂浴びた6時過ぎから始まった宴会は部屋を移して12時過ぎまで続き、改組の頃のエピソードはまさに際限なく広がった。私にとって一瞬とも思える名古屋大学での時間が次々と広がっていく楽しい時間であった。急逝した筏津さんがいないことに皆が何度も言及したことであった。
 私が評議員や学部長代行を務めた頃の学部長であった田中喜美春先生も参加頂いた。退職記念パーティでは源氏物語に書かれている歌を引用した格調高い開会の挨拶をされ、翌日以降何度もそのことが私の周囲では話題になった。その田中先生が宴会の後半に退席されたので、お就寝になったのだろうと思っていたら色紙を手にして再び宴会場に戻られ、私に贈る歌を紹介された。
 田中先生の退職の際に山崎川の桜を見物に出かけ、料理屋で私が「喜美春」を読み込んだ短歌を呈したのを覚えておられ、そのお返しということであった。その歌のことは退職記念パーティで先生から「色紙は飾ってある」と、謹呈した本人が忘れているのに諳んじてみせられ恐縮した。
 以前にこのコラムに書いたことがあるように、私の郷里では祝い事の際に祝吟という風習があることに言及し、山崎川の近くの料理屋で披露して見せたことがあったのだ。その際に色紙を手配した筏津さんが「八田は、生意気にも墨と筆、それに色紙は一枚でよいと言った」という話を退職記念パーティで田中先生から教えられた。酔っていたとは言え、汗顔の至りである。
 田中先生の歌は、
「玉かぎる 夕べの海よ なぎて泊つ ただ気色をば うすにびにして」というもので、色紙の墨がまだ乾ききらないものを宴会のメンバーに紹介された。
「泊つ」はハツと読むのでハッタタケシの名前が見事に読み込まれている。気づけない読者のために敢えて説明すると、「なぎてはつ ただけしきをば」という具合なのだ。
 歌の意味するところは、「真珠の里に来て、今宵宿泊する入り江の見える部屋から見る水面は、凪いで静かである。しかし、私の気持は別れが辛く寂しい」というものである。にびいろとは、鈍色(薄墨色)のことで、寂しく哀しい色なのである。
 郷土の風習を真似て言葉遊びをしている私などとは比較できない枕詞が組み込まれた高度な技法を用いたレベルのものであることは歌の素人の私にも分かる。作った自分が覚えていないようなレベルの歌をよくも専門家に送ったものだと、冷や汗が酔いを醒ましそうになった。
 先生は、実は始めて歌を詠んだということである。「古今集」の研究者である人は以外と自分では作歌しないのかも知れない。
 2008年3月14日金曜日の鳥羽潮路亭での一夜は、何よりの名古屋大学での生活の思い出となった。情報文化学部の創設や改組で汗をかいた仲間の思いやりに、ただお礼を申し上げるしかない。

 田中先生の処女作は、現在私の家の小さな和室に飾られていることは言うまでもない。

最終講義

 書かねばと思いつつこのコラムの原稿にまで手が回らなかったのは、年度内に脱稿の約束をしている新書の原稿書きと最終講義の準備が重なったためである。年明けからは上記の2件が重荷になっていた。言うまでもなく授業や試験もあったので大変だったのだ。両方とも目処が付いたので、しばらくぶりのブログである。
 最終講義をするのは名大を退職するためである。定年1年前なのだが、関西の私学にいる友人達から勧められ、急に退職することになってしまった。このことにまつわる事情はまた別に記載することもあろう。別に、セクハラ疑惑など居づらいことが急に生じたためでは決してありません。
 最終講義は途中退職なので義務ではないがやらせてもらうことにした。来年から名古屋大学でも始まる個人評価を避けて退職するのかと疑惑の目で見られるのも嬉しくないという理由と、けじめだからと考えるためである。
 さて、最終講義に何を話すかという段になってその内容に困ってしまった。これまでに幾人かの最終講義に出た経験はあるが、あまり内容は覚えていない。卒業式の学長の訓辞では「痩せたソクラテスたれ!」などの印象に残るものがないわけではないが、最終講義の内容はたいてい自分の個人史や自分の研究の中味を紹介するものが多かったようで、あまり印象深いものはなかった。自分の最終講義もおそらく、そうなるであろう。
 最終講義は「健やかな老年期のために」というタイトルでここ7年ほど実施してきた中高年者の高次脳機能に関する話題を準備中である。講義の内容の具体はここで書くわけにはいかないが、準備をしている途中で気づいたことがある。健やかな老年期には内科機能、骨・筋肉機能、認知機能がそろわねばならないというのが骨子なのだが、認知機能を如何に維持するかに関わっての気づきである。
 認知機能の基本である言語、注意、記憶などを高齢になっても維持することがどうすれば可能かが大問題なのである。認知機能の維持のために脳トレが喧伝され、実行者も多いようだが、脳トレのグッズを買い込んで始めてもおそらくは長続きせず無駄に終わるだろうと考えている。何故ならば、ゲームの類で実行者が長続きすることは例がないためである。ルービックキューブ、フラフープしかりで、ブームは基本的に長続きしないものなのである。
 長続きするのに必要な要素何かに気づいたのだ。それは、自己効用感を維持できることが必要ということではある。高齢者(自分も例外ではない)が元気よく言語、記憶、注意機能を発揮するのは昔話をするとき、自慢話をするときと相場は決まっている。いずれの場合も相手が知らないことを自分は知っているという自己効用感が持てる事態である。この効用感が高次脳機能を発揮させる動機づけとして作用すると思えるのである。実は、住民検診に参加した高齢者を相手に学生が文通する実験を行い、認知機能や筋運動系機能を測定したことがある。その際に2ヶ月間7日ごとに手紙を書いてもらうのは、途中で脱落者が出ることを想定していた。しかし、20人の対象者は誰も脱落しなかった。つまり動機づけが高い課題を準備できたのだ。そこでは、過去のことがらを学生が尋ねる形式を採った。記憶の回想を動機づけたのは、熱心に聞いてくれる相手がいるために自己効用感を保持できたに違いない。
 このように考えると、高齢者側が自己効用感を維持するための環境整備には、話題が、「その話は前に何度も聞いた」と言われないような新鮮な話題を提供し続けること、次々と自慢できることが繰り出せることが大事である。それと同時に、若い人は「それから、どうなったの?」などと関心を示すふりをすることが大切である。若い人のこれらのふりが、高齢になっても認知機能を維持させ、若い人の負担にならない策として大切であると思われる。

 数日前に、名大の授業を残すというプロジェクトの担当者から、最終講義のビデオ撮影とライブラリーに加える著作権の譲渡の依頼があった。講義は名大の財産と言われると、長年に渡って禄を飯できたものとしては拒否できない。しかし、記録されるとなると、講義での発言内容に気をつけねばならない。大学の執行部の悪口や面白くもないギャグを言ってしまわないかと心配である。とまれ、最終講義の記録はどこからでも何時でもアクセスできるようになるらしいので、関心のある読者はご覧になって下さい。

台南の結婚式(年の瀬に第2弾)

2007年も残すところ2日となったが、台南の成功大学に学会で来ている。2年ごとに開催されるもので、もともとは漢字の認知処理に関する学会であったが近年は言語学の研究者が多く参加するようになり、心理学からの参加者は減少気味である。今回で12回目ということになる。僕と、斉藤洋典教授が日本からの国際委員ということになっており、10年ほど前には名古屋大学で開催したことがある。僕は言語心理学の専門家ではないのだが、かつて漢字のラテラリティを研究していたせいで、香港3回、シドニー1回と半分くらいの大会に参加してきた。陳振宇教授が今回の大会長なので、前回の香港での約束もあり、年末ではあったが参加することにした(そのために年賀状を準備するは大変であった)。
僕も斉藤さんもNIRSを使っての研究発表で、言語心理学の発表の中ではやや異質という印象であった。中国や台湾の若い研究者の発表は、基本的には1980年代の研究を広東語や北京語で検討するというものが多い。しかし、かつては英文をスライドで提示して、それを読むという形が少なくなかったのに、中国の研究者の英語発表はずいぶんと進歩した。日本の院生のレベルを超えてしまった感じである。
学会についてはさておいて、昨夜の国際委員会(ここで、次回の開催地が決められる)は、10人ほどでホテルの中華料理を囲んでのものであり、それは特段のことはないのだが、同じフロアで結婚披露宴が行われていた。「夜に披露宴か」と思ってしまった。夜の披露宴はかつての日本の田舎では当たり前であったのに、しばらくそのような経験をしないと違和感を持つものらしい。習慣や文化とはこのように移ろい易いもののようである。自分を含めて変わってしまっていることを実感したことである。
こちらの結婚式にはプロの歌手(たいしたレベルではないと陳先生も言っていた)が、呼ばれて宴会を盛り上げているようで、われわれの食事をしている個室にまで大きな音量で歌を歌っているのが聞こえるのである。同定できたのは「上を向いて歩こう」と尾崎キヨヒコの「また逢う日まで、逢えるときまで、別れのそのわけは話したくない、今はむなしいだけ…」と台湾出身の歌手であったテレサテンの「時の流れに身を任せ、あなたの色に染められ一度の人生それさえ…今は貴女しか愛せない」というものであった。思わず隣席の斉藤さんと同時に「結婚式では歌わんやろ」と顔を見合してしまった。日本の歌がともかくも好まれているようである。
そう言えば台湾では日式という看板がやたら目に付く、日本流のという意味で日本ブームである。ひらがなが書かれているお菓子の中身はまったく台湾のものというような具合である。日本でも何でも英語やフランス語で表示されていると有難がっているのと同じである。そんなにまねをされるほど日本は手本にされてよいのか、最近の食品偽装など報道されているのだろうかと心配になってしまう。
大学のキャンパスは朝の8時過ぎから大勢の学生がバレーボールやサッカーなどに興じている。一見したところ高校生のように見えてしまう。こんな元気に運動をしている光景は最近の日本の大学では見かけなくなった。女子学生は化粧をしていないことも大きな違いである。純真そうな学生を相手に台湾の大学に勤務するのも悪くないなあ、と名古屋大学を辞めるという僕に話に対しての陳教授の誘いを悩ましく感じたことであった。
テレビでは日本の大雪の天気予報を報じている。台南は日本の4月の気候で、日中は暑いくらいで、Tシャツ姿やダウン姿の混在する不思議な空間にともかくも元気で来ることができて、学会発表で2007年が終わろうとしている。
大いなる何者かに感謝!

2008年の年の瀬に

 月に一度のペースで書いて来たブログが久しぶりに停滞しているのは体調不良とか言う理由からではありません。やたら、忙しかったためです。いつも忙しいと言っている気がしますが、オオカミ少年と取られても嫌なのでその原因をいくつか挙げると、人間環境学研究12月刊の編集がその一つです。5年前から刊行しているこの学術雑誌は自画自賛的に言うといくつかの観点から評判がよく(その具体は書かない)、投稿数が増えたために査読が大変だったのであります。編集代表を勤めているので、査読依頼だけでなく全論文を読んでいます。通常は7-8編で1号としているのですが、5巻2号は13編と分厚くなったのであります。だいたいは1回、中には3回の修正を依頼した論文もあるので、トータルではかなりの時間を必要としたことになります。他の雑誌の査読も11月から2ヶ月ほどの間に4編やりました。J.Exp.P.、Neuropsychologia, Reading & Writing、Psychologiaからの査読依頼で断るのもしゃくなので引き受けてしまったのですが、査読期間の縛りがきついので読んだり、コメントを書いたりに要する時間はけっこうな長さとなったわけです。Brain & Language、Perceptual & Motor Skillsの依頼と日本のある学会誌の依頼は勘弁してもらったのですが、何故にこんなに重なるのか、「忙しいときには依頼は届かず、暇を持て余し気味のときには査読依頼は来ない」というのもマーフィーの法則に加える必要があるのではないでしょうかね。
 加えて、これは仕事なので仕方がないことですが、学位論文の審査が3件重なったことも、編集中の本の原稿を分担者が出してこないので、代筆をせねばならなかったことも、自分がきき手に関する選書(これは来年中には化学同人社から出るはずなので、宣伝を目にしたら、是非購入下さい、けっこう力を入れて書き進んでいますので)を執筆中であることも多忙さと多忙感を募らせ、ブログどころではなくなってしまったというわけであります。「動いていないと死んでしまう、マグロ体質」と言われたりしているのですが、もうそろそろ、このような多忙さからは脱出したいという願望は閾値に近づいています。
 此処までなら、忙しさの自慢かといわれそうですが、加えて多忙にした原因に言及するのが、今回多忙と言いつつも書いておこうとした動機であります。それは、評価のためのデータ作りです。自分の業績のリストを出せという指示が複数のソースからもたらされ(それも書式が同じでない)、さらにはその業績の中での評価を求められたからです。研究論文がどれくらい優れたものかを評価するというおかしな発想が実行されつつあるのです。そもそも、研究評価についての基準を持たないままでSだのSSだのと印を付けるというのです。僕に言わせればどだい無理なことをしているのです。
 評価は、「価値に対して物差を当て評定する」行為であります。教育心理学の教科書にそう書きましたし、心理学ではコンセンサスのある定義です。大学で行われる研究活動の価値の具体が何か分からないので(議論をしていないし、簡単ではない)、物差を何にすればよいかは当然分かっていないことになります。したがって、評価が可能なはずはないのにそれをするというのです。大学評価機構の求めということですが、機構は賢明なのでその具体的な物差は提示しません(抽象的なものは示しますが)。研究論文の引用数、雑誌のインパクトファクターなどと、具体的な物差を提示すれば、袋だたきに遭うことを知っているからでしょう。「客観的な第3者評価に資料を付けよ」などと不可能な指示もあります。主観の入らない測定はないというのがニュートン物理学からアインシュタイン、ボーアらの物理学の移行であったはずで、知らない研究分野の研究業績を評価できるはずがありません。
 名大の評価を束ねている先生達は生真面目なので、自己規制をしすぎながら回答の分かっていない者から出された問題に真剣に答探しをしているように僕には思えるのです。もっとも、このような感想を持つのは僕がもつアバウトさのなせるワザなのかも知れませんが。「勇気ある知識人」を作るのを目指す大学なのですから、大学評価機構に仕事を投げ返す勇気が名古屋大学に必要なように思います。
 具体的には研究者それぞれに相応に自分でSやSSをつけてもらって提出し、問題があるというならその根拠を示してもらうようにすればよいのです。「自分の研究はすごい」と本人が持つ何かの物差に基づいて行われた評価を、根拠を示してそうではないとするには、否定する側にはっきりとした価値感や物差がなくては叶わないからです。
 明後日からの台湾での学会準備に手が回らず、大学の認証評価制度がもたらした波紋で、時間換算でどれだけのロスを教員にもたらしているか、その効用との兼ね合いを評価してもらいたいと叫んでいる年の瀬であります。

嗅覚の記憶と老化

 例によって朝の散歩に出かけたが、玄関を出るところで稲刈りを終えた田んぼで籾殻を焼く焦げ匂いがした。僕にとっては籾殻焼きからもたらされるのは臭いではなく匂いなのである。農村に育ったので、藁を焼くことや籾殻を焼くことで生じる匂いは懐かしく心地よい思いをもたらす。僕が子どもの頃は田んぼでの仕事が終わりを告げるこの匂いは11月に入ってからしか出会うものではなく、この匂いが数日間に渡って辺りに漂う時期は一年間の終わりを告げるものであり、雪の季節を暗示するものであった。
 現在の住まいの近くにある田んぼでは田植えは遅く、稲刈りは9月末というように早くなっており、僕の記憶にある一年間のカレンダーからとは一致しないものなのだが、それでも、田んぼの片隅に積み上げられた籾殻を焼く香りは心地よい匂いとなり、何故か穏やかな気持ちを招くのである。田んぼのことを知らない人も多いと思うが、籾殻を焼くのは脱穀して米粒をとりだした殻を灰にして、肥料として田んぼに撒いたり、翌春の苗代の床にするためなのである。籾殻焼きの匂いは次に来る苗代での種まきを連想させるので心地よかったのかも知れない。大人たちが稲作の一年が終わるのを安堵している雰囲気が子ども心に心地よかったのかも知れない。あるいは籾殻の山の中にサツマイモを埋めておき、それを食べることの楽しみという記憶をよみがえらせるのかも知れない。
 自宅の庭で落ち葉を焼いて、アルミフォイルに包んだイモを落ち葉の中に入れておき子どもに焼きイモを食べさせたこともあるが、最近では自宅で焼くことがなくなってしまった。ダイオキシンが出るなどの宣伝や煙で洗濯物が汚れるなどの理由から、落ち葉はゴミとして回収されてしまう。垣根の曲がり角の家で落ち葉焚きをしている、あたろうか、あたろうよなどという、童謡はもう誰もが理解できる風景ではなくなったが、焚き火は楽しいものである。確か椎名誠は盛んに焚き火のよさをたびたび小説に記載していたが、焚き火好きの年代というものがあるのだろう。
 ところで、老人になると匂いに鈍感になり加齢臭にも気づかないと嫌がられるようであるが、嗅覚は遅くまで鈍化しないと考えている。臭気諦見の法則(?)というか、嗅覚は順応しやすいので自分の加齢臭は気づき難いだけなのではあるまいか。嗅覚は人間の発達では原始的なもので、個体発生の早期に獲得した機能は遅い時期に獲得した機能よりも頑健であるはずだと考えるから鈍化しないと思うのである。青年期に始めて遭遇する若い女性のフレグランスへの感受性は、老年期にはなくなるかも知れないが、赤ちゃんが母親の母乳や体臭を刻印づけられるのと同じように、子どもの頃の好ましい記憶と連合している環境からの匂いも刻印づけられるのだろう。などと、籾殻を焼く田んぼの道をたどりつつ、この匂いの好ましさの理由を考えたことであった。

反省しつつ考えること

学会で金沢に出発しなければならず、同僚に院生の業績リストを仕上げるのをお願いすることになってしまった。リストはできていたのだが、エクセルの指定されたフォーマットに張り付ける作業が間に合わなかったのである。やさしい同僚を採用できてありがたいことである。
名大は来年度に認証評価を受けるので、そのための資料の作成に各教員は大わらわである。教員にはいくつもの種類の資料作成が求められている。
大学教員の仕事は、教育と研究の2本柱であるはずなのだが、最近は加えて管理・事務も加わった印象である。それに割り当てる時間は初めてということもあるが、かなりの量である。学会に行くのも躊躇するほどの負担と言っても過言ではない。教員が研究論文も書かずにいるのはその役目を果たさないことなのでチェックが必要だとは思うが、大学の認証評価では、要は大学という名前に相応する活動実績があるかをチェックするのだから、認証機関は評価の水準を示して、それを超えればOKという具合にならないものだろうか。たとえば、国際大会に出たい運動選手には水準記録があり、それを超えれば出場可、という具合である。悉皆的に業績をリストアップする必要など不要という具合にできないものだろうか。昨今の個人資料の悉皆的なリストアップのその先には、個人別の評価や大学のランク付けが待っているように思えるからである。ランク付けが大学本来の質の向上に寄与する側面は少なく、マスコミに埋め草を提供するだけのことである。
個人評価をネガティブに言う人がいると、自分は業績少ないから自己防衛のためと見なす傾向がないわけではないので、研究業績はあると自負しているが、個人評価は好ましくないというか、貧しいなあと考えてしまうのである。
評価とは価値規準に物差しを照らし合わせる行為をいうものであり、大学教員の価値基準とは何か、物差しには何が妥当かという議論があった話は聞いたことがない。
既に個人の研究業績(論文、外部資金獲得実績など)で機関が配分する研究費を案分することが、講座単位、個人単位で始まっている大学もあるのを知っている。世知辛いというか、狭量な思考だと僕は思う。長期的に考えてプラスになることは少ないと考える。
論文を作れと言われれば形式を整えることぐらいは、大学の教員は知恵があるのでさほど困難ではない。数を増やすだけのことが流行るようになるだけである。インパクトファクターの高い雑誌の論文をとか引用数がなどともっともらしい基準を提示されることがあるが、それも完全ではなく、相互に引用しあうというような対応策は既に常識である。受賞歴で研究の質をなどという評価項目にはさまざまな賞を設けて対応することですでに行われているので、現在のような評価項目を調べても所詮は無駄なことは容易に想像できる。
では、どうすればということになるが、無駄なことはしないのがよいということである。大学教員に相応しくない人がいるかも知れないが、その存在も許容し玉石混淆のままの大学の方が優れた研究が生まれる確率は高いのではないかと考えている。優れた研究は、時間的余裕と研究費の保証が生むのだと考えている。毎年論文の数を念頭に研究をするようなことでは、そして事務・管理作業に時間を配分する割合が増加するようでは、地道な基礎的な研究は生まれようがない。
 目下、原稿を書くために利き手の論文を検索して集中して読むことをしている。今まで知識の乏しかった下等脊椎動物の利き手(?)に関する論文をかなり読んだ。そこには魚が泳ぐヒレの動きを数えたり、空腹動因をかけるために1週間に1度しか餌(ネズミ)を与えられないヘビのくねり方を数えるような、1-2年もかけた研究が少なくない。このような研究をする教員を内包できる大学でなければ、文化を具現するはずの大学とは言えまい。  以前に霊長類研究所で猿の親子を驚かせて子ザルを取り上げる行為を30分に1回ぐらいの頻度で観察したことがあり、時間をかけた研究だと思っていた自分が恥ずかしくなる。
 文化は基本的には非生産的なものの蓄積である。ゆとりのないところに文化が生まれ育つはずがない。文化が人間らしい生活環境を保障するのである。
 ゆとりがない国であるなら大学など増設すべきでない、などとぶつぶつ言いながら、資料の作成を同僚に委ねた自分を反省しつつ、合理化しているのであります。