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三連休

 文化の日を含めて3連休になることを数日前まで知らなかった。電子手帳に祝日の記載が出ないのはもちろんだが、部屋にかけているカレンダーはNational Trustの英国風景のものであるし、トイレのカレンダーも英国のホスピスの水彩画である。日本での祝日の印は当然のこととしてある訳がない。例年、3人の友人がクリスマスの時期に送ってくれるものを飾っているため3つの英国版カレンダーがあるのだ(僕の方からも日本のカレンダーを送っているので、彼らも同様の勘違いをしているかも知れない)。研究室のカレンダーは韓国の人が送ってくれたもので、これもまた三連休を教えてはくれない(韓国では旗日は少ない印象)。
 数日前に同僚が「3連休だ」というから、「ソーカ!」と思った次第である。
今日は文化の日で、「文化勲章」を天皇が渡しているニュースで祝日であることを再確認した。文化勲章でもくれる知らせが前々から届いている人は三連休を忘れないだろうと、バカな考えが浮かんだりした。
 もっとも、連休だからどこかに出かけたいという願望があり、それが満たされなかったと後悔している訳でもない。第一、家内がボランティアしている老人施設では連休には老人を預けにくるケースが多くて人手不足になるとかで,熱心に手伝いに行く。送迎が担当なのでこちらも出かけ難い事情が発生するのだ。

 世間では景気が悪いそうなので、連休にはどこか温泉でも出かけてパーと散財すると社会貢献できたのかも知れないが、その機会は逃してしまった。しかし、散財(?)するという貢献はできたという話をしよう。
 土曜日からノドの調子がおかしく風邪かも知れないと用心して朝寝をした。ウガイをヒンパンにして(寝ながら読んでいた椎名誠の本に風邪予防はウガイをあきれるほどの回数やるべし!とあった)、葛根湯を飲んだら少し気分が楽になったので、健康科学科の教員全員が執筆するテキストの原稿でも見ようという気持になった。来年から始まる予定の科目のテキストを作ろうという学部長の企みがあり、編集作業を担当しているためである。本当は彼と2人で書いた方が早いとは思うが、そこは学科教員の連帯感のジョーセイが狙いに含まれているのだ(とかく、管理職はいろいろ考えねばならないのダ。気の毒なので手助けをしているのです)
 同僚の原稿は居間のパソコンに送信されているはずなので(締め切りを気にする律儀な同僚が多いはずなので)、それをフラッシュメモリに取り込んで、2階の自分のパソコンで読んで見るベシと考えたのである。そこで、居間のパソコンを立ち上げ2階から階段を踏み外さないように戻り、やれやれと風邪気味でボヤケル頭のまま椅子に座ったときに,お尻に何か変な感触がした。眼鏡を踏んだのである。恐る恐る手にしてみると、見事に眼鏡の片方のツルが千切れてしまっていた。20年前に始めて作った読書用の眼鏡はその役割を果たせなくなってしまったのである。

 原稿を見る気力は燻っていたので、街の眼鏡屋に出かけることとなった。
家内は嬉しげに行きつけの眼鏡屋に案内するということで、西武デパートに出かけるハメになった。「歳なんだからあまり安っぽいのにしないように」、などと親切げに指示はするが、自分の管轄でない僕の出金にはどこか快感を伴う様子である。
 眼鏡屋は、ガラスは割れていないのですぐネジを探しますということであったが、新しい読書用の眼鏡を買わねばなるまいと思い込んでいたこともあり、敢えて買う必要もなかったのだが新調する羽目になった。計測してもらうとほとんど老眼は進んでいなかったようである。代金は5万6千円也である。一泊で温泉旅行が出来たなあ、と天を仰いだことであった。
 
 店員が新しいネジでツルを直してくれ、さらに掃除をしてくれたせいか,踏みつけて壊れた眼鏡は一段と鮮やかに見える(気がする)。自宅に戻り気を取り直して読み始めた同僚の原稿には、問題が次々と浮かび上がる。これは良く見えるようになった眼鏡のせいか、はたまた、どこかしらウツウツとして捌け口のない気持にさせる出費のセイなのか。
 かくて、三連休は終わり、何ら快楽には出会えず、日本の実態経済向上のために貢献することとなった。

 今回はカタカナ語の使用比率が増えた。朝寝のついでに読んだ椎名誠本の影響に違いナイ!

教育実習指導から


 現在の勤務校の所属学科の卒業生の主な進路は養護教諭である。関西地区では一二を争う実績を持つということで,大学の「売り」となっている。教員免許を取得するためには、当然教育実習を受けねばならない。希望学生が多いので,これ又当然の帰結として,実習担当教員以外の教員も巡回指導に出向かねばならない。私も4名のゼミ学生の出身校での実習指導に出向くことが仕事となる。加古川や和田山などの遠隔地にも半日掛りで出向くのである。
名古屋大学に移籍する前の大阪教育大学では当然の仕事であったので,面倒ではあるが、特段嫌なことではないが喜々としてでもない。昔は専門でもないのに学生の行う「国語」「算数」などの研究授業を見学して、その小学校の先生と一緒に「研究授業の反省会」に出て意見を言わねばならなかった時に感じたとまどいは、今回の養護の学生実習では味わうことがなくて済んでいる(見学はしたけれども、養護の先生の仕事の大半は授業ではないからである)。当時、私のような心理学の教員が「教科学習」に特有のことなど分かりもしなかったのに大過なく過ごせた(ように思える)のは、不思議である。「何とかなる」「何とかせねばならなかった」苦し紛れの適応規制が働いて、それらしいことを発言したせいなのか、大学の先生ということでの小学校の先生の遠慮のせいだったのだろうか。思い返せば冷や汗がでる。
 昔もそうであったが、実習校を訪問すると校長先生や教頭先生との会話が必然的に伴うことになる。知らない人との所謂雑談というものが私は得手ではない。これが苦痛とは言わないまでも、重荷である。セールスマンの仕事を選ばず、正解であった。
 15~20年前の当時の管理職先生相手の雑談内容は年配の教員への愚痴であった。曰く、「教授能力に欠ける」、「やる気がない」、「権利だけ主張して休みだけはしっかり取る」などなど、大量に教員を採用せねばならなかった時代にむやみやたらと教員採用をした「つけ」についての愚痴であった(そう言えば最近、このような愚痴がしみ込んでいて加齢のために前頭葉機能が低下したのか、抑制が利かなくなって大臣職を棒に振った御仁もいたが、当時の管理職の悩みはそんなことであった)。
 しかし、今年15年ぶりにうかがった小学校での校長先生の愚痴は、子どもの問題と幼稚化した父兄の行動ばかりが話題であった。教員の問題よりも「躾け」ができておらず、学級での学習に適応できない子ども、子どもの問題を学校に帰属したがる父兄、父兄同士のトラブルの仲介、などであり、ずいぶん様変わりしていた。15年前には絵空事であった家庭で虐待される子ども、崩壊家族などの問題がもはや現実のものであるとの印象を強く持った。
 1977年頃、英国の大学での同僚の一人が「child abuse」が専門であるというのを、そんなの日本ではあり得ないと言っていたのに、信じられない変化である。
 30年間に日本では何が起こったのだろうか?社会格差だろうか。小泉政権以降に顕在化した社会における格差が原因として取り上げられることが少なくないが、それだけでもあるまい。50年前にも格差は日本の社会に厳然としてあったからである。地域には眼に見えない格差があり旧地主や名士のうちの子どもとそうでない家の子どもの間には格差があり、トラブルを起こしても対等に処理する仕組みなどなかったように思える。しかし、厳然とした地域社会での秩序があったので、授業中に先生の指示に従わない児童にたとえ身体的に罰を与えても、先生と父兄の間には相互了解的な格差があったので問題にはならなかった。当然問題を起こした子どもの父兄同士のトラブルなどは顕在化することはなかった。
 封建制度の残滓が生み出す秩序ある社会は、ある側面では窮屈で住み難い訳だが、そこにはその住み難さから脱出し得体の知れない何かを変えたいとするエネルギーが満ちていたような気がしないでもない。50年あまりかけて覆っている秩序をもたらす膜をくぐり抜けてみると何も見当たらず、どうやってよいのか分からない、共同幻想もいだけない状態にあるのが現在というところか。それにしてもこのような公教育に仕組みの瓦解を許した行政の責任は大きい。政権の交代は必至のようだが、つぎは大丈夫なのかしら、などなどと、簡単には答えの見えない戯言を、帰路の車窓から見える田んぼや山々,その間を縫うように走る公教育に仕組みの瓦解と引き換えのように舗装された狭い道路を眺めつつ自問自答したことであった。とまれ、我が身に比べて小学校の先生は大変であることだけは良くわかった。私も給料に見合う働きをせねばないなあとも感じたことであります。ときにはルーチイーンの日常を離れる自問する機会というものは大切なようです。
 

選択@千歳空港

9月の後半には日本神経心理学会(@東京パシフィックホテル)と日本心理学会(@北大)が続いてあり両方の学会に参加した。前者の学会は今回が実質的な30周年記念大会ということで、詩人の谷川俊太郎氏を呼ぶなど例年よりもにぎやかなプログラムとなった。記念パーティで過去の学会活動の歴史を振り返るスライドを見て、2年前に引き受けた名古屋学会は大変だったなあ,と改めて思い返したりした。
元々は神経内科医や精神科医らが始めた学際的な学会であるが最近では医者の占める割合が変わらないのに対して言語療法の研究者、作業療法の研究者らの参加が増え1,800名規模となっている。心理学研究者の占める割合は依然として低迷している。これは早くからの役員であった私の宣伝不足・能力不足によるところが少なくないが、心理学者はどうも医学者との共同作業は苦手なようで、誘っても関わりたがらないようである。
続いて参加した心理学会でも類似した神経心理学的なテーマの発表がないわけではないが、研究のレベルには差異が否めない(というと叱られるかもしれないが)。日本の心理学では脳の話を基本的に教えないので、心理学の研究者も神経心理学会は敷居が高いのかも知れない。最近の欧米の心理学研究では脳に言及することは認知心理学だけでなく,社会心理学の分野でも一般的になっている(というと言い過ぎかもしれないが)。

今回は学会の話を書くつもりはなく、旅行中に経験した選択場面での話である。
タレントが始めた牧場が発売して大人気である製品が千歳空港で売られている。8月半ばに来たときにも尋常でない規模の行列ができていたが、9月末でもそれに勝るとも劣らない規模の行列ができていた。「生キャラメル」の購入を目指しての行列である。商品を実際に販売する店から数メートル離れたホールに行列が出来ており、数人の整理員が慌ただしく行き来している。ホールのこの行列が「生キャラメル」相手であることは8月のときに知った。一定時間が経つと、時間内にお一人様何個という制限付きで製品を買い込み、その店から追い出されて次のグループが購入先の店舗に移動するのである。
立ちすくんで行列を眺めていると3時間半待ちであると、辺りの人が言う。辺りの人とはホールの前の店員で、「生キャラメル」を2種類販売しているのだ。「味は同じだと思うのですけどねえ」ということなので、気の毒なので1箱購入した。味が違うのかは比較しなければ分からないが、3時間半待つこととすぐ買えることとの違いを埋めるほどの差はあるまい。
日本人の付和雷同性の高さは「…もいろいろ」などと叫んでいた,言葉の重さは皆無で、乱暴な物言いを一般化した政治家(というと叱られるかもしれないが)がいた頃にも認識はしていた、これほどのものかと実感したことであった。
飛行機に乗る3時間半も前に空港に来るほどまでに購入したいのがキャラメルであるというのは、何というか信じられないものがある。甘味が全くなかった終戦前後の日本人でも3時間は待たないだろう。他のもっと生きるのに大事なことをするはずである。
日本神経心理学会の前日の役員会で、大会長と理事長の共編の「社会活動と脳:行動の原点を探る(医学書院刊)」をいただいて通勤電車で読んでいるのだが、その中にこのような選択をする人の脳機能を理解するヒントがあった。近時報酬と未来報酬を扱った「衝動と脳」について章の記述である。味が評判の店に出かけたが1時間待ちだというので隣の店に入るか辛抱強く待つか、という選択は前頭葉(内側部、眼窩面皮質)、側座核の機能が成せる業であるという。また、セロトニンという神経伝達物質の分泌と関連が強いということである。この種の研究は最近欧米で流行の「Neuroeconomics」に含まれる。経済活動の研究に心理学の手法を持ち込んでノーベル賞を受賞されたKahneman & Tverskyの行動経済学が進化した領域なのだろう。
近時報酬を衝動的に選択するのは前述の脳部位の損傷患者が見せる症状ということなので、並んで待つことなどあり得ず、近くの店の類似品で満足する私よりも、3時間半も行列してキャラメルを購入する人たちは前頭葉機能が悪くないということなのだろうか。未来報酬が得られるまでの時間が常識以上に長いのは、一旦選択したことの方向転換ができない固着行動とも見なせる。これは前頭葉損傷患者の示症状でもある。
私と、行列でキャラメルを買う人とどちらの前頭葉機能が病的なのか、にわかには決めがたいが、今年の夏の千歳空港は異様な光景を呈していたことは確かである。来年の夏にも北海道には行く予定なので,タレントショップがその時どうなっているのか楽しみではある(というと叱られるかもしれないが)。
ということで、今回は叱られるかもしれない言い回しが多くなった。抑制が利かなくなって来たのかも知れない。あたしの前頭葉の方が危ない?

この夏の学習

 9年目になった北海道での住民検診から昨夜遅く帰宅。大学にでるつもりであったが休息を取る一日となった。歳のせいか、仕事がきつかったせいか、はたまた歳のことを考えずに飲み食いしていたためであろう、身体が疲れている感覚がある。
 今年の住民検診に心理班は昨年同様9名のメンバーで参加し、約430人分の高次脳機能に関する実験データを収集できた。耳鼻科班や泌尿器科班は今年から人数を増やして来た。耳鼻科班での匂いの検査と泌尿器科班の尿漏れ検査と我々の高次脳機能検査班とのデータの突き合わせが楽しみである。匂いと排尿コントロール中枢は脳進化では古いので、皮質下—小脳—前頭葉のネットワークの仕組みと加齢現象になんか面白い発見があるかもしれない。楽しみである。もっとも、これまでに蓄積したたくさんの高次脳機能データの解析が当面の課題ではあるけれども。

 身体を休めつつ、家庭菜園(もどきという方が正確だが)の整理を行った。「つるたぐり」と田舎では呼んでいた作業である。キュウリ、トマト、ナス、ズッキーニなどを引き抜く、店じまいの作業である。まだいくつか青いままの実がついているトマトを引き抜くのは、何か惜しくて忍びないものがあるが、そこは思い切りが大事と住民検診で職員から教えられた。

 今年の夏の初めての家庭菜園経営(大げさだけど)から学んだことは多いので、メモをしておこう。
① 野菜は何でも植えれば育つというものではない。ズッキーニは大きく育ったが実を付けることはなかった。雌花は2センチほどでしぼんでしまうのだ。トマトと苦瓜は大量に収穫できたが、ナスの生育とキュウリも今ひとつであった。八雲町の職員の話では、「土が悪い、会わないんだ!」ということであった。何事にも相性というものがあるということを学んだのである。
② 農薬を使わない野菜作りは大変な仕事である。チンゲンサイ、レタス、ダイコン、オオバ、とたくさんの種類を植えたがほとんど収穫できなかった。青虫とナメクジに食べられてしまったためである。手での虫取りやビールを使ってナメクジ退治などを試みたが、敵わなかったとうことである。自然の生物は力強いということである。学んだのは、何事にも育てるには根気と世話がいるということである。
③ 青虫取りは蝶や蛾になるので退治するのはかわいそうな気もしたが、収穫のためには不可欠なのである。菜園の上を飛び交う蝶は、見ていて気持が和むものだが、他方でまずいことをもたらす。かわいい蝶も殺さないと葉ものは育たない。殺してしまうと蝶の舞う姿は味わえない。何事にもプラスの側面とマイナスの側面を内包するということを学んだのである。
④ 葉ものはほとんど失敗したのだが、あれほど大量に発生したナメクジも30度以上の気温が続く頃になるとどこかに行ってしまったかのようである。ナメクジの躍動はおそらく土中の温度の高さと関係があるのであろう。植える時期を工夫すればよいのかもしれない。何事にものが育つためには適した時期があり、それを熟知しておかないと上手くは育たないということを学んだのである。
⑤ トマトやキュウリは収穫しはじめの頃は大変美味であったが、終わり近くなると色合いの割に甘さが足りないとか,硬いという具合に、野菜には食べ頃があることを知った。何事にも旬というものがあるということを学んだわけで、自分も旬を過ぎたはずで、硬直した処遇を他人にもたらしているのかもしれない。

 とまれ、家庭菜園第1年目の夏はいろいろと学ぶことが多かった。
 おそらく、つぎ込んだ苗の代金、肥料、機具、使った時間などの合計はそれらの野菜を購入した場合の数倍の金額となったであろう。短絡的なコスト・パーフォーマンスという観点では完全にマイナスである。
 しかし、毎朝・毎夕水をやり、肥料を足し、青虫を探すなどの世話をして、野菜が育ち行く姿に一喜一憂し,わずかでも収穫でき始めた頃の喜びを加算すると最終的なコスト・パーフォーマンスは大幅な黒字と断言できる。そして、いろいろと普遍して学ぶことが多い。何事も短期的な計算で測ってはいけないというのも学習したことである。

 北海道八雲町では移住者に無料で240坪の農地を提供するキャンペーンを行っている。もう少し野菜作りに上達しないと、仮に移住しても難儀するといけない、などと思っている次第。
 もっとも、八雲町の職員は「畑仕事はできなくても,世話焼きな年寄りがたくさん待ち構えているから心配ない。すぐに移住しても大丈夫」と言ってくれてはいましたが。

Berlnにて

「Berlinにて」などと書き始めると、著名作家の本のタイトルにあったような気もするのだが思い出せない。調べたい衝動にかかれるが、久しぶりに一人旅をしたので、その印象を書こうと思う。結論は「日本人の若者よ、何処へ」、といった戯言になりそうだが。
学会でベルリンに来ている。開会式の翌日の朝に思い立って電車の旅をした。10年以上も前から一人で海外に出かけて小旅行をするなどということはなくなっている。たいていは若い人とのグル-プ旅行が多いので、他人任せになっている。
今回の独りでの旅行で思い知らされたは、案内や地図などが読めないことである。文字が細かすぎるのである。特にドイツではデザインが利便性よりも優先している印象で、恨み言を言いたくなるほどである。いちいち老眼鏡を取り出すのもうんざりするので(だいいち、さらに拡大鏡がないと読めない文字サイズなのだ)、必然的に加齢効果のひとつである生きる知恵を使っての旅行となった。文字言語がだめなら音声言語だ、他人に聞けばよいのである。
 かくて、一度は行って見たいと考えていた町へと向かった(場所は差しさわりがあると不味いので、書かない)。その車中で感じたことが今回の話題である。
列車には大きな荷物を持つ大学生らが大勢含まれていた。30年昔と同じような光景である。コンパートメントでの隣の2人はそのカテゴリーの旅行者であった。カップルかと思っていたら一人は男ではなかった(化粧の形跡がないにきび顔で、うっすらひげが伸びているので、間違った次第。ステレオタイプ的誤解である)。11時近くになると手荷物であるスーパーの袋から(大きなバッグは別にある)昼ごはんらしきものが取り出され、彼女らのランチが始まった(他人にわからないように英語で話そうね、と言っていたので、ドイツあたりで勉強している英国人と思われる)。そのランチプロセスがたくましいのである。パンは大人の頭の2人分のサイズ、スライスサラミ一袋、ピザソースのビン(500mm大)、1.5リットルの水ボトル、デザート用のりんごジャムみたいなビン(500mm大)、トマト大ひとつである。他にもブドウなどの房が見えたが、それは取り出されなかった。彼女らはそれらをパンは半分残したがすべて、ぺろりと20分足らずの間に食してしまった。トマトはズボンで拭きナイフでカット、ピザソースはスプーンで舐める、あとは手づかみといった方法である。恐ろしい食欲と荷物の重量である。
 翻って、わが日本人の女子大学生でこのようなことが可能であろうかと思った次第。食欲は別にしてもブランドのかばんしか持てなさそうなか細い腕を想像すると、性差別などへの迫力は、外国では如何ばかりのものかと思うことであった。
 もちろん、男子の学生と思しき旅行者も大勢いた。いずれも大きな荷物を軽々と運び、1.5リットルの水ボトルを2つほど持ち歩いている。携帯メールを常時操作し、だらしなくズボンを下げて電車に座りこむだけのわが国の男子学生には考えにくいことのように思えた(これもステレオタイプ的誤解だとよいのだが)。中国人学生の多さばかりが目に付く。日本人の姿をほとんど見かけなかった。
最近の日本人学生は海外旅行に関心を失ったのだろうか、重い荷物を持てなくなったのだろうか。
出かけるお金がないというのはおそらく異なり、しんどい思いをして言葉の通じない国に出かける面倒さが嫌なのであろう。何故なら、30~40年前の大学生はまだ貧しかったにもかかわらず、旅に出たものである。コミュニケーションの力は言葉や文化の違う人や場所での経験から学べることが多いのに残念なことである、というか気がかりなことでもある。 
 団塊世代が大学生であった頃に葉、彼らは外国への好奇心に満ち、抗菌対策など気にしないエネルギーにあふれていたよう思える。それだから、今日の日本企業進出がもたらされ田にちがいない。
このように思いを巡らしていると、中国人学生らに自分たちの世代のかつての姿を見るようである。10年先には彼らが世界を席巻するのかもしれない。日本人の男子学生よ、旅に出よ!などと、叫びたくなるが、そんな声にせかされてややこしい国で人質になられても責任は取れない。
久しぶりの一人での小旅行は4時間も電車に乗っていたので、さまざまなことを考えることとなった。今回の小旅行の成果は何よりも、音声言語で生きていけることの発見であった。
「知らない町を歩いてみたい、どこか遠くへ行きたい…」と最近、ちあきなおみのカバーで聴いた歌を、帰路は一人となったコンパートメントで、夕闇の迫るドイツの麦畑を眺めつつ呟いたことであった。愛する人とは巡り会えなかったけれどね(この歌知らないと意味のない一文)。

劣化?

4月から新幹線での通勤ではなく、JR京都線(昔の東海道線)、環状線、近鉄南大阪線を使うようになった。通勤ダイヤの乱れの頻繁さに驚いている。別に統計を取っているわけではない。しかし、誇張するようだが3日と連続して電車の遅れがないことはないのではあるまいか。特にJRの場合がひどい。人身事故が発生した、線路に人が入った、急病が出た、信号機の故障などが原因とアナウンスされることが多い。以前よりも事故が多くなり、人間がひ弱になったということなのだろうか。いずれにしても、かつての、時計代わりとなるほど正確に運行されていた国鉄時代の姿は今何処と言いたい。
 外国から知人が来て電車が時間に正確であることや、定められた位置に寸分たがわず停車するのに感嘆する姿に、優越感を持ったことが懐かしい。
 30年前にレスター大学での研究会に呼ばれてその帰り電車に乗り間違ったことがある。講演を終えて雑談でもしていたのか、電車に乗り遅れるかも知れないということで、急ぎ車で駅まで送ってもらうことになった(渡英3ヶ月頃のことで、電話での依頼を断る語学力がない状態での招待講演であった)。4時前の電車で確かバーミンガムを経てカーディフに向かう特急の切符を渡されていたと思う。教えられた番号のプラットホームに駆け込んで停車している電車に飛び乗るという状態であった。空いている座席を見つけてほっとした頃に車内放送があった。拙い語学力ではあったがロンドンという単語が聞き取れたので、いぶかしく思い車掌に聞くと、確かにロンドン行きであるという。間違った特急に乗ってしまったのである。車掌に確認すると、この特急は遅れているので多分君の乗るべき特急は同じホームに15分ほど遅れて着くはずという。仕方なくロンドンまで行き、地下鉄でカーディフ行きの電車のでるパディントンまで行って帰宅するという、ちょうど、三角形の2辺を辿ってのコースとなった。火事場の××力で、拙い英語を駆使し無事11時半頃には帰宅できたのであるが、どのようにカーディフまで帰るべきか、乳飲み子のいる一月ほど前に合流したばかりの家族が心配しているに違いない、などと気が気ではなかった。
 このトラブルの原因はイギリスの鉄道のいい加減さにあると、英国のストの多さや車の修理のいい加減さなどと一緒にその頃に何度か話題にしたことがある。当時の日本の正確無比の国鉄ダイヤ、信頼の置ける技術などと比較し、イギリスのだめなことなどを吹聴したはずである。

 何のことはない、30年前の嘲笑していた事態がわが国のものとなってしまったのだ。ひどい劣化である。何故なのだろう。
 3日と続けてダイヤ通りに運行できないJRとなってしまった原因にはいろいろなものがあるだろうが、一つに尼崎の事故以降の安全運行の遵守方針があるように思える。ちょっとしたトラブルについてもしっかり確認した後でないと進むなというマニュアルが出来ているのだろう。電車の定時運行を安全確認の御旗で二の次にしているように思える。安全運行を重視すること自体悪いことではないので止めろとは言えないが、安全確認も度がすぎるとスムーズに物事は流れない。具合の悪くなった人がいるので緊急停止ボタンが押され、電車が止まるというケースも最近では頻繁に経験する。
 新幹線では次の駅までが長いためか、はたまた、元気のよい年代のビジネスマンが乗客の多数を占めるせいか、緊急停止ボタンが押されるようなことを経験することがない。在来線では安易に停止ボタンを押す人が増えているのだろう(駅のホームがすぐ先に見える距離でも、後数秒間が待てないらしい、他の乗客の不都合などに想像が向かないのかも知れない)。
 どうも、経営効率にばかり眼を奪われ、運転手の労働条件が尼崎の事故の遠因だと避難されると、極端な安全マニュアルを採用するというように、最近は何事にも極端に走りすぎる傾向を感じてしまう。
 このような信頼の置けないJRの状況に対する不満は(おとなしい私でも醸成されている?)、尼崎の事故の記憶が風化する頃に吹き出すと、その不満を受けダイヤ遵守へと極端に傾いて、また再び安全運行がおざなりにされるのではないかと心配である。
 ダイヤの遵守と安全運行のいい頃合い加減を見つけられなくなって、「ほどほどに」という結論を生み出す思考体系の喪失が、現代人の劣化の実態ではないかと考えてしまう。
「どうしたらよいのか?」と問われても解決策はにわかには思いつかないが、おそらくは「ゆとり」の重視かも知れないと感じている。「ゆとり」のなさは決定事項の効用と限界を俯瞰するしなやかな思考力を封じてしまうように考えるのだが如何なものであろうか。
JRも過密なダイヤにしないこと、休養十分で体調の良い状態での労働を保証するのが肝心ではないか、乗客も体調の悪いのに他所に行かないですむ生活の有り様が解決策ではないかと、最近は休日がなく過労気味を自覚しつつ思料しているのであります。

選択的注意

 最近の関心事に家庭菜園の野菜の生育具合がある。3月に居間を改装したのに併せて庭の片隅に菜園のスペースを設けた。中国の餃子問題などから近頃世間を賑わせている、食料輸入や自給率への関心からという訳ではない。芝生を張る面積を広くしたくないという家内の意図から生まれたもので(これまでも芝刈りは私の仕事であったが)、2坪ほどの広さの菜園という言葉も重荷になるような類いのものである。
 幸い新しい勤務先の大学の同僚はマンションの屋上にかなりの規模の菜園を育てているらしいので、先達からいろいろと指導が得られるのである。数日前にこの同僚からもらった韓国チシャは、「これ一株でも食べきれないくらいの大きさになる、焼き肉を巻いて食べるべし」と言われたのだが、一晩のうちにナメクジに食べられて無惨な姿になってしまった(ナメクジは当然、塩漬けの刑に処せられた)。
 5月の連休前に慌ただしく植え込んだのは、茄子、キュウリ、ゴウヤ、ブロッコリー、枝豆、トマト、バジルの苗であり、青シソ、ダイコン、ネギ、チンゲンサイは種から育てることにした。欲張ってたくさんの種類を植え込んだのは、何が育ち易いかの検討も狙ってのことである。したがって、それぞれは2-3本しかない。今までのところすべてが何とか順調に育っている。キュウリや茄子は30センチ以上の背丈となり、もう花をつけている。茄子は我が家に犬が来る以前に栽培した経験がある。「親の意見と茄子の花は千に一つの仇もない」の言葉通り、結構収穫できた記憶があるので、楽しみである。
 ブロッコリーや枝豆のような柔らかい葉にはすぐ青虫がつく。毎朝、毎夕に葉の表裏を検査して青虫を取り除かねばならない。この作業に追われていると言えば言い過ぎか(農薬なしに野菜を栽培することの困難さを痛感している)。ダイコンとチンゲンサイは間引いたものを既に3度ほど収穫し、おひたしや油揚げと煮て食べるという快楽を味わっている。異なる種類の青虫が異なる種類の野菜の葉っぱに憑く。青虫(蝶の幼虫)にも若葉の種類による好みがあるらしい。
 このような、菜園作りのままごとのようなことを始めてからは、朝の散歩の道中に散在する農家の畑や個人の家の庭先の野菜の生育具合が気になって仕方がない。今まで、全くと言ってよいほど眼を向けることがなかった他人の畑や庭の茄子の育ち方、キュウリの添え木の作り方などに眼が奪われるのである。これぞ、選択的注意の現象に他ならない。このことを家庭菜園の先達である同僚に話すと彼も同感で、自分の奥さんが妊娠中は、世の中は妊娠中の人ばかりに思えたと話を広げることであった。
 自らが関心を持つものがpop-upするわけである。人間関係でも同様なことが起きるに違いない。自分が関心を持てる子どもや人間にだけがpop-upして処遇されることになるはずである。
 人間の処理能力には限界容量があるので、何かに選択的注意を向けている時間には、何かを抑制しているはずなので気をつけねばならない、と分別の出来始める年齢になると考えるのである。そうなると、私が菜園の野菜に選択的注意を向けることで何を処理抑制しているのか考えねばならないと思うのだが、それが何かは、論文を書くことかもしれないけれども、現在では判然としない。
 しかしながら、選択的注意を受ける対象というものは、たいていは人間ではよい関係が構築され、上手く育つことが多いので、ともかく私の育てる野菜の豊作は保証されているようなものである。昨日、研究会の後で、連れて行ってもらった藤が丘の焼き鳥屋で食べて美味であったミニトマトの串焼きを真似る日は、すぐそこに来ている(はずである)。

CNS2008学会にて

4月の11日からサンフランシスコの学会に来ている。新規採用者がいきなり海外出張?と顰蹙を買いそうなであるが、以前から申し込んである学会と採用話の際にお願いしていたので了解されたわけである。第1回の講義が休講という羽目になったが、学生には帰ってから事情を説明するしか仕方がない。
来ている学会はCognitive Neuroscience Society創設15年目にあたり、今年の大会はM. Gazzanigaに捧げると題された特別な企画があったこともあり、愛知淑徳大学の吉崎君の誘いを受けて同道した。彼はサンフランシスコが5回目ということでガイドとしても問題がない。心理学に関係する読者ならM. Gazzanigaの名前を知らない人は少ないはずで、2年ほど前にも慶応大学での心理学会に来日している。僕は35歳の頃にICUでの合宿で数日間一緒したことがある。2メートルほどの長身でその頃からすでに禿頭の陽気な御仁である。ノーベル賞をもらった離断脳研究で有名なR.Sperryの弟子というか共同研究者である。邦訳された著書が何冊もある。
 特に顕著な彼の神経科学での功績をたたえての特別な大会で、初日には著名な研究者の講演シリーズが準備された。Hilliyard, S., Kosslyn.S., Blakemore,C., Tulving, E., Ladavas, E., Posner, M., Pinker, S., LeDoux, J.の8名の講演者のすべては、その名前を論文や本で見聞きしている人たちで、このようなメンバーが一堂に会するということは空前絶後となるに違いない。高校野球で甲子園を目指しているというのが日本の若い研究者や院生だとすると、メジャーリーガーで殿堂入り目前の神経科学研究業界での選手、とでも言えば、想像してもらえるであろうか。僕も彼らの論文を引用したこともあるし、されたこともある、ラテラリティ研究に関わった僕と同時代の人たちである。
当然のことながら、このようなメンバーによる講演は巧みで、得ることが多い。たとえば、
その1、一人が30分の持ち時間であったが、すべてのメンバーが2分と違えずに講演した。Harvard大学のPinkerのように、一回も詰まることなく、アナウンサーのようによどみなく話した人も、スライドを一人だけ使用しなかったToronto大学のTulvingのもごもごした話でも時間が厳守されていた。話しなれているというだけでの技ではない。
その2、全員の講演で笑い声の起きないことはなかった。関係性の理解がないとわからない種類の冗談もあったが、平均して5分程度に一度は笑いを取っていた。まさに聴衆をエンターテインしている、という感じである。
その3、領域は厳密には同じでないにかかわらず、聴衆が理解できる形でのまとめ方にも学ぶべきところは多かった。詳細な話に入る際にも一度俯瞰した情報を与えてから、話を進めていくやり方は、未学者を相手に話す場合のひとつの方略として有効なことがわかる。
その4、情報提示の工夫にもすばらしく手の込んだものがあった。写真や音声、動画の使い方、自分とGazzanigaとの関係の説明、指導者として彼の長所と短所などを盛り込んでの研究のまとめなのである。これらを予定時間内に組み込むのだから、情報の取捨選択に相当の準備と計画が必要なはずである。
 というわけで、世界的レベルで超一流の研究者の発表能力はすごいとしか言い表せない。ほとんど全員からGazzanigaは結構コケにされていたが(それをうれしがっていた)、彼はマフィアのボスと誰かが言ったように、アイディアをだし、金をだし、酒を飲ませて研究チームに人を集める、組織を立ち上げる、という能力が高い人のようである。Gazzanigaは僕の英国時代の先生であるDimondとの共同研究もNaturen掲載されたものがあり、歴史にIFはないけれども、Dimondが早世しなければ…などと、想像を逞しくしたことであった、

 実は、今回の学会参加も「これからのんびりと研究主体から教育中心へと滑走し着地していこう、その前の息抜き」と密かに思いながら参加したのだが、彼らの講演を聴いて、これからも論文を書き、国際学会にでかけて、そこで海外の若い研究者からrespectされる情景も悪くはないなあと思い始めている。まだ、研究者として引退するのもさびしい気がしてきた。
 それぞれの講演者が聴衆から万来の拍手をもらい、賞賛を受けるのを眼前にしてうらやましく感じたことであった。まさか、吉崎君の狙いが私の心変わりの招来にあるというのではなかろうが。

 ここ5日間ほどのサンフランシスコは快晴で、空はあくまで青い。風は強く、ときには寒いと思わせたり、夏のようだと思わせたりする。揺れ動く私の気持ちのように、というのは大げさかな。

転職ストレス

転職というのは厳密には職種が変わることを意味するはずで、私の場合は、職場は変わるが仕事の内容に大きな差はないので(厳密にはそうでもなさそうだが)、当たらないかも知れないが使うことにする。配置換えというのが適切かというと同じ法人ではないので、もっと違うような気がする。とまれ、今回の名古屋大学を3月31日に退職して4月1日から関西福祉科学大学に勤務するようになったことに伴うストレス体験の話を書く。
そんなもの無いでしょうと言う声が聞こえそうであるが、あるのだ、あったのだ。しかし、自分が予想していたものとは案外異なっていたので、読者もいずれ体験することだし、父兄がもうすぐという場合も考えられるので参考になろうかと思うのだ。
 退職記念パーティをしてもらってからも、三重大であった学会に出席しそのあと、科学研究費で計画していたワークショップを3月24日に実施したので、メンタルストレスの主要な要因である「喪失感」を味わっている暇はなかった。科研の報告書2種類を年度内に名大の方に提出することを決めていたので、慌しいだけの日々であった。25日が卒業式で、そのあと院生らの追い出しコンパがあったり、26日には名古屋市総合リハビリセンターの研究チームが送別会を金山で開催してくれたので、それにも参加した(研究チームへの参加は今後も続けさせてもらえるようで、神経心理学から足を洗う必要は当分はなさそうである)。27日に運送屋に荷物の運搬を依頼していたために、ワークショップ後の数日間は、ただ、ばたばたしていたことしか記憶にない。この間に中学時代の同級生に会ったり、家内が新婚のころに勤務していた薬局の娘(当時高校生)が、子供が名古屋の大学に入学したといって突然3人の子供と研究室に訪ねて来たりした。したがって、名大を去るというような特別な寂しさや感慨を抱くこともなく、ばたばた感や慌しかったという印象だけが強調されている。
 研究室の引越しも名大の院生や学部生が手伝ってくれ、受け取る側では3名の卒業生が駆けつけてくれたので、引越業者の到着時刻は2時間以上遅れたにもかかわらず、新しい研究室の片付けはあっという間に終わってしまった。持つべきものはこのように手伝ってくれる若い人である。自分で作業していたら、今頃は必ず腰痛でダウンということになったであろう。言うまでもないが関西福祉科学大にいる友人らも引っ越し作業を手伝ってくれた。
「新しい状況への適応」も「喪失感」と並ぶメンタルストレスの主要因であるが、友人らがいるおかげでこの点では若い院生のころに帰ったような安堵感を味わうことが多く、大いに助かっている。
 転職ストレスの話はどこに行ったのかと、気になりだしたことであろうから、本題に入ろう。
 私のように、類似の職場に移動する、それも知己が複数いて気楽なところへの移動であるにもかかわらず妙な「喪失感?」を味わったのである。それは、引越しが終わった28日と29日のことであった。疲れているはずなのに3時ごろに覚醒してしまうのである。そして体感するのは暗澹とした感覚である。具体的に何が原因かを追究できないようなくらい闇の感覚であった。別に寝ぼけていたということではない。10分ほどで、睡眠導入剤を飲んだ。うつになるのはこのような感覚から引き込まれるのではないかと考えたことであった。30日にも睡眠導入剤を使ったが、その後は従来のような睡眠パターンとなった。
今では、おそらくは自分が居なくても誰も困るわけではない、職場は機能していく、時間は流れていくことに依拠した「孤独感、喪失感」なのではないかと分析している。また、10日間ばかりのばたばたしていた期間での肉体的疲労、緊張、興奮の持続による精神的疲労が加味してのことだろうと思われる。大げさなようだが、うつ病になる入り口を覗いたのだろうと思っている。
 私の場合は何度も言うように恵まれた転職であり、ありがたいことに多くの人に祝福されて(たぶん)の転職であるが、それでもうつ病になる入り口を覗いたようなことが起きるのだ。
60歳の誕生日で会社を退職して、次の仕事が決まらない人や、余った時間をどう過ごそうとするか模索しなければならない人の転職ストレスは如何に大変なものかが容易に推察できるというものである。そのような時期には身体的、精神的に疲労しないように十分気をつけなければならないと思ったことであった。
 左様に、働くお父さんは大変な思いをするのだから、若い読者は心して接すべきである。また、そういう日が近い読者は覚悟して臨む必要がある、というのが体験者の思いであります。 

送別会(鳥羽潮路亭にて)

 急な話が持ち上がり、今年度末で名古屋大学を退職することになったことは、前に書いたとおりである。講座の先生方や院生の皆さんには大変迷惑をかけることになったにも関わらず、3月6日には最終講義や退職記念パーティなど、定年で辞める教員と同様の行事をしてもらい有り難いことであった。
 15年ほど前の秋口に名大が創設する新学部へ移らないかという話があり、2~3日のうちに決断をと迫られ、その結果名大への配置換となって以来ずいぶんと長い年月が経ったにも関わらず、一瞬のような気がしないでもない。その間に国立大学法人化をにらんだ2度の改組を経験した(国立大学法人化は失敗であると、思っているがこのことは別の機会に書くこともあろう)。その期間には評議員や学部長代行、学部長を務めたこともあり、一瞬と思える時間はきっかけを与えられると際限なくエピソードが広がる。
 思いがけなくも、改組の頃の情報文化学部の主要メンバー8名が私の退職に際して送別会を鳥羽への一泊旅行という形で催してくれた。日帰りで帰らなければならない先生まで参加してくれた。当時のメンバーの凝集性を今日まで維持できるのは、退職して昔が懐かしいというだけではなく、当時の学部運営が如何に大変であったかの証左である。
 一風呂浴びた6時過ぎから始まった宴会は部屋を移して12時過ぎまで続き、改組の頃のエピソードはまさに際限なく広がった。私にとって一瞬とも思える名古屋大学での時間が次々と広がっていく楽しい時間であった。急逝した筏津さんがいないことに皆が何度も言及したことであった。
 私が評議員や学部長代行を務めた頃の学部長であった田中喜美春先生も参加頂いた。退職記念パーティでは源氏物語に書かれている歌を引用した格調高い開会の挨拶をされ、翌日以降何度もそのことが私の周囲では話題になった。その田中先生が宴会の後半に退席されたので、お就寝になったのだろうと思っていたら色紙を手にして再び宴会場に戻られ、私に贈る歌を紹介された。
 田中先生の退職の際に山崎川の桜を見物に出かけ、料理屋で私が「喜美春」を読み込んだ短歌を呈したのを覚えておられ、そのお返しということであった。その歌のことは退職記念パーティで先生から「色紙は飾ってある」と、謹呈した本人が忘れているのに諳んじてみせられ恐縮した。
 以前にこのコラムに書いたことがあるように、私の郷里では祝い事の際に祝吟という風習があることに言及し、山崎川の近くの料理屋で披露して見せたことがあったのだ。その際に色紙を手配した筏津さんが「八田は、生意気にも墨と筆、それに色紙は一枚でよいと言った」という話を退職記念パーティで田中先生から教えられた。酔っていたとは言え、汗顔の至りである。
 田中先生の歌は、
「玉かぎる 夕べの海よ なぎて泊つ ただ気色をば うすにびにして」というもので、色紙の墨がまだ乾ききらないものを宴会のメンバーに紹介された。
「泊つ」はハツと読むのでハッタタケシの名前が見事に読み込まれている。気づけない読者のために敢えて説明すると、「なぎてはつ ただけしきをば」という具合なのだ。
 歌の意味するところは、「真珠の里に来て、今宵宿泊する入り江の見える部屋から見る水面は、凪いで静かである。しかし、私の気持は別れが辛く寂しい」というものである。にびいろとは、鈍色(薄墨色)のことで、寂しく哀しい色なのである。
 郷土の風習を真似て言葉遊びをしている私などとは比較できない枕詞が組み込まれた高度な技法を用いたレベルのものであることは歌の素人の私にも分かる。作った自分が覚えていないようなレベルの歌をよくも専門家に送ったものだと、冷や汗が酔いを醒ましそうになった。
 先生は、実は始めて歌を詠んだということである。「古今集」の研究者である人は以外と自分では作歌しないのかも知れない。
 2008年3月14日金曜日の鳥羽潮路亭での一夜は、何よりの名古屋大学での生活の思い出となった。情報文化学部の創設や改組で汗をかいた仲間の思いやりに、ただお礼を申し上げるしかない。

 田中先生の処女作は、現在私の家の小さな和室に飾られていることは言うまでもない。