劣化?
4月から新幹線での通勤ではなく、JR京都線(昔の東海道線)、環状線、近鉄南大阪線を使うようになった。通勤ダイヤの乱れの頻繁さに驚いている。別に統計を取っているわけではない。しかし、誇張するようだが3日と連続して電車の遅れがないことはないのではあるまいか。特にJRの場合がひどい。人身事故が発生した、線路に人が入った、急病が出た、信号機の故障などが原因とアナウンスされることが多い。以前よりも事故が多くなり、人間がひ弱になったということなのだろうか。いずれにしても、かつての、時計代わりとなるほど正確に運行されていた国鉄時代の姿は今何処と言いたい。
外国から知人が来て電車が時間に正確であることや、定められた位置に寸分たがわず停車するのに感嘆する姿に、優越感を持ったことが懐かしい。
30年前にレスター大学での研究会に呼ばれてその帰り電車に乗り間違ったことがある。講演を終えて雑談でもしていたのか、電車に乗り遅れるかも知れないということで、急ぎ車で駅まで送ってもらうことになった(渡英3ヶ月頃のことで、電話での依頼を断る語学力がない状態での招待講演であった)。4時前の電車で確かバーミンガムを経てカーディフに向かう特急の切符を渡されていたと思う。教えられた番号のプラットホームに駆け込んで停車している電車に飛び乗るという状態であった。空いている座席を見つけてほっとした頃に車内放送があった。拙い語学力ではあったがロンドンという単語が聞き取れたので、いぶかしく思い車掌に聞くと、確かにロンドン行きであるという。間違った特急に乗ってしまったのである。車掌に確認すると、この特急は遅れているので多分君の乗るべき特急は同じホームに15分ほど遅れて着くはずという。仕方なくロンドンまで行き、地下鉄でカーディフ行きの電車のでるパディントンまで行って帰宅するという、ちょうど、三角形の2辺を辿ってのコースとなった。火事場の××力で、拙い英語を駆使し無事11時半頃には帰宅できたのであるが、どのようにカーディフまで帰るべきか、乳飲み子のいる一月ほど前に合流したばかりの家族が心配しているに違いない、などと気が気ではなかった。
このトラブルの原因はイギリスの鉄道のいい加減さにあると、英国のストの多さや車の修理のいい加減さなどと一緒にその頃に何度か話題にしたことがある。当時の日本の正確無比の国鉄ダイヤ、信頼の置ける技術などと比較し、イギリスのだめなことなどを吹聴したはずである。
何のことはない、30年前の嘲笑していた事態がわが国のものとなってしまったのだ。ひどい劣化である。何故なのだろう。
3日と続けてダイヤ通りに運行できないJRとなってしまった原因にはいろいろなものがあるだろうが、一つに尼崎の事故以降の安全運行の遵守方針があるように思える。ちょっとしたトラブルについてもしっかり確認した後でないと進むなというマニュアルが出来ているのだろう。電車の定時運行を安全確認の御旗で二の次にしているように思える。安全運行を重視すること自体悪いことではないので止めろとは言えないが、安全確認も度がすぎるとスムーズに物事は流れない。具合の悪くなった人がいるので緊急停止ボタンが押され、電車が止まるというケースも最近では頻繁に経験する。
新幹線では次の駅までが長いためか、はたまた、元気のよい年代のビジネスマンが乗客の多数を占めるせいか、緊急停止ボタンが押されるようなことを経験することがない。在来線では安易に停止ボタンを押す人が増えているのだろう(駅のホームがすぐ先に見える距離でも、後数秒間が待てないらしい、他の乗客の不都合などに想像が向かないのかも知れない)。
どうも、経営効率にばかり眼を奪われ、運転手の労働条件が尼崎の事故の遠因だと避難されると、極端な安全マニュアルを採用するというように、最近は何事にも極端に走りすぎる傾向を感じてしまう。
このような信頼の置けないJRの状況に対する不満は(おとなしい私でも醸成されている?)、尼崎の事故の記憶が風化する頃に吹き出すと、その不満を受けダイヤ遵守へと極端に傾いて、また再び安全運行がおざなりにされるのではないかと心配である。
ダイヤの遵守と安全運行のいい頃合い加減を見つけられなくなって、「ほどほどに」という結論を生み出す思考体系の喪失が、現代人の劣化の実態ではないかと考えてしまう。
「どうしたらよいのか?」と問われても解決策はにわかには思いつかないが、おそらくは「ゆとり」の重視かも知れないと感じている。「ゆとり」のなさは決定事項の効用と限界を俯瞰するしなやかな思考力を封じてしまうように考えるのだが如何なものであろうか。
JRも過密なダイヤにしないこと、休養十分で体調の良い状態での労働を保証するのが肝心ではないか、乗客も体調の悪いのに他所に行かないですむ生活の有り様が解決策ではないかと、最近は休日がなく過労気味を自覚しつつ思料しているのであります。
外国から知人が来て電車が時間に正確であることや、定められた位置に寸分たがわず停車するのに感嘆する姿に、優越感を持ったことが懐かしい。
30年前にレスター大学での研究会に呼ばれてその帰り電車に乗り間違ったことがある。講演を終えて雑談でもしていたのか、電車に乗り遅れるかも知れないということで、急ぎ車で駅まで送ってもらうことになった(渡英3ヶ月頃のことで、電話での依頼を断る語学力がない状態での招待講演であった)。4時前の電車で確かバーミンガムを経てカーディフに向かう特急の切符を渡されていたと思う。教えられた番号のプラットホームに駆け込んで停車している電車に飛び乗るという状態であった。空いている座席を見つけてほっとした頃に車内放送があった。拙い語学力ではあったがロンドンという単語が聞き取れたので、いぶかしく思い車掌に聞くと、確かにロンドン行きであるという。間違った特急に乗ってしまったのである。車掌に確認すると、この特急は遅れているので多分君の乗るべき特急は同じホームに15分ほど遅れて着くはずという。仕方なくロンドンまで行き、地下鉄でカーディフ行きの電車のでるパディントンまで行って帰宅するという、ちょうど、三角形の2辺を辿ってのコースとなった。火事場の××力で、拙い英語を駆使し無事11時半頃には帰宅できたのであるが、どのようにカーディフまで帰るべきか、乳飲み子のいる一月ほど前に合流したばかりの家族が心配しているに違いない、などと気が気ではなかった。
このトラブルの原因はイギリスの鉄道のいい加減さにあると、英国のストの多さや車の修理のいい加減さなどと一緒にその頃に何度か話題にしたことがある。当時の日本の正確無比の国鉄ダイヤ、信頼の置ける技術などと比較し、イギリスのだめなことなどを吹聴したはずである。
何のことはない、30年前の嘲笑していた事態がわが国のものとなってしまったのだ。ひどい劣化である。何故なのだろう。
3日と続けてダイヤ通りに運行できないJRとなってしまった原因にはいろいろなものがあるだろうが、一つに尼崎の事故以降の安全運行の遵守方針があるように思える。ちょっとしたトラブルについてもしっかり確認した後でないと進むなというマニュアルが出来ているのだろう。電車の定時運行を安全確認の御旗で二の次にしているように思える。安全運行を重視すること自体悪いことではないので止めろとは言えないが、安全確認も度がすぎるとスムーズに物事は流れない。具合の悪くなった人がいるので緊急停止ボタンが押され、電車が止まるというケースも最近では頻繁に経験する。
新幹線では次の駅までが長いためか、はたまた、元気のよい年代のビジネスマンが乗客の多数を占めるせいか、緊急停止ボタンが押されるようなことを経験することがない。在来線では安易に停止ボタンを押す人が増えているのだろう(駅のホームがすぐ先に見える距離でも、後数秒間が待てないらしい、他の乗客の不都合などに想像が向かないのかも知れない)。
どうも、経営効率にばかり眼を奪われ、運転手の労働条件が尼崎の事故の遠因だと避難されると、極端な安全マニュアルを採用するというように、最近は何事にも極端に走りすぎる傾向を感じてしまう。
このような信頼の置けないJRの状況に対する不満は(おとなしい私でも醸成されている?)、尼崎の事故の記憶が風化する頃に吹き出すと、その不満を受けダイヤ遵守へと極端に傾いて、また再び安全運行がおざなりにされるのではないかと心配である。
ダイヤの遵守と安全運行のいい頃合い加減を見つけられなくなって、「ほどほどに」という結論を生み出す思考体系の喪失が、現代人の劣化の実態ではないかと考えてしまう。
「どうしたらよいのか?」と問われても解決策はにわかには思いつかないが、おそらくは「ゆとり」の重視かも知れないと感じている。「ゆとり」のなさは決定事項の効用と限界を俯瞰するしなやかな思考力を封じてしまうように考えるのだが如何なものであろうか。
JRも過密なダイヤにしないこと、休養十分で体調の良い状態での労働を保証するのが肝心ではないか、乗客も体調の悪いのに他所に行かないですむ生活の有り様が解決策ではないかと、最近は休日がなく過労気味を自覚しつつ思料しているのであります。