2008年の年の瀬に
月に一度のペースで書いて来たブログが久しぶりに停滞しているのは体調不良とか言う理由からではありません。やたら、忙しかったためです。いつも忙しいと言っている気がしますが、オオカミ少年と取られても嫌なのでその原因をいくつか挙げると、人間環境学研究12月刊の編集がその一つです。5年前から刊行しているこの学術雑誌は自画自賛的に言うといくつかの観点から評判がよく(その具体は書かない)、投稿数が増えたために査読が大変だったのであります。編集代表を勤めているので、査読依頼だけでなく全論文を読んでいます。通常は7-8編で1号としているのですが、5巻2号は13編と分厚くなったのであります。だいたいは1回、中には3回の修正を依頼した論文もあるので、トータルではかなりの時間を必要としたことになります。他の雑誌の査読も11月から2ヶ月ほどの間に4編やりました。J.Exp.P.、Neuropsychologia, Reading & Writing、Psychologiaからの査読依頼で断るのもしゃくなので引き受けてしまったのですが、査読期間の縛りがきついので読んだり、コメントを書いたりに要する時間はけっこうな長さとなったわけです。Brain & Language、Perceptual & Motor Skillsの依頼と日本のある学会誌の依頼は勘弁してもらったのですが、何故にこんなに重なるのか、「忙しいときには依頼は届かず、暇を持て余し気味のときには査読依頼は来ない」というのもマーフィーの法則に加える必要があるのではないでしょうかね。
加えて、これは仕事なので仕方がないことですが、学位論文の審査が3件重なったことも、編集中の本の原稿を分担者が出してこないので、代筆をせねばならなかったことも、自分がきき手に関する選書(これは来年中には化学同人社から出るはずなので、宣伝を目にしたら、是非購入下さい、けっこう力を入れて書き進んでいますので)を執筆中であることも多忙さと多忙感を募らせ、ブログどころではなくなってしまったというわけであります。「動いていないと死んでしまう、マグロ体質」と言われたりしているのですが、もうそろそろ、このような多忙さからは脱出したいという願望は閾値に近づいています。
此処までなら、忙しさの自慢かといわれそうですが、加えて多忙にした原因に言及するのが、今回多忙と言いつつも書いておこうとした動機であります。それは、評価のためのデータ作りです。自分の業績のリストを出せという指示が複数のソースからもたらされ(それも書式が同じでない)、さらにはその業績の中での評価を求められたからです。研究論文がどれくらい優れたものかを評価するというおかしな発想が実行されつつあるのです。そもそも、研究評価についての基準を持たないままでSだのSSだのと印を付けるというのです。僕に言わせればどだい無理なことをしているのです。
評価は、「価値に対して物差を当て評定する」行為であります。教育心理学の教科書にそう書きましたし、心理学ではコンセンサスのある定義です。大学で行われる研究活動の価値の具体が何か分からないので(議論をしていないし、簡単ではない)、物差を何にすればよいかは当然分かっていないことになります。したがって、評価が可能なはずはないのにそれをするというのです。大学評価機構の求めということですが、機構は賢明なのでその具体的な物差は提示しません(抽象的なものは示しますが)。研究論文の引用数、雑誌のインパクトファクターなどと、具体的な物差を提示すれば、袋だたきに遭うことを知っているからでしょう。「客観的な第3者評価に資料を付けよ」などと不可能な指示もあります。主観の入らない測定はないというのがニュートン物理学からアインシュタイン、ボーアらの物理学の移行であったはずで、知らない研究分野の研究業績を評価できるはずがありません。
名大の評価を束ねている先生達は生真面目なので、自己規制をしすぎながら回答の分かっていない者から出された問題に真剣に答探しをしているように僕には思えるのです。もっとも、このような感想を持つのは僕がもつアバウトさのなせるワザなのかも知れませんが。「勇気ある知識人」を作るのを目指す大学なのですから、大学評価機構に仕事を投げ返す勇気が名古屋大学に必要なように思います。
具体的には研究者それぞれに相応に自分でSやSSをつけてもらって提出し、問題があるというならその根拠を示してもらうようにすればよいのです。「自分の研究はすごい」と本人が持つ何かの物差に基づいて行われた評価を、根拠を示してそうではないとするには、否定する側にはっきりとした価値感や物差がなくては叶わないからです。
明後日からの台湾での学会準備に手が回らず、大学の認証評価制度がもたらした波紋で、時間換算でどれだけのロスを教員にもたらしているか、その効用との兼ね合いを評価してもらいたいと叫んでいる年の瀬であります。
加えて、これは仕事なので仕方がないことですが、学位論文の審査が3件重なったことも、編集中の本の原稿を分担者が出してこないので、代筆をせねばならなかったことも、自分がきき手に関する選書(これは来年中には化学同人社から出るはずなので、宣伝を目にしたら、是非購入下さい、けっこう力を入れて書き進んでいますので)を執筆中であることも多忙さと多忙感を募らせ、ブログどころではなくなってしまったというわけであります。「動いていないと死んでしまう、マグロ体質」と言われたりしているのですが、もうそろそろ、このような多忙さからは脱出したいという願望は閾値に近づいています。
此処までなら、忙しさの自慢かといわれそうですが、加えて多忙にした原因に言及するのが、今回多忙と言いつつも書いておこうとした動機であります。それは、評価のためのデータ作りです。自分の業績のリストを出せという指示が複数のソースからもたらされ(それも書式が同じでない)、さらにはその業績の中での評価を求められたからです。研究論文がどれくらい優れたものかを評価するというおかしな発想が実行されつつあるのです。そもそも、研究評価についての基準を持たないままでSだのSSだのと印を付けるというのです。僕に言わせればどだい無理なことをしているのです。
評価は、「価値に対して物差を当て評定する」行為であります。教育心理学の教科書にそう書きましたし、心理学ではコンセンサスのある定義です。大学で行われる研究活動の価値の具体が何か分からないので(議論をしていないし、簡単ではない)、物差を何にすればよいかは当然分かっていないことになります。したがって、評価が可能なはずはないのにそれをするというのです。大学評価機構の求めということですが、機構は賢明なのでその具体的な物差は提示しません(抽象的なものは示しますが)。研究論文の引用数、雑誌のインパクトファクターなどと、具体的な物差を提示すれば、袋だたきに遭うことを知っているからでしょう。「客観的な第3者評価に資料を付けよ」などと不可能な指示もあります。主観の入らない測定はないというのがニュートン物理学からアインシュタイン、ボーアらの物理学の移行であったはずで、知らない研究分野の研究業績を評価できるはずがありません。
名大の評価を束ねている先生達は生真面目なので、自己規制をしすぎながら回答の分かっていない者から出された問題に真剣に答探しをしているように僕には思えるのです。もっとも、このような感想を持つのは僕がもつアバウトさのなせるワザなのかも知れませんが。「勇気ある知識人」を作るのを目指す大学なのですから、大学評価機構に仕事を投げ返す勇気が名古屋大学に必要なように思います。
具体的には研究者それぞれに相応に自分でSやSSをつけてもらって提出し、問題があるというならその根拠を示してもらうようにすればよいのです。「自分の研究はすごい」と本人が持つ何かの物差に基づいて行われた評価を、根拠を示してそうではないとするには、否定する側にはっきりとした価値感や物差がなくては叶わないからです。
明後日からの台湾での学会準備に手が回らず、大学の認証評価制度がもたらした波紋で、時間換算でどれだけのロスを教員にもたらしているか、その効用との兼ね合いを評価してもらいたいと叫んでいる年の瀬であります。