選択的注意
最近の関心事に家庭菜園の野菜の生育具合がある。3月に居間を改装したのに併せて庭の片隅に菜園のスペースを設けた。中国の餃子問題などから近頃世間を賑わせている、食料輸入や自給率への関心からという訳ではない。芝生を張る面積を広くしたくないという家内の意図から生まれたもので(これまでも芝刈りは私の仕事であったが)、2坪ほどの広さの菜園という言葉も重荷になるような類いのものである。
幸い新しい勤務先の大学の同僚はマンションの屋上にかなりの規模の菜園を育てているらしいので、先達からいろいろと指導が得られるのである。数日前にこの同僚からもらった韓国チシャは、「これ一株でも食べきれないくらいの大きさになる、焼き肉を巻いて食べるべし」と言われたのだが、一晩のうちにナメクジに食べられて無惨な姿になってしまった(ナメクジは当然、塩漬けの刑に処せられた)。
5月の連休前に慌ただしく植え込んだのは、茄子、キュウリ、ゴウヤ、ブロッコリー、枝豆、トマト、バジルの苗であり、青シソ、ダイコン、ネギ、チンゲンサイは種から育てることにした。欲張ってたくさんの種類を植え込んだのは、何が育ち易いかの検討も狙ってのことである。したがって、それぞれは2-3本しかない。今までのところすべてが何とか順調に育っている。キュウリや茄子は30センチ以上の背丈となり、もう花をつけている。茄子は我が家に犬が来る以前に栽培した経験がある。「親の意見と茄子の花は千に一つの仇もない」の言葉通り、結構収穫できた記憶があるので、楽しみである。
ブロッコリーや枝豆のような柔らかい葉にはすぐ青虫がつく。毎朝、毎夕に葉の表裏を検査して青虫を取り除かねばならない。この作業に追われていると言えば言い過ぎか(農薬なしに野菜を栽培することの困難さを痛感している)。ダイコンとチンゲンサイは間引いたものを既に3度ほど収穫し、おひたしや油揚げと煮て食べるという快楽を味わっている。異なる種類の青虫が異なる種類の野菜の葉っぱに憑く。青虫(蝶の幼虫)にも若葉の種類による好みがあるらしい。
このような、菜園作りのままごとのようなことを始めてからは、朝の散歩の道中に散在する農家の畑や個人の家の庭先の野菜の生育具合が気になって仕方がない。今まで、全くと言ってよいほど眼を向けることがなかった他人の畑や庭の茄子の育ち方、キュウリの添え木の作り方などに眼が奪われるのである。これぞ、選択的注意の現象に他ならない。このことを家庭菜園の先達である同僚に話すと彼も同感で、自分の奥さんが妊娠中は、世の中は妊娠中の人ばかりに思えたと話を広げることであった。
自らが関心を持つものがpop-upするわけである。人間関係でも同様なことが起きるに違いない。自分が関心を持てる子どもや人間にだけがpop-upして処遇されることになるはずである。
人間の処理能力には限界容量があるので、何かに選択的注意を向けている時間には、何かを抑制しているはずなので気をつけねばならない、と分別の出来始める年齢になると考えるのである。そうなると、私が菜園の野菜に選択的注意を向けることで何を処理抑制しているのか考えねばならないと思うのだが、それが何かは、論文を書くことかもしれないけれども、現在では判然としない。
しかしながら、選択的注意を受ける対象というものは、たいていは人間ではよい関係が構築され、上手く育つことが多いので、ともかく私の育てる野菜の豊作は保証されているようなものである。昨日、研究会の後で、連れて行ってもらった藤が丘の焼き鳥屋で食べて美味であったミニトマトの串焼きを真似る日は、すぐそこに来ている(はずである)。
幸い新しい勤務先の大学の同僚はマンションの屋上にかなりの規模の菜園を育てているらしいので、先達からいろいろと指導が得られるのである。数日前にこの同僚からもらった韓国チシャは、「これ一株でも食べきれないくらいの大きさになる、焼き肉を巻いて食べるべし」と言われたのだが、一晩のうちにナメクジに食べられて無惨な姿になってしまった(ナメクジは当然、塩漬けの刑に処せられた)。
5月の連休前に慌ただしく植え込んだのは、茄子、キュウリ、ゴウヤ、ブロッコリー、枝豆、トマト、バジルの苗であり、青シソ、ダイコン、ネギ、チンゲンサイは種から育てることにした。欲張ってたくさんの種類を植え込んだのは、何が育ち易いかの検討も狙ってのことである。したがって、それぞれは2-3本しかない。今までのところすべてが何とか順調に育っている。キュウリや茄子は30センチ以上の背丈となり、もう花をつけている。茄子は我が家に犬が来る以前に栽培した経験がある。「親の意見と茄子の花は千に一つの仇もない」の言葉通り、結構収穫できた記憶があるので、楽しみである。
ブロッコリーや枝豆のような柔らかい葉にはすぐ青虫がつく。毎朝、毎夕に葉の表裏を検査して青虫を取り除かねばならない。この作業に追われていると言えば言い過ぎか(農薬なしに野菜を栽培することの困難さを痛感している)。ダイコンとチンゲンサイは間引いたものを既に3度ほど収穫し、おひたしや油揚げと煮て食べるという快楽を味わっている。異なる種類の青虫が異なる種類の野菜の葉っぱに憑く。青虫(蝶の幼虫)にも若葉の種類による好みがあるらしい。
このような、菜園作りのままごとのようなことを始めてからは、朝の散歩の道中に散在する農家の畑や個人の家の庭先の野菜の生育具合が気になって仕方がない。今まで、全くと言ってよいほど眼を向けることがなかった他人の畑や庭の茄子の育ち方、キュウリの添え木の作り方などに眼が奪われるのである。これぞ、選択的注意の現象に他ならない。このことを家庭菜園の先達である同僚に話すと彼も同感で、自分の奥さんが妊娠中は、世の中は妊娠中の人ばかりに思えたと話を広げることであった。
自らが関心を持つものがpop-upするわけである。人間関係でも同様なことが起きるに違いない。自分が関心を持てる子どもや人間にだけがpop-upして処遇されることになるはずである。
人間の処理能力には限界容量があるので、何かに選択的注意を向けている時間には、何かを抑制しているはずなので気をつけねばならない、と分別の出来始める年齢になると考えるのである。そうなると、私が菜園の野菜に選択的注意を向けることで何を処理抑制しているのか考えねばならないと思うのだが、それが何かは、論文を書くことかもしれないけれども、現在では判然としない。
しかしながら、選択的注意を受ける対象というものは、たいていは人間ではよい関係が構築され、上手く育つことが多いので、ともかく私の育てる野菜の豊作は保証されているようなものである。昨日、研究会の後で、連れて行ってもらった藤が丘の焼き鳥屋で食べて美味であったミニトマトの串焼きを真似る日は、すぐそこに来ている(はずである)。