花の色は | はったブログ

花の色は

例のごとく朝の運動(散歩)に出かけたのが、門を出て(と言っても鉄扉にすぎない)向かいの家の庭から満開の山吹の花が道路に溢れんばかりに咲いているのが目に入った。これこそ、「山吹色」だ!と感じ入っていると、最近山吹の花を見ることも少なくなったので、きっと子ども達は実物を知らずに色名を覚えるのだろうなあ、と気になりだした。具体物と語彙との対連合がないままに語彙を覚えるのは難しかろう。「空色」は最近の子どもでも対連合が出来そうだが、本当の「空色」かどうか怪しいものだ、『東京には本当の空がない』なんてあったのは「智恵子抄」だったのかな、などと思考は妙な形で展開していった。

 右隣には数年前に遊水池を埋め立てて10数戸が新築され、大きな家が建っている(敷地の割に家が大きいという意味)。垣根はすべて赤芽、玄関先にはハナミズキ、と建物は様々な形なのに、庭周りが画一的なので安っぽい印象を醸し出してしまう(余計なお世話ですけど)。

 しばらく歩くと、菜の花が川の土手を覆っている、「菜の花色」って言わないのは何故だろう。たんぽぽも黄色以外のものは見ないのに、「たんぽぽ色」と言わない。「藤色」や「桃色」という単語は目にするのに、と墓地公園に至る坂道からみえる薄いピンクの山桜を見やったことであった。濃淡に程度こそあれ、「桃色」以外の桃はない、「すみれ色」もパンジーと呼んでいる洋物以外に色調に多様性がない、「栗色」には栗があの色調以外のものがない。「柿色」のしかり、Japanese redと呼ばれるもの以外の柿を見たことはない。「リンゴ色」と言わないのは紅いリンゴ以外に青いリンゴもあるからに違いない、「チューリップ色」と言わないのも赤や、黄色や、紫など多様な色調があるから言わないのに違いない、つまり、色調が一義的に決まっているとされるものは「何々色」と呼び、多様な場合には使わないのだ、と法則性を発見したような気がしてきた。

 墓地公園に至る坂道では鴬が数カ所で煩く甲高い声を鳴き交わしている。坂道の道ばたの薄緑の新芽の樹の間をせわしなく飛び回る鴬(声の割には本体は小さい)を眺めつつ、「左様、鴬も薄緑色しかいない」と、思いついた法則性に気を良くしつつ、Uターンをして帰路についた。このように、書くと心内辞書からつぎつぎと色名を検索して言語流暢性が高いことを誇示しているように思われると面映いし、情緒不安定のように思われるのも癪なので種明かしをすると、すべて、散歩の途中で現物を目にして浮かんだものである。ものを目にしてでのことであり、想像上での出来事ではない。

 家に近くまで来た時に「バラ色」という語彙が頭に突然浮かんできた。バラは様々な色調があるのに「バラ色」という。私の思いついた法則性に関する仮説はもろくも崩れ去ってしまった。どうやら、色調の一義牲だけでなく、花弁や花全体の印象に意味的な部分からも「何々色」という語彙は生じているらしい。などと、いろいろと愚にもつかないことを思いめぐらせて約30分の朝の運動は終わるのであった。

 ただ歩いているだけ(筋運動系)の訓練を続けるだけでは、加齢に伴う脳機能の低下は防止できない、前頭葉機能も使わねばだめなのである!(この仮説は以前のコラムに書いたので検索して参照されたい)という私の仮説に基づいた有意義な朝の運動であったということです(今朝は昨夜よく寝たせいか、気持ちに余裕があるのでいろいろ考えていたということで、いつもいろいろ考えている訳ではない)。

 ところで、この文章に出た花や樹木やその実際の色を知らないという読者はいないでしょうね、恥ずかしいですぞ。