論文の審査(9/5)
その前に、現在、大学評価・学位授与機構が進めている教育評価に関係する仕事をしています。旧帝大の文学研究科のを担当していますが、審査委員名は公表されているのでこの種の仕事をしていることを話しても問題はないはずです(もちろん詳細は秘密ですが)。率直に言えば、文学や歴史、哲学などが中心の文学研究科の院生の研究業績はみすぼらしいものに違いないと思っていました。しかし、先入観は間違いでした。時代は変わっているのですね。個人差はあるのでしょうが、現在の環境学研究科心理学講座の院生の比ではありません。がんばって、諸君が研究発表(論文)をしてくれねば、我々教官の評価が悪くなるのです。「できる学生は一人でやれるし、そうあるべきだ」という種の発想は時代遅れになってきました。先生受難の時代です。
そうはいっても、代わりに書いてあげるわけには行かないので、論文作成に関わるKnow howを伝えようとしているのです。
最近、次のようなことがありました。20か月ほど前に神経心理学の著名な雑誌に投稿しました。2か月ほどで修正コメントが来ました。それから2月ほどして修正稿を送り返しました。以後、連絡が無いままでしたが、こちらも失念していたのに気づき、8月中頃にどうなっているのかを尋ねました。すると、ネット上にすでに修正稿へのコメントが記載されているはずだと編集作業をしている出版社から返事がありました。探してみると、確かに返事があるのですが、何も書いてありません。再度問い合わせると、編集委員長のコメントをメールで送ってくれ、2月の時点で受理されたことが判りました。ただ、PDFで送り送った図を違う形式で送り直せということでした。ネット上に張り付けるのがうまくいかないので、出版社に添付で送り張り付けてくれるよう依頼しました。これで、万事完了と思っていたら、昨日メールが来ました。最初の編集委員長とは別人です。修正稿を読んだが、2~3問題点があり、論文は不採択というものでした。狐につままれた様な思いでほっておこうかとも思いましたが、受理済みのはずである旨メールを書きました。
今朝、だめといった委員長からそうでした間違いでした済みませんという返事がきました。
これらの騒動から院生諸君への教訓です。
?投稿して返事が遅ければ問い合わせること。査読委員はたいてい忙しいので忘れていることがある。やりとりにはいろいろなことがあるのを我慢すること。
?おかしいと思ったら文句を言うこと。僕の場合も、文句を言わなければ時間を掛けた論文が1本なくなるところでした。
?審査は委員によって評価が変わることを理解しておくこと。僕の場合も2番目の編集委員長は、けんもほろろなコメントでした。読んでいないなという感じで、アメリカの雑誌に入ってくるなと言う差別感さえ感じました。一度だめと言われても、別のところの編集委員は評価が違う可能性があることを頭に入れておくことです。
?「蓼食う虫も好きずき」、「あばたもえくぼ」という例えばちょっと違いますが、不可と言われた論文でも雑誌が変われば可となることもあるので、辛抱強く挑戦することです。
以上の教訓は、論文を書いて投稿することが前提ですけどね。がんばって下さいよ。
何か変だ(8/28)
今年の8月はものすごく忙しかった。思い返せば、初旬に北海道で実験による資料収集、名古屋での大学説明会、東京での大学評価基準作成関連の2種類の会議、大阪での学会、京都での研究会と飛び回っていた。この他に大学内の委員会や膨大な量の大学評価関係の書面作成があった。例年、夏には海外に学会関係で出かけて息抜きができていたのに、今年は自宅でのんびりという日は一日もなかったといっても過言ではない。今までの人生で一番忙しい8月であったような気がする。日本の大学で教えている米国人の友人に忙しさを嘆くと、I sympathize with your situation! I have experienced only 1/100th what you have endured, but I also have the strange feeling that the "reward" for a good research career is bureaucratic punishment!!! Something is wrong here と返事が来た。そうだよなあ、うまいこというなあ、と感心した。日本では少し大学で目立つと(それは研究者としてなのだが)、大学での管理職的仕事が当然のように割り振られてくる。管理職をしていると、東京での会議などの委員に当然のように指名されてしまう。この種の委員は大学に配分されるので非協力的な印象を与えないために引き受けざるを得なくなる。ますます、仕事は増え、新幹線に乗る回数が増えることになる。まさに命を削っている感覚があるが、東京での会議に出てみるともっと忙しそうな人が大勢いるので、愚痴も言えないなあと思ってしまう、という仕組みが次第にできあがる。忙しい者はますます忙しく、使える者はどんどん使おうとしているようで、まさに、bureaucratic punishmentを受けているようである。
何かが変である。
先週は大阪からほぼ満員ののぞみに乗り(駅の予約掲示ではたいてい満席となっているが、以外と空いているときがあるのだ)、空席にとりあえず陣取り、京都、名古屋、新横浜と予約客がこなかったので、ラッキー!と、とてもうれしかったのだが、予約する時間もなく新幹線に飛び乗り、空いている席に座ってみて、停車駅で、予約客がこないのを喜んでいる場合ではない。何か変だ、と思っているうちに、自分の研究の進捗が明確に変だとなってしまうのはごめん被りたい。そうかといって言って、いつまで論文書きなどやっているのかと白い目で見られるのも困るし、悩ましいことである。
ベルリンに行ったけど
ベルリンでの国際神経心理学会に総勢5人ででかけた。科研の成果発表をせねばならないということもあり、嫌がる院生(?)を省みず、発表を申し込んでおいたのだ。全員に口頭発表をさせたいと教育者の使命感で申し込んだが、ポスターに回された発表もあった。口頭発表はシンポジウム形式となっていたので、くくりにくい種類の発表は口頭発表にはできなかったようである。
ポスターになった発表は欧州では未発達の分野で、シンポジウムには取り上げられないということもあったのであろう。しかし、われわれの発表は最新号の特集でCognitive reserveと呼ぶ新しい領域として認知され始め、神経心理学の最先端を走っているらしいことがrealizeできたことを旅立つ前日に知ったので、気分良く参加できた。
初めてのベルリンでの印象を記す。
フランクフルト経由で夕方ベルリンに到着したが、何と言っても暑かった。異常に暑かった。この頃、ロンドンでは最高気温38度というから、ベルリンもそれに近かったのだろう。
全般的には西ドイツとは違う印象を得た。暗いというのでもないが、かつて訪れたことのある南ドイツ地方とは何かが違った。ベルリンの壁を見学したあとに気づいたのだが、ベルリンはプロシアで、バイエルンとは違うのである。
われわれがイメージする多種多様なドイツ、ビール、ソーセ-ジ料理はベルリンでは見つけにくかった。イタリア料理屋ばかりが目に付き、ビールの種類も限られていた。
印象の違いを感じたのは、たとえば、こんなエピソードである。全員で帰国の当日、サンスウシー宮殿に行ったときのことである。土曜日でもあり、切符売り場には長い行列ができていた。並んでみると、全然進まない。炎天下に15分ほど待ってその理由がわかった。一人の売り子が、客にどの場所を見るか質問し(客は質問する)、やわら、おぼつかない手つきでパソコン操作をして切符を打ち出す。つまり、印刷した切符を準備して短時間で売るというシステムをとらない。行列している客も入場者が全員並んでいるので、行列はやたら長くなるのである。僕がまとめて切符を買おうとすると売り子は驚いた様子で他の人間は?という。代表が並んで、他の人間は外で待っているというシステムを理解できないようである。
もっとも、買った切符には家族券で1ヶ月有効とあった。長く滞在してゆっくり見学するのだから、長く並んだという10分や20分がどうした、たいしたことないでしょうということなのかも知れない。南ドイツではこのようなことは経験しなかった。
僕はメッチェン、エッセン、ドッペル、アルバイトなどのドイツ語が蔓延する時代の大学生なので、他のメンバーよりドイツ語を知っている。しかし、忘れている単語が、状況によって記憶庫から引き出されるのには驚いた。多少は英語が話せるようになり、日常会話では単語を並べれば良いことを知ったことの転移的要素もあるのだろう。中央駅はこの方向で良いのか?は、ナッハ・ハウプトバンホフ・レヒト?(toward main station right?)で通じるのだ。訪ねた男は、そうだ、15分だ、でも、線路の上歩くなよ、と言っていた(ように聞こえた)。こんな様子なら、大学生の時に苦労しなかったのにと思ってしまうが、苦労したから痕跡があるということなのかも知れない。
全員で一緒に宮殿を見学しその後帰途についたが、ベルリンからフランクフルト空港について、成田行きに乗る頃、どっと疲れがでた。飛行機に乗り込んだ頃は、倒れるのではないか?という恐怖に襲われた。死ぬのではないかと本気で思った。保険には入ったがもう少し金額を増やしておけば良かった、でも公務災害になるからと、真剣に考えていた。今までに一番強く感じた恐怖感であったことを告白しておこう。配られた、夕食のそうめんだけ食べて、ともかく寝た。3時間後には気分は改善しており、死なないな、と安堵したものである。ついで、6時間、合計9時間は寝た。成田では、元気になっていた。
もちろん、帰りの機内では何も食べられなかった。往路では白ワインを前部味見したので、帰路は赤を制覇と思っていたのだが、お酒は飲めなかった。残念!
炎天下で若い人と一緒に歩いたのはまずかった(とあとで反省した)のだ。
気持ちだけで、若い人と一緒にいるとこれからは危険かもしれないと思った次第である。だけど、年寄りと一緒に海外旅行もいただけない。悩ましいことである。
たら・れば(15/6/8)
「たら」・「れば」とは、もし何々だったらという仮定の話で、もしこれこれだったらとか、何々だったらという、ことを言う。未練たらしいことを考えるのは嫌いで、僕は基本的には考えない質である(と自分では思っている)。しかし、全然考えないかというとそうでもない。めったに考えないが皆無ではない。先週末に2回も考えてしまった。珍しいことである。
一つ目は池田小学校児童殺傷事件に関してである。報道ではまる2年たつのを機会に被害者遺族と文科省、付属小との間で賠償がまとまったという。それを期に、辞任を申し出ていた山根校長が校長職を辞任するという新聞報道があった。遺族の一人が教授職も辞任するのが筋だというコメントが出ていた。付属の校長職は大学の教授の併任であり、実際は名前だけのものである。山根さんは僕より1年上だが、大阪教育大では、このあたりの年齢の心理学と教育学の教授が5つほどある付属学校の校長を併任する仕組みになっている。心理学では僕より年少の2人が別の付属学校の校長を併任している。たまたま池田の付属の校長が当たったというだけなので、山根さんには運が悪かったとしかいいようがない。昔一緒にソフトボールに興じたから言うのではないが、山根さんは真摯に対応してよくやってきたと思う。遺族などからの責めは大変だったろうと同情を禁じ得ない。
僕が名古屋大に移らなかっ「たら」と考えてしまった。池田付属の校長を併任していた可能性は少なくない。僕だったら、山根さんのようには平身低頭、誠実に対応できなかったと思う。付属は廃止すべきだと昔から僕は主張してきたから、たぶん大騒ぎを起こしていたに違いない。事件以後、安全マニュアルが作られ市町村の教育委員会に配布されたが、大半は読んでいないという記事を載せていたが、前記のコメントを述べた遺族は翌日の新聞で、そこでもコメントを寄せており、そういう事態は池田小学校に問題があるという、訳の分からない幼児性の強い八つ当たりを言っていた。こういう遺族を相手に僕は一悶着起こさずには居られまいと思う。山根さんに激励の手紙を出そうと思ってしまった。
2つ目は、アカデミックな話である。以前に行動の終止メカニズムを勉強したい旨のことを書いた。たまたま、文献を検索していたら、2編の関連論文が見つかった。1999年と2002年の新しいもので北欧の研究者によるものである。これから読もうと思っているが、それらの引用文献にDimond先生の研究2編が記載されているのに気づいた。1971年頃の仕事である。僕がここ1年ほど前から気になっている問題意識をすでに30年も前に取り上げていたのだ。僕がDimond先生に出会ったのは1977年なのでこの種の仕事は知らなかった。追いつけない研究者というものに30歳の頃に出会えたことをありがたいと思うしかないが、先生が43歳というような歳でなくなるのではなくせめて10年ほど長生きしてくれてい「れば」、という思いに駆られたことであった。
祝吟について
祝吟とはお祝いの歌のことである。僕の田舎の風習で、最近は消えつつあると言ってもよいが、結婚式、銀婚式、竣工式、などお祝い事で行われる。僕の大学合格祝いの集まりでの祝吟のいくつかは、短冊が残っていて、今でも持っている。雅な風習のようであるが、なぜ滋賀の湖北の農村にこのような風習があるのか判らない。土地柄が古く文化的なのだということにしておく。
ともかく、祝い事に呼ばれた客はそれぞれが、名前などを読み込んだ歌を持ち寄って、宴会の途中で披瀝しあうのである。一族の中の右筆がそれらを和紙に書き上げ、鴨居に次々と張り出すのだ。
よく考えてみると、この習慣にはいくつかの利点ありそうである。一つは、祝吟の披瀝があるので、泥酔できない、酒の量が少なくてすむ安上がりである。さらには、新しく加わったよそ者の知的水準を推定でき、地域の人材足るかを見極めるのに使えるなどである。
僕は両親の金婚式の時にまねをして一首詠んでみたら、なかなかよいとおだてられ、それ以来、結婚式などに呼ばれると祝吟を呈することにしている(時々は親孝行のつもりで父に見てもらったりした)。評判は悪くないように感じているが、本当のところはわからない。
もともとは、書かれた歌を、つまり文字をみて評価するものなのだが、結婚式など大勢の前で披瀝するときは、音声情報だけになるので、あまりできのよくない歌が案外評価が高いことも、その逆もある。
覚えている作品の例をあげてみよう。
「秋の陽に、樹々それぞれに輝きて、前山にこだます、君の歌声」。これはコーラスが趣味の前山君と児玉陽子さんの結婚式。予想外に受けた。
「町角を素顔の君と語らいて、歩めば博き夢のいや増す」。これは角博文君と小池素子さんの結婚式。作風が変わったと言われた。
「雪解けて、垣のくぼみに咲いでし、まこと若芽ぞ、春は生れ来る」。これはいったん別れて再度よりを戻した久保真人(まこと)君と柿崎聡美さんの結婚式である。以外と評判が良くなかった。
昨日は、岩原昭彦君と寺田和恵さんの結婚式があった。仲人役ということだったので、当然ながら一首詠んだ。
「岩原に夢を和恵て、歩み来て、樟蔭の下、君と憩う」。樟蔭短大で知り合ったカップルなのである。ちょっと、訛って苦しいが、まあまあの出来ということにしておこう。
以前に「はったの野球拳モデル」の話を書いた。この先、老化に向かう僕としては認知機能の低下を鈍化させるのに祝吟を作るのは有効なはずである。ご希望の向きは申しつけ下されば作って差し上げることができます。ただし、認知機能低下が閾値を超えないまでにお願いします。
人生いろいろ(5/15)
東京での学位授与機構での会議に出た。小平市に新しく自前の建物ができたのでお披露目をかねて、いつもとは異なる場所での会合であった。一橋大学の国際キャンパスの一部に建物はできていた。立派なもので、一橋大学もなかなかいろいろ予算を取っているなあという印象。かつての学生と東京駅で久しぶりに一緒にビールを飲んで、ご機嫌で新幹線で名古屋まで帰る途中のことである。最近買ったiPODで、音楽を聴きながら眠っていた。浜松をすぎ、目がさめかけた頃、隣のご婦人が僕の携帯電話が鳴っていたことを教えてくれた。イヤホーンを耳に入れていたので聞こえなかったのである。かけ直すと、元同僚が亡くなったという連絡があったということであった。もう90歳近いはずなので、それほど驚くこともなく明日の葬儀には出られないと、弔電を頼んだ。それでは、というと家内は言いにくそうに、友人の吉野さんが内密だがと知らせてくれたと電話を続ける。恩師が縊死を遂げたということであった。吉野さんは2年ほど前に恩師が定年でやめた大学に今年から移籍したので入ったニュースらしい。
一度に酔いが醒めた。何があったのか?どうしたというのか?
知人の自死の知らせほど重く気持ちにのしかかるものはない。昔に経験した、カウンセリングの患者であった青年の自死のことなどを思い出してしまう。理由のわからない知り合いの死のニュースはやりきれない気持ちを生じさせる。大学を辞めてから何があったのかわからないが、海軍兵学校江田島出身でもあり、およそ自死が連想できる神経質でひ弱というタイプとは反対の極にある人であったので、よけいに何があったのかという思いは募る。
僕の学位論文の主査であったこともあり、長い間に渡ってお世話になった。学部の2、3年の頃は几帳面で怖い印象の先生であったが、娘さんが府立高校に合格したという電話を掛けてきて、うれしそうに我々に披露しておられたことや、ノック式の万年室筆を入手して自慢げに見せるなど、つきあいが深まるにつれて、人間性に溢れた側面を知るようになったものである。
昭和44年頃であったが、千葉大に御領さんの就職が決まって、お祝いをし、先生も学生も天王寺で泥酔をした。先生は風呂敷包みの本が帰宅後なかったということであったし、学生は帰宅できず天王寺界隈の連れ込みホテルで夜を明かした。
ホテルの歯ブラシを使って二日酔いで朦朧としながら、研究室で歯を磨いていると、1時間目の統計の授業のために来た先生は、「みんな来ているか?来ていなければ授業をするが、来ているのならよろしい」と休講となった。「前の晩何があっても翌日の仕事に対しては、けじめは付けなきゃいかん」ということであった。2回生か3回生であった僕は大人の世界と大人の酒の飲み方を教えられた気がしたものである。このエピソードは僕には印象深いもので、前の晩に遊んだ翌朝はきちんと仕事をするように、今までその教えを遵守している。
人生はいろいろあるのだ、という想いと、若者は先生の時の過ごし方を見ながら学んだりするものだということを再認識している。重い時間が流れている。
ストレスについて(15/4/30)
知る人は多くないと思うが、僕はストレスの研究もしている。きっかけは、些細なことからである。
関西医大から京都府大に移られていた細川汀先生の還暦祝いの出版を計画したのがきっかけである。もう15年以上も前のことになる。労働科学の本を弟子筋の者が寄稿して作ることになった。最終的には3部作のものが出来たが、原稿集めは大変であった。売れるものではないので、出版社は泣いていたことであろう。それまで、長い期間、白ろう病の検診や、頚・頚腕症候群、腰痛の検診などで細川グループの手伝いをしてきたが(おかげで、ドサ回りと言っていたが、現場での検診のやり方には習熟した)、他のメンバーと違って僕は脳機能の左右差の研究に入り込んでいたので、労働科学についての研究業績はなかった。
しかし、編集作業をさせようという先輩らの魂胆から、神経科の外来で心理治療をしているのだから、メンタル・ストレスなら何か書けるはずと言われ、細川グループの最若輩層の僕としては、断るわけにも行かず、英国の研究者にならい、形容詞で測るストレス尺度(J-SACL)を作成したのが、ストレス研究に関わる端緒である。
その後、ストレス測定を商売にしたいという会社との関わりも出来た(当時言われたほど収入にはならなかったが、海外旅行に子どもを連れていくクライのことは出来た)。金にはならなかったが(僕の場合はたいていこのようなもので、今までに作った検査などいくつかあり、あるいは売れているのかも知れないが、製作販売している個人会社からはお金は送られてこない。不況だろうし、こちらもそれほど困っていないので、請求はしていない。偉い!)。名大に来て「人間と環境」という授業をストレス研究でしのげるようになったのだから、有り難いことである。何でもやっておくことである。
前置きが長くなったが、ストレス因は、「喪失」と「新状況への適応」につきると講義してきた。「喪失」は必然的に「新状況への適応」を余儀なくされるので一つと言ってもよいのかも知れないが。
講義の話題としては「新状況への適応」は大きなストレスになるといっていたが、実感したという話をしよう。
学部長の職を始めたのが4月からである。それまでに学部長代行や事務取扱職を経験してきたので、格段の気負いもなく仕事をするつもりであったが、身体はそうは反応しなかった。授業で話していたとおり、不眠、夜中の覚醒、寝汗、などの身体症状が出た。これがストレス反応なのだと客観視してみても1週間以上続いた。歯茎も腫れるのが3日ほど続いた。
学部長職は併任職なので授業の準備や研究は続けねばならない、一日に何度か部長室に行っては書類に決済をせねばならない。部長室に行く、自分の研究室に戻る、このくり返しで、頭を切り換える必要があるのだ。今までとは時間の流れ方が違うのである。1ヶ月を過ぎてやっと、体調は戻りつつある。適応できつつあるのであろう。
ストレスの研究者として迂闊であったが、ストレスによる身体反応とメンタルなストレス評価とはパラレルではないことを知った。過労死する人が冠動脈障害で死んだりするのは、メンタルな過労感があるのに身体症状を無視して仕事を続けるためであると漠然と思いこんでいたが、そうではないのかも知れない。精神的にはたいして過労感はないのに、身体がついてこないという場合も少なくないので、死に至るということなのかも知れない。新しい発見である。
とまれ、中年のおじさん達には怖い話ではある。
春なのだ(4/6)
久ぶりにゆったりとした気持ちで、散歩を楽しんだ。昨今はやたらお忙しいせいで、強迫観念的に行う朝の散歩も、もっぱら、体力保持目的となっている。同じ道をただ歩くために往復するのであり、ものを思うことがない。歩きながらものを考えることはもちろん可能だが、余裕がないのである。余裕がないと何も見えない。すれ違った人がどういう姿形でいたのかや、鳥や草花がどうなっていたのか、さっぱり記憶に残らない。今朝は、休日2日目であり、懸案の散髪も昨日済ませたので、まだ疲労感は身体のどこかに巣くっている感じはしたが、比較的余裕を持って散歩が出来た。
3日ばかり雨が続いたこともあって、辺りの風景はひときわ鮮やかである。つい、そんな鮮やかな色合いに誘われ、田んぼのあぜ道から山裾の太閤道の一部を経由していつもの道路に出るルートを辿ることになった。田んぼには昨夜までの雨で水がたまっており、細いあぜ道では慎重にバランスをとらねばならない。山裾の果樹園風の畑では、梅が白い花を付け満開であった。日当たりのせいであろうが少し時期遅れの感がある。おおかたの山裾の木々はまだ芽吹いていない。濃い緑と濃い茶色の樹皮で薄暗かった。程なくして、雨水が浸み出し流れている黒っぽい山道に、雨で落ちたのであろう真紅の山椿の花びらが一面に散らばっているのが見えた。山椿の赤い花びらの2畳ほどの絨毯は数メートルおきに3箇所もあり思わず立ち止まってしまった。
すると、ウグイスが大きな、しかしへたくそな鳴き声を辺りにとどろかせた。自宅の庭あたりでウグイスが来るようになるのももうすぐなのであろう。椿の紅に注意が色彩に偏倚したのか、太閤道を終えて、ほぼ満開の五本の桜並木を過ぎ、いつもの道路に出ると、レンギョウが一斉に黄色を輝かせ、雪ヤナギが白色の、サンシュウの木が薄緑の王冠のような新芽を出しているのにきづいた。花梨の新芽は薄緑と焦げ茶である。まだ季節には早いはずなのに、ツバメが数羽飛び交うのもにも出会った。
春なのだ。辺りはさまざまな色に満ちているのである。気持ちに余裕がないと何もみえないということなのだ。
幸わせと不幸せ
道路を隔てて隣りになる家の主人が亡くなった。53歳であるという。3年ほど前に引っ越してきた一家なので、筆者は個人的には面識はない。部屋の窓から庭をいじったり、庭先でパーティを開いて遅くまで騒いでいるのを見ていたくらいである。工務店の経営者ということで、高級車が2台ある。車庫が1台分しかなく路上駐車していた頃は自治会から文句が出て、昨年は新たに車庫を庭先の地下に造っていた。30歳前後と思われる若い奥さんがいて(再婚じゃないかとは、近所のおばさんの間の噂)、確か1年ほど前に男の子が誕生し、子どもの泣き声がしていた。筆者の住所は30年ほど前に開発された住宅地にあるので、近所は僕を除いて退職者ばかりの老人住宅地で、何かと目立つ家族であった。
仙台に出張する前夜に急逝したという知らせが夕食中に入り、家内は興奮してしまい、食事は中途半端になった。阪大に検査入院して外泊で一緒に食事中の病気持ちの80過ぎの家内の叔母は「人間寿命やなあ」と優越感を滲ませ、つぶやいていた。斯様に不幸は突然やってくる。
仙台へ行って友人の東北大教授と夜は温泉に遊んだ。彼の長男と愚息2人が同行した。翌日の夜は娘になるかも知れない若い女性2人をまじえて酒を飲んだ。年齢はいっているのだが、まだ学生である愚息は時間に余裕があるので付き合ってくれたが、勤めがあるようになれば、父親の相手をしている暇はあるまい。こういう時間がもてるのを幸せというのかも知れないと感じたが、前夜の事件との対比し、新しい物差しで判断してのことに違いない。
さて、ここからが読者へのメッセージである。「人間の気持ちはあてがう物差しで決まる」ということである。どのような物差しをあてがうべきかが重要なのだ。世界を知らない北朝鮮の人民は暮らしぶりを決して不満足とは感じまい。グローバルな視点で瓦解するような物差しが、問題なのは言うまでもない(ちょっと、話がそれたか?)。
昨日の教育COE申請のための準備会議(このようなことが、われわれを研究に集中させないのだが)でもリテラシーの話が出たが、たとえば、英会話を習うときの物差しを、「旅行先で外人と話してみたい」レベルに置くか、「自分の考えることを、主張を分かってもらう」レベルに置くかでに満足度は異なる。
若い人は高めにグローバルに通用する物差しを掲げるべきであると思う。国内での学会発表、国際学会での口頭発表、国内学会誌への論文掲載、国際学術誌への論文掲載、一流学術誌での発表、とさまざまなレベルでの物差しがある。どれを自分にあてがうかが大切である。どこかの短大にでも就職できればではなく、外国に出て職を得てやろうじゃないかという物差しを掲げる若者に育って欲しいと考えている(少なくとも筆者は)。
そんなことをいう大人たちはどうなのですか?というような問いかけは、コホート効果というものがあるので、つまり育った時代背景が違うので言ってはいけないのである。しかし、ただ、筆者の物差しは上昇中であると言っておこう。
童謡を聴く:知らないことが多いなあ
僕の数年先の還暦のことを画策している教え子がいることを小耳に挟む年になったのだが、まだまだ知らないことが多く、それどころではないぞ、という心境にある。
レギュラー執筆陣の一人として寄稿している冊子の、出版25周年300号記念の集いというものに参加した。寄稿しているのは、幼稚園児の父兄を対象とした冊子の「育児相談」の欄である。なぜ、僕がと言うなかれ、大学時代の恩師が創刊に関わり、亡くなられたのでその後を引き継ぐ者が必要であったことと、編集長が兄の同級生であったことで書き始めたのだ。もう15年近く書いている。僕は、前任校では教育心理学や児童心理学の講義もやったし、乳幼児発達心理学という講義もしていたので、神経心理学のそれもラテラリティしか知らないというのでもないのだ、といちおう自己主張しておこう。冊子は本願寺系の仏教系幼稚園に配布されるものである。
出版記念の集いは、物故執筆者の追悼会から始まった。音楽葬という形式が本願寺でもあるそうで、追悼会はお経ではなく僧侶でもあるオペラ歌手の主導によるものであった。初体験である。この年になっても知らないことがあるのだと感じた第1弾。物故者の写真がビデオで流され、大西憲明、伴義雄、蜂屋慶先生などの教えを受けた先生の顔が映し出されると時間は40年ほど前に戻り、10代であった自分は今、これら先生の年回りになっているのかと考えさせられ、懐かしいというだけではない何とも妙な気持ちになったのだが、このような懐古について書くのが目的ではない。
第2部の交流会で川田正子の童謡を聴いたのだ。僕は歌手のコンサートなどに縁のない人間なのでいわゆる実演(死語に近い)を間近で見るのは初体験に近い。プログラムには昭和9年生まれとあったので70歳に近いのだが、まだまだ現役の歌手であった。実演は迫力があることを初めて知った(これが第2弾)。彼女は戦後すぐの頃に活躍した歌手で(当時はNHKしかなかった)、50歳半ば以上の日本人なら誰もが知っている歌手である。川田正子は、「みかんの花が咲いているノ」、「静かな静かな里の秋ノ」、「シャボン玉とんだ、屋根までとんだノ」「青い月夜の浜辺には、親を探して鳴く鳥の..」、「月の砂漠をはるばるとノ」など昭和30年代までに子供が歌うべき歌としてあった童謡の大歌手である(大人の歌としては演歌があったのだ、この常識を覆したのが美空ひばりなのだ)。
彼女の解説から「静かな静かな里の秋ノ」は南洋諸島からの復員船を迎えるための歌で3番まで歌えばわかること、「シャボン玉とんだ、屋根までとんだノ」「青い月夜の浜辺には、親を探して鳴く鳥のノ」は共に詩人が夭逝した我が子を偲んで書いたものであることを知った(これが第3弾)。初めて知ることはまだまだ多いなあというところである。
それにしても最近の歌謡曲(言い方が古いね)は作詞とではなくwordと書いているのを見かける。Acousticなものに文字を振り付けたと言うことらしい。何時から詩人が歌詞を書かなくなってしまったのか知らない。まだまだこの年になっても知らないことが多いなあと呆れることであった。