はったブログ -30ページ目

新作料理のレシピ

前日の天気予報は午後雨であったが、ピンポイントの天気予報では高槻市日吉台は降水確率1時間1ミリということであった。雨天順延の記載なしに案内を出したこともあって、途中で小雨が降ってもかまわないと5月4日にBBQパーティを決行した(Cook先生には今年も降らない自信があるのかと冷やかされたが)。今年でおそらく25年目ではないかと思うが、毎年5月の連休の間に自宅裏庭でやっている年中行事である。珍しく病気をしたこともあって案内が遅くなり、アドレスの再チェックもせずに1週間ほど前に知らせておいた。来年もできる自信が万全というわけではないので,我が家のBBQについても記録しておく。
 ゼミを持つことになった2年目に留学することになり、津山市郊外那岐山の貸別荘で集中ゼミをし、そのときBBQをしたのが始まりだったと思う(今年は奥さん連れで参加した相愛大の相谷先生は学生であった)。帰国後イギリスで買ってきた折り畳みテーブルセットと当時2万円ほどした大ナベを改造したようなBBQセットを使って始まったのである(新しいセットも買い足してはあるが、これらは現在も使用している。)。植木を入れる金がないので庭を芝にしておいたのが幸いして、ちょうどBBQに手頃な空間となったことも我が家に裏庭で始めた要因である。
 今年も大勢が参加してくれた。大教大の林先生は大学生になった息子を連れて来た。昔は参加者の年齢が若かったので、ともかくあまり高くない肉とビールを大量に消費したものだが、ここ数年は平均年齢が上がり、ワインと上質の肉少量、海産物の消費が多くなっている。名大からは唐沢一家、杉村夫妻、大教大から久保一家、卒業生の前山一家、角一家、関西大からCook夫妻がBMWのスポーツカーで参加したが、子どもを別にすると樟蔭東短大の岩原君が30歳で最年少なのだから、すっかりおじさん・おばさんのパーティになってしまっている。
 さて、表題の件であるが、今年はアボガドのディップと納豆の油揚げ包みを作った。前者は、熟れたアボガドと、歯触りを良くするためにセロリのみじん切りを混ぜて、軽く塩・胡椒(プラスアルファ)をして、ポテトチップスで梳くって食べるだけのもので、原型はオランダの先生に教えてもらった料理である。後者はオリジナル料理である。油揚げに納豆を白ネギ、赤味噌、山椒などを挟み込んで炭火で炙って、醤油を垂らして食べるというものである。自宅では納豆は買わないので、新しい挑戦であった。結果は失敗である。前日買った油揚げは上質すぎて、なかなか袋状になってくれないのである(なんでも刺身揚げということであった)。半分ぐらいの量しかできなかった。それとネギをさらしすぎたこと、納豆を混ぜすぎたきらいがあり、中身は想定したものよりも柔らかすぎた。6人ほどが食べたはずである。納豆を嫌いな唐沢婦人はおいしいと言っていたが、真偽のほどは判らない。袋にするのに手こずっている時点で嫌気がさしていたので、味はどうでもよくなっていた。再度、普通の油揚げで作ってみないとレパートリーが増えたとは言い難い。
 5時前に雨が落ちてきたので,家の中に入ったが,みんな何だか知らないがよくしゃべって、食べていた。僕はシラスコの焼き役にされていたので飲むばかりであった。おかげで、正午過ぎから始まった集まりは8時過ぎにお開きとなり、道路まで見送りには出たが、その後の記憶ははなはだ怪しい。風呂にも入らずダウンしたことだけは確かである
 しかし、今年は途中で寝てしまわなかった。偉いと自分を誉めておこう。

論文の作り方(めげそうな人への示唆)

昨日から,COE 21プランと呼び名を変えたトップ30に関わる資料づくりをしている。役人が思いつきで言ったに違いないこの計画で,全国の大学教員がどれだけ振り回されているか分からない。ともあれ,自分の大学か,それとも自分の大学以外に数億というお金が集中的に配分されるかどうかに関わることなので,お金に弱い(財政的基盤の不確かな状態におかれ続けていると言う意味だが)研究者は大騒ぎなのである。
 評価の対象になる業績としては,研究論文,著書,競争的資金の獲得状況などが対象になるので,将来のある院生諸君はこの種の評価対象になるものをできるだけ蓄積することが,否応なしに求められる。
 昨日,昼飯を一緒にした院生らとの会話の中で投稿論文が不採択になってと自信喪失気味の人がいた。投稿した論文の実験計画や結果の処理には問題はなくて,修正の仕方が分からない,論旨不明確などが主たる原因と思われるので,先輩として対応策を教授しておこう。何といっても教授なのだから(?)
 ・論旨を他人に話してみること。本当に分かっているかは,絵に描ける,話せるなどの運動表現ができるかだ,と山鳥重教授は近著「わかるとはどういうことか」の中で書いている。序論と考察の部分をできれば異なる分野の人に話して,理解してくれるかを検討すべきである。分かりやすい話の筋道が見えてこよう。
 ・Peer readingの習慣を付けることである。欧米では仲間内で下書き論文を回し読みし会う。ここでも直接の専門家でない他人が読んで分かるかが問われるのである。すると,異分野の人から新しい視点を提供されたり,解釈が膨らむことがある。
 ・現在,院生諸君は読書会をしているらしい。それもよいが,下書きの論文を読み会い,意見を言い合う会もやることが望ましい。僕は,ちょっといい雑誌にと思う場合は今でも,教え子に読んでもらい意見を参考に修正している。
 ・英文論文の場合は,論旨の展開の際の言い回しが見つからないことが多いようである。そう言う場合は,先生に教えてもらうのが近道であるし,金もかからない。ちょっとした構文で明かりが見えることは少なくない。
 ・査読結果はレフェリーの特性も反映するので,めげずに何度でもチャレンジすることが肝要である。僕など何度もrejectされている。現在査読付き論文は3桁になったが(自慢!),1回でOKというようなものは,ほとんどなかったように思う(謙虚!)。僕の先生であるDimond,S.J.もnatureやscienceに論文を若くして書いていた超有名な神経心理学者であったが,それでも投稿論文がrejectされることがあったのを知っている。阪神タイガースもnever surrenderでがんばっているではないか。

 最後に,ここでの話が馬耳東風というようなことにならぬよう,論文をともかくも投稿することである。

入院騒ぎ(3)

16日の朝は9時過ぎに目が覚めた。ずいぶん痛みは緩和していたが、痛みはなくなったわけではないので、10時半頃泌尿器科で診察を受けた。買い物のついでもあるし、入院になるかも知れないということで(期待しているように見受けられた)、家内が付いてきた。診察後の検査は、まず腹部エコー検査であった。何も石らしいものは見いだせなかったようで、午後、造影剤を入れての腎臓の尿の流れの検査(尿に白血球が出ず、血液に出る場合、腎機能に問題がある場合があるのだという)、内科的問題がないかの検査という段取りとなった。抗生物質の点滴で処置が終わったのは3時前であった。
 泌尿器科の医師は、エコーの検査結果を見ながら入院できませんかねと、やや自信なさげに言うので、僕は「難しい。だが、今週は勤めに出ない、自宅で静養するから」とわざと強めに言って入院は免れた。自分でも昨日からの症状の緩和でいけそうだと判断したので、わがままだけと言うわけではない。それでも、金曜日に大学に行くのは無理かも知れないとやや弱気ではあった。金曜日には主査をしている委員会があると思いこんでいたからである(間違えていたのを川口さんお電話で翌日知った)。この時点で、今週は全部休講!と決めた。身体は休養モードに入ったようである。
 午前の診察と検査が終わった時点では、買い物を終えて、車に荷物を積み込んで病院によった家内が、結石でなく、腎盂炎か腎炎の疑いという医師の話を聞いて、待合室で「腎炎なら透析になるの?」と余計なことを口にする。Positive thinking の元型のように唐沢さんは僕のことを言うが、そんな僕でもいささか不安な気持ちになり、将来どうするかを少しだけ想像したことを吐露しておこう。病人の不安とはそういうものなのである。家内は腹が減ったとおにぎりを買ってきて食べ、自分の予定があるらしく、2時前に家内は一人でバスで帰っていった。僕は不安も手伝ってか食欲はなく、3時過ぎまで何も食べず仕舞いであった。
 点滴処置のセンターでは顔に見覚えのある看護婦が2人寄ってきて、「先生大丈夫?」といってくれたり、翌日再会したときには、昨日よりも顔色がよくなってるよ」と言ってくれるのは有り難かった。ただ、抗生物質の点滴をしてくれたのは少し年輩の看護婦さんで「先生なんですか」などと優しかったが、針を刺し損ねられて、痛かった。今でも左腕に青あざがくっきり残っている。
 帰宅後は、唐沢さんに電話、休養を宣言し、水曜9時半からの会議、木曜の会議、休講の手続きを頼んだ。彼女はやっぱりダメだったでしょう風の落ち着きで対応していた。宿舎のキャンセルの件で渡辺さんに電話したが、滋賀県にいるとのことで、伊藤君や長谷川さんに電話するも通じず。しかし、お昼を食べて2階にあがり、キャンセルの手続き書類を発見、自分で処理できた。これで休養だーということで、寝間着に着替え、おとなしく寝ることにした。ビデオを見ながらであったが、気づいたら終わっていた。夜眠れるかと心配したが、この夜は11時間も眠れてしまった。この頃でも痛みは残存していた。押すとけっこう痛みを感じた。

 17日は午前中ひどい雨の朝であった。こんな日に休みは嬉しい気分になるもので、みんなに悪い気がしたものである。期待していたが、痛みは緩和されているものの残存。10時頃病院に行く。別の泌尿器科医であったが、さらに詳しい造影剤での検査をするという日程のことだけ決め、抗生物質の点滴だけで自宅に帰った。この医師はもう入院のことは口にしなかった。入院は空騒ぎで済んだ。
 この日になると余裕ができ、待合室の患者を観察できた。子ども2人連れの母親は大変だということ、子どもはよく泣くこと、聞き分けのない子がいるもんだなどを改めて知った。自分の子どもは幸いにして長期入院するようなことはなかったので、幸いなことだったのだと思ったことであった。また、病院の待合い時間が長いので本をもっていったが、頭に入る読み方はできない場所であることも知った。帰宅後は、この日もおとなしく寝間着に着替え横になった。いつしか7時前まで眠っていた。
 9時前に寝ることにしたが、まだ万全の調子ではなかった。お腹がすかない、ビールが欲しくない(飲まなかったわけではないが)、押さえると痛みがあるといった状態であった。昼間も2時間ほど眠ったのにこの夜も10時間近く眠った。身体が休みモードのせいかも知れないが、異常によく寝るのである。そんなに疲労が蓄積していたのであろうか。
 18日の朝は起きてみて、ほとんど回復したと感じた。7時過ぎであったが、寝ている家内に気づかれないように(気づかれると止められる可能性がある)。寝間着をやめて普段着に着替え散歩に出た。20分ほどで戻ったので気づかれずに済んだが、大丈夫、ほぼ回復したと実感した。仕事をするかと思ったが、気を取り直し、このメモを書いておくことにした。どうでしたなどの質問にいちいち答える手間を省くためである。それと休養モードなので仕事には急には戻れないこともある(昔はこんなことはなかったが)。
 ここまで、もう5000字以上書いたのに、体調に変化がないので病後の試運転も上々というところである。もっとも、明日起きたらぶり返しているかも知れないし、来週の火曜日に決まっている精密検査次第だが。
現在、4月18日午後6時である。

入院騒ぎ(2)

激しい悪寒で目が覚めたのは夜の11時頃であった。踏み脱いでいた毛布を引き上げようとするのだが、身体が動かない、痛みで動かせない状態になっていたのだ。これは熱が出てくると思い、残りの抗生物質がポケットに入っているのを持って来てもらおうと家内を呼ぶだのだが、通じない。脇腹から背中にかけての痛みはひどく大きな声が出せない。尻を上下してドンドンと床をならしたが通じない。こんなときは本当に腹の立つもので、役立たずと思って、怒りが芽生えると身体は動かせた。自分で薬を探していると、風呂にのんびり入っていたらしい家内が僕の様子に気づき、病院関係者の電話番号はどこ?とわめきだした。こっちは痛いのと意識がいま一つ朦朧としていて、口答えできず、パソコンに入っていると言ったのだが、家内は僕のパソコンはいじれない。家内は「夜中に救急車を呼ぶのはごめんやから、今からもっとひどくなるのに決まっているから」と、明日の朝まで辛抱できるという僕が言うのも聞かず、病院に電話をしていた、受話器を持ってこられたので仕方なく、今から行っても大丈夫かを確認、IDを聞かれたが、身体が曲げられず、探せない。生年月日と氏名でカルテはOKとなり、車で病院に駆け込んだ。いざ、病院に行くとなると、しゃんとするもので、自分で車を運転して病院に行った。家内がついて来たが、ガレージから車を出してもなかなか乗り込んでこないのでいらつくことしきりであったが、声が出せないほど痛いので、ケンカにならずにすんだ。
 当直の看護婦は9年前の教え子で助かった。こんなとき知り合いであるのとそうでないのとでは安堵感が違う。11時半であった。夜間救急外来の待合室には7人ほど先客が居た。これはたまらないなと思ったが、聞こえてくる話の中味から、患者は1人で、付き添いが多数であることがわかり、ほっとした(どうやら糖尿病の患者らしく、昏睡して家族が運び込んだ模様)。横になった方が楽かも知れないと思ったが、がんばって前の椅子の背にもたれて5分ほど診察を待った。この頃、排尿も通常通りなので膀胱炎ではなく自分では腎臓結石だろうと思っていた。命に別状があるものではなく、あまり不安はなかったが、こんなに痛いものかとは思った。尿検査のための紙コップを渡されたときに看護婦が教え子であることを再確認できた。しかし、教え子であるのが判ると安心できるが、痛み止めの座薬を入れましょうかとか、血液検査の採血時や点滴の針を刺すときに、「先生、緊張するわ」とか言われるのにはちょっと困った。
 30後半という見かけの内科医は、僕の痛がりよう、痛さの性質(念のために記載するが、疼痛でも50肩でのような激痛でもない。叩くとお腹全体に響く鈍痛で、止めて、何でもします、と言いたくなるような性質の痛みなのだ)と、尿に白血球が出てないことから、腎臓結石だろうと判断したようである。そこで、レントゲンを撮った。しかし、石らしきものは見いだせなかった。ほどなく、血液検査の結果が出て、それを見た担当医は即時に、白血球値が高い(4桁の数値を言った)、MCH(?)が高いので、腎盂炎のようです、入院する値ですねという。「それは困る」と僕は主張。明日、泌尿器科で見てもらいその結果で決めるということにしてもらった。こういうとき、若い医者より、年輩の方が押しが利く(カルテには看護学校の関係者であることの記載はあるのは知っているのだ)。
 とりあえず、抗生物質ボルタレンの点滴を受け自宅に返してもらった。病院を出ると2時を回っていた。座薬の鎮痛剤(自分で入れたのは言うまでもない)が効いてきており、車まで歩いている途中、家内はちゃんと歩けている、やっぱり来てよかっただろうと恩着せがましかったが、否定できないので、来るときもちゃんと歩いていたと抗弁して置くにとどめた。

入院騒ぎ(1)

4月16日から1週間大学を休む予定でいる。病気になったためで、それも入院を勧められるような病気だったのである。僕にとっては、高2のときに虫垂炎で10日間入院して以来の大事件である。病名は現在のところ不明。疑われたのは、腎臓結石、腎盂炎であるが、よくわからず仕舞いになりそうである。これを書いている18日の時点では、疲れで体力が弱っていて感染症にかかったというところだろうと思っている。
 発端は左脇腹痛が15日一日中続いたことにある。正確には、15日未明から下腹部に違和感があり、筋肉痛に似た鈍痛が左脇腹から背中にかけて生じたのだ。朝方3度ばかりトイレに行ったが放尿時に痛みなどはなかったが鈍重感がつきまとった。この時点での自己診断は膀胱炎?というものであった。前日、先輩の追悼会が大阪天満橋のホテルであり、不義理を重ねている同窓会に顔を出さねばということもあって出かけた。この朝、疲れが貯まっている感覚はあった。
 追悼会ではあまり食欲はなく、もっぱら恩師や先輩・後輩と久しぶりに対話した。2時間半ほど立ちっぱなしであった。そのまま帰ろうかとも思ったが、2時半頃でホテルの窓からは大川沿いに折から開催されている「造幣局の通り抜け」に向かう長蛇の列が見え、10年以上前に一度来た記憶があるが久しぶりに行ってみるかという気になった。追悼会のスケジュールでもあった。天気も良いので同級生の摂南大の吉野絹子、甲南女子大の後藤容子両女史と通り抜けに行ってみた(日差しの強さに加えて熟女らの毒気に当てられたのか、疲労感は強かった)。桜はもう大方散っている時期ではあったが、通り抜けはさすがに桜の種類が多く、盛りの桜もあり、それなりに見事であった。ただ、混雑はひどかった。ちょうど、ラッシュの地下鉄ホームといった状況で、のろのろ進むだけでかなりの時間を要した。順路の終点にある帝国ホテルのトイレに駆け込んだが、かなり尿意を我慢した記憶があったので、膀胱炎?と推論したのだ。
 15日の朝は、それでも30分ほど散歩に出かけ、違和感を感じつつも手元にあった抗生物質を飲み、大学に出た。夕方から自分が主査をしているどうしても休めない委員会があったためである(この時点で休んで病院に行けばよかったのかも知れない)。ずーと左脇腹に鈍痛があり、身体は重く、しんどかった。食欲もなく、いつも行く食堂には行かず、おにぎりとポカリスエットという変な組み合わせの昼飯となった(このような偏食行動は体調不良のサインと今では気づいているが)。渡辺はまさんには朝一番に「先生へろへろしている」と体調不良を見抜かれていた。飯高さんには、この痛みは何かね?などと聞いてもいる(早めに診察ですねと、医師らしく的確にされたが、その頃は病院に行かずに済むだろうと感じていた)。椅子に横になったりしながら、会議の時間を待っている状況であった。痛みを強く感じると、翌日は講義の予定がないので病院に行くか?と自問したりしていた。
 大学では、予定していた仕事がパソコンのソフトの都合で不可能とわかり、夕方まで、査読(こんな状態なので、思案していたのが、不採択になったのはいうまでもない、外人の論文なので念のため)、頼まれた論文の下読みなど雑事で時間を過ごした。抗生物質は時間をおいて飲んでいたので、左脇腹から背中にかけての鈍痛は何とか我慢できた。会議を短めに済ませて帰路についた6時頃には鈍痛も軽減し、病院は行かなくても済むかも知れない、抗生物質で対応できたのだろうと、いい気分でいた。
 ところが、である。新幹線での居眠りから京都の手前で寝覚めると、脇腹、背中の痛みがかなり悪化していた。姿勢も維持しにくいぐらいの状態であった。自宅に何とか戻った8時頃では痛みは増悪するばかりで、翌日病院に行かねばという状態になっていた。横になるのも痛くて、寝付けない状態であったが、家内のパソコンの先生が来るのというでともかく9時には床についた。

Spring has come

土曜日と日曜日ともに家にいることは長い間なかったのだが、そんな週末となったので、久しぶりにゆっくり朝の散歩としゃれこんだ。と言っても、いつも歩く道筋をそれてちょっと横道に入ったに過ぎないのだが。きっかけは、いつものコースを歩いていると、左手の山裾の竹藪のあたりから複数のウグイスの鳴き声が聞こえ、何となく誘われたからである。土曜の朝の6時前はウオーキング族(じいさん単独か、ばあさん複数)にすれ違うこともなく、田んぼの畦を伝って山裾に入るのも誰も見ていないので支障はなかった。ウグイスはすでに数週間前から鳴いているのに気づいてはいたが、何羽も同時に大きな声でと言う具合ではなかったのだが、今朝はとりわけ声が大きかった。
 山裾は「太閤道」といって天下分け目の天王山に至るハイキングコースなのである。サクラはすでに散ってしまったが,やぶ椿の咲いているのを見上げたり、野生の三つ葉の新芽を見つけて摘んだりして20分ばかり散策していると様々な鳥が山裾に降りてきているのを知った。春なので繁殖の時期なのであろう(野鳥の繁殖時期が春かどうかは知らない。そんな気がするだけである)。鳥の名前はセキレイぐらいしか同定できなかったが、少なくとも5~6種の小鳥を見た。先週、岩手の浄土が浜でみたウミネコは怖い感じがしたが、出会った小鳥はすべて綺麗な羽や形をしていて愛らしかった。群でないのも愛らしさの要因かも知れない。ウグイスは比較的頻繁に鳴いていたがそれでも10秒程度の間隔がある。セキレイはもっと短い間隔でなく。スズメやツバメは鳴きっぱなしである。綺麗な名前を知らない小鳥はほとんど鳴かない。この鳥の鳴く間隔と情報量の関係はどうなっているのかなあと考えてしまった。多数でない鳥はあまり鳴かなくても種の間で情報が伝わるのだろうか。スズメのように多数いるとやかましく鳴いていないと情報の受信側に伝わらないのかも知れないなどと推理したりしたことであった。
 摘んできた三つ葉は夜の食材の一部となった。香りは強く、春を味わえた穏やかな一日であった。
 それにつけても今年の春は異常で,サクラはすっかり散ってしまい,例年はサクラに先駆けて咲く,椿やスオウの花が今満開なのはどうしたことであろう。温度差への感受性は樹木で違うらしい。とまれ,穏やかな新学期であって欲しいものである。

年度末に思うこと

今日は気の持ちよう,negative志向かpositive志向かが大事という話をしよう。
 3月20日に年度末の教授会があり、前の週までくすぶっていた概算要求の諸問題もけりがつき、定年で辞める教官と事務官の送別会の司会進行を最後の仕事にやっといろいろなことが一段落した。それ以来1週間が過ぎた。久しぶりに時間がゆっくり流れることを味わっている。
 ほっとしてしまったのか、体調を崩し掛けた(崩した)。学部運営上の諸問題に翻弄されていても、研究に何か関連のあることをしていないと精神衛生が定常に保てなくなることは、他人に指摘されなくても自覚がある。1月から書き始めていた利き手と利き足に関する論文をやっと仕上げたことも(通常は書き始めれば2週間程度でけりをつけるのが普通なので、異常に長く掛かったことになる)、ほっとした一因であろう。
 体調の崩すというのは,久しぶりなのでその加減を記録しておくことにしたい。まず、熟睡できなくなるのである。体調のよいときは、9時に寝て5時前に自然に目が覚めるのだが(年齢のわりには時間が長い)、9時に寝ても1時間半ぐらいおきに、何度も目が覚めるのだ。そしてしばらく寝付けず、また1時間半の睡眠をいう具合で熟睡感が持てない睡眠の形態になる。第2はアルコールに極端に弱くなるのだ。22日に福岡教育大に行き、博多で飲んだのだが、ビール小×2と冷酒1号弱で、不覚にも飲み屋で寝そうになった。コンビニで買った1000円の傘も忘れてしまった(帰り際に気づいて探しに戻ったが見つからなかった)。翌日の研修会がひどく寒かったのもいけなかった(加えて,講師の雑ぱくとした話を2時間も聞くのは拷問に近かった)。卒業式であったのだが,失礼して25日に東京へ日帰りした。昼飯代わりの懇親会で飲んだコップ2杯のビールで,帰りの新幹線では浜松まで頭痛と酔いで困った。第3はのどがいがらっぽくなり痛くなるのである。鼻炎の症状が常にあるのだが、鼻水ではなく咳とともに鼻水状のものが盛んに出るのである。人間は呼吸できなくなるか(肺呼吸器系)、心臓が止まるか(心臓血管系)のどちらかで死ぬのだが、僕はきっと前者であろう。
 上記の3症状が出ていたが、26日には2つの会議に出た(2人の学生との面談もしたが)。この間、血圧が異常に上がっている自覚があったので、27日は自宅静養した。去年の夏に買った本などに目を通したりした。静養するぞと決めたのがよかったのか,26日と27日の夜は久しぶりに熟睡できた。
 ここ数日の体調不良をどう解釈するかであるが,風邪をひきかけたのであろうが,ひどくならずにすんだのは24日に寒いのにクロールで20往復したお陰であると信じることにした。もう歳だからダメになってきたと思うか,一日休息したら体調が戻るのは,なかなかのものだと考えるかである。
 まだ,後者の考えを採用するのに違和感がないのだから,もう少しがんばれるかも知れないと思っている。

概算要求雑感

 病気辞任の学部長に代わり概算要求に関わった。いままで概算要求について全く知らないわけではないが、部局全体のそれも他部局にまたがるような規模のものに関わる経験は始めてである。約2ヶ月に渡るやっかいな交渉ごとも昨日で大方の目途がついたという感じでいるが、学ぶことが多かった。以前、これらの交渉時に感じた鬱憤を書いたことがあるが、その後の過程で必ずしも他部局の交渉者が分からず屋でひどいとも言えないことが判った。しかし、それは決して言うわけにはいかないレベルのもので、政治的折衝にはある種の欺瞞や駆け引きが付随することも経験した。
 今になって思うことは、こんなにもめたのは、当事者が俯瞰的に事態を捉えていなかったことに起因すると言える。独立行政法人化を目前にした時代での概算要求というものの特性をしっかり把握できていれば、もっと簡単にことは済んだ可能性が大である。責任者が俯瞰的に捉えていなければならないはずなのに、そうではなかったということである。責任のなすり合いをするつもりはないが、俯瞰的にものを見ることを時々はしないと、的を外してしまうということである。昨今、流行語の抵抗勢力なるものも、渦中にある人に流れが見えないため、それなりに懸命に悪気なく動いているが、事態に棹さして、そのように呼ばれてしまう羽目になるのであろう。
 今回の概算要求折衝においては、幸い僕らのグループは大学トップの意向や構想を直接知りうる手だてがあったため、ほぼ望んでいる形で収拾できた。直接交渉している相手よりもさらに上位にある基本理念・構想を知りえたので、(途中では混乱させられ、気分を害したりどなり合ったりで、往生したが)最後はうまくまとめることができたのである。つまり、もめている交渉ごとを俯瞰できたことがよかったのだと思っている。
 ときどき鳥になり、自らを取り巻く状況を俯瞰することが大切なのだということを学んだ。Bird Viewの大切さを知ったということである。つまり、If I were a birdの気持ちで、返り見ることである。このことは、単に反省することを意味しているのではない。反省ならサルでもできる。少し高見から自分を捉え、自らの行動の戦略を立てる、律することである。これは、サルにはできないことであると同時に、NOVAに駅前留学しなくても可能だ。

学部長は大変

 2月末まで学部長事務取扱という職にある。大臣から交付された辞令をもらっているので,学部長の職を正式にやるためのものである。もう少しで終わる。先週の教授会でごくろうさんの拍手をもらって,一段落と思っていたが,とんでもなかった。新研究科創設の概算要求に関係して,他の部局との折衝が暗礁に乗り上げてきたからである。本省交渉が始まって7ヶ月にもなる今頃何を行っているのかというのが率直な感想で,(実は総長もそう言っているのを側聞している)。詳細を書くわけにはいかないが,この,定員の新規増は不可能というご時世で10人近い人間をあげますと言うのに,要らないと言うのだから気が知れない。曰く,今ある学部の構成が崩れる,学生定員が埋まらなくなるかも知れない,くれるという人間が若すぎて,云々である。大学の今後,社会環境の将来を見据えてどうかという視点を欠いている,コンテクストの読めない人達が相手なので,虚しい気になる。もらってしまえば,後は何とでも出来るとうものだが,そう言う知恵はないのだろう。
 改革の時期には,トップにある者が,交渉の経過に一任を取り付けて臨機応変に進めなければ取り残されることが分からない部局のようである。そういうことは民主的でないと単純に信じ込んでいるらしい。結局は,トップが信頼されていない,トップなど信頼しないという構成員から成り立っているようである。
 気位は一流である様子は,種々うかがえるが(移籍されると悪貨が良貨を駆逐しかねない,業績審査を云々),外からはそれほどのものとも思えない。学生定員が埋められないなどという話は,学生指導もできない(すなわち,謹慎中か何か知らないが)定員を抱える人達が言えた義理ではない,などと,言いたいことはいっぱいで,あまり怒鳴らずに交渉するのはストレスフル極まりない。
 昨日はちょっと大声を上げてしまったが,罵倒し合う会でもやってくれれば,負けはしないのだが。こんな文章でも書いて発散するしかないのかなあ,とため息をついているのだ。
 早く,春よ来い。

父の死

 平成13年12月15日の午前2時に父が亡くなった。90歳であった。人生における重要な事件なので忘れることはないとは思うが、付随する詳細なことについては時間とともに怪しくなるはずなので、記録しておこう。
 父の死は予期していなかった。正月は当然越せると考えていたからである。世話をしてくれている兄が、熱が高くなったので一度見に帰ってはと電話をしてきたこともあって、1週間前の8日に父を見舞った。僕が行ったときには熱も下がっており、もちろん痩せて、衰弱している様子はうかがえたが、僕を同定することもできて比較的元気な様子であった。

 12月15日は土曜日であり、普通ならば自宅に帰っているのであるが東海神経心理学研究会を開くことになっていたので、シンポジオンに泊まった。ふだん泊まる職員クラブよりもベッドが快適で9時間も眠り、いつもよりやや遅い7時過ぎに研究室に出た。すると留守電が入っており、家内が父の死を知らせていた。携帯電話には兄も家内も留守電を入れていたのだが、習慣になっていないのでチェックしていなかった。
 予期していなかった割には比較的落ち着いていたと思うのだが、研究会のことを頼むために早起きの渡辺さんに電話してすぐに研究室に来てもらい、8時過ぎに高槻の自宅に帰り、車で滋賀の実家に駆けつけた。12時過ぎであった
(ここまでは1月2日に書いたものである。)

 異常に忙しい日が続いて、続きを書くことができなかった。もう2月近くが立って、詳細は怪しくなっている。やはり、記録は時間をおいてはいけないことを痛感しているが、それでも、書いておこう。

 帰った頃はみぞれ混じりの寒さであった。すでに近所や親戚が集まっており、僕は、遺骸の置かれている部屋に行き対面した。痩せた顔は穏やかでありギリシャ時代の哲人の風であった(これは後で坊さんが表現したことばだが、同感であった)。そのとき涙は出なかったが、兄嫁らが入ってきて、ことばを掛けられたのを機に涙が突然,猛烈に出た。滂沱のようにと言っておこう。何がどうということでの涙ではない。自分でも何故なのか判らない。悲しい、残念というようなラベリングができないものであったように思う。
 田舎での葬式であり、とくに何ができるということでもないので、親戚のものの指示に従って、線香の番をしているというだけであった。その部屋に暖房を入れるわけにはいかないので、ひどく寒かった。夜に悪寒がし、発熱してしまった。それまでも風邪気味の体調で、下痢気味であったが、午後は体調悪化がひどくなり、通夜が始まって、お膳が出されたときも、吸い物の一口でトイレに走るという状態であった(その後、3日間何も食べられない状態がつづくこととなった)。父用に処方されていた抗生物質などを飲んだが、熱は下がらなかった。
 父が高齢であったことや、すでに1年あまり自宅で寝たきり状態であったこともあり、父の死を嘆き悲しむという雰囲気よりも、一つの時代が終わったという感慨の方が親戚や家族にも強かったように思う。望み通り、自宅で死ねたのを幸いと思うことにしようというのがみんなの気持ちのようであった。僕自身もそのことに違和感はなかった。むしろ、亡くなった父に想いを馳せることより、自分の体調が思わしくないことが心配であった。というのは、17日に学部長に代わって、一日中ある部局長の会議にでられるかや、18日の教授会を切り回せるかが気がかりであったのだから、利己的なものである。
 結局、下痢止めと絶食で17日の会議は何とかこなせたし、18日の教授会も大過なくこなすことができた。このときの体験を述べよう。

 17日の夜は大学の宿舎に泊まった。もちろん、一日中絶食していた。18日の朝、眼が覚めかけのときに,妙な意識を体験した。父が僕の身体に頭から入ったように感じたのである。僕は、霊魂や死後の世界云々には全く関心がなく、信じない人間であるが、憑依感のようなものを持ったことを記しておこう。その日の午後にある教授会は問題なくこなせるような予感がした、父がついているような安心感を持ったのである。50を過ぎた男が何をいっているのかと感じる人が多いと思うが、初めての妙な体験であったことを告白しておく。
 絶食のおかげと学部長の代理という仕事のストレスであろう,1週間で3キロ痩せた。減らさねばと思っている体重にはやや足らないが、これも父親の死のおかげである。本当は風邪のせいで痩せたのであるが父親の死でしばらくの間でもげっそりしているように見えたらしいので、ちょっと得をしたかなと思わないでもない。