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ベルリンに行ったけど

ベルリンでの国際神経心理学会に総勢5人ででかけた。科研の成果発表をせねばならないということもあり、嫌がる院生(?)を省みず、発表を申し込んでおいたのだ。全員に口頭発表をさせたいと教育者の使命感で申し込んだが、ポスターに回された発表もあった。口頭発表はシンポジウム形式となっていたので、くくりにくい種類の発表は口頭発表にはできなかったようである。
ポスターになった発表は欧州では未発達の分野で、シンポジウムには取り上げられないということもあったのであろう。しかし、われわれの発表は最新号の特集でCognitive reserveと呼ぶ新しい領域として認知され始め、神経心理学の最先端を走っているらしいことがrealizeできたことを旅立つ前日に知ったので、気分良く参加できた。
初めてのベルリンでの印象を記す。
フランクフルト経由で夕方ベルリンに到着したが、何と言っても暑かった。異常に暑かった。この頃、ロンドンでは最高気温38度というから、ベルリンもそれに近かったのだろう。
全般的には西ドイツとは違う印象を得た。暗いというのでもないが、かつて訪れたことのある南ドイツ地方とは何かが違った。ベルリンの壁を見学したあとに気づいたのだが、ベルリンはプロシアで、バイエルンとは違うのである。
われわれがイメージする多種多様なドイツ、ビール、ソーセ-ジ料理はベルリンでは見つけにくかった。イタリア料理屋ばかりが目に付き、ビールの種類も限られていた。
印象の違いを感じたのは、たとえば、こんなエピソードである。全員で帰国の当日、サンスウシー宮殿に行ったときのことである。土曜日でもあり、切符売り場には長い行列ができていた。並んでみると、全然進まない。炎天下に15分ほど待ってその理由がわかった。一人の売り子が、客にどの場所を見るか質問し(客は質問する)、やわら、おぼつかない手つきでパソコン操作をして切符を打ち出す。つまり、印刷した切符を準備して短時間で売るというシステムをとらない。行列している客も入場者が全員並んでいるので、行列はやたら長くなるのである。僕がまとめて切符を買おうとすると売り子は驚いた様子で他の人間は?という。代表が並んで、他の人間は外で待っているというシステムを理解できないようである。
 もっとも、買った切符には家族券で1ヶ月有効とあった。長く滞在してゆっくり見学するのだから、長く並んだという10分や20分がどうした、たいしたことないでしょうということなのかも知れない。南ドイツではこのようなことは経験しなかった。
僕はメッチェン、エッセン、ドッペル、アルバイトなどのドイツ語が蔓延する時代の大学生なので、他のメンバーよりドイツ語を知っている。しかし、忘れている単語が、状況によって記憶庫から引き出されるのには驚いた。多少は英語が話せるようになり、日常会話では単語を並べれば良いことを知ったことの転移的要素もあるのだろう。中央駅はこの方向で良いのか?は、ナッハ・ハウプトバンホフ・レヒト?(toward main station right?)で通じるのだ。訪ねた男は、そうだ、15分だ、でも、線路の上歩くなよ、と言っていた(ように聞こえた)。こんな様子なら、大学生の時に苦労しなかったのにと思ってしまうが、苦労したから痕跡があるということなのかも知れない。
全員で一緒に宮殿を見学しその後帰途についたが、ベルリンからフランクフルト空港について、成田行きに乗る頃、どっと疲れがでた。飛行機に乗り込んだ頃は、倒れるのではないか?という恐怖に襲われた。死ぬのではないかと本気で思った。保険には入ったがもう少し金額を増やしておけば良かった、でも公務災害になるからと、真剣に考えていた。今までに一番強く感じた恐怖感であったことを告白しておこう。配られた、夕食のそうめんだけ食べて、ともかく寝た。3時間後には気分は改善しており、死なないな、と安堵したものである。ついで、6時間、合計9時間は寝た。成田では、元気になっていた。
もちろん、帰りの機内では何も食べられなかった。往路では白ワインを前部味見したので、帰路は赤を制覇と思っていたのだが、お酒は飲めなかった。残念!
炎天下で若い人と一緒に歩いたのはまずかった(とあとで反省した)のだ。
気持ちだけで、若い人と一緒にいるとこれからは危険かもしれないと思った次第である。だけど、年寄りと一緒に海外旅行もいただけない。悩ましいことである。

たら・れば(15/6/8)

「たら」・「れば」とは、もし何々だったらという仮定の話で、もしこれこれだったらとか、何々だったらという、ことを言う。未練たらしいことを考えるのは嫌いで、僕は基本的には考えない質である(と自分では思っている)。しかし、全然考えないかというとそうでもない。めったに考えないが皆無ではない。先週末に2回も考えてしまった。珍しいことである。
一つ目は池田小学校児童殺傷事件に関してである。報道ではまる2年たつのを機会に被害者遺族と文科省、付属小との間で賠償がまとまったという。それを期に、辞任を申し出ていた山根校長が校長職を辞任するという新聞報道があった。遺族の一人が教授職も辞任するのが筋だというコメントが出ていた。付属の校長職は大学の教授の併任であり、実際は名前だけのものである。山根さんは僕より1年上だが、大阪教育大では、このあたりの年齢の心理学と教育学の教授が5つほどある付属学校の校長を併任する仕組みになっている。心理学では僕より年少の2人が別の付属学校の校長を併任している。たまたま池田の付属の校長が当たったというだけなので、山根さんには運が悪かったとしかいいようがない。昔一緒にソフトボールに興じたから言うのではないが、山根さんは真摯に対応してよくやってきたと思う。遺族などからの責めは大変だったろうと同情を禁じ得ない。
僕が名古屋大に移らなかっ「たら」と考えてしまった。池田付属の校長を併任していた可能性は少なくない。僕だったら、山根さんのようには平身低頭、誠実に対応できなかったと思う。付属は廃止すべきだと昔から僕は主張してきたから、たぶん大騒ぎを起こしていたに違いない。事件以後、安全マニュアルが作られ市町村の教育委員会に配布されたが、大半は読んでいないという記事を載せていたが、前記のコメントを述べた遺族は翌日の新聞で、そこでもコメントを寄せており、そういう事態は池田小学校に問題があるという、訳の分からない幼児性の強い八つ当たりを言っていた。こういう遺族を相手に僕は一悶着起こさずには居られまいと思う。山根さんに激励の手紙を出そうと思ってしまった。
2つ目は、アカデミックな話である。以前に行動の終止メカニズムを勉強したい旨のことを書いた。たまたま、文献を検索していたら、2編の関連論文が見つかった。1999年と2002年の新しいもので北欧の研究者によるものである。これから読もうと思っているが、それらの引用文献にDimond先生の研究2編が記載されているのに気づいた。1971年頃の仕事である。僕がここ1年ほど前から気になっている問題意識をすでに30年も前に取り上げていたのだ。僕がDimond先生に出会ったのは1977年なのでこの種の仕事は知らなかった。追いつけない研究者というものに30歳の頃に出会えたことをありがたいと思うしかないが、先生が43歳というような歳でなくなるのではなくせめて10年ほど長生きしてくれてい「れば」、という思いに駆られたことであった。

祝吟について

祝吟とはお祝いの歌のことである。僕の田舎の風習で、最近は消えつつあると言ってもよいが、結婚式、銀婚式、竣工式、などお祝い事で行われる。僕の大学合格祝いの集まりでの祝吟のいくつかは、短冊が残っていて、今でも持っている。雅な風習のようであるが、なぜ滋賀の湖北の農村にこのような風習があるのか判らない。土地柄が古く文化的なのだということにしておく。
ともかく、祝い事に呼ばれた客はそれぞれが、名前などを読み込んだ歌を持ち寄って、宴会の途中で披瀝しあうのである。一族の中の右筆がそれらを和紙に書き上げ、鴨居に次々と張り出すのだ。
よく考えてみると、この習慣にはいくつかの利点ありそうである。一つは、祝吟の披瀝があるので、泥酔できない、酒の量が少なくてすむ安上がりである。さらには、新しく加わったよそ者の知的水準を推定でき、地域の人材足るかを見極めるのに使えるなどである。
僕は両親の金婚式の時にまねをして一首詠んでみたら、なかなかよいとおだてられ、それ以来、結婚式などに呼ばれると祝吟を呈することにしている(時々は親孝行のつもりで父に見てもらったりした)。評判は悪くないように感じているが、本当のところはわからない。
もともとは、書かれた歌を、つまり文字をみて評価するものなのだが、結婚式など大勢の前で披瀝するときは、音声情報だけになるので、あまりできのよくない歌が案外評価が高いことも、その逆もある。
覚えている作品の例をあげてみよう。
「秋の陽に、樹々それぞれに輝きて、前山にこだます、君の歌声」。これはコーラスが趣味の前山君と児玉陽子さんの結婚式。予想外に受けた。
「町角を素顔の君と語らいて、歩めば博き夢のいや増す」。これは角博文君と小池素子さんの結婚式。作風が変わったと言われた。
「雪解けて、垣のくぼみに咲いでし、まこと若芽ぞ、春は生れ来る」。これはいったん別れて再度よりを戻した久保真人(まこと)君と柿崎聡美さんの結婚式である。以外と評判が良くなかった。
昨日は、岩原昭彦君と寺田和恵さんの結婚式があった。仲人役ということだったので、当然ながら一首詠んだ。
「岩原に夢を和恵て、歩み来て、樟蔭の下、君と憩う」。樟蔭短大で知り合ったカップルなのである。ちょっと、訛って苦しいが、まあまあの出来ということにしておこう。
 以前に「はったの野球拳モデル」の話を書いた。この先、老化に向かう僕としては認知機能の低下を鈍化させるのに祝吟を作るのは有効なはずである。ご希望の向きは申しつけ下されば作って差し上げることができます。ただし、認知機能低下が閾値を超えないまでにお願いします。

人生いろいろ(5/15)

東京での学位授与機構での会議に出た。小平市に新しく自前の建物ができたのでお披露目をかねて、いつもとは異なる場所での会合であった。一橋大学の国際キャンパスの一部に建物はできていた。立派なもので、一橋大学もなかなかいろいろ予算を取っているなあという印象。かつての学生と東京駅で久しぶりに一緒にビールを飲んで、ご機嫌で新幹線で名古屋まで帰る途中のことである。最近買ったiPODで、音楽を聴きながら眠っていた。浜松をすぎ、目がさめかけた頃、隣のご婦人が僕の携帯電話が鳴っていたことを教えてくれた。イヤホーンを耳に入れていたので聞こえなかったのである。かけ直すと、元同僚が亡くなったという連絡があったということであった。もう90歳近いはずなので、それほど驚くこともなく明日の葬儀には出られないと、弔電を頼んだ。それでは、というと家内は言いにくそうに、友人の吉野さんが内密だがと知らせてくれたと電話を続ける。恩師が縊死を遂げたということであった。吉野さんは2年ほど前に恩師が定年でやめた大学に今年から移籍したので入ったニュースらしい。
一度に酔いが醒めた。何があったのか?どうしたというのか?
知人の自死の知らせほど重く気持ちにのしかかるものはない。昔に経験した、カウンセリングの患者であった青年の自死のことなどを思い出してしまう。理由のわからない知り合いの死のニュースはやりきれない気持ちを生じさせる。大学を辞めてから何があったのかわからないが、海軍兵学校江田島出身でもあり、およそ自死が連想できる神経質でひ弱というタイプとは反対の極にある人であったので、よけいに何があったのかという思いは募る。
僕の学位論文の主査であったこともあり、長い間に渡ってお世話になった。学部の2、3年の頃は几帳面で怖い印象の先生であったが、娘さんが府立高校に合格したという電話を掛けてきて、うれしそうに我々に披露しておられたことや、ノック式の万年室筆を入手して自慢げに見せるなど、つきあいが深まるにつれて、人間性に溢れた側面を知るようになったものである。
昭和44年頃であったが、千葉大に御領さんの就職が決まって、お祝いをし、先生も学生も天王寺で泥酔をした。先生は風呂敷包みの本が帰宅後なかったということであったし、学生は帰宅できず天王寺界隈の連れ込みホテルで夜を明かした。
ホテルの歯ブラシを使って二日酔いで朦朧としながら、研究室で歯を磨いていると、1時間目の統計の授業のために来た先生は、「みんな来ているか?来ていなければ授業をするが、来ているのならよろしい」と休講となった。「前の晩何があっても翌日の仕事に対しては、けじめは付けなきゃいかん」ということであった。2回生か3回生であった僕は大人の世界と大人の酒の飲み方を教えられた気がしたものである。このエピソードは僕には印象深いもので、前の晩に遊んだ翌朝はきちんと仕事をするように、今までその教えを遵守している。
人生はいろいろあるのだ、という想いと、若者は先生の時の過ごし方を見ながら学んだりするものだということを再認識している。重い時間が流れている。

ストレスについて(15/4/30)

知る人は多くないと思うが、僕はストレスの研究もしている。きっかけは、些細なことからである。
関西医大から京都府大に移られていた細川汀先生の還暦祝いの出版を計画したのがきっかけである。もう15年以上も前のことになる。労働科学の本を弟子筋の者が寄稿して作ることになった。最終的には3部作のものが出来たが、原稿集めは大変であった。売れるものではないので、出版社は泣いていたことであろう。それまで、長い期間、白ろう病の検診や、頚・頚腕症候群、腰痛の検診などで細川グループの手伝いをしてきたが(おかげで、ドサ回りと言っていたが、現場での検診のやり方には習熟した)、他のメンバーと違って僕は脳機能の左右差の研究に入り込んでいたので、労働科学についての研究業績はなかった。
しかし、編集作業をさせようという先輩らの魂胆から、神経科の外来で心理治療をしているのだから、メンタル・ストレスなら何か書けるはずと言われ、細川グループの最若輩層の僕としては、断るわけにも行かず、英国の研究者にならい、形容詞で測るストレス尺度(J-SACL)を作成したのが、ストレス研究に関わる端緒である。
その後、ストレス測定を商売にしたいという会社との関わりも出来た(当時言われたほど収入にはならなかったが、海外旅行に子どもを連れていくクライのことは出来た)。金にはならなかったが(僕の場合はたいていこのようなもので、今までに作った検査などいくつかあり、あるいは売れているのかも知れないが、製作販売している個人会社からはお金は送られてこない。不況だろうし、こちらもそれほど困っていないので、請求はしていない。偉い!)。名大に来て「人間と環境」という授業をストレス研究でしのげるようになったのだから、有り難いことである。何でもやっておくことである。
前置きが長くなったが、ストレス因は、「喪失」と「新状況への適応」につきると講義してきた。「喪失」は必然的に「新状況への適応」を余儀なくされるので一つと言ってもよいのかも知れないが。
講義の話題としては「新状況への適応」は大きなストレスになるといっていたが、実感したという話をしよう。
学部長の職を始めたのが4月からである。それまでに学部長代行や事務取扱職を経験してきたので、格段の気負いもなく仕事をするつもりであったが、身体はそうは反応しなかった。授業で話していたとおり、不眠、夜中の覚醒、寝汗、などの身体症状が出た。これがストレス反応なのだと客観視してみても1週間以上続いた。歯茎も腫れるのが3日ほど続いた。
学部長職は併任職なので授業の準備や研究は続けねばならない、一日に何度か部長室に行っては書類に決済をせねばならない。部長室に行く、自分の研究室に戻る、このくり返しで、頭を切り換える必要があるのだ。今までとは時間の流れ方が違うのである。1ヶ月を過ぎてやっと、体調は戻りつつある。適応できつつあるのであろう。
ストレスの研究者として迂闊であったが、ストレスによる身体反応とメンタルなストレス評価とはパラレルではないことを知った。過労死する人が冠動脈障害で死んだりするのは、メンタルな過労感があるのに身体症状を無視して仕事を続けるためであると漠然と思いこんでいたが、そうではないのかも知れない。精神的にはたいして過労感はないのに、身体がついてこないという場合も少なくないので、死に至るということなのかも知れない。新しい発見である。
とまれ、中年のおじさん達には怖い話ではある。

春なのだ(4/6)

久ぶりにゆったりとした気持ちで、散歩を楽しんだ。昨今はやたらお忙しいせいで、強迫観念的に行う朝の散歩も、もっぱら、体力保持目的となっている。同じ道をただ歩くために往復するのであり、ものを思うことがない。歩きながらものを考えることはもちろん可能だが、余裕がないのである。余裕がないと何も見えない。すれ違った人がどういう姿形でいたのかや、鳥や草花がどうなっていたのか、さっぱり記憶に残らない。今朝は、休日2日目であり、懸案の散髪も昨日済ませたので、まだ疲労感は身体のどこかに巣くっている感じはしたが、比較的余裕を持って散歩が出来た。
3日ばかり雨が続いたこともあって、辺りの風景はひときわ鮮やかである。つい、そんな鮮やかな色合いに誘われ、田んぼのあぜ道から山裾の太閤道の一部を経由していつもの道路に出るルートを辿ることになった。田んぼには昨夜までの雨で水がたまっており、細いあぜ道では慎重にバランスをとらねばならない。山裾の果樹園風の畑では、梅が白い花を付け満開であった。日当たりのせいであろうが少し時期遅れの感がある。おおかたの山裾の木々はまだ芽吹いていない。濃い緑と濃い茶色の樹皮で薄暗かった。程なくして、雨水が浸み出し流れている黒っぽい山道に、雨で落ちたのであろう真紅の山椿の花びらが一面に散らばっているのが見えた。山椿の赤い花びらの2畳ほどの絨毯は数メートルおきに3箇所もあり思わず立ち止まってしまった。
すると、ウグイスが大きな、しかしへたくそな鳴き声を辺りにとどろかせた。自宅の庭あたりでウグイスが来るようになるのももうすぐなのであろう。椿の紅に注意が色彩に偏倚したのか、太閤道を終えて、ほぼ満開の五本の桜並木を過ぎ、いつもの道路に出ると、レンギョウが一斉に黄色を輝かせ、雪ヤナギが白色の、サンシュウの木が薄緑の王冠のような新芽を出しているのにきづいた。花梨の新芽は薄緑と焦げ茶である。まだ季節には早いはずなのに、ツバメが数羽飛び交うのもにも出会った。
春なのだ。辺りはさまざまな色に満ちているのである。気持ちに余裕がないと何もみえないということなのだ。

幸わせと不幸せ

道路を隔てて隣りになる家の主人が亡くなった。53歳であるという。3年ほど前に引っ越してきた一家なので、筆者は個人的には面識はない。部屋の窓から庭をいじったり、庭先でパーティを開いて遅くまで騒いでいるのを見ていたくらいである。工務店の経営者ということで、高級車が2台ある。車庫が1台分しかなく路上駐車していた頃は自治会から文句が出て、昨年は新たに車庫を庭先の地下に造っていた。30歳前後と思われる若い奥さんがいて(再婚じゃないかとは、近所のおばさんの間の噂)、確か1年ほど前に男の子が誕生し、子どもの泣き声がしていた。筆者の住所は30年ほど前に開発された住宅地にあるので、近所は僕を除いて退職者ばかりの老人住宅地で、何かと目立つ家族であった。
仙台に出張する前夜に急逝したという知らせが夕食中に入り、家内は興奮してしまい、食事は中途半端になった。阪大に検査入院して外泊で一緒に食事中の病気持ちの80過ぎの家内の叔母は「人間寿命やなあ」と優越感を滲ませ、つぶやいていた。斯様に不幸は突然やってくる。
仙台へ行って友人の東北大教授と夜は温泉に遊んだ。彼の長男と愚息2人が同行した。翌日の夜は娘になるかも知れない若い女性2人をまじえて酒を飲んだ。年齢はいっているのだが、まだ学生である愚息は時間に余裕があるので付き合ってくれたが、勤めがあるようになれば、父親の相手をしている暇はあるまい。こういう時間がもてるのを幸せというのかも知れないと感じたが、前夜の事件との対比し、新しい物差しで判断してのことに違いない。
さて、ここからが読者へのメッセージである。「人間の気持ちはあてがう物差しで決まる」ということである。どのような物差しをあてがうべきかが重要なのだ。世界を知らない北朝鮮の人民は暮らしぶりを決して不満足とは感じまい。グローバルな視点で瓦解するような物差しが、問題なのは言うまでもない(ちょっと、話がそれたか?)。
昨日の教育COE申請のための準備会議(このようなことが、われわれを研究に集中させないのだが)でもリテラシーの話が出たが、たとえば、英会話を習うときの物差しを、「旅行先で外人と話してみたい」レベルに置くか、「自分の考えることを、主張を分かってもらう」レベルに置くかでに満足度は異なる。 
 若い人は高めにグローバルに通用する物差しを掲げるべきであると思う。国内での学会発表、国際学会での口頭発表、国内学会誌への論文掲載、国際学術誌への論文掲載、一流学術誌での発表、とさまざまなレベルでの物差しがある。どれを自分にあてがうかが大切である。どこかの短大にでも就職できればではなく、外国に出て職を得てやろうじゃないかという物差しを掲げる若者に育って欲しいと考えている(少なくとも筆者は)。
そんなことをいう大人たちはどうなのですか?というような問いかけは、コホート効果というものがあるので、つまり育った時代背景が違うので言ってはいけないのである。しかし、ただ、筆者の物差しは上昇中であると言っておこう。

童謡を聴く:知らないことが多いなあ

僕の数年先の還暦のことを画策している教え子がいることを小耳に挟む年になったのだが、まだまだ知らないことが多く、それどころではないぞ、という心境にある。
レギュラー執筆陣の一人として寄稿している冊子の、出版25周年300号記念の集いというものに参加した。寄稿しているのは、幼稚園児の父兄を対象とした冊子の「育児相談」の欄である。なぜ、僕がと言うなかれ、大学時代の恩師が創刊に関わり、亡くなられたのでその後を引き継ぐ者が必要であったことと、編集長が兄の同級生であったことで書き始めたのだ。もう15年近く書いている。僕は、前任校では教育心理学や児童心理学の講義もやったし、乳幼児発達心理学という講義もしていたので、神経心理学のそれもラテラリティしか知らないというのでもないのだ、といちおう自己主張しておこう。冊子は本願寺系の仏教系幼稚園に配布されるものである。
出版記念の集いは、物故執筆者の追悼会から始まった。音楽葬という形式が本願寺でもあるそうで、追悼会はお経ではなく僧侶でもあるオペラ歌手の主導によるものであった。初体験である。この年になっても知らないことがあるのだと感じた第1弾。物故者の写真がビデオで流され、大西憲明、伴義雄、蜂屋慶先生などの教えを受けた先生の顔が映し出されると時間は40年ほど前に戻り、10代であった自分は今、これら先生の年回りになっているのかと考えさせられ、懐かしいというだけではない何とも妙な気持ちになったのだが、このような懐古について書くのが目的ではない。
第2部の交流会で川田正子の童謡を聴いたのだ。僕は歌手のコンサートなどに縁のない人間なのでいわゆる実演(死語に近い)を間近で見るのは初体験に近い。プログラムには昭和9年生まれとあったので70歳に近いのだが、まだまだ現役の歌手であった。実演は迫力があることを初めて知った(これが第2弾)。彼女は戦後すぐの頃に活躍した歌手で(当時はNHKしかなかった)、50歳半ば以上の日本人なら誰もが知っている歌手である。川田正子は、「みかんの花が咲いているノ」、「静かな静かな里の秋ノ」、「シャボン玉とんだ、屋根までとんだノ」「青い月夜の浜辺には、親を探して鳴く鳥の..」、「月の砂漠をはるばるとノ」など昭和30年代までに子供が歌うべき歌としてあった童謡の大歌手である(大人の歌としては演歌があったのだ、この常識を覆したのが美空ひばりなのだ)。
彼女の解説から「静かな静かな里の秋ノ」は南洋諸島からの復員船を迎えるための歌で3番まで歌えばわかること、「シャボン玉とんだ、屋根までとんだノ」「青い月夜の浜辺には、親を探して鳴く鳥のノ」は共に詩人が夭逝した我が子を偲んで書いたものであることを知った(これが第3弾)。初めて知ることはまだまだ多いなあというところである。
それにしても最近の歌謡曲(言い方が古いね)は作詞とではなくwordと書いているのを見かける。Acousticなものに文字を振り付けたと言うことらしい。何時から詩人が歌詞を書かなくなってしまったのか知らない。まだまだこの年になっても知らないことが多いなあと呆れることであった。

年賀状と新カリキュラム案

風邪を引いてしまい、うっとうしい年始であったが、ともかくまた新しい年となった。まだ年賀状もゆっくりと見ていないのだが、「新しいスタートです」とある、2人の子どもの名前を連記した教え子の年賀状に、(旧姓)とあり、結婚の挨拶状での旧姓という表現とは違う使い方もあることを知る。いろいろあるのだと重い頭で妙にしんみりしてしまった。
なかには、顔が思い浮かばない人の年賀状もある。その多くは大阪教育大の頃の卒論指導生ではなかったゼミの学生のものである。当時の大阪教育大は校舎が古くて狭隘で、ゼミは各教官の部屋でスシ詰め状態で行われた。4年での卒論の指導教官の品定めを兼ねて、3年生は複数のゼミを取ったので、50人弱の定員を16名の教官がゼミ指導するのでも、学生数は多かったのである。僕のゼミは英語を使ったので、4年生で卒論を書くという学生は激減するのだが、3年の時に気楽な気持ちでゼミに出ていた学生が今でも年賀状をくれるのだ。学生のための部屋がなくゼミ生は教官の部屋に居座るわけで、ゼミの日はまったく仕事にはならない。もっぱら学生との接触の時間であった。そのためもあって、学生のことは、個人的な背景やどの学生とどの学生が仲がよいとか、悪いとかまでよく把握していた。まあ、ラポールの取れていた関係であったことの証拠が今日でも年賀状をくれることに繋がっているのだろう。
名古屋に移ると教官の部屋には学生は必要時以外来ないので(来るのは近くの教官と執行部の先生ばかり)、学生の動向は全く分からなくなっている。個人的には有り難いことなのだが、法人化以降の教育目標の素案などを見ていると、担任制、オフィスアワーなど、学修支援と銘打ったシステムの導入が促されているので、今のままでは済みそうにない。

よく覚えていない学生の年賀状を見て、スシ詰めゼミ方式を取り入れようと思い立った。15年度から情報文化学部は組織の改組でカリキュラムを抜本的に変更することにしている。僕がその責任者で、2年間すでに議論してほとんど決定稿が出来ているのだが、今からでも組み入れようと思い立っている(出来るかは委員会の審議がいるが)。
時間が経ってしまうと分からなくなるかも知れないので、情報文化学部が、何故、どう変わるのかを記しておこう。環境学研究科ができる2年前まで情報文化学部には約90名の教官がいた。9年前に学部が誕生したときの定員である。学生定員90名にしては多すぎるのは、このうち20名弱が全学共通科目の担当となっており、その人が誰かを特定しなかったので(僕は議論に参画していない時代のことである)、その人向けに配分される全学教育科目を全員で配分していたのである。したがって、4~5コマの全学教育科目を各教官が担当し、追加して自分の学部の専門科目もやっていたのだ。単純に加重労働をしていたと言うわけでもないのが困るところで、要するに全学の教官の授業時間数とそろえるために自学部の専門科目を最小限にしていたというわけである。したがって、学部のカリキュラムは決して充実したものではなかったし、教養部的意識がついて回った。
大学の法人化が既定路線となると、このままで、全学教育の負担の少ない他学部と研究実績や教育実績の評価をされてはたまったものではない(このようなハンデがあっても、内実は研究業績も就職実績も他学部にひけは取っていなかったのだが)という思いから、ともかく、情報文化学部の全学教育科目の負担を減らし、学部のカリキュラムの充実を目指す闘いを始め、勝ち取ったのである。
この間には、変革を志向する総長の支援もあり、変革を嫌がる他学部とのやりとりには、学部が一体となり抜け目なく戦ったのだ。その結果が、文学部と理学部、博物館への約20名の教官の移籍、人間情報学研究科の情報科学研究科への発展的解消なのである。スリムになる組織を見込んで、学部の目標、カリキュラムの見直しを進めて来た。本当に大変だったのだよ。

15年度からのカリキュラムは学部で育てる人材の明確化やそれに対応づけた授業科目など、自画自賛するまでもなく画期的である。すでに学外での基本案の紹介でも慶応、青山、日大、関大などの先生からすばらしいと誉めてもらっているのだ(もっとも、これが絵に描いた餅にならないようにするのは大変ですが)。
その自画自賛カリキュラムに抜けているのが、大阪教育大スシ詰めゼミ方式であったのだ。昨日、年賀状を見ながら気がついたのですネ(何故か椎名誠風になった)。大体、オフィスアワーを設ければ学生が学修上の悩みを教官に相談に来るなどということはあり得ないんデスネ。学生の個性に合わせた指導など出来るはずがない。ラポールのない関係で自分を開示するような人間はむしろ病的ですらあります。この頃の学生は単位に関係するなどの目先のインセンティブがないと動かないことに気づいてないのでしょうかネ。

スシ詰めゼミ方式では専門への導入を外国語を用いてやってもらおうと考えている。5人程度での学生を相手に勉学7割、雑談(先達の経験を聞く)3割の時間配分でどうだろうかと思っている。学生は2年次に複数のゼミに出ることとを勧めたい。教官の人間性に触れさせる大事な時間になり、品定めもできると思うのですが。
教官の採用に人間性が、組み入れられてますか?と言うなかれ。反面教師という言葉もあるではありませんか。20~30年前の大学生と今の学生を取り巻く社会状況が違い、時代精神も違い、スシ詰め方式などという形だけ整えてもうまく行くか分かりませんよという声も聞こえそうである。僕は先刻そんなことは折り込み済みなのですが、踏み出さないと何も変えられないと思っているのです(青年期の人間の特性が、環境の要因で簡単に変わるのかは関心のあるところでもあります)。座して自ら奮闘せずにいるというのは性分に合わなくなって来たのです。これも、老化現象の特徴の一つでありますが、青年だけでなく中年も荒野を目指す存在でなければいかんのです。そうでないと、何年後かに振り返って、「哀愁の町に霧がふるのだ」とはならんと思っているのです。

*何をいっているのか分からない人は椎名誠を読んでから再読下さい

桐の葉

ここ一月ばかりずーと気に掛かっていたことがある。昨年、桐の葉の落ち方についてコラムに書いた。一日で全部葉が落ちるのに驚いたためである。朝の散歩の折りに、道路から200mほど離れた山裾の畑にある桐の葉がいっこうに落ちないのが気になっていた。昨年は一斉に葉を落としたのに、今年は12月も半ばになろうというのにいっこうに葉が落ちている様子がない。桐の葉が一度に落ちるのは、たまたま昨年の気候によっただけであって、再現性がないのだとすると昨年の記載は間違ったことを書いたことになってしまう。科学的思考を基礎にしている仕事についているものとしては、今年も一斉に葉を落とさないと、つまり再現性がないとすると不味いことになる。このコラムの読者がそんなことを記憶しているはずはないとは思うが、自分には多いに気がかりなことだったのである。
 嬉しいことに再現される光景に出会えたのだ。12月15日の7時頃のことである。その前夜、久しぶりに来宅した東北大の大淵さんとかなり飲んだものだから、二日酔い気味の身体に折からの寒い空気を当てるべく、いつもの散歩道を進んだのだ。霜が降りている形跡があり、寒い朝だった。ふと、通常の散歩道を離れて山裾の桐を見てみようという気になり、田んぼの畦を横切って桐の木の近くまで進んだ。一番手前の一抱えで済まないほどの桐の木は、半ば以上葉を落としていた。いや落としつつあった。すでに半分ほど葉を落としていたので、手前の桐の木は3から4呼吸に1度の割合で落葉している。その奥にあるやや若い桐の木からは1、2秒の割合で葉が落ちていた。人間の手のひらよりも大きな葉が次から次へと舞い降りるのである。今年は冬が暖かいので遅くまで葉をつけていたのが霜がついて重くなり、一斉に落葉する羽目になったのだろう。10分あまり、葉が落ちる様を眺めていたと思うが、出かけなければならないことに気づき完全に木から葉がなくなるまでは観察できなかった。しかし、桐の葉が極めて短時間に葉を落としてしまうのは確かである。有り難いことに昨年の記載は修正する必要はなくなった。事実、翌朝の観察では、桐の木に葉は残されていなかった。
 もちろん、科学に携わるものとしては、僕の見ている桐の木だけの固有の事象か、気候や土壌との関連で葉の落ち方が決まるのか、あるいはもっと長い期間でも当てはまるのか、などの指摘がなされねばならないのは言うまでもない。
 ともれ、今年も落葉に接することが出来た。思えば、12月15日は昨年亡くなった父の命日である。桐の落葉にやきもきしている僕への父からのクリスマス・プレゼントなのかも知れない、などと二日酔い気味の重い頭で思ったことであった。