入院騒ぎ(1)
4月16日から1週間大学を休む予定でいる。病気になったためで、それも入院を勧められるような病気だったのである。僕にとっては、高2のときに虫垂炎で10日間入院して以来の大事件である。病名は現在のところ不明。疑われたのは、腎臓結石、腎盂炎であるが、よくわからず仕舞いになりそうである。これを書いている18日の時点では、疲れで体力が弱っていて感染症にかかったというところだろうと思っている。
発端は左脇腹痛が15日一日中続いたことにある。正確には、15日未明から下腹部に違和感があり、筋肉痛に似た鈍痛が左脇腹から背中にかけて生じたのだ。朝方3度ばかりトイレに行ったが放尿時に痛みなどはなかったが鈍重感がつきまとった。この時点での自己診断は膀胱炎?というものであった。前日、先輩の追悼会が大阪天満橋のホテルであり、不義理を重ねている同窓会に顔を出さねばということもあって出かけた。この朝、疲れが貯まっている感覚はあった。
追悼会ではあまり食欲はなく、もっぱら恩師や先輩・後輩と久しぶりに対話した。2時間半ほど立ちっぱなしであった。そのまま帰ろうかとも思ったが、2時半頃でホテルの窓からは大川沿いに折から開催されている「造幣局の通り抜け」に向かう長蛇の列が見え、10年以上前に一度来た記憶があるが久しぶりに行ってみるかという気になった。追悼会のスケジュールでもあった。天気も良いので同級生の摂南大の吉野絹子、甲南女子大の後藤容子両女史と通り抜けに行ってみた(日差しの強さに加えて熟女らの毒気に当てられたのか、疲労感は強かった)。桜はもう大方散っている時期ではあったが、通り抜けはさすがに桜の種類が多く、盛りの桜もあり、それなりに見事であった。ただ、混雑はひどかった。ちょうど、ラッシュの地下鉄ホームといった状況で、のろのろ進むだけでかなりの時間を要した。順路の終点にある帝国ホテルのトイレに駆け込んだが、かなり尿意を我慢した記憶があったので、膀胱炎?と推論したのだ。
15日の朝は、それでも30分ほど散歩に出かけ、違和感を感じつつも手元にあった抗生物質を飲み、大学に出た。夕方から自分が主査をしているどうしても休めない委員会があったためである(この時点で休んで病院に行けばよかったのかも知れない)。ずーと左脇腹に鈍痛があり、身体は重く、しんどかった。食欲もなく、いつも行く食堂には行かず、おにぎりとポカリスエットという変な組み合わせの昼飯となった(このような偏食行動は体調不良のサインと今では気づいているが)。渡辺はまさんには朝一番に「先生へろへろしている」と体調不良を見抜かれていた。飯高さんには、この痛みは何かね?などと聞いてもいる(早めに診察ですねと、医師らしく的確にされたが、その頃は病院に行かずに済むだろうと感じていた)。椅子に横になったりしながら、会議の時間を待っている状況であった。痛みを強く感じると、翌日は講義の予定がないので病院に行くか?と自問したりしていた。
大学では、予定していた仕事がパソコンのソフトの都合で不可能とわかり、夕方まで、査読(こんな状態なので、思案していたのが、不採択になったのはいうまでもない、外人の論文なので念のため)、頼まれた論文の下読みなど雑事で時間を過ごした。抗生物質は時間をおいて飲んでいたので、左脇腹から背中にかけての鈍痛は何とか我慢できた。会議を短めに済ませて帰路についた6時頃には鈍痛も軽減し、病院は行かなくても済むかも知れない、抗生物質で対応できたのだろうと、いい気分でいた。
ところが、である。新幹線での居眠りから京都の手前で寝覚めると、脇腹、背中の痛みがかなり悪化していた。姿勢も維持しにくいぐらいの状態であった。自宅に何とか戻った8時頃では痛みは増悪するばかりで、翌日病院に行かねばという状態になっていた。横になるのも痛くて、寝付けない状態であったが、家内のパソコンの先生が来るのというでともかく9時には床についた。
発端は左脇腹痛が15日一日中続いたことにある。正確には、15日未明から下腹部に違和感があり、筋肉痛に似た鈍痛が左脇腹から背中にかけて生じたのだ。朝方3度ばかりトイレに行ったが放尿時に痛みなどはなかったが鈍重感がつきまとった。この時点での自己診断は膀胱炎?というものであった。前日、先輩の追悼会が大阪天満橋のホテルであり、不義理を重ねている同窓会に顔を出さねばということもあって出かけた。この朝、疲れが貯まっている感覚はあった。
追悼会ではあまり食欲はなく、もっぱら恩師や先輩・後輩と久しぶりに対話した。2時間半ほど立ちっぱなしであった。そのまま帰ろうかとも思ったが、2時半頃でホテルの窓からは大川沿いに折から開催されている「造幣局の通り抜け」に向かう長蛇の列が見え、10年以上前に一度来た記憶があるが久しぶりに行ってみるかという気になった。追悼会のスケジュールでもあった。天気も良いので同級生の摂南大の吉野絹子、甲南女子大の後藤容子両女史と通り抜けに行ってみた(日差しの強さに加えて熟女らの毒気に当てられたのか、疲労感は強かった)。桜はもう大方散っている時期ではあったが、通り抜けはさすがに桜の種類が多く、盛りの桜もあり、それなりに見事であった。ただ、混雑はひどかった。ちょうど、ラッシュの地下鉄ホームといった状況で、のろのろ進むだけでかなりの時間を要した。順路の終点にある帝国ホテルのトイレに駆け込んだが、かなり尿意を我慢した記憶があったので、膀胱炎?と推論したのだ。
15日の朝は、それでも30分ほど散歩に出かけ、違和感を感じつつも手元にあった抗生物質を飲み、大学に出た。夕方から自分が主査をしているどうしても休めない委員会があったためである(この時点で休んで病院に行けばよかったのかも知れない)。ずーと左脇腹に鈍痛があり、身体は重く、しんどかった。食欲もなく、いつも行く食堂には行かず、おにぎりとポカリスエットという変な組み合わせの昼飯となった(このような偏食行動は体調不良のサインと今では気づいているが)。渡辺はまさんには朝一番に「先生へろへろしている」と体調不良を見抜かれていた。飯高さんには、この痛みは何かね?などと聞いてもいる(早めに診察ですねと、医師らしく的確にされたが、その頃は病院に行かずに済むだろうと感じていた)。椅子に横になったりしながら、会議の時間を待っている状況であった。痛みを強く感じると、翌日は講義の予定がないので病院に行くか?と自問したりしていた。
大学では、予定していた仕事がパソコンのソフトの都合で不可能とわかり、夕方まで、査読(こんな状態なので、思案していたのが、不採択になったのはいうまでもない、外人の論文なので念のため)、頼まれた論文の下読みなど雑事で時間を過ごした。抗生物質は時間をおいて飲んでいたので、左脇腹から背中にかけての鈍痛は何とか我慢できた。会議を短めに済ませて帰路についた6時頃には鈍痛も軽減し、病院は行かなくても済むかも知れない、抗生物質で対応できたのだろうと、いい気分でいた。
ところが、である。新幹線での居眠りから京都の手前で寝覚めると、脇腹、背中の痛みがかなり悪化していた。姿勢も維持しにくいぐらいの状態であった。自宅に何とか戻った8時頃では痛みは増悪するばかりで、翌日病院に行かねばという状態になっていた。横になるのも痛くて、寝付けない状態であったが、家内のパソコンの先生が来るのというでともかく9時には床についた。