選択的注意メカニズム
先週末に,貴重な注意メカニズムを体験をした。12月7日の夕方の京都駅でのことである。いつものように新幹線から京都線に乗り換えるべく、階段の辺りまで来ると、通常のダイヤでは1分ばかり前に出てしまっているはずの新快速が、停車中であった。これは有り難いと階段を駆け下り、飛び乗ったがどうも様子がおかしい。乗客の数が通常よりも少なく,妙にしーんとしている。そのときアナウンスがあり(繰り返してしているのに始めて気づいたのだ)、京都線は不通で、回復の見通しが立たないから、大阪方面の客は、地下鉄、阪急に乗り換えろと言う。回り道は時間がかかるしそのうち運転を再開すれば時間を無駄にしてしまう。はて,どうしたものかと考えてしまった。何人かに詰め寄られている駅員の答弁を立ち聞きすると、1時間半ほど前に人身事故があり,現在も不通で、回復のめどは立っていませんと言う。この間に,振り替え運送要請のアナウンスは繰り返されているはずだが,耳に入っていないというか、聞こえていない。Filtering-outというものである。
すでに事故から2時間近くもたっているのだから阪急で遠回りしているうちに回復してしまうに違いないと、一旦は冷静に判断して、もう一度立ち往生中の新快速の電車に乗り込んだ。このときいけなかったのは,数週間前にJR踏み切りでの自動車事故を処理している救急隊員を殺してしまったことが思い出されたことである。救急作業の最中に複々線のどれかの線路に電車を走らせたのが原因の事故である。ずいぶん非難されたJRだからきっと今度は丁寧に事故処理をして時間をかけるに違いない、という考えが浮かんだのだ。さて、どうするかなという心理状態になった。するとどうしたことであろうか、何度もしつこく繰り返されている、振り替え輸送のアナウンスが急に耳につくのであった。潜在的な願望に依存して注意の焦点化が働いたに違いないのだ。こうなると、駅員にいわれて阪急で振り替えすべく階段を下りていく乗客が図になり、じっと電車内で待っている乗客は地となってしまう。皆んなが地下鉄に向かいだしたような感じになって、僕も身を任せてしまっていたのだ。生まれて初めて振り替え乗車証というものをもらって、地下鉄で四条に出て、阪急京都線で高槻市、徒歩でJR高槻駅を越えて、駐車場へと向かうしかなかった。結局、京都駅から1時間近く掛かって帰宅した。回復を待った方が早く帰宅できたのは言うまでもない。JRの駅を通り過ぎるときに、まだ不通が続いていたら気分がいいけど、そんな訳ないはずだよなあと思ったが、そんな訳はなかった。
気が短い人間はこんなときに結局損をするのだ。分かっているのだけどね。注意の焦点化は潜在的願望により、変幻自在であることを確認したことであった
被験者募集業務お断り宣言
その結果、表題に行き着いたのです。どうしてって?そう急がせなくとも理由を説明しますよ。
いくつか学生が教えてくれた理由は、2年次の授業で人気のある先生のいる講座を選択することが多い、行動論は3年になっても毎回実験のレポートがあるらしい(デマですよ)、先生をよく知らない、など、おおかたは予想通りでした。実験演習をTA任せにし過ぎていることは反省せねばいけないと思いましたね。学生は先生と個人的な接触を望んでいるのでせう。しかし、行動論の先生は学部の運営にかり出されて、他の講座の先生よりも忙しいのです。(大きな声では言えませんが)有能な人材が多いと言うことなのですよ。なかなか改善しにくいのですね。
そこで、自分の頃にはどうであったかを振り返ってみました。2年生でとりあえず、心理学という未知の学問に興味を持って初級実験を始めたのは13人でした。90名の定員で11講座あり、英語やドイツ語に人気があり20人ほどずつ進みましたから、まあ、多い方です。3年次で心理学に進んだのは8人、卒業は4人、現在生きているのは3人です。僕がどうして心理学に進んだかの理由を思い返してみるに、2年次に被験者をやらされ(進んでという意味ではないのです。夏休みにも何時間も何日も暗室で被験者をしていたのですから。現在でのように謝礼はないのにですよ)、個人的に上級生とつきあいが出来て、逃げられないような印象を持ったことがあるのです。
これだ!と思いましたね。院生が社会情報システム学科の1年次、2年次の学生と実験を通じて個人的なつながりを持ち、そして心理学への興味を鼓舞するのが一番であると。つまり、卒論や院生実験で被験者を募集するのに、僕を含めた教官が援助しないのが一番だという結論に達したのです。そもそもは僕に原因があるのかも知れません。自分の実験を院生であった木暮君にやってもらうときに、受講生から募集し、ついでに彼の実験の被験者も、と言う具合になったのです。
いままで、授業で被験者を募集するのを手伝ってきましたが、これが上級生と下級生の個人的人間関係を作らない最近の傾向に拍車を掛けてたのに違いありません。卒論や院生の実験で、自分が知らない人に声を掛けて被験者をお願いする、クラブの友人にその友人を紹介してもらうというように、自分がかつてやっていた被験者募集の方法を伝授してこなかったのがいけなかったのです。最近の学生のコミュニケーション能力欠損症が多くなっている原因がここにあるか、と思うと反省しますね(そんな大げさなものでもないでせうが)。
そこで、宣言しておきます。今後、大規模の調査が必要な場合は仕方がありませんが、学生実験の被験者を授業中に募集する方式への援助は止めます。何事も安易なやり方を若いうちに身につけるのは良くないと思うようになったのも一因です。だんだん、教育者らしくなってきたのですかね。歳をとってきたので意地悪になっただけだろう、なんてひそひそ声も聞こえますが、本気です。
終止メカニズム(10/20)
改訂を予定している本の原稿が昨日朝にできた(一応ですが)ことと、昨日開催された名古屋でのあった医学系の研究会での発表を終えたことで、久しぶりにゆったりとした気分で、朝の散歩が出来た。散歩道の両脇の水田はすでに稲刈りがすべて終わっているのを知った。昨日から燃え続けていた籾殻の山が24時間後でもまだ燃え続けており、1メートル足らずの籾殻の小山が燃えるのにはずいぶん時間がかかることも知った。ゆったりとした気分で歩かないと周りは見えていないことに改めて気づいたことであった(これらのことから教訓的なことでも書くのが最もらしいが、止めておこう)。
昨日の研究会は聴衆が200名強ですべて医師というものであった。製薬会社が後援している関係で、いただいた新幹線の往復切符はのぞみのグリーンであった。9年間新幹線通勤をしているが名古屋と京都の間を往復でのぞみに乗ることも(間違って片道乗ったことはある)、ましてグリーン車に乗ることも初めての経験である。もちろん快適であったが、結論から言うと有り難くはなかった。椅子の座り心地が良すぎるので、寝過ごすのではという恐れがあり(いつもより時間が短くて、乗り過ごすと新横浜まで行ってしまう)、いつものように寝ることができなかったためである。疲れて東京まで行くような場合には熟睡でき、身体が休まるであろうことは理解できた。
研究会では、多くの質問が出たが、そのなかで、運動や知的行為を始める検査ではなく、終止する仕組みの検査を実施すると、加齢との関連はどうなるのかという質問は興味深かった。高齢になって、すぐに行為を中断することが出来なくなることが,さまざまな問題を生む可能性は了解できるからである。
前頭葉前部の脳損傷患者で「道具の強迫的使用」という行為障害が報告されているので、終止メカニズムに前頭葉機能が関係することは間違いなさそうである(誰か関心があれば一緒に研究しませんか)。
ところで、ここ数週間忙しかったのも学会や研究会に出続けるからである。どうも、僕は始めると、終止することに恐怖観念が伴うようで、論文書きも水泳も朝の散歩も(結婚生活も?)止められないきらいがある。将来身体をこわすもとであろうことは容易に理解できる。
こういうものを終止する仕組みも考えねばならない時期が近いのかも知れないなあと、散歩の帰り道に考えたりしたことであった。
国際学会に参加して(2)
学会では、たいてい日本でいう懇親会がある。知る人ぞ知る人見知らーであるので,僕は日本でのこの種のものにはほとんどでないが,外国ではでる。外国にいると人が変わるらしい。
今回は2日目に懇親会(conference dinner)あった。男はloungeスーツ,女はイブニング着用とあったので,さて何を着るのかと思ったが,男はスーツにネクタイをつけていればよいのがわかった。僕は三つ揃えを着ていったが、そこまでする必要もなかったようである。女は7割ほどがすその長い、肩をほり出したドレス(黒が多かった)である。ワンピースにネックレスをして,ショールという人が残りである。
今回は会場の隣の国立美術館が会場であった。7時から7時15分までに入場せよと言う。Receptionである。会場は2階の4つの展示室であり,モネの睡蓮の絵や,ロダンの彫刻を眺めながら,ワインを飲む。そしてdinnerが始まるのを待つのである。談笑しながら待つのである。僕は知り合いがいないので,白ワインを3杯も飲んでしまった。ずっと一人で絵を見ていたわけではなく,旧知のColtheratとBaddeleyと話をした。Coltheratは9月の基礎心理学会に来るらしい。BaddeleyはStanfordでの9ヶ月間の滞在中にworking memoryの本を書いたという。しばらく実験をしてなかったが9月から復帰すると言うことであった。こういう人たちは元気である。
8時近くになって娘が留学しているので来たと言う南アフリカの白人女性が話し掛けてきた。美人でありどうしたことかと思ってしまった。曰く,東アジアでの脳損傷の状況に関心がるので教えてと言う。日本の人口はイギリスよりも多いのだということにも驚いていたが,統計は知らないと逃げておいた。何でも知っておかなければ、話題が豊かでないとこういうときに話が続けられないのだ。言うまでもなく,こういうときの会話はNOVAでは身につかないので注意が要る。
今回の学会ではTBI(脳外傷)だけでなくABI(acquired brain injury)も含んでいるのでこんな話になるのだ。かなり話し込んだので一緒のテーブルでDINNERかな?と思っていたが,1階のdinner会場に下りていくときに逸れてしまった。
結局,dinnerは女性ばかり5人のところで食べることとなった。左隣はCardiff市で働く作業療法士,右隣はOxfordから来たと言うバツイチの作業療法士であった。ワインの力もあって,人見知らーの僕でも盛り上がった。10時半を過ぎてやっとlectureが始まった。Badddeleyは長すぎて受けなかった。みんな飲んでいるのに無粋であった。僕にはジョークを一つ言って短く話すつもりと言っていたのだが,彼のmemoryには問題があるようである,いうとわがテーブルでは受けた。
食事のときは勝手に食べ始めてよいのである。日本での様に乾杯を待ってということはない。
Lectureは人気TV番組の作家(7年前に脳卒中をやったらしい)と国会議員らしいのがしゃべった。よく聞いていなかったので何が受けたのか不明だが,笑いと拍手は多かった。こんな風にはなかなかなれそうにない。
解散は11時となった。明日9時から再開という時期でも遅くまで飲めるのは連中のタフさの証拠である。僕はタクシーで早々に退散した。長い一日であった。
国際学会に参加して(1)
9月17日から3日間Cardiffで開催された学会に参加している。税金を使って来ているので,そこで得たこと、感じたことを伝えるのも義務かもしれないので書いておく。
Cardiffは僕が若い頃(32歳)1年間を過ごした町である。大学は付近の大学と合併して(現在,日本の国立大で起きつつあることが10年以上前にサッチャーによって行われ、伝統的なイギリスの大学制度はアメリカナイズされたのだ)イギリスで一番大きな心理学教室になっている。学部になっている。時間が経ったことや,新しいスタイルの学部を嫌って出て行った者もあり,現在知っているスタッフは技官と秘書の2人だけである。したがって,研究室を訪問することはしないつもりである。
今回は,25年前の先生の家に泊まることとなった。Dimond先生はすでに亡くなって,20年以上になる。奥さんが福祉関連の法律家で大学の学長を定年で辞めたので寄るように言われたためである。Biddy(先生)はしかし,講演で忙しく1週間に3日ほどは飛び回っているのが現状で,駅まで迎えてくれたのは初対面のシドニー出身の同居人(58歳の女性)であった。16日の11時に駅に着いたがBiddyは7時前にLondonでの講演旅行から戻るという按配であった。午後はバスで市役所に行き(学会会場)登録を済ませ、近くを散策した。Llandaff大聖堂が近くにあり,出かけてみた。正面前のカーブした石の階段を目にしたとき,25年前の情景を鮮明に想い出した。大学の宿舎で時差ぼけで寝ていた2日目の僕をDimond先生は2人の娘を連れて訪ねてきて,自宅に招いてくれたのだ。そのとき4人でLlandaff大聖堂を散策し,石の階段を降りたのだった。初対面の僕を気にしつつも跳ね回っていたのが娘たちがあった。
人間や大学の様子は大きく変わったが,すべてがNothing stay the sameと言うわけではなかった。瞼の裏に熱いものを感じたことを記しておこう。過去を振り返ることが多くなるのは、老化の兆候かも知れない。
夕食は同居人が作ってくれていた。食事の前にもかかわらず,最近他人からは言われることがなくなったことをBiddyは平気で言う。「タケシ、研究している?本を書いた?」などである。何時までたってもかなわない。彼女は22冊目の本を仕上げたところと言う。30歳台の後半に旦那に白血病で急に死なれて2人の女の子を育てたエネルギーは恐るべきものである。昨日はLondonのホテルのpoolで泳いだと自慢気に言う。かなり太目の彼女が水に浮かんでいる絵を想像すると,可笑しくなってしまう。現在は講演生活の傍ら放送大学で音楽の勉強をしているらしく,5年目で学士号を取る試験の勉強がなかなかはかどらないとぼやいていた。僕の最近の神経心理学理論では,音楽を続けるのは老化防止に絶対的に効果があると言ってあげたら,喜んでいた。楽譜が覚えられないというのだから音楽の試験は実技なしのもののようである。
さて,学会である。すべて招待講演で構成されており,著名な神経心理学者が少なくない。学会のタイトルは「Effectiveness of rehabilitation for cognitive deficits」であり,脳損傷者の高次脳機能のリハに関するものである。感じたことを思いつくままに上げると次のようなものである。
1. リハにはmodel-basedなものと,general-orientedなものがある。前者は高次機能の要素別の治療を理論に基づいてやるというもので,Cotlheartが講演した。後者は人格全体を治療対象にしてというもので,Prigatanoが講演した。現場の人間には後者が受けるのだろうと思われた。
2. 全人格を対象にという治療方針は,個別カウンセリングを含むものなので,日本の臨床心理士の将来の職場はこんなところになるのではないかと思われた。もっとも,ユング信仰者のようなタイプの臨床心理士ではなく,脳機能の神経心理学を基盤にしたものとなるはずである。
3. Coltheratは認知心理学者で知らない人はない著名な人で,実験→モデルを背景とした基礎をやってきた人であるが,今回は読み障害の治療症例にも触れた。第1戦の研究者は基礎から応用まで包括的にやるのだなあと感心した。
4. 学会が応用的なものであることによるのかもしれないが,認知心理学者のいわゆる健常者を対象とした実験研究は脳損傷者を包括する応用的研究に大きくシフトしつつある傾向を強く感じた。基礎をやるつもりの認知心理学徒はあまねく脳の基礎知識を学び,機能を理解せねばならなくなるときはすでに来ている印象である。僕の「脳と行動の仕組み」が10年ぶりに改訂されるの、ぜひ買って勉強すべきであるというのは我田引水かな?
5. 400名ほどの参加者は研究者よりも現場の実践家,それと臨床心理をやろうとする学生が大半の印象である。そのためか,講演は教育的なものが多い感じを受けた。著名な研究者出ることによるのかもしれないが40分の講演は構成が巧みで、しっかりしている。学ばねばならないことである。素人にもわかるような構成になっており,伝えようとする情報量は少なく,単純であるのが共通している。先週行われた日本での神経心理学会では、自分の研究成果をわかって欲しいということではなく,学会での発表実績を得るためだけではないかと思えるものがあった。
6. 口頭発表のまずいものは司会者の印象に強く残るので,将来のことを考えると院生諸君は心すべきである。司会者はその分野の有力者が少なくないからである。
最後に教訓も書いたので,この辺で止めておこう。昨日の朝飯で食べたシリヤルの木の実が硬く右奥歯の詰め物が取れてしまい,違和感がある。集中力を欠く状態なのである。
野球拳モデル(8/7)
歓迎会の席で、心理チームは何をやっているのかを紹介させられる羽目になった。これは、心理チームがこの検診のボスの許可なしに昨年から整形外科チームの誘いで強引に参加してしまったことに起因している。4~5日前に整形の先生からこのことを匂わされていたので、1枚だけ資料を作り準備はしていた。急なことであったが窮すれば通ずで(笑うところです)、われわれが昨年から始めている検査の位置づけを説明した。われわれの研究の背景理論は,後の酒の席で野球拳モデルと呼ぶことに決めた(少し色っぽいのが気に入っている)。ボスの先生は説明を大変気に入られた様子で、高く評価できる、すばらしいと言っていただいた。今後5年と言わずにもっと続けるように、金がなくなれば、町から援助するように手配したと検診2日目に言ってこられた(ちなみに、今回の心理チームの旅費、滞在費はこちら持ちで、歓迎会や送迎、ツアーは八雲町負担である。金持ちでないとこの種の研究はできないのだ)。
野球拳モデルであるが、詳細ははぶくが、次のことが基礎になっている。
・人間の認知機能は前頭前部が担うが、この部位は脳の進化では最新の部位である。したがって、脆弱で、壊れやすい。
・認知機能よりも、先に筋・運動系機能が、その前に循環系・代謝系機能が進化したので、壊れ易さは逆順となる。
・認知機能は、進化が古い機能系を基礎に成立する。
・個体発生は系統発生を繰り返すので、前頭前部が担う機能も新しく獲得したものほど脆弱で壊れやすい。たとえば、記憶機能では、直後記憶、遠隔記憶、展望記憶の順に、言語機能では、物品呼称よりも単語検索(文字流暢性)、レトリックがという順に壊れにくくなっている。
さて、野球拳というのは、ジャンケンで負けた側が衣服を脱いでいくというお座敷ゲームである。昔、テレビで高視聴率をあげ、ひんしゅくを買った番組もある。
自分自身の経験に基づくのだが、40歳ぐらいまでは、すべての機能に衰えを自覚しない。届いていたはずのテニスボールにラケットが間に合わない、おや?というのが40歳を過ぎた頃である。
加齢により、野球拳で負け始めるのがこの年代で、以後は基本的に負け続けるのだと言うのが我がモデルである。このときに、40歳ぐらいまでにたくさん着込んでいた人は、なかなかパンツ1枚にはならないが、着込むのをさぼっていた人は早くパンツ1枚になり、負けてしまう(つまり、認知機能が大幅低下してしまう)と言うわけである。
言語を例に取ろう。1歳頃から覚え始めた母語は小学生で流暢になる。その頃から読み書き、作文を覚える。
学校を出て就職すると、業務報告書ぐらいしか書かずに、あとは 「飯、風呂、寝る」しか言わない、友人とも話をしないというような人は着込むのをさぼった人である。一方、学校を出て就職しても、読書を続ける、日記を書く、短歌や俳句を始める、話術(落語など)を習う、他人との会話を盛んにする人は、たくさん着込んでいく人である。後者の方が前者よりも認知機能障害を生じにくいはずである。認知機能の個体発生を考えると,人生の遅い時期に習い始めたものから壊れていくということである。
さまざまな認知機能にこのモデルは当てはまると言いたいのだが、疲れてきたので、この辺で止めておこう。
こんなコラムを書いたり、授業でのへたなギャグばかり考えている自分に都合のよいことを言っているなあ、と思うかも知れない。密かに自分を対象にして実験中なのである。筋・運動系の訓練も基盤となるので、水泳や散歩をしなければならない。何かと忙しいのだ。
Sprout (7/21)
シイタケは入れて欲しいと言ったのだが、急には無理だと一蹴された。
出された冷やしそうめんにはキュウリとミョウガとオオバとゴミのような青い髭様のものが乗っていた。ショウガとネギをそうめんつゆに入れて食したのだが(文章にすると如何にも美味そうだが、ただのそうめんである)、髭様のものがモゾモゾして食感が悪かった。聞くとブロッコリーの芽で、スプロウトというのだと教えられた。何でもガンの予防の栄養分が多いと最近人気があるらしい。
野菜の発芽したものはすべてスプロウトであるはずだが、ブロッコリーだけをいうのか不明である。
田舎では大根の種をまいて発芽したものを間引き、みそ汁の具にして食べた記憶がある。大根の芽は少し辛みがあったりすると以外と美味であるが、ブロッコリーは味がない。口当たりも悪い、食品としては失格の判定を下したい。第一、発芽した植物を育たないうちから食べてしまうのは、人間としていけないような気になるではないか。
ところで、久しぶりに夕方に芝を刈らされていると、5月のBBQのときに種を埋めておいたアボガドが、百合の鉢植えの中で発芽して20cmほどに育っているのを見つけた。芽など出るものかという周囲の声に逆らって埋めたこともあり、急に愛おしくなり、百合の鉢から別の鉢に植え替えることにした。根は以外に丈夫で、結局百合の鉢を根こそぎ取り出してアボガドだけ切り分けることとなった。これで立派に育つ環境ができたぞと思っていたのだが(アボガドの木は幹が10cmぐらいにならないと実はならないと思う)、今朝、植え替えたアボガドをみると萎れてしまっていた。優しい配慮と思ったがしなければよかったのである。
発芽したものを中断させるのも、大事にしすぎるのもいけないらしい。難しい問題である。しかし,示唆的でもある。
台風6号(7/10)
新幹線で缶詰になったのである。昨日夕方の5時に提出締め切りという研究科のCOE21関係の指示を,メールで確認したのが5時5分前であった。電話連絡して翌朝一番で出すというのもダメ,5時半までならというつれない返事。適当に加筆してと投げ出したものの,どうせ事務は朝9時からしか仕事をしないだろうから,差し替えてもらおうと考えていつもより早く,6時7分の電車に乗って京都6時35分発の新幹線をつかまえることにした。6時30分にホームに駆け上がり自由席の5号車の列に並ぶ。列車が入ってきたので,乗り込み3人掛けの真ん中に座る。書類つくりは20分もあればOKだから,ゆっくりコーヒーでも飲んでから9時から院生ゼミだ,やれやれ一段落と思ったとたんに車内放送。台風6号の影響で関ヶ原あたりが大雨。出発は見合わすという。雨で増水した河川が基準値を超えたためという。それなら,当分ダメじゃないかと思ったが,とりあえず,30分ほど待つ。在来線も高速道路も不通というのだから仕方がないと,さらに30分。朝早かったので寝るか,とがんばるが動かない新幹線は眠りを誘導しない。
うしろの座席の女学生は入社試験に東京に行くらしい。隣のおじさんと相談。おじさんは物知りで,近鉄で名古屋まで行く手もある。京都から八木に出て名古屋には3時間でいけるよという声。そうか,その手もあるなと思ったら,おじさん曰く,でもあと1時間もして動けば新幹線の方が早いよという声。じゃ待つしかない,思ったとたん,車内放送。水位が減ったのでまもなく,運転再開という。ほっとして目を閉じて待つ。じっと待つが動かない。20分ほどして水位は減ったが,垂井町で時間あたり降水量が基準を越えたので,運転見合わせの社内放送。こんな繰り返しで2時間半経過。立っている人には悪いが座っていても腰が痛くなり始める。2時間半後にやっと米原まで動く。窓の外に雨は降っていない。10時半すぎ,米原で臨時停車し,客を乗せる。通路は満員状態。この調子なら2時間目の講義はできると連絡しようとしたら,岐阜羽島の16km手前で停車。カーブなので身体が斜めのまま。これにはくたびれた。結局,11時10分頃名古屋着。名古屋は雨も降っていなかった。
こんな状態であるのに客はおとなしい。驚きであった。イライラして暴れないのは携帯電話のお陰だ。だいたい20分ぐらいの間隔で電話をする人が大半であった。出社が遅れるぐらいはたいしたことがないが,入社試験の学生や,成田から飛行機に乗るといって走り回っていたおばさんは気の毒だった。人間の待ち時間のテンポは20分程度のようである。
僕もやはり,5回ほど電話した。1時間目に間に合わないので,とか,近鉄の電話番号調べてとか,2時間目もダメみたい,ということだったが,スケジュールを勝手に決められるのは有り難く,イライラすることも少なかった。途中で家に引き返して,明日出直そうかとも思ったが,明日,附属高校で話す予定があり,それに間に合わない事態が起きないとも限らないと考えたことと,缶詰状態が長引いてパニックになったら,みんなはどのような行動をとるのか観察できるかもしれない,などと変な好奇心が沸いてきたために5時間半の新幹線の旅になってしまった。
まったく,何が起きるかわからないのがこの社会である。僕はチーズを一箱もっているので少々缶詰めになっても安心だもんねと思っていました。備えは大事だ,いらつかずにすむ,ということです。
COE 21問題(7月5日騒動)
7月6日はひどく消耗した状態で、11時前に帰宅した。家内と話す気力もなく、風呂→飯・ビール、でバタンキューであった。朝の6時10分には研究室に行ったので、過重な労働様態である。大学の教官は講義以外にも下記のようなことで、大変なのです。だから院生の諸君は、なるべく自分でいろんなことをやりましょう(やれるようになりましょう)。
消耗感は他人に話しても、なかなか背景説明がないと判ってもらえないので、家内に話す気力が出なかったわけであるが、一夜明けて、気持ちを切り替えるためには、文章化して発散するしかない。
COE 21は文部科学省のいい加減さのために(募集要項が何ヶ月もできてこなかったのだ)、どういう性質のものかよくわからないまま、学内締め切り3日ほど前からバタバタ準備をすることになった。そういう事情があるので、環境学研究科の執行部の対応にも単純に文句を言うのは気の毒なのだが、敢えて言えば、方針が定まらなかったのが昨夜の消耗感の源泉である(怒っているわけではない)。
事情はこうである。地球環境学専攻(理学系)、都市環境学専攻(建築・土木系)社会環境学専攻(社会・人文系)と3専攻ある内の社会環境学専攻が基軸となりCOE 21に応募することとなった(理由は省略)。COE 21は1~5憶のお金を5年間毎年くれるというもので、かつ基本的には使途は自由である。だからみんな欲しいのだ。名古屋大学からは7~10件が申請されるはずである。
業績の多い教授がメンバーになれということで、以前から業績リスト各種を準備させられていた(大変な作業であったが、これはまあ、仕方がない)。7/1(月)にメンバーらが集まり、7/3までに学内申請書をともかく作成した(8時過ぎまでかかった)。7/4に総長部局でのヒアリングがあった。このときは社会環境学専攻の評議員が研究代表で、プレゼンテーションしたはずである。僕は10名の構成メンバーの一員であったが、業績が理由での雇われ構成員であった(はずである)ので詳細は知らない。
7/4(木)は大学基準協会の用事で東京に日帰り出張した。7/5(金)の朝6時10分に研究室に行き、メールを点検すると、18時半から申請計画の練り直しをする、個別の研究計画をだせ、研究計画をだしたところにお金は配分する方針、という理学系の評議員(COE 21の環境学研究科の責任者)からの連絡があった。メールでは、僕が全体の総括することになっており、唐沢さんが総括組のメンバーで(理系の発想では、助教授なので僕が彼女を自由にこき使えると思っているのだろうが、滅相もない)、個別研究計画の中には心理学のものが入っていないのだ。
なんだ、これは!ということで、ともかくも心理学の出す研究計画を提示しないと、お金は来ないし、中間・最終報告書のまとめ役だけさせられるのではたまらない。困る。そこで、まずは7時20分に、寝ているはずの川口さんの自宅に電話で連絡、夕方までに計画を作ってもらうことにした(素案は以前に僕らで考えてあった、準備を怠らないのはエライ!)。
1限の授業終了後、理学系の評議員(COE 21の環境学研究科の責任者)に電話。「ナンデ僕が総括なんだ」、というと、彼は彼で、社会環境学専攻が主になる案を、(役職の立場上)総括すべき人が固辞した、「アンタもか」、とオカンムリ状態(僕は研究科の方では役職なしの平教授です)。社会環境学専攻では成案を作れないのかと反撃される始末。ともかく、総長ヒヤリングでは申請案は、基盤整備案にすぎないのでダメだから研究中心に書き直し、7/8にもう一度説明しろと言うことらしい(ヒヤリングでの選考委員である副総長や総長補佐の、代表者を代えろ、などの発言が間接的ではあるがメールで伝わる。怖い世界である!)。
2限の授業終了を待って、理学系の評議員に1時半に部屋に来てもらう(この頃、明日はシンガポール!とはしゃいで大学に来たはずの唐沢さんが、メールを見て激怒!)。
ともかく、僕が総括できそうな申請案に作り替えるという条件を付けて、総括を引き受けてもよいということにした。そこで、貝沼評議員にも来てもらい2時間ほどで、川口、筏津など2~3教官を含めて議論の末、申請案を根本的に改編した。唐沢さんにカラーの図表も2枚作ってもらい、一段落と考えていた。
「人文社会系の研究者は申請計画もできない」と他の専攻から卑下されるくらいなら、やってやろうじゃないの、ということである。「俺も男だ!マドロスだ!の心境にすぐなるところは、策略にはまったようで、僕の性格としては反省すべき点である。
6時から僕は学部カリキュラム改革作業員会の結果を学部長らに報告する会議に出なければならなかったので、貝沼評議員に資料を託しておいた。川口、筏津は6時45分頃に環境学研究科の工学部会議室に行ったようである。僕は会議を終えて7時半過ぎに工学部の会議室に行った。
部屋にはいると、会議室の白版には前の申請案に基づく概念図が書いてあった。川口。筏津さんが着いたときに、もうこうなっていたという。申請の代表者は貝沼評議員から地理学の教授に変更されたということであった(事情は不明だが一旦断っていた人である。端からそうしておいてくれれば、今回のような騒動にならずに済んだのかも知れないのに!)。午後の数時間の騒ぎは何だったのか、とは思ったが、疲労感の方が強く、発言せずに8時に退出の筏津さんに続いて、後を川口さんに任せて、8時半に途中退出し、帰宅したのだ。呆れて、諦めての心境であった。帰りの新幹線は満員で、座席を求めて2号車までいった。座れてよかった、でないとグリーンにしようかと思ったくらい疲れていたのです。
今回に騒動(敢えてそう言おう)でいくつかのことを再確認した。知識として知っていたが実感した、realizeしたということである。参考までに。
第1は、お金の分配が絡むと、理系の先生たちは目の色が違うというか、例えは悪いがハイエナのように貪欲になるということである。僕自身この申請に当初は関わっておらず、詳しい経過は知らないが、社会環境学専攻が主体となって申請するというはずであったのが、そうでなくなっている感じがした。人文系の先生はこの種の競り合いでは淡泊すぎる。これからは、この種のケースが増えるであろうから留意しなければなるまい。
第2は、この種の急な期限付きの申請は、できれば2~3人の責任者を決めて、それぞれ別個にその人を中心にごく少人数で原案を作成するのがよいということである。そして評価・検討して1つに決める。不採用でも文句を言わないことである。10人以上の異分野のものが集まって、鳩首協議をしてもろくなものはできない。見ていないので確認はしていないが、再検討した案が格段に優れたものになったとは考えにくい。
第3は、急であったが川口、唐沢らと相談して、僕が総括となる場合での申請計画を構成したプロセスで心理学が環境学研究科に関わっていくスタンスというか方向性が見えたことである。「生物学的寿命を健やかにまっとうする」、「次世代に今以上の自然環境、社会環境を伝える」という2つのキーワードであれば、心理学は、個人、社会の単位でさまざまな研究計画を作れるし他の専攻の人達との連携が計れることが理解できた。これは収穫であった。機構改革の余波で、わが講座は急に情報をキーワードにすることから環境をキーワードにハンドルを切ることを2年前にやったが、そのときは正直に言って環境学研究科の盲腸的存在だなあと思っていたのだが。これからは表に出られるし、出なくてはなるまい。
2つのキーワードは最終の申請書にも基軸となるものとして記載されているが、他専攻の人には説明する機会がなかったので、十分判ってもらってはいないとは思う。今後の課題である。
僕が感じた消耗感は、かく左様に考えることにして拡散するしかない。
シンガポールでの学会出張から帰ったら唐沢さんが、どう言うだろう。多分、僕のポジティブ志向にはあきれてものが言えん、と言うのだろうなあ。
山が動いた
静止していると信じて疑わない山が移動するほどの,地滑り的選挙結果であることの単なるメタファで土井さんが始めて使ったことばとずっと信じてきた。10数年間信じてきた。昨夜,これは僕の勘違いであることを知った。土井たか子の知識構造とは違う文脈で理解していたことになる。情けない。
僕は寝る前と起きた後、何頁かは手当たり次第に本を読む癖がある。本を読むというのは正確でなく、活字を眺めるのだ。読んでいる本の題名も著者も定かでないこともある。活字を見ているといつの間にか入眠できる。死ぬときもかくありたいものと思っている。
今回は睡眠に入る直前で,ああそうだったのかと気が付いたので、いつものように入眠できなくて、寝そびれてしまった。ショックであったのだ。
「山が動いた」というのは,与謝野晶子があの平塚らいてうの女性解放誌「青鞜」という雑誌の創刊号に投稿した有名な詩の表題であるらしい。土井さんは女性として,格別の含意をこめてこの言葉を使ったに違いない。恥ずかしい気持ちになったのが寝そびれた原因なのだ。
読んでいた本は,大岡信の「人生の果樹園」という1993年刊のBookoffに100円で売っていたものである。朝日新聞に「折々の歌」を連載している当代随一の文章家の単行本を100円などで売るのだから世も末である。もっとも,買う方はありがたいが。
かくて,本を読んで知識を得ることを怠ってはいけないと改めて思い知った次第である。そうでないと,恥ずかしいことになるからだ。知識がなくて恥ずかしいという感覚がない人には無用の話であるが。この年になると知識がないのは恥ずかしいのである。