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高校での講義

福井県立高校で心理学とは何かについての授業をした。これは、高校の進路指導の一貫と言うことで、2年生に大学でのいろいろな学部についてのイメージを与えるという趣旨のものである。まことに結構なことだと、「国文学」がテーマの学部長と「心理学」がテーマの僕とで出かけた。内実は、この種のことを他の忙しい先生方に依頼するのは如何なものか、執行部でかぶりましょうということでもあった。
大したことでもないと思っていったが、実はそうでなかった。
その第1は50分で授業というのは大変難しいということを知った。時間配分がままならないのである。「現代心理学は心のケア風の臨床心理学だけではない」、「名大の心理学研究者の学部別構成の特徴」、「情報行動論の構成」、「その他の大学での心理学研究」、「実際に大学で、あるいは自分がやっている研究の具体例」、「心理学を学ぶのに必要な心構え」などなど、言いたいことがたくさんあるのをどのように凝縮するかは実に難しかった。「情報文化学部の構成」など言い忘れたことも多い。そのうち生徒らが感想を教えてくれるのであろうが、笑いをとろうとそれなりにあがきもしたが、評価に自信はないのが正直なところである。教育実習では授業計画案を作成させるが意味のあることだと今頃判った次第である。
第2は高校2年生はずいぶん幼い印象でとまどってしまったということがある。純朴な地方都市の高校生だからかも知れない。大学の講義では、このおっさんの言うこと聞いておくか、という雰囲気なので、適当に冗談など交えて客をいらう(翻訳しにくい大阪弁)のは難しくないが、真面目な目でじっと聞こうとしている対象を相手には冗談も言いにくかった。真面目すぎる相手を扱うには新しい工夫が必要に思えた(真面目すぎる女性に言い寄られた経験のないことが災いしているのかも知れない)。
このように、不完全燃焼気味の時間を過ごすと疲労感は強い。運悪いことに、帰りの特急はグリーンを含めて指定席皆無、自由席はぎゅうぎゅう詰めで2時間程立ちっぱなしであった。かくて、疲労感は倍増。まあ、これも管理職手当の一部かと納得しつつ、新しい経験には新しく学ぶべきことが多い、未熟者であることを自覚させられたという次第である。次回があれば捲土重来を期したいものである。

研究指導とアカハラ

 学生に研究を指導することは実に難しい。昔から大学院レベルだけでも指導教官と学生の間がややこしくなって、というたぐいの話に事欠くことはなかった。前任校ではその種のトラブルが教官同士にまで拡大し、裁判沙汰にまでなったことがある。裁判記録(実際は裁判にはならなかったが)に当時教室主任であった僕の名前まで載っている。
 名大でも今日のように大学院生が急増すると、教官と学生の間のトラブルは必然的に多くなる。実際、増えているようである。難民などと称しているが、別な指導者を探索している学生を見かける。若い時期は短いのでこの種の時間が長期化するのは双方ともに不幸なことで、個人レベルだけでなく、社会的にも損失が大きい。
ア カハラに分類されるトラブルの原因は双方にあるというのがおそらくは正確であろう。教官の要因には、学生の能力レベルが低く期待することができないという不満が大方のようである。これこれの論文をまとめて読め、データを集めたのだからすぐに分析せよ、分析結果があるのだから論文にしろなど、教官の期待や要求に迅速に対応できないことへの不満である。自戒を込めてであるが、とくに教官が若い場合には要求はきつくなる。自分は同じことを長くやってきているのだから理解が深くて当然であり、学生はこれから学習していくのだということに思いが至らない。昔の自分はどうであったかを振り返っても、ネガティブな記憶は変容しているか抑圧されているので気がつきにくい。来てくれた学生に合わせて指導という風には、思いは心の隅にあっても、なかなかそうはいかないものである。逆に学生側からは、教官が十分にケアしてくれない、自由にやらせてくれない、自分を認めてくれないなどの要因が主なものであろう。客数が増えれば必然的に自分に配分される役者の流し目は減るので、望んでも仕方がない。自由にやらせてくれない(自分の研究テーマを押しつける、自分流の考えを押しつける)という不満もあるようだが、これも教官側の研究スタイルなので仕方があるまい(もっとも客が来なくなれば困るはずであるが)。客の要求に併せて商売の種類まで変えるわけにもいくまい(中には出し物を多数持っている教官もいるかも知れないが)。自分を認めてくれないという不満は教官側の要求水準との不一致でしかない(前述のように客の層に併せて出し物を変えるというまでに至らない役者もいる)。
 結論的には客である学生の方で、教官の研究テーマ(出し物)、研究スタイル(指導法)、学生への要求水準(客層のえり好み)をしっかり見極めることしかあるまい。それと、いったん切符を買って入場したが、これは違うと思ったら、日暮れまでに残された時間は短いのだから、早めに退場して、別のところに入場することである。
 もっとも、途中退場すると役者の方から恨まれるなどと斟酌する向きもあるかも知れないが、役者も毎年別な客が入場するので、大して気にはしないものである。少なくとも、役者の端くれである私はそうである。途中入場も一向に気にしない。

同時多発テロ事件、そのとき

大きな事件があると、そのとき自分は何をしていたのかに付随する記憶が生じる。神戸沖で起きた阪神大震災の早暁、自分はトイレの中にいて戸棚から皿が飛び出し割れる音を聞いていたと記憶している。しかし、この種のエピソードも長い時間の間にはゆがむといわれるので、備忘録的な意味で9月11日夜10時頃に米国で起きた同時多発テロ事件にまつわる出来事をメモっておこう。識者が盛んに指摘するようにこの事件は世界史に大きな転換をもたらすかもしれないからである。
大勢の人がちょうど始まったニュースステーションを見ていて云々と言うが、自分は寝ていて朝まで事件を知らなかった。6時頃珍しく家内に「大事件が起きている」と起こされたのである(家内は2時頃までテレビに釘付け状態であったようである)。10日夜には木暮君の送別会があり、台風が襲来していたので研究室で10時半頃就寝。翌朝6時50分の新幹線に飛び乗り、自宅にいったん戻って風呂に入り、9時前に近所の看護学校でD-CATの再検査信頼性検討のためのデータ取りをした。自宅に戻って昼食後、再度大学に戻り、4時からの将来構想委員会に出席した。委員会はかなりもめて、久しぶりに興奮気味で7時半頃帰路についた。つまり、この日は新幹線に3回乗ったことになる。11日の朝に起きにくかったのもこのためである。
名古屋に向かう新幹線の京都駅ホームで、並んで待っていると、待合室に2歳ぐらいの男の子を連れた母親がいた。しばらくすると「キイェー」と妙な音がした(人間の声とは思えなかった)。男の子が待合室の自動ドアと硝子の壁に挟まれていたのである。幸い子どもは怪我もなかった様子であったが、このとき「世の中何が起こるか判ったものじゃないなあ」と強く感じたのを覚えている。
12日の朝テレビで知った同時多発テロ事件でも「世の中何が起こるか判ったものじゃないなあ」と再度感じた。映画を見ているようで、報道にも臨場感はなかった。あまり強い感情が生起しなかったように思う。
この事件のおかげで、12日の神経心理学会評議員会で招待講演の先生が来日できないことを知り、事件はわれわれにも影響することを知った。
ところでこの記事は当分読み直さないようにしようと思う。自分の記憶の変容を数年後に検討するためである。

スコットランドでの出来事

どこかの大学の観光学の教授が、日本人の旅行は確認型で(つまり、雑誌や本で見た名所を訪れ、やっぱり写真どおりだと確認する)、欧米の、旅行の歴史が古い国民の旅はエピソード発見型であると言っているのをテレビで見た。日常性を離れ、何かふだん出会えない出来事に遭うことを楽しみに旅をするのだという。この夏の私の旅はまさに欧米型であった。
8月末、久しぶりにスコットランドを旅した。ここ数年はアイルランドに出かけることが多かったのだが、シングルモルトの醸造所を訪ねてみたかったのである。この旅で大きな忘れ物事件を起こしてしまった。Edinburghを抜けてAberdeenへ行く行程であった。そのまま行けば問題は生じなかったのであるが,最短距離ではなく,緑の多い山側の道を選択したのであった。確かに綺麗なスコットランドらしい風景を楽しんだ。途中でPitlochryという観光地に12時前に到着。このままでは2時には大学につけないが3時ごろにはいけるであろうということであったのだが,昼飯を食べに入ったレストランが混んできて,結局1時間半近く昼飯にかかってしまった。
この後,スコットランドで最小の醸造所に行く。この時点では3時ごろに到着ならいいかと,思っていた。比較的まあいいか風に考えていたのであった。しかし,実際にはそれから先が山の中の速度を出せない狭い道であり,大きな幹線道路に出るのにずいぶんかかることが判明するに至ってあせってしまった。2時半ごろになり、遅れるという電話をしなければということで公衆電話を探すが,山道を走れど走れどなかなかみつからないのである。やっと1台見つけたのは故障。電話のありかを聞くのに2から3回とまる始末。ようやくRuvernという村のはずれで1台見つけて電話。1時間遅れることの承認をとった(実際は2時間待たせた)。少し気持ちに余裕が出た感じがしないでもなかったが,その後渋滞気味の道路をいらいらしてやっと,大学に。そこから電話してVernetti先生を訪問。前にMontrealで出会った院生も待っていてくれた。恐縮する。彼女はイタリアのパドバ大学でDel-Antonio教授の弟子であることが判明。世間は狭い。もっとも僕がパドバ大学で講演した1978年には彼女は入学前であったそうな。教授の弟は有名なテロリストで、獄中にいるとか。作業記憶で著書のあるLogie教授にも会う。
 この後が大変なのである。部屋にもどり,皆と食事にと考えたころに赤色のポーチ(共通財布)がないことに気づく。どうやら電話boxに置き忘れたらしい。財布をおいて小銭を出し、その上に電話番号のプリントした紙をおいて電話をかけ、紙だけもって出たらしい。財布には10万円ほど入っている。パスポートや帰りの切符は別にしてあるので放念するかどうか迷ったが,村はずれの、人が使わなさそうなboxであった気がしたので,戻って探すことに。岩原君が飛ばしてくれたおかげで,1時間ほどで問題のboxを発見。しかし,赤色のポーチはなかった。150kmの距離を戻っての探索である。Boxの前の民家になかったかということで聞いたが,当然知らないということ。もう一つ前の故障していた小学校前のところかも、ということで10kmほど戻ってその電話boxにも行ったがない。荷物置き台の高さの記憶から先に探索した赤色のboxに相違ない。
 一応警察に届けておきたいということで,宿舎に戻ることにする。途中,かなり飛ばしていた。するとすれ違ったパトカーに岩原運転手が気づく。Uターンしている。スピード違反でやられた,と一瞬顔色が変わる。案の定パトカーは追いついてきて停車命令。ところが出て行くと若い警官は先ほど大金を置き忘れたという通報を受けたので君らかという。ほっとして,連絡先や,内容物はお金,crossのボールペン,昔,ブラジル人の留学生Terezaが餞別にくれた英国製の皮ケース入り櫛であることを知らせ、名刺を渡して連絡を待つことに。村の人が見つければ知らせるであろうという警官の希望的観測に,それほど真剣ではないにしても安心。
 というような忘れ物事件があったのである。帰国後2週間たったが、連絡はない。ぼくは傘や万年筆を忘れるような経験が今までほとんどないので、老化したのかと一時期は自尊心を喪失気味であった。しかしである。僕たちは欧米型の旅をしたのであり、実際ふだん出会えない出来事を経験したのだからいいじゃないかと思うことにした。お金は出てきても出てこなくても、そんなことはどうでもよいのだ。これは必ずしも負け惜しみではないのだ。

八雲町検診と老性自覚

 8月3日から5日まで北海道八雲町で行われた町民検診に参加した。何でも20年続いている検診らしい。明治初期に尾張藩下級武士らが移住した八雲町は名古屋とつながりが深く、名大医学部が関係しているのである。検診は3日間で千名規模の大がかりなものであり、朝から8時間のスケジュールで名大、藤田保健衛生大を中心とする41名の検診団が八雲町の職員の補助を得て行った。7時40分にホテルにバスが迎えに来て18時過ぎに帰るハードなもので、認知機能班5名は昼食20分程度の休み以外はトイレに行くこともできなかった。話せば長くなりややこしいのではしょるが、認知機能班は急に総括者に相談せずに加わったひんしゅくグループなのである。もともと、5分程度しか時間を割いてもらえなかったところに7種類のデータをとる算段をした(この種の厚かましさは僕のスタイルで欲張りなのである)ので一人当たり15分ほどかかり、大停滞を作り出した。全体の総括者は不愉快であっただろうが、せっかくの機会なのでわがままを押し通してしまった。この報いはたくさんの業績を作ることを当然視されることや、来年の認知機能班の検査様態の見直しに跳ね返るはずであるが、それはそのときのことである。ともかく、5年は続けるようにという総括者の意向を了解することで今回は済みそうである。
 数週間前に実施した岩倉市での経験もあり、さすがに木暮、渡辺、伊藤(恵)伊藤(保)らの高齢院生は60から80代の老年者を対象に上手に検査をこなした。すべての院生にもこの種の経験をさせた方が望ましいと痛感したことを記しておきたい。なぜなら、個人実験の被験者を自分でリクルートする必要もあり、心理学を専攻する院生であれば、さまざまな種類の人間とコミュニケーションがとれる訓練が要ると考えるからである。
 検診の話が長くなったが、今回は自らの老性を自覚することが多かった。その第1は忘れ物をしたことである。8月1日は来客もありバタバタして落ち着きなく帰宅。8月2日の朝6時55分の電車で名古屋空港へ向かったのである(9時10分集合であった)。前夜帰宅が遅かったので4時起床。荷造りと少し仕事をして家を6時40分に出た。車で5分ほど走ったときに髭をそり忘れているのに気づいた。数分後にはパソコンの電源コードを忘れたこと、携帯電話を忘れたことに気づいた(物忘れ検査をしに行くのに自分で物忘れをするとは!)。パソコンはホテルで仕事をするつもりであったが、一度もそのような機会はなかった。毎夕、歓迎会、送別会、温泉ツアー、ホテルでの2次会とイベントがあったためである。睡眠不足は避けられなかった。
 第2は、身体が疲れやすくなったことである。僕は実はバテバテであった。われわれのグループは1泊温泉で遊んだ。帰路、千歳空港で測った血圧は、遊んで休息したはずなのに168-110というものであった。北海道で2度倒れるのは避けなければならない。
 来年はあまり働かないようにしようと老性自覚と身の処し方を学んだ次第であった。

Bar ラジオ

 こんな表題を出されても大方の人には何のことかわからないであろう。Barの名前である。酒場の固有名詞である。以前に大阪の「吉田Bar」の名前とともに目にしたことはあるが、最近になって岩原君から何度も記憶を喚起させられていたものである。彼にいわせると日本で一番有名なBarということになる。「吉田Bar」の主人は最近無くなったことが新聞に出ていたので、彼のいうこともウソではないのかも知れない。
 「Barラジオ」は青山3丁目にある。8月13日と14日に彼と青山学院大学であったことば工学研究会に出た。ついでに行こうということになった。そのために宿は道向かいの子どもの城にとった(11時門限なので注意)。研究会の懇親会が終わった9時半から夜の青山通りを13日は酷暑と言うしかない猛烈な暑さであったが歩いた。金曜日の夜ということもあり大変な人出である。東京は人が多い。岩原君に言わせると着飾ったブスがやたら多いということになる(差別発言は僕がしたのではない)。
 電話で場所を確認し、15分ほど歩いてたどり着くと満席ですと断られてしまった。せっかく来たのだからということで、外で15分ほど待った。懇親会の酔いもあったのだが、その間に2回空席を確認に地下にあるBarまで行くという熱心さである。
 蝶ネクタイの若いバーテンが外まで空席ができたことを知らせに来てくれたので地下2階にある(ように思えた)Barまで進む。雰囲気は一言、重厚、格式高い感じである。カウンターは10席ほど、テーブルが6席ほどでそれ程広くない。天井までの棚には酒瓶と上等そうなグラスが並んでいる。
 カウンターに陣取ったわれわれはまず、ジントニックとXYZというカクテルを注文した(隣には気取ったおじさんが一人、ウイスキーと氷水を前にしてじっと前を見ていた。気障を地でいく御仁であった)。ナインティナインの岡村が60過ぎになったような蝶ネクタイの物静かなおじさんが僕にジントニックを優雅な仕草で、差し出した。量は少なめであったが、まろやかな味である。僕がトニックウオーターは何かを聞くと自宅でも飲んでいるシュウェップスという。腑に落ちない顔に気づいたのかそれに炭酸を混ぜていますということであった。岩原君のカクテルも味見をしたがアルコールの味が微妙に隠され、まろやかさが際だつ感じがした。この後で飲んだマティニも、何とかインディゴにも同じ感想を持った(味を文章表現するだけの文才はない。開高健ならどう表現するのであろうかねえ)。
 われわれ二人が、棚に並んでいるシングルモルトを調べたり、バカラのグラスを賞味しているのを見て怪しい2人組と思われたのか、われわれの飲み物はすべて岡村爺さんが作ってくれた。得体の知れない2人組は資本を出す八田おやじと店を開く予定の岩原バーテンの組み合わせと感じたに相違ないと帰路お互いがうなずきあったのであった。ちなみにこの人こそが有名な「Barラジオ」のオザキさんなのである。カウンターにカクテルの豪華本が2冊あったがこの本の著者なのである。他の客の飲み物は3人ほどいる若いバーテンが作っていたので岩原君は後からやたら感激していた。何でも彼によれば日本中のバーテンのあこがれの人ということであるから、きっと名古屋のバーに行っては自慢するに違いない。
 合計5杯の飲み物と突き出し2皿でしめてお代は13000円也。ちょっと高いが仕方がないかと納得できるBarであった。誰か行きたい人がいたら案内しますので、おごって下さい。

ネコの死

6月15日(金曜)夕刻,愛猫(アイ又は愛)が死亡した。とうとう死んでしまったというところである。6月11日(月曜)に壊死していた左右下肢のうちの左側がちぎれ,3本足のネコ状態であったのだが,折れた箇所をきれいにして肉をまく手術を15日の午後からしたのである。アイは麻酔から覚めることなく,心停止となり8時前に駆けつけた家内の腕のなかで死亡した(このことに彼女はこだわっていた)。この日は獣医まで2往復したのである。
アイは(愛仁会に捨てられていた2匹のうち雄は仁という名前が付いていた。雌ネコの方をもらったので,愛という方が正確であるのだが,愛が死んだというのもなんとなく変なのでアイなのである),2月に両下肢が血栓により麻痺してしまったのである。急に両足を引きずるようになったので獣医に行くと,先天的に心臓奇形があり,それが原因ということであった。入院したが改善の兆しがなく,安楽死を勧められた。自宅にともかく連れてかえってということにしたら元気になり,壊死した足に家内が作った靴下を履いて,こつこつ音を立てて上手に歩くようになったのである。獣医は奇跡的ということで(獣医にも始めての病気ということで)ビデオに撮影もしたらしい。
家内の献身的な介護で(血液を凝固させない薬をのませたり,栄養食を食べさせたり)5月頃は庭から抜け出して隣の家にまで出かけるほどであった。しかし,脚の壊死部分と健常箇所の接合部の治療は毎日であり,大変であった。僕がいないときは往診をしてもらうのである。家内は親の介護は免れているけれどもネコの介護をやっているということで満足げでもあった。
アイは翌朝でも死後硬直がなく,柔らかいままであったが,渋る家内を急かせて5月16日(土曜)の朝5時から掘った庭の隅の穴に埋めた。先代のミャーというネコの墓の隣である。
アイは3本脚になる1週間ほど前からしきりにまとわりつくようになり,座っていると膝のなかに何度押しやっても座りたがった。3本脚になってもあぐらをかいた膝に乗ってきた。障害のあったネコで(最近まで知らなかったのだが)おとなしく,そっけないネコでそれまでにはあまりしなかった所作で,今から思うと,何かをアイは感知していたのかも知れない。
家内はさんざん泣いたりしたので,20年ぶりにイヌもネコもいないから寂しいとは言っているものの以外とさばさばしているように見える。日曜には姉たちと母親の50回忌に鳴門市まで出かけていった。
僕は,早朝からの墓穴掘りや墓標づくりでノコギリを引いたための腰痛,筋肉痛と土曜日,日曜日と助産専門学校の研究指導や授業の疲労で,寂しさに浸る暇もない。明日からモントリオールへ一人で行くのでゆっくりと家内に邪魔をされずに喪失の悲哀が味わえるはずである。

付属池田小事件

6月8日の午前中であったので,付属池田小での8名の児童刺殺事件からほぼ1週間が経過した。大きな,それこそわが国の義務教育の歴史に例を見ない大きな事件であり,いまだにワイドショウでは事件の詳報を伝えている。
事件そのものの残虐性や悲惨さについては議論の余地はないが,僕がこの事件の報道を通じて関心を持ったのはこの種の,それこそ「不条理」に遭遇したときの人間の対応の仕方である。
付属池田小は前任校の付属施設であるので,教育実習の際には何度も訪問したことがあり,テレビで流させる画像も当時とほとんど差異はない。もっとも,大学の池田分校の建物は取り壊され更地になっているはずである。まだ,更地になっている校舎の跡地を見に行ってはいないのは,山頭火の句にある「生まれた家は跡形もない,蛍(ほうたる)」などという心境を拒否する気持ちが内在しているのかも知れない。
テレビに写る校長の山根さんは,よくソフトボールをやった教育学の先生で,ある。左ききの投手でくせのあるボールを投げる人であった。彼のせいで心理学教室は教育学教室に連敗していた。
付属小学校の校長といっても実際は職員朝礼に出る程度の名目的な役職であり,実際は副校長が職務をやるようになっている。しかし,山根さんはたまたま自分が校長をしている2年ほどの期間に出くわした「不条理」にも関わらず,真摯に役割を受け止めているように感じられた。憔悴した様子で,ことばを選んで話す様子はたいていの視聴者の好感を得ているように思えた。彼は晩婚であったので子どもがあるいは被害者と似た年齢で,被害者の親の気持ちにも理解が容易であったにちがいない。この種のインタビューでは視聴者のひんしゅくをかうようなケースが少なくないのだが,校長がことばを扱う専門家でよかったと,もう所属が違うので他人事なのだがほっとする。
一方,刺殺された女の子の親が,救急車で病院に搬送されたときに教師が付き添わなかったことを問題にし,事件が起きた前後の付属小の教師全員の行動記録を文書で提出するよう求めているという大きな記事が出ていた。「不条理」を自らに課された試練として受け止めることができず,やるせない気持ちを外にぶつけたい気持ちは分からないではないが,いただけない。ごった返しているはずの学校現場にそのような要求をして何が得られるというのだろうか。
生きていくということは「不条理」との遭遇であると考えると,そのときにどの様に対処できるかで人となりが明らかになるのだと思わざるを得ない。

動物病院から

 愛猫「アイ」の病状はここ1ヶ月ほど大きな変化はない。3日に1回のペースでの往診(都合がつくときは通院)してもらい、後ろ足の包帯を代えるなど、手当をしてもらうらしい。らしいというのは、往診のときはいないからで当然だが、通院のときは待合室にしかいないためである(診察室が狭いので大人が何人も入れない)。時々、ぎゃーと「アイ」がふだん聞いたこともない恐ろしい声をあげ、家内や医者がネコに話しかける声が聞くだけである。処置に痛みが伴うのであろう、「アイ」は、自宅では運搬用のBOXに入るのを嫌がるが、病院ではさっさと自分から入る。オペラント条件付けが成立しているのである。
 「アイ」は先天性心臓奇形がもとで両下肢の血管が詰まり、筋肉はミイラ化しているが、神経はつながっているのと、かなりの期間、血管拡張剤などを点滴したおかげで動かすことはできる。今は、家内に作ってもらった靴下様のものを両下肢に付けて比較的元気に歩き回っている。しかし、こつこつと足音をたてて歩き回るので、猫らしくはない。血管拡張剤を入れて餌を無理矢理食べさせるのは、家内の最近の仕事である。
 「アイ」のために動物病院に頻繁に通うので、新しい知識を得ることもある。今日はそのことを記しておく。先日、動物病院の入り口で段ボール箱を抱えて涙を流しながら出てくる姉妹を見かけた。ペットが死んだに違いないことは判ったが、聞くとイヌが日射病で死んだということであった。イヌが日射病で死ぬとは、始めて聞くことであった。以前飼っていた「チャピイー」などは夏の日差しの強い午後でも平気で走り回っていたような気がする。
 もう一件は、イヌのやけどである。イヌを風呂で洗ってあげたら、嘔吐をするようになったということであった。病院ではイヌは風呂程度の温度のお湯でもやけどをするそうである。知らなかったことであり、「チャピイー」など、何度もわざわざお湯を準備して洗ったものである。雑種のイヌは強いということかも知れない(たぶん、人間もそうである)。ちなみに上記の2件はともにシーズー犬である。

年度末だから吐き出そう(01/4/6)

異常ともいえるほどの忙しい年度末であった。もう新年度が始まりつつあり、数日後には入学式、授業開始である。春休みの気分を味わうこともなく、気分転換の息抜きをする暇もなく時間が移ってしまうという気分だ。せめて新たな気持ちで新しい学生を受け入れるために、こころの奥底に沈殿している面白くないことを吐き出しておこう。もうエネルギーの無駄な放出をしたくないので穏やかな中年おじさんを装っているが、気に入らないことはいくつもあるのだ。その最初は、学生が期待しているようには業績を上げなかったことである。自分はどうであったのかはさておいて、勉学に必死にひたむきにという様には思えなかった。昼間は被験者を引き込んで実験三昧な様子なのに、いつ書いたのか論文の下書きをつぎつぎ持ってくるなどというのであれば、気に入らないと言うことは決してなかったはずである。
第2は合格判定を出したのに入学辞退した受験生の件。本人の希望で、受験前に送付してきた3年次のレポートや卒論の下書きなどをもとに夏休み中に時間を割いて今後の研究計画の話をしたことのあるこの学生は入学を辞退しそのまま進学するらしい。僕には他は受験しないと言っていた(試験面接でもそう言っていた)ので、うそを言われたことになる(この学生のために不合格にした受験生もいた)。その後の事情で気持ちを変えることもあり得るし、辞退するのも本人の自由であるが、いまだに何の連絡もないのは礼儀というものをわきまえない仕儀である。今後はこの学部からの受験生には指導教官から一札ないと入学させないとまでは言わないがノ.指導教官がこの間の事情を知っているのか不明であるが、教官からも何も連絡はない。第3はこの指導教官に対するものである。実は今年の始め某氏を教官公募に応募させた。玄関公募(形だけつくろう公募:こんなことをやっていること自体どうかと思うが、よそのことである)でないと言われるので応募を勧めた。いい方を紹介下さいましたとお礼を言われたのだが、その後連絡はない。もちろん僕が推薦する某氏が採用されなかったのがけしからんと言うのではない。通常は残念ながらご期待に添えませんでしたくらい言ってくれてもよいのにという思いはある(これこれの選考過程があったのです、までは言わなくてもよいが)。水くさいやっちゃというところ。もっとも僕の推薦した人とは別人が着任のあいさつに来てくれたのは数日前なので、近日中に連絡があるかも知れない。
第4はと、まだいくつか残っているような気がするが、右手が腱鞘炎気味なのでもう止めておこう。幾分すっきりしたので、新学期に耐えられそうな気になってきた。

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