付属池田小事件 | はったブログ

付属池田小事件

6月8日の午前中であったので,付属池田小での8名の児童刺殺事件からほぼ1週間が経過した。大きな,それこそわが国の義務教育の歴史に例を見ない大きな事件であり,いまだにワイドショウでは事件の詳報を伝えている。
事件そのものの残虐性や悲惨さについては議論の余地はないが,僕がこの事件の報道を通じて関心を持ったのはこの種の,それこそ「不条理」に遭遇したときの人間の対応の仕方である。
付属池田小は前任校の付属施設であるので,教育実習の際には何度も訪問したことがあり,テレビで流させる画像も当時とほとんど差異はない。もっとも,大学の池田分校の建物は取り壊され更地になっているはずである。まだ,更地になっている校舎の跡地を見に行ってはいないのは,山頭火の句にある「生まれた家は跡形もない,蛍(ほうたる)」などという心境を拒否する気持ちが内在しているのかも知れない。
テレビに写る校長の山根さんは,よくソフトボールをやった教育学の先生で,ある。左ききの投手でくせのあるボールを投げる人であった。彼のせいで心理学教室は教育学教室に連敗していた。
付属小学校の校長といっても実際は職員朝礼に出る程度の名目的な役職であり,実際は副校長が職務をやるようになっている。しかし,山根さんはたまたま自分が校長をしている2年ほどの期間に出くわした「不条理」にも関わらず,真摯に役割を受け止めているように感じられた。憔悴した様子で,ことばを選んで話す様子はたいていの視聴者の好感を得ているように思えた。彼は晩婚であったので子どもがあるいは被害者と似た年齢で,被害者の親の気持ちにも理解が容易であったにちがいない。この種のインタビューでは視聴者のひんしゅくをかうようなケースが少なくないのだが,校長がことばを扱う専門家でよかったと,もう所属が違うので他人事なのだがほっとする。
一方,刺殺された女の子の親が,救急車で病院に搬送されたときに教師が付き添わなかったことを問題にし,事件が起きた前後の付属小の教師全員の行動記録を文書で提出するよう求めているという大きな記事が出ていた。「不条理」を自らに課された試練として受け止めることができず,やるせない気持ちを外にぶつけたい気持ちは分からないではないが,いただけない。ごった返しているはずの学校現場にそのような要求をして何が得られるというのだろうか。
生きていくということは「不条理」との遭遇であると考えると,そのときにどの様に対処できるかで人となりが明らかになるのだと思わざるを得ない。