はったブログ -7ページ目

ワクチンを打ちました

  月曜日(7/12)の朝に2回目のワクチンを摂取した。初回にワクチンを打った時は3時間後から注射を打った腕に張りがでて、腕が上がらない状態が20時間程続いた。同僚の医者は腕の筋肉にT型細胞が何とかで、薬が効いている証拠と慰めてくれた。

2回目も同様に3-4時間後から腕に張りが感じられ、先回よりも程度は弱かったが30時間程持続した。翌日は副反応を予想して年休を取ってあった。朝の8時に熱を測ると36度8分で、微熱だと思っていたら昼頃には37度3分までになった。体がやや重いように感じられたが、準備してあった解熱剤を飲む程ではなかった。9時過ぎからNHKで始まった大リーグのホームランダービーを見て過ごせた。年休を取っておいて良かったと思っていたが、大谷が優勝する歴史的瞬間を見られるかもと言う期待は外れた。アメリカ人は面白いと思えることは実行に移す特技があるようで、日本では、本来ヒマ人(非労働者階級:貴族)の時間潰しの遊び事であるスポーツを「**道」としたがるので、MLBのような砕けた形でのホームランダービーなどと言う発想は生まれないなあ、と感心した次第。

  微熱は夕方4時過ぎから下がり始めたが(ボーとした感じが体から抜け出した)、寝る前は36度6分で、完全に下がったわけではなかったが、副反応は治ったようである。副反応は年齢が若いと出る確率が高いという事なので、副反応は若いという証明が得られたのだと、都合よく考えるようにしたい。

 

  僕の場合はかかりつけ医でワクチンを打つことができたが、世間では接種状況がバラバラで姦しいことである。勤務先は職域接種に手を挙げたが、実施がいつになるのか不明なままである。勤務先の大学には6名の医師、8名の歯科医師がいるので、実施希望と手を挙げよと本部の方からは要請があった。医師でも臨床に携わる人は2名であとは注射など10年以上していないという人も多く、医療の経験がない事務職員が通常の仕事を中断して4-5週間もワクチン接種に関わるのには無理があるのではないかと、危惧を述べていたが、押し切られて申請を行ったわけである。文科省からは7月末からの接種という話であったが、次の連絡では8月9日以降と修正が知らされてきた。メディア情報では職域接種の規模削減とかワクチンが足りないとかで、本学園での接種がいつになるのか決まらない。日時が決まらないことには担当する医師や看護師、職員の日程調整や配置が設定できない、宙ぶらりんで夏休み以降になりそうな気配である。8月9日以降と連絡が来たので、8月9日からの接種開始という情報を大学HPにあげるという決済には不可を出し、法人のHPだけにしてもらった。保護者からは「職域での接種はあるのか」の問い合わせ電話があるので、不十分な情報提供で「自治体の方が早かったのに」の苦情を避ける必要があるのだ。気の毒なことに、苦情電話で対応するのはいつもヒラ職員なので、少しでもリスクは少なくせねばならない。上層部は世間受けの良さそうなことは「やれやれ」と言い立てるが、その負の部分は見ようとしないのが常で、政府レベルでも同じ図式だろうなと想像している。

 

  この先オリンピックもやることはやるらしいので、終わればコロナ騒ぎでの今回の行政機関の不手際の原因は何かを確認し、次回のパンデミックに備えるしか、仕方なさそうである。ただ、企画の都合の良い面だけみて、具体的なプロセスのコストとベネフィットのバランスを考えることは避け、責任の所在を曖昧にして、という国民気質はなかなか変わらないのかもしれない。「行動変容」は心理学の得意分野のはずで、社会心理学者が頑張らねば!と言いたくなるが、その発想自体が責任を自分以外に押し付ける事なのだと言われそうなので、「言うのはやめて、反省」するしかない。

 

  2度目のワクチン接種からほぼ4時間が経過したが、まだ体温は36.5度で、平熱よりも0.3度高い。ウダウダと書いてはみたが、取り止めもないのは、まだ副反応が終了したわけではない証拠なのかも知れませぬ。

 

  今日は76歳の誕生日で、運転免許の書き換えのための高齢者講習(講義と実技:計2時間)の予約日であった。朝方夕立があり少し涼しかったので、自動車学校まで駅から20分歩いた。視野を計測したり、視力を計測したりして1時間、運転の実技1時間で、15年以上前の車で行われたが、検査に合格とか不合格ないという。30名弱の高齢男子ばかりの中で2時間過ごすと、日常の環境と違うので、どっと疲れた。自分が高齢者でないかのように錯覚して生きているのかも知れない。来週に警察に免許更新に行く予定はネットで取得済み(この予約はスマホでURLを使って行うようになっていた。イジメだな、と直感した)である。

松浦宏 先生の訃報から

 2日前に松浦宏先生(松浦さんと呼んだ方がしっくりくる)がホスピスに移るという知らせを聞いたばかりなのに、昨日亡くなられたという電話をもらった。数年前からパーキンソン病の症状が見られ、ドーパミンコントロール薬剤の進化は近年顕著なはずなのに手の震戦は顕著であった。僕の両親が同じ病気であった頃からずいぶん年月が経過しているのに、と思っていた。最後にお目にかかってから5-6年の歳月が経過している。最近の様子は知らなかったので、思いも掛けない訃報という印象が強い。

 

 松浦さんは話すテンポもゆっくりな穏やかな人柄で大教大を定年後、奈良の方の大学で教鞭を取り学校心理士の大阪支部長を長く務められた。大教大の卒業生で、阪大の大学院を経て大学に戻られたので、大教大歴は最長のはずである。

 

 松浦さんの訃報を契機に一気に僕の30歳頃の心理学教室のスタッフの面々が思い出された。回想法は加齢に伴う認知機能低下を鈍化すると聞くし、メモをしておこうと思う。昭和48年に大教大に助手として着任した頃(27歳)は、心理学教室は大世帯であった。年齢順に、前田三郎、後藤与一、倉智佐一、原谷達夫、田中敏隆、中西重美、松山安雄、北尾倫彦、松浦宏、小林芳郎、小野章夫、秋葉英則、工藤力、大日向重利、岩崎純子の大教室に16人目として加わったのだった(年齢順は確実ではないが、全員の氏名が思い出せた、エライ!)。初めから5人が教授で、秋葉先生、工藤先生、大日向先生が専任講師、残りが助教授、岩崎、八田が助手であった。

 

 昭和47年にあさま山荘事件があった頃なので大学紛争の燻りが残っているような時代である。大学紛争の結果であろう、民主的な教室運営に変わっていたこともあり、教員採用は公募、教室会議は人事を含めて助手も教授と同じ扱いをされていた。先任の秋葉、工藤、大日向の3名は公募で採用されていた。東京高等師範(茗渓会)と広島高等師範(尚志会)の間で、大教大は2学閥のせめぎ合いの場でもあったことは、前田、後藤、倉智先生らが順次定年退職され、その後釜人事の際に、学閥が顕在化するのが常であった。記録するのも憚れるようなレベルの行動が教員間で生じ、人事が始まると教室会議は長引き、先輩に飲みに連れて行かれて帰宅が遅くなるのが常であった。学閥の単語は、今ではほぼ死語だが、その実際を経験した事になる。

 

 運よく公募で採用された時の教室主任であった田中先生からは、次の人事は5年間ないので、助手で辛抱せよということであった。採用が決まったので面接に天王寺分校に来るようにと言われて、場所はどこですかと聞いた覚えがある(その時まで大教大の所在地を知らなかった)。失礼なことを聞いたものだ。その後、学生定員増や幼児教育学教室の設置などが続いたおかげで、助手生活は2年(正確には1年11ヶ月20日)で終えることとなった(教員数は学生定員により決まるのだ)。僕の場合は4月1日採用のはずが、大学紛争の余波で大学全体での教授会(当時は300人規模の全員教授会)が遅れ、4月10日採用となった(そのために大学院の授業料は払う羽目になった)。

 

 北尾倫彦、松浦宏、小林芳郎、小野章夫の4名は採用時の年齢、学位、大学院終了年齢、歴年齢が入り組んでおり、3-5年間には4つ空くのだが、誰が1番に教授になるかで大いに揉めたのを思い出す。詳しくは書かないが、会議で口角泡と飛ばす状態になっている場面でも松浦さんは控えめな人であった。人事は大ごとだと言うことだけは身に染みた。早く学位をとっておかねばと考えたきっかけであったことは確かである。

 

 教室員16名がいつも揉めていたわけではないことも記録しておかねばならない。18名が在籍する教育学教室の教員とのソフトボール試合は年に2回行われ、その時は一致協力して走り回っていたものだ。松浦さんは野球が上手であった。ユニフォームまで作っていたのだから、その盛り上がりは大したものであった。大抵は心理学教室が負けていた。4月と12月には教室員全員参加での宴会があり、カラオケのない時代なので一人一人歌うのであった。大勢の教員が集団で行動することの少なくなった昨今、懐かしく、良い時代に教員生活を送れたと思うことである。

 

 かく左様に、松浦さんの訃報から次々と記憶が蘇る。北尾先生と大日向先生を除いて全員が鬼籍に入ってしまわれた。ヒタヒタと順番が近づくのを意識せずには居れない。もっとも、蓮如の言う「万歳の人身を得たりということを聞かず、... 今に至りて、誰か100年の形態を保つべきや」は真理だと考えているので、不安や恐れを感じているわけではない。

 

 今朝もpoolに出かけ、20往復をすることはしたが、2年ほど前までと違い、半分は水中歩行であった。いつまでも同じように心身機能を維持できることはないという現実を実感したことである。

オリンピックとワクチン接種と菜園と

 コロナ感染状況は一向に改善する気配がなく、緊急事態宣言は5月12日から延長になった。北海道や広島、岡山にも適用するというニュースが報じられたり、政府原案であったものが専門家会議の意見でひっくり返ったと報じられたりで、コロナ対策の施策の一貫性のなさへの批判で賑わっている。加えて、オリンピックを開催すべきでないという報道も賑わいを見せている。

 米国のT V番組のためのオリンピックになってしまい、個人的にはアトランタ以降のオリンピックには関心がない。オリンピックに出たいとするアスリート達を応援する気持ちは失せている。彼らの一部に、アマチュアが自分の能力の極限を追求したいとして頑張っていた過去のオリンピック選手とは異質のものを感じてしまうからかもしれない。東京大会でも新種のスポーツもどきをオリンピック種目につぎつぎと組み入れて肥大化している。クーベルタンさんは現状をどう評価するのだろうか。関心が薄れているのでこれ以上触れたくないが、そろそろ、「今回の東京大会は、予期しないコロナ蔓延という災害のため中止する」、その理由は、「全ての人が平等に参加できる条件が満たせず、オリンピック憲章を遵守できないため」とするのがよかろう。「中止は賠償金が発生する」という意見もあるようだが、「自然災害が理由につき、賠償はしないし、今までに大会準備に要した費用もIOCに請求はしない」と言い張れば良い。この争いは、「憲章の遵守」を掲げ、公正で倫理的であることを世界に宣伝すれば良いだけで、勝つのではあるまいか。日本は金銭のことよりも倫理を優先する国という評価を受けるのが、先々諸外国の評価を高めることに繋がると考える。現在の金銭優先のオリンピックを本来の姿に戻した偉大な国という評価が生まれそうである。走り出した事業の推進に取り組んでいる個々の職員は作業の中止を求められるのはストレスだろう。「始めるよりもやめるのにエネルギーが必要」ということは真理なので、多分私見のようには推移しないだろうと思うけれども、「憲章の遵守」を掲げて止めるのが良いと思う(大阪人らしく、知らんけど)。

 

 オリンピックの開催にも大きく影響するはずのワクチン接種は、首相は7月中に65歳以上は終わらせると宣言したが、実態は10月末でも怪しい。早々と接種の登録のための番号が送られて、すぐにでも日程予約かと思いきや、やっと5月連休明けに予約作業が始まった。掛かり付けの医院には予約初日には200名ほどが行列し、警官が整理に出るという事態を招来したと医院のHPに記載されていた。私の掛かり付け医は2代目なのでのんびり経営しており、家に一番近いクリニックの繁盛具合とは格段に違うが、空いていることと医師が酒好きで血液検査の評価に酒飲みの好みを入れてくれるのが気に入っている。毎月血圧と血液さらさら化の薬をもらいに行くので、常連なのだ。「うちで打ちます」と言ってくれていたので、5/13に予約に家内と出掛けた。もう混雑はなく、スムースに予約は取れたが、8/2が第1回、8/23が第2回であった。「首相の嘘つき」とまでは思わないが、家内の知人は10月末ということで、まあ、早い方かと思っている。長く逢えていない孫とお盆休みには再会したいので、ワクチンを2回打ち終えていたらよかったが、1回目の効果の大なことを願うしかない。私には、他人よりも早くワクチンを打ちたいという気持ちはない。皆が打つならそうするし、間に合わなくて感染して儚くなったら、それも可という心境なので、予約に出掛けだけのことである。

 

 孫の単語が出ての連想だが、今年も家庭菜園はきゅうり、トマト、ゴーヤなど定番の野菜を4月8日に植えた。何時もよりかなり早かったのは、孫がベランダでキューリ苗を育てているのをT V電話で見せてくれ、急がねばと慌てて苗を買いに走ったのが理由である(ちなみに、孫の育てるキューリはその後の突風で折れて、やり直しているとのこと)。私の苗は、一向に大きくならなかったので案じていたが、10日ほど前から急に成長を始めた。現状は順調に生育している。「一定の温度になる時節が来ないと作物は育たない。慌てても意味がない」ことを再学習している。そんな当たり前のことを、つい忘れるのだ。「♪いつになっても、ダメなワターシね」というムード歌謡があったっけ。

コロナ感染拡大下の4月

 入学式は新入生を3グループに分け講堂に集め、30分程度の時間にした式典を実施できた。朝の10時から午後の4時前まで、芸能人のライブ公演のようだと自嘲しながら鼻炎の状態がすぐれない体調下でこなした。入学式は4月2日のことで、その時期はそれほどコロナ感染学生(家族)情報がなかったのに、授業が開始された4月8日頃からコロナ感染陽性とか濃厚接触特定などの情報が急に増え始めた。

 

 大阪での感染者が1000人を超える時期に比例するように学生にも感染者が出始めた。原因はやはり気の緩みと物事を自分に都合の良いように解釈する人間の特性にあるようだ。「アルコール抜きの誕生日のお祝いでケーキを食べた」ので、メディアで言われている注意事項(夜の歓迎会や飲み会は自粛)の定義に当てはまらないと思った、という学生もいた。マスクは何のためにするのかの本質的な意味を理解していない。ピアジェのいう形式的操作段階に認知機能は発達しておらず、具体的操作段階の思考様式なのだというと言い過ぎかな。急いで、学生あてに具体的に止めるべき行動を列挙して注意喚起を指示した事である。

 

 その後、T Vメディアではマスクなしで騒ぐ行儀の悪い若者の映像を盛んに流すようになったが、若者のマナーの悪いのは大人を見本に観察学習しているだけなのだろう。厚労省の役人も大阪市の職員も送別会や歓迎会は自粛せよという当事者らが自粛せずにクラスターが発生し、自粛要請違反が見つかるという体たらくでは、学生や一般の社会人がいうことを聞くはずもないのは自明である。50年前には地域社会が持っていた行動規制のルール(家の外での行儀)は、地域社会というものが胡散霧消してしまったので機能しなくなってしまった。昔の地域のルールも面倒な面もあった。物事には良い面と悪い面を併せ持つということであろう。

 

 大阪での患者の急増は変異株のためと言い訳しているが、保健所の検査体制がおっつかない、病床がない、医療崩壊がなどと騒ぐ知事の選挙母体が保健所や公立病院を統廃合し、税金の無駄を省いた、公務員を減らしたと勝ち誇っていたことの後遺症であろう。何が起きるかわからないと危機管理の制度設計を、現状の損得に走りがちな住民を説得して先を見越して準備しておくような政治家リーダーが欲しい。大地震に見舞われた直後、公共工事削減ということで、土木工事会社がなくなっていて復興工事に支障があったことから何も学べていないのだ。

 

 3度目の緊急事態宣言が出たので、授業体制はシミュレーションしてあった選択肢の一つから変更して対応することとなった。今回は学校への休業要請がない。全部リモート授業にして欲しいという学生も数名いて、対面授業を加味した新しい授業体制に理解をしてもらう必要があり、忙しいことであった。

 

 連休が始まって、久しぶりに家内の気に入っているへんこつな親父(50歳位?)がやっているパン屋(シトーレンがしっとりしていてうまい)に同行した。突然、親父が「オリンピックやめませんか、維新選挙で落としませんか、ひどいですよ、知事も市長も」と話しかけてきた。気の合う家内とひとしきり盛り上がるのを聞いていた。巷にオリンピックどこじゃないだろうと鬱積したものが充満しているのだ、と思ったことである。僕自身は、19歳の頃に経験した東京大会の記憶だけで十分で、開催時期・時間や競技種に開催国の都合も許さないオリンピックは不要と考えている。

 

 今月中にワクチン接種が叶うのだろうか、自分は状況に委ねるだけだと思いつつ、読書で時間を過ごせている。

老性を自覚

  歳をとったなあと感じ老性を自覚ことはずっと以前からあったので、70半ばとなって今更でもないのだが、それでも自分は毎日変わらずに生活できている(はず)と認識しているものだ。大抵の場合には、変わらずにできていることを、つまりPositiveな面に焦点を当て、逆の面には気づかないように適応メカニズムが働いている。しかし、この適応メカニズムでの閾値を超えるような事象が起きると、改めて歳をとったと自覚させられるのだ。最近2回も閾値を超えたのである。

 

  3月23日には卒業式を挙行した。コロナ感染状況は依然として収束の気配を見せないので、リモートでの卒業式という選択も議論したが、一生に一度の晴れ姿が映える状況を少々の危惧があっても、講堂に学生を集わせて実施しようと1月末には決めていた。幸い感染者が新たに出たという事もなく、好天の下で挙式できた。来賓を最小限にしたり、時間を短縮したり、1.2m以上離しての座席となるように学科ごとに半分に分けて午前と午後で2回同じ事をやった。式辞を2回読んだわけである。朝にモーニング服に着替え、昼ごはんを挟んで午後の式典が終わるまでそのままで過ごした。式典は30分ほどの時間に短縮しての2度公演というわけだが、終わるとドット疲れが襲ってきた。心底、疲れたと思ったのである。この予想以上の疲労感は、「歳を取ったな」という内なる囁きをもたらした。それでも、久しぶりに華やかな気持ちになったのを楽しんでか、和服姿の学生は4時過ぎまで写真を取り合ったり、談笑したりする姿があった。窓から学生らを眺めてリモートにしなくてよかったと思ったことである。

 

  金曜日の夜に、金融カード会社から本人を確認しての電話があった。家内から何度も電話があったが、内容は言わないと聞いていた電話である。請求書が送付してあるはずだが、入金がされていないと言う。PONTAカード利用での5,000円弱の支払い要求であった。確認するとガソリン代金ということであった。普段使わないカードだが、そういえば2月に1度だけスタンドで値引きになると知って使った記憶があるので、了解し、土曜日の銀行振り込みを約束した。電話の相手の口調は振り込み票を送ってあるはず、なぜ遅れるのか、というような感じの悪い対応で、明日振り込むと声を大きくしたのであった。電話でやりとりしている間にPONTAカードを作った記憶が蘇った。昨年夏に佐久市のガソリンスタンドで給油していると、アルバイトの高校生がカード作成を頼んできたのだ。作れば僕に現金1,000円をくれると言う。それじゃバイトの売上に協力するか、と作成した事を思い出した。しかし、カードは銀行口座と繋がっているものと思い込んでいた。あとで調べるとPONTAカードは使った金額の請求が来て振り込むというシステムである事、カード審査がないので若者が作りやすくなっているとあった。クレジットカードは銀行から自動的に引き落とされるものしか持っていないはずであった。しかし、利用後、請求書が来て振り込むというカードもあるのだ。カードで給油したら勝手に銀行口座から落ちるものだと思い込む固定観念が問題を招来したのだ。

 

  土曜日の朝、一番近いスーパーのATMから送金すべしと、家内から銀行のカードを預かって、ATMで実行しようとしたが、「窓口でしか扱えない」と表示が出て、振り込みできずに、記帳だけして帰宅した。家内は現金を引き出して送金すればよかったのにというので、再度出かけてATMにたどり着いたが、振り込みはできなかった。ATM単独の場所からは現金での取り扱いは不可というのを戻ってネットで調べて知った。家内は銀行カードが使えないはずなはないと言い張り、険悪な雰囲気になったのだが、その時、カードの入れ方の間違いの可能性を指摘されたのだ。家内の持っている銀行カードは2種の方向で矢印がついている。それぞれ違う機能らしい。それではと再度スーパーのATMに行って家内にやってもらうと、問題なく振り込み送金できたのである。カードの差し込み方向に2通りあって機能が違うことは当たり前だと、いうので自分の銀行カードを調べると矢印は1方向である。2つの方向のカードは銀行カードもクレジットカードも1枚もなかった。

  最近の銀行はカードのいろいろ機能を付けて、預金高に応じたサービスをするようになっているらしい。家内から言われるまでもなく、カードは1つの矢印で使うものだという固定観念が1日に3回もスーパーに行く結果を産んだのである。「歳をとったなあ」と思い知らされた週末であった。

 

  来週の入学式は三密を避けるために午前1回、午後2回の3部公演で挙行する予定になっている。摂生して備えねばなりませぬ。

なんだ、そういう事か

 しばらく記事にするようなこともなく、毎日を過ごしていた。入学試験を何度か実施したり、毎日大量の決済印を押したり、広告費や奨学金を削減せよという、ここ数年来の理事長の指示への対応には追われていたが、記事にするほどのことでもない(学生募集の効率を上げるためには広告宣伝費を増やす、奨学金を潤沢にという方向性を考えるはずと思うのだが、逆のベクトルなので苦労するのだ)。

 

 昨日、記事にしておこうと思う事件が起きた。ちょっと大層だが、「なんだ、そういう事か」と思ったことがあった。4-5日前にメールが届いた。「先に送ったメールの件ですが、日程を調整したいという」ララという女性からのメールなので、怪しい系のメールだろうと放置してあった。ところが、総務に電話が入り、「学長宛にメールを送ったが返信がない」と言ってきたのだ。英語で電話が取れるスタッフがいたっけ?と訝しい思いでいたら、英語に堪能な派遣さんがいたのだ。

 

 それではと、先のメールというのが届いてないと伝え、改めて送ってきた文面をみると、N Yの歴史のある著名な雑誌からのインタビュー依頼状であることが判明した。曰く、「コロナ感染状況下で日本の高等教育は世界的観点からは優れて行われている。ついては、その一つである貴大学にzoomでインタビューしたいので都合の良い時間を1時間欲しい」と言う。参考資料として2021年にインタビューした人名リストが付けてあった。そこには安倍晋三を始め2人の元文科大臣、日本の著名大学の学長名が30名掲載されていた。そのリストに驚いてしまい、なぜ僕のところにメールしてきたのだろうと不思議ではあったが、コロナ下でも対面授業を工夫して継続したうちの大学のシステムに気づいて誰かが情報提供したのかも知れない、などと想像を逞しくした。御多分に洩れず、都合よく情報を解釈したのである。「そうであったらいいな」と考えてしまったのだ。著名大学の学長と同格に扱ってくれると言うのかい、と気分を良くしたことも否定しない。

 

 コロナ下での教育という話題となれば、関連する英単語は確認しておかねばと、変異株とか部屋の消毒の徹底などの英語表現をメモしておいたりして、約束の時間を待ったのだ。しばらくぶりに英語を話すのでやや緊張していた。時間前には3度もトイレに行った。インタビュアーは若い女性2名で(僕が見て若いということですけど)あった。

 

 Zoomでのインタビューは問題なく始まり、大学の歴史、学生の特性や育てたい学生像などの話や僕の専門やキャリアの確認などで40分以上が過ぎた。2時から始まったので3時には外出の予定があり、話をコロナ下での授業に移そうとすると、留学生に望むことは何か、などと聞いてくる。自分のところは、留学生は受け入れていないというと、今後の計画などを聞くのだ。台湾との交流を皮切りに始めつつあるなどの話をしていると、残り10分ほどのあたりで、本題らしく、1ページの価格と半ページの価格がいくらであるということであった。ここで、「なんだ、そういう事か」と理解した。大学案内を、インタビュー記事をもとに雑誌に掲載しないかというわけである。国際的に著名な雑誌であるだけあって、1ページの価格は3万ドル弱、半ページは2万ドル弱であった。数年前に同じような企画を文藝春秋が持ち込んできたときは1ページ30万円であったことを思い出し、価格はそんなものかも知れないと納得したが、うちの大学や僕には縁のない提案である。

初めから宣伝広告を出しませんかとは言ってこないわけで、それも了解できることでもあり、腹が立つということはなかったが、自分が良いように想像していた類の話ではなかったので、2-3日浮かれ気味であった自分が気恥ずかしくなった。

 

 若い女性2人を相手に60分タダでおしゃべりできたので、準備に費やしたエフォートは相殺することにしよう、と考えている次第。掲載料の話になったときに、「そんな高い費用は理事長決済になる、きっと無理だよ」と伝えたとき、「ケチでしっかりしているから」の英語表現が思いつかず、「greed」とう単語が浮かんで使ってしまった。申し訳ない。言い間違いの中に無意識に抑圧されていることが浮かび上がるという精神分析に考え方に僕は全面的に賛成しているわけではないと記しておこう。

 

コロナ禍でのクリスマスカード

 どの国でもコロナ感染状況が酷いので、例年よりも時間がかかるかも知れないと考え、昨年の12月7日にクリスマスカードを投函した。郵便局でも配達は遅れるかも知れませんと言われたが、せいぜい5-6日遅延するぐらいだろうと高を括っていた。ところが、すでに当方は12月中にカードを受け取っている英国の元同僚は1月12日に届いたとメールがきた。郵便物では6週間近くもかかったことになる。

 1977年に英国の大学寮に滞在し、家内やゼミ学生らと手紙をやり取りした頃でも1週間ほどで到着した記憶があるので、英国のコロナ状況は大変なのだと思ったことである。今も存在はするようだが、Air Letterと称するものがあった(Air letter: a letter that is sent by aircraft, usually consisting of a single very thin of paper that is fold and then struck at the edges to form its own envelop)。切手が印刷してある紙片で、折り畳むと封書になる。ハガキのよりは内容が秘匿できるし、すぐに投函できる便利なものである。

 Air Letterで記憶が検索されるのは、日本人が誰もいない学生寮にいた頃のことで、寮には夏休みに帰郷しない留学生のみが少数残っているだけであった。この留学生たちとは仲良くなり現在もカードのやり取りをしている人もいる。今では想像もできないことだろうが、航空券を購入した旅行代理店ではヒースローからどうやって(ウェールズの首都で30万都市の)Cardiffに行くのか説明できない、現地で聞いてくれというような、海外情報のない時代であった。ちなみにその時の往復の航空券代金は約60万円であったと記憶する。

 寮での夕食(教員らは集合して、寮長の後を鳥のように行列して講堂のような広い食堂の壇上に横並びで座り、学生に向かって食べるのだ。給仕が付いていた。僕も教員とみなされ並んで食べていた)が終わると、ひたすら日本宛に手紙を書いた。毎晩2-3通書いていたので、いちいち切手を貼らずに済むAir Letterを愛用していたのだ。ノイローゼ状態だったのだろう。8週間で5Kg痩せ、持参したズボンが履けなくなり、街で生まれて初めてジーンズを買った記憶がある。子供用しか合わなかったが。今も、ストレスは結構高いと思っているが、一向に痩せることにつながらない。

 何故に手紙であったのか電話をすれば良いじゃないかと訝しがる読者もいるかもしれないが、電話代は法外に高かったのである。無事到着したことを伝える短い電話をした記憶(電報かも)があるが、4,000円ほどした(2食付きの寮費が1週間で10,000円程度であった)。電話をするには交換手と英語でやりとりをせねばならない時代であり、会話力に自信もなかったので、手紙にするしかなかったのだ。

 

 1月の終わり近くになって、ロンドン、サンパウロ、ポーランドからと僕の送ったカードがついたと書いてあるカードが順次届いた。ロンドンからのは、40年ほど在英している古い友人からで、僕のカードが届かないので「体調に不具合が生じたのだろう」と考えたとある。彼女は半年前に旦那さんを亡くしたとあるので、僕が死んだと連想したのだろう。日本のコロナがひどいようだけど、と記してあった。僕はロンドンに住んでいる方が大変と思うのだが、英国のニュースを見ると日本の方が大変と思うらしい。情報というものの伝わり方はややこしいものである。我々もT V画面だけに頼ると、情報は歪んで伝わることがあることに気をつけねばならない。

 サンパウロからのカードは日系3世の元留学生からで、数年前に定年になって夫婦で会いに来てくれた人で、僕がNHKの番組に出ているのを見たとあった。クリスマスカードが6週間も掛かったりするのに妙な時代だと考えてしまう。ポーランドからのカードも元留学生からのもので今回は家族写真が入っていた。僕の大学の部屋に以前送ってくれた彼女の子供の写真を飾っているが、今回送られてきた子供は18歳と15歳になっていてすっかり大人の様相が伺え、驚いてしまった。前にあってから10年ほどが経過しているとは言え、子供の成長の早さには驚かされる。しばらく家族写真を送ってこなかったので、「離婚したのかもしれない。旦那の文句をいっぱい言っていたから」という家内の推論は杞憂に終わり安心した。ポーランドもコロナで大変ということであった。

 

 コロナは世界中を席巻しているが、年内の届いたカードも年越しとなったカードからも友人やその家族は元気に過ごしていることがわかり、安堵したことである。コロナに感染し、闘病している人や収入が途絶えたという知らせは今のところ周辺からは聞こえてこない状況で新年を過ごせている幸運を有り難く思う

 

 予想以上に時間を要したクリスマスカードのやりとりであったが、考えてみれば40年前には英国へのAir letterが1週間でつくことに納得し、2週間後に返事が来ることを心待ちに機嫌よく暮らしていたのだ。internet電話でやりとりができ、電子メールでの送信に返信は即時に可能となったことが果たして効用ばかりなのかしらと考えてしまう。

 

 手紙を書く行為は、電子メールはinternet電話に比べて、企画・構成力、文章力、漢字の想起など前頭葉機能の関与度が高い。以前に八雲研究の一部として、院生と高齢者との手紙の交換を実験的に実施し、運動だけしかしない高齢者群と比べて前頭葉機能が維持されやすいという論文を書いた本人なので、加齢による前頭葉機能の低下を鈍化させるためにもカードや手紙は書かねばなるまい。

 

 そろそろ切り上げて、1週間後に迫った孫あての誕生日カードを書かねば。

コロナ禍での年末年始

 12月28日に出勤し、総務、入試、教務、学生支援、本部職員へ「stay home」と順次年末の挨拶をし、政治家のように忘年会を開くこともなく、2020年の仕事は終わった。このような何事もない年末、年越し、新年は経験がないことなので、一体何をして居たのか後年分からなくなることもあろうかと、メモをしておく次第。

 

 新年には、子どもが小さい頃は、滋賀と徳島の両方の実家を律儀に慌ただしく訪れて賑やかに正月を過ごしてものだし、名古屋大に移籍するまでは卒業した学生たちを呼んで大勢で新年会をしたものである。学生たちの子どもも参加して20人以上も狭い家に集ったものであった。彼らはもう還暦を済ませたとか、孫がいるという。ついこの間のことのようにも思えるが、かなりの時間がすぎて行ったことになる。

 

家内と二人だけの年越し、正月は人生で初めての経験であった。喧嘩せずに過ごせるかしらと心配しないでもなかったが、家内の部屋のT Vを新しくしたり、孫も夢中のLaQ(レゴのようなおもちゃ)をプレゼントしたりして、摩擦の軽減予防にも配慮はした。終わってしまえば、大きな揉め事もなく、過ごすことができた。

 

 29日には天気が良いので2階の自分の使用する2部屋の窓拭きをしたが、身体の柔軟性が低下し、いい加減な程度で済ませざるを得なかった。書架の古い雑誌や本を年明けのゴミに出せるように荷造りもした。大学生の頃に張り切って買い込んだ洋書も捨てることにした。キリがないので、束は10個を限度にこの作業もやめた。高圧洗浄機を出しての窓洗いや洗車もした。疲れないようにいい加減に作業するにとどめたので、大した筋肉痛に悩まされることなく5日までの1週間の正月休みは終えることができた。

 

 いい加減にとどめておくという癖がついたせいか、根気がなくなったのか1週間で書きあげる予定の論文は、途中で構成を大幅に変更し、2つの論文にしようと気持ちが変わったせいで、未だに完成していない。八雲研究の19年間の縦断データをもとに10年間でどの程度作業成績が低下するのかを個人別に算出した低下率で比べようとしている。文字を抹消する速度が10年間で低下する現象を40歳代から、50歳代から、60歳代から、70歳代からのデータで解析している。ホルモンの影響で「女性の優位は、60歳以降は無くなり、おっさんと同じになる」という仮説(15年ほど前にNorth Dakotaのシンポジウムで発表した)を補強する論文にしたいのだ。統計解析は長男に手伝ってもらい去年の8月に終わっているのだが、何やかやで、未完の作業となっている。この作業を1日の朝からしたことをメモしておきたい。何時まで、こんな事を面白いと思ってやるのかに興味があるからである。論文は年内に仕上げて、正月はLaQにトライするつもりであったが、LaQは出来ず仕舞いであった(家内は孫とリモートで作品を見せ合いっこしていた)。

 

 元旦には「夢殿」という諏訪の名酒の封を開けた。日頃飲んでいる、フルーティな山形の酒に比べて「日本酒!です」という主張がある。それでいて、後口のスッキリさが際立っている。美酒であった。「値段の高い酒は美味い、早く飲んでしまう」という経験則を強化することとなった。斯く左様に、コロナ禍の年末年始の時間は過ぎたのでした。

 

 年頭に、美酒を味わいながら次のような事を考えていた。年末には今年度末で大学を辞めると言う65歳定年後も働いていた友人の報を3件も聞き、大学の同級生の訃報も届き、取り残されたような妙な気分になっていたせいかもしれない。

 

コロナ感染拡大で、私たちは今まで経験したことのない、不自由さを味わった。自粛できない仕事に就くのかも知れない人たちへの非難、感染者や濃厚接触者への偏見・攻撃など、人の醜い一面を確認した。一方で、自らの感染への不安を乗り越えて検査や治療にあたる人たちも確認できた。人は、「誰もが弱い、誰もが強い」事実を確認した。生きていく上で私たちは様々な人たちのネットワークの中で生きていることも再確認できた。「さまざまな他者への想像力を保てること」は、世界中の人が目指すべき理念とされる、「多様性・ダイバーシティの尊重」に通じるものがある。

これらを若い人たちにどう伝えるか、あと暫く現役を続けることになっているが、課せられる課題は重い。少しずつ、焦る事なく取り組むことができるか、いい加減さを覚え始めた昨今の自分には「やや心許ないなあ」、と思うのである。

C. K. Leong(梁子勤)先生を偲ぶ

 12/6(月)の早朝、いつものようにメールをチェックしているとLeong の文字が目に付いた。開けてみると娘のSoniaからの訃報であった。11/30にC. Kは家族に看取られて安らかに逝ったということであった。コロナに感染して、とあったが、家族皆で見取りができたようである(カナダは日本とはコロナ対応事情が違うようだ)。

すぐに彼との思い出のいくつかを音楽家であるSoniaに返したが、昨年エドモントンの施設に移ったと聞いたので、死はどこかに予期はしていたものの、落ち着かない気持ちでいる。彼との思い出が浮かんで消えたりするので、思い浮かぶことなどを記録し、長年の厚情を謝したい。

 

 1977年始めのことであった。カナダから封書が来てサバティカルを利用して僕のところに来たいという内容であった。「読み処理過程:reading」の著名な研究者であることはのちに知ることとなったが、当時は名前を知らない人で、自分の方が海外で勉強したいと思うばかりだったので、まさか自分のところへという研究者がいることなど思いもよらなかった(直接押しかけるアメリカ人もその後はいた)。当時の大学の天王寺校舎は戦前からのボロい木造建築で、物置の一角に手作りの実験装置を備えて、迷惑がられながら実験していたものだ。今日の国立大学のように、外国人の訪問を可能にできる宿舎も予備の研究室にも余裕はなく、受け入れ可能状況はゼロであった。秋から英国に行くのでという理由で断った(嘘ではない)。それ以来の付き合いである。彼はオランダでサバティカルを過ごし、のちにOrton賞を獲得する仕事をして、読み書き障害の研究者として世界的に著名になった。

  1980年頃から日本語の読み処理過程の研究に手を出すようになって以来、再びLeong先生との付き合いがはじまった(というか頻繁となった)。

  彼も招待されていたトロント大学でのシンポジウムであった時(大学では後年、重点化やCOEなどグローバル研究の急に舵を切られて、教官は戸惑ったものだが、このような項目(招待講演)も業績リストに記載するようになったので、有り難かった。しかし、当時はまた留守にするのかと同僚は見ていたはずである)、チケットの書き換えを手伝ってくれ、帰路、彼の勤務するサスカチュアン大学に寄った。彼がヴィクトリア大学に移った時には講演を企画してくれ、謝金までもらった。この時は高校進学が決まった春休みだったので長男を連れて行った。思い返すと、シアトルから飛行機を乗り換えヴィクトリア島に行くのに冷や汗をかくことが起きた。旅行代理店のミスで、持っているチケットは、郊外の別の飛行場から出る便であることが、乗り換えカウンターでわかったのだ。乗り換えは一度空港を出て、海辺の別の飛行場からヴィクトリア湾に着く水上飛行機となっていたのだ。大慌てで切符を買い、シアトル空港から4時間遅れでやっとのことで、ヴィクトリア郊外の野原の小さな飛行場に到着した。ドアをワイヤーで巻いて閉めているようなオンボロの小型機で、騒音もひどく、長男は怯えていた。飛行場で降りたのは10人ほどの乗客だけである。客たちと係員とは顔馴染みという塩梅で、Leong先生に電話せねばと焦るのだが、なかなか手続きが進まずイライラが募ったこと、でも係員は親切に事務所内の電話を貸してくれたこと、彼が迎えに来てくれるまで待っている間に待合室に掲示してある夥しい児童の顔写真(誘拐、行方不明の捜索)を見て、長男がさらに怯えていたことなどを思い出す。

  Leong先生は高槻の家にも何度か来た。姫路城を案内したときに、彼が突然走り出して私らの入場券を買おうとするので、それを阻止するのにこちらも走った光景も思い出す。

  彼はヴィクトリア大学から再びサスカチュアン大学に戻り、定年後も特別教授待遇で80歳ごろまで研究室を維持していた。その頃、彼は教育大学が創設される事業に関与して半年ほど香港に滞在していた。契約が終わる前にシンポジウムを計画するので、今まで世話になっているから家内も連れてこいという連絡があり、香港に招待してもらった(前述の招待講演項目は個人的な繋がりでも点数が上がるものなので、それほど有効な業績指標かは?である)。

  漢字認知に関するテーマで、私の発表は笑いも取れ上々の出来であった(家内が見ていたので面目が立った)。講演したのは日本語表記の情動価に関係したもので、「▽▽が〇〇という名の店を開いた」の文例に、▽▽が北島三郎なら〇〇は漢字で店名を書くが、▽▽が篠ひろ子だったら、〇〇はひらかなで店名を書くという実験で、日本語表記(漢字、ひらかな、カタカナ)はそれぞれ情動価が違い、書き分けるという研究なのだ。▽▽を、香港での人気男優や女優名を調べて例題を聴衆に提示したのが受けたのだ。この訪問では、中華料理、お粥をごちそうになったが、家内はいまだにこれまでで一番美味しいものだという(何年後に香港に行くことがあり、お粥の店を探したが見つからなかった)。

 

  その後、リンパ腫を患ったという連絡があり、死ぬのではないかと案じたこともあったが、それを克服して、2014年の8月に来日した(メモで確認できた)。リンパ腫は大丈夫ということであったが胸部に何やら着けているように見え、以前のように元気で話し続けることは無くなっていた。京都の料理屋に詳しい同僚に紹介してもらい、行きつけない高級料理屋で家内と3人で飯を食べた。それが彼との最後である。ホテルに送って行った時に、これが最後かもという気持ちになったことを覚えている。この訪問の際に彼は一服の絵と斎白石の画集とを土産にくれた。絵はプリントだが、ザクロの静物画である。良い絵のように思えたので額に入れて勤務先の部屋に飾ってある。ザクロは多産の象徴と聞いているので、僕は2人、あなたは3人の子どもを育てたのだから、ふさわしいのか?と問うと、「タケシにはこの絵が相応しい」と言った。自分はPH. D.を一人しか出していないが、お前はザクロの実のように沢山のPh. D.を育てたからだと言う。褒められたのだ(褒められる体験が少ないので記録しておく)。数は自慢して良いけど、大した研究者には成っていないので、素直な友人は「アンタがあんなのを研究者にするから、本当はなるべき人間がなれなかったんだヨ」と言う。こう言う見方も一理あるので反論はしないが、外国の研究者が褒めてくれたことがある、というのは冥土での自慢話になるかも知れない。

 

  昨年のクリスマスカードは家族からの手紙が入っており、高齢になったので、親戚が多くいるエドモントンの施設に移ったということであった。Leong先生は香港大学の出身で、中国本土返還を嫌って国外に出て一流の研究者になり、3人の子供をI B Mの研究者、2人の娘をピアニストと音楽大学教員に育てた。そして家族に囲まれて静かに逝ったということだから、父親としても偉い人であった。そして私のような年下にも対等に親しくしてくれた。彼から海外の研究者との付き合い方の多くを学んだことを思い巡らすと感謝しかない。

 

  彼に情報が伝えられていないとは思うが、香港の中国本土返還時に香港から海外移住を決行したLeong先生は、昨今の香港事情を予期していたのかも知れない。そうだとしたら、偉いだけでなく凄い人である。

 ぽつりぽつりと40年来の知り合いが亡くなっていくのは、表現し難い気分に襲われる。寂しさと言うものなのだろうが、少しずつ募ってくる。長く生きると言うことは、こういう体験に馴化していくという発達課題をこなすことなのだろう。これからいくつもの発達課題をこなして行きたいかと問われたら、今は、「微妙」と言うしかない。

 

In memory of the teacher, C. K. Leong


In 1977, he informed me that he would like to come to me at Osaka Kyoiku University to spend a year for sabbatical leave. Since then, our friendship began. Unfortunately, I planned to study for 12 months at Cardiff University from the summer of 1977. therefore, joint research plans in Osaka did not come true, but since then, he visited to me in Osaka and Nagoya University many times. He invited me to a symposium hosted by him in Hong Kong with my wife. I also remember helping his student, Tamaoka Katsuo, with his doctoral dissertation. 

I visited Saskatoon home, and C. K. stayed at my house in Osaka several times, and we enjoyed Kyoto, Nara and Himeji. Needless to say, he is one of the world's top cognitive psychology researchers and his research achievements are enormous, but his humanity has nurtured many students and young researchers. 

Originally from the University of Hong Kong, he went abroad to
become a leading researcher, raising three children to be IBM researchers and two daughters to be pianists and music college teachers. He was also a great father. And he was equally close to younger people like me. I can only thank him for learning a lot about how to interact with overseas researchers.

I'm about 10 years younger than him, so I want to imitate the way he lives as a researcher and values his family and friends above all else. 

Here again, I thank him for more that 40 years friendship and many teachings.

思い違い

 先回、「Everyman’s Psychology」の翻訳書に「ジャガーを選ぶ人はどういう人かとかレーランドミニに乗る人は云々」が書いてあるはず、翻訳本を取り寄せ確認すると書いた。

 

 古本はアマゾンでの配達予定日よりも3日も早く届いた。記述は「確認できず!」であった。思い違いだったのだ。流行り言葉で言えば「フェイクニュ~ス」を発信したことになるので、訂正せねばなるまい。

送られてきた翻訳本「行動の洞察」はハードカバーの上製本で、近年目にすることの少ない立派な製本で、これも記憶とは違った。表紙に名前が出ていたのも記憶違いであった。2,000円の価格が付いていた。1977年の発刊なので40年以上前である。当時は値段が高くても本を買い・読んでいる人が一定存在したことがわかる。近年、本の価格は上がらず、読者減で販売数も減少傾向が止まらない(マンガ本は別らしいが)最近の出版業界の苦労が忍ばれる。

取り寄せた本を読み返すと、「交通事故の心理学」「自尊心」などの章があり、記載を丁寧に確認する作業をしたが、見当たらず、他の章かもしれないと全章探してみたが、見つけることができなかった。

 

 著者のJohn Cohenは1960年代の心理学の教授であり、大学数が増える(英国では1970年前後にも増えたが、 サッチャー以降にも多くのポリテクニックが大学になった)以前の英国の大学教授(教室には教授は1名のみ)なので、読み返してみるとその博識(ギリシャ神話や演劇)に圧倒されるのと、実験心理学者なのに精神分析学の影響を強く受けていたことがわかる。昔の大学教授になる人は凄かったのだ。精神分析学の影響が強いために、「ジャガーを選ぶ人」はミドルクラスの人間でありたいという願望を投影している、という類の記述があるはずと思い込んでいたが、思い違いだったのだ。この思い違いは強いもので、自分が1,000CCの車から2,000CCの中古に乗り換えた時に運転しながら、何となく偉くなったような尊大な感覚になり、その時にCohenの記述の通りだと感じたことをはっきり覚えている。思い込みも強いレベルのものである(どこか別のところで彼のこのような記述を目にしたのかも知れない。負け惜しみかも)。

 

 今回の記憶違いは他人に対して影響は少ないものだが、気を付けないと今後が心配と思った次第。もっとも、こういう事もこの先、忘れてしまうのかもしれないけど。

 

 取り寄せた翻訳本をルーチンの作業を後回しにして読んでいた昼休みに、秋学期から非常勤講師をするようになったと挨拶に来てくれた先生がいた。大教大を卒業し教職についた後で大学院を経て、今は私大の教員という60歳前後の先生で、工藤力先生のゼミであったと言う。彼が持参した記念誌「心理学教室40年年史」で、三田のセミナーハウスでの写真などを見ながら教育学教室と心理学教室のソフトボール対抗戦の話などをした。工藤さんの様子を聞くと、無くなったと言う。彼も最近まで知らなかったようで、「誰にも知らせるな」が工藤さんの遺言であったということである。元同僚で先年亡くなった先輩も「死んだことを知らせるな」ということで、葬儀もなかったことがあった。残されたものに面倒をかけたくないということかも知れないし、自分は元気であると思われていたいのかもしれないが、よく分からない。二人とも共通の性格特徴を持っていたように記憶するので、何か関連するのかもしれないが。自分は多分そのような指示はしないかも、と考えさせられたことである。

 

 彼が帰った後で、部屋に同じ記念誌があるのを見つけて写真などを確認すると、記念誌には教室員の写真には11名しか写っていない。16名だったはず、自分の記憶もそこまで変になったかと一瞬戸惑ったが、この記念誌が作られた平成元年には、工藤さんはじめ5名が心理学教室から新設された教養学科に移籍していたのだ。今ではその理由も正確には思い出せないが、教養学科に移る教官(当時は国家公務員なので)と心理学教室の教官との歪み合いは強烈で、裁判沙汰になった。実際に裁判にはならなかったが、当時教室主任の順番が回ってきていた僕は、てんてこ舞いであったことを思い出す。のちにこの顛末を冊子にして送ってくれた被告の管理職の先生もいた(探せば何処かにあるはず)。裁判沙汰の途中で工藤さんは東京の私学に移籍してしまった。その件を引き継がされた後輩の教官は事故で急逝したし、他の一人は私学に転出し、騒動は沈静化したのだ。来室してくれた彼が持参した記念誌を見るまで、自分が在籍した大教大心理学教室は16名だったと思い込んでいたが、John Cohen先生風に言えば、この教養学科設置に関わる揉め事を記憶から浮かばないようにしていたのだろう。

 

 「記憶は自分に都合よく歪み、再生される。都合が悪い記憶は再生されにくい」という心理学の知見を改めて確認した次第。気をつけねばなるまいと自分に言い聞かせるが、いつまでも覚えている自信はもう無い、と言っておくのが安全かな。