C. K. Leong(梁子勤)先生を偲ぶ
12/6(月)の早朝、いつものようにメールをチェックしているとLeong の文字が目に付いた。開けてみると娘のSoniaからの訃報であった。11/30にC. Kは家族に看取られて安らかに逝ったということであった。コロナに感染して、とあったが、家族皆で見取りができたようである(カナダは日本とはコロナ対応事情が違うようだ)。
すぐに彼との思い出のいくつかを音楽家であるSoniaに返したが、昨年エドモントンの施設に移ったと聞いたので、死はどこかに予期はしていたものの、落ち着かない気持ちでいる。彼との思い出が浮かんで消えたりするので、思い浮かぶことなどを記録し、長年の厚情を謝したい。
1977年始めのことであった。カナダから封書が来てサバティカルを利用して僕のところに来たいという内容であった。「読み処理過程:reading」の著名な研究者であることはのちに知ることとなったが、当時は名前を知らない人で、自分の方が海外で勉強したいと思うばかりだったので、まさか自分のところへという研究者がいることなど思いもよらなかった(直接押しかけるアメリカ人もその後はいた)。当時の大学の天王寺校舎は戦前からのボロい木造建築で、物置の一角に手作りの実験装置を備えて、迷惑がられながら実験していたものだ。今日の国立大学のように、外国人の訪問を可能にできる宿舎も予備の研究室にも余裕はなく、受け入れ可能状況はゼロであった。秋から英国に行くのでという理由で断った(嘘ではない)。それ以来の付き合いである。彼はオランダでサバティカルを過ごし、のちにOrton賞を獲得する仕事をして、読み書き障害の研究者として世界的に著名になった。
1980年頃から日本語の読み処理過程の研究に手を出すようになって以来、再びLeong先生との付き合いがはじまった(というか頻繁となった)。
彼も招待されていたトロント大学でのシンポジウムであった時(大学では後年、重点化やCOEなどグローバル研究の急に舵を切られて、教官は戸惑ったものだが、このような項目(招待講演)も業績リストに記載するようになったので、有り難かった。しかし、当時はまた留守にするのかと同僚は見ていたはずである)、チケットの書き換えを手伝ってくれ、帰路、彼の勤務するサスカチュアン大学に寄った。彼がヴィクトリア大学に移った時には講演を企画してくれ、謝金までもらった。この時は高校進学が決まった春休みだったので長男を連れて行った。思い返すと、シアトルから飛行機を乗り換えヴィクトリア島に行くのに冷や汗をかくことが起きた。旅行代理店のミスで、持っているチケットは、郊外の別の飛行場から出る便であることが、乗り換えカウンターでわかったのだ。乗り換えは一度空港を出て、海辺の別の飛行場からヴィクトリア湾に着く水上飛行機となっていたのだ。大慌てで切符を買い、シアトル空港から4時間遅れでやっとのことで、ヴィクトリア郊外の野原の小さな飛行場に到着した。ドアをワイヤーで巻いて閉めているようなオンボロの小型機で、騒音もひどく、長男は怯えていた。飛行場で降りたのは10人ほどの乗客だけである。客たちと係員とは顔馴染みという塩梅で、Leong先生に電話せねばと焦るのだが、なかなか手続きが進まずイライラが募ったこと、でも係員は親切に事務所内の電話を貸してくれたこと、彼が迎えに来てくれるまで待っている間に待合室に掲示してある夥しい児童の顔写真(誘拐、行方不明の捜索)を見て、長男がさらに怯えていたことなどを思い出す。
Leong先生は高槻の家にも何度か来た。姫路城を案内したときに、彼が突然走り出して私らの入場券を買おうとするので、それを阻止するのにこちらも走った光景も思い出す。
彼はヴィクトリア大学から再びサスカチュアン大学に戻り、定年後も特別教授待遇で80歳ごろまで研究室を維持していた。その頃、彼は教育大学が創設される事業に関与して半年ほど香港に滞在していた。契約が終わる前にシンポジウムを計画するので、今まで世話になっているから家内も連れてこいという連絡があり、香港に招待してもらった(前述の招待講演項目は個人的な繋がりでも点数が上がるものなので、それほど有効な業績指標かは?である)。
漢字認知に関するテーマで、私の発表は笑いも取れ上々の出来であった(家内が見ていたので面目が立った)。講演したのは日本語表記の情動価に関係したもので、「▽▽が〇〇という名の店を開いた」の文例に、▽▽が北島三郎なら〇〇は漢字で店名を書くが、▽▽が篠ひろ子だったら、〇〇はひらかなで店名を書くという実験で、日本語表記(漢字、ひらかな、カタカナ)はそれぞれ情動価が違い、書き分けるという研究なのだ。▽▽を、香港での人気男優や女優名を調べて例題を聴衆に提示したのが受けたのだ。この訪問では、中華料理、お粥をごちそうになったが、家内はいまだにこれまでで一番美味しいものだという(何年後に香港に行くことがあり、お粥の店を探したが見つからなかった)。
その後、リンパ腫を患ったという連絡があり、死ぬのではないかと案じたこともあったが、それを克服して、2014年の8月に来日した(メモで確認できた)。リンパ腫は大丈夫ということであったが胸部に何やら着けているように見え、以前のように元気で話し続けることは無くなっていた。京都の料理屋に詳しい同僚に紹介してもらい、行きつけない高級料理屋で家内と3人で飯を食べた。それが彼との最後である。ホテルに送って行った時に、これが最後かもという気持ちになったことを覚えている。この訪問の際に彼は一服の絵と斎白石の画集とを土産にくれた。絵はプリントだが、ザクロの静物画である。良い絵のように思えたので額に入れて勤務先の部屋に飾ってある。ザクロは多産の象徴と聞いているので、僕は2人、あなたは3人の子どもを育てたのだから、ふさわしいのか?と問うと、「タケシにはこの絵が相応しい」と言った。自分はPH. D.を一人しか出していないが、お前はザクロの実のように沢山のPh. D.を育てたからだと言う。褒められたのだ(褒められる体験が少ないので記録しておく)。数は自慢して良いけど、大した研究者には成っていないので、素直な友人は「アンタがあんなのを研究者にするから、本当はなるべき人間がなれなかったんだヨ」と言う。こう言う見方も一理あるので反論はしないが、外国の研究者が褒めてくれたことがある、というのは冥土での自慢話になるかも知れない。
昨年のクリスマスカードは家族からの手紙が入っており、高齢になったので、親戚が多くいるエドモントンの施設に移ったということであった。Leong先生は香港大学の出身で、中国本土返還を嫌って国外に出て一流の研究者になり、3人の子供をI B Mの研究者、2人の娘をピアニストと音楽大学教員に育てた。そして家族に囲まれて静かに逝ったということだから、父親としても偉い人であった。そして私のような年下にも対等に親しくしてくれた。彼から海外の研究者との付き合い方の多くを学んだことを思い巡らすと感謝しかない。
彼に情報が伝えられていないとは思うが、香港の中国本土返還時に香港から海外移住を決行したLeong先生は、昨今の香港事情を予期していたのかも知れない。そうだとしたら、偉いだけでなく凄い人である。
ぽつりぽつりと40年来の知り合いが亡くなっていくのは、表現し難い気分に襲われる。寂しさと言うものなのだろうが、少しずつ募ってくる。長く生きると言うことは、こういう体験に馴化していくという発達課題をこなすことなのだろう。これからいくつもの発達課題をこなして行きたいかと問われたら、今は、「微妙」と言うしかない。
In memory of the teacher, C. K. Leong
In 1977, he informed me that he would like to come to me at Osaka Kyoiku University to spend a year for sabbatical leave. Since then, our friendship began. Unfortunately, I planned to study for 12 months at Cardiff University from the summer of 1977. therefore, joint research plans in Osaka did not come true, but since then, he visited to me in Osaka and Nagoya University many times. He invited me to a symposium hosted by him in Hong Kong with my wife. I also remember helping his student, Tamaoka Katsuo, with his doctoral dissertation.
I visited Saskatoon home, and C. K. stayed at my house in Osaka several times, and we enjoyed Kyoto, Nara and Himeji. Needless to say, he is one of the world's top cognitive psychology researchers and his research achievements are enormous, but his humanity has nurtured many students and young researchers.
Originally from the University of Hong Kong, he went abroad to
become a leading researcher, raising three children to be IBM researchers and two daughters to be pianists and music college teachers. He was also a great father. And he was equally close to younger people like me. I can only thank him for learning a lot about how to interact with overseas researchers.
I'm about 10 years younger than him, so I want to imitate the way he lives as a researcher and values his family and friends above all else.
Here again, I thank him for more that 40 years friendship and many teachings.