新学期が始まった
変則形式であったが、3月23日に卒業式を無事終えた。変則とは午前と午後の2回に分けて人数減らして密着を減らす工夫をしたこと、保護者はライブ配信視聴、そして、時間短縮という意味である。5分程度で式辞を、という条件を満たして文章を作るのは結構大変であったが、ともかくも終われてホッとした。その次の週から他校園での卒業式、入学式が続いて忙しかった。幼稚園、高校、短大の式典にも出ねばならないためである。座っているだけの仕事ではあるが、礼服を着なければならないのは面倒で、出される弁当もほぼ同じ内容で、贅沢は言えないが食傷気味となるのである。4月1日は、学園職員の辞令交付式、短大入学式、大学教職員向けの所信表明、教員向け研修会をこなした。
4月4日(月曜日)には大学の入学式をした、ここではモーニングを着るので、午前の式を終わっても午後の式典まで特別なシャツを着たままでで過ごさねばならず、そしてその間に保護者会での挨拶が2回入るので、疲れはしたがともかくも無事終えることができた。
大学の卒業式と入学式は遅刻ができないので渋滞を避けるために7時前に自宅を出ることにした。午後の入学式が終わった4時頃には「疲れた。早めに帰る」と事務方に知らせて駐車場に向かったが、途中で要件を指摘されてまた戻った。それでも5時5分ごろには帰路に着いた。忙しい週だったのが終わったので、どの酒を飲もうかなどと考えつつ車を走らせたが、高速道路で渋滞に出会い、今までの最長記録、4時間5分もかかって9時を回っての帰宅となった(いつもは70分ほどで行き来できる)。トラックが横転して足場が道路を塞ぐ事故のための渋滞であったらしい。酒を飲む気力もなく、すぐ就寝した。眠りは良いものではなかった。
渋滞はたまたま入力したナビが、「75分くらいかかります」と言う。そんなにかかるものかと、横着を決め込んで走行中の近畿自動車道から「阪神高速に入れ」とか、「東大阪J Cで降りて、13号線におりろ」という指示を無視して走っていると、途中で全く動かない状態が20-25分✖︎2回、あとは6キロほどでのノロノロ運転で、結局は4時間越えになってしまったのだ。ナビは「2時間経ったので休憩しましょう」は音声ガイドするが、3時間経過、4時間経過は文字表示しか出ない。「言うこと聞かん奴には言っても無駄だと」いう仕組みのようだ。それと、ナビは高速道を6キロの速度で走る時間が一定を過ぎると、高速にいるのか地道にいるのかが分からなくなるようで、途中から変な地道の画面が現れることも発見した(発見に意味はないが)。
翌日は翌5日も6日も行事や会議がいっぱいで、疲れが出るのではないかと心配したがほとんど何もなく、「歳の割には体力がある」と、密かに自慢気味でいた。7日(木曜日)は幼稚園の入園式であった。木曜日は自宅研修日にしており通常ならゆっくりするのだが、新園長となったので、気を遣って大学に出た。30分ほどの式典を終えて部屋に戻った頃から急に背筋が痛くなってきた。なぜだろうと考える間も無く、渋滞での運転でハンドルを持つことでの背筋の過労のせいであることを理解した。疲れは翌日も翌々日も感じなかったのだが、60時間ほど経過して出てきたのだった。「歳の割には体力がある」のは間違いで「歳相応、いやそれ以上に体力は無くなっている」のだ。弁当を食べずに速攻、帰宅したことである。痛む背中で翌8日(金曜日)も高校の入学式に出た。
流石に、土曜日は背筋痛も消えた。3月末から4月初めの週は体力的にキツイ。今年度が3期目の任期最終年なので、なんとか最後まで体力が持つことを願うしかない。ともかくも、新年度の1週間は何とも幸先の悪いものとなった。
体力の自覚症状の他にも、新たに老化の特徴だろうと思うことがある。それは記憶についてだ。まだ、単語を忘れるとか事象を思い出せないというような症状はないと思っているが、過去の事象についての心的距離(時間知覚)に変化が出てきた気がするのだ。つまり、数時間前の事象がずっとそれ以前の事象のように思えるのだ。10時の式典を終えてしばらくすると、それはずっと以前のものであったように思えると言う具合だ。認知症が進んだ老人が、「飯まだか?」と食べ終わってすぐに言うとエピソードを聞くが、案外食べ終わってからの心的時間が長く思えるようになったせいで、食べた事実を忘れているのではないのかも知れない。とすると、僕も認知症が始まったのかも知れない。別に個人的には嫌なことではなく、それもいいかも知れないと思っている(周囲は困るかも知れないけど)。自分が理解できなければ平気でいられるはずだ。類似の時間記憶の歪みの文献でも探そうかな、と思っている。
「幸先は良し」とはいかなかったが、新しい学期が始まった。物理的時間は定常に進んでいるようである。コロナ感染症の再拡大なしで春学期が終われることを願うばかりである。
何でもありの世界か?年度末に嘆く。
ウクライナにロシア軍が侵攻して3週間以上が経過した。2-3日でクリミア半島の時と同じことが起きるのだろうという大方の予測に反して、まだ、キエフは陥落していないようだ。「まさか、侵攻しないだろう」という予想は希望的観測に過ぎず、何でもありうることが起きる世の中になってしまった。戦前の日本陸軍が「軍備や産業に欠かせない燃料資源を確保するのは、自衛のための行動だ」とする理屈で東南アジアや中国北部に侵攻したのと同じように、ウクライナの現政権を除くのは「自衛のための行動だ」という理屈らしい。
ロシアのプーチンにも自分に都合の良い理屈はあるのだろうが、どんな屁理屈があるにせよ他国に侵攻した事実は確かで、彼の判断は非難されねばならない。それにしても、政治に携わる連中は平気で嘘をつき、そのうち自分でそれが嘘でないような気がしてしまうのか、その時々で都合よく振る舞うことに長けた人物であること、子どもや女性が逃げ惑ったり、死傷したりしていることにも何の後ろめたさも感じない人格特性を持つ人間であるのは、疑うことのない事実のようである。何はともあれ、権力にしがみつく老人の妄動で若い兵士が死んだりするニュースを見聞きするのは堪え難い。
ロシアを含む東欧諸国は、ロシア正教の信者が多く、元は同根なので、ローマカトリックと大した違いはないはずだ(信者は違いを列挙するだろうけど)。プロテスタントの教会と違ってロシア正教教会はリトアニアのタリンの街で確認したが、豪華絢爛である。離婚も難しいはずだ。ローマ帝国が東西に分裂した時期に、西側がローマ・カトリックに東側が正教会(ギリシャ正教)としてカトリックの教義の本質的なもの(神の教えを信じて称え、人を愛する)を遵守する形で分かれていったと記憶している。無神論を標榜するソビエト連邦時代には軽視されていたロシア正教の再興の担い手の一人がプーチンだったはずで、「地獄行き」の不信心者と呼ばねばなるまい(政治的に都合が良いという理由で信者ズラをしただけなのかもしれないけど)。
たまたま見たユーチューブの番組で、ケニヤの国連大使の短い演説には、品性や理性を見つけ、安心したことだ。彼は、帝国主義へのノスタルジアに浸って行動するプーチンを非難するものであった。曰く、アフリカは文化や言語、人種で国境が決まったわけではなく、パリ、ロンドン、リスボンで植民地を持つ旧主国が勝手にひいた国境線を受け入れ、国連憲章を遵奉し国家の運営を行なっているのに、先進国が人種だ、言語圏だとノスタルジアに染まって、侵略をするのは何ってことだ、という趣旨のことを述べていた。同感である。
6-7年前に横浜の会議で同じテーブルを囲んだ女性一人しかウクライナに知り合いはいない。名刺を交換したときにウクライナはユークレインと英語では発音することを知ったことでその人を覚えている。その時もウクライナでは社会情勢が大変なのに会議に参加して大丈夫なのかを聞いた記憶がある。無事であることを祈るしかない。応援に出かけることは無理なのでカンパで勘弁してもらうしかない。
先ほど、東京に住む従兄弟たちと合流して賑やかに温水プールで遊ぶ孫たちの動画が送られてきた。幸せそうで嬉しいが、ウクライナの惨状を知らせるT V画面との格差に、何とも言えない気持ちが起きる。
3月も終わりに近づき、明後日は卒業式である。コロナ感染状況下で不自由を了解し学業を続けてくれた学生、それを支えてくれた教職員に感謝の言葉を式辞では述べることしている。
「明日世界が滅びるとしても、今日あなたはりんごの木を植える」、開高健がどこかに書いていたフレーズが思い出される、年度末であります。
コロナ感染(オミクロン株)下の生活
しばらくこのコラムを書くのから遠ざかっていた。令和4年に入って初めて書くことになる。頂いた賀状にはこのコラムを見て僕が元気でいることを確認しているという人が複数いたので、早く書かねばと気になっていた。
結論としては、相変わらず元気にしていますのでご安心下さい。年末年始も例年どおりに過ごました。有り難く思っている。
10月末のコラムでは、コロナの感染状況もほぼ終わりそうだと希望的観測を記載したが、その後の状況の変化は著しいので記録しておく必要があろう。
大学では学生の感染陽性者はそれ以前の体調変化を含めて報告するようにしてあり、おそらく不安な状況を学生支援センターに電話したり、メールしたりすることで繋がりを確認したいという思いかもしれないが、学生たちはこまめに連絡してくれている。
11月と12月はそれぞれ1名の陽性者が出ただけであったが、1月に入って、それも成人式以降に陽性者が爆発的に増加した。1月は73名であった。変異したオミクロン株の仕業らしい。2月に入って昨日までは、11名と減少傾向はうかがえるが、猛威を振るっている。感染の広がりは全国的で、子どもへの感染が急増というのがここ数日の傾向である。
幸い、大阪府からの学校向けの対応策依頼が来た時には学年暦を終えていたので、教学面では混乱はほぼゼロで済んだ。大学はもう春休みに入ったので、3月末までに感染状況がピークアウトしてくれることを念じるだけである。
自分自身の第3回目のワクチン・ブースター摂取は来週日曜に予約している。かかりつけ医からの指示に従っているだけで、他人より早く打ちたいという気持ちはない。蓮如が言う様に、「万歳の人身を得たりということを聞かず。今に至りて誰か100年の形態を保つべきや」は真理だと思っているので、できることはするが、なるがままで構わないのだ。
12月と1月は仕事が忙しかったのだ。仕事というのはアカデミックな部分のことで、以前に出版した本を文庫本にして再版してくれるというので、2-3章分の加筆をしたことと、9月に投稿してあった2篇の論文の修正対応に苦労したからである。インパクトファクターがついている雑誌だけあって、査読者の指摘には合理性がある。面倒だという気持ちと、採択されれば77歳での論文になるぞという、相反する内言の葛藤のもとでの作業なので、進捗具合は捗々しくなかったのだ。昔なら、2-3時間集中できることもあったが、今では1時間が精一杯なのだから捗々しくなかったのは当然である。やっと、今週の火曜に投稿した。いつまでこんなことやっているのかと思わないわけでもないが、知的な作業を継続するのがsuper-agerへの道であると、論文にも書いたりしているので、言行不一致と言われないための作業である。
正月二日には長男夫婦と大三島(今治市)を訪れた。何の事前の調べもなく、偶然に大山祇神社に参詣し、樹齢2600年と3000年という楠の巨木を2本見た。一見する価値のある樹木である。子どもと一緒に過ごせる関係を感謝せねばなるまい。
今日2月11日は孫娘の9歳の誕生日で、一緒に祝ってやることは叶わないが、Face Timeでケーキを見せてもらう約束である。そう言えば、私たち夫婦の52回目の結婚記念日でもあるが、我が家での特別な予定はない。
昨日酒屋で見つけたグレンリベット12年ものシングルモルトを、スコットランドのこの醸造所を見学した際に購入したロゴ入りのグラスを探し出して、舐めることにしよう。好きなラガヴーリンの16年ものと比較してスコットランドの東と西の産地の差異を確認するために。
元気か、一人で歩けんの? (年の瀬に)
久しぶりに早く仕上がった年賀状を投函しようとしていた日に、大学時代の友人M君から喪中ハガキが届いた。奥さんが5月に亡くなったという。彼と亡くなった奥さんとは家内が同じ専攻だったので、子供が生まれる頃までは、互いの家を行き来して、家族ぐるみの付き合いをしていた。その後40年以上は、年賀状で近況を知らせる付き合いと密度は減っていたが、賀状には「逢いたいね」という決まり文句が書かれており、退職すればそのうちにと気にはしていた。
家内が彼は友達が少ないから、落ち込んでいるはず。電話したらというので、40年ぶりに声を聞いた。
昭和39年度の文学部新入生は90人で、男女比は半々だった。文学部には11専攻があり、恵まれた教育環境であった。男子学生ではM君とそのまま大学に残って地理学の教授になったY君と僕だけが「現役3人組」と周囲から呼ばれて、仲が良かった。浪人が多い大学だったので、1、2歳違いでも大人びた新入生に気後れして、3人はつるんでいたのだろう。今の学生のように飲みに行ったりすることはなく、口数の多い方でない3人はキャンパス内で話をしていただけである。M君は美術部(青桃会)に入っていた。米軍キャンプの撤収跡に残された、かまぼこ型の兵舎(ウナギの寝所と呼ばれていた)の一角にある木造の古い部室で話し込んでいたことを覚えている。どんな内容であったかは思い出せない。大学のキャンパスは米軍が駐留していたものが返還され、建物の壁には英語のペンキ跡が残ったままであった。文字は深い緑色であった気がする。
電話は最初は僕のことを同定出来なかった。不信電話と思ったようで、「声が変わったから、分からなかった」と言うことであった。お悔やみを言うと、「まあ、もう」と落ち着いているようであった。
亡くなった奥さんは、いつもショートカット姿で目立つ存在であった。2人がどうして仲良くなったのか、理由も覚えていないが、中・高の教員になる者が多かった中で、2人は共に小学校の教員となった。その後、神戸で小学校教員を全うしていると思い込んでいたが、奥さんは「55歳頃から若年性アルツハイマーとなり、75歳で亡くなる前の3、4年は僕を誰か分からなくなっていた。病院に行くと守衛さんか警察の人が来たようにみられていたわ」と言うことであった。この病気は映画やドラマで見かけて若干の知識はあるが、約20年間に徐々に進行する奥さんを見守り、身送るまでのM君のことを思うと、「大変やったなあ」としか、言う言葉が浮かんでこなかった。
奥さんは57歳で途中退職し、自分も60歳を待って教員を辞め、白馬に家を買って、春から秋まではそちらで2人静かに暮らしてきたと言うことであった。白馬に行くときは日本海回りなので、北陸道に入って長浜のあたりを通る時、僕の郷里であると言っては「逢いたいね」と言ってくれていたらしい。事情を知っていたら、何をさて置いても逢ったのに、残念としか言いようがない。
彼は、「ところで、奥さん元気?」と聞いてきた。「元気や」と答えると、「自分で歩けてる?」と聞いてきた。「ああ」と答え、何言ってるの?と、予期しない問いかけに一瞬戸惑ってしまった。
彼にとって、「元気である」と言う基準は、「自分の足で歩けるか」であったのだろう。おそらく、長い年月、車椅子やベッドで過ごしたであろう、奥さんとの生活で獲得した基準に違いない。僕は、一瞬でも、「何言っての?」と思った、自分の想像力の欠如を恥じる気持ちを2日後の今でも拭えずにいる。人にはその人の生活経験の中から獲得した基準がある、相手が言葉をどのような定義で使っているのかの推論が適切にできるかは重要で、それが想像力で裏打ちされるコミュニケーション能力なのである。自分にはそこそこのコミュニケーション能力があると考えていたのは間違いで、まだまだ未熟なことを恥じたことである。
彼は「大腸癌やって人工肛門をつけている。早稲田に入ったけどオーケストラばかりに熱中した独身の息子と2人で何とかやっている。まあ、寂しいとことはない」と言うことで、安堵はできた。僕が今の仕事を終えたら、ゆっくり、信州で積もる話をしようと約したことである。
2週間ほど前に、名大時代の院生であった、優秀だが繊細すぎてすぐ挫けがちの男が、新宿に税理士事務所を開業したことを知らせてきた。彼は躓きそうになると僕のところに来ては色々と話をし、少し一緒に飲んでやると、次のステップに移れる、気になる教え子なのだ。これまでの20年間に3級の簿記試験を高校生と受験したことや税理士になってからのいくつかの職場でのトラブルの経緯、海外法人での勤務状況から開業までの振り返りを長文の資料で伝えてきた。「何とかやっていけそう」とあった。事務所の写真や自分のHPなども送信してきた。短く、“よく頑張った!”と返信し、涙腺を緩めてしまった。
明日は沖縄にいる名大時代の学生が逢いたいと言うので2人ほど当時の学生を呼んである。
と言うように、年の瀬にあたり、自らの未熟さを知ると共に、教え子に頼られたり逢いに来てくれたりする幸せと、歩ける以上の元気さを持つ家族とに囲まれて、改めて自分の恵まれた環境を味わったことである。
感謝の気持ちを仏教では「知恩」、「感恩」というがその先は「報恩」らしい。来年からは恵まれた老後に感謝するだけでなく、「報恩」を目指したいが、今しばらくは幸福な気分のままで、時の過ぎゆく感覚を噛みしめていたいのであります。
微かに陽射しが漏れてきた
学生からのコロナ感染を報告は最近4週間ゼロとなった(学生は律儀に報告してくれているようで、最近は副反応での体調報告がもっぱらである。小さい大学だからできることかもしれない)。
ピタリと感染の広がりが止まったという印象である。これは全国的な傾向で、どうしてだろう?と問いたくなるが、専門家でもよくわからないという。約100年前のスペイン風邪も3年で終息したので、自然界の摂理なのかも、と思ったりする。
ワクチンを打っていない学生もいるので、感染状況が下火になったかと言って、今まで通り授業体制をという訳にはいかない。密集を避け、マスク着用、手指消毒を徹底し、対面授業も出来るものだけに、という方針を変えるわけにはいかない。薄曇りの状況は不変である。来年度は通常の状態に戻れることを祈るしかない。
薄日が差してきた感がするのは個人的なことで、昨年投稿した2論文の修正指示に基づいてのやり取りが、昨週に無事終わり、掲載が決定のメールが来たからである。2022年にも研究業績が加筆できるので、嬉しい。
いつまでそんな事をしているのかと言われそうだが、研究者である業態を保つか否かは僕には重要で、若い人に「論文を書け」と偉そうに言えるからと、まだ加齢に伴う認知機能低下はそれほどでもないと確認できるのが理由である。要は自己満足だけで、誰も褒めてはくれないし、賞金が出るわけでもない、ましてこの年齢になり、昇任などに関係はない。
研究論文を書く作業は、掲載が決まれば愉快!となるが、それまでプロセスはストレスフルなもので、大方の人は40歳代で抜け出す。学務が忙しくなったり、子育てや家庭での仕事が増えたりすることを理由にして、作業中止を自己合理化する。個人により事情は違うので、論文を書かないのはダメな奴と決めつけるほど非寛容ではないが、僕はストレスフルな状況を楽しんでいる。
何がストレスフルかと言えば、投稿した論文がいきなり「掲載可」となることはほぼ皆無で、査読者が何かと文句(問題点の指摘)を言ってくる(満点の評価をすることは、査読者の専門知の評価につながるので、必死に問題点が探される。自分でも同じことをしてきたので、文句はない)。論文を投稿し、文句を言われることは誰でも面白くない。40歳代になり職位が上がると、自尊心を傷つけることを避けようとする心的機制が働く。職位は大抵の教育機関では一定の業績(学務を含んでの)と勤務年数(教育歴)があれば、上がるので、何も自尊心を揺るがすことに拘らなくなるのだ(ろうと、推察している)。
先週に決着した論文も、2回の修正を求められた。学術雑誌によっては査読委員の任期を定めて交代させることがある。最初の査読者の指摘に対応して改稿提出すると、別人に変わっていて、また違う問題点を指摘された。「前に言っていたことと違うじゃないか!」と指摘しても仕方がないので、また修正をするのだ。Native チェックをして投稿していても、「英文を修正せよ」などというコメントが書かれることは珍しくもない。一つの論文はインド人が経営する会社でのチェックだったので、米国人に会社に再度依頼した(研究費はあるので、可能であったが)。もう一方の論文は編集代表が僕に好意的で、査読意見への修正方法を教えてくれたので助かった。査読者が誰かで、当たり外れがあるものなのだ。
査読者はほぼ絶対なので、指摘は間違っているなどと論戦を挑むと、ろくなことはないことは経験則なのである。1980年ごろにイタリアの学術誌に書いた論文の査読者に文句を言ったら、「English, this is poor」とやられ、rejectされたことがある。留学先の英国人の先生と一緒に書いた英語が、「イタリア人がダメと言うの?」と呆れたが、なす術はなかったことを思い出す。この話の記憶から連想を、記しておくと、そのころは、論文はタイプライターで書いたものである。タイピストという職種があった時代があった。もちろん自分にはタイピストはいないので、雨垂れのようにポツポツと打った。投稿は3部提出が普通で、カーボン紙を挟んで、打ち間違いは修正インクを塗っていた。1972年に平野俊二先生の友人に英文を直してもらい米国心理学会誌に投稿した論文の封筒が破れて、東京から戻ってきたと大学近くの郵便局から呼び出された。やり直しを嘆いていると(郵便代金が惜しかった)、生沢雅夫先生が「行先不明でなく、戻ってきた幸運を喜ぶように」と言われたことを記憶している。この論文があったおかげで、教員公募に引っ掛かり、職を得たのであった。思い返せば、良い先生に恵まれた運の良い人間であったのだ。あれから50年。今では論文投稿は電子媒体である。細かい文字でやたら多くの注意書きがあり、視力が疎くなったので、最近は一度で投稿手続きが成功することはない。先月新たに投稿した際には、研究者の倫理観が信用されなくなったのだろう「基本データの開示に同意」の項目ができていた。嘆かわしいことである。
今回の2論文とも、コロナ下で時間をかけてデータ集計した縦断研究なので、何とか辛抱して改稿したことで受理された。何だか薄日が差してきたような気分になれたことである。
このように相変わらず論文を書いたりして、ストレスフル→安堵→新たなストレス希求を繰り返す日々を送っている。昨日、既知の出版社から文庫本の話が来た。薄日は単なる希望的妄想でもなさそうで、今しばらくは、認知機能の鈍化に抵抗できそうかも知れない。
もっとも、近未来に何があるかは分からない、と自分に言い聞かせてはいますが。
宮田洋先生を偲んで
8月25日に逝去されたと、同僚から宮田洋先生の訃報を知らされた。関学生え抜きの先生で、「クラシカル条件付け」研究の大家であった。定年退職後、現在の私の職場にも在職されたようである。私が着任した頃は非常勤講師のコマを担当されていたが、そのころは小脳に病気が見つかったとのことで、自分ではまっすぐ歩けないので、若い女性の肩を借りて通勤しておられたのを覚えている。その数年後、学会でお目にかかった時には元気になられていたので、「不死身ですね」と言った覚えがある。
人見知りの性格を持つと自認している私には、勤務校以外の心理学者と長期間親しく話をした先生は2人ほどしかいない。宮田洋先生はその一人である。
親しくさせていただくようになったのは非常勤講師に呼んでいただいたのがきっかけである。30過ぎの頃であった(思い返せば、この頃が人生で一番輝いていた)。当時の指導学生が関学の大学院を受験していた。「八田さん、xx君はボーダーやねん」と電話があった。突然の電話で、どう答えて良いかもたついていると、「ところで来年度、非常勤に来てくれへんか」と言う。もちろん快諾したことである。誘いを断ったら不合格になったとは思はないが、xx君は合格し、今は、国立大学の教授になっている。
集中講義ではないので、毎週1コマの授業のためにJ Rで大阪に出て、阪急神戸線を十三で乗り換え仁川まで、そして徒歩でハミル館へと片道2時間ほどかけて1年間通った。3年生向けの講義で、芝生が目の前に広がる階段教室に4-50人がいたように思う。当時の勤務先の天王寺分校校舎は戦前の小学校を改装した古い木造と、安物のプレハブ教室で構成されていたので、関学の時計台と芝生のある綺麗なキャンパスは羨ましい限りであった。
講義内容は自分の研究テーマの左右脳の機能差(ラテラリティ)についてで、学生の食いつきはとてもよかった(と思う。3,4人の女学生は後年まで賀状をくれたりしたので、妄想でもないはず)。この時の講義ノートをもとにして後年有斐閣選書を出したのだった。
本務先では、「教育心理学」、「児童心理学」、「心理統計学」など、教職関係の科目を講義するだけで、初めて自分が専門として研究している内容を話す機会を与えられたわけで、自分の研究を大先生が認めてくれているように思え、嬉しく楽しい経験であった。数年してから、再度学部と大学院の両方での非常勤講義を依頼され、その頃の学生で研究者になった人たちとは今でも仲良くしてもらっているのだからありがたい話である。
講義の日は非常勤講師控え室ではなく、ハミル館の宮田先生の研究室に来るように言われて、お茶(コーヒーだったかも)をいただき、雑談をするのがルーチンであった。爾来40年余り本当に親しくさせてもらった。ダンディで育ちの良い、人と話すのが好きな先生で、研究者など周辺にいない環境で育った私には観察学習のモデルであったように思える。
この雑談の中に二つばかり今でもしっかり覚えている話題がある。
一つは、その頃腰痛で困っていた私は「中国針一発で治った」と言う話をした(24歳ごろから10年ほどの間は、丈夫な体というには程遠く、よく熱を出したりしていたものだ。栄養状態に問題があったのかも知れない)。宮田先生は「それは、たまたまちょうど治る時期だったかもしれんよ」とコメントされたのである。「比較をしないと軽々に結論を出すのはあかんよ」と、日常生活での科学的思考の大切さを教えられたことであった。当時、先生はテニスを熱心にされていて腰痛持ちでもあり、水泳が良いことも教えてもらった。「浜寺水練学校卒やから」と言うのを何度か聞いたことである。「泳いでいる?」と後年出会うと質問されるので、今でも僕が曲がりなりにも水泳を続けているのは、宮田先生に聞かれる時に、「辞めました」と言い難いというのが原因かもしれない。
二つ目は、「科研を出すときは、半分以上仕事が進んでいるテーマで出さんといかんよ」と言う示唆である。今から、研究したいことを申請してもダメで、ある程度実績を示すべきという教えは、有り難かった。僕は科研費は長く、たくさん頂いてきたが、振り返ると、宮田先生の示唆があってのことだろうと思う。
大先輩と頻回にコミュニケーションを取る経験から、永く生き残る教えが含まれるという事実は、これから僕も若い人と面倒がられても話をする機会を増やすべきかも知れないと思うことである。
何年生まれかを知りたくて心理学会のオーラルヒストリーを検索して視聴してみると、1929年生まれということであった。先生のゆっくりした口調が懐かしく、亡くなられたとは信じがたい気持ちがする。僕はあの世を信じてはいないが、もし、何年か後で再会することがあり、「泳いでいる?」と問われても困らないようにせねばなるまい。
じわじわと順番が近づいてきている気配を感じつつ、仲良くしていただいたことに感謝したい。
オリンピックとコロナ感染爆発と大雨の夏
案の定、オリンピックを強行したためにコロナ感染者数が指数関数的に増加し、8/5の時点で東京都では感染者数は5,000人を超えた。政府関係者はオリンピックと感染者数増との関連を認めないが、国民の、とりわけ若者の間での気分的高揚の影響は、行動自粛にマイナスに作用することは自明で、ブレーキを踏んでいるのかアクセルを蒸しているのか、了解不能になっている。
大阪も1,000人を越す状況になっているので、蔓延防止措置から8/2から8/31までの緊急事態宣言に変更になった(その後9/12まで再延長となった)。我が勤務先でも、インド株の蔓延で5/25から感染陽性の学生はゼロであったのが7/27からポツポツと感染を報告する学生が出始めた。ちょうど春学期は終わる日で学年暦の変更は不要、滑り込みセーフといったところである。大抵は家族からの感染で変異したウイルス菌の威力の凄さを見せつけられたことである。夏休みの過ごし方への一層の注意喚起を再発信した。
相変わらず、菅さんは記者会見でも鸚鵡返しに、同じ回答しかしないし、目は虚である。これが口頭試問なら、「問われていることに答えていない、合格点は上げられない」と助言することだろうが、記者会見のやり取りで、この種のやりとりをする記者を見たことがない。遠慮するのか、馴れ合いなのか、忖度して別の機会のお返しを期待しているのかも、と思うことである。
オリンピックはお祭りなのだから、気分は高揚し、自宅で、じっとテレビを観ていてくれ、などという、「お願い」に皆が従順に従うはずがない。第一、若者に感染者が増加してきたということだが、彼らがT Vを見ると想定するのは老人の、「自分の考えることは、相手も同じように考えるに違いない」という類の錯誤である。都会の若者などがゆったりとした家に住んでいるはずもなく、1Kや1DKに住んでいたり、ルームシェアしている状況下で、自宅に何日間も留まっていられるはずがない。ネズミでも探索動機であちこち這い回る。自宅に長時間留まっていられるのは余程の変人で、通常、人は「拘禁反応」を生じる。
なぜ、こんな状態になってしまうのか、科学的資料には目もくれずに「何とかなるだろう」と言う希望的観測に流され、何もしないで、いっときの騒ぎや非難が静まるのを待つのが賢明、と考える(あるいは積極的に考えることもできない)連中が支配層にいるのが問題で、この種の連中は排除し、ものを考えることのできる支配層の到来を期待するしかない。
僕はオリンピックを開催すべきではないと考えていたので、TV番組も極力見ないように、別の番組を探すが、どの地上波局もオリンピック競技を放映するので容易ではない。オオタニ選手の活躍のニュースを探すのに時間がかかる。諦めて、寝るか、となる。
職域接種の方は予想通り、遅々として進まない。学園で工夫して職域接種をすれば学園のイメージアップにつながるから、という理事者側の狙いは不発に終わりそうである。ワクチンが7月終わりに届くことを匂わす文科省の話は、これまでに2度も延期情報が送られ、まだ、確実にいつから始められるか不明なままで、学園のイメージアップ計画は、胡散霧消の気配が大である
ここまで書いて、年休を入れて夏季休暇をとっていたところ、文科省から連絡があり、8/27から我が学園でも職場接種が可能となった。お盆に休みで学園は休業中に冷凍庫や注射器などが送付され、職員は出勤。10月の末までに期間に接種希望者に実施する予定だが、予約の取り方、接種費用の請求先の多様さ(住民票先に請求せねばならず、さまざまな出身地に住民票を残している学生も多く、煩瑣)、実施マニュアルの調整、意外に希望者の少ない学生をどうするかなど、課題や仕事量の増加で、コストとベネフィットのバランスの悪さは否めない。ワクチンの接種を強制できないので、秋学期の授業をマスク無し!とはいかない。
13日間連続で休むように年休を入れたのだが、まるで梅雨の終わりのような、災害をもたらす豪雨の連続で、期待していた夏休みとはならなかった。8/17から2日ほど天気が良かったので、9ヶ月ぶりに孫と再会でき、遊園地とBBQができた。孫と会うとメンタルには良いのだが、フィジカルにはそうはいかない。疲れで、下痢気味3日目となっていたが(中年期からの通常の身体反応なのである)、8/22のオープンキャンパスには予定通り出勤した。疲れの自覚は大きく、そろそろ、3年生の孫娘がいう「校長先生」の仕事も限界かもしれないなあと思いつつも、雨ばかりの中でも無事に、息子たちと酒を酌みかわせ、孫と再会できたので、幸せな老人であることを自覚し、感謝せねばなるまい。
このようにして今年の夏は終わるのであります。
ワクチンを打ちました
月曜日(7/12)の朝に2回目のワクチンを摂取した。初回にワクチンを打った時は3時間後から注射を打った腕に張りがでて、腕が上がらない状態が20時間程続いた。同僚の医者は腕の筋肉にT型細胞が何とかで、薬が効いている証拠と慰めてくれた。
2回目も同様に3-4時間後から腕に張りが感じられ、先回よりも程度は弱かったが30時間程持続した。翌日は副反応を予想して年休を取ってあった。朝の8時に熱を測ると36度8分で、微熱だと思っていたら昼頃には37度3分までになった。体がやや重いように感じられたが、準備してあった解熱剤を飲む程ではなかった。9時過ぎからNHKで始まった大リーグのホームランダービーを見て過ごせた。年休を取っておいて良かったと思っていたが、大谷が優勝する歴史的瞬間を見られるかもと言う期待は外れた。アメリカ人は面白いと思えることは実行に移す特技があるようで、日本では、本来ヒマ人(非労働者階級:貴族)の時間潰しの遊び事であるスポーツを「**道」としたがるので、MLBのような砕けた形でのホームランダービーなどと言う発想は生まれないなあ、と感心した次第。
微熱は夕方4時過ぎから下がり始めたが(ボーとした感じが体から抜け出した)、寝る前は36度6分で、完全に下がったわけではなかったが、副反応は治ったようである。副反応は年齢が若いと出る確率が高いという事なので、副反応は若いという証明が得られたのだと、都合よく考えるようにしたい。
僕の場合はかかりつけ医でワクチンを打つことができたが、世間では接種状況がバラバラで姦しいことである。勤務先は職域接種に手を挙げたが、実施がいつになるのか不明なままである。勤務先の大学には6名の医師、8名の歯科医師がいるので、実施希望と手を挙げよと本部の方からは要請があった。医師でも臨床に携わる人は2名であとは注射など10年以上していないという人も多く、医療の経験がない事務職員が通常の仕事を中断して4-5週間もワクチン接種に関わるのには無理があるのではないかと、危惧を述べていたが、押し切られて申請を行ったわけである。文科省からは7月末からの接種という話であったが、次の連絡では8月9日以降と修正が知らされてきた。メディア情報では職域接種の規模削減とかワクチンが足りないとかで、本学園での接種がいつになるのか決まらない。日時が決まらないことには担当する医師や看護師、職員の日程調整や配置が設定できない、宙ぶらりんで夏休み以降になりそうな気配である。8月9日以降と連絡が来たので、8月9日からの接種開始という情報を大学HPにあげるという決済には不可を出し、法人のHPだけにしてもらった。保護者からは「職域での接種はあるのか」の問い合わせ電話があるので、不十分な情報提供で「自治体の方が早かったのに」の苦情を避ける必要があるのだ。気の毒なことに、苦情電話で対応するのはいつもヒラ職員なので、少しでもリスクは少なくせねばならない。上層部は世間受けの良さそうなことは「やれやれ」と言い立てるが、その負の部分は見ようとしないのが常で、政府レベルでも同じ図式だろうなと想像している。
この先オリンピックもやることはやるらしいので、終わればコロナ騒ぎでの今回の行政機関の不手際の原因は何かを確認し、次回のパンデミックに備えるしか、仕方なさそうである。ただ、企画の都合の良い面だけみて、具体的なプロセスのコストとベネフィットのバランスを考えることは避け、責任の所在を曖昧にして、という国民気質はなかなか変わらないのかもしれない。「行動変容」は心理学の得意分野のはずで、社会心理学者が頑張らねば!と言いたくなるが、その発想自体が責任を自分以外に押し付ける事なのだと言われそうなので、「言うのはやめて、反省」するしかない。
2度目のワクチン接種からほぼ4時間が経過したが、まだ体温は36.5度で、平熱よりも0.3度高い。ウダウダと書いてはみたが、取り止めもないのは、まだ副反応が終了したわけではない証拠なのかも知れませぬ。
今日は76歳の誕生日で、運転免許の書き換えのための高齢者講習(講義と実技:計2時間)の予約日であった。朝方夕立があり少し涼しかったので、自動車学校まで駅から20分歩いた。視野を計測したり、視力を計測したりして1時間、運転の実技1時間で、15年以上前の車で行われたが、検査に合格とか不合格ないという。30名弱の高齢男子ばかりの中で2時間過ごすと、日常の環境と違うので、どっと疲れた。自分が高齢者でないかのように錯覚して生きているのかも知れない。来週に警察に免許更新に行く予定はネットで取得済み(この予約はスマホでURLを使って行うようになっていた。イジメだな、と直感した)である。
松浦宏 先生の訃報から
2日前に松浦宏先生(松浦さんと呼んだ方がしっくりくる)がホスピスに移るという知らせを聞いたばかりなのに、昨日亡くなられたという電話をもらった。数年前からパーキンソン病の症状が見られ、ドーパミンコントロール薬剤の進化は近年顕著なはずなのに手の震戦は顕著であった。僕の両親が同じ病気であった頃からずいぶん年月が経過しているのに、と思っていた。最後にお目にかかってから5-6年の歳月が経過している。最近の様子は知らなかったので、思いも掛けない訃報という印象が強い。
松浦さんは話すテンポもゆっくりな穏やかな人柄で大教大を定年後、奈良の方の大学で教鞭を取り学校心理士の大阪支部長を長く務められた。大教大の卒業生で、阪大の大学院を経て大学に戻られたので、大教大歴は最長のはずである。
松浦さんの訃報を契機に一気に僕の30歳頃の心理学教室のスタッフの面々が思い出された。回想法は加齢に伴う認知機能低下を鈍化すると聞くし、メモをしておこうと思う。昭和48年に大教大に助手として着任した頃(27歳)は、心理学教室は大世帯であった。年齢順に、前田三郎、後藤与一、倉智佐一、原谷達夫、田中敏隆、中西重美、松山安雄、北尾倫彦、松浦宏、小林芳郎、小野章夫、秋葉英則、工藤力、大日向重利、岩崎純子の大教室に16人目として加わったのだった(年齢順は確実ではないが、全員の氏名が思い出せた、エライ!)。初めから5人が教授で、秋葉先生、工藤先生、大日向先生が専任講師、残りが助教授、岩崎、八田が助手であった。
昭和47年にあさま山荘事件があった頃なので大学紛争の燻りが残っているような時代である。大学紛争の結果であろう、民主的な教室運営に変わっていたこともあり、教員採用は公募、教室会議は人事を含めて助手も教授と同じ扱いをされていた。先任の秋葉、工藤、大日向の3名は公募で採用されていた。東京高等師範(茗渓会)と広島高等師範(尚志会)の間で、大教大は2学閥のせめぎ合いの場でもあったことは、前田、後藤、倉智先生らが順次定年退職され、その後釜人事の際に、学閥が顕在化するのが常であった。記録するのも憚れるようなレベルの行動が教員間で生じ、人事が始まると教室会議は長引き、先輩に飲みに連れて行かれて帰宅が遅くなるのが常であった。学閥の単語は、今ではほぼ死語だが、その実際を経験した事になる。
運よく公募で採用された時の教室主任であった田中先生からは、次の人事は5年間ないので、助手で辛抱せよということであった。採用が決まったので面接に天王寺分校に来るようにと言われて、場所はどこですかと聞いた覚えがある(その時まで大教大の所在地を知らなかった)。失礼なことを聞いたものだ。その後、学生定員増や幼児教育学教室の設置などが続いたおかげで、助手生活は2年(正確には1年11ヶ月20日)で終えることとなった(教員数は学生定員により決まるのだ)。僕の場合は4月1日採用のはずが、大学紛争の余波で大学全体での教授会(当時は300人規模の全員教授会)が遅れ、4月10日採用となった(そのために大学院の授業料は払う羽目になった)。
北尾倫彦、松浦宏、小林芳郎、小野章夫の4名は採用時の年齢、学位、大学院終了年齢、歴年齢が入り組んでおり、3-5年間には4つ空くのだが、誰が1番に教授になるかで大いに揉めたのを思い出す。詳しくは書かないが、会議で口角泡と飛ばす状態になっている場面でも松浦さんは控えめな人であった。人事は大ごとだと言うことだけは身に染みた。早く学位をとっておかねばと考えたきっかけであったことは確かである。
教室員16名がいつも揉めていたわけではないことも記録しておかねばならない。18名が在籍する教育学教室の教員とのソフトボール試合は年に2回行われ、その時は一致協力して走り回っていたものだ。松浦さんは野球が上手であった。ユニフォームまで作っていたのだから、その盛り上がりは大したものであった。大抵は心理学教室が負けていた。4月と12月には教室員全員参加での宴会があり、カラオケのない時代なので一人一人歌うのであった。大勢の教員が集団で行動することの少なくなった昨今、懐かしく、良い時代に教員生活を送れたと思うことである。
かく左様に、松浦さんの訃報から次々と記憶が蘇る。北尾先生と大日向先生を除いて全員が鬼籍に入ってしまわれた。ヒタヒタと順番が近づくのを意識せずには居れない。もっとも、蓮如の言う「万歳の人身を得たりということを聞かず、... 今に至りて、誰か100年の形態を保つべきや」は真理だと考えているので、不安や恐れを感じているわけではない。
今朝もpoolに出かけ、20往復をすることはしたが、2年ほど前までと違い、半分は水中歩行であった。いつまでも同じように心身機能を維持できることはないという現実を実感したことである。
オリンピックとワクチン接種と菜園と
コロナ感染状況は一向に改善する気配がなく、緊急事態宣言は5月12日から延長になった。北海道や広島、岡山にも適用するというニュースが報じられたり、政府原案であったものが専門家会議の意見でひっくり返ったと報じられたりで、コロナ対策の施策の一貫性のなさへの批判で賑わっている。加えて、オリンピックを開催すべきでないという報道も賑わいを見せている。
米国のT V番組のためのオリンピックになってしまい、個人的にはアトランタ以降のオリンピックには関心がない。オリンピックに出たいとするアスリート達を応援する気持ちは失せている。彼らの一部に、アマチュアが自分の能力の極限を追求したいとして頑張っていた過去のオリンピック選手とは異質のものを感じてしまうからかもしれない。東京大会でも新種のスポーツもどきをオリンピック種目につぎつぎと組み入れて肥大化している。クーベルタンさんは現状をどう評価するのだろうか。関心が薄れているのでこれ以上触れたくないが、そろそろ、「今回の東京大会は、予期しないコロナ蔓延という災害のため中止する」、その理由は、「全ての人が平等に参加できる条件が満たせず、オリンピック憲章を遵守できないため」とするのがよかろう。「中止は賠償金が発生する」という意見もあるようだが、「自然災害が理由につき、賠償はしないし、今までに大会準備に要した費用もIOCに請求はしない」と言い張れば良い。この争いは、「憲章の遵守」を掲げ、公正で倫理的であることを世界に宣伝すれば良いだけで、勝つのではあるまいか。日本は金銭のことよりも倫理を優先する国という評価を受けるのが、先々諸外国の評価を高めることに繋がると考える。現在の金銭優先のオリンピックを本来の姿に戻した偉大な国という評価が生まれそうである。走り出した事業の推進に取り組んでいる個々の職員は作業の中止を求められるのはストレスだろう。「始めるよりもやめるのにエネルギーが必要」ということは真理なので、多分私見のようには推移しないだろうと思うけれども、「憲章の遵守」を掲げて止めるのが良いと思う(大阪人らしく、知らんけど)。
オリンピックの開催にも大きく影響するはずのワクチン接種は、首相は7月中に65歳以上は終わらせると宣言したが、実態は10月末でも怪しい。早々と接種の登録のための番号が送られて、すぐにでも日程予約かと思いきや、やっと5月連休明けに予約作業が始まった。掛かり付けの医院には予約初日には200名ほどが行列し、警官が整理に出るという事態を招来したと医院のHPに記載されていた。私の掛かり付け医は2代目なのでのんびり経営しており、家に一番近いクリニックの繁盛具合とは格段に違うが、空いていることと医師が酒好きで血液検査の評価に酒飲みの好みを入れてくれるのが気に入っている。毎月血圧と血液さらさら化の薬をもらいに行くので、常連なのだ。「うちで打ちます」と言ってくれていたので、5/13に予約に家内と出掛けた。もう混雑はなく、スムースに予約は取れたが、8/2が第1回、8/23が第2回であった。「首相の嘘つき」とまでは思わないが、家内の知人は10月末ということで、まあ、早い方かと思っている。長く逢えていない孫とお盆休みには再会したいので、ワクチンを2回打ち終えていたらよかったが、1回目の効果の大なことを願うしかない。私には、他人よりも早くワクチンを打ちたいという気持ちはない。皆が打つならそうするし、間に合わなくて感染して儚くなったら、それも可という心境なので、予約に出掛けだけのことである。
孫の単語が出ての連想だが、今年も家庭菜園はきゅうり、トマト、ゴーヤなど定番の野菜を4月8日に植えた。何時もよりかなり早かったのは、孫がベランダでキューリ苗を育てているのをT V電話で見せてくれ、急がねばと慌てて苗を買いに走ったのが理由である(ちなみに、孫の育てるキューリはその後の突風で折れて、やり直しているとのこと)。私の苗は、一向に大きくならなかったので案じていたが、10日ほど前から急に成長を始めた。現状は順調に生育している。「一定の温度になる時節が来ないと作物は育たない。慌てても意味がない」ことを再学習している。そんな当たり前のことを、つい忘れるのだ。「♪いつになっても、ダメなワターシね」というムード歌謡があったっけ。