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微かに陽射しが漏れてきた

 学生からのコロナ感染を報告は最近4週間ゼロとなった(学生は律儀に報告してくれているようで、最近は副反応での体調報告がもっぱらである。小さい大学だからできることかもしれない)。

ピタリと感染の広がりが止まったという印象である。これは全国的な傾向で、どうしてだろう?と問いたくなるが、専門家でもよくわからないという。約100年前のスペイン風邪も3年で終息したので、自然界の摂理なのかも、と思ったりする。

ワクチンを打っていない学生もいるので、感染状況が下火になったかと言って、今まで通り授業体制をという訳にはいかない。密集を避け、マスク着用、手指消毒を徹底し、対面授業も出来るものだけに、という方針を変えるわけにはいかない。薄曇りの状況は不変である。来年度は通常の状態に戻れることを祈るしかない。

 

 薄日が差してきた感がするのは個人的なことで、昨年投稿した2論文の修正指示に基づいてのやり取りが、昨週に無事終わり、掲載が決定のメールが来たからである。2022年にも研究業績が加筆できるので、嬉しい。

 

 いつまでそんな事をしているのかと言われそうだが、研究者である業態を保つか否かは僕には重要で、若い人に「論文を書け」と偉そうに言えるからと、まだ加齢に伴う認知機能低下はそれほどでもないと確認できるのが理由である。要は自己満足だけで、誰も褒めてはくれないし、賞金が出るわけでもない、ましてこの年齢になり、昇任などに関係はない。

 

 研究論文を書く作業は、掲載が決まれば愉快!となるが、それまでプロセスはストレスフルなもので、大方の人は40歳代で抜け出す。学務が忙しくなったり、子育てや家庭での仕事が増えたりすることを理由にして、作業中止を自己合理化する。個人により事情は違うので、論文を書かないのはダメな奴と決めつけるほど非寛容ではないが、僕はストレスフルな状況を楽しんでいる。

 何がストレスフルかと言えば、投稿した論文がいきなり「掲載可」となることはほぼ皆無で、査読者が何かと文句(問題点の指摘)を言ってくる(満点の評価をすることは、査読者の専門知の評価につながるので、必死に問題点が探される。自分でも同じことをしてきたので、文句はない)。論文を投稿し、文句を言われることは誰でも面白くない。40歳代になり職位が上がると、自尊心を傷つけることを避けようとする心的機制が働く。職位は大抵の教育機関では一定の業績(学務を含んでの)と勤務年数(教育歴)があれば、上がるので、何も自尊心を揺るがすことに拘らなくなるのだ(ろうと、推察している)。

 

 先週に決着した論文も、2回の修正を求められた。学術雑誌によっては査読委員の任期を定めて交代させることがある。最初の査読者の指摘に対応して改稿提出すると、別人に変わっていて、また違う問題点を指摘された。「前に言っていたことと違うじゃないか!」と指摘しても仕方がないので、また修正をするのだ。Native チェックをして投稿していても、「英文を修正せよ」などというコメントが書かれることは珍しくもない。一つの論文はインド人が経営する会社でのチェックだったので、米国人に会社に再度依頼した(研究費はあるので、可能であったが)。もう一方の論文は編集代表が僕に好意的で、査読意見への修正方法を教えてくれたので助かった。査読者が誰かで、当たり外れがあるものなのだ。

 

 査読者はほぼ絶対なので、指摘は間違っているなどと論戦を挑むと、ろくなことはないことは経験則なのである。1980年ごろにイタリアの学術誌に書いた論文の査読者に文句を言ったら、「English, this is poor」とやられ、rejectされたことがある。留学先の英国人の先生と一緒に書いた英語が、「イタリア人がダメと言うの?」と呆れたが、なす術はなかったことを思い出す。この話の記憶から連想を、記しておくと、そのころは、論文はタイプライターで書いたものである。タイピストという職種があった時代があった。もちろん自分にはタイピストはいないので、雨垂れのようにポツポツと打った。投稿は3部提出が普通で、カーボン紙を挟んで、打ち間違いは修正インクを塗っていた。1972年に平野俊二先生の友人に英文を直してもらい米国心理学会誌に投稿した論文の封筒が破れて、東京から戻ってきたと大学近くの郵便局から呼び出された。やり直しを嘆いていると(郵便代金が惜しかった)、生沢雅夫先生が「行先不明でなく、戻ってきた幸運を喜ぶように」と言われたことを記憶している。この論文があったおかげで、教員公募に引っ掛かり、職を得たのであった。思い返せば、良い先生に恵まれた運の良い人間であったのだ。あれから50年。今では論文投稿は電子媒体である。細かい文字でやたら多くの注意書きがあり、視力が疎くなったので、最近は一度で投稿手続きが成功することはない。先月新たに投稿した際には、研究者の倫理観が信用されなくなったのだろう「基本データの開示に同意」の項目ができていた。嘆かわしいことである。

 

 今回の2論文とも、コロナ下で時間をかけてデータ集計した縦断研究なので、何とか辛抱して改稿したことで受理された。何だか薄日が差してきたような気分になれたことである。

 

 このように相変わらず論文を書いたりして、ストレスフル→安堵→新たなストレス希求を繰り返す日々を送っている。昨日、既知の出版社から文庫本の話が来た。薄日は単なる希望的妄想でもなさそうで、今しばらくは、認知機能の鈍化に抵抗できそうかも知れない。

 もっとも、近未来に何があるかは分からない、と自分に言い聞かせてはいますが。

宮田洋先生を偲んで

 8月25日に逝去されたと、同僚から宮田洋先生の訃報を知らされた。関学生え抜きの先生で、「クラシカル条件付け」研究の大家であった。定年退職後、現在の私の職場にも在職されたようである。私が着任した頃は非常勤講師のコマを担当されていたが、そのころは小脳に病気が見つかったとのことで、自分ではまっすぐ歩けないので、若い女性の肩を借りて通勤しておられたのを覚えている。その数年後、学会でお目にかかった時には元気になられていたので、「不死身ですね」と言った覚えがある。

 

 人見知りの性格を持つと自認している私には、勤務校以外の心理学者と長期間親しく話をした先生は2人ほどしかいない。宮田洋先生はその一人である。

 

 親しくさせていただくようになったのは非常勤講師に呼んでいただいたのがきっかけである。30過ぎの頃であった(思い返せば、この頃が人生で一番輝いていた)。当時の指導学生が関学の大学院を受験していた。「八田さん、xx君はボーダーやねん」と電話があった。突然の電話で、どう答えて良いかもたついていると、「ところで来年度、非常勤に来てくれへんか」と言う。もちろん快諾したことである。誘いを断ったら不合格になったとは思はないが、xx君は合格し、今は、国立大学の教授になっている。

 

 集中講義ではないので、毎週1コマの授業のためにJ Rで大阪に出て、阪急神戸線を十三で乗り換え仁川まで、そして徒歩でハミル館へと片道2時間ほどかけて1年間通った。3年生向けの講義で、芝生が目の前に広がる階段教室に4-50人がいたように思う。当時の勤務先の天王寺分校校舎は戦前の小学校を改装した古い木造と、安物のプレハブ教室で構成されていたので、関学の時計台と芝生のある綺麗なキャンパスは羨ましい限りであった。

 講義内容は自分の研究テーマの左右脳の機能差(ラテラリティ)についてで、学生の食いつきはとてもよかった(と思う。3,4人の女学生は後年まで賀状をくれたりしたので、妄想でもないはず)。この時の講義ノートをもとにして後年有斐閣選書を出したのだった。

 本務先では、「教育心理学」、「児童心理学」、「心理統計学」など、教職関係の科目を講義するだけで、初めて自分が専門として研究している内容を話す機会を与えられたわけで、自分の研究を大先生が認めてくれているように思え、嬉しく楽しい経験であった。数年してから、再度学部と大学院の両方での非常勤講義を依頼され、その頃の学生で研究者になった人たちとは今でも仲良くしてもらっているのだからありがたい話である。

 

 講義の日は非常勤講師控え室ではなく、ハミル館の宮田先生の研究室に来るように言われて、お茶(コーヒーだったかも)をいただき、雑談をするのがルーチンであった。爾来40年余り本当に親しくさせてもらった。ダンディで育ちの良い、人と話すのが好きな先生で、研究者など周辺にいない環境で育った私には観察学習のモデルであったように思える。

 

 この雑談の中に二つばかり今でもしっかり覚えている話題がある。

 一つは、その頃腰痛で困っていた私は「中国針一発で治った」と言う話をした(24歳ごろから10年ほどの間は、丈夫な体というには程遠く、よく熱を出したりしていたものだ。栄養状態に問題があったのかも知れない)。宮田先生は「それは、たまたまちょうど治る時期だったかもしれんよ」とコメントされたのである。「比較をしないと軽々に結論を出すのはあかんよ」と、日常生活での科学的思考の大切さを教えられたことであった。当時、先生はテニスを熱心にされていて腰痛持ちでもあり、水泳が良いことも教えてもらった。「浜寺水練学校卒やから」と言うのを何度か聞いたことである。「泳いでいる?」と後年出会うと質問されるので、今でも僕が曲がりなりにも水泳を続けているのは、宮田先生に聞かれる時に、「辞めました」と言い難いというのが原因かもしれない。

 二つ目は、「科研を出すときは、半分以上仕事が進んでいるテーマで出さんといかんよ」と言う示唆である。今から、研究したいことを申請してもダメで、ある程度実績を示すべきという教えは、有り難かった。僕は科研費は長く、たくさん頂いてきたが、振り返ると、宮田先生の示唆があってのことだろうと思う。

 

 大先輩と頻回にコミュニケーションを取る経験から、永く生き残る教えが含まれるという事実は、これから僕も若い人と面倒がられても話をする機会を増やすべきかも知れないと思うことである。

 

 何年生まれかを知りたくて心理学会のオーラルヒストリーを検索して視聴してみると、1929年生まれということであった。先生のゆっくりした口調が懐かしく、亡くなられたとは信じがたい気持ちがする。僕はあの世を信じてはいないが、もし、何年か後で再会することがあり、「泳いでいる?」と問われても困らないようにせねばなるまい。

 

 じわじわと順番が近づいてきている気配を感じつつ、仲良くしていただいたことに感謝したい。

オリンピックとコロナ感染爆発と大雨の夏

 案の定、オリンピックを強行したためにコロナ感染者数が指数関数的に増加し、8/5の時点で東京都では感染者数は5,000人を超えた。政府関係者はオリンピックと感染者数増との関連を認めないが、国民の、とりわけ若者の間での気分的高揚の影響は、行動自粛にマイナスに作用することは自明で、ブレーキを踏んでいるのかアクセルを蒸しているのか、了解不能になっている。

 大阪も1,000人を越す状況になっているので、蔓延防止措置から8/2から8/31までの緊急事態宣言に変更になった(その後9/12まで再延長となった)。我が勤務先でも、インド株の蔓延で5/25から感染陽性の学生はゼロであったのが7/27からポツポツと感染を報告する学生が出始めた。ちょうど春学期は終わる日で学年暦の変更は不要、滑り込みセーフといったところである。大抵は家族からの感染で変異したウイルス菌の威力の凄さを見せつけられたことである。夏休みの過ごし方への一層の注意喚起を再発信した。

 

 相変わらず、菅さんは記者会見でも鸚鵡返しに、同じ回答しかしないし、目は虚である。これが口頭試問なら、「問われていることに答えていない、合格点は上げられない」と助言することだろうが、記者会見のやり取りで、この種のやりとりをする記者を見たことがない。遠慮するのか、馴れ合いなのか、忖度して別の機会のお返しを期待しているのかも、と思うことである。

 

 オリンピックはお祭りなのだから、気分は高揚し、自宅で、じっとテレビを観ていてくれ、などという、「お願い」に皆が従順に従うはずがない。第一、若者に感染者が増加してきたということだが、彼らがT Vを見ると想定するのは老人の、「自分の考えることは、相手も同じように考えるに違いない」という類の錯誤である。都会の若者などがゆったりとした家に住んでいるはずもなく、1Kや1DKに住んでいたり、ルームシェアしている状況下で、自宅に何日間も留まっていられるはずがない。ネズミでも探索動機であちこち這い回る。自宅に長時間留まっていられるのは余程の変人で、通常、人は「拘禁反応」を生じる。

 

 なぜ、こんな状態になってしまうのか、科学的資料には目もくれずに「何とかなるだろう」と言う希望的観測に流され、何もしないで、いっときの騒ぎや非難が静まるのを待つのが賢明、と考える(あるいは積極的に考えることもできない)連中が支配層にいるのが問題で、この種の連中は排除し、ものを考えることのできる支配層の到来を期待するしかない。

 

 僕はオリンピックを開催すべきではないと考えていたので、TV番組も極力見ないように、別の番組を探すが、どの地上波局もオリンピック競技を放映するので容易ではない。オオタニ選手の活躍のニュースを探すのに時間がかかる。諦めて、寝るか、となる。

 

 職域接種の方は予想通り、遅々として進まない。学園で工夫して職域接種をすれば学園のイメージアップにつながるから、という理事者側の狙いは不発に終わりそうである。ワクチンが7月終わりに届くことを匂わす文科省の話は、これまでに2度も延期情報が送られ、まだ、確実にいつから始められるか不明なままで、学園のイメージアップ計画は、胡散霧消の気配が大である

 

 

 ここまで書いて、年休を入れて夏季休暇をとっていたところ、文科省から連絡があり、8/27から我が学園でも職場接種が可能となった。お盆に休みで学園は休業中に冷凍庫や注射器などが送付され、職員は出勤。10月の末までに期間に接種希望者に実施する予定だが、予約の取り方、接種費用の請求先の多様さ(住民票先に請求せねばならず、さまざまな出身地に住民票を残している学生も多く、煩瑣)、実施マニュアルの調整、意外に希望者の少ない学生をどうするかなど、課題や仕事量の増加で、コストとベネフィットのバランスの悪さは否めない。ワクチンの接種を強制できないので、秋学期の授業をマスク無し!とはいかない。

 

 13日間連続で休むように年休を入れたのだが、まるで梅雨の終わりのような、災害をもたらす豪雨の連続で、期待していた夏休みとはならなかった。8/17から2日ほど天気が良かったので、9ヶ月ぶりに孫と再会でき、遊園地とBBQができた。孫と会うとメンタルには良いのだが、フィジカルにはそうはいかない。疲れで、下痢気味3日目となっていたが(中年期からの通常の身体反応なのである)、8/22のオープンキャンパスには予定通り出勤した。疲れの自覚は大きく、そろそろ、3年生の孫娘がいう「校長先生」の仕事も限界かもしれないなあと思いつつも、雨ばかりの中でも無事に、息子たちと酒を酌みかわせ、孫と再会できたので、幸せな老人であることを自覚し、感謝せねばなるまい。

 

 このようにして今年の夏は終わるのであります。

ワクチンを打ちました

  月曜日(7/12)の朝に2回目のワクチンを摂取した。初回にワクチンを打った時は3時間後から注射を打った腕に張りがでて、腕が上がらない状態が20時間程続いた。同僚の医者は腕の筋肉にT型細胞が何とかで、薬が効いている証拠と慰めてくれた。

2回目も同様に3-4時間後から腕に張りが感じられ、先回よりも程度は弱かったが30時間程持続した。翌日は副反応を予想して年休を取ってあった。朝の8時に熱を測ると36度8分で、微熱だと思っていたら昼頃には37度3分までになった。体がやや重いように感じられたが、準備してあった解熱剤を飲む程ではなかった。9時過ぎからNHKで始まった大リーグのホームランダービーを見て過ごせた。年休を取っておいて良かったと思っていたが、大谷が優勝する歴史的瞬間を見られるかもと言う期待は外れた。アメリカ人は面白いと思えることは実行に移す特技があるようで、日本では、本来ヒマ人(非労働者階級:貴族)の時間潰しの遊び事であるスポーツを「**道」としたがるので、MLBのような砕けた形でのホームランダービーなどと言う発想は生まれないなあ、と感心した次第。

  微熱は夕方4時過ぎから下がり始めたが(ボーとした感じが体から抜け出した)、寝る前は36度6分で、完全に下がったわけではなかったが、副反応は治ったようである。副反応は年齢が若いと出る確率が高いという事なので、副反応は若いという証明が得られたのだと、都合よく考えるようにしたい。

 

  僕の場合はかかりつけ医でワクチンを打つことができたが、世間では接種状況がバラバラで姦しいことである。勤務先は職域接種に手を挙げたが、実施がいつになるのか不明なままである。勤務先の大学には6名の医師、8名の歯科医師がいるので、実施希望と手を挙げよと本部の方からは要請があった。医師でも臨床に携わる人は2名であとは注射など10年以上していないという人も多く、医療の経験がない事務職員が通常の仕事を中断して4-5週間もワクチン接種に関わるのには無理があるのではないかと、危惧を述べていたが、押し切られて申請を行ったわけである。文科省からは7月末からの接種という話であったが、次の連絡では8月9日以降と修正が知らされてきた。メディア情報では職域接種の規模削減とかワクチンが足りないとかで、本学園での接種がいつになるのか決まらない。日時が決まらないことには担当する医師や看護師、職員の日程調整や配置が設定できない、宙ぶらりんで夏休み以降になりそうな気配である。8月9日以降と連絡が来たので、8月9日からの接種開始という情報を大学HPにあげるという決済には不可を出し、法人のHPだけにしてもらった。保護者からは「職域での接種はあるのか」の問い合わせ電話があるので、不十分な情報提供で「自治体の方が早かったのに」の苦情を避ける必要があるのだ。気の毒なことに、苦情電話で対応するのはいつもヒラ職員なので、少しでもリスクは少なくせねばならない。上層部は世間受けの良さそうなことは「やれやれ」と言い立てるが、その負の部分は見ようとしないのが常で、政府レベルでも同じ図式だろうなと想像している。

 

  この先オリンピックもやることはやるらしいので、終わればコロナ騒ぎでの今回の行政機関の不手際の原因は何かを確認し、次回のパンデミックに備えるしか、仕方なさそうである。ただ、企画の都合の良い面だけみて、具体的なプロセスのコストとベネフィットのバランスを考えることは避け、責任の所在を曖昧にして、という国民気質はなかなか変わらないのかもしれない。「行動変容」は心理学の得意分野のはずで、社会心理学者が頑張らねば!と言いたくなるが、その発想自体が責任を自分以外に押し付ける事なのだと言われそうなので、「言うのはやめて、反省」するしかない。

 

  2度目のワクチン接種からほぼ4時間が経過したが、まだ体温は36.5度で、平熱よりも0.3度高い。ウダウダと書いてはみたが、取り止めもないのは、まだ副反応が終了したわけではない証拠なのかも知れませぬ。

 

  今日は76歳の誕生日で、運転免許の書き換えのための高齢者講習(講義と実技:計2時間)の予約日であった。朝方夕立があり少し涼しかったので、自動車学校まで駅から20分歩いた。視野を計測したり、視力を計測したりして1時間、運転の実技1時間で、15年以上前の車で行われたが、検査に合格とか不合格ないという。30名弱の高齢男子ばかりの中で2時間過ごすと、日常の環境と違うので、どっと疲れた。自分が高齢者でないかのように錯覚して生きているのかも知れない。来週に警察に免許更新に行く予定はネットで取得済み(この予約はスマホでURLを使って行うようになっていた。イジメだな、と直感した)である。

松浦宏 先生の訃報から

 2日前に松浦宏先生(松浦さんと呼んだ方がしっくりくる)がホスピスに移るという知らせを聞いたばかりなのに、昨日亡くなられたという電話をもらった。数年前からパーキンソン病の症状が見られ、ドーパミンコントロール薬剤の進化は近年顕著なはずなのに手の震戦は顕著であった。僕の両親が同じ病気であった頃からずいぶん年月が経過しているのに、と思っていた。最後にお目にかかってから5-6年の歳月が経過している。最近の様子は知らなかったので、思いも掛けない訃報という印象が強い。

 

 松浦さんは話すテンポもゆっくりな穏やかな人柄で大教大を定年後、奈良の方の大学で教鞭を取り学校心理士の大阪支部長を長く務められた。大教大の卒業生で、阪大の大学院を経て大学に戻られたので、大教大歴は最長のはずである。

 

 松浦さんの訃報を契機に一気に僕の30歳頃の心理学教室のスタッフの面々が思い出された。回想法は加齢に伴う認知機能低下を鈍化すると聞くし、メモをしておこうと思う。昭和48年に大教大に助手として着任した頃(27歳)は、心理学教室は大世帯であった。年齢順に、前田三郎、後藤与一、倉智佐一、原谷達夫、田中敏隆、中西重美、松山安雄、北尾倫彦、松浦宏、小林芳郎、小野章夫、秋葉英則、工藤力、大日向重利、岩崎純子の大教室に16人目として加わったのだった(年齢順は確実ではないが、全員の氏名が思い出せた、エライ!)。初めから5人が教授で、秋葉先生、工藤先生、大日向先生が専任講師、残りが助教授、岩崎、八田が助手であった。

 

 昭和47年にあさま山荘事件があった頃なので大学紛争の燻りが残っているような時代である。大学紛争の結果であろう、民主的な教室運営に変わっていたこともあり、教員採用は公募、教室会議は人事を含めて助手も教授と同じ扱いをされていた。先任の秋葉、工藤、大日向の3名は公募で採用されていた。東京高等師範(茗渓会)と広島高等師範(尚志会)の間で、大教大は2学閥のせめぎ合いの場でもあったことは、前田、後藤、倉智先生らが順次定年退職され、その後釜人事の際に、学閥が顕在化するのが常であった。記録するのも憚れるようなレベルの行動が教員間で生じ、人事が始まると教室会議は長引き、先輩に飲みに連れて行かれて帰宅が遅くなるのが常であった。学閥の単語は、今ではほぼ死語だが、その実際を経験した事になる。

 

 運よく公募で採用された時の教室主任であった田中先生からは、次の人事は5年間ないので、助手で辛抱せよということであった。採用が決まったので面接に天王寺分校に来るようにと言われて、場所はどこですかと聞いた覚えがある(その時まで大教大の所在地を知らなかった)。失礼なことを聞いたものだ。その後、学生定員増や幼児教育学教室の設置などが続いたおかげで、助手生活は2年(正確には1年11ヶ月20日)で終えることとなった(教員数は学生定員により決まるのだ)。僕の場合は4月1日採用のはずが、大学紛争の余波で大学全体での教授会(当時は300人規模の全員教授会)が遅れ、4月10日採用となった(そのために大学院の授業料は払う羽目になった)。

 

 北尾倫彦、松浦宏、小林芳郎、小野章夫の4名は採用時の年齢、学位、大学院終了年齢、歴年齢が入り組んでおり、3-5年間には4つ空くのだが、誰が1番に教授になるかで大いに揉めたのを思い出す。詳しくは書かないが、会議で口角泡と飛ばす状態になっている場面でも松浦さんは控えめな人であった。人事は大ごとだと言うことだけは身に染みた。早く学位をとっておかねばと考えたきっかけであったことは確かである。

 

 教室員16名がいつも揉めていたわけではないことも記録しておかねばならない。18名が在籍する教育学教室の教員とのソフトボール試合は年に2回行われ、その時は一致協力して走り回っていたものだ。松浦さんは野球が上手であった。ユニフォームまで作っていたのだから、その盛り上がりは大したものであった。大抵は心理学教室が負けていた。4月と12月には教室員全員参加での宴会があり、カラオケのない時代なので一人一人歌うのであった。大勢の教員が集団で行動することの少なくなった昨今、懐かしく、良い時代に教員生活を送れたと思うことである。

 

 かく左様に、松浦さんの訃報から次々と記憶が蘇る。北尾先生と大日向先生を除いて全員が鬼籍に入ってしまわれた。ヒタヒタと順番が近づくのを意識せずには居れない。もっとも、蓮如の言う「万歳の人身を得たりということを聞かず、... 今に至りて、誰か100年の形態を保つべきや」は真理だと考えているので、不安や恐れを感じているわけではない。

 

 今朝もpoolに出かけ、20往復をすることはしたが、2年ほど前までと違い、半分は水中歩行であった。いつまでも同じように心身機能を維持できることはないという現実を実感したことである。

オリンピックとワクチン接種と菜園と

 コロナ感染状況は一向に改善する気配がなく、緊急事態宣言は5月12日から延長になった。北海道や広島、岡山にも適用するというニュースが報じられたり、政府原案であったものが専門家会議の意見でひっくり返ったと報じられたりで、コロナ対策の施策の一貫性のなさへの批判で賑わっている。加えて、オリンピックを開催すべきでないという報道も賑わいを見せている。

 米国のT V番組のためのオリンピックになってしまい、個人的にはアトランタ以降のオリンピックには関心がない。オリンピックに出たいとするアスリート達を応援する気持ちは失せている。彼らの一部に、アマチュアが自分の能力の極限を追求したいとして頑張っていた過去のオリンピック選手とは異質のものを感じてしまうからかもしれない。東京大会でも新種のスポーツもどきをオリンピック種目につぎつぎと組み入れて肥大化している。クーベルタンさんは現状をどう評価するのだろうか。関心が薄れているのでこれ以上触れたくないが、そろそろ、「今回の東京大会は、予期しないコロナ蔓延という災害のため中止する」、その理由は、「全ての人が平等に参加できる条件が満たせず、オリンピック憲章を遵守できないため」とするのがよかろう。「中止は賠償金が発生する」という意見もあるようだが、「自然災害が理由につき、賠償はしないし、今までに大会準備に要した費用もIOCに請求はしない」と言い張れば良い。この争いは、「憲章の遵守」を掲げ、公正で倫理的であることを世界に宣伝すれば良いだけで、勝つのではあるまいか。日本は金銭のことよりも倫理を優先する国という評価を受けるのが、先々諸外国の評価を高めることに繋がると考える。現在の金銭優先のオリンピックを本来の姿に戻した偉大な国という評価が生まれそうである。走り出した事業の推進に取り組んでいる個々の職員は作業の中止を求められるのはストレスだろう。「始めるよりもやめるのにエネルギーが必要」ということは真理なので、多分私見のようには推移しないだろうと思うけれども、「憲章の遵守」を掲げて止めるのが良いと思う(大阪人らしく、知らんけど)。

 

 オリンピックの開催にも大きく影響するはずのワクチン接種は、首相は7月中に65歳以上は終わらせると宣言したが、実態は10月末でも怪しい。早々と接種の登録のための番号が送られて、すぐにでも日程予約かと思いきや、やっと5月連休明けに予約作業が始まった。掛かり付けの医院には予約初日には200名ほどが行列し、警官が整理に出るという事態を招来したと医院のHPに記載されていた。私の掛かり付け医は2代目なのでのんびり経営しており、家に一番近いクリニックの繁盛具合とは格段に違うが、空いていることと医師が酒好きで血液検査の評価に酒飲みの好みを入れてくれるのが気に入っている。毎月血圧と血液さらさら化の薬をもらいに行くので、常連なのだ。「うちで打ちます」と言ってくれていたので、5/13に予約に家内と出掛けた。もう混雑はなく、スムースに予約は取れたが、8/2が第1回、8/23が第2回であった。「首相の嘘つき」とまでは思わないが、家内の知人は10月末ということで、まあ、早い方かと思っている。長く逢えていない孫とお盆休みには再会したいので、ワクチンを2回打ち終えていたらよかったが、1回目の効果の大なことを願うしかない。私には、他人よりも早くワクチンを打ちたいという気持ちはない。皆が打つならそうするし、間に合わなくて感染して儚くなったら、それも可という心境なので、予約に出掛けだけのことである。

 

 孫の単語が出ての連想だが、今年も家庭菜園はきゅうり、トマト、ゴーヤなど定番の野菜を4月8日に植えた。何時もよりかなり早かったのは、孫がベランダでキューリ苗を育てているのをT V電話で見せてくれ、急がねばと慌てて苗を買いに走ったのが理由である(ちなみに、孫の育てるキューリはその後の突風で折れて、やり直しているとのこと)。私の苗は、一向に大きくならなかったので案じていたが、10日ほど前から急に成長を始めた。現状は順調に生育している。「一定の温度になる時節が来ないと作物は育たない。慌てても意味がない」ことを再学習している。そんな当たり前のことを、つい忘れるのだ。「♪いつになっても、ダメなワターシね」というムード歌謡があったっけ。

コロナ感染拡大下の4月

 入学式は新入生を3グループに分け講堂に集め、30分程度の時間にした式典を実施できた。朝の10時から午後の4時前まで、芸能人のライブ公演のようだと自嘲しながら鼻炎の状態がすぐれない体調下でこなした。入学式は4月2日のことで、その時期はそれほどコロナ感染学生(家族)情報がなかったのに、授業が開始された4月8日頃からコロナ感染陽性とか濃厚接触特定などの情報が急に増え始めた。

 

 大阪での感染者が1000人を超える時期に比例するように学生にも感染者が出始めた。原因はやはり気の緩みと物事を自分に都合の良いように解釈する人間の特性にあるようだ。「アルコール抜きの誕生日のお祝いでケーキを食べた」ので、メディアで言われている注意事項(夜の歓迎会や飲み会は自粛)の定義に当てはまらないと思った、という学生もいた。マスクは何のためにするのかの本質的な意味を理解していない。ピアジェのいう形式的操作段階に認知機能は発達しておらず、具体的操作段階の思考様式なのだというと言い過ぎかな。急いで、学生あてに具体的に止めるべき行動を列挙して注意喚起を指示した事である。

 

 その後、T Vメディアではマスクなしで騒ぐ行儀の悪い若者の映像を盛んに流すようになったが、若者のマナーの悪いのは大人を見本に観察学習しているだけなのだろう。厚労省の役人も大阪市の職員も送別会や歓迎会は自粛せよという当事者らが自粛せずにクラスターが発生し、自粛要請違反が見つかるという体たらくでは、学生や一般の社会人がいうことを聞くはずもないのは自明である。50年前には地域社会が持っていた行動規制のルール(家の外での行儀)は、地域社会というものが胡散霧消してしまったので機能しなくなってしまった。昔の地域のルールも面倒な面もあった。物事には良い面と悪い面を併せ持つということであろう。

 

 大阪での患者の急増は変異株のためと言い訳しているが、保健所の検査体制がおっつかない、病床がない、医療崩壊がなどと騒ぐ知事の選挙母体が保健所や公立病院を統廃合し、税金の無駄を省いた、公務員を減らしたと勝ち誇っていたことの後遺症であろう。何が起きるかわからないと危機管理の制度設計を、現状の損得に走りがちな住民を説得して先を見越して準備しておくような政治家リーダーが欲しい。大地震に見舞われた直後、公共工事削減ということで、土木工事会社がなくなっていて復興工事に支障があったことから何も学べていないのだ。

 

 3度目の緊急事態宣言が出たので、授業体制はシミュレーションしてあった選択肢の一つから変更して対応することとなった。今回は学校への休業要請がない。全部リモート授業にして欲しいという学生も数名いて、対面授業を加味した新しい授業体制に理解をしてもらう必要があり、忙しいことであった。

 

 連休が始まって、久しぶりに家内の気に入っているへんこつな親父(50歳位?)がやっているパン屋(シトーレンがしっとりしていてうまい)に同行した。突然、親父が「オリンピックやめませんか、維新選挙で落としませんか、ひどいですよ、知事も市長も」と話しかけてきた。気の合う家内とひとしきり盛り上がるのを聞いていた。巷にオリンピックどこじゃないだろうと鬱積したものが充満しているのだ、と思ったことである。僕自身は、19歳の頃に経験した東京大会の記憶だけで十分で、開催時期・時間や競技種に開催国の都合も許さないオリンピックは不要と考えている。

 

 今月中にワクチン接種が叶うのだろうか、自分は状況に委ねるだけだと思いつつ、読書で時間を過ごせている。

老性を自覚

  歳をとったなあと感じ老性を自覚ことはずっと以前からあったので、70半ばとなって今更でもないのだが、それでも自分は毎日変わらずに生活できている(はず)と認識しているものだ。大抵の場合には、変わらずにできていることを、つまりPositiveな面に焦点を当て、逆の面には気づかないように適応メカニズムが働いている。しかし、この適応メカニズムでの閾値を超えるような事象が起きると、改めて歳をとったと自覚させられるのだ。最近2回も閾値を超えたのである。

 

  3月23日には卒業式を挙行した。コロナ感染状況は依然として収束の気配を見せないので、リモートでの卒業式という選択も議論したが、一生に一度の晴れ姿が映える状況を少々の危惧があっても、講堂に学生を集わせて実施しようと1月末には決めていた。幸い感染者が新たに出たという事もなく、好天の下で挙式できた。来賓を最小限にしたり、時間を短縮したり、1.2m以上離しての座席となるように学科ごとに半分に分けて午前と午後で2回同じ事をやった。式辞を2回読んだわけである。朝にモーニング服に着替え、昼ごはんを挟んで午後の式典が終わるまでそのままで過ごした。式典は30分ほどの時間に短縮しての2度公演というわけだが、終わるとドット疲れが襲ってきた。心底、疲れたと思ったのである。この予想以上の疲労感は、「歳を取ったな」という内なる囁きをもたらした。それでも、久しぶりに華やかな気持ちになったのを楽しんでか、和服姿の学生は4時過ぎまで写真を取り合ったり、談笑したりする姿があった。窓から学生らを眺めてリモートにしなくてよかったと思ったことである。

 

  金曜日の夜に、金融カード会社から本人を確認しての電話があった。家内から何度も電話があったが、内容は言わないと聞いていた電話である。請求書が送付してあるはずだが、入金がされていないと言う。PONTAカード利用での5,000円弱の支払い要求であった。確認するとガソリン代金ということであった。普段使わないカードだが、そういえば2月に1度だけスタンドで値引きになると知って使った記憶があるので、了解し、土曜日の銀行振り込みを約束した。電話の相手の口調は振り込み票を送ってあるはず、なぜ遅れるのか、というような感じの悪い対応で、明日振り込むと声を大きくしたのであった。電話でやりとりしている間にPONTAカードを作った記憶が蘇った。昨年夏に佐久市のガソリンスタンドで給油していると、アルバイトの高校生がカード作成を頼んできたのだ。作れば僕に現金1,000円をくれると言う。それじゃバイトの売上に協力するか、と作成した事を思い出した。しかし、カードは銀行口座と繋がっているものと思い込んでいた。あとで調べるとPONTAカードは使った金額の請求が来て振り込むというシステムである事、カード審査がないので若者が作りやすくなっているとあった。クレジットカードは銀行から自動的に引き落とされるものしか持っていないはずであった。しかし、利用後、請求書が来て振り込むというカードもあるのだ。カードで給油したら勝手に銀行口座から落ちるものだと思い込む固定観念が問題を招来したのだ。

 

  土曜日の朝、一番近いスーパーのATMから送金すべしと、家内から銀行のカードを預かって、ATMで実行しようとしたが、「窓口でしか扱えない」と表示が出て、振り込みできずに、記帳だけして帰宅した。家内は現金を引き出して送金すればよかったのにというので、再度出かけてATMにたどり着いたが、振り込みはできなかった。ATM単独の場所からは現金での取り扱いは不可というのを戻ってネットで調べて知った。家内は銀行カードが使えないはずなはないと言い張り、険悪な雰囲気になったのだが、その時、カードの入れ方の間違いの可能性を指摘されたのだ。家内の持っている銀行カードは2種の方向で矢印がついている。それぞれ違う機能らしい。それではと再度スーパーのATMに行って家内にやってもらうと、問題なく振り込み送金できたのである。カードの差し込み方向に2通りあって機能が違うことは当たり前だと、いうので自分の銀行カードを調べると矢印は1方向である。2つの方向のカードは銀行カードもクレジットカードも1枚もなかった。

  最近の銀行はカードのいろいろ機能を付けて、預金高に応じたサービスをするようになっているらしい。家内から言われるまでもなく、カードは1つの矢印で使うものだという固定観念が1日に3回もスーパーに行く結果を産んだのである。「歳をとったなあ」と思い知らされた週末であった。

 

  来週の入学式は三密を避けるために午前1回、午後2回の3部公演で挙行する予定になっている。摂生して備えねばなりませぬ。

なんだ、そういう事か

 しばらく記事にするようなこともなく、毎日を過ごしていた。入学試験を何度か実施したり、毎日大量の決済印を押したり、広告費や奨学金を削減せよという、ここ数年来の理事長の指示への対応には追われていたが、記事にするほどのことでもない(学生募集の効率を上げるためには広告宣伝費を増やす、奨学金を潤沢にという方向性を考えるはずと思うのだが、逆のベクトルなので苦労するのだ)。

 

 昨日、記事にしておこうと思う事件が起きた。ちょっと大層だが、「なんだ、そういう事か」と思ったことがあった。4-5日前にメールが届いた。「先に送ったメールの件ですが、日程を調整したいという」ララという女性からのメールなので、怪しい系のメールだろうと放置してあった。ところが、総務に電話が入り、「学長宛にメールを送ったが返信がない」と言ってきたのだ。英語で電話が取れるスタッフがいたっけ?と訝しい思いでいたら、英語に堪能な派遣さんがいたのだ。

 

 それではと、先のメールというのが届いてないと伝え、改めて送ってきた文面をみると、N Yの歴史のある著名な雑誌からのインタビュー依頼状であることが判明した。曰く、「コロナ感染状況下で日本の高等教育は世界的観点からは優れて行われている。ついては、その一つである貴大学にzoomでインタビューしたいので都合の良い時間を1時間欲しい」と言う。参考資料として2021年にインタビューした人名リストが付けてあった。そこには安倍晋三を始め2人の元文科大臣、日本の著名大学の学長名が30名掲載されていた。そのリストに驚いてしまい、なぜ僕のところにメールしてきたのだろうと不思議ではあったが、コロナ下でも対面授業を工夫して継続したうちの大学のシステムに気づいて誰かが情報提供したのかも知れない、などと想像を逞しくした。御多分に洩れず、都合よく情報を解釈したのである。「そうであったらいいな」と考えてしまったのだ。著名大学の学長と同格に扱ってくれると言うのかい、と気分を良くしたことも否定しない。

 

 コロナ下での教育という話題となれば、関連する英単語は確認しておかねばと、変異株とか部屋の消毒の徹底などの英語表現をメモしておいたりして、約束の時間を待ったのだ。しばらくぶりに英語を話すのでやや緊張していた。時間前には3度もトイレに行った。インタビュアーは若い女性2名で(僕が見て若いということですけど)あった。

 

 Zoomでのインタビューは問題なく始まり、大学の歴史、学生の特性や育てたい学生像などの話や僕の専門やキャリアの確認などで40分以上が過ぎた。2時から始まったので3時には外出の予定があり、話をコロナ下での授業に移そうとすると、留学生に望むことは何か、などと聞いてくる。自分のところは、留学生は受け入れていないというと、今後の計画などを聞くのだ。台湾との交流を皮切りに始めつつあるなどの話をしていると、残り10分ほどのあたりで、本題らしく、1ページの価格と半ページの価格がいくらであるということであった。ここで、「なんだ、そういう事か」と理解した。大学案内を、インタビュー記事をもとに雑誌に掲載しないかというわけである。国際的に著名な雑誌であるだけあって、1ページの価格は3万ドル弱、半ページは2万ドル弱であった。数年前に同じような企画を文藝春秋が持ち込んできたときは1ページ30万円であったことを思い出し、価格はそんなものかも知れないと納得したが、うちの大学や僕には縁のない提案である。

初めから宣伝広告を出しませんかとは言ってこないわけで、それも了解できることでもあり、腹が立つということはなかったが、自分が良いように想像していた類の話ではなかったので、2-3日浮かれ気味であった自分が気恥ずかしくなった。

 

 若い女性2人を相手に60分タダでおしゃべりできたので、準備に費やしたエフォートは相殺することにしよう、と考えている次第。掲載料の話になったときに、「そんな高い費用は理事長決済になる、きっと無理だよ」と伝えたとき、「ケチでしっかりしているから」の英語表現が思いつかず、「greed」とう単語が浮かんで使ってしまった。申し訳ない。言い間違いの中に無意識に抑圧されていることが浮かび上がるという精神分析に考え方に僕は全面的に賛成しているわけではないと記しておこう。

 

コロナ禍でのクリスマスカード

 どの国でもコロナ感染状況が酷いので、例年よりも時間がかかるかも知れないと考え、昨年の12月7日にクリスマスカードを投函した。郵便局でも配達は遅れるかも知れませんと言われたが、せいぜい5-6日遅延するぐらいだろうと高を括っていた。ところが、すでに当方は12月中にカードを受け取っている英国の元同僚は1月12日に届いたとメールがきた。郵便物では6週間近くもかかったことになる。

 1977年に英国の大学寮に滞在し、家内やゼミ学生らと手紙をやり取りした頃でも1週間ほどで到着した記憶があるので、英国のコロナ状況は大変なのだと思ったことである。今も存在はするようだが、Air Letterと称するものがあった(Air letter: a letter that is sent by aircraft, usually consisting of a single very thin of paper that is fold and then struck at the edges to form its own envelop)。切手が印刷してある紙片で、折り畳むと封書になる。ハガキのよりは内容が秘匿できるし、すぐに投函できる便利なものである。

 Air Letterで記憶が検索されるのは、日本人が誰もいない学生寮にいた頃のことで、寮には夏休みに帰郷しない留学生のみが少数残っているだけであった。この留学生たちとは仲良くなり現在もカードのやり取りをしている人もいる。今では想像もできないことだろうが、航空券を購入した旅行代理店ではヒースローからどうやって(ウェールズの首都で30万都市の)Cardiffに行くのか説明できない、現地で聞いてくれというような、海外情報のない時代であった。ちなみにその時の往復の航空券代金は約60万円であったと記憶する。

 寮での夕食(教員らは集合して、寮長の後を鳥のように行列して講堂のような広い食堂の壇上に横並びで座り、学生に向かって食べるのだ。給仕が付いていた。僕も教員とみなされ並んで食べていた)が終わると、ひたすら日本宛に手紙を書いた。毎晩2-3通書いていたので、いちいち切手を貼らずに済むAir Letterを愛用していたのだ。ノイローゼ状態だったのだろう。8週間で5Kg痩せ、持参したズボンが履けなくなり、街で生まれて初めてジーンズを買った記憶がある。子供用しか合わなかったが。今も、ストレスは結構高いと思っているが、一向に痩せることにつながらない。

 何故に手紙であったのか電話をすれば良いじゃないかと訝しがる読者もいるかもしれないが、電話代は法外に高かったのである。無事到着したことを伝える短い電話をした記憶(電報かも)があるが、4,000円ほどした(2食付きの寮費が1週間で10,000円程度であった)。電話をするには交換手と英語でやりとりをせねばならない時代であり、会話力に自信もなかったので、手紙にするしかなかったのだ。

 

 1月の終わり近くになって、ロンドン、サンパウロ、ポーランドからと僕の送ったカードがついたと書いてあるカードが順次届いた。ロンドンからのは、40年ほど在英している古い友人からで、僕のカードが届かないので「体調に不具合が生じたのだろう」と考えたとある。彼女は半年前に旦那さんを亡くしたとあるので、僕が死んだと連想したのだろう。日本のコロナがひどいようだけど、と記してあった。僕はロンドンに住んでいる方が大変と思うのだが、英国のニュースを見ると日本の方が大変と思うらしい。情報というものの伝わり方はややこしいものである。我々もT V画面だけに頼ると、情報は歪んで伝わることがあることに気をつけねばならない。

 サンパウロからのカードは日系3世の元留学生からで、数年前に定年になって夫婦で会いに来てくれた人で、僕がNHKの番組に出ているのを見たとあった。クリスマスカードが6週間も掛かったりするのに妙な時代だと考えてしまう。ポーランドからのカードも元留学生からのもので今回は家族写真が入っていた。僕の大学の部屋に以前送ってくれた彼女の子供の写真を飾っているが、今回送られてきた子供は18歳と15歳になっていてすっかり大人の様相が伺え、驚いてしまった。前にあってから10年ほどが経過しているとは言え、子供の成長の早さには驚かされる。しばらく家族写真を送ってこなかったので、「離婚したのかもしれない。旦那の文句をいっぱい言っていたから」という家内の推論は杞憂に終わり安心した。ポーランドもコロナで大変ということであった。

 

 コロナは世界中を席巻しているが、年内の届いたカードも年越しとなったカードからも友人やその家族は元気に過ごしていることがわかり、安堵したことである。コロナに感染し、闘病している人や収入が途絶えたという知らせは今のところ周辺からは聞こえてこない状況で新年を過ごせている幸運を有り難く思う

 

 予想以上に時間を要したクリスマスカードのやりとりであったが、考えてみれば40年前には英国へのAir letterが1週間でつくことに納得し、2週間後に返事が来ることを心待ちに機嫌よく暮らしていたのだ。internet電話でやりとりができ、電子メールでの送信に返信は即時に可能となったことが果たして効用ばかりなのかしらと考えてしまう。

 

 手紙を書く行為は、電子メールはinternet電話に比べて、企画・構成力、文章力、漢字の想起など前頭葉機能の関与度が高い。以前に八雲研究の一部として、院生と高齢者との手紙の交換を実験的に実施し、運動だけしかしない高齢者群と比べて前頭葉機能が維持されやすいという論文を書いた本人なので、加齢による前頭葉機能の低下を鈍化させるためにもカードや手紙は書かねばなるまい。

 

 そろそろ切り上げて、1週間後に迫った孫あての誕生日カードを書かねば。