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新型コロナウイルス騒動下の年度替わり

 新型コロナウイルス感染者数は増加の一途を辿っており、まだ収束の気配を見せない。卒業式も明日行う予定の入学式も全体での式典は取りやめ、学科別での関連書類の手交となった。そのために、モーニングを着る際の立襟のシャツの洗濯代は1回分助かったが、年度が変わるような実感を持てないでいる。妙な気持ちで過ごしている。

 

卒業式は式典取りやめの決定時期が間際で、式辞は印刷して配布したが、入学式の挨拶はDVDでの視聴にしてもらうためにプロンプターを購入、使ってみた。なかなか良くできている(器具がである)。T V画面で安倍さんが下を見ていないで話しているのはプロンプターを見ているからである。何時見ても視聴者に訴えるパワーが少ないと感じるのは、嘘つき者と偏見を持ってしまっているからかも知れない。

 

 卒業式の日の夕刻、面会を求める学生がいるというので、式典をしなかったことへの苦情かな?と会ってみると、「お世話になり、有り難うございました」と美酒を添えてお礼のために来たのであった。東北から来たという学生であった。「浦霞」の吟醸生原酒は昨夜飲み終えたが、誠に旨い酒である。おそらくは、親が先生に渡すようにと手配をされたものであろう。式典はしなかったが、各学科を走り回って学生にお詫びとお祝いを告げたので、その時、この人も加えておかねばと、思い持参してくれたのであろう。建学精神「感恩」を体現してくれ、郷里を離れての大学生生活にも満足してもらえたのだろうと、嬉しかった。

 

このことから、そう言えば今年は3年ぶりに入学定員を充足できたことへののお礼を現場スタッフ(参事)にせねばと思い至った。地方の高校周りをしてくれている最前線の参事さんらに御礼の品(思いつくのは酒しかない)と、学生へのお礼の品と共に購入した。入試広報部の職員へも山形の酒を配ることにして手配をした。22名分も必要だったが、外で飲んだことを思えばと痩せ我慢をすることにした。

 

 思い返せば1980年代のゼミ学生の親も、子どもがご馳走になりましたと自宅にお礼の電話をもらったりしたものである。懐が乏しいので、学生たちの腹をまずは餃子やレバニラ炒めで大きくさせてから、バーに行った。親はホテルのバーでご馳走になったようでと勘違いしてくれて、恐縮したものである。現在は個人情報保護ということで教員の電話番号などは学生は知らない。

 

 京都産業大学の学生らがクラスターになったというニュースで、新学期の授業をどうするかの検討が一気に慌ただしさを増している。私の勤務する大学は経済学部や法学部などが中心の大学と違って、国家資格関連の学部がほとんどであるため外部での実習が多く、自分の大学の都合で学年暦を簡単にはいじれない。知恵を絞って、工夫して乗り越えるしかない。

 

京産大のニュース以降、保護者からの事務への授業スケジュールへの問い合わせが急増している。「授業開始時期を延期せよ」、「年寄りがいるので、通勤が怖い」、「電車に乗るのは怖い」、「高い授業料をとっているのだからウェブで授業せよ」などなどと聞かされて、職員はストレスいっぱいである。大学にお世話になっているなどという発想はなく、そちらの大学に行ってあげている顧客で、自分の方が立場が上と言わんばかりの保護者も少なくない。

昔の大学ではそういうような大学に苦情を言ってくるような保護者はおらず、気楽でよかった、などと思わず口に出そうになるが、言っても詮無いことである。

 

 このような保護者はともかく、誰かの役に立ちたいという素直な気持ちで対人援助職に就こうとしている若者の心根だけは伸ばし、育てて社会に送り出さねばならない、それが使命だからねと、もう一期現職を引き受けてしまったからには、明日の教員研修会では伝えねばなるまい。

新型コロナウイルス騒動の最中では

 新型コロナウイルス騒動は、2月初旬の豪華クルーズ船ダイアモンド・プリンス号の感染者騒動から高まり、今や世界中の重大問題になっている。まだまだ収束の兆しが見えず、E Uでも国境を跨いでの自由な移動が不可となったり(このことのE U理念との齟齬はこの先どのような影響を生むのだろう)、日本を含む世界中の国でも往来の禁止が次々と報告されたりしている。

 

 自分の生活においても予定していた一泊研修旅行は取りやめ、今頃シンガポールにいるはずの海外出張はキャンセル、卒業式・入学式は式典中止などと大きな予定変更を余儀なくされている。時間軸上の区切りが作れない現実は、何とも言えない感覚を生み出す。昨日も学園危機管理本部での対応諸施策を決めた。幸い授業がない期間なので助かってはいるが、様々な短期・長期での心配、懸念を訴えてくる教職員への対応は結構疲れてしまう。もたらされる懸念は自明のことで了解はできるが、組織として迅速で総てを盤石にという対応策が出来るわけにもいかない。現時点で、できうる対応策を司令塔は迅速に準備するしかない。

 

 春分の日の連休は自宅で過ごすしか仕方なさそうであるが、このような不自由な社会情勢のもとで、どういう気分でいるのかを記しておかねばなるまい。と言うのも、やる方憤懣ないと思っていたことも存外忘れてしまうことに驚いたからである。たまたま、4年前の3月に何があったのだろうかと軽い気持ちで、ブログの履歴を探して読んでみた。新学部の設置書類の文科省への届け出にまつわる僕の憤懣が記録されていた。読み返すまでそのことをすっかり忘れてしまっていたのだった。Negativeな記憶はpositiveなものよりも忘却されやすいという記憶研究の指摘のとおりである。

 指定された3月23日午後3時に、新学部設置のための膨大な届け出書類を持参した職員から、不備があると指摘され、明日午後6時までに差し替えしないと1年間受付は遅れると言う予期せぬ緊急電話が携帯にあったと記録してある(普段は不携帯で発信しか使用しないのに、幸運であった)。非常勤教員の学位名称が二つの書類間で不一致という点と、学長の業績の書き方が文科省の最新の書式になっていないという点に変更を求められたのである。前者のものは直ぐに対応できるが、後者は容易ではない。元来学長の業績は教員とは別物なので、審査の対象にはならない(従って、事務の方ではチェックしていなかった)。別に学術論文がなくても学長は務まるし、前任は理事長の兼任であったのでゼロであったし、そのことに問題はなかった。後に不要だと判明した、英文論文のタイトルと内容の邦訳が抜けているということに必死で夜遅くまで対応したことが記載されている(170編あまりの英文論文について対応したと書いている)。この年は私学に教育学部を作らせないという方針であったこと(推察だが、近隣の複数の大学で設置申請取り下げをしている)への嫌がらせの一つであったと今でも思っている。書類の訂正対応は間に合い、予定通りの開設となったが、他にも申請規定にはないが、こうして欲しいという担当事務官の指摘で、教員数を増やさねばならなかったことや学生が集まりにくい定員配置を求められ、今も後遺症はなくなっていない。あの事務官の記憶が蘇ると腹立たしさも増幅されるが、要は、記憶は儚いものだということを改めて確認したので、現在のような何かしら曰く言い難い雰囲気が充満していることを記録しておかねばと考えている。

 

 昨日は、大阪と兵庫間の往来の自粛要請が伝えられた。健康・命に関わる制限なので、仕方がないかなと思う反面で、必要性と実態とへの疑問も湧く。要請に反抗して、出かける用事も思いつかない。

 先ほどは7月に出かける予定で参加申請していたウイーンでの学会のうちの一つから、延期のメールが届いた。世界中で、株価は暴落しサービス業だけでなく、製造業にも影響が出て、経済活動の収縮はこれまでに経験したことのない規模に拡大している。グローバリゼーションやネット社会の伝達力の大きさの負の側面が一挙に露わになり、ウイルスという目に見えない素因が一挙に現代社会システムを崩壊させつつあるように思える。身近な集会の自粛、旅行の自粛など様々な日常生活を制限される状況は、奇妙な感覚を生じさせる。個人行動の自由の制限がいつの間にかなんとなくモヤモヤした不快感を伴いながらも気にならなくなりそうで気味が悪い。外出、旅行、集会、娯楽活動中止などでの自由の制限に過剰適応と思えるものも少なくないが、時間と共にその極端な刺だけが削ぎ落とさながら適応していく社会の気味悪さの中に居る、その感覚が気味悪いのだ。

 

 睡眠薬がわりに坂口安吾を始めとする昭和10年ごろから25年ごろまでの書籍を読んでいることの影響かもしれないが、その頃の日本社会を覆っていた、自由が削減されるのを自覚しつつも、それに贖えない雰囲気と類似しているのではないかと思ってしまう。

 

 この気味悪い感覚の持つ意味は10年ぐらい経てば理解できるのかもしれない。ただし、それが理解可能な知的機能を維持できているかは、新型コロナウイルス騒動の収束が何時かと同じように判らないのです。

難しいなあ

  気がつけばいつの間にか1日おまけが付いていたのに2月も終わり、日常生活に様々な予期せぬことが生じてバタバタと慌てふためいて過ごしている。

  原因は新型コロナウイルスで、豪華客船の中での閉鎖空間で感染が蔓延したことやその後の処置に大童であったことにある。現在でも感染陽性者の数が上昇傾向をやめていないことが報道される。

 予期せぬ災害が起きたときの政府は民主党政権であろうが自公民政権であろうが一緒で、アタフタし、気の短い国民の不満の集中砲火を浴びる現象は変わらないなあと、眺めている。阪神淡路大震災、東北の大地震・原発事故、などは民主党政権の時であった。今回の新型ウイルスと言う新たな予期せぬ災害への対応が評価されないのを見ると、安倍首相が事あるごとに民主党政権の無様さをあげつらって批判していたことが思い出され、「あんたもナ」と言いたくなる。

物事には複合的な要素があり、結果を単純に云々することには慎重でなければならないと思うが、複雑だからと曖昧模糊になることを見逃すのも具合が悪く、難しいことである。

 

  今回の新型コロナウイルスの件では、個人的にも影響があった。3月後半にシンガポールの学会に出席すべく準備をしていたが、延期となった。飛行機もホテルもキャンセルした。ホテルの予約は安くと考えたプランを選択したせいで、予約サイトからの返金は無し、飛行機代金は3万円の手数料が必要となった。認知症関連の学会で、中身に関心があったのはもちろんだが、今回は別の楽しみもあった。約30年ぶりに英国時代のシンガポール人の友人に会う約束をしていた。当時、学生で寮の僕の部屋や借家に数名で遊びに来ていた一人で、都市計画を学んでいた。後年一度あったときは修士を終えて帰国後、役所に勤めており高級車で空港に迎えに来てくれた。ついでに言えば、その時に彼のお父さんからご馳走になった海辺の屋台で食べた渡蟹のチリソース煮の美味しかったことは今でも覚えている。長い付き合いではある。

「羊羹・おかき」と「お酒」の土産を買わんとしていた矢先であったので、ちょっと気が抜けてしまった。ロンドンの大学に留学中の息子が悪性腫瘍で急死したことがクリスマスレターに書かれており、慰めねばと考えていた。彼も息子も経験なクリスチャンで、亡くなった本人の死ぬ2ヶ月前の手紙も、死を受け入れることへの準備が整っていることを示すもので、宗教の力の大きさには驚かされていた。神に召されたので、と言うものの、明るい未来を自覚していた20歳過ぎの息子を失う親の喪失感は想像以上のものがあるはずである。どう慰めるのが良いものか、模索していたところでもあった。学会は12月に延期で、参加費の返金はされない、日程がうまく合うか不明だが、できればと再会を約束している。

 

  新型コロナウイルスは大学行事も直撃し、様々な影響を与えている。クラブ活動への対応、オープンキャンパスへの対応、卒業式・謝恩会、入学式への対応などなどである。2/28に文科事務次官(通知)が来て、高校生までの対応の指針は示されたが、大学生についての言及はないので、自主的に判断するしかない。幸いなことに以前とは異なり、H Pや電子情報システムで迅速な連絡周知は容易となっている。しかし、何でも止めにすれば簡単だが、そうも行かない。研究、教育は大学の使命で、社会からの負託を受けて(税金も一部もらって)運営していることを考えると、いい機会だからサボろうというわけには行かない。個別に協議検討し判断するするしかないが、その数が少なくないのだ。

 

  学園が併設する高校の卒業式は文科省通知前の2/26であったこともあり規模を短縮して実施された。来賓として参加し、礼服を着た。着替えて、鏡を見るとズボンの裾がひどく長くなっているのに気づいた(足が短くなっているということである)。20歳ごろから70歳ごろまでの間に身長は5−7センチ縮むことは授業でも話してきたことで、知識としてはあったが、驚いてしまった。Knowからrealizeに移行したということである。

裾上げをしてもらわねばと直感的には思ったが、この先何度も着ないだろうから無駄になるなあという思いも追いかけてきた。難しいことである。

  加齢の影響は主観的なものを超えて進行しているのだ。この先何をして生きている時間を補充していくのか、現在読書中の坂口安吾みたいには生きられそうにはないなと考えつつ、難しいけど真剣にならねばなるまい。

 

  そんなことはさておいて、春の到来の準備として近日中には庭に播え出した雑草を引かねばならないし、苔を枯らす薬剤を撒かねばなるまい。後の筋肉痛の影響を最小限にするにはどのような作業手順が望ましいか、考えねばならない。これも結構難しいなあ。

細川先生の訃報を受けて

 細川汀先生が亡くなったという知らせが届いて、それほど感情の揺れが大きくない自分に驚いている。歳をとって、感情の振れ幅が狭まったのかも知れない。

 

 1927年生まれのはずなので90歳を超えての逝去で長寿であったと言えなくもないが、幼い時から病弱で、ほとんどの人生で万全な体調ではなかった人であった。

「過労死の名付け親」として知られ、備中高梁の頼久寺の生まれ。旧制六高→京大に進んだ医者で、僕は関西医大の衛生学講座で労働医学の研究者として最も脂の載っていた頃から縁があり、爾来ほぼ50年間先生として慕ってきた人である。自分が古希を過ぎて振り返ると、先生という語彙にしっくりくるのは数名で、その一人である。

 きっかけはその講座で助手をしていた先輩に誘われて研究会に加わったことである。心理学の教室でボーっ生きていた学生の僕は、外の世界を始めて知ることになり、衝撃を受けた。例えば、仕事のスピード。邦文タイプライターに差し込んである業績リスト(論文や本のタイトル)が、一週間後に訪れると2-3行アップしているのが常であった。1年に1本のペースで論文を書くのが凄いと信じていた僕には、驚きであった。

 研究室にはひっきりなしに来客があり、それらは当時問題になりかけていた頸肩腕障害や腰痛などの労働災害の相談者であった。社会と直接つながっている学問研究の実際を知る機会を得たことを思い出す。当時の研究会には梁山泊のようにいくつも大学から院生たちが集まっており、工学、労働医学や産業心理学を知ることになり、労働災害の業務上の認定裁判に関係する法律家などの様々な専門家の存在を知ることとなった。心理学以外のいろいろな分野に人脈があると自認しているが、そのきっかけはこの研究会に始まる。

 

 早期に定職を得た方であった僕は、本務もそこそこに先生の仕事の手伝いをした。例えば、頸肩腕痛のタイピストや電話交換手、腰痛に悩む保母、振動障害の白ろう病を病む山林労働者の検診などで、西日本の各地を訪れた。現在取り組んでいる住民検診のノウハウを学んだ気がしている。

 

 先生は若者を集合させ共同で作業をまとめる能力に長けていた。振り返ってその理由を考えると、威張らなかったこと、筋金入りの共産党応援者であったが、オルグはしなかったこと、泊まりがけの検診先の宿舎では若いものと同じように、枕投げなどの幼稚な振るまいができること、親身に就職相談や若者の業績作りを気にかけてくれたこと、自宅・あるいは著名な料理屋でうまいものを食わせてもらったこと、研究者は誰のために仕事をするべきなのかを言外で示したこと、などなどがある。僕はこのような姿を「教師」としての生き方をモデルと考えるようになったと思っている。

 

 過労が主な原因であろうが、50歳頃に腹部大動脈瘤破裂(部分的であったが)で、住吉市民病院に入院されたことがある。講演中に尋常でない腹痛を聴衆の医師が見つけてという幸運に恵まれてのことであった。この入院中に研究会のメンバーが交代で泊まり込みをした。僕も天王寺分校から自転車で当番日には泊まり込み、5年生存率5%という論文を手にした気弱な先生を励ましたのを覚えている。「あなたは生きていてくるだけで充分なのだ」と言ったことを、後年になっても喜んでくれていた。かく左様に若い学生から慕われていたということである。僕が倒れて入院して教え子たちがローテーションを組んで看病してくれる図は想像できるかを考えると、僕の師弟関係の緊密さは甚だ心許ない。

 

 1/23日、京都駅前での葬儀に参列した。自分で戒名を作っていたので、それは飾ってあったが、お坊さんの読経もない焼香だけの簡素なもので、故人の希望ということであった。先生を囲む会の食事会が30年以上にわたって毎年行われてきており、昨年は萬福寺で普茶料理を食べた。その折の再会が最後となった。今年も3月に予定された案内が来ていた。

 

 僕の人生に影響を与え、50年に渡って慕える先生に遭遇できたことはありがたい事であった。恥ずかしくない残りの人生を過ごすことを約してお別れしてきた事である。

 

 葬儀からの帰路、ポツポツと細川先生との関わりの記憶が蘇り始めた。名古屋大学に移籍して直接会う機会が減ると、2ヶ月程度の間隔で絵葉書が届く、耳が遠くなって、そして老人ホームに入所されて以降は途絶えたが、これは連絡せよとの合図で、電話をかけるか近況を認めて手紙を送ることをしていた頃のこと、召集が遅くなるという理由で東京医科歯科大に進んだはずのお兄さんが戦死したこと。それに起因する戦争への嫌悪。自分は文学をやりたかったのに、という繰りごとを何度も聞いたこと、先立たれた奥さんへの思慕などなど。50年にも渡るので、蘇るエピソードに際限はない。

 失ったことの悲しみは、母や父の時でのように、急に涙が際限なく溢れる瞬間が来るまで、持続するのかも知れない。

年の瀬と新年に

 例年、年の瀬には一年が終わることの思いを何度か感じながら年を越すのだが、年末の感じが全くしないままに年が明けたという初めての気分で新年を迎えることとなった。

 年末は12月28日から1月5日まで連休ということで、何時もなら仕事納めの挨拶を受けたり挨拶にまわったりして区切りの感覚を覚えるのだが、年末最後の出勤日27日にはすでに年休をとって休んでいる人が多かったせいかもしれない。5日以上年休を取得せよという指示もあってのことだろう。

 年末感がないのは車通勤のせいかもしれないと、25日にはわざわざ大阪駅周りの電車で通勤したが、加齢のせいで感受性が鈍ってのことかもと思わないでもないが、クリスマスの雰囲気も年末の雰囲気もほとんど感じずに終わった。季節感が無かった年の瀬であった。

 

 25日を過ぎて2人の知人から郵便が届いた。一人は論文の別刷である。3月末に大学での勤務を終わったことの連絡と、別刷は12章立ての本を書くための第1章にあたる部分で、1年に4章を書いて3年後に一冊にまとめてそれで終わりにする計画を記載してあった(エネルギーと出版してくれる本屋を確保できる実力に感嘆!)。もう一人は10歳以上先輩の単著が、自分の研究の足跡をまとめた小冊子とともに同封されていた。この人も出版してくれる本屋を抱えているのである(それまでに儲けさせているためだろう)。小冊子は研究者として生きてきた足跡を記しておきたいという想いを受け取ったが、もう少し元気で生きていて欲しいのに、現時点で配布されるのにはやや戸惑いがある。

 

 僕はこの年度で大学を退職するはずであったが、理事会でもう1期3年仕事を続けること早々とが決まった。学生集めになんとか目処が立って、大学らしい形にできた(ように思っているのでが)今のうちに辞めておかないとこれからの大学運営は大変だぞという内からの声と、完成年度を迎えた2学部の教員の出入りが多くて、無理に頼み込んで招いた数名に、自分はいないけどよろしくというわけにもいかないという声と、周りの教職員は辞めることを考えていない様子であることなどもあって、77歳までやって行けるのか心許ない気もするが、何となく継続を受け入れてしまうことになった。したがって、自分の研究者生活の終焉をどのように迎えるのかまだ考えず、先送りのままである。2020年3月で退職するという変化が来ないことも、年の瀬に感興を取りたたて感じずにいる理由なのかも知れない。

 

 28日に孫たちが3泊の予定で自宅に来た。10日ほど前から体調が優れず(と言っても胃腸の具合が悪いだけだが)、25日あたりからは飲酒も控えて準備していた。遊びの予定(ボーネルンド、鉄道博物館、息子の友人宅でのお餅つき)が綿密に計画されていた。付いて行くことと送迎だけであったのだが、2日間は付き合えたが3日目の夕食時に何年ぶりかで嘔吐する羽目になった。お餅つきへの送迎が山道を30分ほどクネクネと走らねばならず、予想通り、孫たちは車に酔い、購入2週間目の車内で吐かれることとなった。帰路は新しい道を使って早く帰れたので、子供は酔うことはなかったのだが、どうやら運転手の僕が車酔いしたようである。1日から仕事に出ねばならない息子の都合で31日の昼過ぎに怪我させず、体調も崩さずに無事故繰り返すことができ、ほっとしたことである。

 振り回された年の瀬3泊4日であったが、それでも腹も立たないのだから孫との関係とはおかしなものである。子どもが孫を実家に連れて帰り、祖父母が疲れ果てるという、世間でよく言われる経験をできたことはありがたいことであろう。かつて、開高健が「若くして旅をせずして、老い日に何をか語らん」といった様に記憶する。自分がもっと老いた日に語るべき記憶事象を蓄積してくれたことになるはずだからである。1日の午後には長男夫婦が来ることになっており、2日から四国へ行くことになっているらしい。これも老いた日に語る材料造りと心得ている。

 

 年の初めに記しておかねばならないと思うのは、世情のことである。2019年ほど、モラルの崩壊を感じたことはなかったように思う。「嘘をつく」「隠す」「詭弁を弄する」「都合の良いことだけ、ひらけかす」政治家たちの跋扈である(この手法は安倍が得意とするが橋下がきっかけの様に考えている)。

 真面目に心優しく、「他者の為になる仕事に付きたい」という若者に毎日接している自分としては、大人の世界のダメさ加減を恥じざるを得ない。若者にダメな政治家の跋扈を許さない処方箋を具体的に提示せねばならないのではないかと思う。それは「選挙権を行使する」ことなのだと教えなければなるまい。

消費するだけの大人にして良いのか

 表題は何のこと?と思われたでしょうが、大切ではないかと考えていることを記しておこうと思うのです。

 

 過日、そろばん関係の団体の学術顧問会議に出た際に、「もう電卓で計算させれば良いので、算数の授業に筆算はいらない」とTVのコメンテータ(誰かは知りません)が発言したけど、どう考えるかという、話題を振られたのです。話の源泉は筆算で定規を使った、使わなかったのを教師が云々という類のことだったと記憶しています。

 

 学術顧問とは大仰ですが、30年くらい前から社会貢献の一部かと引き受けてきました。小学校の算数からそろばんがなくす、なくさない、の綱引きの頃に「暗算には右脳が関与する」と神経心理学の雑誌に論文を書いたのがきっかけで、依頼されたのです(このことは天声人語でも取り上げられました)。経緯は省きますが、今でもそろばんは算数の教科の一部に残っています(もちろん、僕のおかげとは主張しませんが)。

突然の問いかけなので、熟慮する間も無く、「電卓で数を押すだけで、結果を得ても、計算プロセスがわからないので、筆算は必要」と答えました。その後、この問いについて色々と考えることがあったので、それを記しておこうというのが今回の目的です。

 

 話が飛ぶようですが、孫の3歳の誕生日と数えで7歳になる孫娘の七五三の宮詣をするというので、年休をとって仙台まで出かけてきました。台風のために取りやめになった計画もあって、4月以来の再会でした。1年生の孫はすっかり少女になり、男の子は電車に夢中で、それなりに順調に育っており安心できました。公立小学校の1年生ですが宿題は多く、繰り上がりのある計算の宿題をサッカーの練習に出かける前にしているのを見ていました。10を2つの数に分解して加減をする、繰り上がりの計算問題を学んでいるところでした。このような計算プロセスを省くことなどあり得ないと再確認したことでした。

 そう言えば、大学2年のとき、統計の授業でタイガー製の重たい手回し計算機(知らない読者が多いことでしょうが、電卓の出現前には大活躍していた計算具なのです。錆びついて動かないため廃棄するというのでもらってきた現物を自分の部屋に飾っています)の使用を教わりました。303✖︎5は、303の数値をおいて、5回右回りに回す、つまり303を5回足し算することなのだ、割り算は引き算するのだと、乗除算プロセスを知ったことを思い出したことです。

 

 話が逸れました(老化の現象であります)。香港の学生が大学に籠って警察が突入などのニュースが背景にあるのだと思いますが、スマホでのゲームを毎日3時間程度やるのが今の学生やサラリーマンの平均という情報に接すると、この人たちは消費することに夢中で、その開発の背景やプロセスを考えたことがあるのかしらと思いました。牽強付会と言われそうですが、自由、平等、民主主義、福祉が不十分でも敷衍しつつある今の時代に、その背景や成立までのプロセスを学んで知っておかなければ、それらの脆弱な性質を保持でしたままではないか、強靭化できないのではないかという思いが巡ったのです。

香港の若者の行動ニュースに接すると、安逸に消費(ものも思想も)することだけの若者を何とかせんとイカンのではないかと老人らしく考えたのです。

どうかしているぜ、高等教育行政

 このコラムではあまり政治的なことは書かないようにしてきたが、文科省の高等教育への政策誘導のやり方が度を越してきたと感じる気持ちが高まってきたので、ここ数日の朝刊で大きく取り上げられている、大学入試共通テストへの民間英語試験の導入に関わって「文科大臣が身の丈に応じた受験を」問題以外にも、「?」と言わざるを得ないことがあるので書いておこう。

 

約20年前から文科省は「欧米の大学に比して日本の大学教育の質を改善せねばならない」という大命題から様々な改革を、中央教育審議会を使って進めてきた。何事にももっともという面とそうでもないという面の両価性を持つので、中央教育審議会の提言の全てがダメと言うわけではないが、当初大前提とした原則とは矛盾すること(それぞれの大学は特色を明確に、個性を伸ばそう)が少なくないため、ごく一部の大学を除き、大多数の大学は金銭的に疲弊しているし、次々と求められる課題への取り組みのための事務作業の増加に教職員は疲労困憊状態である。例えば、高等教育奨学支援制度(無償化制度と言うには実態は貧弱で、年収380万以下の家庭が対象で、それ以外恩恵は皆無)への事務作業は膨大であるが、各大学にこのコストへの配慮はない。その他にも例えば、e-ポートフォリオ導入計画や民間英語試験導入とベネッセとの関係など、言いたいことはいっぱいある。

 

取り敢えず、一例をあげる。

今月末に「教育の質に関する客観的指標」の報告提出が求められた。4つのカテゴリ「全学的チェック体制」、「教職員の資質向上等体制」、カリキュラムマネジメント体制」、「学生の学び質保証」のそれぞれ3-5項目の設問があり、配点41点満点となっている。37点以上をとれば経常費補助金を2%プラスにするが点数が低いとカットするという仕組みである(我が大学は37点であったけど、次年度以降の見通しは?である)。

 

情報公開などの項目は税金が一部投入されるので当然ではあるが、「IR機能の充実(IRとは大学の経営・教学の情報を統括する部署のこと)」「FDやSDの取り組み(FDは授業方法の改善、SDは職員の研修のこと」でそれぞれの大学に任せるべきことが含まれている。部署を作り教職員を配置せよ、そうでないと補助金を減らすなどというのは大きなお世話である。

IR, FD, SD, Portfolioなどとカタカナ語でしか書けない事項を押し付けようと言うのはアメリカの制度を表面的に真似しようとしているからである。「学生の学修時間・行動の把握」などは必要があれば自分たちの大学で実施すべきことでほって置いて欲しい。

これらの項目は数年前から始まっている私立大学教育方法改革支援等補助金制度の項目で、任意であったのが、今年から一般の経常費補助金制度に組み込んで、政策誘導を実質化しようとする試みである。「大学は特色を明確に、個性を伸ばそう」であったはずなのに画一化させようということである。どうかして(い)るぜ!と言わざるを得ない。

 

高等教育の質をアメリカ並みにという思いが先走って、それぞれの大学の成り立ちを考慮していないことに「?」の原因があると考えている。アメリカ並みにしたいなら、教育予算を米国並みにする努力、大学の設立には学生が学修時間を担保できるようにキャンパス近辺に寄宿舎を必置、バイトが不要なように授業料を大幅に下げる(僕の時代は学食の素うどんは20円であったが、授業料は12,000円/年であり、保護者への負担は少なくて学べた。)、教員の質向上のためにサバティカル制度を設けること、給付奨学金の枠拡大など、環境条件を揃えることに注力すべきなのに、些末なお金のかからないことでお茶を濁そうというように思えてしまう。日本の高等教育の質向上など望めまい。

 

若者人口が減少しているのに、私立大学の設立はここ数年増加傾向がやまない。大学は増えるのを容認するのも、どうかして(い)る、としか言いようがない。もう書き続ける気力が続かないので、ぼやくのはこれくらいにしておこう。

 

今月の記録として記載しておかねばならないことを忘れてはならないことがある。10/12に巨大台風19号が襲来して、予定していた入学試験を翌日に延期した。新幹線も止まり長野、千葉、福島などに大雨が降り、多くの河川が氾濫し甚大な被害をもたらした。幸い関西には大きな被害はなかったが(個人的には、半年ぶりに仙台に暮らす孫たちが関西に来て白浜で遊ぶ計画は実現せず、キャンセル料金1.5万の被害があったけど)、文科省だけでなく、最近の天気も『どうかして(い)るぜ!』と叫ばずにはいられない。

翻訳機を買ってクロアチアに行ってきた

 9月1日(日)の20時頃に札幌から関空に到着し、25時前発のフィンランド航空の飛行機でヘルシンキ経由してクロアチアのドヴォルブニック着と、強行軍で国際学会に参加した。札幌発というのはそれまで八雲町での健診事業に参加してデータ収集をしていたためである。今年で19年目となり、高次脳機能に関する縦断的資料を400名弱収集できた。この種の研究で有名なBerlin Aging Studyでも18年なので、自慢できるが、データは膨大でまだまだ解析→発表が思うほど捗らない。この先10年程度は研究発表の材料に不自由しないのはありがたい(いつまで生きるつもりかと言われそうだが、研究データは貯金のようなものなので精神的な安定を保つ効果は甚大なのだ)。

 19年も続けられたのは、今でも使える検査項目(注意・記憶・言語流暢性)を最初から準備できたことと、科研費の補助金のおかげである。幸運に感謝!

 

 クロアチアのドヴォルブニックは、「魔女の宅急便」や「紅の豚」の題材となったold cityが有名であることを、飛行機の中で教えられた。漫画やアニメを見ないので、知らなかったのである。なるほど、赤い屋根の密集した、おとぎの国のような綺麗な街であった。

 クロアチア語は「セルボ・クロアチアン」と呼ばれる、日本語の仮名と同じように表記と発音が1対1対応する言語なので難しい言語とされている。それではと、最近流行りの翻訳機を準備しようと考えて同僚に相談すると、クロアチア語に対応する機種があるという。早速購入し(3万円ほど)、使い方も練習した。なかなかよくできており、お盆休みの間の時間つぶしとなった。

しかし、ドヴォルブニックは想像以上に有名な観光地であるらしく、どこに行っても英語で何の不自由も経験しなかった。持参の翻訳機はバスに乗るときに「4人一緒に払います」を1回使ったきりである。これも指で4人を示せば問題ないはず。商品の表示を読み取らせて翻訳できる機能もついているので、スーパーで1度試みたが、この機能については、クロアチア語は対応していないことがわかり、結局不要であった。この後語学の勉強にでも使おうと思うが、自動翻訳機能は、格段に進歩している。

 

ドヴォルブニックはホテル代が驚くほど高い(3.5〜4.0万円/1泊)ので、一緒に行った研究者が骨折ってくれ、アパートを借りて安く滞在できた。研究での出張は1.3万/1日と自分の大学では決めてあるので、5泊すると高いホテル代は僕には無理なのである(最近のホテル代を考えると、この規定も代えねばなるまい)。3LDKの130-140平米ほどのゆったりしたアパートは海岸沿いの一等地で快適であった。1泊4万なので4人で等分した。幸い料理好きのメンバーが筆を振るったので、自炊も悲惨なことにはならなかった。

 

 2度ほど外食したが、これは美味い!というものには巡り合わなかった(ビールだけは水と同じ値段で嬉しかったけど)。

最終日の前夜、学会場からバスでold cityに行って、夜間照明された街を散策した。観光客で一杯であったことは言うまでもない。ネクタイの発祥の地ということで有名なネクタイ屋を覗いたが、5万ほどするものばかりで、釣り合うスーツもないのでスルーしたことである。その近くに本屋があり、写真集が店頭に置いてあったのでパラパラ見ていると1990年の内戦時のold cityの燃え盛る建物や砲撃の後の廃墟の写真集であった。20年ほどの間に復興したことがわかる。クロアチア紛争と呼ばれるユーゴスラヴィア崩壊後の内戦があったことを思い出した。写真でのold cityは瓦礫だらけであり、建物の復旧は意外と早いものだと思ったことである。Old cityはプラハとよく似ているので、綺麗ではあったが、感激度は中程度である。

 

 12日間も大学を留守にしたので、帰国してからは目の回る忙しさで、一段落した頃からどっと疲れが出て、不眠となり、若い連中と同じように行動していることは結構体に負担をかけていることを思い知らされた。

 

 体調が普通になって、朝の散歩を復活すると、彼岸花が田んぼの畔に律儀に時節を忘れずに列をなして咲いているのに気づいた(新聞報道では、温暖化で開花時期は変化してとあったけど)。しかし、高速道路への入り口ができたために大規模な計画があるらしく、散歩道の両脇の田んぼは埋め立てられて、昨年まで咲いていた片道1kmほどの間の畦道の彼岸花はもうない。奈良時代からの田んぼなので、埋蔵物調査が数ヶ月間行われていたがそれも終わって埋め立てが進行しているのだ。何ができるのかは知らない。

 

 建物の復旧は意外と早いものだが、埋め立てて自然を壊してしまってからは、彼岸花が咲くように復旧することは、出来ないのにと、散歩道の半ばにある立派な家屋を、埋め立てで高額の収入があったので新築したのだろうなと邪推しながら、思うのであります。

 

 50年ほど前に住み着いた頃は、周りは緑に溢れていたが、今では見渡す限りそれらは激減している。当初の不便さも困るけど、便利になって払う代償は存外大きいものである。

生兵法は怪我のもと!

 表題ほどの大げさな話ではないのだが、この夏休みは悲惨な目に遭った。自分のせいなので、お盆休み中にmediaを席巻した「煽り運転おじさん」のように、他者への攻撃で鬱積した衝動を発散させるわけにもいかない。

 

 事の次第はこうである。2週間ほど前から左足先に痒みが出た。「足指の痒み→水虫」との直感的回路が起動されてしまい。何年前のものか不明なのだが、洗面所の戸棚に「ブテナ…」と称する市販のスプレータイプの水虫薬があるのを見つけ、吹き付けた。冷たいので、痒みは胡散霧消するのだ。これを何回か繰り返した。8/8頃から左足先は赤く腫れ始めていた。その時点で、10年以上前の類似経験を想起すれば対応策は変わったはずなのだが、放置し、水虫の治療薬塗布を繰り返していたのだ(大げさに言えば、一時的な快楽を追求したことになる)。

 8/9頃から腫れが出始めた、痒みは継続していた。靴を履くのをやめてサンダルで8/10に郷里の墓参に出かけた。8/11日からは車で長男夫婦と旅行先で一緒に行動することとなったのだが、左足先は痛くて変な姿勢で歩行したせいで、腰の様子が変になってきた。

 これはいかんと、詳細に足先を見ると(それまで、詳細な検診を怠っていたのだ)、大きな水泡が足の指先に複数箇所できており、圧迫されて痛みが生じていることに気づいた(それまでは水泡はなかったのかも知れない)。

 このことが家族にバレると、プールで移ったに違いないと「水虫老人」と断定され、バスマット、靴下、タオルなどは過剰なほどの洗濯・消毒を強いられるようになった。痛みに我慢ができなくなったので、水泡を自分で破り、消毒し、抗生剤を塗ることを始めた。老体に過去のような筋肉の柔軟性は乏しくなっており、窮屈な姿勢で足を洗う→乏しい視力で水泡に針を刺す→消毒・薬を塗布する、が続いた(家内は手伝ってくれたが、姿勢の維持は苦痛で、身体が柔軟だった時代であれば、自分でできるのにと情けないことであった)。歩くのは無理な状態なので、3日ほどはもっぱら甲子園の野球放送を見て過ごした。持参していた文献には一度も目を通す気にならず仕舞いであった(身体の一部に不調があると脳機能は十分には働かないのだ)。

 

 歩行に支障があるけれども(僕だけだけが)、予約してあるというので、姫川温泉に出かけた。山間の渓流沿いの大きな旅館であったが、もう通り過ぎていた台風の影響でキャンセルが多く、閑散としていた。お湯は86度とかでとても熱く、鉄分の匂いがする湯量も豊富で良い温泉ではあったが、水虫老人ということで、家族風呂を一人で貸し切って広い露天風呂で熱いお湯に入ったことである(ちなみに効用の最初に皮膚病とあった)。温泉に入ったせいか、素人治療の効果か、その後足先の病態はかなり良くなっていた。

 

 予定よりも1日早く帰宅してお盆休みが終わっている病院の皮膚科外来に朝一番に出かけた。90分待っての診察で、「水虫菌はいない、湿疹を酷くしただけ」と5分ほどでの帰宅となった。指示通りに対応した結果、2日でほぼ完治した。あの足の痛さと、家族の大騒ぎが嘘のようである。

 途中で10年ほど前の類似経験を思い出したのだが、後悔は先に立たずというわけであった。そのときはアテネに出張しており、同じく左足先が水虫薬の塗布のために爛れて、ガーゼや包帯を求めるべく薬局を探すのに大変であった。這々の体で帰国し、駆け込んだ皮膚科で水虫ではないと診断され、湿疹の薬の強いものを塗ったら1日で治癒してしまったのだ。このアテネ行きは飛行機の乗り継ぎも悪く、足痛で動けずの悲惨経験だったので、きっと抑圧していたのかも知れない。

 

 何れにしても、「足先が痒い→水虫」の短絡的診断は不可である。生兵法は怪我のもとであります。それと過去経験を検索して、調べて対応を考える余裕も必要であります。

 

加齢のせいで10年ほど前の経験が思い出せないようになってきたのかも知れないが、温泉の帰りに探し当てた長野県上水内地区「高橋助作酒造店」の山恵錦で作った日本酒「松之尾」は旨い・絶品である。味覚の鑑別力は維持されていると信じたい。

 

 という具合に、今年の夏休みは長い日数であったのに、今ひとつ楽しめなかった。こういう夏もあったことを記載しておかねば思い出さなくなるのだろうと、メモしておく次第。来週から北海道での健診を皮切りに出張予定が続くので、兎も角も足が治癒して有り難い。まだ、ツキがあるという事かな?

面白くない7月

  ここ数日、亡くなって数年たつにも関わらず、不機嫌な老人役をやらせると抜群の存在感があった大滝秀治が出演していたコマーシャルの、「つまらん!」というセリフが浮かんでくる。金鳥蚊取線香のCMであったと思う。

 

 最近は「つまらん!」と独言したくなることが多いのだ。40年以上前に老人の心理という講義をやっていた時に、老人の性格特徴の一つに「不機嫌」が挙げられていたことを思い出した。ここ数週間の「不機嫌」さが、加齢による性格特徴の変化なのか、一過性のものなのかは、しばらく時間が経過しないと判明すまい。睡眠薬代わりに読んでいる漱石の「吾輩は猫である」のクシャミ先生のような心持ちである。

 

 社会的事象に「不機嫌」を醸し出させることが多いのは事実で、まずは1週間前の参議院議員選挙である。メディアは選挙があることをなるべく周知させないように結託しているのかと疑うほどの静けさであった。ポスターは街角に貼ってあったが、選挙カーに一度も遭遇せず終いで、時に目にするテレビも選挙に関連する番組はほとんど目にすることがなかった。吉本の芸人の闇営業という、一会社の内紛が報道されるばかりで、選挙制度は、現在の社会状況にした政治の総括・責任や、これからの構想などに関わる大切な制度であることを伝える番組を、曲がりなりにも公器に関わっているという自覚があれば、放映するべきだろうと思う。何を考えているのか、責任者出てこい!と、かなり以前の漫才師の決め台詞が蘇る。

 

 選挙結果も僕の心情にはそぐわない結果であったが、自民党も勝った、公明党も勝った、野党も勝った、とそれぞれの党派の責任者がポジティブに総括しているのは、訳が分からない。只今の淀んだ社会状況の中で、まあいいか、と思っている人間が多くなってしまったのなら、「つまらん」世の中になったものだ。「れいわ新撰組」に名大での元同僚が加わっていて(見かけが大きく変わって)、驚かされたが、今の仕事を早々に辞めて「つまらん!」組を組織して暴れるのも一案かもしれない。

 

 メディアの無責任さを付け加えると、「高等教育無償化」法案などとフェイク情報を流していることにも触れねばならない。大学などの入学金免除・授業料給付が、普く実施されると考えるのは誤解である。メディアがいつまでも「高等教育無償化」の名称を掲げ、国民に錯覚を与えていることになろう。(メディアの間違いを誘発するように仕向けたのは政府であるのは間違いないが)、正しくは「高等教育の就学支援制度」で年収380万円以下の家庭の学生のみが対象で、270万以下でないと割り引かれてしまう。390万円以上の収入がある家庭の学生は何の支援も受けられはしない。また、入学年度に支援制度の対象者に選ばれても、大学での成績が半分以下の位置なら、その後は取り消される。途中で取り消された学生が一念発起してアルバイトに精を出すように気持ちを切り替えて卒業まで頑張るというシナリオは、幻想でしかなく、大半は辞めていくことだろう。一旦うれしがらせて、梯子を外されたのは君のせいでしょう、頑張らないからでしょう、という言い訳が準備されているのだろうが、若者の気持ちが壊れないか心配している。

 成績が上位の若者のみの、限られた所得層を対象としているという正確な情報を提供するのがメディアの役目ではないのか(再び例の漫才師の顔が浮かんでくる)。メディアは高等教育無償化などと謳うことで誇大宣伝の片棒を担ってきているのだ。

 

 この支援制度は国が認めた高等教育機関のみが対象であり、我が大学も申請はしたが(9月に認定されるはず)、大量の資料を準備させられた(大学自体に収入増がもたらされることはないのに)。その中身は文科省の誘導する条件(例えば、実務経験のある教員の比率とか、財務体質についての要件など)を見たすことが必要という類のものなのである。

 財務体質の悪い弱小私大(あえて言えば偏差値の高くない大学など)には低所得者層の子女が多く進学するのが実態である。そこで、大手の私学は、貧しい家庭の子女の占める割合が低いし、面倒なので支援制度を受けうる大学として申請しない、という情報も飛び交っている。裕福な家庭の子女がいく大学と貧しい家庭の子女のいく大学との区分けの顕在化が進行することだろう。中途半端な「つまらん」高等教育政策である。

 

 仙台に引っ越し、小学生になった孫とは今夏逢えそうにない。東北は夏休みが短いこと、父親の仕事が忙しくてまとまって休めないこと、僕にも予定があり日程が自由にならないことなどが理由である。ここ数週間の「つまらん」気分の充満にはこの予定も起因する。唯一、「つまらん」気分を和らげてくれているのは、7月に3回も開催したオープンキャンパスへの参加者が昨年よりもかなり上回っていることである。オープンキャンパスの開催日には、冒頭に「大学の売り」を叫ばねばならないのです。それに加えて、トマトが大豊作なのも嬉しいかな(味は今ひとつだと家内は言うが)。