はったブログ -10ページ目

福島はお勧めです

10月の終わりに、裏磐梯の温泉で長男の嫁の両親と13年ぶりに会うことができた。そろそろ逢っておかないと、互いの同定が怪しくなりはしないかという長男夫婦の提案に応じたのだ。ご両親は福島市に住んでおられるので事情に通じた裏磐梯の、紅葉が一番良さそうな時期を選んでということであった。電話で話す機会はあるが、お会いするのは結婚式でお目にかかったきりであった。その折は、よく知らない男に娘を遠くに持っていかれることへのわだかまりか、父親の機嫌の悪そうな表情のみを記憶しているが、その時とは別人のような機嫌の良さとお元気な様子で嬉しいことであった。長男らが仲良く生計を維持できていることで、ご両親も安堵されているということだろう。5年後にまたご一緒しましょうということになった。

この13年ぶりの再会の機に行ってみたいと予てから考えていた、日光と会津に立ち寄ることにした。日光へは東武鉄道が便利なのだが乗り換えの煩雑さを避けて新幹線で宇都宮まで行き、JR日光線を使うことにした。

最近は自分で詳細な旅程を作ることがなくなっているので、簡単に日光→会津→裏磐梯と書いているが、実は結構厄介であった。新幹線のスマートEXを使うと大阪―東京が1万円と格安なのを知って、トライした。普段ICOCAで決済しているクレジットカードはダメとされるので別なカードを使ってPCで入会し、チケットを予約購入した。これはJR東海でのことである。東京から宇都宮までのネット予約サービスはJR東日本の「えきねっと」での予約をせねばならない。この予約にはJR東海でのカードは不可で、別なカードが必要であった。少なくとも3種類のカードを持たなければJRのサービスは受けられないのだ。この種の予約サービスは直前の変更が可能というのがウリであるが、PCで予約アカウントを取ってしまったせいで、iPADからは操作できないことも後でわかった。僕の場合にはPCを使わないと予約変更できないわけで、スマートフォンに特化した予約サービスである。東京まで1万円のチケットは朝の7時までの新幹線にしか使えないので(早起きの年寄りなので良かったが)、大して便利ではないと言わざると得ない。

僕の場合には何とか予約できて割引もしてもらえたが、この種のサービスを利用できるのは限られていると、情報ディバイドを強く思い知らされたことである。1枚のカードで何とかならないのかと思うが、最近いただいた「Society 5.0:日経新聞出版」の本では、「サイバー空間とフィジカル空間の融合によるイノベーション」が謳われる超スマート社会へとある。個人の電子情報をビッグデータとして情報化社会から次の社会へということらしいが、自分の全ての電子購入履歴がどこかに記録されるのは敵わないので、1枚のカードにせよとは言わずにおくべきなのかも知れない。

 

時間の都合で華厳の滝、東照宮しか行けなかったが、予想に違わず立派な観光地で、JR日光線が外人で満員であった理由が了解できた。夜は鬼怒川温泉で長男らが予約してくれたホテルに泊まった。この温泉地は有名で一度来たいと思っていたが、行くところもなく(日光に行くのが定番)朝に散歩しただけで会津に向った(駅で蒸気機関車が動く特別な日時に遭遇したので動画を撮影でき、すぐに孫に送ってやると、2歳の誕生日が近い男の孫のポッポーと興奮する様子と、何の感興も示していない5歳の孫娘との対比が面白い動画が返送されてきた。おもちゃへの関心への性差は学習性のものではないという、性科学雑誌の記事を思い出したことである)。鬼怒川駅から会津までの会津鉄道沿線の紅葉は、里山に様々な色合いの木々の色づきがまあまあ綺麗であった。

 

会津では郊外の温泉に浸かり、鶴ヶ城と飯盛山を訪れた。「南、鶴ヶ城を望めば砲煙上がる…」の漢詩を思い出し、白虎隊が望んだ地点から城を探した。見つけることはできたがずいぶん小さく、少年たちは眼が良かったのだと、会津ファンには叱られそうなことを頭に浮かべていた。

JR会津駅前で長男夫婦と待ち合わせをした。駅前にはよく知られた会津藩校「日新館」の什(じゅう)の掟が記載された立て札がある。何番目かに「嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ」という掟が確認できた、日米のトップ連中が武士の心構えを持たないことは確かだよな、と独りごちたことである。しばらくして来た長男の車で酒蔵「宮泉」に行くことができた。数年前にどこかの雑誌が絶賛していたので探したが、この酒は鶴ヶ城の売店では見当たらず、諦めていたが望みは叶った。一人1本しか売らないということなので買い占めるわけには行かなかった。山形の酒のフルーティさとも違う味で、吟醸酒「宮泉」は、語彙が乏しいので表現できないが、今まで飲んだ日本酒の中で5本の指に入る。福島の酒はレベルが高く、今までトライしてこなかったことが悔やまれる。

 

五色沼などをドライブしたのち裏磐梯の温泉で福島の両親と合流したのである。翌朝は宿の推奨で猪苗代町の蚕養という地区の小さな滝を見に行った。天気が良かったこともあるが、今まで見た中で一番と言っても良い美しさで、赤、黄など様々な色の織りなす紅葉の木々を見ることができた(語彙が乏しいのがもどかしい)。最近になって有名になりかけているらしいが、まだ観光客は少なめで、車で旅行する場合には、少々面倒でも訪れても損はないと請け合いできる場所である。

 

福島駅まで送ってもらい新幹線で夕刻自宅に戻るという3泊4日の強行軍であったが、綺麗なものを見た、旨い酒に出会った旅であった。子どもも40歳を過ぎると嬉しい企画をしてくれるようになるものだが、招待してくれるという迄にはあと何年かかかるのだろう。

 

帰宅した2日後に人間ドックを受診した。一昨日届いた結果では、血糖値が高めになっていた。日本酒が増えている最近の飲酒傾向は、血糖値に作用するのだろうと思うが、「いつまでも飲めるわけではないよ」という囁きも聞こえるような気もして、悩ましいことである。

文化欄を読む

 朝日新聞の文化欄に「語る」という、著名人に過去を話させ、それを記事にまとめるという形式の欄がある。好きな記事の一つで読むのを習慣としている。日経新聞には「私の履歴書」があるが、これは登場した著名人が書いたようになっているのに対して、朝日の「語る」の記事は話をもとにした記者のものである。この前は「五木寛之」であった。昭和40年頃、学生時代に文壇(今では死語だけど)に彗星のように登場した人である。何冊かの本は読んだことがあるが、近年の仏教絡みの本は手にしていない。大陸からの引き揚げ者で、その途中での経験が、社会を斜めから見ているようなところや後年の仏教へ傾斜していくのが理解できた。

数日前からは「馬場あき子」に代わっている。馬場あき子は朝日歌壇の選者を長く勤める人である。たまにその欄も読むことがあるので、名前だけは古くから知っている。10月12日の「語る」欄の1937年戸塚尋常小学校に転校したことが述べられたなかに、「成績が相変わらず悪くて、父はすみません、すみませんと先生に謝っていたが、そのうち国語と歴史と行儀の成績が「優」になった」、というくだりがあった。子どもの学業成績が悪いと先生に申し訳ないと謝る関係は、今では子どもの成績が悪いのは先生のせいだ、親から謝れと言われていそうなので真逆ではないかと気になった。

 何時からこのような逆転が起きたのだろう。馬場さんの父親は学歴の高い、都会の出版社勤めであり、師範学校卒と小学校しか出ていない親との学歴コンプレックスで説明というわけにもいくまい。

 

自分の子どもも小学校では決して優秀というわけではなかったが、それは親である私が至らないので、申し訳ないという感情を持った記憶はないし、逆に、教師が悪いと考えたこともない。50-60年間での逆転現象ということなのだろう。

 

戦争前の時代では、親は家族を養うために働くのが精一杯で、子どもの学校生活にほとんどかまけることができなかったことが一因ではないかと考えたりする。こんな時代の小学校の教員は良い仕事であったことだろう。師範学校は学費がいらず、豊かでない家庭からも優秀な若者が高等教育を受けるキャリアパスであったはずで、優れた人材が小学校の教員になったことを意味している

(もっとも、学費は不要でも労働力を削がれるのが困る家庭の方が多かったという)。

 今では一番出来の良い子どもが小学校の教員を目指すというわけでもない(個人的には初等教育担当者には皆が羨む程度の賃金と余裕を与えるのが良いと思う)。親も子どもに時間を配分することは昔に比べれば大幅に増えたと思われるが、子育ては親より学校の責任という考え方への移行はどう説明するのが良いのだろう(誰か教えてください)。

 

 数日前の文化欄には「置き勉」が特集されていた。勉強道具を学校において帰ることを「置き勉」というらしい。最近の小学生は通学時の荷物が過大になり、10Kgも珍しくないということで、子どもの生育に影響があると、「置き勉」を認める方針を文科省が打ち出したことに関わる記事であった。

目に止まったのは、「置き勉」での物品紛失の責任は教員というのは負担で…という箇所である。小学校の教員はそんなことにまで気を使い、保護者との板挟みを考えねばならないのかと思う。我が子の学業が優れないのを親の落ち度と考えていた時代との乖離の大きさに戸惑ってしまう。

自宅で使わない道具・本や資料であるかを自分で判断させ、学校に置いていくか持って帰るかを子どもに責任を持って決めさせることですむ話ではないかと思うのだが(文科省が近年やかましくおしつけてくる「問題解決能力」、「自分で考える力」、「生き抜く力」)を育てる絶好の機会ではないのかしら)、文科省からの通達でしか動かない(動けない)教員は気の毒でしかない。同情はするけど、それを改善するのは教員の仕事であろう。

 

馬場あき子の履歴書を読み始めて、昭和55年刊の講談社「昭和万葉集20巻」が手づかずで、書棚を占拠している事が気になり始めた。今になれば、どうしてこんなものを購入したのだろうと訝しがるしかないが、亡くなって久しい父が短歌を教えていた頃なので、対抗心かあるいは習うのは嫌だが何れの日にかやりたいと思って、購入したのだろう。先日、旧友と酒を酌み交わしていた時の話題に、仕事を辞めたら何をするかが話題になった。その時は、小筆を習いたい、古文書を読めるようになりたい、叔父がやっていたように漢詩を作れるようになりたい、と思いつく項目を列挙したが、その時には短歌のことは思い浮かばなかった。年が明ければ平成は終わるということなので、そのうち昭和の時代の万葉集も読まねばなるまい。

 もっとも、幾つものやりたいことも、目が悪くなる、根気が続かなくなる、習いに出かける手段を失う、などの可能性は少なくない。やりたいことが可能になった頃には、始められる身体的要件を失うというマーフィーの法則も念頭に置いておかねばなるまい。

腹立たしいこと

 いい年をして腹を立てることなどよさねばならないことは分かっているが、論語にあるように「40にして惑わず、70にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」とは行かない。先日は発達障害傾向の強い医師とやり合って、血圧が180-108 pls101まで上がる始末であった。詳しい内容は書けない(のでストレスは発散できないままである)。

 日常生活のこのような瑣末な腹立たしい出来事以上に腹立たしいことがあるので、記録に留めておきたい。

 

 文科省の事業で、私立大学向けの改革総合支援というものが5年目を迎えている。申請の締め切りは今月末のはずである。文科省の目指す方向へ高等教育機関を仕向ける、ニンジンをぶら下げてという企画である。1年だけというはずであったのが、効果的と判断されたのか4年間続いている。これまでは、なんとか工夫して4年間採択してもらい1500万/年ばかり補助金をもらい、事務作業補助などに配分できた。わずかの金でも学納金以外の資金は欲しいのです。

この種の企画は文科省が専門家のアドバイスに基づいて行うものである。10年ほど前から日本の高等教育は欧米に劣ると決めつけ、世界レベルの大学にせねばならない。それが社会の要請であるということになっている。

「本当に日本の高等教育が欧米の大学に比べて劣ると言うのなら、戦後、国際社会で5本の指に入るほど高度に経済発展を成し遂げられた理由はどこになるのだろう。中等教育・高等教育がそれなりに機能したためなのではないかと思っているのだが、違うのだろうか」

 

日本の高等教育はダメなので、「グローバル化」、「自らが学ぶ力」、「複雑化する社会で生き抜ける問題解決力」「単位取得の厳格化」、「学習時間増」、など雑多の内容の改善が矢継ぎばやに求められている。それらを補助金というニンジンをぶら下げて、変えさせようというもので、この変化を改善と読んでいるのだ。これらを700ほどなるまで私立大学を認可しておいて、全ての大学(学生数5万から500人規模)に求めるのだから、内容は多岐にわたり雑多で、当事者は大変である(従って、半数ほどの大学しか応募しない)。

 

教育学者ではなく、文科省のお気に入りの専門家でないメンバーで構成した会議で、次々と改善策と称する施策の実現を求めてくるのである。アドミッションポリシー、カリキュラムポリシー、ディプロマポリシー、IR:インスチチューショナルリサーチ、ルーブリック、アクティブラーニング、アドミッションオフィサーなどと一般人には意味不明の語が満載されている。カタカナ語が満載されている。日本語に直すことができないようなレベルの連中が関わっている証拠である。明治の初期に初めて目にするphilosophyに哲学、psychologyに心理学、knowledgeに知識の語を充てた西周(にし・あまね)のようなレベルの人はいないのは明らかである。

 腹立たしいことを考え出すときりがないので、思いつく腹立たしい点を一つ二つあげる。

1)高等教育の質向上の具体的内容は「社会の要請」に答えるためという。「社会」とは具体的に誰を指すのか?一部経済界のことに過ぎないのではないのか。かつては自前で教育機関を作り、即戦力となるべく教育投資をしてきたのを、経済効率という視点からヤメにして、大学などに丸投げしてきているに過ぎないのではないのか。忙しくて自分で面倒見られないので、手伝いをお願いしますという場合には、何がしかの手当を考えるのが市井の人間の行動様式だと思うのだが。丸投げに見合う経費を文科省予算として寄付・手渡すことがあっても良いのではないのか、と思ってしまう。

2)今年度の改革支援総合事業の項目(誘導させるための方向性を顕在化してある)に学長裁量経費が500万円だと何点、1000円以上だと何点、などがある。入試に職員で専門的な仕事をする人(アドミッションオフィサー)を配置しているかなどがある。IRなどにも専門教職員を配置すると点数が上がるので、経済的に弱い大学は対応できない。特色のある私立大学を作るようにという初期のお題目とどう対応するのか、分からなくなってしまう。

3)文科省の専門家会議に出ている連中は、アメリカ風の大学(それもトップクラスの)を想定して様々な改善点を打ち出しているようだが、文科行政に都合の良いことしか言いださない。研究を盛んにさせるために欧米の大学にあるサバティカル制度(7年ほど勤めたら、1年休んで研究に没頭せよ、あるいは休め、という制度)を大学には必置にさせる。学生に勉強時間を保障するために24時間利用可能な図書館を必置させる、通学に時間を使う必要がないように、キャンパスには寮を必置するなどは言い出すべきではないのか。本学の学生は近所に下宿している場合は土日も学内でよく勉強しているが、通学時間1-2時間でアルバイトがある学生に長時間の自宅勉強をせよというのはいかがなものだろうと、学生には指導しているものの、企業人になる前に学生が過労死しかねないと心配である。

などなど、書き出すと血圧にも差し障りが出そうなので、この辺りで中断することにしたい。

 

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 久しぶりに旧友に会うのが本当の目的で東北大学での心理学会に出席した。杯を重ねつつ、お互い体力もなくなってきたねと相哀れむことであった。会場では、定年後も同じテーマで発表している先生(今どき古い話だけど、続けることが大切と教えられてきたのだろう)、73歳のはずだが今年学位を取れるという嬉しそうな先生、会話をしたけれど結局何を言っているのか了解不可であった人、86歳でかくしゃくとして知り合いが顔を見せなくなったとつぶやく先生など、様々な生き様を見ることができた。学会はhallow meetingでいいのだよと40年ぐらい前に聞かされたことがあったことを思い出し、そうかも知れないと思ったことである。

 

来年も出ようかという気持ちは生じてはきたが、先のことは分からない年齢であることも自覚せねばならない。

天災の続く夏に

 台風20号が大阪を午後に直撃した8月23日は、北海道の八雲へ出張していた。朝早くの飛行機は、揺れはしたものの時間通りに飛び、帰路も台風は既に抜けており、予定通りに3日間での研究資料収集は終えることができた。夜遅くに帰宅して翌日の月曜日から出勤し、ここでは書けない厄介ごとの会議などをこなしていたが、軽い咳が二日ほど前から続いていた。ついに水曜日に発熱した。ちょっと、肩が凝るので保健室に行って血圧を測ると171/101、プルスは97であった。通常は30分もマッサージ機に座っていれば血圧は下がるのだが、効果なしであった。看護師の先生が熱中症かもしれないというので、水分を補給し熱を計ると37度少しあった。2時からの会議では声が出なくなり、早めに帰宅した。帰路、あいにく行きつけの医者は午後休診であることを思い出し、困ったと思って帰宅すると家内が同じ症状で既に午前中医者に行っていた、抗生剤を1錠借りて飲むと、喉の痛みがなくなった。翌日は研修日なので医者に行くことができた。風邪は流行しているということであった。

 思い返せば八雲検診では毎晩11時ごろまで若い人と一緒に飲んで談笑していたので(朝は5時ごろ起きて散歩)、身体が悲鳴をあげたに違いない。この夏は、プラハー大阪—信州—大阪—北海道—大阪と、涼しい気候と猛暑の日々とを10日ほどの単位で繰り返したことになる。自分の体力を過信していたことを反省する羽目となった。回復に6日ほど要したので、実は大して体力も残っていない老人であることを思い知らされたことである。

 風邪で久々に3日ほど休息が取れたので、12月締め切りの依頼原稿(教科書)を仕上げ、出版社と編集者に送る事が出来た。夏休み前から、実験論文の修正や書き始めているのだが、本の原稿を書くのと実験論文を書くのでは脳内の仕組みが重複しないのか、妨げになる。一向に捗らないので、早めに本の原稿に切りをつけられホッとしている。本の原稿は多くの情報をいかにコンパクトに上手に集約するかに傾注せねばならないが、実験論文を書く際には緻密な情報の記載と論理の構築が重要となるので、同時並行は僕には難しいのだ。以前はそれほど苦にならなかった二つの課題の素早い切替えも容易ではなくなってきたようである。

 僕が体調を崩したらしいということで、色々心配して問い合わせをもらうことがあったが(この情報に期待をした人もいるかと思うが)、もう回復しましたのでご安心ください。

 

 9月6日の午前3時頃に北海道で震度7の大地震が起き、まだ停電が続いているという。先月に高槻で震度5レベルの地震を経験したがその何倍もの大きい地震が、夜中に襲ったのだから、どれだけの恐怖感を人々が味わったのかを思うと、大した被害もなかった自分の幸運を申し訳ないように思ってしまう。それにしても、この夏は災害が多い。数日前に台風21号が大阪を直撃し、大きな被害(関空の取り残された人など)をもたらしたが、もはやその災害情報はメディアでは地震に主役の座を取って代わられて、大阪には被害などなかったかのようになる。台風21号により被った被害の大きさを会議の席上で見聞きすると、屋根が飛んだ、隣の家を痛めた、庭木が折れたなどなど結構大きな被害であったのだが、北海道の地震の影響に比べれば声高にいうのも憚れるようになっている(我が家でも、郁子の古木が折れたし、庭には舞い込んできた木の葉や笹の葉などの掃除が大変ではあったが)。

 

 この夏には、高槻の地震-岡山の大雨での災害-台風20号の災害-21号の災害-地震と次々と想定外の規模の災害が襲い、感覚が麻痺しそうであるが、未だに元に戻れていない人々が多くいることや復旧対策の腐心している人々に、通勤途上に見かける屋根のブルーシートを目にする度に、想いが行く。天災による被害をこうむっても、そのストレスサーへ意趣返しをするわけには行かず、自分に無理やりでも飲み込ませるしかないところに被害者の心的負担が増す。人間のリジリエンス力を信じるしかない。

 

自らの不摂生で風邪を引いて、シンドイなどといっておれる我が身は何と幸運であることかと思うことしきりである。

いじわる台風12号

 7月末、オープンキャンパスを土日続けて行う予定だったが、日曜日は中止となった。台風12号のせいである。昨日のうちに中止を決定し、HPに掲示したり、バス会社や教職員へ連絡したりと大わらわであった。バス会社?と気づかれたと思うが、私学ではオープンキャンパスへの参加を増やすべく、遠距離だけではなく、ターミナルから学校へとバスを仕立てるのは今や一般的な傾向である。受験関連企業のこのようなビジネスプロジェクトには、当然費用が掛かる。財政的に苦しい私学は淘汰される一因にもなるが、資本主義市場での競争原理で生き残るためには仕方がない。我が校も遠距離からの2つのバス経路を日曜日には設定してあったのだ。

 

 台風は左から右方向へと、つまり西から東へとカーブしていくものだと思っていたが、今度の台風は右から左、東から西方向へと移動する変則型である。ゴルフでいうスライスではなく、フックの方向なのだ。このような台風は例が少ないのか、予報がままならないようである。

 この間の大雨で激甚被害のあった中国地方にまた大雨が降るというのは、気の毒としか言いようがない。お陰でこの記事を書く時間が生まれたのだが、意地の悪い台風である。

 近年は異常な天候が、日常化して地球温暖化の影響は顕著となっていると思われるが、真剣に取り組もうとする政治家の陰は薄い。トランプのように逆らうことで一部の喝采を得ようとする者や自分の選挙にしか関心の持てないヤカラの退治が喫緊の課題であることは言うまでもない。ところで、子どもの頃に台風の進路を変える実験などの話題があったが、その後どうなってしまったのだろうか。

 

 1週間前にプラハから戻った。2つの関連学会がプラハで開催されたので参加した(もちろん発表もした)。日本のニュースを賑わしていた猛暑とは程遠い乾いた快適な気候で、ビールが美味かった。物価は安く、ビールは水とほぼ同額で、120円ほどで、生が飲めた。小さい町のなかに有名な観光名所はいくつもあり、旗を先頭とした中国人と韓国人の観光客集団が席巻していた。日本人観光客はほとんど見かけなかった。どこに行ってしまったのだろう。学会場で質問にきた豪州の大学の先生と帰国後にやり取りが始まり、海外の学会に出る効用はそれなりにあるので、物見遊山にばかり傾注しているのではありません(念の為)。

 

 帰国した日に、英国の友人から大雨災害は大丈夫かと見舞いのメールが届き、プラハから戻ったばかりだと返事すると、詳しい近況を知らせてきた。その中に、プラハは共通の先生であるStuartが大好きな街だったと書いていた。プラハにはBures夫妻という先生がいて、Stuartはこの先生らの研究を高く評価していた。彼の著書に詳しい引用があり、それを見つけて留学先を決めたことを思い出した。左右の脳の働きの共同作業の重要性を、当時は左右差の検出にほとんどの研究者(Sperryの離断脳研究に触発された)が躍起になっていた頃に指摘していたStuartの慧眼に僕が気づくのは20年後であった。Buresの研究に似たことを米国心理学会誌に発表していた為に、Stuartが厚遇してくれたのではないかと今になって思うのである。

 Bures夫妻はいわゆる「プラハの春」事件で民主化運動の首謀者のメンバーであった為に、体操のチャスラフスカさんらとともに公職を追放された。殺されたと僕たちは考えていたが、20年ほどの後に著作が出たので無事であることを知った。政治的理由で研究者としての「旬」を失ったである。

 

 プラハの大通りの工事中の壁(これを目印にしてホテルへ行き来をしていた)に、チェコの歴史を示す一連の看板が掲げられていたが、「プラハの春」事件は含まれていなかった。同行の若者は「プラハの春」はよく知らないということであった。都合が悪い類の歴史なのかもしれないと考えたことであった。

 科学研究も政治の影響を受けずにはいられないことを考えると、冒頭で述べたヤカラの退治の重要性は益々高いことになろう。

 

 オープンキャンパスは取りやめたが、来場者がありうるということで一部の職員と僕とは待機しているのであります。

大阪北部地震の報告

 強い揺れから2週間が過ぎた。もう余震もなさそうなので後年記憶が間違わないように、記録をしておこう。もっとも、自然災害についてのことなので、モリ・カケ問題(後年何の略語か不明になる可能性があるので、メモしておく。幼稚園児の教育勅語の暗唱で、日本会議のメンバーや安倍首相の妻の歓心を得たことを利用して、小学校を設置して補助金を搾取しようとした森友学園の事件と、安倍首相の友達の加計学園の理事長とが、獣医学部の設置で利益誘導をした事件のことである。安倍の強弁を守ろうとした官僚が嘘をつき、文書偽造を働いたために自殺者まででた事件である。日本会議のメンバーたちはこの件では口にチャックをして何も語らない。恥を知らない連中が教育を云々するのだから…)でのように、記憶がないとか虚偽再生する必要はないので歪む可能性は低いが、文章で残すのは重要なことである。

 

 地震は8時2分前に起きた。ちょうど家内をボランティア先に送るべくTVで時間を確認していた時なので、間違いはない。ソファに座っていた時に大きな縦揺れを感じた。阪神大震災の時は横揺れと時間の長さが記憶にあるがそれに比べて短時間であったが強さは大と感じた。居間に異常は見当たらないので2階を調べると、書庫の観音開きのガラス戸は開いていたが、本の脱落なし、子ども部屋の本箱のマンガ本が10冊ほど床に散乱、壁の時計の時間が止まっている、が目にした光景である。安心して出勤した。

 途中の道路で警官が出て通行止めをしていたので迂回した(この辺りはインフラに損傷が出たことを後で知った)。途中、ナビでTVのニュースを見たところ、ヘリの報告では道路は通常通りというので高速道路のインターに向かった。しかし、入口は閉鎖。仕方なく国道2号線で大学に向かう。2時間半が必要であった。途中、何度も携帯電話が入る。休講の措置の相談や田舎の従兄弟からの安否確認などであった。大学では安否確認のメールへの対応が仕事で、ブラジルやポーランド、カナダなどから小学生が死んだのは高槻だけど、インフラもダメみたいだけどと、多数安否確認の連絡をもらった。ニュースは瞬時に世界中を駆け巡るということと、メディアで伝達されるのはひどい状況の画像になるので、そうでもない被災地のケースもあるけど報道情報のデバイスが起きることを改めて確認した。

 帰宅も高速道路は開通していたので、混雑はしたが7時前に帰宅。やれやれとビールのグラスを食器棚から取り出そうとすると扉が開かないのだ。よく見ると心なしか数ミリ隙間があるようにも思えて、被害あり!と工務店に明日にでも来てくださいと電話した。瓦屋根にブルーシートの仕事が暗くなって一段落なのですぐ行きますということであった。工務店の人が来て数秒で問題は解決した。揺れで自動的にロックがかかり開かなかったのである。上の食器棚にはバカラやアイルランド土産の(同行していた川口さんが買うのでつい買ってしまい、飛行機で持って帰るのに難儀した思い出の)ワイングラスなどは割れずに済んだのである。

というような按配で、被災した皆さんへは申し訳ないような気持ちでいます

 

 今回の地震で我が家の被害がなかったのは、1)10年ほど前に増改築した際に鉄骨での強固なつくりを取り入れたこと(体育館を作るのか?と近所で噂になったとか)居間の家具は固定し、書庫は複数のつっかえ棒をしていたこと、揺れに対してロックがかかる食器棚にしていたこと、に尽きる。退職金の半分が消えた工事であったが、そのかいがあったというものである。備えあればという諺を体現することとなった。 もっとも、これらの備えは、お金が必要なことなのである。自己都合という理由で、かなりの額の退職金を減らされても(気の毒だということと、早く高齢者は退職させるべしということからか、翌年から名大ではこの制度はなくなったとか)、1年早く退職して一定のお金が入っていたから可能であったわけで、よかったではないかとpositiveに考えている。

もう余震も終わったので、と書き始めていたら、12時半すぎに震度2−3と思われる揺れが来た。余震は終わった訳ではなさそうです。油断大敵!

 

 という訳で、ご心配をしていただいたかもしれない読者の皆さんへの報告でした。

台湾で考えた

 

 交流協定のために台中市にある大学を訪問した。昨年の秋以来の懸案事項への対応が理由である。勤務先はグローバル化への流れが大勢を占める大学業界で珍しく、海外の大学との連携について全く取り組んでこなかった。

 昨今のグローバル化の風潮を横目に、僕は「安易なグローバリゼーションは選択しない」と主張してきた。英語圏の大学での短期間の語学研修など意味がない!「生活基盤となる国家資格を確実に取得させ、地域の基幹となる人材に育てて地元に返す」と、説明会では進路指導の先生相手に公言してきた(英語などよりも、卒業させるに足る学力の担保に苦労されているタイプの高校では評価してくれる進路指導の先生は少なくなかった)。しかし、少し宗旨替えをした方が良いのかも知れないと思い始めている。日本社会のグローバル化はとっくにかなり早くから進んでいると思うようになったことや(例えば、昨今活躍するスポーツ選手には外国人風の名前が目立つ)、日本人以外の人と接しても大丈夫な社会人に育っていないと地域での基幹的役割を果たす人材にはなれないかも知れないと思うようになったことが理由である。 

 そこで、昨年台北市であった大学フォーラムで連携を申し出てくれた大学と交流協定を手始めに取り組んではいかがかと今回の台中市訪問となった。大学というところ(うちの大学という意味です)は簡単に事業を始められない(終われもしない)ところで、10月初めに言い出したことがやっと動き出したというわけである。国際交流委員会→評議会→理事会というプロセスを経なければならない。言い過ぎかも知れないが、何か新しいことを始められて自分の生活ペースが乱される、新しい作業が増えると考える教職員の考え方は、プロセスを早めるようには作用しないのである。今回も相手は調印式を準備しているのをメールで察知したので、本部に確認した結果、学内プロセスを辿ろうとなり、今回は調査に来ただけなのですということになった。交流協定を締結することになるはずだが、あと数カ月はかかる模様である(昨夜ある会合であった大阪の某大学の専務理事は、私たちの相手の大学に昨年たまたま訪問し、その時に即決で締結したということなので、これは今の勤務先に限ってのことかも知れない。このようなことで良いのかしらと先行きが思いやられる)。

 

 相手側の学長は1980年代に漢字の認知心理学研究グループのメンバーである文部大臣も経験した台湾の心理学者の部下であった人である。漢字の認知心理学研究というのは、「漢字とかなの読みでは同じ脳内処理がなされない」、「漢字・かな・カナでは読む際の情動価が違う」などを実験的に検討する分野をいうのであり、僕も一定の仕事をしてきた(つもり)である(ついでに自慢するとElsevier社から発刊されている邦貨で224.5万円もする百科事典でnon-alphabetical scriptの項目は僕が書いているのだ)。

 

 昨年秋の交流協定を結ばないかという申し出も、学長の元上司の知り合いという人脈を通じてのことと考えている

 昨年の秋以来一度会った台北市の別な大学の学長は、3月に大阪で会った折に台中に来るなら晩飯を食べさすので知らせよということで、着いたその日の晩飯をミシェランの星がついているレストランでご馳走してもらう幸運を経験した。今まで食したことのない食材をフレンチ風にご馳走になった。同席した別の大学教員(日本で学位を取り日本語が話せる)も初めて食べますということであった。食後はガラス工芸品、新しい歌劇場などを案内された(朝の6時2分の「はるか」でスタートした台中行きは日本時間午後10時までの接待を受けてかなり疲れたが、彼のおもてなしには太刀打ちできない。感謝!

 

 訪問した台中の大学長は翌朝8時半から、一日中運転手をつけた車で観光地を案内してくれ、おもてなしとはこういうものかと思い知らされる予想以上の厚遇を経験した。もちろん翌日には仕事はしてきましたので、心配なく。

 

 もてなしてくれた二人の学長に共通するのは、人脈についての話題が多いことである。「あのホテルの持ち主は友人である」、「この会社の先月までのオーナーは高校の同級生」、「誰々は留学時の友人」、「某学長とは知り合い」、などなどである。日本でなら、わざと隠すか、あえて言わないようにし、つながりを自慢し鼻持ちならないと嫌味な受け取り方をされかねないが、台湾では違うようである。会話中に少しも嫌味な感じがしないのは不思議であった。

 

 安倍さんが加計学園の理事長とのことで苦境に立たされて久しいが、台湾なら問題にならないことなのかも知れない。昔馴染みの友人の便宜を図ったのをひた隠しにして、嘘をつかねばならないようになってしまったのは文化差なのかも知れない。もっとも、嘘をつくことを否とする倫理観に文化差はないはずで、安倍さんが倫理的に悪いことは言うまでもない。

 

 前置きがやたら長くなり書きくたびれてきたが、台湾で考えたのはこの人脈のことである。台湾では個人的なつながりを重視するのに対して我が方は組織・面で対応することの違いを痛感した。意思決定から実行までのプロセスのスピードが違う理由がここにありそうである。

 人脈が重要となるのは、言葉が違ったり、習慣が違ったりする人たちが混在し、競争が全面に出る場合であり、混沌とした競争社会では人脈しか頼れないのかも知れないと考えたことである。

 

 18歳人口が減り、存続が俎上に上がるような私立大学の業界では、スピードの遅い意思決定しかできず、組織の中でできるだけ自我関与をしないように身を潜めがちで教職員生活を続けたいとする構成員が多い場合には淘汰されて行くのかも知れない(自分の大学のことというわけではない)。

 

 それにしてもご馳走になった学長推薦の小振りの地元産マンゴー(赤くない青いものでも)、小さな地元産バナナ、ドリアン入りのアイスクリームは、今までの人生で味わった中で格別に美味しかった。再訪問する機会があればと思っているのであります。

時代遅れとなったなあ

PCを使い始めたのは同年齢の人たちより早く、1970年代であった。当時の心理学教室の予算は少なく、階層にかかわらずに平等に配分はされていたが、共通経費は16人で300万弱のであった。PCを使っていた記憶があるので科研費以外に購入できるはずはない。50万近くしたように思う。僕の指導院生以外も欲しいと教員に訴えるので、院生には平等にすべきという教授らがいて、僕には共通経費は配分されなかった(代表者は教員養成大学では研究は不要であり、院生不要論者であった)。何もしない人が研究費を多く配分され、科研費を取ると減額されるのは不合理と立腹していたが、講師になりたてで年功序列の壁は厚かった)。

 それ以降、カセットテープに記録されたプログラムを読み出しての統計処理、5インチ、3インチのフロッピーディスクなど、もはや死語となっている物を使って情報化社会に対応してきたつもりであったが、最近のインターネットシステムには、もうついていけていないことを思い知らされた。4週間ほど前のことである。所属している国際学会の名簿から探したというメールが海外のある会社から届いた(経歴などの条件を満たすのでという、くすぐりも書いてあるし、日本語が主のバイリンガルが要件という)。何でも神経心理学検査の妥当性を検証する方法の評価や治療効果の測定評価の妥当性の検証を生業にしているらしい。そんなことが商売になっているのかと、この会社のビジネスモデルへの興味、そして退職した後の時間を潰すのに良い老化防止になるかもしれないという関心、時間的な制約は特にないという条件、どれくらいの対価をくれるのかといういわば助平根性もあって、プロポーザルに「関心あり」と返事を送った。

 するとすぐに返事が来て、インタビューしたいのでPhoneをかける時間合わせを言ってきた。「時代遅れとなったなあ」と後で気づくのは、Phoneとはインターネットを介してのテレビ電話のことだと気付いたのであった(このときは、join.meというテレビ電話ソフトで時間とコード番号を知らせてきた)。また、時間予約もこちらがメールで知らせた時間(時差が念頭にないので東部時間であった)が僕のPCのカレンダーに相手から記入されていたのにも驚いた。

 ともかくインタビューの時間(結局夜になったので夕飯時にアルコールも飲まず)に待機した。結果は待ちぼうけでインタビュー不成功であった。理由は僕のPCにjoin.meのアプリを入れていなかったという初歩的な誤りである。Phoneといえばネットでのやり取りで日常使っているアプリを相手も使っているという想定類似性の錯誤によるミスコミュニケーションである。僕は、Phoneは固定電話が掛かってくると思っていたのだから「時代遅れ」なのだ。翌日、うまくいかなかった理由を相手にメールで知らせると(このレベルならついて行けるのだが)、再度日程調整をと言ってきたが年度始めは忙しいので後日知らせるということにした。その後急速に関心がゴールデンウイークの過ごし方に移り、薄れたので、インタビューは実施していないままである。

 テレビ電話は未経験というわけではなく、SkypeやFaceTimeは孫との連絡で使っているのだが、join.meは知らなかった。後日、同僚とこのアプリの使い方を試してみた。相手の顔が見られるというだけでなく、共通の白板に相互が記入しあい議論できる点が新しいことがわかったが、いちいちコード番号を打ち込まねばならないのは面倒だということは判明した。いわゆるグローバルな活動をしている人たちはこのようなシステムでやり取りをしていることを知った。同時に「時代遅れとなったなあ」と思い知らされた。

 

 春のゴールデンウイークは有休を取って空いている日を選んでDisney seaに孫を連れて行った。もちろん初めてで開園30分前から大勢の人たちと並んで待つという一番苦手なことをやって来た。5才半の孫をジェットコースターに乗せる役目を果たせるのは、パパは仕事で同行出来ず、僕しかいないと説得されたためである。

 孫相手だと特別な脳内機構が働くのか、はたまた感情が鈍化してきたのか、それほど待つ時間も苦痛ではなく過ごせた。自分の子どもはこんな風に遊園地に連れてくることはなかったなあと思いつつ、孫とメリーゴーランドやフライイング・カーペットにも乗った。こういう時間を幸せな時間というのかもしれないとは思ったが、特段興奮も楽しいという気持ちにはならずに4時過ぎに帰路についた。Disneyの映画もよく知らないので、孫やママが興奮するキャラクターに何の感興も起きるわけではない。子どもの頃の月光仮面や七色仮面もテレビは見たが、没頭することはなかった。人が夢中になるものに同調することを好まないタイプの人間に育ってしまったのだ。

 先日、何かのきっかけで「蘇州夜曲」が気になり、U-Tubeで聞いて見た。李香蘭(山口淑子)が一番、雪村いずみが2番目によかった。最近の歌手も大勢カバーして歌っているが、いずれも不可に思えるのは「時代遅れとなっている」何よりの証拠なのだろう。

 

 しっかりと休暇を取ったので、早く日常生活スタイルに戻らねばとは思いつつも、山積する仕事を前に立ち竦みがちなのであります。

めまぐるしい、3月弥生

  前回記載したように、2月28日に科研の仕事で共同研究者2名とともに北海道へ出張した。好天の大阪から函館に着き、車を借りて八雲町へ1時間ほどの快適なドライブであった。役場に挨拶を済ませて温泉が出ている宿に泊まったまではよかったのだが、翌日は爆弾低気圧の影響で雪、それもものすごい勢いの吹雪であった。翌朝、積雪・吹雪の中を役所に出向き1時間ほどで切り上げ千歳空港を目指したのだった。高速道路は閉鎖され、地道で5時間、雪の中を走り(運転は若者がしたが、それでも疲れた)、レンタカーを返して空港に。帰りの飛行機は飛ばないので、札幌にホテルを取った。ホテルまでの電車は積雪でポイントがダメということで、30分で着く予定が90分もかかり、ぐしゃぐしゃの雪道の中を這々の体でホテルの着いたことであった。翌朝は6時にタクシーを予約して空港にたどり着き、まだ大阪への飛行機はないので名古屋まで飛び、新幹線で帰阪となった。めまぐるしい2泊3日であった。

 

 それから2週間ほどで桜が咲き始め、23日には卒業式であった。3月弥生はめまぐるしく季節が次へと展開する境目なのである。

 今年は、次の3つのことを卒業生に贈る言葉とした。HPに掲載されるはずの文章を転載しよう。

 「まず第1は、感謝の気持ちを忘れてはならないということです。ご家族はもとより、多くの人々が皆さんの成長に関わったことは良く理解しているはずです。自分の力だけでは幸せな人生を送ることは出来ません。感謝の念を持ち、「ありがとう」と口に出すことを勧めます。本学の設立理念である、「感恩」の言葉を常に思い起こして、本学で学び育てた感性を持ち続けてください。

 第2は、多様性を受容し、共生により未来を創造することが、本学を卒業し、社会人となる皆さんの使命であることを忘れないで欲しいということです。ここ1年を振り返りますと、○○ファーストという表現が大流行りでした。この考え方は、突き詰めれば自分あるいは自分の仲間以外のものはどうでも良い、自分たちだけが大事ということです。自分たちだけの利益を求め、そのための主張を成立させようとする姿勢は、「全ての人が幸せな福祉社会の構築に、科学的に取り組むこと」を目指す本学の設立理念とは相いれません。これらは、自由、平等、人権、博愛、民主主義、さらには多様性の受容など、近代から現在まで、先人の努力によって人類共有の倫理となったものを歪めることにつながる恐れがあるからです。世の中には自分と異なる多様な人間が存在することを了解し、共に生きていかねばなりません。そのためには、高度な知性、優しさ、想像力と、確かな倫理観が必要です。しかし、その獲得は簡単なことではありません。

 その獲得のためには、人間の多様性への知識、そして相手が何を望むのか、どのような考え方を持つのかを的確に推論する力が必要です。それらは、自分ファーストのような、自分が好きで面白いと考えるものだけを対象にし、自己中心の小さな世界に閉じこもる生き方からは育たないと思います。受け身ではなく、自らから進んで様々な事柄を学ぼうとする意志を持ち続けてくれるよう望みます。そのような人材を社会に送り出すことが、本学の社会的使命だからです。

 第3は、平和を志向することを自分の生き方の基本として欲しいということです。皆さんは、福祉社会の実現を科学の目を持って取り組むことを理念とした大学で学びました。福祉の基本は平和であることが第一の条件です。平和でない社会で、人々に他者への思いやりを求めることは容易ではありません。私は最近のアジア情勢やそれに伴う我が国の対応には、平和から乖離する方向性が伺えるように思われ、危惧しています。皆さんは、将来何があっても平和を志向することで、本学で学んだ意義を忘れずに行動してください。

 最後に、今日卒業・修了する皆さんが、自らのいのちと、心身の健康に留意され、活き活きと幸せな人生を送られることを心からお祈りし、お祝いの言葉とします」。

 自らのいのちという表現に違和感があろうかと思うが、「自死」をするな「戦争で死ぬな」という意味である。お祝いの挨拶なので説明は避けたが、含意はそこにある。

 

 卒業式を終えると、それからの数日は、大学は静かである。「学生のさやぎ途絶えし図書室の、静寂の中を春の過ぎ行く」とまだ助手だった頃に、板張り教室を改造した図書室の隅に設けられた粗末な囲いの居室で、詠んだ歌を思い出した。卒業式後のこの静かな期間に床板に油が引かれ独特の匂いが充満するのであった。記憶は、視覚も、聴覚も、さらに嗅覚も引き連れて想起されることを改めて実感した。

 

 28日からはオリエンテーションがはじまり、また賑やかになる。まことに3月弥生はめまぐるしいのだ。

吐け口としてのブログ

 年度末が近づくとやらねばないままに積み残してきたことが、積雪の重みのようにストレス状態を生む。積雪の単語で、故郷の昔日のことが思い出される(韻を踏んでいるつもりはないが、retrievalされたのは心内辞書では近くにあるのかも)。先日まで盛んに報道された日本海に面した地方の大雪は、大変なことでお見舞いを言いたい。

 滋賀の湖北に育ったので、子どもの頃に何度かは大雪を経験した。50センチの積雪は年に1〜2度はあったように思う。屋根に登って雪下ろしをしたことも覚えている。屋根瓦に10センチほど雪を残して下に捨てるのだ。この作業は、きつく汗だくであった。雪が降り始めて大雪になりそうだと途中から休校になる。土足で体育館に集合し地区ごとに帰宅する。その時のワクワク感は今でも覚えている。普段はできないルールを犯して長靴で床板を踏めること、帰って雪遊び(竹スキーやソリ)ができること、何より授業がないことが嬉しかった。雪遊びではズボンを濡らす、火鉢(もはや死語か)で乾かして焦がすことが常であった。湖北の積雪は水分を多く含むので仕方がないのだ。子どもの頃の雪遊び→服が濡れる→叱られる体験から、大人になってもスキーはほとんどやらない(したがって出来ない)。

 さて、ストレス状態の話に戻そう。年度末になると中長期計画の見直し作業が本部から降りてくる。所属長会で議論するのだが、今年からそれぞれの課題に数値目標を入れて欲しいという要望で改稿。設立理念の「感恩」の周知の数値目標を示せという。困ったのが、「感恩」の実践の数値目標を記載せよという。理解できないと指摘して論争になるが、ラチがあかない。「ありがとう」を言ってもらったことで、良いではないかという。「意味がない、やめて欲しい」と発言するが、後日話し合おうと言うことになる。

 数値目標はそもそも計数可能な事項にしか当てはまらない。『抽象概念』を数値化することは、心理学では昔から取り組んできた作業だが、操作的定義を用いるしかない。「感恩の実践」とは何を指し示すのかを操作的に定義し、共通の物差しとしないと、数値を上げること自体が困難であるし、所属ごとに比較もできはしない。無理難題であること、意味がないことが理解してもらえない。再度、所属長が集合し検討してようやく落着したが、孤立して議論することで余計なエネルギー消費した。

 年度末の一番の課題は予算案の作成である。教育産業は斜陽であり、収入が増えること(学生数の増加、授業料の値上げ)が見込めない現状では昨年度レベルに抑えねばならない(わが大学は、定員増をしたのであと2年間は学生数の増加は可能だが、その先は不透明)。建物や設備が20年ほど経てきたので、整備せねばならないところが次々と増える(とりわけwindowsのPCとソフトウェアの更新費用は巨額であり、ビル・ゲイツのビジネスモデルに悪態をつきたくなる)。教育環境を維持していくのには、本当に金が掛かる。一方で、財務担当部署は予算基準に厳しい。そんな中でも複数の新事業を始めるようにトップからは指示が出る(地域連携で学園を防災拠点にするという活動などなど)が、どこからもお金が湧き出るわけではない。僕と事務局長の仕事として昨年度の予算から何かを削らねばならない。他大学に比してかなり優遇してある個人研究費の削減は論外であるとしているので、頭が痛く、ストレスは溜まるばかりである。

 3月末に卒業式があり、式辞を準備せねばならない。原稿を3-4週間前に準備するよう依頼されるのだ(例年通りだが、手話部が式当日に通訳するための練習にそれくらいの期日がいるからというためである)。その場で通訳できないようでは役に立たないのでは、とか参列者に手話通訳が必要な人がいるのか、とか音声→文字表示は今のパソコンでは問題なくできるのになどと、ブチブチ言いながらも先日手渡した。ストレスフルなことではあった。

 耳鳴りはストレスで生じるというネット情報が正しいのか、1月ほど前から左耳に耳鳴りがするようになった(夏でもないのに虫の音が聞こえるといった状態)。今のところ生活に支障はないが気になるので大学の近くに開院した耳鼻科に行ってみた。綺麗な医院で、まだ患者は多くなくイラつかずに検査と診察を受けることができた。まだ補聴器は早いということであった。「うるさい環境で仕事を経験してきたか」と聞かれたので「うるさい教員はいたけど」と答えておいた。若い医師はネットで僕の正体を見つけていたので、この会話は成立し、ちょっとウケたのです。耳鳴りは老化もあるが、前述のようにストレスが多いことにも起因しているに違いない(と帰属している)。

 もっと色々ストレスフルな出来事はあるのだが、ここまで書き出すことで吐け口としてのブログの機能は満たせたので、良しとしよう。思い返せば、2001年から始めたこのブログは元々、院生相手の不満の吐け口であったのでした。

 明日から北海道に1泊2日の駆け足調査に出かけ、役場の人と気のおけない話をし、新鮮な空気を吸って、気分を一新しよう。耳鳴りがなくなるかもしれない。