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自分史のためのメモ

 昨夜見たTV番組で、子ども(と言っても5-60歳代)が親に聞き取りを繰り返し、親の自分史を書籍にしてあげたという話題を取り上げていた。地方の出版社の新しいビジネス、というようなものであった。80歳を過ぎて聞き取りをされても、果たして正確な事実を想起できているのかしらと、意地悪く考えたりしていた。

 

実は、先月末に自分の過去を振り返った時に欠落しているピースが埋まったという経験をしたので、自分史を書く予定もないけれども、念のためにメモしておく。

 

先月末にある学会に呼ばれて、シンポジストになった。「レジェンドたちが見る現在と未来」というテーマで、冗談と聞き流していたタイトルがそのままであったのに驚かされたが、そういう風に見えるのかもしれないと甘受した。そういう風にというのは、若い頃には学年が5-6年も離れると、後輩からはえらい年寄りに見えるものだという意味である。20歳の頃には院生や助手の人は、年齢は4-6歳しか違わないのに、専門的知識の量の違いからも遠い位置の年寄りに見えたものである。その頃、30歳であったはずの助手の先生は独身で、適齢期を過ぎてもう結婚できない人なのかしらとまで勝手に案じた記憶がある(この人は31歳で結婚し、現在も健在である)。学会でレジェンドとシンポジウムに呼ばれた3人は78歳、78歳、73歳なので、現役の学会員からはひどく年の離れた人間と見なされるのであろう。

 

記憶の欠落ピースに話を戻そう。午前中にシンポジウムが終わり一人のレジェンドが帰ったので、先輩であるもう一人のレジェンドと控室で長話をした(夜飲みに行く約束を前日にしたので、時間はたっぷりあったのだ)。僕は大学で心理学を専攻することにしていた。心理学がどういう学問かもよく知らずに、高校の進路指導の世界史の先生が「心理学は面白い、僕の戦友が教授をしているところがある、そこに行け」ということだけで入学した。入ってみると2年次から初級実験や統計の授業が毎週あり、レポートに追われた(徹夜も混じるようなことで、追いまくられたという方が適切)。2年次最初は8人であった専攻生は卒業時に4人になった。

心理学に一定の知識のあった学生は自分の描いたものとは違うということで、別の専攻に移ったのだ。男子は僕一人となったので、2年生から動物に飼育を手伝って欲しい、被験者をして欲しいという教員や院生の依頼を一手に引き受けざるを得ない羽目になり、研究室に出入りする頻度が増えた。そういう状況下で夏休みには先輩レジェンドの視野闘争の知覚実験(右目と左目に別の刺激情報を提示して、見え方を報告するというもの)の被験者になったのが知り合うきっかけであった。何時間も何日も続いたように記憶している。

クーラーのない暗室で肌着一枚になって汗だくで被験者を務めるのであった。この話を彼に切り出すと、「そのお礼に、007の映画を見せた。そのあとレストランでスパゲッティをご馳走した」という。このエピソードは全く記憶にない。「他人にしてあげたことはよく覚えているが、してもらったことは忘れがちである」という記憶再生の典型を実体験した。

 

007の映画は、卒業できた同級生の一人が、株主優待券があると誘われて梅田の封切館で「ロシアより愛を込めて」を見たことは覚えている。映画に一緒に行った女学生が帰りに家まで送って欲しいと言われて、反対方向だけどと思いつつ、渋々西宮北口駅近くの家まで送り届けた。その後しばらく大学に来なくなり、連絡すると病気を発症して入院し、退院して家にいるということであった。驚いて同じ英語クラスの、倒れた彼女と親しかった学生と一緒に見舞いに行った。その後もよく休むので、何度もお見舞いとレポートなど学業についての連絡をするために訪問したのを思い出す(母親がご馳走してくれるのにつられた側面は否定しない)。

お見舞いに同行していた女学生(後年僕と結婚することになった)はたまにしか家にいない父親と同郷であったこともあり、結婚後も随分と可愛がってもらった。見舞っていた一緒に007を見た女学生は卒業した年の7月に急逝したのであった。

 

話が横道にそれた。記憶に欠落しているピースに戻そう。

 

僕が夏に被験者をしていた先輩レジェンドは、博士課程1年生の12月に関東の国立大学に教員として着任することになった。その送別会に僕も呼ばれて、天王寺のどこかで、みんな帰宅できないほど飲み(従って、ラブホテルに6名ほどの男が泊まった)、酩酊した。その時に集まっていた先輩らは大学教員目指していたので、心理学を勉強して、そういう進路があることを初めて知った。それも目の前の人が大学教員になる現実を知ったのである。

 

高校の心理指導の先生に教えられ、よく知らないままで心理学を専攻したが、社会科の教員免許を取って田舎に戻って、というキャリアパスしか知らなかった僕には、大げさに言えば刮目に値することであった。

「なぜ自分は研究職を目指したのか?」よくわからずにいたが、真面目に勉強して大学院を目指したいと思い出したのは先輩レジェンドとの出会いであったためなのであった。自分の過去の中で抜けていたピースが「ストン」と埋まった気持ちになったのだ。

 

先輩レジェンドは、春の叙勲に対象者で親授式を2日後に控えていた。僕のキャリアパスを導いてくれたとも言えるので、夜の酒盛りは謝意を込めたお祝いの会となり、数日前に還暦となったという教え子もついでに祝うことになった。懐は寒くなったが気持ちは暖かくなった。

新元号と10連休

  元号が新しくなるという5月1日は法的に休日にされたので、今年のゴールデンウイークは10連休になるとメディアは騒がしかった。平成から令和になるということで、まるでこれまでに色々と溜まってきていた問題が水に流され、新しい時代で何もかもが一掃されるような錯覚を植え付けようとしているかのように、僕のようにひねくれ根性が育ってきている人間には思えるのであった(同調性が乏しいのである)。

 

 僕がブログを書く動機の大きなものに、退職後に暇になって、本などを読む根気も視力も衰えた頃に、PC画面を拡大して読み返して、時間を過ごそうということがある。実際2001年から書き始めており、幸い記載時期別に整理されているので、時々読み返すことがある。5年前の○月に何を考え、何をしていたのかを確認したりする。あるいは、誰それが亡くなったのはいつだったのか記憶が怪しいときにも確認したりしている。記事を読み返すと、ときには誤字を見つけて恥ずかしい思いにもなったりするが、その時の情景や感情が想起され、涙ぐんだりできるのである(加齢で涙もろくなったせいもあるが)。

 

 メディアが騒がしかったので、出来るだけ新元号情報に暴露されないように10連休を過ごした。最後の2日は自宅で畑や草抜きなどをしていたので8日間を休んだことになる。この間、連休で遊びに出かける人々のニュースばかりであった。まるで日本中の人間が休暇を取っているようであったが、遊びに行く先では休まずにそれに対応している人々がいる。その人達への取材をすれば、もっと行儀よく過ごそうとか、お金を使おうとかいう動機を高めるような独創的な情報を提供できるのにと考えたりしていた。

 

 人が遊んでいるときにはそれに応対している仕事をしている人が必要であることを連休中は時々思い起こしていた。もっとも、遊ぶ場所に人が来なくては生計が成り立たない訳なので、僕のようにひねくれて家にこもっていようと考えるのも社会全体を見渡すと困った結果を生むことになる。難しい問題である。

 

 僕は休めない人に申し訳ない(時々、少しだけ)と思いつつ、旅行でお金を使うことで社会の経済活動を支援する側に属することにした。次男は休めないで社会貢献している側なのでバランスが取れていると我田引水的に合理化して、経済活性化を支援する側の長男夫婦と5日ほど一緒し、残りの3日を夫婦だけで旅行した。後年、読み返しての想起手がかりを記しておかねばならないので、何をしたかを記録しておく。

 

 5月2日は夫婦で黒部ダムに行った。6月にならないと放水はしないらしく、ほぼ空に近いダム湖ではあったが、その大きさと雪山の美しさを堪能した。その前日までは長野は寒い雨であったが、快晴に恵まれた。旅行客はインド人らしき人5割、日本人3割、残りは中国・韓国語を話す人であった。インド人が多くて、「インド人もビックリ」ならぬ「インド人でビックリ」であった。

黒部で泊まり、翌朝糸魚川を経由して永平寺を訪れた。永平寺は家内の希望であったが、快晴の暑い日となり、観光客が多くてちょっと興ざめという印象であった。この日はあわら温泉に泊まり、吉崎御坊に翌朝立ち寄って、北陸道を南下、余呉湖を巡り、木之本地蔵に参詣して3時過ぎに帰宅した。幸いニュースでやかましかった高速道の渋滞には会わずに済んだ。吉崎御坊に寄ったことを後日周囲の人に話すと意外と知名度が低く、八尾ゴボウのようなもの?と聞かれることであった。蓮如上人、一向一揆を理解する上では必須の地である。足を伸ばされることを勧めます。

木之本地蔵は小学生の時の遠足で行った記憶がおぼろげながらある地で、運よく神輿の出る祭りに遭遇した。もっとも神輿の進行速度は遅く(2トン以上の重さとかで、50mほどで一休みする)、待たずに神輿のあるところまで迎えに行って見物した次第。わざわざ、木之本地蔵に寄ったのはそこから100mほど先にある冨田酒造で「七本槍」を購入するのが目的である。

 

 今回の休みで、「立科権現の湯」、「黒部温泉」、「あわら温泉」の3種の温泉、「永平寺」、「吉崎御坊」、「木之本地蔵尊」の3種の神社仏閣を踏破したことになる。およそ1000kmを一人で運転した。黒部ダムでの展望台までの階段を登れたことに加えて、意外と体力が残っていることを実感できた連休であった。

 

 長男の知人に1年ほど前に山形の酒が気に入っていると飲み会で話していたら、岩手の酒を知るべしと「南部美人」と鷲の尾酒造の「セン」という酒をいただいていた。これを長男らと飲み干した。大変美味い酒であることを確認した。山形の酒がうまいと勝手に宣伝してきたが、昨年来、福島(特に会津)の酒もよろしいとなった。加えて岩手の酒も勝るとも劣らないと言わざるを得ない。「何でも良いのでしょう?」という人がいるかも知れないが、諏訪で買った「令和」という金粉入りの大吟醸は、イマイチでしたので、まだ味覚の評価機能は健全と自負しておきます。

 

斯くして、10連休を過ごしたのでありました。連休中仕事をしていた人に感謝、と適当に休んでくださいとお願いしておきます。

庭の草抜きをする春の日に

 

 研修日の今日は、近くの看護助産学校で朝から久しぶりに講義をしてそのあと散髪に行って、昼ごはんの後は書きかけの論文に取り掛かるべしと、心に決めていたのだが、ご飯を食べた後TVで1933年のジョン・フォード監督の映画を見てしまった。Tabaco roadという題名だったかと思うが、古い映画の割にテンポが速いのと1930年代のアメリカの農村の貧しさの描写に引き揉まれたためである。食べ物がないので盗んだカブを生で食したりしている描写は戦前の日本でも同じかもしれないが、アメリカの過去を知らしめる新鮮な光景であった。2月に目撃したNYの姿と繋がっているのが信じられないほどである。

 

 仕事に取り組むきっかけを削がれたために、数日前から気になっている草抜きをやった。広い庭でないが一応芝を植えてある(苔が年々勢力を増し、20−30%の面積を覆うようになって、芝生であることを了解し難いレベルである)。2月前にも草抜きはしたのだが、新しく別な小さい雑草が次々生えてくるのだ。苔だけを選択的に枯らせる薬剤を3週間前に撒いたが、一向に効果が出ないので以前の顆粒の薬にすべきであったかと後悔しかけていた矢先、3日前から苔が枯れるのが目立ってきた。これはヨシヨシ!なのだが、そのせいで苔の間の雑草が急に目立ってきて、草抜きをせねばという脅迫的な気持ちになっていたのである。

急に夏日のような暖かい日となったので、機嫌よく始めたが小さい草の数は予想以上に多く、腰が痛くなり1時間半で休止した。まだ半分あまりの面積しか処理できていない。

 草抜きをやるたびに、芝生をやめて砂利でも撒こうかとも思わないでもない。1970年頃は松を配置した日本風の庭作りが一般的で(というかすべてそうで)あったが、お金がないので境界の辺りに安い木を植えて、残った空き地に芝を植えて洋風にしたのである。子供が小さい時は裸足で家内と庭を往復したり、花壇を泥水の池にされたりしたが、子供はよく遊んだので日本風にしなかったことをよかったと思っていた。20年間ほどゴールデンウイークにはBBQをした。いつも学生や同僚が20名ほど来るので都合がよく、芝にしてよかったと考えたものである。しかし、芝が痛んできたり、雑草や苔が侵略したりしてくると、芝にしたことを恨めしくも思うのである。

「良い」という価値観も時代を経ると変わるわけで、自分が元気な時は良いが年寄りになると庭は厄介であると言わざるを得ない。「価値は環境条件で変わり、不変ではない」のである。

 

 僕は田んぼや畑に囲まれた環境で育ったせいか、草抜き自体は嫌いではない。そもそも、コツコツと同じ動作の繰り返しで、進捗が確認できるような課題をやるのはむしろ好きな方である。したがって、徹夜で一気にというようりも細切れに原稿を書くタイプとなっている。

 草引きをしながら、大学の2年の時に亡くなった祖母が「たけしはしんぼが良い(根気がある)」と言われたことを思い出していた。自宅から1kmほど離れた茶畑で草むしりを手伝っていた光景とともにである(それほど根気よく草を引いていたわけでもなく、桑の実を食べて遊んでいたことの方が鮮明なのだが)。畑の周囲に植えてある茶の葉を摘み、自宅で番茶を作っていた頃のことである。

 

 祖母の小学生の僕へ口癖は、「お前は弟やから家には居れないのやから」、と「しんぼが良い」だったように思いだす。自立するようにということと、性格の長所を教えていたのだろう。祖母の口癖から実際に「自分は根気が良いのだ」と思い込まされてきたフシがある。振り返れば、祖母の言葉はこれまでの生活の中でも幾度となく思い起こされ、気持ちが建て直されたことがあったように思う。生きる指針というか応援歌でったのかもしれない。

 

 孫がこの4月から小学生になった。これから数年間の間に彼女の一生に影響を与えることができるような言葉を祖父である自分が伝えられるのだろうか。そういう風になればと思うが、僕と祖母とは同じ空間で生きてその間に何度も言われたためであるとすると、僕の場合には無理なような気がする。しかし、「亡くなった後でも孫に影響力を及ぼし続けることは可能かもしれない」と考えたことである。

 

 というわけで、雑草抜きの単純な作業の間には普段考えないことを思い出したり、考えたりするものである。腰は痛くなるが、芝生を諦め、庭に小石を撒いてしまうのは今しばらく先延ばしにしようかと思う。2-3日中に残りの作業をせねばならないのは気が重いのでますが...。急に穏やかな春の日が続くようになった連休前なのです。

卒業式辞

 昨日、無事に卒業式を終えた。数日前の短大の卒業式は全員制服で地味だったのとは対照的に、ビックリするような色彩の組み合わせが多い色とりどりの400名ほど女子学生の着物姿は華やかであった。嬉しそうな若者の表情を見るとこちらも同じ気持ちになるが、卒業証書の生年月日を見ると、自分の年齢を確認させられため息が出そうになる。

 

 式辞は大きな大学では秘書課で作成してくれるらしいが、うちは自分で書くのだ。手話サークルが式辞を通訳するということで、式辞原稿は3-4週間前には渡さねばならない。前日にイチローが引退したニュースなどを急に引用する訳にはいかない。また、HPにアップするというので、間違った日本語の指摘を受けないように、日本語教師の資格があるという人に事前チェックをお願いするというように、結構大変なのである。

 

 式辞には次のことを書いてみた。

「昨年の4月から定期的な放映が始まった、NHKの「チコちゃんに叱られる」が人気を集め、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」が流行語となりました。私の専門ではありませんが、精神分析学の一つの学派であるユング心理学風に解釈すると、今の我々には叱られたい潜在願望があるのだということになりそうです。ユング心理学では長い時間の経験の蓄積の結果、個人には、通常意識されない集合的無意識が形成されることを想定します。そのことを前提にすると、先の言葉が流行ったのは、「この社会で、ボーっと流されていっていいのか?」という、最近の日本社会に対する懐疑の集合的無意識が影響しているのかもしれないと思うのです。例えば、30年前から指摘され始めた社会の格差は、拡大するがままで、是正できていません。また、人口減少の傾向は一向に修正されずに、日本の出生率は低いままにとどまっています。教育への投資は対GDP比率3.47%と先進国の中で最低水準にあり、154国中114位にとどまり、高等教育は劣化の傾向を示したままです。加えて、森友・加計問題、省庁における統計資料の改ざんなどの無責任体制に見られる日本社会での倫理観や徳義の劣化がめざましいことなどを考えたとき、平穏さに身を任せて現状のぬるま湯的な生き方で良いのか?この社会に変革しなければならない課題はないのか?といった問題意識を明確に持ち、それらに正面から取り組むことをしてこなかった大人の潜在的な罪悪感が「ボーっと生きてんじゃねーよ!」を流行させているのかも知れません。

そこで、皆さんはこんな社会にしたいとしっかり考え、より良い社会への海図を携えて進んで行く社会人生活を送って欲しいと思います。そのためには、「情報の偏食はしない」ことが大切です。皆さんは情報をもっぱらネットニュースで得ていることでしょう。サイバー空間上では、その人の検索傾向に応じた政治やスポーツ・芸能のニュースが選択され、流されるような仕組みが作られています。個人の嗜好に即した、心地よい情報ばかりを受けとる環境を知らぬ間に自分で作ってしまい、自分と異なる他者の考え方を知ることを難しくしているように思います。事実の隠蔽や改ざんを見抜く力を磨き、異なる多様な考え方のあることを知って下さい。そのためには、偏った情報ばかりを受けとる、言わば「情報の偏食」に陥らないよう常に意識することを勧めます。情報は広範に集め、比較検討する科学的な考え方を堅持して、未来社会を描く努力をお願いしたいと思います。そして、その実現のためにそれぞれの人生のステージにおいて基幹的な役割を果たすことを期待しています」…。

「最後に、今日卒業・修了する皆さんが、自らの命の大切さと、心身の健康に留意され、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られないような社会人として、幸せな人生を送られることを心からお祈りし、お祝いの言葉とします」と述べた。

 笑い声を期待したのだが、不発に終わった。真面目なことを言っているなあ、と考えている聴衆にいきなり笑いを取ろうというのには無理があったのかもしれないと、反省したことである。

 

 卒業生は閉式後自分の学科で証書を受け取り、夕刻からはそれぞれに学科ごとの謝恩会場に向かっていった。帰路の駅では会場に向かう教員大勢と一緒になった。

指導学生のいない自分には行くべきところもなく、午後は、ややこしい小さい文字の投稿規定に悪たれをつきながら、論文を投稿することで鬱々とした気持ちをマネジメントしたのであります。卒業式も終わり、今年度も終わろうしていることを実感したのでした。

NYに行ってきた

 一度出席してみたかった国際学会の年次大会に参加すべくNYに出かけた。2月に入って次年度の予算、学園全体の財政、急な退職者の出現とその対応などなど、かなり心身ともに煮詰まってきていたので、出るべき会議もあったのだが切符を買ってしまったということで、参加した。1週間は(時にメールは届いていたが)ほとんどAcademicな事柄に注意を集中し、精神のバランスを取ることができたように思う。

 

 学会はNYのTimes SquareにあるMarriottホテルで開催されたが、このホテル代金は高いので、2筋ほど離れた一ランク下のホテルに5泊することになった。繁華街のど真ん中で、学会のプログラムが終わる夕方から出かけるのには便利な場所で幸運であった。ミュージカル劇場が周囲にたくさんあり(学会場のホテルの下の階も劇場である)、朝は7時台から始まるプログラムは夕方には早めに終わるようにされていたような気配であった。タイトルだけは知っているミュージカルをいくつか見かけたり、入場待ちの長い行列も目にしたりしたが、当方は全く関心がなく、街を歩くことだけで過ごした。以下はその印象記である。順不同での覚書で、後日懐かしむことがある時の手がかりを残すのが目的である。

 

 まず、学会の印象だが、Academicな観点からも印象深かった。アメリカの神経心理学者らのAging研究の最先端を覗くことができた。(有料の)講演をいくつか聴いたが、僕も引用したことがある研究者は3時間を10分の休憩だけで、淀みなく話を展開したり、30歳代と思われるNeurobiology関係の研究者は20人近いメンバーからなる大規模なプロジェクトを率いて、それを一気に紹介したりする講演を目の当たりにした。「凄い」としか言えないレベルの研究者であった。3000人規模の被験者登録者をもち300-500人規模の脳画像や遺伝子情報を使っての研究は、その予算の額を暗算するだけで、ため息をつくことであった。もっとも、限られた世界でのトップの人たちなので、当然かもしれない。

我々のコホート研究の方向性や核となる部分は問題がないことを確認でき、安堵できた(いつまで現役のつもりかと自分に呆れつつも)。

 個別の発表では人種差別を変数に取り入れた研究には拍手が多く、今のアメリカの国情を伺うこともできた。

 

 おそらく最初で最後のNYなので、お上りさんに徹し、観光名所を徒歩と地下鉄で移動した。訪れたのは自由の女神(70分並んで、フェリーで往復、島には降りず)、(2時間待ちにつき一旦ホテルに戻っての)ロックフェラーセンタービルの夜景、グラウンドゼロ、セントラルパーク、(入場者の多さに気後れして建物の写真とShopを見ただけの)メトロポリタン美術館、ハーレム地区(写真を撮っただけのアポロ劇場)、チェルシーマーケットでの土産物漁り、Irish Pub3軒などである。予想外に大して寒くもなく、天候も晴れで幸運であった。

 

 印象としては、宿泊した界隈には細くて高いビルが凄い数集まっていること、地下鉄の階段が狭くて、急で身体能力が十分でないときついこと(乗り換えの駅では急な狭い階段が長くて息が切れそうになり、太ももが悲鳴をあげた)。物価が高いこと(ホテルの売店のベーグル1個4ドルは高すぎ)、すごい数のいろいろな肌の色した大きな体格の人小さい人が行き来していること、どこに行ってもセキュリティーチェックが効率悪くて大変で、長時間列を作らねばならないことである。

 つまり、NYに行くのなら若いうちでないと、ということを理解できた。無事、5泊7日のNY行ができたのなら若いということですかと問われると、その通りという自信はない。

 

 帰国翌日は理事長室で(高等教育無償化制度を睨んでの)奨学金制度の見直しについて侃侃諤諤の議論となり、Academicに染まっていた脳機能の天気図は一気に胡散霧消した。NY行は夢だったのかもしれないと頬をつねってみたのでした。

閉眼、片足立ちが出来ない

 昨年の4月から定期放映が始まったNHKの「チコちゃんに叱られる」が人気を集め、「ぼーっと生きてんじゃねーよ」が流行語になっている(らしい)。

 

 契約書に記載されてある条件のために、放映日時や内容は書けないが、先日録画撮影を行った。2度目の出演となる。そのうち放映されるはずである。4月のレギュラー化1回目の放映に出演ということになったので、そのことが重要であるような言う人もいるが、たまたま、前に収録したものが放映回となったと言うだけで、大した意味はない。何度も再放映されているのか、賀状にも見かけたという書き込みが少なくなかった。無料で生きているのを確認してもらえたことになり、有り難いことである。

 

 相手から「ぼーっと生きてんじゃねーよ」と言われれば大抵の人は腹が立つはずなのに、それを喜んでいる世情は奇妙に思え る。僕は専門家ではないので素人考えに過ぎないが、精神分析学の一つの学派であるユング心理学風に解釈すると、叱られたい潜在願望が今の大人たちにあるということになりはしまいか。ユング心理学では長い時間の経験の蓄積の結果、個人には通常意識されない集合的無意識を想定する。無意識の底にあるのは、「こんな社会で、ぼーっと流されていっていいのか?」という最近の日本社会への懐疑としての集合的無意識の投影かもしれないと思うのだ。

 

 過去30年以上も前から指摘され始めた社会の格差は拡大するままである。僕の給料も一向に上がる気配がない。人口減少の傾向は一向に修正されず、先進国のフランスでは治まってきているのに日本の出生率は低いままだ。人手不足を発展途上の貧しい国からの労働者で補うと言う。そんな安直なことで良いのか。教育への投資は対GDP比率3.47%と先進国の中で最低水準にあり、154国中114位にとどまる。高等教育は劣化の傾向を示したままで、国公立大学では沈み行く中で多くの友人たちが踠いている。

 森友・加計問題、統計資料の改ざん、虚言などの無責任体制が続く日本社会での倫理観や徳義の劣化はめざましい。

などと、平穏さだけに身を任せてぬるま湯的な生き方で良いのか?目指す社会を描こうとするのをサボって、この社会で変革しなければならない課題に正面から取り組んでこなかった大人の潜在的な罪悪感が「ぼーっと生きてんじゃねーよ」を流行させているのかも知れないと思うのだ。

 この潜在意識が今年の夏以降の自らの権利行使の際に適切に機能することを願うばかりである。

 

 NHKの撮影の際に閉眼で片足立ちをする場面を撮った。楽勝だと試みたところ、開眼では2-30秒は問題なかったのに、目を閉じての片足立ちは5-6秒しか維持できず愕然とした。バランスを維持する中枢神経機能は複雑だが、小脳―基底核系に機能低下が明白なことだけは確かである。ほぼ毎日20分ほどの散歩やスイミングの運動習慣を怠らずに続けているのにこの有様である。体幹を鍛える運動などを始めないと転倒→骨折→寝たきりへのルートへ繋がりかねない。閉眼片足立ちでの失敗は、年齢相応に身体機能の低下は着実に進行中であることを気づかせてくれたことになる。

 

 着実に身体機能が低下するのであれば、いずれは誰かに頼ることになる。頼られた時に頼りになる人間であることを目指して生きてきたような気がするけれども、その時が来たら、躊躇せずに上手に頼れるようになっておくのも大切なことではないかと、思ったことである。所詮、自己責任や自立をしたくてもできなくなる時期は誰にでも来るのだ。

X‘MASカードから

 僕は基本的に筆まめな方なのだろう、40年以上も昔になる留学先での知人とのX‘MASカードのやりとりが続いている。すでに亡くなった人もいて以前に比べると数は減っては来たが、それでも10通ばかりは暮れになると次々届く。

 

毎年、一番先の届くのがDimond先生の奥さんからのもので、大変読みづらい文字で書かれている。奥さんからは、10年ほど前にあった折にも今年は何編論文書いた?と聞かれたものである。この種の会話が決まり文句なのである(思わず、論文3編と分担で書いたのが3章かな、などと返事してしまうのである。こんなことを聞いてくれる人は他にはない)。

 

今年の彼女のカードには二人の娘の出版のことが書いてあった。ネットで検索してやってということである。彼女(80歳半ばのはず)は僕が向こうにいた時には弁護士であったが、1981年に先生が43歳の若さで、白血病により急死して以後、大学の法律の教員に転向して小学生の2人の娘を育てた苦労人である。後に学長にもなったので、聞き取りにくい早口の話し方と読みづらい文字を書くのが厄介ではあるが、基本的に優秀な人なのだ。

 

上の娘の大学進学のことや下の娘の病気のことなど色々と聞かされていた。上の子は勉強がよくできて、心理学を大学で学んでJonny Walker社に入社して安心!といっていたが、数年後にヨガの勉強をするといって退社しアメリカにいっていると心配していたものである。下の娘は健康が優れず、学業を続けるのが困難だとか、臓器移植をしたとか書いてきていた。それでも、boy friendができて嬉しいなどと知らせ来たこともあった。近年は子どものニュースは書かれてこなかったのに、今年は娘たちのことが書いてあったのである。

それではと名前でネット検索すると、下の娘Rebeccaは今年から父親が務めていたCardiff大学に専任講師の職を得ていることが判明した。著書も出しており、早速Amazonで最新刊「Legalizing mitochondrial donation: enacting ethical future in UK biomedical politics」を注文した。内容はよく分からないし7000円近くする本なのだが、迷わず発注した。幼い頃を知っている子が歌手デビューしたので、思わず何枚もCDを買うという行動と同じかもと思ったことである。

 

大学のHPに写真とメールアドレスが記載されていたので、早速メールを送った。「貴方には理解できないだろうけど、病気を克服して立派な本を書くようになったのを知って、嬉しくて涙を流してしまった」と伝えた。病弱でとても幸せな人生を送れていないのではないかと勝手に思い込んでいたので、何と表現してよいか分からないが、幸せな気分になり、「よかったなあ」の言葉がほとばりでたことである。「Dimondが生きていたら…」という思いに駆られたのはいうまでもない。

長女Clareは酒造会社を辞めた後、MBAを取り、ヨガ教師の資格も取り、自己啓発本を出している、かなりの著名人であることもネット情報から知った。Amazonで最新刊「Real: The inside-out guide to being yourself」を注文すると日本に輸入されているのだろう、2日後に届いた。裏表紙の写真は先生にそっくりである。まだ読了していないが、本には妹への献辞が記され「I love you with all my heart」とあった。勉強ができる姉と病虚弱児の妹の姉妹仲は難しいのではないかと家内と話していた時代もあったので、仲の良い姉妹でいてくれたことにも安堵した。このことはメールでも伝えた。

 

 40年余りの昔、5-6歳の頃に会っていた異国の叔父さんが懐かしんでくれていることなどは本人には理解できないことは判っているが、どう表現しても他人には分からないかもしれない気持ちになれたのである。

 

すぐに古いアルバムを探し、家族写真や彼女らの友たちと一緒の写真をpdfにして送った。父親や祖母の写真はとても素敵だし、友達にも転送すると返事をくれた。

 

来年は逢いに行かねば、そして彼女たちの父親のしてくれたことに僕がどれだけ感謝しているかを直接伝えねばなるまい、そのためには来年も元気で生きなければならないと、節制を誓う聖誕祭の前夜であります。

 

 斯く左様に、happyな気分で年末を迎えることができている幸運に感謝!(職員ならば、忠誠心を誇示すべく、学園モットーの「感恩」というべきかも)

福島はお勧めです

10月の終わりに、裏磐梯の温泉で長男の嫁の両親と13年ぶりに会うことができた。そろそろ逢っておかないと、互いの同定が怪しくなりはしないかという長男夫婦の提案に応じたのだ。ご両親は福島市に住んでおられるので事情に通じた裏磐梯の、紅葉が一番良さそうな時期を選んでということであった。電話で話す機会はあるが、お会いするのは結婚式でお目にかかったきりであった。その折は、よく知らない男に娘を遠くに持っていかれることへのわだかまりか、父親の機嫌の悪そうな表情のみを記憶しているが、その時とは別人のような機嫌の良さとお元気な様子で嬉しいことであった。長男らが仲良く生計を維持できていることで、ご両親も安堵されているということだろう。5年後にまたご一緒しましょうということになった。

この13年ぶりの再会の機に行ってみたいと予てから考えていた、日光と会津に立ち寄ることにした。日光へは東武鉄道が便利なのだが乗り換えの煩雑さを避けて新幹線で宇都宮まで行き、JR日光線を使うことにした。

最近は自分で詳細な旅程を作ることがなくなっているので、簡単に日光→会津→裏磐梯と書いているが、実は結構厄介であった。新幹線のスマートEXを使うと大阪―東京が1万円と格安なのを知って、トライした。普段ICOCAで決済しているクレジットカードはダメとされるので別なカードを使ってPCで入会し、チケットを予約購入した。これはJR東海でのことである。東京から宇都宮までのネット予約サービスはJR東日本の「えきねっと」での予約をせねばならない。この予約にはJR東海でのカードは不可で、別なカードが必要であった。少なくとも3種類のカードを持たなければJRのサービスは受けられないのだ。この種の予約サービスは直前の変更が可能というのがウリであるが、PCで予約アカウントを取ってしまったせいで、iPADからは操作できないことも後でわかった。僕の場合にはPCを使わないと予約変更できないわけで、スマートフォンに特化した予約サービスである。東京まで1万円のチケットは朝の7時までの新幹線にしか使えないので(早起きの年寄りなので良かったが)、大して便利ではないと言わざると得ない。

僕の場合には何とか予約できて割引もしてもらえたが、この種のサービスを利用できるのは限られていると、情報ディバイドを強く思い知らされたことである。1枚のカードで何とかならないのかと思うが、最近いただいた「Society 5.0:日経新聞出版」の本では、「サイバー空間とフィジカル空間の融合によるイノベーション」が謳われる超スマート社会へとある。個人の電子情報をビッグデータとして情報化社会から次の社会へということらしいが、自分の全ての電子購入履歴がどこかに記録されるのは敵わないので、1枚のカードにせよとは言わずにおくべきなのかも知れない。

 

時間の都合で華厳の滝、東照宮しか行けなかったが、予想に違わず立派な観光地で、JR日光線が外人で満員であった理由が了解できた。夜は鬼怒川温泉で長男らが予約してくれたホテルに泊まった。この温泉地は有名で一度来たいと思っていたが、行くところもなく(日光に行くのが定番)朝に散歩しただけで会津に向った(駅で蒸気機関車が動く特別な日時に遭遇したので動画を撮影でき、すぐに孫に送ってやると、2歳の誕生日が近い男の孫のポッポーと興奮する様子と、何の感興も示していない5歳の孫娘との対比が面白い動画が返送されてきた。おもちゃへの関心への性差は学習性のものではないという、性科学雑誌の記事を思い出したことである)。鬼怒川駅から会津までの会津鉄道沿線の紅葉は、里山に様々な色合いの木々の色づきがまあまあ綺麗であった。

 

会津では郊外の温泉に浸かり、鶴ヶ城と飯盛山を訪れた。「南、鶴ヶ城を望めば砲煙上がる…」の漢詩を思い出し、白虎隊が望んだ地点から城を探した。見つけることはできたがずいぶん小さく、少年たちは眼が良かったのだと、会津ファンには叱られそうなことを頭に浮かべていた。

JR会津駅前で長男夫婦と待ち合わせをした。駅前にはよく知られた会津藩校「日新館」の什(じゅう)の掟が記載された立て札がある。何番目かに「嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ」という掟が確認できた、日米のトップ連中が武士の心構えを持たないことは確かだよな、と独りごちたことである。しばらくして来た長男の車で酒蔵「宮泉」に行くことができた。数年前にどこかの雑誌が絶賛していたので探したが、この酒は鶴ヶ城の売店では見当たらず、諦めていたが望みは叶った。一人1本しか売らないということなので買い占めるわけには行かなかった。山形の酒のフルーティさとも違う味で、吟醸酒「宮泉」は、語彙が乏しいので表現できないが、今まで飲んだ日本酒の中で5本の指に入る。福島の酒はレベルが高く、今までトライしてこなかったことが悔やまれる。

 

五色沼などをドライブしたのち裏磐梯の温泉で福島の両親と合流したのである。翌朝は宿の推奨で猪苗代町の蚕養という地区の小さな滝を見に行った。天気が良かったこともあるが、今まで見た中で一番と言っても良い美しさで、赤、黄など様々な色の織りなす紅葉の木々を見ることができた(語彙が乏しいのがもどかしい)。最近になって有名になりかけているらしいが、まだ観光客は少なめで、車で旅行する場合には、少々面倒でも訪れても損はないと請け合いできる場所である。

 

福島駅まで送ってもらい新幹線で夕刻自宅に戻るという3泊4日の強行軍であったが、綺麗なものを見た、旨い酒に出会った旅であった。子どもも40歳を過ぎると嬉しい企画をしてくれるようになるものだが、招待してくれるという迄にはあと何年かかかるのだろう。

 

帰宅した2日後に人間ドックを受診した。一昨日届いた結果では、血糖値が高めになっていた。日本酒が増えている最近の飲酒傾向は、血糖値に作用するのだろうと思うが、「いつまでも飲めるわけではないよ」という囁きも聞こえるような気もして、悩ましいことである。

文化欄を読む

 朝日新聞の文化欄に「語る」という、著名人に過去を話させ、それを記事にまとめるという形式の欄がある。好きな記事の一つで読むのを習慣としている。日経新聞には「私の履歴書」があるが、これは登場した著名人が書いたようになっているのに対して、朝日の「語る」の記事は話をもとにした記者のものである。この前は「五木寛之」であった。昭和40年頃、学生時代に文壇(今では死語だけど)に彗星のように登場した人である。何冊かの本は読んだことがあるが、近年の仏教絡みの本は手にしていない。大陸からの引き揚げ者で、その途中での経験が、社会を斜めから見ているようなところや後年の仏教へ傾斜していくのが理解できた。

数日前からは「馬場あき子」に代わっている。馬場あき子は朝日歌壇の選者を長く勤める人である。たまにその欄も読むことがあるので、名前だけは古くから知っている。10月12日の「語る」欄の1937年戸塚尋常小学校に転校したことが述べられたなかに、「成績が相変わらず悪くて、父はすみません、すみませんと先生に謝っていたが、そのうち国語と歴史と行儀の成績が「優」になった」、というくだりがあった。子どもの学業成績が悪いと先生に申し訳ないと謝る関係は、今では子どもの成績が悪いのは先生のせいだ、親から謝れと言われていそうなので真逆ではないかと気になった。

 何時からこのような逆転が起きたのだろう。馬場さんの父親は学歴の高い、都会の出版社勤めであり、師範学校卒と小学校しか出ていない親との学歴コンプレックスで説明というわけにもいくまい。

 

自分の子どもも小学校では決して優秀というわけではなかったが、それは親である私が至らないので、申し訳ないという感情を持った記憶はないし、逆に、教師が悪いと考えたこともない。50-60年間での逆転現象ということなのだろう。

 

戦争前の時代では、親は家族を養うために働くのが精一杯で、子どもの学校生活にほとんどかまけることができなかったことが一因ではないかと考えたりする。こんな時代の小学校の教員は良い仕事であったことだろう。師範学校は学費がいらず、豊かでない家庭からも優秀な若者が高等教育を受けるキャリアパスであったはずで、優れた人材が小学校の教員になったことを意味している

(もっとも、学費は不要でも労働力を削がれるのが困る家庭の方が多かったという)。

 今では一番出来の良い子どもが小学校の教員を目指すというわけでもない(個人的には初等教育担当者には皆が羨む程度の賃金と余裕を与えるのが良いと思う)。親も子どもに時間を配分することは昔に比べれば大幅に増えたと思われるが、子育ては親より学校の責任という考え方への移行はどう説明するのが良いのだろう(誰か教えてください)。

 

 数日前の文化欄には「置き勉」が特集されていた。勉強道具を学校において帰ることを「置き勉」というらしい。最近の小学生は通学時の荷物が過大になり、10Kgも珍しくないということで、子どもの生育に影響があると、「置き勉」を認める方針を文科省が打ち出したことに関わる記事であった。

目に止まったのは、「置き勉」での物品紛失の責任は教員というのは負担で…という箇所である。小学校の教員はそんなことにまで気を使い、保護者との板挟みを考えねばならないのかと思う。我が子の学業が優れないのを親の落ち度と考えていた時代との乖離の大きさに戸惑ってしまう。

自宅で使わない道具・本や資料であるかを自分で判断させ、学校に置いていくか持って帰るかを子どもに責任を持って決めさせることですむ話ではないかと思うのだが(文科省が近年やかましくおしつけてくる「問題解決能力」、「自分で考える力」、「生き抜く力」)を育てる絶好の機会ではないのかしら)、文科省からの通達でしか動かない(動けない)教員は気の毒でしかない。同情はするけど、それを改善するのは教員の仕事であろう。

 

馬場あき子の履歴書を読み始めて、昭和55年刊の講談社「昭和万葉集20巻」が手づかずで、書棚を占拠している事が気になり始めた。今になれば、どうしてこんなものを購入したのだろうと訝しがるしかないが、亡くなって久しい父が短歌を教えていた頃なので、対抗心かあるいは習うのは嫌だが何れの日にかやりたいと思って、購入したのだろう。先日、旧友と酒を酌み交わしていた時の話題に、仕事を辞めたら何をするかが話題になった。その時は、小筆を習いたい、古文書を読めるようになりたい、叔父がやっていたように漢詩を作れるようになりたい、と思いつく項目を列挙したが、その時には短歌のことは思い浮かばなかった。年が明ければ平成は終わるということなので、そのうち昭和の時代の万葉集も読まねばなるまい。

 もっとも、幾つものやりたいことも、目が悪くなる、根気が続かなくなる、習いに出かける手段を失う、などの可能性は少なくない。やりたいことが可能になった頃には、始められる身体的要件を失うというマーフィーの法則も念頭に置いておかねばなるまい。

腹立たしいこと

 いい年をして腹を立てることなどよさねばならないことは分かっているが、論語にあるように「40にして惑わず、70にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」とは行かない。先日は発達障害傾向の強い医師とやり合って、血圧が180-108 pls101まで上がる始末であった。詳しい内容は書けない(のでストレスは発散できないままである)。

 日常生活のこのような瑣末な腹立たしい出来事以上に腹立たしいことがあるので、記録に留めておきたい。

 

 文科省の事業で、私立大学向けの改革総合支援というものが5年目を迎えている。申請の締め切りは今月末のはずである。文科省の目指す方向へ高等教育機関を仕向ける、ニンジンをぶら下げてという企画である。1年だけというはずであったのが、効果的と判断されたのか4年間続いている。これまでは、なんとか工夫して4年間採択してもらい1500万/年ばかり補助金をもらい、事務作業補助などに配分できた。わずかの金でも学納金以外の資金は欲しいのです。

この種の企画は文科省が専門家のアドバイスに基づいて行うものである。10年ほど前から日本の高等教育は欧米に劣ると決めつけ、世界レベルの大学にせねばならない。それが社会の要請であるということになっている。

「本当に日本の高等教育が欧米の大学に比べて劣ると言うのなら、戦後、国際社会で5本の指に入るほど高度に経済発展を成し遂げられた理由はどこになるのだろう。中等教育・高等教育がそれなりに機能したためなのではないかと思っているのだが、違うのだろうか」

 

日本の高等教育はダメなので、「グローバル化」、「自らが学ぶ力」、「複雑化する社会で生き抜ける問題解決力」「単位取得の厳格化」、「学習時間増」、など雑多の内容の改善が矢継ぎばやに求められている。それらを補助金というニンジンをぶら下げて、変えさせようというもので、この変化を改善と読んでいるのだ。これらを700ほどなるまで私立大学を認可しておいて、全ての大学(学生数5万から500人規模)に求めるのだから、内容は多岐にわたり雑多で、当事者は大変である(従って、半数ほどの大学しか応募しない)。

 

教育学者ではなく、文科省のお気に入りの専門家でないメンバーで構成した会議で、次々と改善策と称する施策の実現を求めてくるのである。アドミッションポリシー、カリキュラムポリシー、ディプロマポリシー、IR:インスチチューショナルリサーチ、ルーブリック、アクティブラーニング、アドミッションオフィサーなどと一般人には意味不明の語が満載されている。カタカナ語が満載されている。日本語に直すことができないようなレベルの連中が関わっている証拠である。明治の初期に初めて目にするphilosophyに哲学、psychologyに心理学、knowledgeに知識の語を充てた西周(にし・あまね)のようなレベルの人はいないのは明らかである。

 腹立たしいことを考え出すときりがないので、思いつく腹立たしい点を一つ二つあげる。

1)高等教育の質向上の具体的内容は「社会の要請」に答えるためという。「社会」とは具体的に誰を指すのか?一部経済界のことに過ぎないのではないのか。かつては自前で教育機関を作り、即戦力となるべく教育投資をしてきたのを、経済効率という視点からヤメにして、大学などに丸投げしてきているに過ぎないのではないのか。忙しくて自分で面倒見られないので、手伝いをお願いしますという場合には、何がしかの手当を考えるのが市井の人間の行動様式だと思うのだが。丸投げに見合う経費を文科省予算として寄付・手渡すことがあっても良いのではないのか、と思ってしまう。

2)今年度の改革支援総合事業の項目(誘導させるための方向性を顕在化してある)に学長裁量経費が500万円だと何点、1000円以上だと何点、などがある。入試に職員で専門的な仕事をする人(アドミッションオフィサー)を配置しているかなどがある。IRなどにも専門教職員を配置すると点数が上がるので、経済的に弱い大学は対応できない。特色のある私立大学を作るようにという初期のお題目とどう対応するのか、分からなくなってしまう。

3)文科省の専門家会議に出ている連中は、アメリカ風の大学(それもトップクラスの)を想定して様々な改善点を打ち出しているようだが、文科行政に都合の良いことしか言いださない。研究を盛んにさせるために欧米の大学にあるサバティカル制度(7年ほど勤めたら、1年休んで研究に没頭せよ、あるいは休め、という制度)を大学には必置にさせる。学生に勉強時間を保障するために24時間利用可能な図書館を必置させる、通学に時間を使う必要がないように、キャンパスには寮を必置するなどは言い出すべきではないのか。本学の学生は近所に下宿している場合は土日も学内でよく勉強しているが、通学時間1-2時間でアルバイトがある学生に長時間の自宅勉強をせよというのはいかがなものだろうと、学生には指導しているものの、企業人になる前に学生が過労死しかねないと心配である。

などなど、書き出すと血圧にも差し障りが出そうなので、この辺りで中断することにしたい。

 

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 久しぶりに旧友に会うのが本当の目的で東北大学での心理学会に出席した。杯を重ねつつ、お互い体力もなくなってきたねと相哀れむことであった。会場では、定年後も同じテーマで発表している先生(今どき古い話だけど、続けることが大切と教えられてきたのだろう)、73歳のはずだが今年学位を取れるという嬉しそうな先生、会話をしたけれど結局何を言っているのか了解不可であった人、86歳でかくしゃくとして知り合いが顔を見せなくなったとつぶやく先生など、様々な生き様を見ることができた。学会はhallow meetingでいいのだよと40年ぐらい前に聞かされたことがあったことを思い出し、そうかも知れないと思ったことである。

 

来年も出ようかという気持ちは生じてはきたが、先のことは分からない年齢であることも自覚せねばならない。