孫の誕生日に仙台に出かけた
昨年は秋には、学生時代の友人と和歌山に魚を食べに出かけたが、僕の病気で夏以降どこにも行けなかったので、8歳になる孫のお祝いにと、神戸空港から仙台に出かけた。旅は順調とはいかず、Dimond 先生が実験準備にてこずっている僕に言ってくれていた、40年以上前の「Troubles make your life memorable」の言葉がpop upしたことである。
飛行機は8時20分発なので、始発のバスでは間に合いそうにないため、最近ナビを入れて、タクシーを予約できると家内に自慢していた。しかし、前日スマホ入力すると、運転手の人数分は埋まっており、不可と表示された。電話で予約せんとしたが、運転手確保が無理と断られてしまった。
急遽、京都から長男を呼び、前泊してもらい駅まで車で送ってもらって6時23分の快速で空港着、無事飛行機に乗れた。仙台には10時前に到着できた。夏に使った折に神戸空港は駅からチュックインまで直ぐだったので、歩くのが遅い家内には伊丹空港より楽だろうと気を使ったのが裏目に出た。
2ヶ月前、飛行機の切符をネット予約した時、10時20分発とあったので、これは都合が良いと思ったのだ。虫が騒いだのか、2週間ほど前にチケットを確認した(こういうことは大事!)チケットは仙台→神戸であることが判明。文字が小さくて誤読していたのだ。変更でことなきを得たが、変更便は早朝になってしまったのだ。確認しなければ大変なことになっていたはずで、ラッキーであった(?)。早朝の飛行機は家内には不評で、今後神戸発は不採用となろう。帰りは神戸では遅くなるので当初の予約通り伊丹着で帰阪した。
孫たちに逢うのは夏以来で、背丈も伸び、順調に育っている様子が確認できて嬉しいことであった。6年生の長女は大人びてきて、自分の部屋でいる時間が増えた。2年の男の子は1歳8ヶ月の妹とママを取り合う気配が残っていたり、宿題がなかなか手につかなかったりで、俯瞰して見ていると、親ではないので、微笑ましいと感じたことである。1歳8ヶ月の妹は、発語数はまだ少ないが、兄とは違って何でもよく食べる。元気で、気は強く、「ダメー」と、ちょっかいを出す兄と競いあうのだ。
到着した金曜日の夜はパパが当直ということで彼のベッドで寝ることになった。アルコールが入っていて、一眠りした頃に「一緒に寝る」と男の子が布団に入ってきた。すると(しばらくしてストンと寝てしまったけれど)「ダメー」と僕と兄の間に割り込もうとするので一騒ぎがあった。自分の息子と同衾した記憶はあまりないのに、翌日もゲストルームのシングルベッドに男の子はやってきて一緒に寝る羽目になった。動くし、暑いしで、ほぼ寝られなかったが、その間、「翌朝、寝られなかったというと、この子が傷つくから気をつけねば」とばかり考えていた。こんな思いやりの気持ちを持つようになったことに、自分自身が一番驚いたことである。
都合5泊したが、PCは持参せず、学校から帰ってきた孫たちが宿題をするのを待って、姉と弟が通い始めたテニス・スクールへの往復徒歩20分ほどの送迎(+1時間寒い中を待機)だけが仕事であった。昔なら、こんな時間の過ごし方は考えられず、孫の魔力なのか、歳をとると変われるものである。
孫が学校に行っている日は8年ぶりに元同僚のO先生と会い、仙台駅前で昼飯を食べた。お互い、「退職後の生活スタイルにも慣れたね」と言い合った。彼も色艶は以前には考えられなかったほど良くなっていたので、お互い務めはストレスだったのだ。別の日には、盛岡に鷲の尾酒造(八幡平)の酒を買いに出かけた。この会社の(かなり高価な)吟醸酒は絶品である。(発売量が少なく、なくなると困るから)銘柄は教えないことにする。旅行中の6日間は天気良くて、気分転換になった。
翌朝、溜まっていた郵便物に人間ドックの検査結果が届いていた。検査結果は、大抵は基準値スレスレなのだが、内科、眼科、耳鼻科、泌尿器科への紹介状が4通入っていて精密検査の推奨であった。予想はしていたが、憂鬱ではある。丁度、薬をもらいに行かねばならずかかりつけ医に相談し、一箇所だけ、精密検査に行くことにした。
楽しいことの後には、そうでないことが待ち構えているものである。禍福は糾える縄の如しとは真理だと思うことしきり。もっとも、今まで幸せな日が多かったので、これから少々辛いことが起きても甘受せねばなるまいとは、今は考えている(知らんけど)。ちなみに、帯状疱疹の後遺症の痛みはわずかになってはいるが、残存。寒くなり、カイロと腹巻きが欠かせませぬ。
病状その後
前回、入院騒ぎのことを書いたので、その後どうか知らんと思ってくれる人もあるかもと思い、報告いたします。
帯状疱疹の方は、もう5週間以上経つのに、まだ完治はしない。昨日は診察に行ったが、もうしばらく痛み止めと神経損傷対応の薬をもらうことになった。瘡蓋は全てなくなったのだが、超低音が響くような感覚や時折ピリッと鋭角的な痛みが左腰に走る。これでも、5日前くらいからはその程度は目に見えて(この表現は正しいのかしら)良くなっている。来月の終わりには孫の誕生祝いに行くことになっているので、それまでには完治させねばならないと考えている。
ある研究財団から講演の声がかかった。12月に入ってのことでまだ時間はたっぷりある。9月に学会発表し損ねたネタがあるので(もう人前に出るのは避けたほうが賢明かもしれないが)、思わず承諾してしまった。コロナ感染の疑いのために、発表を準備にしていたのに突然キャンセルした経過があってのZeigarnik effectということなのだろう。
9月の学会では、80歳以上で5-60歳レベルのエピソード記憶を持つスーパー・エイジャーの話題を話す予定だった。学会発表は7分なので、内容を10倍ほどに膨らませねばならない。その作業を、2週間ほど前から時々来る痛みを宥めながらやっている。
スーパー・エイジャー研究が急に増えた印象があるので、その経緯がふと気になり出し、スライド作成作業を中断して調べてみた。いくつか論文を当たっていると、どうやらハーバード大学の神経学の教授だったMeslamが1998年に書いた大部の展望論文(40ページ300引用文献)で提唱した、感覚が認知に至る経路の神経ネットワークモデルの確証データを彼の研究チームが探しているというのが背景らしい(勝手な思い込みかも)。
Meslam教授は1980年代に活躍した失語症研究で著名であり、日本の神経心理学会の発表で何度も名前を耳にした人である。50歳前にシカゴの新設医大に移ったらしく、そこで2010年代から脳画像を使ってスーパー・エイジャー研究を進めているらしい。
当節は本当に便利で、Meslamの名前でネット検索すると、アメリカ神経学会が発行しているオーラル・ヒストリーのPDF版が見つかり、読んでみた。詳細は紹介できないが(よくわからない略語や人名が多い)、1945年生まれでイスタンブール生まれと答えている(どこかで1946年生まれという記事を見た記憶があるが、本人の談なので、こちらが正しいはず)。英、仏、アルメニア、ギリシャ、スペインなどいくつもの言語ができ(これはイスタンブールが国際都市でそこに生きる人は大概そうかもしれないので、驚くことではないかのもしれないが)、アメリカの大学はM I T、コロンビア、イェールの4大学全てに合格し、一番古いのでハーバード大学にしたという。とびきり頭の良い人は世の中にいるものである。
僕と生まれ年が同じということと、1972年に初めて論文を書いたというくらいが共通点だが、読み進めていくと、この辺りから共通点は無くなっていく。30代半ばで2万ドルを3年間という奨学金を得たと話している。インターネットでは、昔の金額から現在の金額を出すアプリが無料で提供されている(確か大手の金融機関から)ので、調べてみると現在の20万2千ドルという額だ。今の日本に当てはめると、3年で1億ほどのお金を、まだ海のものとも山のものともわからない若者に出したのだ。こういう仕組みが当時からアメリカにはあったのである。それで、アシスタントを雇って研究を進めたと話している。
比べるのもおこがましいが、翻って自分が45歳の時に初めてもらった科研費は、パソコン1台を買ってなくなる額であったなあ、被験者集めも実験装置作りも、実験もなんでも自分でやらないとデータは得られなかったなあと、ボー然と、呆れながら回顧するしかない。30歳代に大金を投資してくれたらなどと大それたことを言うつもりは毛頭ない(その後、ずいぶん長い間研究費を頂いたので有難たかったと感謝だけであります)。
トルコから来て10年ほどのMeslamは、何かお金を産むことにつながるとは思えない基礎研究をしていた若手研究者に、その出自に関係なく、法外な(リターンを期待しない)投資をする文化が、アメリカにはあるという事である。どっちが良いとは一概には言えないが、日本は全体として底を押し上げるというベクトルで大学での研究・教育があり、アメリカではてっぺんの研究者をもっと引き上げると思想なのだろう。日本も最近アメリカ風な取り組みをし始めたが、規模が違うし、どうなることやら。出る釘は打つ風潮が依然としてあると思うので、すごく優秀だと思う若者は日本から外に行く方が良いのかもしれない(失敗しても知らんけど)。
彼は沢山の研究者を育てましたねという司会の発言に、「自分は、教育はしてない、スタッフが偉いだけ」と言っていたし、「研究費に困ったことはない」と言う。研究費集めに苦労することなく研究アイデアだけを生むのが仕事だったようで、羨ましいことである。
ふと、研究財団での講演時にこの話題に触れ、財団からは大金を若者に注ぎ込んで欲しいと頼んでみようかな、と思ったことである。
病状の経過報告が横道にそれ過ぎたようです。まだ腰に違和感を感じつつも記述ができるようにはなっています。ご心配くださった方には報告申し上げます。
入院生活
8月末に八雲研究のため北海道に出かけて、結果的には問題なく266名の資料収集ができた。結果的にと勿体ぶるのは、台風10号のために飛行機が飛ぶのかどうかでヤキモキ、そして、この台風は速度が極端に遅かったり動かなかったりで、帰路の飛行機が飛ぶのか毎朝flight予想を見つつの、全員がヤキモキしての作業であったためだ。9月1日に予定通り飛行機は飛び、出張は終わったのです。
ここで「めでたし」とはいかなかった。出張疲れのせいか胃腸の具合が悪く、膨満感、オナラが出ない状態があり(9月にはひどい下痢を3日ほどするのが夏の終わりの恒例)、絶食を3食してやっと回復したと思っていた矢先、9月13日の夕方から左腰部に湿疹のようなものができた。触るとざらざらしているが痛くも痒くもない。なんだろうと思いつつも放置していた。
9月15日は老人の日ということで孫らとFace Timeをした。その際に次男に腰部を見せると「帯状疱疹だろうから、皮膚科へ」ということであった。この頃はまだ、腰を触るとざらざらで、面積が広がっている感じだけであったが、その晩から痛みが出てきた。眠れないほどの痛みと、違和感が出てきた。あいにく連休で、苦悶しつつ17日火曜日に病院に行った。「帯状疱疹です。ひどいですね。即入院です」ということになった。
僕の知識では、帯状疱疹は「発疹が出て、それが痛くてたまらない」だったので帯状疱疹を疑わなかった。痛みの出方は人それぞれであることを理解した(当たり前のことだけど)。
入院初日から3日ほどは左腰部から下腹部まで、まさに帯状(10cm大)に紅斑が広がり、痛み止めはあまり効かず(4−5時間しか)、よく眠れない状態であった。この頃の痛さはちょっと文学的な表現(?)で言えば、「海水浴から帰って風呂に入った時、日焼け止めを塗り忘れた部分のヒリヒリ痛」で、これが続くのであった。そのあとは、ピリピリ感の方へ痛さは移行した。
帯状疱疹は標準治療が決まっていて、3日目からだいぶマシになった。毎食後痛み止めを3錠服用、寝る前に別な痛み止めを1錠、そして、抗ウイルス薬を8時間おきに7日投与した。下腹部に紅斑、水泡があるので、ベッドに座るわけにもいかず。また、点滴中(2時間)は腕を動かすと落下速度が変わるということで、仰向けにずーと寝ているのであった。
8日目の24日に退院できた。まだ1週間ほどは痛み止めを服用せねばならないが、痛くて働きをやめていた頭脳の方は回復している(ので、これを書いている)。
現在は、少しまだ水泡が残っているので、軟膏を塗る+鎮痛剤を飲むが、しばらく続く。治療法が確立しているので、心配はしていない。疲れで免疫が弱っている状態だったのでしょう。その疲れに耐えられなくなっているのは、加齢による体力低下であることは間違いない。
今回の入院で学んだこと。①痛くても、何も考えられなくても、時間は過ぎてゆくということ。②病気の初期症状は個人差が大きいので、固定観念で対応すべきでないこと。帯状疱疹をやったという看護師の話では、痛みでなくモゾモゾ感がしたという。自己受容感覚には個人差があるし、表現は多様だということ。③ WiFiが繋がる時代となり、T Vを見ずに過ごす時代になり、Lineで連絡を取り合い、U―T U B Eで暇な時間を紛らわせることが可能になったこと。④T Vで宣伝している帯状疱疹のワクチンは5万円だそうだが、感染してみると安いので、勧めます(打っておけばと思っても後の祭りであります)。⑤入院した病院は食事もよく、ビジネスホテルで3食付きと思えば思えないこともないほど、意外と快適であった。病院は全て同じではないだろうが、入院=暗い、陰湿なということはなかった。最近の医療制度も改善してきたのかな(知らんけど)。⑥2週間もアルコールなしでも生きていけることがわかった(アル中ではないのだ)。などなどであります。じっくり休むと色々学びもあると言うことであります。
と言うことで、年齢の割に自分は元気であると言う自己認識は当てにならないのは真理でありまする。
8月、酷暑の夏
今年の8月はともかく酷暑であった。地球の温暖化の影響ということだが身体に危険なレベルの暑さであった。最高気温が35-38度でクーラーをつけっぱなしである。まるで東南アジアの国の夏だ(2-3回しか経験してないけど)。
昨夏は酷暑の中をU S Jと白浜ベンチャーワールドとに孫らと一緒に行き、体調をおかしくしたので、今年は涼しいところで1週間を過ごすことになった。次男は仕事が多忙ということで同行せず、3人の孫の相手を任されることになった。宿舎から遊園地、釣り堀、牧場などに毎日車で送迎したが、気温は28度未満であったので昨年に比べればずいぶん楽ではあった。しかし、体力は6年生の孫娘に負けていることに気付かされた。彼女は1.5歳の孫娘を軽々と抱いて平気で歩いていたが、当方に時々押し付けられた時は何とか凌いだが、夕刻、腰に湿布を数枚貼らねばならなかったからである。2年生の男の孫は、トランプ、将棋、UNO、フリスビーと次々遊び道具を出すが、1回やるともう気が済むようであった。花火もやった。おそらく来る前に色々考えていたに違いない。準備したことを全てやろうとしていた。一緒に風呂に入るのを決めていたようで、ビールを飲みたいので、一人でシャワーを済ましたら不満で、悪いことをしたと思い、翌日からは一緒に入ることになった。こういう彼の行動を、可愛いと思えてしまうのである。
何でもできる姉は宿題をさっさとやるが、男の子は、ママに色々言われてもなかなかやらない(パパがいるとそうでないらしいが)。その様子を典型的な兄妹の夏休み風景と面白がっていた。
男の子の希望で岩魚釣りができる釣り堀に行った。姉の方が2匹釣れた時にやっと彼の竿にも魚が掛かったのだが、ブドウ虫の餌のついた姉の竿が彼に引っ掛かり、虫の嫌いな彼はパニックになり引き上げることになった。岩魚はその場で僕が下処理をして持ち帰り、昼ごはんに焼いて食べていた。後年振り返ってくれるかは不明だが、遊んでくれる祖父母が生きている(僕のこと)孫たちは幸せである。
振り返れば、僕は祖父母と同居で、母方の親はすでに亡くなっていたので、休みに祖父母のもとに遊びに帰るという類の経験はない。お盆と正月はいつも他所の子達が羨ましかったことを覚えている。
自分の子どもには祖父母がいたので、里帰り経験をしている。しかし、遊園地にも連れて行った記憶もないし、釣りに連れて行ったこともない。子どもと遊ばねばならない時代ではなかったのだ。自分は子どもに気を遣って遊びを相手することはほとんどして来なかったのに、孫には祖父の役割を演じていた7日間であった。「こういうのが年寄りの幸福」なのだ、「自分は幸せな高齢者なのだ」と言い聞かせつつの日々でありました。
今年はパリで7/26-8/11までオリンピックがあった。日本選手はたくさんの金メダルを獲得したということだが、関心がないままに終わった。昔は、オリンピックは「平和の祭典」と喧伝していたが、ウクライナ戦争やガザでの戦争も中断できないような無力なものになってしまった。商業主義が露出し、オリンピックにありがたみが無くなってしまったためかも知れない。新しい、それも成績の基準がよくわからない種目がたくさん増えていたことも、興味関心を抱けなかった理由かも知れない。これは、新規なことに好奇心を持つエネルギーが枯渇してきている証拠なのだろう。孫娘に筋力の衰えを自覚させられ、オリンピックで好奇心の減衰を自覚した8月ということになる。朝の散歩、水泳、論文執筆にもがいている日常生活は続けられてはいるが、確実に老化は進行しているのだと思いつつ振り返る、8月の終わりであります。
閑話休題
8/24:昼ごはん後のうたた寝から目覚めると、付けっぱなしのTVではドジャーズ対レイズの9回の場面を放送していた。解説者が、0アウトの場面で、「2アウト満塁になれば大谷に打順が回るけど」と話していると、不思議なことにその通りになり、2アウト満塁で大谷の打順となった。すでにこの試合で大谷は盗塁40を達成しておりここで本塁打を打つと40-40の大記録という話であった。なんと、彼は1球目をサヨナラ満塁本塁打にした。凄いとしか言いようが無い。おそらく今後語り継がれる場面を丁度の時間帯に目覚めLive放送で見たことになる。この自分のツキも凄い(?)。
記憶―高齢者の脳特性?
2週続けて古い友人らとの食事会があり、記憶の不思議さを経験したので、記録しておこうと思う。
一つ目は、先輩から直接聞いた話。この先輩を囲んでの飲み会は、先輩の教え子から半年程間を置いて連絡が届く。先回はご本人の入院騒ぎで延期となったが、その時の事情は次のようなことである。体調が悪いので、飲み会への参加が不可という連絡をしようとしたら、携帯電話の使い方がわからないのに気づいた(これは手続き記憶の障害で行為障害と見做せる)。自分の記憶に何か欠損があるような気がしたし、今も何か記憶が欠落している気がすると言う。屋敷内の別棟にいる娘に幹事役に連絡してもらうことで、僕のところにも幹事役からメールが届いた(この時、携帯電話のブロック解除番号が分からず、苦労したということ。僕は翌日家内に番号を教えたことである)。
この記憶の怪しさは、足首が浮腫んでいたので利尿剤を大量に使ったことが原因と、弟さんの病院に入院して診断・治療されたようで、その後は特に問題がないようである(だから今回の食事会が再会できたのだが)。
このエピソードから、記憶障害は梗塞や血管破裂で脳組織が失われるのが原因とテキストに書いてきたが、血液中の成分(例えばカリウム)の適正濃度が損なわれると同じように記憶障害が起きるのを知ったことになる(利尿剤を大量摂取させて記憶を失わせる犯罪小説は可能かも知れないと妄想したが、未着手)。加えて、記憶を構成する要素として、エピソード記憶、展望記憶、手続き記憶などの要素を想定するのが現在の記憶研究であるが、最も加齢に対して頑健とされる手続き記憶がダメなのに、一番脆弱とされる予定の記憶(展望記憶)が残っていたのも驚きである(集まって、飲みたい欲求の反映でしょう)。
今回の記憶障害状況で、飲み会の予定を忘れなかった先輩のエピソードからは、「記憶を構成する諸要素を統制する中央実行系みたいなもの」の存在がありうるなあ、と考えたことであります。
二つ目の記憶の不思議さは、人物の長期記憶検索についてである。叙勲の副産物で高校時代の友人から連絡があり、長浜で食事をした。高卒以来(60年)一度もあっていないM君と、年賀状のやり取りはあるが、30年前の同窓会で会ったきりのSさん、17年前に名古屋で会ったNさん3名がメンバーで、死ぬ前にもう一度会っておきたいということになり、指定された電車に乗って出かけた。
記憶による人物同定は、最後に会った時からの時間の関数で困難度が違うのかに関心があったが、この仮説は成立せず、見てもわからないのではないかという疑いは無用であった。M君もどこかに昔の面影があり、判別は簡単で自分でも驚いた。
寿司屋で大量の料理を食べ(長浜は安い!)、恩師や同級生の誰それが亡くなったというたくさんの情報を交換した。高校の同級生の半数近くが鬼籍に入ったが、驚くことではない。
食事の後、6-7年前から描き出した水彩画を見てほしいということで、美術部のメンバーであったM君の自宅を訪問した。かなりな腕前のように思えた。その際、6年目に開催されたという中学の同窓会(僕は参加していない)の記念写真を見ることになった。
僕は誰一人、同定できる人はいなかった。70歳過ぎの高齢者の集合写真から中学生の頃の人物の判別は全くできなかった。次いで、Sさんが携帯電話を取り出し、4月に大阪の美術館に行ったときの写真を見せてくれたが、その写真と目の前にいる本人が全く同定できないのだ。写真から人物同定ができないのは僕の記憶力の問題ではなく、皇居内での集合写真を見た3人は15人程の(服装は類似してはいるが)老人群から僕を探し出すことはできなかった。
迎えに来てくれた駅で会った時に、いとも簡単に人物が同定できたのは2次元静止状態の顔と、生きている顔がもたらす情報量の違いで、顔という材料の記憶は特別!ということである。それぞれが持つその人のイメージを大事にしようと言うことで、記念の写真は撮らないことにした。80歳近い我々の写真で老いを確認するよりも、古い記憶の中にイメージを抱いていることが楽しいのではと言うことである。「またね!」と言い合って別れたものの、再会はあるのか分からないのであります。
斯く左様に、人の記憶というものを生み出す脳の働きの不思議さを味わう2つの食事会でありました。
新着の米国の学術誌に、アルツハイマーになった神経学者のインタビューが掲載されていた。徐々に進行する認知症の症状の中で、ブログを書くのが早めにダメになるということが記されていた。まだ、自分は2,000字ほどの文章がまだ書ける(そのつもり)のを、ありがたいと思った次第。インタビューの最後にI’m just taking it a day at a time, and still enjoying life.(私は一日一日を大切にしながら、人生を楽しんでいる)とありました。そんな風にありたいと思うこと、しきりであります。
叙勲騒動記-2
この度の叙勲を喜んでくれたのは郷里の兄夫婦や親戚一同で、早速お祝い会を計画すると言ってきた。勲章を持ち帰り、仏壇に報告して親戚一同に披露するという一連のプロセスをするのが、郷里を離れて暮らす人間にも、自明のように科される古い土地柄なので、その圧力には従うことにした。
昨年も退職祝いをしてもらっており、すでにイトコが祝賀会を長浜市にあるホテルで準備中だったが、今回は僕が親戚一同を招待し、日頃の無沙汰を謝す感謝の会にしたいということで了解してもらい、父親の兄姉の子孫(イトコ)と甥姪を含めた14人を会食に招いた。
招待状には1964年(昭和39年)に大学に進学してから丁度60年の区切りであること、皆さんのご支援の賜物であること、大学合格祝いの会に受け取った母親からの「祝吟」に、「皆のご恩に報いよ」というようなことがあることを理由とした感謝の会である旨を書いておいた。
当時の田舎では大学進学は珍しかったので、両親らが興奮したのか、健康診断のために大阪に出かけた本人欠席でのお祝い会があったのだ。その折の参加者からの「祝吟」の短冊は郷里を出る時に持たされた(この何とも雅な風習は今ではないが、以前にこのコラムに詳細を書いた記憶がある)。叔父が全員の歌や漢詩を短冊に書いた。達筆のせいで全部が読めないが今でも手元にある。昨今の大学生には、「親がうるさいので、大学に入ってやった」などというも者もいるが、今からは想像し難い状況が60年前にはあったのだ。
僕の父親は6人兄姉の末っ子で「八田家」に養子に入った人で、高等教育を受けたかったのだろうが叶わず、次男である僕の進学には寛容であった(大学院に進むことにも何も言わなかった)。義理の父親(祖父)は「八田家」の長男ながら、家督を継がず、遊び人風に生きた人である。特に意図したわけではないのだが、真面目に勉強したこともあり、大学院に入り、幸運にも心理学研究を続け、教職に50年も携わったので、両親には合わせる顔が「ない」と言うことでもない生き方をしてきたと思うが、直接伝えることは叶わない。
東京行きの疲れと昔のバイト先の先輩らのお祝い会などに出かけ、過労気味だったのだろう、この感謝の会の2日ほど前から、風邪の症状が出て、喉の痛みと咳がでていた。微熱はあったが、日程変更も難しいので会は強行した。僕の風邪症状は3日ほどで良くなったが、その後家内に同じような症状が出た。家内は薬が乏しくなったと、かかりつけ医に行って検査をした。コロナ陽性であった。僕もコロナであったのだろう。感謝の会から2週間が経過し、実家に電話すると義姉はひどい咳声で、4人がコロナ感染であったということであった。
感謝の会で食事を提供し、コロナウイルスも提供したことになる。申し訳ないが、どうしようもない。幸い全員入院には至らず快方に向かっているらしい。いつもしてもらうばかりで恐縮し、今回は僕がというような慣れないことをしたためかもしれないが、この一連の騒動は、後年も語り継がれることであろう(まさに、Troubles make my life memorableである)。
昨夜、大学時代のクラブの先輩が電話をくれた。新聞発表時に叙勲を知ったが、すぐの電話では大変だろうと、一段落した頃と考えてということであった。「水嶋君が生きていたら良かったのになあ」と思いを共有した。舞鶴在住の先輩は、神戸であったOBの演奏会に出たということで、誰それは椅子に座って歌っていたとか、誰それが亡くなったという情報も知らせてくれた。同年代のクラブのメンバーも櫛の刃が抜けるように欠けてゆく。改めて、元気な時期に叙勲されたことの幸運を思い知ることである。併せて、「散る桜、残る桜も散る桜」という一節も想起されるのである。
孫の夏休み計画は、昨年は猛暑下灼熱のU S J行きで大変であったが、今夏は涼しいところにということで、予定が決まった。1週間一緒に過ごす計画は、ゲシュタルト心理学でいう「図」に浮かび上がりそうな「散る桜」の一節を「地」に追いやる効果がある。自分でも不思議ではある。楽しみな予定は生きるエネルギーなのだ。
叙勲騒動記-1
春の叙勲で瑞宝中綬章をいただいた。教育に功労があったということである。慌しかった1ヶ月ほどが経過したので、その間のファクトをメモしておこう。
昨年9月に名大から申請してくれていたが、教育関連分野では80歳以上にならないと順番は来ないと聞いていたので、2-3年後だろうと考えていた。昨年夏に結構面倒な申請資料の整理の一部を自分でした。昔の講座制の大学では(大抵は弟子筋の)助手の仕事であったようだが、昨今の大学ではあり得ないことで、担当の職員は恐縮してくれた。その人には面倒な余計な仕事を増やして、申し訳ないことであった。
3月14日にその職員から電話で内示の連絡が来た時には、予期していなかったので何?という感じであった。予想よりも早く頂けたのは、担当職員の申請書の書き方が上手だったのだろう。内示の連絡を受けてもあまり興奮するような感覚は生じなかった。受賞を待たずに鬼籍に入る先輩をここ数年は多数見てきたし、期待している人で残念がった人も少なくないだろうという思いの方が強かった。
内示があっても最終的に閣議決定される4月16日までは口外禁止で、その間に複数回、申請後元気でいるか?犯罪に関わっていないか?の確認があった。求められる度に、生存や出席可能性が怪しくなる年齢であることを思い知り、元気なうちにいただけた幸運を噛み締めたことである。
新聞に名簿が掲載された4月29日に、朝一番に先輩からお祝いの電話があった(耳が遠くなっておられるので詳細なやりとりは出来ず)。教え子たちからはLineでお祝いが届いた。そして祝電が届き始めた(配達員が玄関のポストでO Kかと確認するほど何度も配達された)。知らない国会議員からも結構届いた。豪華な色紙がついており、こんなところに政策活動費とやらが使われるのかと、裏金問題が喧しい時期なので思いを巡らせたことである。
続いて、記念品や額を売る業者からのパンフレットが届き始めた。片手で持つのも重くて大変という豪華本を含めて15社以上からの送付であった。勲章を飾る額は3-150万くらいの幅があり(柿の木で作る額が一級品であることを知った)、記念品やパーティの代行など、叙勲事業は一大産業を構成している経済規模の小さくないイベントであることを知った(パンフに記載されていた勲章の伝達式から皇居までの振る舞い方の情報は参考になった)。
勲章の伝達式はホテル・ニューオオタニ東京で5月13日に行われた。ドレスコードがあるので着替えが面倒だろうと伝達式場に前泊した(東京在住の教え子2名がホテルに来てくれて、夕食をご馳走してくれた。幸せな、教師冥利に尽きる時間であった)。
当日は、11時半からの受付でホテル内の会場(省庁毎に会場は別)に集合し、簡単な式典の後、文科省の職員が(予想したより大きく、重い)勲章を首に掛けてくれた。それからそのままの格好で20名ずつ指定されたバスに乗り皇居に向かった。当日は今年最悪という大雨であった。各省庁別に10-15台くらいのバスで皇居に移動した。食事は出ないので、ホテルの部屋に備え付けの水ボトルだけで、5時半頃まで皇居にいた。皇居内の駐車場でのバス内待機が長かった。雨の中、広大な駐車場の端にあるトイレに行く着物姿の女性は気の毒であった。皇居の建物内には何も持ち込めず、杖以外は全てバスに残していかねばならなかった。
豊明殿に入り、省庁別の叙勲者と配偶者そして付き添いが200名ほど着席して待ち、侍従を従え入場された天皇陛下から祝辞と慰労の言葉があった。その後、フロアに降りて来られて5人と個別に言葉を交わされた(車椅子、女性、というように配慮が伺えた)。
その後、次の省庁の叙勲者群と入れ替わるので、豊明殿の入り口のロビーでの記念撮影へと移動した(天皇は大変な重労働と、同情したことである)。指定されたバスごとに撮影が行われたのだが、これに長い時間を要した。皆な年寄りなので迅速に移動ができない。次の省庁の叙勲者らが豊明殿に入る時間帯(40−50分を要した)は撮影が中断されるのであった。
この頃は5時近くであり、帰りの交通機関の予約を気にし出す人がざわついていた。自分も、ホテルに戻って着替え新幹線でと考えると、今日中に帰れるかしら?と心配になってきていた。5時過ぎにやっと、撮影の順番が来て、その後、バスで東京駅、ホテルへと移動した。雨は依然として止んではいなかった。バスの中で、賜り物ですと言って皇居の絵葉書セットと、お菓子の箱をいただいた(菊の紋章の焼印入りの餡巻が3個入っていた。家内によれば、製造年月日や製造所、賞味期限などの情報が付いていない、と感心していた)。早朝から年寄りの世話を一日中せねばならない若い職員には申し訳ない気持ちで同情するばかりであった。
バスは5時半に東京駅経由でホテルに戻った。大急ぎでモーニングから私服に着替え(靴も履き替え)ダッシュで(雨まだ降り止まず。傘をさして、キャリーケースを引きずって)J R四ツ谷駅に駆け込んだ。このホテルはJ R利用が便利であることを何度か来たことがあり承知していた。ホテル発は6時ジャストであったが、6時39分発の「のぞみ」に駆け込めたのでした(心臓に負担をかけたかも)。
空腹を忘れてしまい、疲労感だけ味わいながら、新幹線では何も口にせず、連絡が良かったので、9時半には自宅に戻った。食欲はなかったように思う。ともかく、慌ただしい1日で、ちょっと身体に負担をかけすぎたと反省したことであった。
運転免許更新のために
75歳以上になると運転免許証の更新は自動的というわけにはいかない。Mediaで高齢者の人身事故が集中的に報道され、「高齢者には運転免許を更新させるな」ふうな社会運動の賜物である(統計学的データで他の年齢群と正確に比較して議論されているのかは、怪しい。知らんけど)。
高齢者が自動車を運転しなくなって、自動車産業が成立するの?その経済的影響は?と考えると、事故が起こらない自動車を作ることや道路整備の方が肝心ではないかと、高齢者側に所属する僕は言いたくなるのだが、ともかくも高齢者講習が必要になるのだ。無事、関門をクリアできたので、来月あたりに更新手続きの書類が届くはずである。
4月初めに通知が来た。実地運転技能検査+認知機能検査+高齢者講習の全てをクリアしなければ、更新はできないという通知である。自動車教習所での予約は3ヶ月先しか取れない場合もあると大きな赤字で印刷された封筒が届いた。「早急に検査・講習の申し込みをせよ」とあった。時間の余裕はあるので、すぐに予約をした。3週間先が空いていた。高齢者講習は10人ほどの単位での実施なので混むのである。
僕には2年ほど前にスピード違反歴があったので(ガラガラの右車線を通り抜けると渋滞気味の左車線に埋もれていたパトカーを追い抜いたようで、すぐに後ろからサイレンが聞こえ、停車。人生で初めての経験であった。ずっと運が良かっただけなのだが)、高齢者講習が必須となっていた。2,900円が余計にかかり、加えて認知機能検査と運転技能検査、合わせて4,600円が必要であった。スピード違反はその罰金だけでは終わりでないということだ。
高齢者講習は、教習所の中を実際に車で走るもので、隣にいる検査員の指示に従って、左右に曲がったり、信号で停止したりするのである。一番難度が高いのは「段差乗り上げ、急停止」で、コンビニ駐車場で高齢者がブレーキとアクセルを踏み損ねて突っ込む事故からの想定と思われた。僕の車には自動ブレーキ等のサポート機能が装備してあるので意味ないなと思いつつ、従順に運転して満点の運転成績であった(誰でもじゃないかと思うけど)。
この日に他の検査をしてくれればありがたいのだが、そうは行かない。また予約を取り直し、4週間後に認知機能検査と運転技能検査を受けた。知人(教習所の所長歴あり)は試験準備をして受けたと聞いたので、自分もやるか、と認知機能検査の対策を講じた。
有難い時代で、U-Tubeでたくさんの動画が出ている。無料で練習できるのだ。試験の関門は手がかり再生記憶検査である。U-Tubeでは4つ物品の図が4個で1セットの問題が、4パターン存在し、合計64個の図を記憶すれば良いと教えられ、自分なりに工夫をして記憶するようにした。例えば、「カブトムシがライオンにとうもろこしをフライパンで茹でて食べさせた」と勝手に文章を作成、下線部分を再生すれば良いとした。
この方式で準備した結果、記憶検査は満点であった(はず)。あとは見当識(年月日など)問題なので、自慢するほどのことではないが、認知機能検査は問題なくクリアできた。全部できると気分は良い。
話が逸れるが、毎年実施している北海道での住民健診で、我がチームは前頭葉機能検査の項目の一つに文章記憶課題を行っている。長文を2度聞いてもらい、文章の再生を求めるものである。文章のパターンは年度で変えるのだが、住民の中には「みんなで練習してきたのに、去年と違う」という人が毎年何人かいる。こんなふうに健診のために認知行動が増えるのは高齢者の脳機能低下対策になっていると考えているが、自分の今回の一連の行動は、同じことをしていたことになる。
高齢者の運転免許更新は、高齢者から免許を取り上げるのが目的とばかり考えていたが、実は高齢者の脳機能低下対策なのかもしれないと思ったことである。
やっと自由な時間が持てるようになったので、今しばらくは、自分の車はサポート機能満載にしてあるので、自動車運転は楽しみたいと思っているのであります。
入れ歯生活が始まった
3週間ほど前に、目覚め際に口の中で奥歯が揺れるのに気づいた。40代の頃に何本も虫歯が見つかり(それまで歯医者にかかった事がなかったのだ、)その時に両端の歯に被せる形で3本分の奥歯が治療されていた、左の上顎の被せ物がダメになったのだ。
次男の同級生で、車で5分ほどの場所に10年ほど前に開業した歯医者がかかりつけなので(半年に1度の検診には必ず出かけ、あまり変化はなかったのだが)、揺れる奥歯の状態で見てもらうこととなった。奥歯を支える骨が被せ物を支えきれなくなっていること、もう歯を支えるには骨は頼りなくて、骨に埋め込む義歯は無理と診断されてしまった。軟口蓋に薄い金属の橋を掛けるようにして、左奥歯(偽歯)を右奥歯とで橋渡しする入れ歯を作る羽目になった。1週間で入れ歯は完成し(細かい作業をするものだと、感心したことである)、使用しはじめた2-3日は入れると肩こりが酷かったが、調整に通い違和感は減少した。医者は慣れるというので、なるべく入れ歯を入れて生活するようにしている。右の奥歯も被せ物がしてある元気でない歯なので、万が一、右の奥歯がダメになった時に困るはずと、入れ歯の左奥歯を使うように練習中なのである。
この部分入れ歯を使い始めて、泳ぎに変化に影響があることに気づいたのだ。日曜日には、ルーチンとしてスイミングプールに行く生活スタイルを続けている(運動しましょうと、健診の際に住民に言っている手前、「あんたもね!」と言われないためでもある)。
長男が小4くらいの時に肥満児傾向と言われ水泳教室に連れて行ったことがあった。自宅はJRや阪急の北側にあり、その頃これらの鉄道線路を越える場所には複数のスイミングスクールがあったが、線路の北側地域の、それも車で10分弱の距離にスイミングスクールが新しくできた。そのスクールの隣には看護学校があり、僕は駐車を許可してもらっていたので好都合でもあったのだ。もっとも、今ではその看護学校の跡には高層マンションが2棟立っている。スイミングスクールも20年ほど前に経営者が代わり名称も変わったが、中の設備に変わりはない。今風の筋トレマシーンなどはなく、プールとサウナが装備されているだけなので、会費は割安ですむ。そこに、長男が入会した際の家族会員証があるので自分だけは30年以上通っている。
7時半に泳ぎ始めて1時間ほどで帰宅し、朝ご飯というのが日曜日のルーティン。最近は25mプールを15往復クロール+10-15往復の水中歩行と決めている(時々、まだ泳いでいますかと聞かれることがあるので、辞めにくいのだ。そう言えば、浜寺水練学校卒の故宮田洋先生には必ず聞かれたものである)。
日曜日の早朝は自分より高齢と思しき男女14-15人が水中歩行をしている。若い人(中年のこと)はもちろん威勢よく泳いでいる。だいたい見かけるのは決まったメンバーなので、声はかけ合わないが、会釈くらいはする(老女達はずーと喋りながら横並びで歩行するので、邪魔だが、関わりあわない)。昔は20往復を30分程度でという時もあったが、今は早く泳げないが、この泳ぎのときの調子で体調のモニタリングをしている。予定通りに泳いで帰る車中で、「まだ元気みたい」と自分に言い聞かせる。体調が悪いと朝食後、うたた寝をしてしまうが、良い時はそのまま自室に篭れるのです。
先日、泳ぎはじめ、普通でない、泳ぎ難いことに気づいた。(泳ぐのは泳げたけど)息つぎがしにくい気がしたのだ。そこで思い当たったのが、入れ歯を入れていたことである。長々と書いたが、要するに、老人の典型的な身体の変化である歯についにガタが来た。そして、まだ入れ歯使用練習中の状態で泳いでしまったというわけ。そうしたら、口中の空気が入る容積が少なくなり(おそらくだけど)、息苦しいと感じたのだ。入れ歯が占める体積はごく僅かなはずなのに、老人でも人間の自己受容感覚の精密さは凄い!と感じたということである。
入れ歯を入れた状態への順応は今しばらく時間を必要としそうな状況で、右側の奥歯達の頑張りに縋るしかない。
それにしても、30歳代までにもっと丁寧に歯磨きをして、歯科医師の指導を受けておけばと、今更、詮無いけれども後悔している。若い読者は、ご用心を!
1年が経過した
退職してから1年が経過した。勤めていたのがずっと遠い昔の出来事のような気がして、新たな日々のルーティンで動いているが、3月に入って、旧在籍学科の催しや学内学会に招かれて講演することが重なり、意識にポップアップすることのなかった頃のことが思い出されるようになった。メンタルな時間と物理的な時間経過の大きな乖離を体験したことである。
学部の設置などの理由で、ハンティングした数名の先生も退職となり、3度ばかり楽しく昔話をしながら会食を楽しんだ。話題は学生募集の不振に見舞われている学内状況など、あまり楽しいものでなかったが、そこでの話題をここで披瀝するわけにはいかない(誰かの悪口が含まれるからで、今の所、前頭葉の抑制機能はまだ大丈夫である。ただ、血が騒ぐと言うのであろうか、大学のグランドデザインのあり方を議論した昔の経緯などが反芻されて、会食した夜の睡眠状態は芳しくなかった。あれから、まだ1年しか経っていないのかと言うのが正直な現在の心境である。
定年退職した人達は、退職後の1年をどのような気持ちで過ごすのだろうか。「何をして時間を過ごして良いかわからない」、「やりたいことが山ほどあって」という2つのタイプのスペクトラムのどこかで、時の流れを受け止めているのであろう。幸いなことに自分は「やりたいことが山ほどあって」に近い位置で1年を過ごしたように思える。ありがたいことで、退職後の「うつ症状の出現」は回避できたようだ。ただ、この1年で了解できたのは、自由な時間があるからといってやりたいことがサクサクとできていくわけではないことだ。忙しかったはずの昨年まで以下のパフォーマンスで4度目の新しい研究生活1年目が過ぎた。4-5編の論文を書けそうと考えていたが、結局2編半ほどで終わってしまった。理由は明白で、起床時間が5時から6時ごろと睡眠時間が長くになり、パソコンに向かっての頭脳を使う集中力は1-2時間と減じているためである(これが老化なのだろうけれども)。生き急ぐこともないのではないかとか、細々と課題に取り組んだ方が暇がつぶれる、という類の潜在意識がペースダウンをさせるのだろう。
パソコンに向かう時間は増えたが、you-tubeでいわゆるネットサーフィンで映画を見たりする時間は増えた。ありがたい時代で、無料で種々な情報を入手できる。前回の記事に書いたように、入手した情報で、柑橘類のピール造りにまだハマっている。ゆず、柚香、スイート・スプリング、文旦、はるか、と種類を変えて合計8回ピール造りをやった(メモしてあるので、正確)。造り初めの頃、知人にお裾分けしたら褒めてくれたので、調子に乗ってというのと、SDGsに協賛するためである(砂糖を使っているので怪しいが)。もう、タブレット片手に調理という必要はなく、砂糖の量も目分量で自分流にできるようになっている。面白がって沢山作ってしまったので、ネットで販売するという手立ても知らないし、冷蔵庫に溜まっているピールは血糖値に留意しつつ、ウイスキーと楽しむことになろう。
閑話休題
急に暖かい日が続くようになったので、庭に出てみると、ほったらかしの畑や雑草が気になり出した。思い立って雑草引きを少しやったら、半時間ほどなのに、腰や内腿は筋肉痛である。たくさん収穫できたブロッコリーは始末した。玉ねぎは順調に生育中である。
嬉しいことに、プランターに2年前に植えたアスパラガス(昨年は光合成をと放置していた)に新芽が出ていた。鉛筆ほどの細さだが、早速4本を食したことである。
朝の散歩中に天王山あたりを見やれば、所々に桜と思しき白い斑点が浮かんでいた。確実に春が来ているのだ。今年度はメンタルな時間と物理的な時間経過の大きな乖離はどうなるのであろうかと思うのであります。