正月は何をしたか
昨秋に郵便料金が63円から85円へと大幅に値上がりした。年賀状交換をやめる人が急増!というニュースが広まっていた割にはたくさん来たように思う。勤めを辞めたので、半分くらいの枚数しか購入しなかったが、130枚ほどはほぼ全てなくなった。ほぼ全てというのは、年代物のプリンタの紙送り不具合で印刷に何枚か失敗したためである。正月2日から温泉に行ったので、出さなかった人からも来ていたが、面倒なので、来年は出すときめ、失礼することにした。
年末には喪中ハガキが20枚ばかり届いた。ここ数年、枚数にほぼ変化はない。今年は知人自身よりも親や兄姉が亡くなったというものが多く、自分よりも年少でないことに何となく気持ちの騒ぎが少なかった。亡くした人の喪失感や悲嘆に思いを寄せるよりも、自らの順番への接近を気にした自分がいる。恥ずかしながら利己的なことと思わざるを得ない。
例年のように元日にきた長男夫婦と旅行に出かけた。昨年は下関まで3泊の旅で疲れたのと、2人の仕事の都合があり、紀州田辺の旧カンポの宿を改装したホテルに1泊だけとした。近くには富田という地区があり、学生結婚した友人の婚姻届の提出に来た記憶がある。息子は釣りをする計画で、2日に分けて5時間ほど試みてはいたが釣果はゼロであった。幸い天気は良く海岸を散歩し夕日が綺麗ということで集まる大勢の観光客を目にした。食べ物と場所は良かったが部屋は狭かった。値段が安いので納得するしかない。
年賀状が2枚来た友人がいた。神戸在住の大学時代の友人で、お互い同じ頃に子供が生まれて以降はから行き来はなくなり、賀状でのやり取りだけの関係であった。2枚の賀状にはほぼ同じ内容のことが書いてあり、京都に時々遊びにゆく際に高槻を通ると思い出すので、逢いたいと書いてあった。同趣旨の手紙もその後届いた。電話をして1月16日に会うことになった。ほぼ50年ぶりである。彼は携帯電話を持たないし、メールもやらないというので、お互い『帽子をかぶっている』だけの手がかりで、阪急梅田駅の改札口で待ち合わせた。約束の10分前には改札口の前に陣取り、見分けがつくか心配していたが、帽子をかぶった爺さん2人というのは稀で、程なく確認できた。食事でもと思っていたが、彼は癌の後遺症で食べないというので、喫茶店を探して梅田の3番街周辺を探し回った。ゆっくり話せそうな店がなかなか見つからずウロウロして阪急Fiveの奥の誰もいない店(帰る頃には数人の客は入ってきたが)が見つかり、2時間半ほど話し込んで再会を約束して別れたのであった。
白髪やひげ面ではあったが、50年ぶりでも見ていると何となく顔の骨格に面影が浮かんでくるものである。彼との話の内容はたわいないものであったが、記憶の不思議さを認識した。彼は学生の頃から小さい子は好きでないと言っていた。小学校の教員として60歳まで勤めたらしいが、教頭試験は辞退して平教員で過ごし、低学年は担当しなかったという。しかし、「最近、孫が欲しいと思う」とか、「幼児連れの親子を見ると子供に愛想をしてしまう」というのであった。ちなみに、息子がいるが未婚で同居しているという。人間の性格というか好みは60歳頃まで不変でも、後期の高齢になると変わるものだ。人が恋しくなるのかもしれない。
彼に会うときには、亡くなったクラスメートの情報交換をと思っていたが、彼は、クラスメートの名前をほとんど覚えていなかった。僕の下宿を帰省中は拝借していたとは話したが、大学生当時のエピソード記憶がほとんどないようであった。息子の名前を聞こうとしたら、3分余りも思い出せずにメモ帳でやっと確認する始末であった。同じ専攻であった家内に帰って彼の様子を伝えると、「認知症が始まっているんじゃない」と言うのだが、そうでも無さそうなのである。
記憶は高齢になると古い昔の記憶は残り、近時の記憶が再生されなくなるのが一般的であるし、予定の記憶(展望記憶)はもっと早期にダメになるはずなのに、彼は約束通りに梅田駅に現れた。学生時代から変わっているといわれていた男なのだが、不思議なことである。彼と話をしていると、昔のエピソード記憶が想起できないのは苦痛だろうと今まで思ってきたが、そうではなく、モヤか霧がかかってゆくような感じなのかも知れないと思ったことである。個人差でないのならば、自分に記憶を失ってゆく時期が来てもそんなに苦に病まなくて済むのかも知れないと思うと妙に気楽になった。彼に逢ったお陰である。暖かくなったら、一緒に京都を散策しようと言うので、連絡を待つことにする。
相変わらず、論文を書く作業をしていた正月であった。海外誌だと文句を言われても腹が立つ程度が少なくて済むし、丁寧にコメントをくれるものもある。正月の作業は不採択のコメントに沿って修正をし、次はどの雑誌にしようかと考えていただけでなので、特に生産的な作業というわけでもない。電子投稿は郵便代も不要で、金もかからずに時間を消化できるのだ。
以上のような正月であった。大して記録するほどのことのない正月だったが、古い友人と再会できたのは嬉しい出来事である。
2024年の瀬に
あと数日で2024年が終わる。後年の資料とすべくメモしておく。
元日には輪島で大地震があった。10年ほど前に実習校挨拶のついでにレンタカーで回った綺麗だった能登半島海岸部の景色を思い出していた。年内に国道だけは普及させられるというニュースを数日前に読んだ。人口が少ない地域のニュースは早くに消え、反比例して復旧には時間がかかることを再認識することである。
2月頃には、柑橘類のピール作りに夢中になっていた。4月の中頃まで9回も作っているのが記録してあり、どうしてあんなに夢中になったのだろうと不思議である。冷蔵庫には、もう瓶一つになったが、食べきれずに残っているものがある。文旦、柚香など色々な種類で作ったが、「ゆず」が一番というのが結論である。大量に送ってくれた義姉は畑をやめたらしいので、おそらくもう「ゆず」は送ってこないはず。マイブームは、結局ブームであったということだ。
4月から6月にかけては叙勲できたおかげで、祝ってもらう機会が数多くあり、ご無沙汰している人たちに再会できた。中学時代に好きだった人にも会うことができた。郷里の親戚らが集まってのお祝い会で誰かが僕に「成功者」という単語を言ったことがある。。勲章をもらうことが人生での成功ではないが、「成功」と言う単語を大昔(大学3年の時)に目にして記憶が急に蘇ったことがある。何故覚えているのか不思議だが、昨年亡くなった水嶋義次君と東北三大祭を見ようと、信州でのグリークラブ合宿解散後に出かけた道中での話である。弘前の「ねぶた祭」を見る目的で、青森県の大鰐温泉駅のホームに2人が降りて、さてどこに宿を取ろうかと思案中、担いでいるカゴを下ろした行商姿のおばあさんが話し掛けてきて、「うちに泊まれ」と言われ、厄介になったことがあった。「学生さんは大事だから」とのことであった。一人暮らしであること、ご飯を新たに炊いてくれたことを思い出す。「明日も帰ってこい」と言われて、大きなお握りと焼イカおかずの弁当を渡されたのであった。おばあさんは知り合いの旅館に僕らを連れて行き、ただで温泉に入れてくれたりした。「人情」という今や死語が生きていた時代である。帰阪して水嶋と相談し、お礼に電気あんま器を送ったところ、達筆で長文の書状が来て、そこに、「あなた達はしっかり勉強するように。そして、make Japan great againのようなことと、将来、きっと成功する」と書いてあった。名前は「長利つき」と言う人であった。戦争で悲惨な経験をした人なのだろう。この手紙は、大学に職を得たのちも研究室の机上の左側の文箱に入れてあったが、いつの間にか失ってしまった。
その頃、自分の健康に自信がなかったのか、若者特有の将来への不安からか、手相を見てもらったことが2度ある。一度は東北旅行で立ち寄った下北半島の恐山においてである。「お金に困らないけど、若死にする」と言う御託宣であった。もう一度は大学祭の前夜祭でビールをたくさん飲んで、酔い覚ましにクラスメートと2人で天王寺公園に出かけ、プロの手相見に見てもらったのだ。僕には、「アンタは、技術に関係する仕事が向いている(よく考えれば、技術に関係しない仕事など世の中にはない)」、クラスメートには「アンタは寡婦の相がある」と言われた。クラスメートは「私らアベックやから、アンタが早死にすると言うことやね」と言っていた。このクラスメートは卒業した夏に病死した。もちろん未婚で、寡婦にはなれなかった。
手相見の将来予見は当たらず、素人の「長利つき」さんが、正解のようである。あっちへ行った時に彼女に伝えられれば、喜んでくれる事だろうと思うが、もう顔は思い出せない。
7月と8月には北海道の八雲町に出かけた。この研究プロジェクトに参加してもう24年目になる。誠に時間の経つのは早い。このデータの山の処理に現在も関わっていられるのは、大変ではあるが、嬉しい負担感ではある。退職していった大勢の先輩や同僚を見てきたが、著名な研究者でも実験装置が使えないので、研究が継続できないということを耳にしてきた。心理学でも実験装置が必要な場合には継続は難しいだろうから、私は恵まれている。有難いことである。
9月1日に八雲研究から戻って、2週間後に帯状疱疹で入院して以降は、いまだに完治していると思えない状態であり、今年の後半は今ひとつ良い年だったとは言えないかもしれない。もっとも、人間ドックで再検査をした最新の結果は「問題なし」であったのだから、まあ、よしとせねばなるまい。かかりつけ医にこの事を伝えたると「まだ飲めます」と言ってくれた。
八雲のデータでの研究発表する機会が年末にあった。ある財団での研修ということであった。130枚ほどのスライドを準備したが、60分話すことになったので70枚ほどに短縮して話題提供をした。話は雑駁になったのが悔やまれる。10年以上も発表する機会を逸して来たせいだ。プレゼンは自己採点70点弱の出来であった。提供した話題は冊子に起こしてくれるらしいので、きちんと修正せねばと原稿が来るのを待ち構えている。130枚ほどにスライドが増えたのは、調べ出すと次々と関連情報が見つかるためであった。講演の機会を得たおかげで、ずいぶん新しいことが学べたのは嬉しい副産物であった。
その時にお会いした理事は昔から名前を知っていた人なので、存命とは思っていなかったが、「未熟児で生まれ、20歳までは生きられないだろうと産科医の父が言っていたそうですが、まだ、90歳です」ということであった。
僕も来年は、「まだ80歳になったばかりです」と言うようにしようかな。
孫の誕生日に仙台に出かけた
昨年は秋には、学生時代の友人と和歌山に魚を食べに出かけたが、僕の病気で夏以降どこにも行けなかったので、8歳になる孫のお祝いにと、神戸空港から仙台に出かけた。旅は順調とはいかず、Dimond 先生が実験準備にてこずっている僕に言ってくれていた、40年以上前の「Troubles make your life memorable」の言葉がpop upしたことである。
飛行機は8時20分発なので、始発のバスでは間に合いそうにないため、最近ナビを入れて、タクシーを予約できると家内に自慢していた。しかし、前日スマホ入力すると、運転手の人数分は埋まっており、不可と表示された。電話で予約せんとしたが、運転手確保が無理と断られてしまった。
急遽、京都から長男を呼び、前泊してもらい駅まで車で送ってもらって6時23分の快速で空港着、無事飛行機に乗れた。仙台には10時前に到着できた。夏に使った折に神戸空港は駅からチュックインまで直ぐだったので、歩くのが遅い家内には伊丹空港より楽だろうと気を使ったのが裏目に出た。
2ヶ月前、飛行機の切符をネット予約した時、10時20分発とあったので、これは都合が良いと思ったのだ。虫が騒いだのか、2週間ほど前にチケットを確認した(こういうことは大事!)チケットは仙台→神戸であることが判明。文字が小さくて誤読していたのだ。変更でことなきを得たが、変更便は早朝になってしまったのだ。確認しなければ大変なことになっていたはずで、ラッキーであった(?)。早朝の飛行機は家内には不評で、今後神戸発は不採用となろう。帰りは神戸では遅くなるので当初の予約通り伊丹着で帰阪した。
孫たちに逢うのは夏以来で、背丈も伸び、順調に育っている様子が確認できて嬉しいことであった。6年生の長女は大人びてきて、自分の部屋でいる時間が増えた。2年の男の子は1歳8ヶ月の妹とママを取り合う気配が残っていたり、宿題がなかなか手につかなかったりで、俯瞰して見ていると、親ではないので、微笑ましいと感じたことである。1歳8ヶ月の妹は、発語数はまだ少ないが、兄とは違って何でもよく食べる。元気で、気は強く、「ダメー」と、ちょっかいを出す兄と競いあうのだ。
到着した金曜日の夜はパパが当直ということで彼のベッドで寝ることになった。アルコールが入っていて、一眠りした頃に「一緒に寝る」と男の子が布団に入ってきた。すると(しばらくしてストンと寝てしまったけれど)「ダメー」と僕と兄の間に割り込もうとするので一騒ぎがあった。自分の息子と同衾した記憶はあまりないのに、翌日もゲストルームのシングルベッドに男の子はやってきて一緒に寝る羽目になった。動くし、暑いしで、ほぼ寝られなかったが、その間、「翌朝、寝られなかったというと、この子が傷つくから気をつけねば」とばかり考えていた。こんな思いやりの気持ちを持つようになったことに、自分自身が一番驚いたことである。
都合5泊したが、PCは持参せず、学校から帰ってきた孫たちが宿題をするのを待って、姉と弟が通い始めたテニス・スクールへの往復徒歩20分ほどの送迎(+1時間寒い中を待機)だけが仕事であった。昔なら、こんな時間の過ごし方は考えられず、孫の魔力なのか、歳をとると変われるものである。
孫が学校に行っている日は8年ぶりに元同僚のO先生と会い、仙台駅前で昼飯を食べた。お互い、「退職後の生活スタイルにも慣れたね」と言い合った。彼も色艶は以前には考えられなかったほど良くなっていたので、お互い務めはストレスだったのだ。別の日には、盛岡に鷲の尾酒造(八幡平)の酒を買いに出かけた。この会社の(かなり高価な)吟醸酒は絶品である。(発売量が少なく、なくなると困るから)銘柄は教えないことにする。旅行中の6日間は天気良くて、気分転換になった。
翌朝、溜まっていた郵便物に人間ドックの検査結果が届いていた。検査結果は、大抵は基準値スレスレなのだが、内科、眼科、耳鼻科、泌尿器科への紹介状が4通入っていて精密検査の推奨であった。予想はしていたが、憂鬱ではある。丁度、薬をもらいに行かねばならずかかりつけ医に相談し、一箇所だけ、精密検査に行くことにした。
楽しいことの後には、そうでないことが待ち構えているものである。禍福は糾える縄の如しとは真理だと思うことしきり。もっとも、今まで幸せな日が多かったので、これから少々辛いことが起きても甘受せねばなるまいとは、今は考えている(知らんけど)。ちなみに、帯状疱疹の後遺症の痛みはわずかになってはいるが、残存。寒くなり、カイロと腹巻きが欠かせませぬ。
病状その後
前回、入院騒ぎのことを書いたので、その後どうか知らんと思ってくれる人もあるかもと思い、報告いたします。
帯状疱疹の方は、もう5週間以上経つのに、まだ完治はしない。昨日は診察に行ったが、もうしばらく痛み止めと神経損傷対応の薬をもらうことになった。瘡蓋は全てなくなったのだが、超低音が響くような感覚や時折ピリッと鋭角的な痛みが左腰に走る。これでも、5日前くらいからはその程度は目に見えて(この表現は正しいのかしら)良くなっている。来月の終わりには孫の誕生祝いに行くことになっているので、それまでには完治させねばならないと考えている。
ある研究財団から講演の声がかかった。12月に入ってのことでまだ時間はたっぷりある。9月に学会発表し損ねたネタがあるので(もう人前に出るのは避けたほうが賢明かもしれないが)、思わず承諾してしまった。コロナ感染の疑いのために、発表を準備にしていたのに突然キャンセルした経過があってのZeigarnik effectということなのだろう。
9月の学会では、80歳以上で5-60歳レベルのエピソード記憶を持つスーパー・エイジャーの話題を話す予定だった。学会発表は7分なので、内容を10倍ほどに膨らませねばならない。その作業を、2週間ほど前から時々来る痛みを宥めながらやっている。
スーパー・エイジャー研究が急に増えた印象があるので、その経緯がふと気になり出し、スライド作成作業を中断して調べてみた。いくつか論文を当たっていると、どうやらハーバード大学の神経学の教授だったMeslamが1998年に書いた大部の展望論文(40ページ300引用文献)で提唱した、感覚が認知に至る経路の神経ネットワークモデルの確証データを彼の研究チームが探しているというのが背景らしい(勝手な思い込みかも)。
Meslam教授は1980年代に活躍した失語症研究で著名であり、日本の神経心理学会の発表で何度も名前を耳にした人である。50歳前にシカゴの新設医大に移ったらしく、そこで2010年代から脳画像を使ってスーパー・エイジャー研究を進めているらしい。
当節は本当に便利で、Meslamの名前でネット検索すると、アメリカ神経学会が発行しているオーラル・ヒストリーのPDF版が見つかり、読んでみた。詳細は紹介できないが(よくわからない略語や人名が多い)、1945年生まれでイスタンブール生まれと答えている(どこかで1946年生まれという記事を見た記憶があるが、本人の談なので、こちらが正しいはず)。英、仏、アルメニア、ギリシャ、スペインなどいくつもの言語ができ(これはイスタンブールが国際都市でそこに生きる人は大概そうかもしれないので、驚くことではないかのもしれないが)、アメリカの大学はM I T、コロンビア、イェールの4大学全てに合格し、一番古いのでハーバード大学にしたという。とびきり頭の良い人は世の中にいるものである。
僕と生まれ年が同じということと、1972年に初めて論文を書いたというくらいが共通点だが、読み進めていくと、この辺りから共通点は無くなっていく。30代半ばで2万ドルを3年間という奨学金を得たと話している。インターネットでは、昔の金額から現在の金額を出すアプリが無料で提供されている(確か大手の金融機関から)ので、調べてみると現在の20万2千ドルという額だ。今の日本に当てはめると、3年で1億ほどのお金を、まだ海のものとも山のものともわからない若者に出したのだ。こういう仕組みが当時からアメリカにはあったのである。それで、アシスタントを雇って研究を進めたと話している。
比べるのもおこがましいが、翻って自分が45歳の時に初めてもらった科研費は、パソコン1台を買ってなくなる額であったなあ、被験者集めも実験装置作りも、実験もなんでも自分でやらないとデータは得られなかったなあと、ボー然と、呆れながら回顧するしかない。30歳代に大金を投資してくれたらなどと大それたことを言うつもりは毛頭ない(その後、ずいぶん長い間研究費を頂いたので有難たかったと感謝だけであります)。
トルコから来て10年ほどのMeslamは、何かお金を産むことにつながるとは思えない基礎研究をしていた若手研究者に、その出自に関係なく、法外な(リターンを期待しない)投資をする文化が、アメリカにはあるという事である。どっちが良いとは一概には言えないが、日本は全体として底を押し上げるというベクトルで大学での研究・教育があり、アメリカではてっぺんの研究者をもっと引き上げると思想なのだろう。日本も最近アメリカ風な取り組みをし始めたが、規模が違うし、どうなることやら。出る釘は打つ風潮が依然としてあると思うので、すごく優秀だと思う若者は日本から外に行く方が良いのかもしれない(失敗しても知らんけど)。
彼は沢山の研究者を育てましたねという司会の発言に、「自分は、教育はしてない、スタッフが偉いだけ」と言っていたし、「研究費に困ったことはない」と言う。研究費集めに苦労することなく研究アイデアだけを生むのが仕事だったようで、羨ましいことである。
ふと、研究財団での講演時にこの話題に触れ、財団からは大金を若者に注ぎ込んで欲しいと頼んでみようかな、と思ったことである。
病状の経過報告が横道にそれ過ぎたようです。まだ腰に違和感を感じつつも記述ができるようにはなっています。ご心配くださった方には報告申し上げます。
入院生活
8月末に八雲研究のため北海道に出かけて、結果的には問題なく266名の資料収集ができた。結果的にと勿体ぶるのは、台風10号のために飛行機が飛ぶのかどうかでヤキモキ、そして、この台風は速度が極端に遅かったり動かなかったりで、帰路の飛行機が飛ぶのか毎朝flight予想を見つつの、全員がヤキモキしての作業であったためだ。9月1日に予定通り飛行機は飛び、出張は終わったのです。
ここで「めでたし」とはいかなかった。出張疲れのせいか胃腸の具合が悪く、膨満感、オナラが出ない状態があり(9月にはひどい下痢を3日ほどするのが夏の終わりの恒例)、絶食を3食してやっと回復したと思っていた矢先、9月13日の夕方から左腰部に湿疹のようなものができた。触るとざらざらしているが痛くも痒くもない。なんだろうと思いつつも放置していた。
9月15日は老人の日ということで孫らとFace Timeをした。その際に次男に腰部を見せると「帯状疱疹だろうから、皮膚科へ」ということであった。この頃はまだ、腰を触るとざらざらで、面積が広がっている感じだけであったが、その晩から痛みが出てきた。眠れないほどの痛みと、違和感が出てきた。あいにく連休で、苦悶しつつ17日火曜日に病院に行った。「帯状疱疹です。ひどいですね。即入院です」ということになった。
僕の知識では、帯状疱疹は「発疹が出て、それが痛くてたまらない」だったので帯状疱疹を疑わなかった。痛みの出方は人それぞれであることを理解した(当たり前のことだけど)。
入院初日から3日ほどは左腰部から下腹部まで、まさに帯状(10cm大)に紅斑が広がり、痛み止めはあまり効かず(4−5時間しか)、よく眠れない状態であった。この頃の痛さはちょっと文学的な表現(?)で言えば、「海水浴から帰って風呂に入った時、日焼け止めを塗り忘れた部分のヒリヒリ痛」で、これが続くのであった。そのあとは、ピリピリ感の方へ痛さは移行した。
帯状疱疹は標準治療が決まっていて、3日目からだいぶマシになった。毎食後痛み止めを3錠服用、寝る前に別な痛み止めを1錠、そして、抗ウイルス薬を8時間おきに7日投与した。下腹部に紅斑、水泡があるので、ベッドに座るわけにもいかず。また、点滴中(2時間)は腕を動かすと落下速度が変わるということで、仰向けにずーと寝ているのであった。
8日目の24日に退院できた。まだ1週間ほどは痛み止めを服用せねばならないが、痛くて働きをやめていた頭脳の方は回復している(ので、これを書いている)。
現在は、少しまだ水泡が残っているので、軟膏を塗る+鎮痛剤を飲むが、しばらく続く。治療法が確立しているので、心配はしていない。疲れで免疫が弱っている状態だったのでしょう。その疲れに耐えられなくなっているのは、加齢による体力低下であることは間違いない。
今回の入院で学んだこと。①痛くても、何も考えられなくても、時間は過ぎてゆくということ。②病気の初期症状は個人差が大きいので、固定観念で対応すべきでないこと。帯状疱疹をやったという看護師の話では、痛みでなくモゾモゾ感がしたという。自己受容感覚には個人差があるし、表現は多様だということ。③ WiFiが繋がる時代となり、T Vを見ずに過ごす時代になり、Lineで連絡を取り合い、U―T U B Eで暇な時間を紛らわせることが可能になったこと。④T Vで宣伝している帯状疱疹のワクチンは5万円だそうだが、感染してみると安いので、勧めます(打っておけばと思っても後の祭りであります)。⑤入院した病院は食事もよく、ビジネスホテルで3食付きと思えば思えないこともないほど、意外と快適であった。病院は全て同じではないだろうが、入院=暗い、陰湿なということはなかった。最近の医療制度も改善してきたのかな(知らんけど)。⑥2週間もアルコールなしでも生きていけることがわかった(アル中ではないのだ)。などなどであります。じっくり休むと色々学びもあると言うことであります。
と言うことで、年齢の割に自分は元気であると言う自己認識は当てにならないのは真理でありまする。
8月、酷暑の夏
今年の8月はともかく酷暑であった。地球の温暖化の影響ということだが身体に危険なレベルの暑さであった。最高気温が35-38度でクーラーをつけっぱなしである。まるで東南アジアの国の夏だ(2-3回しか経験してないけど)。
昨夏は酷暑の中をU S Jと白浜ベンチャーワールドとに孫らと一緒に行き、体調をおかしくしたので、今年は涼しいところで1週間を過ごすことになった。次男は仕事が多忙ということで同行せず、3人の孫の相手を任されることになった。宿舎から遊園地、釣り堀、牧場などに毎日車で送迎したが、気温は28度未満であったので昨年に比べればずいぶん楽ではあった。しかし、体力は6年生の孫娘に負けていることに気付かされた。彼女は1.5歳の孫娘を軽々と抱いて平気で歩いていたが、当方に時々押し付けられた時は何とか凌いだが、夕刻、腰に湿布を数枚貼らねばならなかったからである。2年生の男の孫は、トランプ、将棋、UNO、フリスビーと次々遊び道具を出すが、1回やるともう気が済むようであった。花火もやった。おそらく来る前に色々考えていたに違いない。準備したことを全てやろうとしていた。一緒に風呂に入るのを決めていたようで、ビールを飲みたいので、一人でシャワーを済ましたら不満で、悪いことをしたと思い、翌日からは一緒に入ることになった。こういう彼の行動を、可愛いと思えてしまうのである。
何でもできる姉は宿題をさっさとやるが、男の子は、ママに色々言われてもなかなかやらない(パパがいるとそうでないらしいが)。その様子を典型的な兄妹の夏休み風景と面白がっていた。
男の子の希望で岩魚釣りができる釣り堀に行った。姉の方が2匹釣れた時にやっと彼の竿にも魚が掛かったのだが、ブドウ虫の餌のついた姉の竿が彼に引っ掛かり、虫の嫌いな彼はパニックになり引き上げることになった。岩魚はその場で僕が下処理をして持ち帰り、昼ごはんに焼いて食べていた。後年振り返ってくれるかは不明だが、遊んでくれる祖父母が生きている(僕のこと)孫たちは幸せである。
振り返れば、僕は祖父母と同居で、母方の親はすでに亡くなっていたので、休みに祖父母のもとに遊びに帰るという類の経験はない。お盆と正月はいつも他所の子達が羨ましかったことを覚えている。
自分の子どもには祖父母がいたので、里帰り経験をしている。しかし、遊園地にも連れて行った記憶もないし、釣りに連れて行ったこともない。子どもと遊ばねばならない時代ではなかったのだ。自分は子どもに気を遣って遊びを相手することはほとんどして来なかったのに、孫には祖父の役割を演じていた7日間であった。「こういうのが年寄りの幸福」なのだ、「自分は幸せな高齢者なのだ」と言い聞かせつつの日々でありました。
今年はパリで7/26-8/11までオリンピックがあった。日本選手はたくさんの金メダルを獲得したということだが、関心がないままに終わった。昔は、オリンピックは「平和の祭典」と喧伝していたが、ウクライナ戦争やガザでの戦争も中断できないような無力なものになってしまった。商業主義が露出し、オリンピックにありがたみが無くなってしまったためかも知れない。新しい、それも成績の基準がよくわからない種目がたくさん増えていたことも、興味関心を抱けなかった理由かも知れない。これは、新規なことに好奇心を持つエネルギーが枯渇してきている証拠なのだろう。孫娘に筋力の衰えを自覚させられ、オリンピックで好奇心の減衰を自覚した8月ということになる。朝の散歩、水泳、論文執筆にもがいている日常生活は続けられてはいるが、確実に老化は進行しているのだと思いつつ振り返る、8月の終わりであります。
閑話休題
8/24:昼ごはん後のうたた寝から目覚めると、付けっぱなしのTVではドジャーズ対レイズの9回の場面を放送していた。解説者が、0アウトの場面で、「2アウト満塁になれば大谷に打順が回るけど」と話していると、不思議なことにその通りになり、2アウト満塁で大谷の打順となった。すでにこの試合で大谷は盗塁40を達成しておりここで本塁打を打つと40-40の大記録という話であった。なんと、彼は1球目をサヨナラ満塁本塁打にした。凄いとしか言いようが無い。おそらく今後語り継がれる場面を丁度の時間帯に目覚めLive放送で見たことになる。この自分のツキも凄い(?)。
記憶―高齢者の脳特性?
2週続けて古い友人らとの食事会があり、記憶の不思議さを経験したので、記録しておこうと思う。
一つ目は、先輩から直接聞いた話。この先輩を囲んでの飲み会は、先輩の教え子から半年程間を置いて連絡が届く。先回はご本人の入院騒ぎで延期となったが、その時の事情は次のようなことである。体調が悪いので、飲み会への参加が不可という連絡をしようとしたら、携帯電話の使い方がわからないのに気づいた(これは手続き記憶の障害で行為障害と見做せる)。自分の記憶に何か欠損があるような気がしたし、今も何か記憶が欠落している気がすると言う。屋敷内の別棟にいる娘に幹事役に連絡してもらうことで、僕のところにも幹事役からメールが届いた(この時、携帯電話のブロック解除番号が分からず、苦労したということ。僕は翌日家内に番号を教えたことである)。
この記憶の怪しさは、足首が浮腫んでいたので利尿剤を大量に使ったことが原因と、弟さんの病院に入院して診断・治療されたようで、その後は特に問題がないようである(だから今回の食事会が再会できたのだが)。
このエピソードから、記憶障害は梗塞や血管破裂で脳組織が失われるのが原因とテキストに書いてきたが、血液中の成分(例えばカリウム)の適正濃度が損なわれると同じように記憶障害が起きるのを知ったことになる(利尿剤を大量摂取させて記憶を失わせる犯罪小説は可能かも知れないと妄想したが、未着手)。加えて、記憶を構成する要素として、エピソード記憶、展望記憶、手続き記憶などの要素を想定するのが現在の記憶研究であるが、最も加齢に対して頑健とされる手続き記憶がダメなのに、一番脆弱とされる予定の記憶(展望記憶)が残っていたのも驚きである(集まって、飲みたい欲求の反映でしょう)。
今回の記憶障害状況で、飲み会の予定を忘れなかった先輩のエピソードからは、「記憶を構成する諸要素を統制する中央実行系みたいなもの」の存在がありうるなあ、と考えたことであります。
二つ目の記憶の不思議さは、人物の長期記憶検索についてである。叙勲の副産物で高校時代の友人から連絡があり、長浜で食事をした。高卒以来(60年)一度もあっていないM君と、年賀状のやり取りはあるが、30年前の同窓会で会ったきりのSさん、17年前に名古屋で会ったNさん3名がメンバーで、死ぬ前にもう一度会っておきたいということになり、指定された電車に乗って出かけた。
記憶による人物同定は、最後に会った時からの時間の関数で困難度が違うのかに関心があったが、この仮説は成立せず、見てもわからないのではないかという疑いは無用であった。M君もどこかに昔の面影があり、判別は簡単で自分でも驚いた。
寿司屋で大量の料理を食べ(長浜は安い!)、恩師や同級生の誰それが亡くなったというたくさんの情報を交換した。高校の同級生の半数近くが鬼籍に入ったが、驚くことではない。
食事の後、6-7年前から描き出した水彩画を見てほしいということで、美術部のメンバーであったM君の自宅を訪問した。かなりな腕前のように思えた。その際、6年目に開催されたという中学の同窓会(僕は参加していない)の記念写真を見ることになった。
僕は誰一人、同定できる人はいなかった。70歳過ぎの高齢者の集合写真から中学生の頃の人物の判別は全くできなかった。次いで、Sさんが携帯電話を取り出し、4月に大阪の美術館に行ったときの写真を見せてくれたが、その写真と目の前にいる本人が全く同定できないのだ。写真から人物同定ができないのは僕の記憶力の問題ではなく、皇居内での集合写真を見た3人は15人程の(服装は類似してはいるが)老人群から僕を探し出すことはできなかった。
迎えに来てくれた駅で会った時に、いとも簡単に人物が同定できたのは2次元静止状態の顔と、生きている顔がもたらす情報量の違いで、顔という材料の記憶は特別!ということである。それぞれが持つその人のイメージを大事にしようと言うことで、記念の写真は撮らないことにした。80歳近い我々の写真で老いを確認するよりも、古い記憶の中にイメージを抱いていることが楽しいのではと言うことである。「またね!」と言い合って別れたものの、再会はあるのか分からないのであります。
斯く左様に、人の記憶というものを生み出す脳の働きの不思議さを味わう2つの食事会でありました。
新着の米国の学術誌に、アルツハイマーになった神経学者のインタビューが掲載されていた。徐々に進行する認知症の症状の中で、ブログを書くのが早めにダメになるということが記されていた。まだ、自分は2,000字ほどの文章がまだ書ける(そのつもり)のを、ありがたいと思った次第。インタビューの最後にI’m just taking it a day at a time, and still enjoying life.(私は一日一日を大切にしながら、人生を楽しんでいる)とありました。そんな風にありたいと思うこと、しきりであります。
叙勲騒動記-2
この度の叙勲を喜んでくれたのは郷里の兄夫婦や親戚一同で、早速お祝い会を計画すると言ってきた。勲章を持ち帰り、仏壇に報告して親戚一同に披露するという一連のプロセスをするのが、郷里を離れて暮らす人間にも、自明のように科される古い土地柄なので、その圧力には従うことにした。
昨年も退職祝いをしてもらっており、すでにイトコが祝賀会を長浜市にあるホテルで準備中だったが、今回は僕が親戚一同を招待し、日頃の無沙汰を謝す感謝の会にしたいということで了解してもらい、父親の兄姉の子孫(イトコ)と甥姪を含めた14人を会食に招いた。
招待状には1964年(昭和39年)に大学に進学してから丁度60年の区切りであること、皆さんのご支援の賜物であること、大学合格祝いの会に受け取った母親からの「祝吟」に、「皆のご恩に報いよ」というようなことがあることを理由とした感謝の会である旨を書いておいた。
当時の田舎では大学進学は珍しかったので、両親らが興奮したのか、健康診断のために大阪に出かけた本人欠席でのお祝い会があったのだ。その折の参加者からの「祝吟」の短冊は郷里を出る時に持たされた(この何とも雅な風習は今ではないが、以前にこのコラムに詳細を書いた記憶がある)。叔父が全員の歌や漢詩を短冊に書いた。達筆のせいで全部が読めないが今でも手元にある。昨今の大学生には、「親がうるさいので、大学に入ってやった」などというも者もいるが、今からは想像し難い状況が60年前にはあったのだ。
僕の父親は6人兄姉の末っ子で「八田家」に養子に入った人で、高等教育を受けたかったのだろうが叶わず、次男である僕の進学には寛容であった(大学院に進むことにも何も言わなかった)。義理の父親(祖父)は「八田家」の長男ながら、家督を継がず、遊び人風に生きた人である。特に意図したわけではないのだが、真面目に勉強したこともあり、大学院に入り、幸運にも心理学研究を続け、教職に50年も携わったので、両親には合わせる顔が「ない」と言うことでもない生き方をしてきたと思うが、直接伝えることは叶わない。
東京行きの疲れと昔のバイト先の先輩らのお祝い会などに出かけ、過労気味だったのだろう、この感謝の会の2日ほど前から、風邪の症状が出て、喉の痛みと咳がでていた。微熱はあったが、日程変更も難しいので会は強行した。僕の風邪症状は3日ほどで良くなったが、その後家内に同じような症状が出た。家内は薬が乏しくなったと、かかりつけ医に行って検査をした。コロナ陽性であった。僕もコロナであったのだろう。感謝の会から2週間が経過し、実家に電話すると義姉はひどい咳声で、4人がコロナ感染であったということであった。
感謝の会で食事を提供し、コロナウイルスも提供したことになる。申し訳ないが、どうしようもない。幸い全員入院には至らず快方に向かっているらしい。いつもしてもらうばかりで恐縮し、今回は僕がというような慣れないことをしたためかもしれないが、この一連の騒動は、後年も語り継がれることであろう(まさに、Troubles make my life memorableである)。
昨夜、大学時代のクラブの先輩が電話をくれた。新聞発表時に叙勲を知ったが、すぐの電話では大変だろうと、一段落した頃と考えてということであった。「水嶋君が生きていたら良かったのになあ」と思いを共有した。舞鶴在住の先輩は、神戸であったOBの演奏会に出たということで、誰それは椅子に座って歌っていたとか、誰それが亡くなったという情報も知らせてくれた。同年代のクラブのメンバーも櫛の刃が抜けるように欠けてゆく。改めて、元気な時期に叙勲されたことの幸運を思い知ることである。併せて、「散る桜、残る桜も散る桜」という一節も想起されるのである。
孫の夏休み計画は、昨年は猛暑下灼熱のU S J行きで大変であったが、今夏は涼しいところにということで、予定が決まった。1週間一緒に過ごす計画は、ゲシュタルト心理学でいう「図」に浮かび上がりそうな「散る桜」の一節を「地」に追いやる効果がある。自分でも不思議ではある。楽しみな予定は生きるエネルギーなのだ。
叙勲騒動記-1
春の叙勲で瑞宝中綬章をいただいた。教育に功労があったということである。慌しかった1ヶ月ほどが経過したので、その間のファクトをメモしておこう。
昨年9月に名大から申請してくれていたが、教育関連分野では80歳以上にならないと順番は来ないと聞いていたので、2-3年後だろうと考えていた。昨年夏に結構面倒な申請資料の整理の一部を自分でした。昔の講座制の大学では(大抵は弟子筋の)助手の仕事であったようだが、昨今の大学ではあり得ないことで、担当の職員は恐縮してくれた。その人には面倒な余計な仕事を増やして、申し訳ないことであった。
3月14日にその職員から電話で内示の連絡が来た時には、予期していなかったので何?という感じであった。予想よりも早く頂けたのは、担当職員の申請書の書き方が上手だったのだろう。内示の連絡を受けてもあまり興奮するような感覚は生じなかった。受賞を待たずに鬼籍に入る先輩をここ数年は多数見てきたし、期待している人で残念がった人も少なくないだろうという思いの方が強かった。
内示があっても最終的に閣議決定される4月16日までは口外禁止で、その間に複数回、申請後元気でいるか?犯罪に関わっていないか?の確認があった。求められる度に、生存や出席可能性が怪しくなる年齢であることを思い知り、元気なうちにいただけた幸運を噛み締めたことである。
新聞に名簿が掲載された4月29日に、朝一番に先輩からお祝いの電話があった(耳が遠くなっておられるので詳細なやりとりは出来ず)。教え子たちからはLineでお祝いが届いた。そして祝電が届き始めた(配達員が玄関のポストでO Kかと確認するほど何度も配達された)。知らない国会議員からも結構届いた。豪華な色紙がついており、こんなところに政策活動費とやらが使われるのかと、裏金問題が喧しい時期なので思いを巡らせたことである。
続いて、記念品や額を売る業者からのパンフレットが届き始めた。片手で持つのも重くて大変という豪華本を含めて15社以上からの送付であった。勲章を飾る額は3-150万くらいの幅があり(柿の木で作る額が一級品であることを知った)、記念品やパーティの代行など、叙勲事業は一大産業を構成している経済規模の小さくないイベントであることを知った(パンフに記載されていた勲章の伝達式から皇居までの振る舞い方の情報は参考になった)。
勲章の伝達式はホテル・ニューオオタニ東京で5月13日に行われた。ドレスコードがあるので着替えが面倒だろうと伝達式場に前泊した(東京在住の教え子2名がホテルに来てくれて、夕食をご馳走してくれた。幸せな、教師冥利に尽きる時間であった)。
当日は、11時半からの受付でホテル内の会場(省庁毎に会場は別)に集合し、簡単な式典の後、文科省の職員が(予想したより大きく、重い)勲章を首に掛けてくれた。それからそのままの格好で20名ずつ指定されたバスに乗り皇居に向かった。当日は今年最悪という大雨であった。各省庁別に10-15台くらいのバスで皇居に移動した。食事は出ないので、ホテルの部屋に備え付けの水ボトルだけで、5時半頃まで皇居にいた。皇居内の駐車場でのバス内待機が長かった。雨の中、広大な駐車場の端にあるトイレに行く着物姿の女性は気の毒であった。皇居の建物内には何も持ち込めず、杖以外は全てバスに残していかねばならなかった。
豊明殿に入り、省庁別の叙勲者と配偶者そして付き添いが200名ほど着席して待ち、侍従を従え入場された天皇陛下から祝辞と慰労の言葉があった。その後、フロアに降りて来られて5人と個別に言葉を交わされた(車椅子、女性、というように配慮が伺えた)。
その後、次の省庁の叙勲者群と入れ替わるので、豊明殿の入り口のロビーでの記念撮影へと移動した(天皇は大変な重労働と、同情したことである)。指定されたバスごとに撮影が行われたのだが、これに長い時間を要した。皆な年寄りなので迅速に移動ができない。次の省庁の叙勲者らが豊明殿に入る時間帯(40−50分を要した)は撮影が中断されるのであった。
この頃は5時近くであり、帰りの交通機関の予約を気にし出す人がざわついていた。自分も、ホテルに戻って着替え新幹線でと考えると、今日中に帰れるかしら?と心配になってきていた。5時過ぎにやっと、撮影の順番が来て、その後、バスで東京駅、ホテルへと移動した。雨は依然として止んではいなかった。バスの中で、賜り物ですと言って皇居の絵葉書セットと、お菓子の箱をいただいた(菊の紋章の焼印入りの餡巻が3個入っていた。家内によれば、製造年月日や製造所、賞味期限などの情報が付いていない、と感心していた)。早朝から年寄りの世話を一日中せねばならない若い職員には申し訳ない気持ちで同情するばかりであった。
バスは5時半に東京駅経由でホテルに戻った。大急ぎでモーニングから私服に着替え(靴も履き替え)ダッシュで(雨まだ降り止まず。傘をさして、キャリーケースを引きずって)J R四ツ谷駅に駆け込んだ。このホテルはJ R利用が便利であることを何度か来たことがあり承知していた。ホテル発は6時ジャストであったが、6時39分発の「のぞみ」に駆け込めたのでした(心臓に負担をかけたかも)。
空腹を忘れてしまい、疲労感だけ味わいながら、新幹線では何も口にせず、連絡が良かったので、9時半には自宅に戻った。食欲はなかったように思う。ともかく、慌ただしい1日で、ちょっと身体に負担をかけすぎたと反省したことであった。
運転免許更新のために
75歳以上になると運転免許証の更新は自動的というわけにはいかない。Mediaで高齢者の人身事故が集中的に報道され、「高齢者には運転免許を更新させるな」ふうな社会運動の賜物である(統計学的データで他の年齢群と正確に比較して議論されているのかは、怪しい。知らんけど)。
高齢者が自動車を運転しなくなって、自動車産業が成立するの?その経済的影響は?と考えると、事故が起こらない自動車を作ることや道路整備の方が肝心ではないかと、高齢者側に所属する僕は言いたくなるのだが、ともかくも高齢者講習が必要になるのだ。無事、関門をクリアできたので、来月あたりに更新手続きの書類が届くはずである。
4月初めに通知が来た。実地運転技能検査+認知機能検査+高齢者講習の全てをクリアしなければ、更新はできないという通知である。自動車教習所での予約は3ヶ月先しか取れない場合もあると大きな赤字で印刷された封筒が届いた。「早急に検査・講習の申し込みをせよ」とあった。時間の余裕はあるので、すぐに予約をした。3週間先が空いていた。高齢者講習は10人ほどの単位での実施なので混むのである。
僕には2年ほど前にスピード違反歴があったので(ガラガラの右車線を通り抜けると渋滞気味の左車線に埋もれていたパトカーを追い抜いたようで、すぐに後ろからサイレンが聞こえ、停車。人生で初めての経験であった。ずっと運が良かっただけなのだが)、高齢者講習が必須となっていた。2,900円が余計にかかり、加えて認知機能検査と運転技能検査、合わせて4,600円が必要であった。スピード違反はその罰金だけでは終わりでないということだ。
高齢者講習は、教習所の中を実際に車で走るもので、隣にいる検査員の指示に従って、左右に曲がったり、信号で停止したりするのである。一番難度が高いのは「段差乗り上げ、急停止」で、コンビニ駐車場で高齢者がブレーキとアクセルを踏み損ねて突っ込む事故からの想定と思われた。僕の車には自動ブレーキ等のサポート機能が装備してあるので意味ないなと思いつつ、従順に運転して満点の運転成績であった(誰でもじゃないかと思うけど)。
この日に他の検査をしてくれればありがたいのだが、そうは行かない。また予約を取り直し、4週間後に認知機能検査と運転技能検査を受けた。知人(教習所の所長歴あり)は試験準備をして受けたと聞いたので、自分もやるか、と認知機能検査の対策を講じた。
有難い時代で、U-Tubeでたくさんの動画が出ている。無料で練習できるのだ。試験の関門は手がかり再生記憶検査である。U-Tubeでは4つ物品の図が4個で1セットの問題が、4パターン存在し、合計64個の図を記憶すれば良いと教えられ、自分なりに工夫をして記憶するようにした。例えば、「カブトムシがライオンにとうもろこしをフライパンで茹でて食べさせた」と勝手に文章を作成、下線部分を再生すれば良いとした。
この方式で準備した結果、記憶検査は満点であった(はず)。あとは見当識(年月日など)問題なので、自慢するほどのことではないが、認知機能検査は問題なくクリアできた。全部できると気分は良い。
話が逸れるが、毎年実施している北海道での住民健診で、我がチームは前頭葉機能検査の項目の一つに文章記憶課題を行っている。長文を2度聞いてもらい、文章の再生を求めるものである。文章のパターンは年度で変えるのだが、住民の中には「みんなで練習してきたのに、去年と違う」という人が毎年何人かいる。こんなふうに健診のために認知行動が増えるのは高齢者の脳機能低下対策になっていると考えているが、自分の今回の一連の行動は、同じことをしていたことになる。
高齢者の運転免許更新は、高齢者から免許を取り上げるのが目的とばかり考えていたが、実は高齢者の脳機能低下対策なのかもしれないと思ったことである。
やっと自由な時間が持てるようになったので、今しばらくは、自分の車はサポート機能満載にしてあるので、自動車運転は楽しみたいと思っているのであります。