はったブログ -3ページ目

2022年を振り返る

 あと1日で2022年は終わる。今年も忘年会への誘いは一件もなかった。コロナ前であれば11月の末から12月末にかけて日程を調整するのが大変、というのが通常であったのに、コロナ3年目で慣れたとは言うものの少し寂しい。

コロナの感染状況が一向に下火にならず、ここ2-3日新たな感染者が増えている状況にあり、大阪府は黄色から赤に注意信号を変化させた状況なので、忘年会を!というような呼びかけが出るはずもない。まだほとんどの人がマスクをしている。ロンドンに住む友人のクリスマスカードには、感染者はいるようだが、マスクをする姿は皆無で、コロナはもう忘れ去られていると報じていた。

 と言うわけで、師走も静かに暮れていく中で、記録を残しておきたい。後年、読む機能は残るが、書くことは叶わないとなった場合に懐かしむ資料となればという思いからだ。

 

 仕事の方は、次年度の予算申請についての各部署からのヒアリングが朝から晩まで続くスケジュールは今年も同様であった。大学の建物は建設されてから約30年が経過し、あちこちにガタが来ている。その修復工事費の見積もり額は膨大で、学生数が増えて収入が充分という状況ではないので、通常の教育・研究予算へのしわ寄せをいかに減らすか、ため息まじりの日が10日ばかり続いた。今年は、阪神高速道路の工事の影響で通勤に使っている近畿自動車道では毎日のように数ヶ所で渋滞が発生し、いつもは60-70分で住む通勤時間が2倍以上かかる。混む時間帯を避けたいのだが、予算ヒアリングのスケジュールは朝から入っているのでそういうわけにもいかず、通勤に体力を消耗したというのが特記事項である。

 

 2022年の重大事件を記録しておく。その第1は2月24日のロシアのウクライナ侵略であろう。ロシアの侵略計画はうまくいかずに戦争状態は今も続いている。ロシアのエネルギー政策の影響が秋口から日本にも襲ってきて、物価が高騰している。アベノミックス由来の円安も加わって、大変だ。ネット情報では、数年前には1万円を下回っていた、モルトウイスキーの「ラガブーリン」は倍ほどの値段になっていた。まだ2本分ストックはあるが、もうすぐ年金生活者になるので、買うのは無理になるかも知れない(と書いておけば、誰かがプレゼントしてくれる可能性もゼロではないのでメモしておく)。

 第2は7月8日の奈良での選挙演説での安倍晋三銃撃事件である。銃撃犯は旧統一教会と彼との関係を恨んでの犯行ということが明らかになるにつれて、カルトと自民党との関連が炙り出され、政治家の卑しさが露わになるという社会状況になったことも記しておこう。その後の数ヶ月の社会状況は、半世紀以上前の学生運動が下火になる頃に「一点突破、全面展開」(状況は不利だが、一つのきっかけで、ガラリと様相は変わるのだ、という意味)」と叫んでいた、落ち目のセクトのスローガンが蘇ってきた。社会状況は大きく様変わりしたことを記しておく。

ウクライナ侵略を引き金に中国の台湾侵攻を連想する世相を追い風に、岸田政権は突然専守防衛策の転換と防衛費を賄うための増税を打ち出しできた。この先どうなるのかわからないが、歴史の大きな転換期に差し掛かっている印象を肌に感じる。じっとして傍観しているだけの人間ではいけないと思うので、仕事に行かなくて良い自由の身になれば、若い頃に戻って街頭でのデモ行進なんかに参加したいとものだ(もっとも、邪魔になると言われる可能性もないわけではないが)。

 と言うわけで、元首相銃撃事件から学生運動の頃の標語が想起され、そこから、デモに参加していた学生時代が想起されて、「事あれば、街頭に出ようか」と意気込んでいるのであります。

 

 クリスマスの賑わいにも年末の賑わいにも程遠い一年であったと改めて記録しておきたい。長男夫婦が帰省するというので、体力に応じた程度に部屋の整理やガラス磨きぐらいはせねばならない。できるかどうかは不明だが、それだけの気力だけはある、2022年末である。

 

 年末にあたり、教え子の池田和夫、親しくして頂いた箱田裕司、丁野恵鏡の諸氏が、それぞれ、60,代、70代、80代で亡くなられたことも記しておく。

 

 我が身は、コロナ感染もなく無事に年を越せることを喜びたい。

退職準備を開始

 

 今年度末が任期切れとなるので、退職する。学長を3期9年も務めたことになる。これまで2期以上の人はいないので、長くやらせてもらったことになる。2-3年で別の大学に移るつもりであったのに、都合15年も在籍したことになる。静かにフェードアウトしたい。

 

 あと100日余りで部屋を出なければならないので、12月に予定の廃棄書類の提出日に合わせて、いらない文書や本を束ね始めた。今の大学に来てからはできるだけ専門書等は購入しないようにして、電子ジャーナルを中心に学術情報を得るようにしてきたので、それほど大量の廃棄本は無い。しかし、本棚からいらないものをと探していると、いろいろな思いが浮かんで、作業は捗らない。たとえば、製本された博士論文の処置だ。博士論文はハードカバーで製本し、背表紙に金文字でタイトルをつけたものを提出することが求められていた時期がある。そのために古い博士論文はハードカバーである。それが合計23冊、その後はソフトカバーでも良くなり、それらも合計2冊ある。自分が主査や副査の学位論文もあるし、議論したことのある学生からの謹呈本もある。

 問題はこれらを本人に返却すべきかだ。もらったものを邪魔だから返すというのも失礼だろうし、自宅に持って帰るわけにも行かない。自宅にはスペースが乏しいからだ。場所がないというだけでなく、自分が死んだ後で家族が処置に困るだろうということもある。さてどうしたものか、もうしばらく考えねばならない。

 

 振り返れば、27歳で大阪教育大の助手の仕事についてから(当時には珍しく、公募人事であった。僕が蹴落とした事になる応募者のその後はどうなったのだろうと、時に思い、その人たちに恥ずかしくないように生きねばという想いはある)、たくさんの学生を指導してきた。すべてというわけではないが、大多数の元学生たちの自己実現を手助けできたのではないかと思う(歳を取ると何でも都合よく解釈するので)。「一番幸せな人生は、次の世代の行く末を、安心して見送り、消えていけるもの」という箴言をどこかで見たことがある。幸せな人生であると改めて思う。

 

 大学の部屋の書物を整理する際に、自宅の本棚にもなにがしかは入れなきゃならないと思い、思い立って自宅の本棚からいらないものを捨てる作業もしている。学部生の時代に購入した学術書は、値段が高いものであったので蔵していたが、すでに内容も古いし、躊躇なく廃棄準備ができた。一方で、思い出があり、捨てられないものも見つかった。例えば、森北出版の「バローの数表」という本がある。裏表紙を見ると昭和26年が初版で、僕のは昭和39年18版のものだ。全部で208頁からなっているベストセラーだ。内容は、数字ばかりで、1から1万までの2乗、3乗、平方根、立方根、逆数、などが印刷されているだけの内容である。この数表とそろばんと手回し計算機(Tiger社製の片手では持てない鉄の塊のようなもの。自室には廃棄されたものをアンチークとして飾っている)で、統計の授業を受けたのだ。いまではボタン一つでできる相関係数や分散分析、因子分析などもこれらの神器で行った。統計計算の仕組みなどは理解できたが、随分手間がかかり、毎週実験演習のレポート提出のために、実験データを仲間同士が分担しながら計算し、駅の待合室の電灯の下で持ち寄ったものだ。

 

 僕は心理学を専攻したものの、その内容についてよく知らなかったのでこんなものかしらと思って履修しただけだが、心理学を学ぶことに意識の高い学生の中にはフロイド選集なんかを読んでいる人もいて、実験と統計処理が必要なレポートを作成する作業と自分の考えていた心理学とは違うと言う学生もいた。2年生の初めに8名いた心理学専攻生は卒業時には4人になっていた。一人は卒業した年に亡くなった。残り3人は時々集まっている。

 

 捨てられないなと思ったもう一冊は、緑の表紙の『E. F. Rindquist;Design and Analysis of Experiments in Psychology and Education. Boston: Houghton Mifflin Co.』の本である。統計の先生であった生澤雅夫講師は、この393pageのテキストを用いて1年間分散分析の授業をされた。学生も当然英語はできるものとみなしてのことだったのか分らないが、我々学生は付いて行くのに必死であった。一年では単位が取れないのが普通とされている科目で、忘れもしないが、試験は10時に始まって4時に解答を回収するものであった。3要因の分散分析を、数表と手回し計算機でやった。今から考えると、生沢先生はその後、「潜在構造分析」の統計書を出版されたので、学生と一緒に勉強しておられたのかもしれない。先生は海軍兵学校の最後の頃の学生で、京都大学を経て着任されて間もない頃であった。定年後、神戸学院大学に心理学教室をつくられたが、すでに鬼籍に入っておられるので、確認しようがない。

 

 という具合に、部屋の整理をはじめているが、なかなか進まない師走なのです。

 

人間ドックの結果から

 人間ドックの結果、何か厄介な大きな疾病が見つかったということではないので、まずはご心配なく。

 人間ドックは30年以上、毎年受診している。自分の中年期から現在までの身体機能についての変化データはしっかり蓄積されているはず。この辺りの年齢でもっと節制していれば、いくつかの血液検査指標はと反省しても、過ぎてしまった歳月は戻りはしないが、それでも、開示請求が可能なら、見てみたい気がしないでもない。

 ここ数年はほとんど同じような検診結果で、肝臓が肝硬変直前状態であること、血糖値が基準値ギリギリで、日本酒などは控えた方が良いことなど、自分でも気がつくが、そのつもりはない(次男から、酒をやめて長生きしたいかと聞かれた時に「否」と答えてある)。大きな変化は幸いなことに見つからず、身体機能には急激な劣化は、まだ見つからなかった。身長も青年の時から比べれば3cmばかり低くなっているが、昔の老年心理学の教科書に記載されていたデータ、すなわち20代から70代の間に身長は7-8cm低くなる、を考えれば少ない。これは週に一回だけれども水泳を続けているおかげではないかと信じて、取り立てて楽しいわけではないが、プール通いを継続している。

 今年の人間ドックのフィードバックには、データ表のほかに紹介状が封筒に入れられてあった。紹介状は耳鼻咽喉科の専門医宛であった。そういえば検診時に聴力が少し下がっていますねと看護師に言われたのを思いだした。高齢になれば高い周波数の音が聞きづらくなるのは通常のこと(正常な老化)で、わざわざ耳鼻咽喉科に出かけることもないか、と思ってはみたが、研修日で、特に予定がなかったので、買い物がてらに駅前の病院に出かけることにした(この病院の前身が高槻に進出した頃からの馴染みなのだ)。阪急百貨店にビックカメラが入ったので、風呂の脱衣室の電球が切れており、ちょっと寄ってみて電球を買うことを展望記憶課題として、9時40分ごろに病院に入った。

2年前に皮膚科に来た折に比べると患者は満杯であった(あの頃はコロナ感染への不安からか病院は空いていた)。病院の待合室は女性の老人でいっぱいだった。女性に比率は視野に入る範囲では8対2で女性ばかりであった。この比率の際の原因は?などと考えてみたり、自分のことはそっちのけで、こんなに老人が多くては、医療費が嵩むはずだと思ってみたりしたことである。

 予約をしてないので待たされることは覚悟して、読書の準備もしていたのであるが、待ち時間は予想を超えて2時間超となった、途中で看護師が気にかけてくれて先に聴力検査をやってしまいましょうということで、人間ドックよりも少し精密な聴力検査を受けた(ノイズを重ねて刺激音を提示する条件が加わったのだ)。またしばらく待って、やっと診察の順番が来た。

 診察室に入り、60代と思しき医師から耳の診断を受けた。最初、聴力検査の高音部が30デシベル以上であるが、これは高齢になれば普通ですからということであった。自分の理解していることと同じなので、やはりと思っただけであった。

ところが、医者が耳を覗くと耳垢がずいぶん溜まっているという。思いもかけないことであった。医師に耳垢を取ってもらったが、右耳(この側の聴力が落ちているという)はなかなか耳垢が取れないのだ、いろいろと器具を変えたりして試みるがなかなか取れない。鼓膜に耳垢がこびりついてなかなか剥がれないので、薬剤の溶かしましょうということになった(耳鼻科の診察の待ち時間が長いはずで、待ち時間でイラついていた自分を反省したことである)。

 別室で右の耳に液体を注がれ15分間安静を指示された。右耳は炭酸水がはじけるようなシュワシュワ音がずっとしている状態が続いた。左耳を枕にして、右耳に薬剤が入っているので看護師が色々世話を焼いてくれているらしいが、話はほとんど聞こえない。15分経って、右耳からそっと液体を脱脂綿に戻すとそこには黄汁が付いていた。

 そのあと、医者はちゃんと取れたと言ってくれた。少し耳をいじった時に出血があったようで薬剤を塗布されて、解放された。次の診察の予約は必要がないということであった。要するに、耳垢取りに病院に来たのであった。

 もう一度聴力検査をして確認するプロセスはなかったので、聴力が改善したかは不明だが、都合3時間以上を耳垢取りに要したことになる。

昼飯を買ってきてくるようにとの家内の指示は無効となって、特に食欲もなかったので、そのまま帰宅した。買い物は忘れなかった(前頭葉機能にまだ顕著な低下はないようだ)が、買って帰ったLED電球はソケットのサイズが間違っていた。後日買い直しと言うことになる。9時過ぎに自宅を出て16時前に戻ったので、1日は耳垢掃除だけに費やされたことになる。

 誰かに耳掃除をしてもらうということは初めての経験で、況や耳垢がたまっていたのはなんとも恥ずかしい。数年前からある耳鳴りが小さくなったような気がしないでもないが、日常生活で耳が遠くなったことを自覚してはいないので、耳垢撤去の効果がいかほどか不明なままである。

 

 とまあ、思いもかけないことにつながる場合もあるので、人間ドックフィードバックをもとに、精密検査を受けることは意味があると思ったこと小春日和の秋の1日であった。

あっという間の9月であった。

  9月は何をしたと言う記憶がないのに、あっという間に終わってしまった。9月の最終週まで大学は夏休みなので学生の姿もまばら。コロナ感染の心配も少なく、大した事件が起きなかったこともあるが、時間が早く過ぎると感じる老人の心的特性のせいかもしれない。

昨日の出来事がかなり昔のことのように思えたり、早朝に泳いできた日曜日の昼過ぎには、その事実もかなり以前のことのように思えたりする。年をとると過ぎてしまったことが、物理的な時間よりも以前のことのように思えることは、よく知られた記憶錯誤現象だが、「過ぎてしまったことは仕方ないじゃないの」という、菅原洋一の歌じゃないけども、高齢者の適応メカニズムなのだろう。喜怒哀楽の感情を長く継続させなくて済むことで、エネルギーを消耗させないで日常の生活を安穏に過ごさせるメカニズムかなと思う。

 「安倍晋三は家庭を崩壊させた元凶である」と信じ込んで、その怨念を何年間も継続させて復讐をするというようなことは、若者だけが可能なのだろう。その後の社会事象からは「一点突破、全面展開」と大学紛争時に耳にした慣用句が記憶からポップアップしたことである。9月27日に、国葬という形式で葬儀が行われたが、賛否が別れる行事なので大学で何もしないという選択をいち早く通達した。

 

  怪しい記憶でも、想起させるのは加齢防止に有効と聞くので、何をして時間を過ごしてきたかを振り返えろう。大半は過去の八雲研究のデータベースをいじって、肩を凝らし、手を強ばらせて、目を霞ませながら毎日を過ごしていた9月であった。

最近の高齢者研究では、80歳以上で5-60歳レベルの認知機能を維持している人をSuper-agersと呼び、この人たちの脳画像で、神経細胞層の形態や神経連絡の特性を検討する発表が増えている(ように思う、多くの研究者ができることではないので、限られた研究拠点での大人数での共同研究なので、僕の錯視かもしれないが)。

お金のかかるの脳画像研究は無理だが、Super-agersが壮年期、初老期にどのような認知機能特性だったのか、どのような日常生活を過ごしていたのか、血液検査や尿検査から見る生化学的な特徴はどんなものか、などの疑問は必然的に次々と浮かぶ。

この種の検討には我々の八雲研究は挑戦できると思い、挑もうかと思案している。縦断的資料を持たない研究グループにはできないはずであり、追従研究は出そうにないからだ。

  自分自身がSuper-agersになれるかは別にして、この検討テーマを研究グループの後輩たちが挑戦できるように、基礎的なデータベースを作っておこうと3週間ほど前から取り組み始めたのだ。心理班は既に21年分の高次脳機能縦断検査データを電子化しているが、最初の2-3年間は、縦断研究を計画して同一の検査項目を同じやり方で収集してきたわけではない。そのために、各年度ごとに注意や記憶などのデータが揃っているかを確認して、同一の形式でデータを揃え直す必要がある。

2001年からのデータ整理をし始めたが、なかなか厄介で、ある年度では、受診者氏名が漢字とかな読みが併記してあり、漢字表記だけの年、カタカナ表記だけの年があったりする。平均して300-460人くらいが一年間に検査を受診してくれているので、それらを揃えるのは意外と大変なのだ。

  漢字だけの年のデータファイルにはカタカナ表記を記入し、エクセルの並べ替え機能を使ってデータを揃えるのだが、ある年には東を「アズマ」、別の年度には「ヒガシ」と記入してあったり、幸子を「ユキコ」とかいた年もあれば、「サチコ」記入してある年もある。性別や年齢を頼りに揃えなければならない。350人規模の人名漢字表記をカナ表記に揃えるエクセル画面での作業だけで、手は強張り始め、目は霞んでくる。

 

  この作業をまだ途中だが続けている。この種の単純な作業もそれほど嫌ではない自分に驚いている。加齢で喜怒哀楽の感度が弱ってきたのか、はたまた、作業に飽きる前に手が痛くなったり、背中がこわばったり痛くなったりするので、適当に休憩が挟まっていることが良いのかもしれない。あと、2-3週間は必要なように思うが、単純作業に夢中になって、数週間前に考えたSuper-agersの研究計画の中身を忘れないように、頭の片隅に置きながらの毎日である。自分は何をしに来たんだっけというような、短期記憶の把持機能が、今やってる作業が終わるころまでにないことを祈るしかない。

 

  この種の作業中であることは、後輩には伝えている。後輩が使ってくれれば、嬉しいことで、次世代に繋げるというだけでいいのかもしれないけど。一つくらいはとっかかりの論文を書きたいとも思っている。

「いつまで飽きずにやってるの?」と言われそうだが、50年以上続けてきた生活様式を変えるのは、一気に老化が進んでしまいそうで、不安なのである。

 

  とまあ、何をしたかよく思い出せない9月も、振り返れば、相変わらずの日常生活であったということであります。

悲喜こもごもの8月であった。

 

 まず「悲」から。僕の40年以上前の指導学生で高知大学教授の池田和夫君が亡くなっていた。彼は京大を卒業し、国家公務員の上級職に合格していたにもかかわらず、大教大の私のところに来た。研究者になりたいというのが理由であった(京大の方が有利と思うのだが、当時の関西圏の院生の間では大教大の大学院の方が可能性が高いとされていたらしい。旧帝大のその頃の先生は学生の指導は最大の関心事とは見做されていなかったのかも知れない。できる者は自分で育つということなのだろう)。

 

 僕のところで一緒に珠算熟達者の左右脳機能差研究を行なった。左右脳の機能差は学習の経験によって変化し得ることを立証した研究は、神経心理学のトップ・ジャーナル「Neuropsychologia」に掲載された。博士課程は京大に戻り、その後北大の助手・京大の助手を経て、高知大学に職を得た。彼のキャリア形成プランはうまくいったと言えるかもしれない。その後も一緒に国際学術研究でスイスやイギリスに一緒したり、高知で何度も遊んだものだ。

 

 詳細は差し障りがあるので書かないが、6年ほど前にパーキンソン病に似た難病を患った。数年以内に歩行ができなくなり、認知機能が劣化し、死に至るという難病であった。幸いなことに、症状を急激に回復する治療法が見つかり、元どうりの生活ができるようになったというメールを2017年の9月にもらっている。難病が見つかった頃に年賀状のやり取りは終了という連絡をしており、僕のところにも以後、連絡がなかった。8月初めに何となく気になって、大学のホームページを探すと彼の名前がなかった。そこで、知り合いを通じて情報を探した。

入院生活を終えた後、好きだったアルコールを断つことができず、病状は悪くなり、勤めも2年ほど前から休職していたらしい。1月31日に自宅で一人亡くなっていたのが2月5日に見つかったという。

気の毒な死に方であった。自分の教え子が定年を待たずになくなるという知らせは、なんとも形容しがたい。澱んだ気持ちは3週間後の今でも僕の中を漂っている。知り合いの尽力でお墓の場所が分かったので、墓参をして気持ちの整理を付けねばなるまい。

 二つ目の「悲」は、上記に比べるのも憚れるレベルだが、コロナの感染のためにお盆の頃に孫たちと一緒に軽井沢郊外で遊ぶ約束が実行できなかったことだ。テレビ電話で時々孫たちの様子は見聞きできるけれども、それで満足できるというものでもない。次の機会を待つしかない。

 

「喜」もあった。嬉しいことの第一は、2年間中止されていた北海道八雲町での健診事業に参加できたことである。2001年から参加し2019年で途絶えていた。我がチームは9名全員PCR検査を行ない、認知機能検査も感染予防に最大限留意しながら、データを集めることができた。人数制限されたこともあって、従来のように400人規模という訳にはいかなかったが、297人の資料を収集できた。コロナの感染状況の中で、研究活動が再開できたとっていうのはありがたい。「喜」である。あと何年関われるかは未知数だが、継続してゆく体制はほぼ整っているので、安心している。

「喜」の第二は、一年越しにやり取りしていた論文が最終的にパスし、出版契約、校正作業を終えることができたことである。八雲町の健診でのデータを元に利き足による身体のバランスの差異を報告する内容のものだ。都合4回やり取りした事になるが、最後の修正要求は、高齢者に関する英語記述についてであった。アメリカではエイジズム運動が心理学会に影響を与えているようで、高齢者という表現で差別感を持たれる用語は不可という。「elders, the aged, elderly people, seniors」などは不可。「older adults, older people, the older population」が望ましいので、修正せよという指摘であった(アメリカ心理学会のガイドラインが添付してあった)。どれも日本語に直せば一緒のように思うが、ニュアンスに差異があるようで、語学力の未熟さを思い知るばかりである。

日本のように何事にも年齢が関わる社会と違って、アメリカでは年齢は差別を生む事項の一つと考えられているらしい。人種、性別と同じように自分でコントロールできない事項については、差別とみなされるらしい。日本で当然のように考えられている年齢による定年制などアメリカでは不可ということだろう。

 儒教の思想が染み込んでいる自分としては、一定の年齢で「終わり」と言ってもらえる方が有難いが、人それぞれかも知れない。

という具合に、悲しいことも嬉しいこともあった8月でした。

喜寿の7月

 

 7月7日にイギリスのジョンソン首相が辞職する意向を表明した。その理由は閣僚を含め次々と周囲の重職スタッフが辞職を表明する事態が続いたためらしい。辞職は彼に信頼が置けないという理由という。昨年末、コロナの感染拡大中に、国民には自粛を呼びかけていたにもかかわらず自分の誕生日パーティーを官邸内で実施し、そのことについて、後日ミステイクであったと謝罪をしたものの、嘘をついたこと、そして周辺人物のスキャンダルを覆い隠そうとするような言質があった、その二つが理由であるという。

首相であっても、ともかく嘘を言う人は認められない、ついて行けないというのが、次々と辞任して行く理由であると言うのだ。嘘を言うことは、人間として許せない、信用できないという強い倫理下でのスタッフの行動で、イギリスの政治家や官僚たちの倫理観の高さに、さすが憲政の母国と改めて感心した。

 その時に、つい連想したのは数年来の安倍元首相周辺の官僚や政治家のことで、彼が明らかに嘘をついていると知りつつも、それを覆い隠し、地位に連綿とするのが官僚や政治家の一般的特性と思っていたのが間違いであることを知った。あえて声高に言うと、イギリスに比べての日本の官僚や政治家たちの倫理感の低さが嘆かわしい!

 

 こんな安倍元首相に関わる過去を想起していた頃(7月8日)に、奈良で彼が若者に銃撃され、死亡したという緊急ニュースに接した。当初言われたような政治的な意見の相違による、いわゆる政治テロではなかったようだ。銃撃をした若者は自分で銃を作り、安倍さんはシンパと信じ込んでいる旧統一教会に家庭を崩壊させられた、怨恨理由によるものらしい。自分に票をくれる者については誰であってもどんな背景を持つ人であっても構わないというような振る舞いをする政治家の、ある意味で宿命的な悲劇と言わざるを得まい。

 

 さて、この7月で元気に喜寿の誕生日を迎えた。一向に日本の社会が豊かで健全な国に育っているという感覚を持てずにいる。むしろ、自分のことにだけ関心を持ち、自分の経済的な豊かさだけを追求したり、嘆いたりすることに終始したりすることばかりが増えているように思う。7月10日に参議院選挙があったが、社会問題に直接的・根本的に対峙しようとする投票行動はいっこうに伸長せず、投票率も低く相変わらずで、自民党が大量に得票した。無力感だけが残ったままである。

 

 今の僕の関心に夏野菜がある。カボチャを作ってみた。2本の苗を買って、1本は昨年までゴーヤを育てていた場所に植えた。土地は痩せている。以前はどうしようと言うくらい採れたゴーヤもここ数年収穫が激減していたし、ゴーヤチャンプルー料理も食傷気味なので、今年は育てるのをやめにした。別の1本は畑の端っこに植えて、塀に沿わせようとした。畑のカボチャは順調に育ち、野放図にみるみる蔓を伸ばし、一方の先端を止めたが、逆方向に伸びて手が届かない。月桂樹の木を覆い尽すまでになった。YouTube由来の知識で、受粉をしないとカボチャはならないと、その日を待っていたが、雌花と雄花とが同時に咲くと言う機会は極めて少ないことを知った(何本も苗を育てている場合には問題はないのだろうけど)。

 雌花が咲いている朝に雄花は開花せず、雄花が数多く咲いているのに雌花はないという状況が連日続くのだ。不十分な開花レベルで、トライした受粉は結局ほとんど成功せずじまいだ。雄花と雌花が時を同じく開花しないとダメということは、若者の結婚事情にも似ていると思ったことである。しかし、畑の苗からは一個のカボチャが赤ん坊の頭大に育ち、茎のコルク化も進み近日中に収穫できそうである。痩せ地の一本は頼りなげにゴーヤ用のネットを伝って成長中である。この蔓も僕が半ば強引に受粉させた雌花は成功せず、知らないうちにテニスボール大のカボチャができている。

 豊かな土地であればカボチャは実るというわけでもなく、豊かでない環境でもきちんと育つことがあるということだ。初めてのカボチャ栽培からの教訓である。先月末の猛暑で動きの悪かった蜂たちの活動が、7月に入ってようやくが活気を帯びてきたおかげだろうが、一人でに痩せ地のカボチャは受粉したようである。自然界というのは不思議なものである。

 

 僕自身はカボチャが好物というわけではないが、家内は時々かぼちゃを購入したりするので、今年の夏の野菜栽培はまあまあ合格と評価してもらえそうである(将来の食糧難の場合に備えても、カボチャ栽培技術をマスターしておかねばならない)。2本しかないキューリは今年も順調で、現在までに約80本を収穫し、キューリ料理のレパートリーはそんなにないと言うので、職場に配達する日が続いている。セロリも順調であるし、パプリカも順調だ。パプリカは黄色や赤にするまでには40-60日かかると言うので、観察中。ミントも大きく育ったので、ラム酒を買いに行って、ヘミングウェイが愛したというカクテル「モヒート」を楽しんでいる。暑い日にはジントニックよりも旨く感じられる。

 

 このように、古希の誕生日を猫の額ほどの菜園を相手にカボチャの生育を見守りつつ元気に過ごせている毎日を、有難いと思っておりまする。

出版ラッシュ?

 

 どういう巡り合わせか、自分が関わる本の出版が(大げさだけど)ラッシュ状態なのだ。

 先だって、「左対右 きき手大研究」の文庫本が化学同人社から発行された(5月15日刊)。この出版社が過去に選書で出したものの中から選び出して、文庫スタイルで始めたシリーズに入れてくれたものである。選書の内容ままでも良いという話だったが、出版後10年ほどの間に勉強した分を加筆した。

 その後、NHKが監修して「チコちゃんのギモン365」が7月1日刊で出版された。宝島社が出版元で、初版3万部という。僕が関わった回の記事のチェックをせよということで原稿を見た。印税はありませんということであった。放送5年分から厳選した、放送回に入れて貰えたことで満足だし、献本を孫と自分に贈ってもらったので文句はない(4年生の孫が届いた本を読めたと言ってきた)。

 この種の話に対応している頃に、日本文芸社からコンビニなどで販売するという「図説 左ききの話」を出すので、監修してほしいという依頼があった。7月半ばに刊行される予定で、アマゾンではすでに予約注文を始めている。

 実は本の監修という作業依頼は二度目で、最初の仕事は「騙された?」と思っているので、迷ったが編集者の対応が誠実だったので、「まあ、いいか」と引き受けた次第。監修本は、翻訳などを専門家でない語学の達者な人がした場合に、誤訳がないかを確認するのがたいていの場合で、友人もしているので、興味半分で引き受けた次第。

 最初の「騙された?」話は、僕の本が素人には難しいので分かりやすくしたいと言うことであった。自分の能力不足を補ってくれて、お金が入るのなら悪い話ではないと、卑しい魂胆があったのは否定しない。

 「騙され本」はアマゾンで検索すると、色も鮮やかな表紙でいまだに出ている。その度に不愉快な記憶が蘇るのだ。「選ばれし民…」というタイトルである。「騙された?」と思っているのは、このライター(2010年当時30歳代の男)は、日本文芸社の提案と同じように、化学同人選書のダイジェスト版を作りたいということであった。出張ついでにこのライターと会って、彼が送ってくる原稿に目を通す約束をした。正確に覚えているが、印税を提供するということであった。

 しばらくして1、2章分がメールで送られてきた。加筆修正をして送り返すことを2度ばかりした。「言い過ぎの部分」が多いので、直して送り返したのだった。その後、ピタッと原稿が送られてこなくなったが、自分の仕事も忙しいし、出版をやめにしたのだろうと思っていた。ところが、半年ほど経過した頃に、知人から僕の本が出ているという。慌てて梅田の旭屋本店に行って探すと、一冊だけ「選ばれし民…」の本が書架に見つかった。帯を著名な博物学関連のタレントが書いており、僕の名前は帯に隠れて見えないように小さな活字で印刷されていた。中身を見るとイラストがいっぱいの趣味の悪い構成で、とても自分の名前を冠するのは困ると思える(大したものではないけど)品物であった。

 僕のところには発行された本がきていない。何部くらい印刷されたのかももちろん知らせてきてはいない。

 文句を言わねばと、出版社を探すと(この出版社はHow toものや自己啓発本を電車の窓に貼り付けているのをよく目にしていたのだったが)、倒産したのか、もう存在しなかったのだ。どこにも文句を言って行く先が無い状態のままで、10年以上が経過している。

 ハッキリ言えるのはこの本は、僕は監修をしていない。内容に責任は持てない、というのが最初の監修にまつわる失敗談である。ライターも修正箇所が多くて対応が嫌になったのだろうが、音沙汰なしは、ダメである。追求する気はもうないが、アマゾンからは消してほしい、どうやれば良いのかわかる人は教えてい下さい。

 

 今回の日本文芸社の記述内容は、ライターは素人向けの書き方で間違いという箇所は数箇所あったが、ちゃんと目を通したので、内容に一定の責任を持てるものである。コンビニで見かけたら、購入ください。

 

 それにしても、きき手や左右脳の働きの違いの話題がこんなに長く続くのに驚いている。心理学研究のたいていの研究テーマは10年ほどわっと盛んになって、大勢が研究し始めるとすぐに消えていくものなのに、1974年にラットの左右脳の研究論文(左と右に異なる記憶を植え付けたら、ラットは困ってしまう、という内容)が初めて国際誌に掲載されてから46年も経過しているのに、消えていかない研究テーマとの巡りあったことになる。運がよかったとしか言いようがない。改めて、この研究テーマに導いて下さった平野俊二先生に巡り合った幸運を感謝したい。

 

 以上、2月ほどの間に僕が経験した出版ラッシュ(?)で、たいそうな言い方だが、キャリアハイの経験である。

 

 先ほどまで、MLBの大谷選手が、8回13三振奪取、ヒット1本6勝目の活躍をT Vで見ていた。前日2本のホームラン8打点で暴れたのに。キャリアハイというのはこういうのを表現する用語であろう。まさに、「オータニさん、スゴイ!」である。

連休を楽しんだ。お知らせも。

 連休には北信州にお酒を探す旅をした。野尻湖近くの小さな酒蔵(高橋助作酒造店)で一昨年見つけた「松尾」という酒が欲しかったのだ。ずいぶん遠いので、息子の情報では、信州の酒専門店が上田市にあるというので、まず、そこで探すことにした。目指す、「松尾の大吟醸」はなかったが、珍しい知らない酒がたくさんあり、店主の勧めもあって12本も珍しいものを購入した。自分が飲む量はそんなに多く無いので、持って帰って講釈を垂れながら知人に配ることになる。

 昨日読み終えた開高健を紹介する本では、彼は58歳で食道がんにより亡くなった。タバコの吸い過ぎと暴飲暴食が原因であったらしい。飲み過ぎには注意しなければならないが、最近では毎日飲むけれども一合の半分も飲めない。誰か相手がいないと飲めないタイプの酒飲みなのです。

今回の旅行では、葉わさびの醤油漬けを作りたいと、瓶詰め容器を大阪で整えて持参した。昨年、葉わさびが大量に売られていた店に直行するも目的の品はなかった。確認すると先程大量に購入していた人がいたということであった。わさびの醤油漬けの瓶詰めを購入し、食べてみたが私の記憶にある味ではなかった。日本酒のアテには水あめが少し入っており甘すぎたのだ。

 葉わさびの醤油漬けにこだわるのは、最初に食べた時の味の記憶からである。院生の頃に、山口県の山林労働者の検診手伝いに山奥に入ったとき、お茶請けに出され食したのが最初である。それ以来、鼻にツ-ンとくるあの香りと、シャキシャキした触感が忘れられないのだ。作り方を教わって、春の時期に葉わさびが売っているのを見ると自分で作った。新鮮な葉わさび小口切りにして熱湯をさっとかけて花カツオと醤油を懸けて密閉。冷蔵庫で一晩待つ。あくる朝密閉した瓶を開けると、わさびのズーンとする香で涙がぽろぽろと出そうになる。私の大好物の一つなのだが、どう言う理由か、最近では近くのスーパーで葉わさびを見かけない。

 帰りの朝、もういっぺん野菜の直売所によって確かめたが、入手できなかった。せっかく購入してきた密閉ビンは無駄になったが、すべてのことが思い通りになるというのも、怖いので、来年を期すことにしている(来年元気という保証はないけど)。

 

 上田市の酒屋を後に、須坂郊外の雷滝を見学することにして、新緑の北信州路をドライブし、前日の積雪が解け水量が多い滝を堪能し、その奥にある山田牧場を訪ねた。息子が小さかった頃に山田牧場でスキーをしたことがあるので、その後どんな様子か気になったのだ。最近の親と違って、子どもを旅行に連れて行ったことは数回しか記憶にないが、大学の教え子が毎冬バイトをしていたロッジに行ったことがあるのだ。僕はボーゲンしかマスター出来ずじまいで、教え子に呆れられたのを思い出す。

 昼時で山田牧場には何か食べるものがあるだろうと、近くのレストランで昼飯を食べた。このスキー場もかなりさびれている様子であった。40年程前にここにスキーに来たことがあるとおかみさんと話していたら、世話になったロッジの持ち主(2年ほど前に亡くなられたとは聞いていた)とは親しかったということであった。ロッジがまだ残っていると聞いて帰路、写真を撮ったことである。

 この地区はスイスの田舎のまちと交流があり、スイスのホルン吹きを招く行事が10年ぐらい続いたそうである。夏に来たときにロッジ「カナディアンクラブ」の主人(天王寺高校出身の女性)が、スイスのホルン吹きの人たちが泊まっており、「役場の〇〇さんが朝ご飯を一緒にしたいのでちょっと食べるのを待っているよう」に通訳してと言ってきたことがあった。ドイツ語しか分からないと言うことであった。大学の先生だから当然できると思われたのだろう(彼女の想定する昔の大学の先生なら可能なのだろうが)。ドイツ語で朝食はフリースティックと言うはずであるが、その時頭に浮かぶはずはなく、「朝」、「食う」、「待つ」、「〇〇サン」、「来る」と単語の原型を思わず並べた。ホルン吹きの客は意味を理解してくれて、僕は面目を保つことができたことを今でも覚えている。一緒にいた学生らにドイツ語ができないことはバレたが、度胸だけは誉めてくれたことを思い出す。

 レストランでの会話から40年以上前の記憶思い出す事ができたのだから、長駆運転してきた甲斐があったということである。葉わさびをどこかで売っていないかと聞いてみたら、自家製の「甘酢漬け」と「塩漬け」の葉わさびをオマケに賞味させてくれた。初めて味わう物で、悪くはなかったが、妄想上にある「醤油漬け」を超えるものではなかった。

 という訳で、「酒」と「葉わさび」を求めて、往復1,100Kmの運転を一人でやり遂げたゴールデンウイークであった(7割方はオートドライブのお陰だけど)。

 

 嬉しいニュースがある。2003年に発刊した神経心理学の本(医師薬出版)が増刷を知らせてきた。11刷となるわけで、何処かの誰かが教科書に採用してくれているに違いない。このブログの読者の中にそういう人が居られたら感謝申し上げたい。もう一つは、文庫本「左対右 きき手大研究」が新たに5月末に化学同人社から発刊されることである。13年前に「選書」で出したものに加筆した文庫本である。「選書」はいくつかの新聞書評に取り上げられ、評判がよかったのだが、ベストセラーというわけには行かなかった。

 この文庫本(D O J I N文庫)をブログの読者に献本してもいいのだが、幸か不幸か、住所がわからない。申し訳ないけど購入していただけるとありがたい。印税を増やしたいというやましい気持ちはありませんのでよろしく。

「late-in-first-out」or「first-in-late-out」?

 加齢に伴い認知機能が損傷された後でも情動機能は保持される。例えば、見当識が無くなった人でも喜・怒感情は保持され、介護者にセクハラめいた行為ができ、食欲は旺盛などというケースがそれである。脊椎動物の進化過程の中で、早期に発達した呼吸器や消化器系などの脳幹レベルでのコントロール機能は壊れにくく、系統発生的に後から進化したと考えられる前頭葉機能は加齢プロセスで脆弱であると指摘する際に、モデルというのもおこがましいが、「造成地モデル:新しく造成された土地(脳部位)は古くからの地盤(脳部位)に比べると脆い」と説明してきた。

 この考え方と同じ仮説を、最近の脳画像研究論文に見つけた。そんなに勉強家ではないので、何か新しい研究はないかと日常的に文献検索をして見つけたというわけではない。たまたま、投稿した論文の査読者から(得意げに)これこれの文献を考察部分に加筆せよと言って来た。遺伝学、内分泌学などの学術誌に掲載された論文を教えてくれていたので、仕方なく、探し出して読んだ論文に記載があるのを見つけたという次第。    

 ポルトガルのAna Coelhoらの論文で、J. NeuroSci. Res, 2021に掲載されたものだ。Wileyという大手出版社の電子版でインパクト・ファクターは4.8界隈を年毎に前後する一流誌である。

 内容は、新しい脳画像研究法で脳内の神経ネットワークが加齢に伴ってどう変化するかを、縦断的に検討したものである。脳画像研究は、脳のいろいろな部位のごく短い時間内の血流やブドウ糖消費等の多少を計算して、カラー表示する機能画像研究法(fMRI)が一般化している(と言っても、日本では医学部や病院にあるという意味で、近年雨後の筍のようにあちこちの大学にできた心理学部に設置され出したということではない。億円単位の設備だから日本では無理だが、中国は例外)。これは、細胞体の活動を対象にした手法だが、最近10年の脳画像研究に現れた新しいやり方は、神経線維の連絡具合を計算して、脳内の神経連絡ネットワークを画像表示する方法である。詳細な仕組みをわかりやすく説明する能力はないが、神経細胞の軸索線維の水分の流れる方向を検知するものらしい。当然コンピュータが活躍するのだが、どのようなアルゴリズム(計算手続)で画像化しているのかは僕にはわからないので、正しく計算できているの?と疑う気持ちがないわけではないが、新しい研究法として論文は急激に増加している。

 この脳内の神経線維のネットワークを解明する手法を使って、左右脳間を繋いでる交連線維と左右それぞれの脳内部位を連絡している連合線維との関連を縦断的に検討し、加齢に伴うプロセスでは連合線維が脆弱、という趣旨の論文である。彼女らの論文には「Structural connectivity decreases were mainly due to loss of association fibers, an observation which is consistent with the late-in-first-out hypothesis」とあった。

 前述した土地造成と同じモデルが記載されているのを見つけたということである。彼女らの論文では「late-in-first-out」と記載されており、「パーティか何かに、遅れてきた奴ほど早く帰っちゃう、こと?」かと考えたりしたが、参考文献に記載の原典にあたることにした。たどっていくと1999年のRaz, N.の論文が初出であり、それは脳画像に関する百科事典に掲載されていた。この事典は大手出版社から2015年に出され、値段は1,950ドル2,658ページであった。24-5万円もする本なのだ。その中の10ページ足らずを見たいだけなので、ちょっとした疑問に対応するには法外すぎる値段だ。あきらめてRazの別な論文を探していたら、幸いなことに記載を見つけ、大金を使わなくて済んだ(こういうプロセスは幾つになっても楽しいものです)。

 論文を読んでいくと、そこには「first-in-late-out:後で発達する脳の領域は、初期に成長する領域よりも加齢に伴う変性に対して脆弱」モデルと記載があった。「late-in-first-out」と「first-in-late-out」どちらの表現も同じ意味になるのかも知れないが、インとアウトの順番が違うのだ。「first-in-late-out」であれば、最初に入場した人は出るのが後になるということで、モデルの説明と合致する。

 

 このモデルに行動学的なデータが合致するかどうかは、20年間の縦断的データを有しているので、検討が可能である。データをいじる作業を続ける課題が見つかったという気持ちになったことである。最先端の脳画像研究で確認したのなら、それで十分!ということではない。わずか数ミリ秒間のごくわずかの神経線維の変化を、正しいアルゴリズムで計算されているか分からないのである。最終的な出力である人間行動で確認しなければ!と疑い深いのが、行動科学の研究者には染み込んでいるメンタリティなのだ。

 

 ここで教訓。改めて言うほどではないが、原典に当たることは大事。このモデルを行動学的な検証する場合には、ポルトガルの研究者の論文を使うはずで、そのまま引用していると恥ずかしい目に遭いかねなかった。一流の学術誌でも、査読者がごく初歩的なミスを見逃すこともあるのだ。どこかで思い違いをして彼女らは「late-in-first-out」と思い込んでしまったに違いない。引用の際に間違っては先達に失礼というものである。間違いは、一流の研究者もいろんなレベルでするものなのだ。

 

 25年ほど前には、前頭葉機能を使い続けないとダメになることの説明には「休耕田モデル」と称して、耕し続けない田圃はすぐ雑草に覆われる事実を近所の田んぼの写真をスライドにして授業に使っていた。学生は休耕田という単語を知らなかったので、がっくりきたことも覚えている。これは「use it or lose it」と英語で言うことや「廃用性障害」と医学分野では言うこともあとで学んだ。自分で見つけたように思いがちな説明も、どこかで同じことを別な言い方で記載しているわけで、思い上がってはいけないというのも教訓である。

 

 ともかくも、これからは「造成地モデル」は使わずに、順番を間違えないように気をつけねばならないが、僕はfirst-in-late-outを使うことにしよう

新学期が始まった

 変則形式であったが、3月23日に卒業式を無事終えた。変則とは午前と午後の2回に分けて人数減らして密着を減らす工夫をしたこと、保護者はライブ配信視聴、そして、時間短縮という意味である。5分程度で式辞を、という条件を満たして文章を作るのは結構大変であったが、ともかくも終われてホッとした。その次の週から他校園での卒業式、入学式が続いて忙しかった。幼稚園、高校、短大の式典にも出ねばならないためである。座っているだけの仕事ではあるが、礼服を着なければならないのは面倒で、出される弁当もほぼ同じ内容で、贅沢は言えないが食傷気味となるのである。4月1日は、学園職員の辞令交付式、短大入学式、大学教職員向けの所信表明、教員向け研修会をこなした。

 

 4月4日(月曜日)には大学の入学式をした、ここではモーニングを着るので、午前の式を終わっても午後の式典まで特別なシャツを着たままでで過ごさねばならず、そしてその間に保護者会での挨拶が2回入るので、疲れはしたがともかくも無事終えることができた。

 

 大学の卒業式と入学式は遅刻ができないので渋滞を避けるために7時前に自宅を出ることにした。午後の入学式が終わった4時頃には「疲れた。早めに帰る」と事務方に知らせて駐車場に向かったが、途中で要件を指摘されてまた戻った。それでも5時5分ごろには帰路に着いた。忙しい週だったのが終わったので、どの酒を飲もうかなどと考えつつ車を走らせたが、高速道路で渋滞に出会い、今までの最長記録、4時間5分もかかって9時を回っての帰宅となった(いつもは70分ほどで行き来できる)。トラックが横転して足場が道路を塞ぐ事故のための渋滞であったらしい。酒を飲む気力もなく、すぐ就寝した。眠りは良いものではなかった。

 渋滞はたまたま入力したナビが、「75分くらいかかります」と言う。そんなにかかるものかと、横着を決め込んで走行中の近畿自動車道から「阪神高速に入れ」とか、「東大阪J Cで降りて、13号線におりろ」という指示を無視して走っていると、途中で全く動かない状態が20-25分✖︎2回、あとは6キロほどでのノロノロ運転で、結局は4時間越えになってしまったのだ。ナビは「2時間経ったので休憩しましょう」は音声ガイドするが、3時間経過、4時間経過は文字表示しか出ない。「言うこと聞かん奴には言っても無駄だと」いう仕組みのようだ。それと、ナビは高速道を6キロの速度で走る時間が一定を過ぎると、高速にいるのか地道にいるのかが分からなくなるようで、途中から変な地道の画面が現れることも発見した(発見に意味はないが)。

 

 翌日は翌5日も6日も行事や会議がいっぱいで、疲れが出るのではないかと心配したがほとんど何もなく、「歳の割には体力がある」と、密かに自慢気味でいた。7日(木曜日)は幼稚園の入園式であった。木曜日は自宅研修日にしており通常ならゆっくりするのだが、新園長となったので、気を遣って大学に出た。30分ほどの式典を終えて部屋に戻った頃から急に背筋が痛くなってきた。なぜだろうと考える間も無く、渋滞での運転でハンドルを持つことでの背筋の過労のせいであることを理解した。疲れは翌日も翌々日も感じなかったのだが、60時間ほど経過して出てきたのだった。「歳の割には体力がある」のは間違いで「歳相応、いやそれ以上に体力は無くなっている」のだ。弁当を食べずに速攻、帰宅したことである。痛む背中で翌8日(金曜日)も高校の入学式に出た。

流石に、土曜日は背筋痛も消えた。3月末から4月初めの週は体力的にキツイ。今年度が3期目の任期最終年なので、なんとか最後まで体力が持つことを願うしかない。ともかくも、新年度の1週間は何とも幸先の悪いものとなった。

 

 体力の自覚症状の他にも、新たに老化の特徴だろうと思うことがある。それは記憶についてだ。まだ、単語を忘れるとか事象を思い出せないというような症状はないと思っているが、過去の事象についての心的距離(時間知覚)に変化が出てきた気がするのだ。つまり、数時間前の事象がずっとそれ以前の事象のように思えるのだ。10時の式典を終えてしばらくすると、それはずっと以前のものであったように思えると言う具合だ。認知症が進んだ老人が、「飯まだか?」と食べ終わってすぐに言うとエピソードを聞くが、案外食べ終わってからの心的時間が長く思えるようになったせいで、食べた事実を忘れているのではないのかも知れない。とすると、僕も認知症が始まったのかも知れない。別に個人的には嫌なことではなく、それもいいかも知れないと思っている(周囲は困るかも知れないけど)。自分が理解できなければ平気でいられるはずだ。類似の時間記憶の歪みの文献でも探そうかな、と思っている。

 

「幸先は良し」とはいかなかったが、新しい学期が始まった。物理的時間は定常に進んでいるようである。コロナ感染症の再拡大なしで春学期が終われることを願うばかりである。