「みんみん」再訪
3月初め、約半世紀前の留学先の教室メンバーであったDr. Alan A. Beatonから、突然メールが届いた。今まで特段の連絡もなく、クリスマスカードも交換していたわけでなかったのに、メールアドレスをどうして知ったかは不明。僕の個人情報は垂れ流しみたいであるが、たいした情報があるわけでもないので気にしていない(してもしょうがないし)。
Amazonで検索するとBeaton先生は2冊ばかり本を出している。「覚えているか?桜を見に日本に行くけど、どこが良い?」と言うメールであった。著書を贈呈してもらっていないことから分かるように、それほど深い付き合いではなかったが、一昨年に完成した(大袈裟だが)僕の当時の日記の電子化版を探すと、帰国後共同研究しようと言っている記載があるので、それなりに付き合いはあったのだろう。1977-1978年頃に同じ先生の下にいた、兄弟弟子である。それから48年ぶりの頻繁なメール情報交換となった。便利な時代に生きていることである。桜の季節は終わっているけど、岡山を起点に姫路、高梁、倉敷などがお勧めで、京都は薦めないと伝え、彼はそれに従って7日間滞在した。
僕のエピソード記憶機能はまだ崩壊しきっておらないようで、彼のメールからすぐに色々なことが想起された。当時、学位を取ったばかりのチューターであった彼は、大きなシェパードを研究室に連れてくるので、教授にいつも怒られていた。時々学術誌に名前を見ることがあったので、大学に職を得て、元気に仕事をしているらしいことは知っていた。Lateralityが専門分野で、きき手の論文が多い。日本に来る、来ると留学当時世話になった人は何度も言ってくるが、実際には来た人はいないので、まさか48年ぶりに再会するようになるとは思いもよらなかった。
エピソードが膨らんで行き過ぎそうなので、元に戻す。
関空まで迎えに行こうかとメールしたが、自分で北梅田のホテルに行くので、会いに来てくれという。環状線福島駅から5-6分のところだが、大阪駅から徒歩で行けることを調べ、6時半ロビーでという約束になった。何を食べたいかという問いに、魚ダメ、寿司ダメ、高級和食も不可で、ラーメンが良いという返事であった。一緒に来たガールフレンドが、ラーメンが食べたいというのが理由であったらしい。2歳年下だけなのに彼女と旅行するとは元気なことである(僕が知っている黒髪の人とは随分昔に離婚して独身なので、問題はない)。我が身を振り返ってみると、近くにいて欲しいのは若い女性より孫の方である。
早めに出かけてホテル界隈を探索したところ、ラーメン専門店が5-6件近所にあった(7時前に行列のできている店もあった)。7時20分ごろにホテルに到着したので(僕は外食でラーメンを食べる習慣はないが)、早速ラーメンを食べに行くことになった。ラーメンは、学生時代によく食べていた安い古典的なタイプと、近年ブームになっているモダンタイプとどちらにするかと聞くと、古典タイプが良いと言う。道路沿いに「みんみん」の店を見つけていたので、そこに入って、「ラーメン、餃子、レバニラ炒め」と、50年ほど前に注文する定番だったメニューを食した。うまいと2人とも満足してくれた。僕は安く上がったことと、「みんみん」の店に行けたことで大満足であった。
「みんみん」の餃子は冷凍食品で食べることがあるが、店で食べるのは記憶にないほどの昔である。阪神百貨店の裏あたりの闇市の残骸のような建物の2階にあった(むしろ汚い)店を懐かしく思い出した。「コーテル、リャンガー」、「チャウズー、イーガー」と若い女店員が調理場に叫ぶ声までエピソード記憶は蘇ってきたことである(僕の記憶にあるものなので正しい中国語かは、知らんけど)。学生を連れて、「みんみん」でお腹を満たしてからホテルのBarというのがお決まりのコースであった(こうするとBarの記憶の方が再生されやすいので、好都合なのである)。
Beaton先生は前立腺肥大の影響ということでアルコールは飲まず、ガールフレンドとビールを飲んだ。再会での話題は、誰それが亡くなったとか、自分の病歴などで、アカデミックなものはなかった(帰国したらそれを再開しようとは言っていたが)。どこの国でも高齢者の関心は変わらないということだ。
「ラーメン、餃子、レバニラ炒め」は、昔のようには食べられず、3割方食べ残してしまった。若い頃ほど食えないということを再認識したことである。
古い友人に再会したおかげで、ずっと行きたかった「みんみん」店に行くことが叶ったというお話であります。
色々面白くないことが起きるなあ
一旦、暖かくなっていた気温も急に下がったりして、春先らしい天候の変化が続いている。このような寒暖差が急に生じると、帯状疱疹の古傷が痛み出す。痛み止め薬は残してあるが、カイロを貼ることで飲まずになんとか凌いでいる。
先日届いた市政便りには、帯状疱疹のワクチン公的補助開始案内が記載されており、2回打つタイプは2万円程の費用で済むらしい(私の場合は入院したので15万円ほど使ったことになる)。家内は早速かかりつけ医に予約に行ったらしいが、60歳以上しか該当しないのは高齢者優遇しすぎ、働き盛りの中年にこそ補助すべき、と医者が言っていたそうで同感ではあるが、いずれにしろ私にはもう手遅れである。
面白くないことは次々起こるもので、交通違反(一旦停止違反)でパトカーに止められ、7,000円を支払う羽目になった。近くのスーパーからの帰り道、100mほど先に赤色灯を点滅しているパトカーがあり、先に行かそうと停止して右折を待っていると、先に行けという合図をするので、右折して30mほどのところにある信号を、青だったので左折したところ、後ろからパトカーが停止を求めてきたのだ。何かしらと車を止めて降りると、一旦停止違反だという。信号が青で、左折で進んだだけなのになんでやと思ったが、一旦停止せねばならない場所があるらしい(これは後日教習所で聞いた)。減点にはならないと言っていたので、まあ仕方がないと忘れかけていたら、配達証明で「臨時認知機能検査」を受けるべしとの通知が来た。1ヶ月以内に受験せねば酷いことになるような文面で、慌てて教習所に行って認知機能検査を予約したことである。文面では受験料金は1050円とあったが、3月30日に予約したのに4月から1500円に値上げですと告げられた。5割も上げるのかと、運の悪さと地域住民に思いやりのない若い警官の顔を思い出し、悪態を吐いたことである。
認知機能検査はエピソード記憶を測定するので、交通表示が読めなかったり、色がわからなかったりするレベルの認知症を判別することはできるが、運転は手続き記憶なので、この検査に判別力はない。高齢者は早く免許返納すべしということだろうが、返納者は認知機能低下が進むという話も聞くので、私はまだ運転をやめるつもりはない。
もう一つ面白くないことが起きた。市役所から11月の人間ドックで「前立腺がん」検診結果に基づいて、精密検査を受けたか、いつどこで受診し、その結果はどうだったかを報告せよという通知であった。すっかり忘れていたので書類を探してみると、確かに「泌尿器科」宛の紹介状が残っていた。人間ドックの検診結果には4通もの紹介状が入っていて、かかりつけ医のアドバイスで、念の為にと12月に大腸透視をしたが、「泌尿器科」の紹介状は失念していた。
検診結果を見ると前立腺がん指標(PSA)には確かにアスタリスクがついていたが、4.00未満はOKのところを4.030だったのだ(調べると10.00以上になるとガンの可能性があり)。推計学では誤差範囲で棄却する値とは思うが、税金を出してくれた市役所に悪いので、病院に出向いて2週間後にMRI検査を受けることになった。医療費が国家の支出の多くを占める理由だと思うことしきり。別に長生きしたいとは思っていないけど、もし、MRIでガンが検知されれば、日本の医療システムはすごいということになる。無駄遣いしているなあ、で終わることを期待してはいる。先日読んだアメリカ医学会の雑誌では、前立腺がん初期の場合の治療成功率は100%だということであるので、気楽にMRI日を待っている。
3月は米国誌に投稿した論文へのコメント対応に追われていた。面倒なので、面白くはないが、掲載料金はいらないし、せっかく書いたのだからと、査読者のいっぱいあるコメントに沿うべく書き直している。「言い過ぎ」と指摘される箇所が多く(それが読者に面白いと思って欲しいものなのに)、そこを修正するとそっけない話になってしまうが、逆らうわけにはいかない。
トランプの4月初めの無体な関税話で株価が大幅に下落し、世界中大騒ぎである。この権力者に意見するものはいないのかと思うが、迎合する者ばかりらしい。論文の査読対応も逆らわないのが基本なので、似ていると一瞬考えてもみたが、論文の場合には、迎合しても倒産とか失業するとかいう類の、他人に迷惑をかけることはない。
今月中には修正稿を送るつもりである。面白くないことの連続はこの辺りで、打ち切りと願いたいものである。
嬉しいこと2件
2月22日の土曜日、京都駅前のホテルで叙勲祝賀会をしてもらった。新しい綺麗なホテルで食物も美味しかったと家内の評価も高かった。僕は参加者と話すのに忙しく、賞味する機会を逸したが、美味しそうではあった。
寒い日だったので、ホテルに着くなり、家内とトイレを探したが、おしゃれすぎる表示のトイレを探し当てるのに戸惑った。張り切りすぎる建築家の作品はたいていの場合、老人には優しくない。おそらく著名な建築家たちの作なのであろう(知らんけど)。著名な建築家の公共建物の劣化がニュースになっているらしい。
最近は昨日の出来事でもかなり以前のことのように思える高齢者特有の「メンタルタイム・トラベル」現象で、勲章の件はずっと昔のことのように思える。退職のお祝いをしてもらったばかりだったので、昨年は祝賀会を固辞してきたが、「同窓会だ、生前葬だ」だと言いくるめられ、年末に渋々了承した。メモを見ると昨春の叙勲の内示が3月15日にあり、公示・プレスリリースが4月29日で、伝達式は5月13日であった。
内示から公示まで何度も申請事務方から現状確認があったことを思い出す。昨年末の前任校の友人らとの忘年会で、判決結果が地方新聞に掲載された「常勤講師雇い止め」訴訟の件で僕の関与を確認する電話があったことを聞いた。叙勲がらみと直感した担当者は無関係と回答したとのことであった。このレベルのことでも叙勲に影響するのかと驚いたことである(するかどうかは不明だが)。祝賀会では、受賞は家族や僕に少しでも関わりのある人間が「良い子」でいてくれたおかげだと、改めてお礼を言った。
渋っていた祝賀会は大勢での会は不可ということにして、「大学での教え子」、「共同研究歴のある人」に限定してもらったが、47名も参加してくれた。嬉しいことである。千葉や東京からの参加もあり、大雪の影響を心配した。一番古い教え子とは51年ぶりの再会であった。
参加者には研究職についたものがかなりな数に上る。よく考えると、院生の頃に指導教員と折り合いが悪くなり僕のところで研究した、ゼミ生以外の者が少なくない。彼らは自ら「避難民」と称しているが、恩義を感じてくれているのかも知れない。僕には専門以外のテーマを一緒に学ぶことができ、研究の幅が広がるという美味しい面があった。彼らは見返えそうというベクトルが働いて一層頑張ったのかも知れない。理由はどうであれ、彼らの自己実現を援助できたのであれば、教師冥利に尽きると言う事である。こういう避難民の方が人懐っこいものである。
懐かしい教え子たち等との2時間半はあっという間で、嬉しく楽しい時間であった。もっとも、嬉しい時間ではあったが、教え子等が「還暦になりました」、「定年退職しました」などと言うのを聞くと、気持ちの上での年齢は65歳程度のつもりで機嫌よく暮らしている日々なのに、突然自分の暦年齢を想起させられる。仕方がないけど、あんまり面白いわけではない気持ちがした(若い人には分からんだろうけど)。
もう一つの嬉しいことは、投稿して2度ばかり不採択となって手元にあり、どうしようかを思案中の論文に行き先が決まりそうなことである。テーマが合わないという理由での判定と内容の記載が不備と言う理由とでの不採択であった。後者の場合は、本文の内容と要旨の記載が不一致なまま投稿していたのだ。本文に記載した639人の人数をなぜか要旨では1,639人と記載していた。チェックしてくれた共著者2名も僕も気づかなかったのだ。トンデモ・ミスの責任を他人に転嫁するわけではないが、若い教授でも2人とも見逃すことがあるのだ。「人間は間違う存在である」ことは肝に銘じねばならない。
耄碌したものだと気落ち気味であったが、投稿依頼のメールで米国の学術誌から無料で掲載すると言ってきた。投稿依頼のメールはいっぱい来るが、大抵はいわゆるハゲタカ雑誌で、高額の掲載料(1000-2000米ドルが標準か?)が必要である。もとハゲタカ雑誌もどきであったものが、引用数が多くなるケースも散見され、最近では何がハゲタカだか分からないようになっている。研究費を取った人が、論文を掲載したい願望(必要性)が増加している証である(そうしないと、研究費の申請や継続申請に落ちるので)。医学系の研究雑誌にはこの種のものは多いように思う。もっとも掲載料を要しない学術誌もたくさんあるが、競争なので審査が厳しいのだ。面倒な申請事務作業を軽減し、潤沢に基礎的な研究費を配ればこの種の不愉快なことは減るはず、と愚痴りたくなる(もう関係ない立場なのだけど)。
オファーがあったのは医学系の雑誌なので、本当に掲載料は不要かと2度ばかり確認した。求めに応じて論文の要旨などを送った結果、OKというのだ。雑誌はOpen アクセスなので掲載までの時間は短そうなのと、インパクト・ファクターも一応はついているので、嬉しいオファーというしかない。共同研究者らの業績作りに貢献できるというものだ。
雑誌の投稿形式に揃えるのは結構面倒だが(文献が出現順、引用文献名の略記とか、doiを付記とか、手持ちの原稿を修正せねばならない)、宝くじにあった多様な気分で、時間がある身なので作業中である。この雑誌の編集マネージャーは中国人風の女性のようである。「中国人、嘘つかない!」であって欲しいものだ。
と言うように、長く生きていると嬉しいことにも出会えるものである。有難い。
正月は何をしたか
昨秋に郵便料金が63円から85円へと大幅に値上がりした。年賀状交換をやめる人が急増!というニュースが広まっていた割にはたくさん来たように思う。勤めを辞めたので、半分くらいの枚数しか購入しなかったが、130枚ほどはほぼ全てなくなった。ほぼ全てというのは、年代物のプリンタの紙送り不具合で印刷に何枚か失敗したためである。正月2日から温泉に行ったので、出さなかった人からも来ていたが、面倒なので、来年は出すときめ、失礼することにした。
年末には喪中ハガキが20枚ばかり届いた。ここ数年、枚数にほぼ変化はない。今年は知人自身よりも親や兄姉が亡くなったというものが多く、自分よりも年少でないことに何となく気持ちの騒ぎが少なかった。亡くした人の喪失感や悲嘆に思いを寄せるよりも、自らの順番への接近を気にした自分がいる。恥ずかしながら利己的なことと思わざるを得ない。
例年のように元日にきた長男夫婦と旅行に出かけた。昨年は下関まで3泊の旅で疲れたのと、2人の仕事の都合があり、紀州田辺の旧カンポの宿を改装したホテルに1泊だけとした。近くには富田という地区があり、学生結婚した友人の婚姻届の提出に来た記憶がある。息子は釣りをする計画で、2日に分けて5時間ほど試みてはいたが釣果はゼロであった。幸い天気は良く海岸を散歩し夕日が綺麗ということで集まる大勢の観光客を目にした。食べ物と場所は良かったが部屋は狭かった。値段が安いので納得するしかない。
年賀状が2枚来た友人がいた。神戸在住の大学時代の友人で、お互い同じ頃に子供が生まれて以降はから行き来はなくなり、賀状でのやり取りだけの関係であった。2枚の賀状にはほぼ同じ内容のことが書いてあり、京都に時々遊びにゆく際に高槻を通ると思い出すので、逢いたいと書いてあった。同趣旨の手紙もその後届いた。電話をして1月16日に会うことになった。ほぼ50年ぶりである。彼は携帯電話を持たないし、メールもやらないというので、お互い『帽子をかぶっている』だけの手がかりで、阪急梅田駅の改札口で待ち合わせた。約束の10分前には改札口の前に陣取り、見分けがつくか心配していたが、帽子をかぶった爺さん2人というのは稀で、程なく確認できた。食事でもと思っていたが、彼は癌の後遺症で食べないというので、喫茶店を探して梅田の3番街周辺を探し回った。ゆっくり話せそうな店がなかなか見つからずウロウロして阪急Fiveの奥の誰もいない店(帰る頃には数人の客は入ってきたが)が見つかり、2時間半ほど話し込んで再会を約束して別れたのであった。
白髪やひげ面ではあったが、50年ぶりでも見ていると何となく顔の骨格に面影が浮かんでくるものである。彼との話の内容はたわいないものであったが、記憶の不思議さを認識した。彼は学生の頃から小さい子は好きでないと言っていた。小学校の教員として60歳まで勤めたらしいが、教頭試験は辞退して平教員で過ごし、低学年は担当しなかったという。しかし、「最近、孫が欲しいと思う」とか、「幼児連れの親子を見ると子供に愛想をしてしまう」というのであった。ちなみに、息子がいるが未婚で同居しているという。人間の性格というか好みは60歳頃まで不変でも、後期の高齢になると変わるものだ。人が恋しくなるのかもしれない。
彼に会うときには、亡くなったクラスメートの情報交換をと思っていたが、彼は、クラスメートの名前をほとんど覚えていなかった。僕の下宿を帰省中は拝借していたとは話したが、大学生当時のエピソード記憶がほとんどないようであった。息子の名前を聞こうとしたら、3分余りも思い出せずにメモ帳でやっと確認する始末であった。同じ専攻であった家内に帰って彼の様子を伝えると、「認知症が始まっているんじゃない」と言うのだが、そうでも無さそうなのである。
記憶は高齢になると古い昔の記憶は残り、近時の記憶が再生されなくなるのが一般的であるし、予定の記憶(展望記憶)はもっと早期にダメになるはずなのに、彼は約束通りに梅田駅に現れた。学生時代から変わっているといわれていた男なのだが、不思議なことである。彼と話をしていると、昔のエピソード記憶が想起できないのは苦痛だろうと今まで思ってきたが、そうではなく、モヤか霧がかかってゆくような感じなのかも知れないと思ったことである。個人差でないのならば、自分に記憶を失ってゆく時期が来てもそんなに苦に病まなくて済むのかも知れないと思うと妙に気楽になった。彼に逢ったお陰である。暖かくなったら、一緒に京都を散策しようと言うので、連絡を待つことにする。
相変わらず、論文を書く作業をしていた正月であった。海外誌だと文句を言われても腹が立つ程度が少なくて済むし、丁寧にコメントをくれるものもある。正月の作業は不採択のコメントに沿って修正をし、次はどの雑誌にしようかと考えていただけでなので、特に生産的な作業というわけでもない。電子投稿は郵便代も不要で、金もかからずに時間を消化できるのだ。
以上のような正月であった。大して記録するほどのことのない正月だったが、古い友人と再会できたのは嬉しい出来事である。
2024年の瀬に
あと数日で2024年が終わる。後年の資料とすべくメモしておく。
元日には輪島で大地震があった。10年ほど前に実習校挨拶のついでにレンタカーで回った綺麗だった能登半島海岸部の景色を思い出していた。年内に国道だけは普及させられるというニュースを数日前に読んだ。人口が少ない地域のニュースは早くに消え、反比例して復旧には時間がかかることを再認識することである。
2月頃には、柑橘類のピール作りに夢中になっていた。4月の中頃まで9回も作っているのが記録してあり、どうしてあんなに夢中になったのだろうと不思議である。冷蔵庫には、もう瓶一つになったが、食べきれずに残っているものがある。文旦、柚香など色々な種類で作ったが、「ゆず」が一番というのが結論である。大量に送ってくれた義姉は畑をやめたらしいので、おそらくもう「ゆず」は送ってこないはず。マイブームは、結局ブームであったということだ。
4月から6月にかけては叙勲できたおかげで、祝ってもらう機会が数多くあり、ご無沙汰している人たちに再会できた。中学時代に好きだった人にも会うことができた。郷里の親戚らが集まってのお祝い会で誰かが僕に「成功者」という単語を言ったことがある。。勲章をもらうことが人生での成功ではないが、「成功」と言う単語を大昔(大学3年の時)に目にして記憶が急に蘇ったことがある。何故覚えているのか不思議だが、昨年亡くなった水嶋義次君と東北三大祭を見ようと、信州でのグリークラブ合宿解散後に出かけた道中での話である。弘前の「ねぶた祭」を見る目的で、青森県の大鰐温泉駅のホームに2人が降りて、さてどこに宿を取ろうかと思案中、担いでいるカゴを下ろした行商姿のおばあさんが話し掛けてきて、「うちに泊まれ」と言われ、厄介になったことがあった。「学生さんは大事だから」とのことであった。一人暮らしであること、ご飯を新たに炊いてくれたことを思い出す。「明日も帰ってこい」と言われて、大きなお握りと焼イカおかずの弁当を渡されたのであった。おばあさんは知り合いの旅館に僕らを連れて行き、ただで温泉に入れてくれたりした。「人情」という今や死語が生きていた時代である。帰阪して水嶋と相談し、お礼に電気あんま器を送ったところ、達筆で長文の書状が来て、そこに、「あなた達はしっかり勉強するように。そして、make Japan great againのようなことと、将来、きっと成功する」と書いてあった。名前は「長利つき」と言う人であった。戦争で悲惨な経験をした人なのだろう。この手紙は、大学に職を得たのちも研究室の机上の左側の文箱に入れてあったが、いつの間にか失ってしまった。
その頃、自分の健康に自信がなかったのか、若者特有の将来への不安からか、手相を見てもらったことが2度ある。一度は東北旅行で立ち寄った下北半島の恐山においてである。「お金に困らないけど、若死にする」と言う御託宣であった。もう一度は大学祭の前夜祭でビールをたくさん飲んで、酔い覚ましにクラスメートと2人で天王寺公園に出かけ、プロの手相見に見てもらったのだ。僕には、「アンタは、技術に関係する仕事が向いている(よく考えれば、技術に関係しない仕事など世の中にはない)」、クラスメートには「アンタは寡婦の相がある」と言われた。クラスメートは「私らアベックやから、アンタが早死にすると言うことやね」と言っていた。このクラスメートは卒業した夏に病死した。もちろん未婚で、寡婦にはなれなかった。
手相見の将来予見は当たらず、素人の「長利つき」さんが、正解のようである。あっちへ行った時に彼女に伝えられれば、喜んでくれる事だろうと思うが、もう顔は思い出せない。
7月と8月には北海道の八雲町に出かけた。この研究プロジェクトに参加してもう24年目になる。誠に時間の経つのは早い。このデータの山の処理に現在も関わっていられるのは、大変ではあるが、嬉しい負担感ではある。退職していった大勢の先輩や同僚を見てきたが、著名な研究者でも実験装置が使えないので、研究が継続できないということを耳にしてきた。心理学でも実験装置が必要な場合には継続は難しいだろうから、私は恵まれている。有難いことである。
9月1日に八雲研究から戻って、2週間後に帯状疱疹で入院して以降は、いまだに完治していると思えない状態であり、今年の後半は今ひとつ良い年だったとは言えないかもしれない。もっとも、人間ドックで再検査をした最新の結果は「問題なし」であったのだから、まあ、よしとせねばなるまい。かかりつけ医にこの事を伝えたると「まだ飲めます」と言ってくれた。
八雲のデータでの研究発表する機会が年末にあった。ある財団での研修ということであった。130枚ほどのスライドを準備したが、60分話すことになったので70枚ほどに短縮して話題提供をした。話は雑駁になったのが悔やまれる。10年以上も発表する機会を逸して来たせいだ。プレゼンは自己採点70点弱の出来であった。提供した話題は冊子に起こしてくれるらしいので、きちんと修正せねばと原稿が来るのを待ち構えている。130枚ほどにスライドが増えたのは、調べ出すと次々と関連情報が見つかるためであった。講演の機会を得たおかげで、ずいぶん新しいことが学べたのは嬉しい副産物であった。
その時にお会いした理事は昔から名前を知っていた人なので、存命とは思っていなかったが、「未熟児で生まれ、20歳までは生きられないだろうと産科医の父が言っていたそうですが、まだ、90歳です」ということであった。
僕も来年は、「まだ80歳になったばかりです」と言うようにしようかな。
孫の誕生日に仙台に出かけた
昨年は秋には、学生時代の友人と和歌山に魚を食べに出かけたが、僕の病気で夏以降どこにも行けなかったので、8歳になる孫のお祝いにと、神戸空港から仙台に出かけた。旅は順調とはいかず、Dimond 先生が実験準備にてこずっている僕に言ってくれていた、40年以上前の「Troubles make your life memorable」の言葉がpop upしたことである。
飛行機は8時20分発なので、始発のバスでは間に合いそうにないため、最近ナビを入れて、タクシーを予約できると家内に自慢していた。しかし、前日スマホ入力すると、運転手の人数分は埋まっており、不可と表示された。電話で予約せんとしたが、運転手確保が無理と断られてしまった。
急遽、京都から長男を呼び、前泊してもらい駅まで車で送ってもらって6時23分の快速で空港着、無事飛行機に乗れた。仙台には10時前に到着できた。夏に使った折に神戸空港は駅からチュックインまで直ぐだったので、歩くのが遅い家内には伊丹空港より楽だろうと気を使ったのが裏目に出た。
2ヶ月前、飛行機の切符をネット予約した時、10時20分発とあったので、これは都合が良いと思ったのだ。虫が騒いだのか、2週間ほど前にチケットを確認した(こういうことは大事!)チケットは仙台→神戸であることが判明。文字が小さくて誤読していたのだ。変更でことなきを得たが、変更便は早朝になってしまったのだ。確認しなければ大変なことになっていたはずで、ラッキーであった(?)。早朝の飛行機は家内には不評で、今後神戸発は不採用となろう。帰りは神戸では遅くなるので当初の予約通り伊丹着で帰阪した。
孫たちに逢うのは夏以来で、背丈も伸び、順調に育っている様子が確認できて嬉しいことであった。6年生の長女は大人びてきて、自分の部屋でいる時間が増えた。2年の男の子は1歳8ヶ月の妹とママを取り合う気配が残っていたり、宿題がなかなか手につかなかったりで、俯瞰して見ていると、親ではないので、微笑ましいと感じたことである。1歳8ヶ月の妹は、発語数はまだ少ないが、兄とは違って何でもよく食べる。元気で、気は強く、「ダメー」と、ちょっかいを出す兄と競いあうのだ。
到着した金曜日の夜はパパが当直ということで彼のベッドで寝ることになった。アルコールが入っていて、一眠りした頃に「一緒に寝る」と男の子が布団に入ってきた。すると(しばらくしてストンと寝てしまったけれど)「ダメー」と僕と兄の間に割り込もうとするので一騒ぎがあった。自分の息子と同衾した記憶はあまりないのに、翌日もゲストルームのシングルベッドに男の子はやってきて一緒に寝る羽目になった。動くし、暑いしで、ほぼ寝られなかったが、その間、「翌朝、寝られなかったというと、この子が傷つくから気をつけねば」とばかり考えていた。こんな思いやりの気持ちを持つようになったことに、自分自身が一番驚いたことである。
都合5泊したが、PCは持参せず、学校から帰ってきた孫たちが宿題をするのを待って、姉と弟が通い始めたテニス・スクールへの往復徒歩20分ほどの送迎(+1時間寒い中を待機)だけが仕事であった。昔なら、こんな時間の過ごし方は考えられず、孫の魔力なのか、歳をとると変われるものである。
孫が学校に行っている日は8年ぶりに元同僚のO先生と会い、仙台駅前で昼飯を食べた。お互い、「退職後の生活スタイルにも慣れたね」と言い合った。彼も色艶は以前には考えられなかったほど良くなっていたので、お互い務めはストレスだったのだ。別の日には、盛岡に鷲の尾酒造(八幡平)の酒を買いに出かけた。この会社の(かなり高価な)吟醸酒は絶品である。(発売量が少なく、なくなると困るから)銘柄は教えないことにする。旅行中の6日間は天気良くて、気分転換になった。
翌朝、溜まっていた郵便物に人間ドックの検査結果が届いていた。検査結果は、大抵は基準値スレスレなのだが、内科、眼科、耳鼻科、泌尿器科への紹介状が4通入っていて精密検査の推奨であった。予想はしていたが、憂鬱ではある。丁度、薬をもらいに行かねばならずかかりつけ医に相談し、一箇所だけ、精密検査に行くことにした。
楽しいことの後には、そうでないことが待ち構えているものである。禍福は糾える縄の如しとは真理だと思うことしきり。もっとも、今まで幸せな日が多かったので、これから少々辛いことが起きても甘受せねばなるまいとは、今は考えている(知らんけど)。ちなみに、帯状疱疹の後遺症の痛みはわずかになってはいるが、残存。寒くなり、カイロと腹巻きが欠かせませぬ。
病状その後
前回、入院騒ぎのことを書いたので、その後どうか知らんと思ってくれる人もあるかもと思い、報告いたします。
帯状疱疹の方は、もう5週間以上経つのに、まだ完治はしない。昨日は診察に行ったが、もうしばらく痛み止めと神経損傷対応の薬をもらうことになった。瘡蓋は全てなくなったのだが、超低音が響くような感覚や時折ピリッと鋭角的な痛みが左腰に走る。これでも、5日前くらいからはその程度は目に見えて(この表現は正しいのかしら)良くなっている。来月の終わりには孫の誕生祝いに行くことになっているので、それまでには完治させねばならないと考えている。
ある研究財団から講演の声がかかった。12月に入ってのことでまだ時間はたっぷりある。9月に学会発表し損ねたネタがあるので(もう人前に出るのは避けたほうが賢明かもしれないが)、思わず承諾してしまった。コロナ感染の疑いのために、発表を準備にしていたのに突然キャンセルした経過があってのZeigarnik effectということなのだろう。
9月の学会では、80歳以上で5-60歳レベルのエピソード記憶を持つスーパー・エイジャーの話題を話す予定だった。学会発表は7分なので、内容を10倍ほどに膨らませねばならない。その作業を、2週間ほど前から時々来る痛みを宥めながらやっている。
スーパー・エイジャー研究が急に増えた印象があるので、その経緯がふと気になり出し、スライド作成作業を中断して調べてみた。いくつか論文を当たっていると、どうやらハーバード大学の神経学の教授だったMeslamが1998年に書いた大部の展望論文(40ページ300引用文献)で提唱した、感覚が認知に至る経路の神経ネットワークモデルの確証データを彼の研究チームが探しているというのが背景らしい(勝手な思い込みかも)。
Meslam教授は1980年代に活躍した失語症研究で著名であり、日本の神経心理学会の発表で何度も名前を耳にした人である。50歳前にシカゴの新設医大に移ったらしく、そこで2010年代から脳画像を使ってスーパー・エイジャー研究を進めているらしい。
当節は本当に便利で、Meslamの名前でネット検索すると、アメリカ神経学会が発行しているオーラル・ヒストリーのPDF版が見つかり、読んでみた。詳細は紹介できないが(よくわからない略語や人名が多い)、1945年生まれでイスタンブール生まれと答えている(どこかで1946年生まれという記事を見た記憶があるが、本人の談なので、こちらが正しいはず)。英、仏、アルメニア、ギリシャ、スペインなどいくつもの言語ができ(これはイスタンブールが国際都市でそこに生きる人は大概そうかもしれないので、驚くことではないかのもしれないが)、アメリカの大学はM I T、コロンビア、イェールの4大学全てに合格し、一番古いのでハーバード大学にしたという。とびきり頭の良い人は世の中にいるものである。
僕と生まれ年が同じということと、1972年に初めて論文を書いたというくらいが共通点だが、読み進めていくと、この辺りから共通点は無くなっていく。30代半ばで2万ドルを3年間という奨学金を得たと話している。インターネットでは、昔の金額から現在の金額を出すアプリが無料で提供されている(確か大手の金融機関から)ので、調べてみると現在の20万2千ドルという額だ。今の日本に当てはめると、3年で1億ほどのお金を、まだ海のものとも山のものともわからない若者に出したのだ。こういう仕組みが当時からアメリカにはあったのである。それで、アシスタントを雇って研究を進めたと話している。
比べるのもおこがましいが、翻って自分が45歳の時に初めてもらった科研費は、パソコン1台を買ってなくなる額であったなあ、被験者集めも実験装置作りも、実験もなんでも自分でやらないとデータは得られなかったなあと、ボー然と、呆れながら回顧するしかない。30歳代に大金を投資してくれたらなどと大それたことを言うつもりは毛頭ない(その後、ずいぶん長い間研究費を頂いたので有難たかったと感謝だけであります)。
トルコから来て10年ほどのMeslamは、何かお金を産むことにつながるとは思えない基礎研究をしていた若手研究者に、その出自に関係なく、法外な(リターンを期待しない)投資をする文化が、アメリカにはあるという事である。どっちが良いとは一概には言えないが、日本は全体として底を押し上げるというベクトルで大学での研究・教育があり、アメリカではてっぺんの研究者をもっと引き上げると思想なのだろう。日本も最近アメリカ風な取り組みをし始めたが、規模が違うし、どうなることやら。出る釘は打つ風潮が依然としてあると思うので、すごく優秀だと思う若者は日本から外に行く方が良いのかもしれない(失敗しても知らんけど)。
彼は沢山の研究者を育てましたねという司会の発言に、「自分は、教育はしてない、スタッフが偉いだけ」と言っていたし、「研究費に困ったことはない」と言う。研究費集めに苦労することなく研究アイデアだけを生むのが仕事だったようで、羨ましいことである。
ふと、研究財団での講演時にこの話題に触れ、財団からは大金を若者に注ぎ込んで欲しいと頼んでみようかな、と思ったことである。
病状の経過報告が横道にそれ過ぎたようです。まだ腰に違和感を感じつつも記述ができるようにはなっています。ご心配くださった方には報告申し上げます。
入院生活
8月末に八雲研究のため北海道に出かけて、結果的には問題なく266名の資料収集ができた。結果的にと勿体ぶるのは、台風10号のために飛行機が飛ぶのかどうかでヤキモキ、そして、この台風は速度が極端に遅かったり動かなかったりで、帰路の飛行機が飛ぶのか毎朝flight予想を見つつの、全員がヤキモキしての作業であったためだ。9月1日に予定通り飛行機は飛び、出張は終わったのです。
ここで「めでたし」とはいかなかった。出張疲れのせいか胃腸の具合が悪く、膨満感、オナラが出ない状態があり(9月にはひどい下痢を3日ほどするのが夏の終わりの恒例)、絶食を3食してやっと回復したと思っていた矢先、9月13日の夕方から左腰部に湿疹のようなものができた。触るとざらざらしているが痛くも痒くもない。なんだろうと思いつつも放置していた。
9月15日は老人の日ということで孫らとFace Timeをした。その際に次男に腰部を見せると「帯状疱疹だろうから、皮膚科へ」ということであった。この頃はまだ、腰を触るとざらざらで、面積が広がっている感じだけであったが、その晩から痛みが出てきた。眠れないほどの痛みと、違和感が出てきた。あいにく連休で、苦悶しつつ17日火曜日に病院に行った。「帯状疱疹です。ひどいですね。即入院です」ということになった。
僕の知識では、帯状疱疹は「発疹が出て、それが痛くてたまらない」だったので帯状疱疹を疑わなかった。痛みの出方は人それぞれであることを理解した(当たり前のことだけど)。
入院初日から3日ほどは左腰部から下腹部まで、まさに帯状(10cm大)に紅斑が広がり、痛み止めはあまり効かず(4−5時間しか)、よく眠れない状態であった。この頃の痛さはちょっと文学的な表現(?)で言えば、「海水浴から帰って風呂に入った時、日焼け止めを塗り忘れた部分のヒリヒリ痛」で、これが続くのであった。そのあとは、ピリピリ感の方へ痛さは移行した。
帯状疱疹は標準治療が決まっていて、3日目からだいぶマシになった。毎食後痛み止めを3錠服用、寝る前に別な痛み止めを1錠、そして、抗ウイルス薬を8時間おきに7日投与した。下腹部に紅斑、水泡があるので、ベッドに座るわけにもいかず。また、点滴中(2時間)は腕を動かすと落下速度が変わるということで、仰向けにずーと寝ているのであった。
8日目の24日に退院できた。まだ1週間ほどは痛み止めを服用せねばならないが、痛くて働きをやめていた頭脳の方は回復している(ので、これを書いている)。
現在は、少しまだ水泡が残っているので、軟膏を塗る+鎮痛剤を飲むが、しばらく続く。治療法が確立しているので、心配はしていない。疲れで免疫が弱っている状態だったのでしょう。その疲れに耐えられなくなっているのは、加齢による体力低下であることは間違いない。
今回の入院で学んだこと。①痛くても、何も考えられなくても、時間は過ぎてゆくということ。②病気の初期症状は個人差が大きいので、固定観念で対応すべきでないこと。帯状疱疹をやったという看護師の話では、痛みでなくモゾモゾ感がしたという。自己受容感覚には個人差があるし、表現は多様だということ。③ WiFiが繋がる時代となり、T Vを見ずに過ごす時代になり、Lineで連絡を取り合い、U―T U B Eで暇な時間を紛らわせることが可能になったこと。④T Vで宣伝している帯状疱疹のワクチンは5万円だそうだが、感染してみると安いので、勧めます(打っておけばと思っても後の祭りであります)。⑤入院した病院は食事もよく、ビジネスホテルで3食付きと思えば思えないこともないほど、意外と快適であった。病院は全て同じではないだろうが、入院=暗い、陰湿なということはなかった。最近の医療制度も改善してきたのかな(知らんけど)。⑥2週間もアルコールなしでも生きていけることがわかった(アル中ではないのだ)。などなどであります。じっくり休むと色々学びもあると言うことであります。
と言うことで、年齢の割に自分は元気であると言う自己認識は当てにならないのは真理でありまする。
8月、酷暑の夏
今年の8月はともかく酷暑であった。地球の温暖化の影響ということだが身体に危険なレベルの暑さであった。最高気温が35-38度でクーラーをつけっぱなしである。まるで東南アジアの国の夏だ(2-3回しか経験してないけど)。
昨夏は酷暑の中をU S Jと白浜ベンチャーワールドとに孫らと一緒に行き、体調をおかしくしたので、今年は涼しいところで1週間を過ごすことになった。次男は仕事が多忙ということで同行せず、3人の孫の相手を任されることになった。宿舎から遊園地、釣り堀、牧場などに毎日車で送迎したが、気温は28度未満であったので昨年に比べればずいぶん楽ではあった。しかし、体力は6年生の孫娘に負けていることに気付かされた。彼女は1.5歳の孫娘を軽々と抱いて平気で歩いていたが、当方に時々押し付けられた時は何とか凌いだが、夕刻、腰に湿布を数枚貼らねばならなかったからである。2年生の男の孫は、トランプ、将棋、UNO、フリスビーと次々遊び道具を出すが、1回やるともう気が済むようであった。花火もやった。おそらく来る前に色々考えていたに違いない。準備したことを全てやろうとしていた。一緒に風呂に入るのを決めていたようで、ビールを飲みたいので、一人でシャワーを済ましたら不満で、悪いことをしたと思い、翌日からは一緒に入ることになった。こういう彼の行動を、可愛いと思えてしまうのである。
何でもできる姉は宿題をさっさとやるが、男の子は、ママに色々言われてもなかなかやらない(パパがいるとそうでないらしいが)。その様子を典型的な兄妹の夏休み風景と面白がっていた。
男の子の希望で岩魚釣りができる釣り堀に行った。姉の方が2匹釣れた時にやっと彼の竿にも魚が掛かったのだが、ブドウ虫の餌のついた姉の竿が彼に引っ掛かり、虫の嫌いな彼はパニックになり引き上げることになった。岩魚はその場で僕が下処理をして持ち帰り、昼ごはんに焼いて食べていた。後年振り返ってくれるかは不明だが、遊んでくれる祖父母が生きている(僕のこと)孫たちは幸せである。
振り返れば、僕は祖父母と同居で、母方の親はすでに亡くなっていたので、休みに祖父母のもとに遊びに帰るという類の経験はない。お盆と正月はいつも他所の子達が羨ましかったことを覚えている。
自分の子どもには祖父母がいたので、里帰り経験をしている。しかし、遊園地にも連れて行った記憶もないし、釣りに連れて行ったこともない。子どもと遊ばねばならない時代ではなかったのだ。自分は子どもに気を遣って遊びを相手することはほとんどして来なかったのに、孫には祖父の役割を演じていた7日間であった。「こういうのが年寄りの幸福」なのだ、「自分は幸せな高齢者なのだ」と言い聞かせつつの日々でありました。
今年はパリで7/26-8/11までオリンピックがあった。日本選手はたくさんの金メダルを獲得したということだが、関心がないままに終わった。昔は、オリンピックは「平和の祭典」と喧伝していたが、ウクライナ戦争やガザでの戦争も中断できないような無力なものになってしまった。商業主義が露出し、オリンピックにありがたみが無くなってしまったためかも知れない。新しい、それも成績の基準がよくわからない種目がたくさん増えていたことも、興味関心を抱けなかった理由かも知れない。これは、新規なことに好奇心を持つエネルギーが枯渇してきている証拠なのだろう。孫娘に筋力の衰えを自覚させられ、オリンピックで好奇心の減衰を自覚した8月ということになる。朝の散歩、水泳、論文執筆にもがいている日常生活は続けられてはいるが、確実に老化は進行しているのだと思いつつ振り返る、8月の終わりであります。
閑話休題
8/24:昼ごはん後のうたた寝から目覚めると、付けっぱなしのTVではドジャーズ対レイズの9回の場面を放送していた。解説者が、0アウトの場面で、「2アウト満塁になれば大谷に打順が回るけど」と話していると、不思議なことにその通りになり、2アウト満塁で大谷の打順となった。すでにこの試合で大谷は盗塁40を達成しておりここで本塁打を打つと40-40の大記録という話であった。なんと、彼は1球目をサヨナラ満塁本塁打にした。凄いとしか言いようが無い。おそらく今後語り継がれる場面を丁度の時間帯に目覚めLive放送で見たことになる。この自分のツキも凄い(?)。
記憶―高齢者の脳特性?
2週続けて古い友人らとの食事会があり、記憶の不思議さを経験したので、記録しておこうと思う。
一つ目は、先輩から直接聞いた話。この先輩を囲んでの飲み会は、先輩の教え子から半年程間を置いて連絡が届く。先回はご本人の入院騒ぎで延期となったが、その時の事情は次のようなことである。体調が悪いので、飲み会への参加が不可という連絡をしようとしたら、携帯電話の使い方がわからないのに気づいた(これは手続き記憶の障害で行為障害と見做せる)。自分の記憶に何か欠損があるような気がしたし、今も何か記憶が欠落している気がすると言う。屋敷内の別棟にいる娘に幹事役に連絡してもらうことで、僕のところにも幹事役からメールが届いた(この時、携帯電話のブロック解除番号が分からず、苦労したということ。僕は翌日家内に番号を教えたことである)。
この記憶の怪しさは、足首が浮腫んでいたので利尿剤を大量に使ったことが原因と、弟さんの病院に入院して診断・治療されたようで、その後は特に問題がないようである(だから今回の食事会が再会できたのだが)。
このエピソードから、記憶障害は梗塞や血管破裂で脳組織が失われるのが原因とテキストに書いてきたが、血液中の成分(例えばカリウム)の適正濃度が損なわれると同じように記憶障害が起きるのを知ったことになる(利尿剤を大量摂取させて記憶を失わせる犯罪小説は可能かも知れないと妄想したが、未着手)。加えて、記憶を構成する要素として、エピソード記憶、展望記憶、手続き記憶などの要素を想定するのが現在の記憶研究であるが、最も加齢に対して頑健とされる手続き記憶がダメなのに、一番脆弱とされる予定の記憶(展望記憶)が残っていたのも驚きである(集まって、飲みたい欲求の反映でしょう)。
今回の記憶障害状況で、飲み会の予定を忘れなかった先輩のエピソードからは、「記憶を構成する諸要素を統制する中央実行系みたいなもの」の存在がありうるなあ、と考えたことであります。
二つ目の記憶の不思議さは、人物の長期記憶検索についてである。叙勲の副産物で高校時代の友人から連絡があり、長浜で食事をした。高卒以来(60年)一度もあっていないM君と、年賀状のやり取りはあるが、30年前の同窓会で会ったきりのSさん、17年前に名古屋で会ったNさん3名がメンバーで、死ぬ前にもう一度会っておきたいということになり、指定された電車に乗って出かけた。
記憶による人物同定は、最後に会った時からの時間の関数で困難度が違うのかに関心があったが、この仮説は成立せず、見てもわからないのではないかという疑いは無用であった。M君もどこかに昔の面影があり、判別は簡単で自分でも驚いた。
寿司屋で大量の料理を食べ(長浜は安い!)、恩師や同級生の誰それが亡くなったというたくさんの情報を交換した。高校の同級生の半数近くが鬼籍に入ったが、驚くことではない。
食事の後、6-7年前から描き出した水彩画を見てほしいということで、美術部のメンバーであったM君の自宅を訪問した。かなりな腕前のように思えた。その際、6年目に開催されたという中学の同窓会(僕は参加していない)の記念写真を見ることになった。
僕は誰一人、同定できる人はいなかった。70歳過ぎの高齢者の集合写真から中学生の頃の人物の判別は全くできなかった。次いで、Sさんが携帯電話を取り出し、4月に大阪の美術館に行ったときの写真を見せてくれたが、その写真と目の前にいる本人が全く同定できないのだ。写真から人物同定ができないのは僕の記憶力の問題ではなく、皇居内での集合写真を見た3人は15人程の(服装は類似してはいるが)老人群から僕を探し出すことはできなかった。
迎えに来てくれた駅で会った時に、いとも簡単に人物が同定できたのは2次元静止状態の顔と、生きている顔がもたらす情報量の違いで、顔という材料の記憶は特別!ということである。それぞれが持つその人のイメージを大事にしようと言うことで、記念の写真は撮らないことにした。80歳近い我々の写真で老いを確認するよりも、古い記憶の中にイメージを抱いていることが楽しいのではと言うことである。「またね!」と言い合って別れたものの、再会はあるのか分からないのであります。
斯く左様に、人の記憶というものを生み出す脳の働きの不思議さを味わう2つの食事会でありました。
新着の米国の学術誌に、アルツハイマーになった神経学者のインタビューが掲載されていた。徐々に進行する認知症の症状の中で、ブログを書くのが早めにダメになるということが記されていた。まだ、自分は2,000字ほどの文章がまだ書ける(そのつもり)のを、ありがたいと思った次第。インタビューの最後にI’m just taking it a day at a time, and still enjoying life.(私は一日一日を大切にしながら、人生を楽しんでいる)とありました。そんな風にありたいと思うこと、しきりであります。