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久しぶりの荒天下ドライブ

 コロナ前の冬のことです。北海道の警察に研究協力依頼に行ったことがありました。知り合いの道議会議員に頼んで、警察署長に面会し協力を依頼したのです。この研究計画はコロナで中断を余儀なくされて予定通りには進捗しませんでしたが、共同研究者2名と千歳空港でレンタカーを借りて、吹雪の中を2時間走り、計画していた荒天での道路状況のビデオが撮影でき、喜んでいたのですが、八雲町で一泊した翌日は暴風雪の天気となりました。高速道路は閉鎖され、前も見えないほどの吹雪の中を地道で3-4時間ほど走り(若い共同研究者が運転して、僕の出番はなし)、千歳空港まで来ると、飛行機は飛ばず、急遽札幌駅近くに宿を取り(ぐしゃぐしゃの雪道で革靴は濡れて大変)、翌朝一番の飛行機で這々の体で帰阪したのでした。

 

1 0月初めにこの北海道の荒天を思い出す経験をしたのです。前日、講演依頼のあった自治体から連絡があり、悪天候が予想されるので、飛行機が飛ばない場合の対応の相談があり、飛んだ場合は予定変更で、空港まで車で迎えに来てくれることになりました。関西は好天続きであったので、北海道の天気予報は全く気にしていなかったのでした。

 

 実は、連絡があった前々日から三重の民宿に友人らと旅行に行っていたのです。この1泊旅行は大学1年時からの友人6人での旅で、毎年大阪市内の何処かで食事をする会を続けてきたのですが、僕が退職したので泊まりがけでということになったのです。

 

 友人が30年来通っているという有名な民宿は、大阪からは往復で500Kmを超える場所にあり、毎年この宿は話題には登るのですが、なかなか実現しなかったのです。ミシュランの星を取ったというのも頷ける宿で、確かに食べ物は豪華で、量が多くて、美味で、満足しました。お互い知り合って60年になり、バカなことばかりしていた頃を次々と回想したことであります。もちろん、全員80歳近くになっても腰は曲がらず、元気で飲み食いできる幸運を喜び合ったことであります(もっとも、卒業した夏に1人が急逝し、4人の心理学専攻の卒業生で残った3人がこの会のメンバーなのです。毎年彼女のことは話題にするのですが、思い返せば、今年は食べ物の豪華さに浮かれてしまい、早逝した彼女を話題にするのを忘れました。ゴメン!)。

 

 話が横道に逸れましたが(これが老人の認知機能特性の一つ)、 要するに、北海道の天気予報は全く気にせずにいたのです。自己中心の思考という想像力の欠如も、老人の認知機能特性の一つであります。

 

 朝一番の千歳行きは予定通り飛び、構えていたほど揺れずに着いて、迎えの人と合流して、八雲町まで高速道路を南下したのですが、途中で台風並みの強風と豪雨に出くわしたのです。車は時折横揺れで浮いているような感覚を何度も味わったことであります。この時、数年前の暴風雪下でのドライブが想起されたのです。北海道の自然の厳しさは、建物が林立する都会では経験できない類のものです。

 

 無事、予定通り講演会場に着きましたが、台風並みの天気が理由でしょう、会場での参加者は30人ほどでした(検診結果を返却するので、何時もは100-150人ほど集まるのです)。80歳以上になっても60歳代の認知機能を持つSuper-agersになるためにどうしたら良いかを話しました。自治体の健診事業は40周年になりますが、2001年に僕たちが継続中のこの事業に参加するようになって24年目なのです。最初の参加時、2001年の自分の写真を見せて(この写真はアエラのカメラマンが撮影したクレジット付きのもので、遺影に最適と当時話していたものです)、もう使えない、人は老化するものであるというツカミは受けたので、前日の長距離運転の疲労感も忘れ、気分良く、同じ町内の40 Kmほど離れた別に地区でも話したのでありました。その後、用意してくれた温泉宿で泊まり、翌朝函館から帰阪しました。昨夜の荒天で倒木があったと言うことで、予定していた特急はキャンセルとなり、函館では時間の余裕はなく、そそくさと帰阪したのでした。

 

 三重から北海道とハードな6日間を何とかこなせたので、この調子ならSuper-agersになれるかもと思うのですが、同時に「儚いのが人生と」言う蓮如の御文章も浮かんで来るのであります。

失敗エピソードの夏休み

 

 9月半ばを過ぎても32−3度と大阪は暑いので(日本中がそうだけど)、涼しさを求めて、信州のいつもの宿で過ごすことにした。3泊して、日本平の久能山東照宮を訪れた。信州から静岡に抜ける高速道路が新しくできたので、簡単に行けるようになっている。

久能山東照宮は2年ほど前に知人が絶賛していた。日光の東照宮は前に見たこともあり、比較してみたい気持ちがあり、行きたかったのだ。知人はガイドさんが無料で色々説明してくれ、徳川家康のことに詳しくなったと喜んでいた。

 

 日本平からケーブルカー5分で久能山へと行ったのだが、ともかく暑かった。3泊した22度の地点からの移動で、車はクーラーが効いているし、暑さを忘れていたのだ。

 東照宮は、小じんまりとして、それなりであったが、石の階段は急で、段差が大きく、汗びっしょりになった。観光客もかなりいたが、無料ガイドは見つからなかった。這々の体で、ケーブルカーで駐車場に戻り、夢テラスという無料の施設(隈研吾の作品とか)に登って、クーラーのありがたさを感じたことであった。

 ここからの富士山は絶景らしいが、案内員の話では、夏はほとんど見えないという。もちろん、霞んでいて富士山は見えなかった。この時は、近くの有名な日本平ホテルのビューサイドの部屋を予約しなくてよかったと思い、1,600円と高いのを承知で、昼ごはんに冷茶漬けを食したのであった。

 

 その後、三保の松原を見て、予約しているビジネスホテルに向かった。4時過ぎに到着できるので、温泉と記載してあった大浴場に入って、夕飯を食べるところでもゆっくり探すべしと、車を走らせた。

ナビ任せで走っていると、静岡駅前であったはずなのに高速に入ってしまい、気づくと焼津を通過している。おかしい?と気付いたのであった。高速を降りねばと思いつつ走っていると、ナビから藤枝市の郊外で降りる指示が出た。

 町外れのコンビニで停車し、ナビを入れ直さねばとホテルの電話番号を再確認したが、間違ってはいなかった。家内は静岡駅前のホテルの電話番号と違うと言い出し、慌てて予約サイトを確認したが、僕の入力した電話番号は間違っていない。そこで、携帯の画面を拡大すると、ここで初めて、同じホテルだが、静岡駅前でなく、藤枝駅前のホテルを予約していたことに気づくのであった。

 結局、藤枝駅前の同名のホテルに予約が入れてあり、事なきを得たが、文字の小さい予約サイトの確認を怠ったためのミスであった。これからこういう間違いが多くなるのだろうか。

 

 すっかり疲れてしまい、外に食事に出ようとしたが、依然として暑いので、夕食は同じ建物内にある寿司屋風居酒屋のようなところで食べることとなった。期待していなかったが、この店は値段の割に美味しいものが多く、怪我の功名であった。もっとも、静岡駅前と異なり、大浴場は温泉ではなかった(セット料金の朝ごはんは豪華ではないが美味で堪能した)。

 というように、相変わらず、何かの失敗エピソードが生まれる夏休みでありました。

 

 閑話休題

 宿の近くを散歩していると道路に白い花びらのようなものがたくさん落ちていた。散歩しているおじさんが、これが家に入ってくると嫌だね、というので、よく見ると2センチほどの長さの白い虫が無数に、それこそ目を背けたくなるほどうじゃじゃと道路脇の溝にいるのだ。花びらではなく、虫の死骸であった。この虫は、キシャ・ヤスデという虫で、8年に一度地下から、大量に地上に出てくるらしい。虫を轢いて汽車が止まることがあるので、この名前だと言うことである(ウキべディアによる)。気味が悪いが、地中で落ち葉などを分解してくれている、役に立つ生物らしい。2週間あまりで消えてしまうとのことで、今年は珍しいものが見られた夏休みでもあった。

 8年に一度地表に出て死ぬという生き物と出会い、自分は10倍近くも長く地表に居るが、キシャ・ヤスデのように役に立つ生き物であり得ているかと思ったことであります(ムシすれば良いのかもしれませんが)。

 

 約1,300Kmを一人で運転したので、自らの元気さを確認できた夏休みでもありました。

アカデミックな生活アゲイン

 最近40日ほどは孫らが帰郷して夏風邪をひいて長く咳に悩まされたが、10数年ぶりにアカデミックな生活に戻ったと言える嬉しい日々を過ごしている。

 

 話が外れるが「アカデミック」という単語を発すると、必ずと言って良いほど対連合でアクセントの間違い事件を思い出してしまう。

 30年以上も前のことである。今は大学教員になって、来年定年だというT君とモントリール大学でのシンポジウムに出て、その帰路バンクーバー大学の図書店に寄った。店内は広く、近くにいた店員に「アカデミック」な図書のコーナーを尋ねたのだが、全く通じなかった。二人で何度も「アカデミック・ブック」というのだが、きょとんとされるばかりで、通じない。単語の綴りを言い始めると、「オー、アカデミック」と、大きな反応で分かってくれた。発音は「デ」を強調するもので、我々の平板な発音ではダメなことを、つまりアクセントが大事、ということを思い知らされたエピソードである。

 

 最近のアカデミック生活アゲインの第1は、北海道八雲町での健診事業に8月の終わりに3泊4日で参加したことである。コロナで2020年2021年と中断していたのを昨年から再開されたのだが、コロナ感染を注意して参加者を絞っての実施であった。今年は従来通りに戻した形式で行われた。この自治体と名古屋大学の共同事業は40周年ということで、これほど長く続く事業は稀有である。関係者の皆さんのおかげであることは寄稿を依頼された記念誌にもしっかり書いたつもりである(ついでに心理班はきちんと学術誌への論文を出してきていることも記しておいた)。

 

 心理班と整形外科班は任意参加であるの受診者は少なめだが、心理班には今年は240人ほどの参加があり、縦断的な資料を蓄積できた。

 ただ、今年の八雲町は暑かった。例年飛行機を降りると「涼しいー」なのだが、大阪と大きな違いはなかった。健診会場は、整形外科班や血液データ収集班が、冷房のある広い会場を使うので、我々の使う和室にはクーラーはない。大阪が35-6度で暑いと言っても、日中仕事をする場所はエヤコンで冷やして過ごしているので、室温32-3度の中でずっと8-9時間も検査をするのは10人のスタッフ全員初体験で、大変であった。職員が自宅から持ち込んでくれた扇風機を4-5台入れても(たいていの個人宅にはクーラーも扇風機もないとのこと)、暑い空気を混ぜ返すだけであった。初めての経験であり、このことが住民健診のデータに影響しないか気になることで、これらを考慮するのも縦断研究は大切だなと学んだことである。

 

 目下、我が心理班は2020年と2021年度を除いた22年分のデータが蓄積できているのを、解析をしているところである。10年後に再受診している個人を特定し、2008年と2009年に収集している、「気持ちの上での年齢と暦年齢の差異」のデータから、10年後の認知機能や運動機能の様子を検討する課題と、記憶検査成績が50歳代の平均値を上回る75歳以上の個人を特定し、super-agersと呼ばれる日本人の特性を検討する(これは、数年前からハーバード大学医学部が始めた話題)課題に取り組んでいる。

 複数年に渡る個人データの、それも他の研究班のデータとの同定・照合はなかなか大変で、拡大したエクセル表を相手に目が霞んでくる作業を行なっている(誰かに助けて貰えばと言われるが、そしてヘルプを申し出てくれる人もいるが、作業の説明を間違いなく伝達する手間も惜しいので、自力でやっている)。こういう作業が面白いと思える自分が不思議だが(面白いのかと問われると?)、作業の進捗を考え、年齢を自覚すると、今のような自分のクローンが2人ほど欲しい。

 

 アカデミック生活の第2は、10数年ぶりに9/6からの日本神経心理学会に参加したことである。高知で開催され、350km余りの距離を車で出かけた。京大の教授の研究会に参加できないか、紹介して欲しいと臨床心理学が専門の義娘が言うので、彼に会うのが主目的であったが、この春で定年になったという旧知の私立医大の教授の講演を聞くことができ、終わってから、久しぶりに立ち話ができた。

 てんかん学が専門の彼は、発作が生じてから意識を取り戻して元の状態に戻るまでの間の「発話」を調べ、失語症患者の回復プロセスで生じる「発話」の性質の変容の類似性を主張している人である。何年もかかる失語症患者に比べて10-30分ほどで調べられることに気づいた彼に感心するばかりで、セレンディピティ(serendipity)とはこういうことができる人を言うのだろう。

 立ち話では、あまり世間に役に立たない研究は楽しいねと言って、次回どこかで再会できるかわからない、誰と会っても一期一会だと、頷きあったことである。

灼熱のU S Jの7月

 

  前回の投稿からしばらく時間が経過したのは、夏風邪を引いたことと、細かい作業を要する仕事があったからです。発熱はなかったのですが、喉の痛みが4日程続き、晩酌もままならない状態が続いたのです。咳が昨日辺りでようやく治ったので2週間続いたことになります。

7月22日に仙台から帰郷した次男一家の孫が源で、家内も、22日に集まった長男夫婦も移されました。

 コロナで昨年は中止した帰郷で3年ぶりであり、小5と小1の二人はU S Jに行くのを楽しみにしていたのです。1週間ほど前から盛り上がってLineで盛んに催し物などを知らせてきていました。数年来、信州の涼しい気候の下で合流していたのですが、孫たちはもはやU S Jの方が断然魅力的なのです。6ヶ月の3人目の孫娘も来たので、U S Jへはこの赤ちゃんの世話のために荷物番を頼まれていたのです。もちろん、僕は同道するつもりでしたが、(高価な)切符を買っていると言うので、家内まで同道することになりました。数日前までは、行かないと言っていたのですが、一緒に行くことになりました。

 言われるままに7時前に自宅を出て、8時前にゲート前に並んで、入場。ともかく暑い日で、暑さ対策は色々と次男夫婦が準備していましたが、僕たちは何の知識もないミニオン館にならぶ孫たちを尻目に、外のカフェで荷物と赤ちゃんの番をして、日陰を探して休んでいたのです。昼前のこの時点でも相当に暑く、37-8度はあった筈ですが、風もあり、耐えていられたのですが、ニンテンドー・エリアでは暑さにまいりました。孫たちの目的はスーパーマリオで、U S Jに近年付設した(らしい)このエリアに入ることでした。特別に入場規制があるらしく、入ったら戻れないということで、暑さが一段と増してきている中を、ともかく入ったのですが、このエリアは元々のU S Jに付け足したので狭いところにさまざまな遊具などが詰め込んである、暑さ対策は何もしていない、ベンチも樹木の緑もない、とんでもない非人間的な場所でありました。2度と行かないぞと固く誓える場所であリマス。

 もっとも、このエリアは人気らしく(狭いこともあってか)ぎゅうぎゅう詰め状態でした。客は大半が外国人(アジアからの)で、スーパーマリオが見える入り口のトンネルでは、「オー」と感嘆の声をあげていましたが、ゲーム自体を知らない僕には、何の感興も起きないエリアでした。実は、このトンネルだけが日陰で、他は灼熱状態(入場口の辺りと違って地面はアスファルト(コンクリートかも)で、おそらく40度くらいの暑さであったと思われます。

 家内と2人、トンネルでへたり込んで、バギーの荷物番をしていました。3時頃までは辛抱していましたが限界と判断し、我々は3時半ごろに退散したのでした。孫たちは7時過ぎまで居て、小1が2時間並んでも乗りたいと言う乗り物に乗って帰ってきたのでした(お姉ちゃんの後を追いかけているおとなしい男の子と思っていましが、この小1は意外と意思が強いことを知リました。このようなpositiveな感想は自分の子どもでは決して思い浮かばないけど)。

 ともかく、暑かったので、この時体力をかなり消耗したと思います。

 U S Jだけにしておけば良かったのですが、我々は白浜アドベンチャーワールドにつれていくことを2年ほど前から約束してあり、パンダハウスに宿泊の予約を入れていたのでした。USJから2日後に白浜まで車2台で出かけることになりました。こっちの方は初めてではなかったので、休憩所で荷物番はそれほど苦痛ではなかったのですが、涼しいところを探し回っていたものです。しかし、体力は消耗したはずで、孫の風邪への感染に対抗する免疫力は残っておらず、風邪を引いた次第なのでした。

次男一家は7泊して帰っていきました。孫たちは「じいじと寝る、ああばと寝る」とか言っており、ばあばとは寝たようです。3世代家族では祖父は疎外される存在なのは30年ほど前に助産師学生との研究で報告したことがあり、その通りであることを確認したことであります。

 

 嵐のような1週間でありました。世間で耳にする「孫は来て嬉しい、帰ってくれて嬉しい」を実体験した、Realizeしたことであります。

「誰でも体験できる感慨ではない」と自らに言い聞かせて、なかなか治らない咳に対峙した2週間でもありました。この歳になって、孫に振り回され、赤ちゃんを抱いて重さや質感を味わえ、「幸福な高齢者としての生活」を営めていることに間違いはありません。このタイトルの本を以前出版したことがあるのを思い出しました。Amazonで、まだ、買えると思います。

 

 と言うわけで、以上がしばらく寄稿しなかった理由です。

 

 7月からスペースを提供してくれる大学が見つかり、週に2回ほど9-17時で出かけ、気分転換をしながら、研究者生活を維持しています。

八雲研究の一端として、「暦年齢よりも気持ち年齢を若く推定する老年者の認知機能」についての論文を8月1日に投稿しました。と言うように、退職後も何とか元気に過ごせているので報告いたします。

6月が終わる(楽天的な32歳)

 退職してから3ヶ月が過ぎた。前々回の記事に書いたように、依然として同じルーチンで毎日を過ごしている。

 午前中は送られてくるメールや論文をチェックした後、30分程度の散歩。朝飯を食べてT Vを見た後(ワイドショー番組も長時間見るに耐えないが、エンジェルスの大谷のニュースが救い。他者を貶しあうことばかりが蔓延する当節、唯一、褒め称え合うことができる滅多に無いことだからに違いない)、論文原稿を書いたりして2時間ほどを過ごし、午後は読書と英国留学時に書いていた手書きの日記(メモ)の電子化とで、2-3時間という生活を維持している。

 

 日記メモの電子化は8ヶ月分が終わり、1978年6月の欧州旅行に出かけるところまでが、昨日までの進捗状況である(メモを音声入力して、wordを修正するのだが、滑舌が悪いことと、音声認識機能が不十分なのか、結構手間がかかり、時間が潰せるのだ)。

 

 今までの作業の感想を記しておくと、

 まず、エピソードには覚えていることや思い出せないことが混在していることに気づく。世話になったことや人名を見て思い出せる場合と、さっぱり分からなくなっていることが少なくないのに気づく。学生寮に住んだ最初の8週間は、早く研究に着手せねばという焦りばかりが記してある。そして、日本人恋しくて探し出した松下電気の社員(工場の英国進出の下拵えにドイツから転勤したばかりの幼い子づれ一家で、家族が合流した際にもよくしてもらった)の名前を失念していた。忘恩の徒と言うべきで、やはり、記録をとっておかないと40年後での記憶想起は、実に頼りない。

 そして、驚くほど積極さと信じられないほどの楽天的行動エピソードに驚くのだ。松下電気には、電話をしてタクシーで、用事もないのに(日本語が話したくて)押しかけたのだ。毎日のように何通も手紙を日本に送ったりしており、ちょっと、ノイローゼ気味だったのかもしれない。

 11月4日にヒースローで家内と子供を迎え、合流しての暮らし方が大変ということで、中古車を購入している。20万円ほどで院生から購入したFord Escort(バンで、後ろにバギーが載せられるので便利だった)は故障ばかりしている記載がある。エンジンがかからない(スターターが回らない)ことが何度も起きているのに、懲りずに車で出かけている(そして故障して、AAを呼んでいるのだ)。AAは日本のJAFに相当する会社で、何度も助けてもらっている(当時携帯電話はないのに、どうして呼べたのかは不明)。   

 自動車は故障するものという理解が当時では常識だったせいか、スタートしない車があると、周りの誰もが自発的に押しがけ(車を押して動かしてもらいつつ、エンジンを掛けるとスタートするのだ)を手伝ってくれるのだ。自分の車は故障のたびに、ダイナモ(発電機)をはじめ部品を新しくしていたので、決して安い買い物ではなかった。3歳児と生後数4ヶ月の子どもがいるのに、よくも懲りずに故障ばかりする車で出かけたものである。無謀な父親としか言いようがない。

 

 4月末には春を待ちかねてドライブに出かけている。その直前に車検を通しての出発だったが、50Kmも行かないうちにノイズが気になり出し、道中で見つけたFordのディーラーで見てもらうと、「サイドブレーキのケーブルが出す音なので、切断した」という。当時の英国の仕事ぶりにも驚くが、そのまま日帰りで運転しているのだ、ドライブは中止と考えていないのだ。もう、大丈夫と楽天的に考えたのだろうか。

今の自分は決して積極性が高い、楽天的な人間とは考えていないので、日記で確認した積極性や楽天さはどうしたことか、若さの故なのだろうか。

 

 若さとは楽観的であることなのだと結論づけてしまうと、確実に歳を取ったのだと思わざるを得ない。もっとも、「今の30代はそんなに楽観的な若者はいない」と言われると、日本が高度成長期に入った頃の時代精神がなせる業だったのかも知れない。

人を育てると言うこと

 最終講義、退職祝いなどの行事は、周りを煩わせたくないので断ってきたが、5/13日に大教大の元ゼミ生らがホテルでパーティをしてくれた。同窓会をやりたい、家内に会いたいからと言われると断るわけにもいかない(5月の連休BBQや新年会は60歳過ぎまで自宅でやっていたので、元学生らは家内の方が親しい場合がある)。

 名大に移籍する時、還暦の祝い、大阪に戻った時と何度も集まってもらったので、もう静かにfade outしたいと考えていたが、そう言うわけにも行かなかった。言うまでもなく、何度も教え子に祝ってもらえるのは教師冥利に尽きることである。

 参加者は16名で大部分が元・現役の研究者。話題は30-40歳代の僕のゼミは英文をやたら読ませた、英語で論文を書かせた、厳しかったと言うのであった。その頃、いずれ業績主義の時代が来ると言うのが口癖で、論文を書けとうるさかったらしい。

 当時は学術論文を書くことや英語論文を書くことが、今ほどやかましく言われない時代であったが、英語、英語と言っていたのだろう。僕は英語が苦手で、大学進学の際に英語がもっとできれば、というタイプであったので、コンプレックスの裏返しかもしれない。

 

 このパーティから帰宅した夜に突然、英語を書き始めた原点を思い出したのでメモしておきたい。ひょんなきっかけで、英語で文章を書くきっかけがあり、それを育ててくれた指導者がいた事を思い出したのだ。

 

 昭和40年の話である。時間割では2年次の初級実験(毎週実験をやり、次週にレポート提出。これで心理学専攻生は8人から4人になった)に続いて、3年次に上級実験という科目があった。1年間自分でテーマを見つけて実験を行い、年度末にレポートを出す、というものだ。

 皆と同じように、夏休みに論文を検索し、写真接写して(英文誌を読むように指示されていたと記憶する)、ハガキサイズに拡大した論文を読むのだ。たまたま、ラットの心拍の恐怖条件付けを取り上げることにした。このテーマは、自律神経系が条件付けられることを意味し、後に行動療法の基礎となる知見なのだが、その意義や重要性は20年ほど後で知った。当時は理解できておらず、ただ、先行研究を追試しようとしただけであった。

 計画は了解してもらえたが、「ラットの心拍を記録できる、脳波計のようなものはない」ということであった。クラブの後輩(電気科専攻)に事情を話すと手伝ってくれることになり、日本橋の古道具屋でトランスなどの電気部品をかき集め、2月ごろにやっと、ラットの心拍を増幅して記録できる装置が完成した。

 ここまでで時間切れとなり、条件付けの実験までには至らないまま、上級実験計画は「ラットの心拍を記録した」というところで終わった(翌年の卒論では、元々の計画の光刺激+電撃を対提示にして条件付け反応を立証できたが)。

 不完全燃焼の実験レポートで、心拍を記録した20センチほどの記録用紙をデータとして提出した。情けなかったのと悔しかったのだろう、3ページほどの顛末レポートは英文で提出した(元気の良い助手の先生が英文誌に論文を掲載し、威勢が良かったことの影響かもしれない)。

 思いがけず、科目担当の生沢雅夫先生は、丁寧に赤字を入れてレポートを返してくれた。英文の誤りを添削してあり、全面真っ赤で、恥ずかしかった記憶しかない。生沢先生は「優」をくれた。

 その3年後に、平野先生がカリフォルニア工科大の知人に僕の英文を送ってくれ、手直ししたものが、米国心理学会雑誌に掲載されたおかげで、助手の公募に、幸運にも、勝ち残ったのであった(これらの経緯は以前にどこかに書いた記憶がある)。

 修論を英文で公刊できたのは、平野先生のお陰だとこれまで思っていたが、そのような動機づけを導いてくれた源は、実は、上級実験のレポートでの僕の拙い挑戦を馬鹿にせず、丁寧に対応してくれた生沢雅夫先生にあるのではないかと思い至ったのだ。人を育てると言うことは、面倒でも丁寧に若者の無謀な挑戦を応援することなのだ。そういう指導者に出会えた幸運を、パーティをキッカケで確認できた事になる。教え子たちに改めて感謝したい。

 

 いずれにしても、教育の成果は何10年も経過して発現する場合もあると言う事だ。この間まで数年間悩まされてきた、「教育成果の見える化」と称し、卒業1年後にアンケートを取れなどという教育行政での要求には、たいした意味はないことは明らかである。

退職1ヶ月が過ぎた

   退職して1ヶ月が過ぎた。3月末に誘われていた何組かの食事会は、時間を持て余す可能性を考えて4月、5月にとお願いしてある。4月に入って週に1回のペースで、大阪市内に出向いる。かつての同僚(教員も職員も)と再会すると、異口同音に、毎日何をしているかと問われるので、毎日の過ごし方を報告しておきたい。

 

 通常よりも長く、73歳まで大学に勤務した先輩が、退職後半年くらいうつ状態に陥ったことを耳にしたことがあり、ストレス・マネジメントを上手にせねばなるまいと、2月あたりから考えていた。

ストレスの強さは、配偶者の死がナンバーワンと古い心理学の教科書には書かれているが、退職のストレス価も非常に高かったように記憶している。慣れ親しんだ環境が一変するわけなので、当然である。環境の変化をできるだけ大きくしないのがマネジメントとして一番ではないかと判断して、そのように心がけている毎日である。

 

 退職したら、暇だから、スポーツジムに行くとか、ゴルフを習うとか、新しい行動習慣を獲得せねばと考えるのは、面倒くささが返って心理的に負荷と思うのだ。

職場に行かない日を、これまでどのように過ごしてきたか、その通りにしようと考えたのである。つまり、退職までの土曜日や日曜における時間の過ごし方を踏襲することが一番であろうと結論づけ、そのようにしている。おかげで、今までのところ、うつ状態には陥らずに済んでいる。そして、不思議なことに、時間がゆっくり流れる割に、過去のことは遠い昔に思えるのだ。

 

 具体的には、基本5時台に起床。コーヒーを3杯分淹れる。6時台にP Cに向かい、メールとニュースをざっとチェック。その後、30-40分の散歩に出る(だいたい同じルートを辿るが、数日後に開店するスーパーの準備状況の進捗を見るために、ルートを変えることもある)。そして、朝食。30-40分T Vを見て(つまらない番組ばかりになったものだと嘆きつつ)、2杯目のコーヒーを手に書斎(と呼ぶこともある自室)に戻る。

自室で論文を書く作業とか、関連論文を検索して、pdfにして整理、と言う具合に読み書き作業をして約2時間が過ぎると、昼ごはんの時間になっている(退職したのだから昼の準備は自分でせよという無言の圧力を検知して、自分で準備することもある)。文献をpdfかできることは拡大して読めることで、高齢者には何とも有難いことである。

 

 午後は、現在は2つのことで3時間ほどが過ぎる。一つは、1977年に英国に行った期間に殴り書きしていた日記の電子化である。古いノートを読んで音声入力をしたものを自分のメールの送り、それを読み出して手を入れるのだ。滑舌が悪いのと英国の人名や地名が多いので、けっこう手間がかかる。3-4日分を1日に電子化するペースなので、夏頃までこの作業が続くはずである。イスラエルに滞在していた時の日記もあるので、当分時間潰しには困らない。2つ目は読みたかった本を読むである。新潮社刊の評伝「吉田健一」を読み直している。648ページの大部なもので、当分時間潰しにはなる。

吉田健一は吉田茂の長男で英文学者だが、酒の旨さの文章での表現力は抜群で、開高健と双璧と思っている(政治家の子供でも優秀なのは、家系図を開かせて、地盤を継ぐなどと言うことはしない)。彼がどこかに書いていた、「自分は少しも苦労せずに、つまり自分から解ろうと努力しないで何かが頭に入ってくるような情報には、碌なものはない」と、気に入っているフレーズなので、卒業式辞で紹介した。

 

 自室での時間が長くなるので、腰の状態を警戒して、5時過ぎにもう一度30分弱ほどの散歩に出る。

 

 というのが、4月に入ってからの1ヶ月の過ごし方である。夕食時にはたくさんの人からいただいた銘酒を味わっている。(おそらく高価なのだろう、高価なものは美味い!)と悦に入っているのは言うまでもない。

 

 退職記念に書道の道具一式をもらったのだが、以前の生活様式を踏襲することに専心しているために、まだ、開封せずにある。この調子では、何時になるのかしらと、思うことである。

最後の卒業式を終えて

 

  3月23日に最後の卒業式を行なった。コロナ感染防止策として昨年通り300名程度のサイズになるように学科を群にわけ、10時開催と13時開催の2回に分けてである。天気予報では雨となっていたので、着物姿が多いはずで気の毒な場面を予想していたが、午前の部はほとんど降らず、午後も小雨が時々降る程度で安堵した。マスクの着脱は自由としてあったが、7割ぐらいは着用していたように思う。

3年間のコロナ対策で遠隔授業やマスク・手洗い、クラブ活動や飲み会の自粛など、青春を謳歌すべき時期に不自由な学園生活を強いることになったが、2020年4月1日には学習支援ソフトmanabaのアカウントを新入生にも配布できており、他大学でのような、数ヶ月の自宅待機というような措置を講じることなく済んだ。学年暦通りの教育活動がコロナの3年間でもできたのは幸運であった。

 

  大学を去るまでの期間が少なくなるにつれて、どういう気持ちが生じるのだろう、眠れなくなるのかもしれない、卒業式で感極まるなどということになるのかと想像していたが、24日の理事会・評議員会を含め、主な行事は終わったが、全くそういうことは起きずに、淡々と気分の高まりも落ち込みもなく、終末までの時間を送っている(高齢による感情鈍麻かも知れないけど)。

卒業式では、『新しい旅立ちに不安もあるかも知れませんが、この先に何が待ち受けていようと、新たな環境のもとで、これからの人生を、皆さんはしなやかに、強かに生き抜いて欲しいと考えます。そのためにはまず「自らが動くこと」、そして「他者を頼ることに躊躇しないこと」が秘訣だと思います。何の準備も意図もなく、何気なく歩いていて気がつけば、チョモランマの頂上にいた、ワールドカップでスペインに勝利した、W B Cで優勝していたとかいうようなことはありえません。「意図を持って日々努力することでしか、物事は成就しない」のです。「自分は少しも苦労せずに、つまり自分から解ろうと努力しないで何かが頭に入ってくるような情報には碌なものはない」という格言を思い出します。さらに、自分で動いてみて、行く手に不安を感じたとき、うまくいきそうにないと判断したときは、他者に頼ることに躊躇しないことです。

  日本人は,主に稲作栽培で生き延びてきました。連綿たるその歴史の中では知識のある外国人や先達に自ら教えを乞い、頼り、そして、絶えることなく次世代にその知識やわざを伝えることで今に至っているのです。多様性を認めながらの共生社会の原型はここ柏原の地が賑わっていた、1500年以上前の飛鳥時代に見ることができるのかも知れません。先輩、友達、親などの他者に頼ることに躊躇せず、困ったときには頼ってください。もちろん頼るべき選択肢に、皆さんと一緒に学んだ本学教職員も含まれています。そして、そのうち、頼られる大人になって下さい』と訴えた。

『さらに、これまでも卒業生には、一貫してお願いしていることですが、皆さんは、福祉社会の実現に科学の目を持って取り組むことを理念とした大学を卒業します。福祉の基本は平和であることが第一の条件です。私には、昨今、我が国に平和から乖離する方向性が芽生えているような気がして、危惧しています。皆さんは将来何があっても平和を志向し、「全ての人の幸せを願う」を忘れずに行動してほしいと思います。「正しい」という尺度は時代により変わりえますが、「平和を希求する」ことと、「他者のため、世のために役立つことをなすことが、人間にとって最高の行為である」という考え方は、時代を超えて普遍であろうと思います』と結んで、式辞とした。

 

  式典の時間を30分程度に短縮しているので、思いの丈を存分にとはいかなかったが、本学の学生の特徴を考えた上での挨拶文としたつもりである。9年間も若者に卒業式で自分の思いを述べられ、幸せな高齢者だと思う。27歳で教育公務員助手から始まり、講師→助教授→教授→学部長→学長と全ての職階を経てきた。元気でなんとかこなしてこられたのは関わりのあった全ての人のおかげである。

 

  3週間ほど前に父親の法事の際に、「余生でなく、他人にサービスする与生」を過ごすようにと年若い住職に言われた言葉が耳に残っている。そうありたいものである。

 

  元職員や元学生が退職を機にと、飲み会をしてもらっている。まだ、お酒を飲める体力に、そして、少しも変わらないですねというお世辞に気をよくしている年度末である。

 

  28日には職員が集会を開いてくれるらしい。その時に惜別の情、極まって、というような姿を見せるのを期待されているのかも知れないが、上手く演じられるか、心配というのが退職1週間前の現状であります。

部屋の掃除と片付けの日々

 現在の居室から荷物を整理する作業を進めている。3月25日には学外者とのWEB会議があるので、ゆっくりの整理でも良いかと思っていたが、事務からは3月14日ごろまでにほとんどの作業を、と言われている。引越し業者のスケジュールにより、次の入居者の荷物が入れられないためらしい。この季節は、昇進や移動で研究室の玉突き状態が生じるのだ(講師は2人部屋から個室へ、学部長はすこし広い目の部屋があてがわれるのです)。

 それでは早々に部屋を開け渡し、残っている年休で骨休みを、ということには残念ながら、ならない。3月末までルーチンの会議や入学試験、法人内の短大、高校、幼稚園の卒業式があるので、休むわけにはいかないのである。

 

 2週間前から少しずつ整理を始めた。引越し業者に丸投げできるほど作業は単純ではない。前々任校→前任校→今の大学と、2度引っ越しは経験したが、今度は終点の自宅になる。極力荷物はこの場所で整理しなければならない。貸し倉庫に保管という選択肢はないことにしてある(遺品整理に子供を煩わしたくはない)。言うまでもなく、自宅に十分な保管スペースが確保できるわけがない。

 

 手伝いますとの声はかけてくれるが、かえって時間がかかるので断って、自分でやっている。職員もルーチンの仕事があるので気の毒だし、何より「これはゴミ」、「これは残す」、「これは検討する」などを、即座に指示するのは面倒なのだ。

 

 部屋の荷物は、①進行中の研究関連の検査器具やデータ、②書籍、③その他諸々(古い備品、文献資料、など)に大別できる。全2者は、元学生の勤務する大学に送りつけた(スーツケースとダンボール10個ほど)。荷物の開封時には手伝うと言って、問答無用で送付した。②の一部は図書館職員に委ねることができた。問題は③である。古い備品、資料などは、実は目に触れない戸棚や引き出し、ファイリング・キャビネットにあるのだ(大切なものはしまい込んでしまう無意識行動の証である)。この整理に意外と日数を要している。立ちっぱなしの作業なので、腰が痛い。

 

 出てくるものは、古い記憶がよみがえるものが多い。振り返れば、50年の研究者生活は手書き謄写版→青焼コピー→乾式コピーを経験し、ペラペラの5インチフロッピー、3.5インチのフロッピー、MO、USBと記録媒体の進化プロセスを辿る道であった。情報センターの尽力で3.5インチ以降の記録はほぼ読み出してもらい、別途記録し直すことができた。3.5インチは4MBだったのに、今や2テラの記憶媒体なのだ。適当な言葉も出ない変化である。よくぞ対応して生きてきたものだと思う。

 

 30代の頃の海外との交流書状や写真で、残してあったものは、pdf化した(後で見直すことなど多分ないだろうとは思いつつも)。交換教授でイスラエルに昭和58年に出張したおりの書類には、飛行機運賃が95万(エコノミー)で、日当が60米ドル/dayとあったのを見つけたりすると、当時のテルアビブでのエピソードを回想して作業は捗らない。

 

 院生の頃から文献カードを作っていたが、そのカードが出てきた。外国文献社のカードはホールソートできるようになっている(エクセルの並び替え機能の原型)ので当時の研究室では流行していた。5,000枚が一箱で、それ以上の枚数が残されてきた。これまでの引越しでは捨てるに忍びなかった山のようなカードは、廃棄した。山積みのカードの写真は残した。文献を複写して読み、カードに整理する作業で、研究していると実感していた、そんな時期があったように思い出す。現在、文献はpdfをPCで画面を150-200%拡大すると、読むことができるので、有り難い。もっとも、昔のままであれば、老眼が進んで文献が読めなくなったので、研究者引退!と言えたはずで、それも良かったかも知れない。

 

 まだ、古いPCや周辺機器の整理が残っている。電子機器が活用できるようになって次々と新しいものを購入し、廃棄し、また購入と、随分と費用を使ったことを思い知る。いただいた研究費に相応する成果が出せたかと問われると、「もちろん」と言う勇気はない。しかし、20名近いゼミ生らが研究者に育ってくれているので、彼らの成果をひっくるめれば、「トントンです」と言えるかも知れないと、都合よく、思うことである。

 

 そう言えば、先週、退職を知った教え子の一人が東京から、出張帰りに高槻で、一席設けて、労ってくれた。教師冥利につきるというものである。まだしばらくは、部屋の掃除と片付けの日が続くのです。腰にカイロを貼っての作業であります。

 

寒波到来の月末

 

 1月23日からの週は10年に1度の寒波襲来という天気予報の通りになった。おかげで、いろいろなことが起きた。仙台に3人目の孫が生まれて、家内が手伝いに行って不在のこの期間は、一人でなんでもせばならない多忙な時期となった。

 まず1月23日(月)。昼過ぎの会議中に突然左の耳が聞こえにくくなった。ちょうど飛行機に乗って気圧が変わるときに経験する耳がツーンとする感じになってしまったのだ。口を大きく開けたりすると聞こえが戻るが、それもそのうち有効ではなくなり、一晩寝れば良くなっているかもしれないという淡い期待を抱きながらも、木曜日に病院に行こうと思って帰宅した。

 翌24日(火)は午後から夕方にかけて気温が極端に下がるという天気予報なので、迷ったが車での通勤をあきらめて、入試のための8時の職員朝礼に出るために、朝早く出勤した。耳のことがだんだん気になりだし、18時からの会議まで時間があったので、保険証なしで、大学近くの耳鼻科に突発性難聴ではないかと診察してもらいに行った。なんと左耳に耳垢が詰まっていたのが原因であった。2ヶ月ほど前に病院で耳の精密検査を受けた時、左右の耳垢を専門医が取ってくれたので、どうして急に左耳に垢がたまったのかは謎である。しかし、聞こえ難くさはなくなった。突発性難聴かもと、心配していた自分がおかしいくらいで、自分はラッキーと思ったことである。

 予報通り、午後から雪が降り始めた。早く帰りたかったが、18時過ぎからの会議で、19時過ぎに大学を出ることになった。雪は大したことはなかったが大阪駅に着くと、JRは雪のための遅延でダイヤは乱れに乱れていた。60分遅れ70分遅れの表示を横目に新快速に乗りこむと、運よく2・3分で出発した。ところが途中で信号待ちが何度かあり、高槻駅には45分程の遅延で到着した(隣の線路を各駅停車が何度も追い越して行った。各停に乗れば遅延なく済んだのだが)。その頃の高槻は吹雪で、バスを待っている間も地吹雪のようであった。21時頃にやっと帰宅し、急いでお風呂沸かし、レトルトご飯とカレーでお腹を満たして床に着いたのであった。このときも、車で通学しなくて良かった。夏までには新しいタイヤに変えなきゃいけないと思っていたので、この積雪では運転は難しかったかもしれないと、自分の判断に、ラッキーと満足していたのであった。翌朝のテレビは、前日20時頃からJR新快速は高槻から山科あたりで信号機の氷結で何本も運行できなくなり、6時間も8時間も電車の中に閉じ込められたと、ニュースを報じていた。自分も30-40分遅ければ、缶詰状態にあっていたかもしれない。自分はラッキーだったのだ。

 翌水曜日は会議が多く、特に人事教授会などが予定されていたが、自宅周辺の積雪は10cmばかりで、市営バスは運転を見合わせ11時後まで動かなかった。JRも同様に運転を見合わせてみたため、大学には出勤しないことにした。木曜日は研修日なので2日間の休日となった。家内に言われていた風呂掃除やゴミ出し、トイレ掃除などで一日を費やした。文句を言われずに済んでラッキーと思ったことである。

 

 1月28日土曜日には生まれたばかりの孫娘を見るために、飛行機を予約してあった。朝の7時半ごろのバスで阪急電車を使い、モノレールで伊丹空港に行く予定でいた。早く準備ができたので、迷ったが、6時50分のバスに乗った。この日も寒く、道路は前日の雨が凍り、バス停まで荷物を持ちながら、やっとたどり着いたのであった。バスは定刻に来た。空港には余裕を持って着けると思っていたら、バスは、5分程で駅にたどり着くあたりまで来たが、「陸橋上でドラッグが横転したため通行止めです。降りてください」ということになった。阪急の駅まで荷物持ちながら凍っている道路をおそるおそる30分ばかりを歩いてやっとたどり着いたのであった。予定していた時間のバスであれば、バスは不通で空港には予定通りつけなかったと思う。なかなか、ラッキーと感じたことであった。

 

 仙台で予定どうり、孫娘に会うことができた。生まれたときの体重が少なかったので退院は遅れ、自宅に戻って3日目であった。赤ちゃんは思ったより大きく(見えた)、よく飲み眠るので安心した。仙台は雪こそなかったが道はまだ凍っている部分が多く、外に出ず、孫の相手をして過ごした。6歳の孫(男)は慣れてくると、ここぞとばかり体をぶつけてきたり、夜一緒に寝ると言う。およそ一年ぶりの孫との再会を果たし、祖父としての幸せな感情を満喫した。

 

 31日(火)に家内と帰阪した。疲れてるので、タクシーで帰ることにした。代金は6,000円ぐらいかと思っていたが、中国自動車道が工事中で阪神高速経由ですと運転手がいう。伊丹から豊中IC+吹田ICを経由しての道のりで、3角形の長い方の2辺を通ることになった。料金は2倍になった。ラッキーとは行かなかった。

 

 この10日ほどの間に、自分はついているな、ラッキーだなと思っていたが、タクシーの件を含めると、必ずしもそうでもない。そんなに良いことばかりが続くわけには行かないのが人生なのです。

と、いう具合に、寒波襲来の1月末はあっという間に終わったのでした。