あっという間の9月であった。 | はったブログ

あっという間の9月であった。

  9月は何をしたと言う記憶がないのに、あっという間に終わってしまった。9月の最終週まで大学は夏休みなので学生の姿もまばら。コロナ感染の心配も少なく、大した事件が起きなかったこともあるが、時間が早く過ぎると感じる老人の心的特性のせいかもしれない。

昨日の出来事がかなり昔のことのように思えたり、早朝に泳いできた日曜日の昼過ぎには、その事実もかなり以前のことのように思えたりする。年をとると過ぎてしまったことが、物理的な時間よりも以前のことのように思えることは、よく知られた記憶錯誤現象だが、「過ぎてしまったことは仕方ないじゃないの」という、菅原洋一の歌じゃないけども、高齢者の適応メカニズムなのだろう。喜怒哀楽の感情を長く継続させなくて済むことで、エネルギーを消耗させないで日常の生活を安穏に過ごさせるメカニズムかなと思う。

 「安倍晋三は家庭を崩壊させた元凶である」と信じ込んで、その怨念を何年間も継続させて復讐をするというようなことは、若者だけが可能なのだろう。その後の社会事象からは「一点突破、全面展開」と大学紛争時に耳にした慣用句が記憶からポップアップしたことである。9月27日に、国葬という形式で葬儀が行われたが、賛否が別れる行事なので大学で何もしないという選択をいち早く通達した。

 

  怪しい記憶でも、想起させるのは加齢防止に有効と聞くので、何をして時間を過ごしてきたかを振り返えろう。大半は過去の八雲研究のデータベースをいじって、肩を凝らし、手を強ばらせて、目を霞ませながら毎日を過ごしていた9月であった。

最近の高齢者研究では、80歳以上で5-60歳レベルの認知機能を維持している人をSuper-agersと呼び、この人たちの脳画像で、神経細胞層の形態や神経連絡の特性を検討する発表が増えている(ように思う、多くの研究者ができることではないので、限られた研究拠点での大人数での共同研究なので、僕の錯視かもしれないが)。

お金のかかるの脳画像研究は無理だが、Super-agersが壮年期、初老期にどのような認知機能特性だったのか、どのような日常生活を過ごしていたのか、血液検査や尿検査から見る生化学的な特徴はどんなものか、などの疑問は必然的に次々と浮かぶ。

この種の検討には我々の八雲研究は挑戦できると思い、挑もうかと思案している。縦断的資料を持たない研究グループにはできないはずであり、追従研究は出そうにないからだ。

  自分自身がSuper-agersになれるかは別にして、この検討テーマを研究グループの後輩たちが挑戦できるように、基礎的なデータベースを作っておこうと3週間ほど前から取り組み始めたのだ。心理班は既に21年分の高次脳機能縦断検査データを電子化しているが、最初の2-3年間は、縦断研究を計画して同一の検査項目を同じやり方で収集してきたわけではない。そのために、各年度ごとに注意や記憶などのデータが揃っているかを確認して、同一の形式でデータを揃え直す必要がある。

2001年からのデータ整理をし始めたが、なかなか厄介で、ある年度では、受診者氏名が漢字とかな読みが併記してあり、漢字表記だけの年、カタカナ表記だけの年があったりする。平均して300-460人くらいが一年間に検査を受診してくれているので、それらを揃えるのは意外と大変なのだ。

  漢字だけの年のデータファイルにはカタカナ表記を記入し、エクセルの並べ替え機能を使ってデータを揃えるのだが、ある年には東を「アズマ」、別の年度には「ヒガシ」と記入してあったり、幸子を「ユキコ」とかいた年もあれば、「サチコ」記入してある年もある。性別や年齢を頼りに揃えなければならない。350人規模の人名漢字表記をカナ表記に揃えるエクセル画面での作業だけで、手は強張り始め、目は霞んでくる。

 

  この作業をまだ途中だが続けている。この種の単純な作業もそれほど嫌ではない自分に驚いている。加齢で喜怒哀楽の感度が弱ってきたのか、はたまた、作業に飽きる前に手が痛くなったり、背中がこわばったり痛くなったりするので、適当に休憩が挟まっていることが良いのかもしれない。あと、2-3週間は必要なように思うが、単純作業に夢中になって、数週間前に考えたSuper-agersの研究計画の中身を忘れないように、頭の片隅に置きながらの毎日である。自分は何をしに来たんだっけというような、短期記憶の把持機能が、今やってる作業が終わるころまでにないことを祈るしかない。

 

  この種の作業中であることは、後輩には伝えている。後輩が使ってくれれば、嬉しいことで、次世代に繋げるというだけでいいのかもしれないけど。一つくらいはとっかかりの論文を書きたいとも思っている。

「いつまで飽きずにやってるの?」と言われそうだが、50年以上続けてきた生活様式を変えるのは、一気に老化が進んでしまいそうで、不安なのである。

 

  とまあ、何をしたかよく思い出せない9月も、振り返れば、相変わらずの日常生活であったということであります。