前途多難な2024年かも? | はったブログ

前途多難な2024年かも?

  正月早々能登半島輪島沖を震源とする大地震が起きた。その時は自室でパソコンに向かっていた。かなり長い時間の比較的長い周期の横揺れがあった。大地震であったのだ。正月に里帰りをしていた人たちや帰郷する家族を待ち、楽しんでいた人たちには残酷な正月となってしまった。輪島の朝市の家並みが消火活動もされずに燃え盛っていく映像を見ていた。見舞う言葉も見つからない。暖かい部屋で被災画像を見ていると、身の置き所がない感じであった。

  輪島の朝市や被災した珠洲、七尾などは30年近く前に、学生の実習巡回の際にレンタカーで回ったことがあり、海岸沿いを車で走りながら、「津波が来たら、ひとたまりも無いなあ」と何度か思ったことを思い出す。台湾とブラジルの知人から地震見舞いのメールが届いた。「レジリンス力を信じている」とあった。同感である。

 

  被災者には申し訳ないが、3日から長男夫婦と下関の角島に車で出かけた。玄界灘の潮の流れがぶつかる光景は見応えがあった。帰路山口市にも寄った。院生の頃から15年ほど、毎年、ドサ周りと称していた山林労働者のレイノー病検診手伝いで宿泊した湯田温泉の林野庁の宿舎は無くなっていたが、道向かいの高級旅館「松田屋」は健在であった。いつかここに泊まろうと言っていた記憶があるが、メンバーには鬼籍に入ったものも出始め、思いは叶わずじまいになりそうである。あいにく瑠璃光寺は工事中で、美しい塔は見えずであったが(翌日に山口がNew York Timesが推薦する「2024年世界で今年行くべき観光地)の3位に挙げられたというNewsがあり、大丈夫?と思ったことである)、中原中也記念館(昔はなかった)に出かけた家族と離れて、僕は「山頭火の句碑」を探し出したり、必ず一度は食べた角のそば寿司の店を探したりで、古い記憶の確認ができた。

 

  1月12日には、1歳の誕生日を迎える孫娘のお祝いに、3泊で仙台に出かけた。昨年はこの時期寒波襲来で、這々の体で空港に辿り着いて生まれたばかりの小さな赤ん坊を確認し、残雪のある凍った道路に苦戦したが、今年は穏やかで上天気であった。上の2人の孫には「一升(一生)餅」のイベントをしてあるので、3人目だからと言って省略するのは、後々不都合な事になろうと、出かけたのである。嫌がる孫に風呂敷包みを背負わせて歩かせる証拠写真は撮れた。誕生日の当日、この娘を預けられて1時間ほど留守番をしている間、たまたまiPadを弄っているときに、立ち上がり、2歩ほど2度歩いたのを動画に収めることができた。歩いたのはその時だけで、歩行器で歩く練習はしているようだが、3週間が経つがまだ歩いたとは聞かないので、遠路来た祖父母に特別サービスをしたのかもしれない。であれば、なかなかのものである。孫たちは順調に育っており、自分はこういう幸福な事で良いのかと思った事である。外食した先の帰りに店の階段を踏み外して転んだ(飲んでいた)が、気にするほどのことはなかった。

  しかし、3日前に外出先で両手にものを持った状態で、同じように階段を踏み外し、転んだ。一瞬誰かを呼ばねばと思った転び方であったが、何とか駐車場までゆき、骨に異常はないと言い聞かせて車で帰宅できたが、左足は何かが変で、湿布を数枚貼り、眠剤の力を借りて寝ることができた。翌朝から太もも、足首、ふくらはぎ、膝裏、肩と、湿布を貼っていない場所に次々と痛みが生じて、4日目にも違和感は残り、完全に治った感じがしていない。

 

  正月に2度も転倒するとは、明確に体幹、バランス機能、筋力が弱化している証拠で、老人になっていることを思い知らされたことである。約束していた先輩との飲み会は欠席することになった。

  自分だけに幸せな時間が長く続くものではなく、「禍福は糾える縄の如し」である。転倒しても、大した怪我なく済んだのはまだ元気な証拠だと、Positiveに考えようとしないでもないが、ちょっと無理なように思えるのである。

 

  今年はこれまで幸福であったお返しが来るやも知れぬと、覚悟しておかねばなるまい。何があっても受け入れる覚悟はできている(つもりの)2024年の正月であります。