年の瀬に | はったブログ

年の瀬に

 昨年末から今年末に掛けて、年齢が近い知人が次々とアッチの方に行ってしまった。知らせを聞いても感情が大きく揺れることがない自分に気づく。「誰それが亡くなった」としか言わないのを長男夫婦は「何ともないの?」と訝しがっていた。老化による感情鈍麻ということもあろうが、コロナ以降、家族葬とかで葬式に出なくなったために、棺の中の当人を確認して涙が出るという体験が失われてしまったことの影響も大きいと思う。現実なのか実感が伴わないのだ。

 

 20年以上前のことになるが、母や父の葬儀は、自宅から会場までを近親者が棺を担いで行列し、沿道で大勢の人たちの見送りを受けて、地区内の寺の本堂で式典を行うものであった。2人とも12月の葬式で、白い装束を着て棺を担ぐ僕は寒くて震えながらであったが、沿道に人たちが並んで見送ってくれるのを嬉しく思ったものである。息子や家内は「江戸時代や」と呆れていたが、古い歴史を持つコミュニティの温かさを感じた。コロナ以降の社会情勢の変化として、人が集まることが激減しているのは、費用がかからない利点もあるが、面倒だという理由だけなら何とも寂しい気持ちになる(何といっても、式典や宴会文化が染み込んだ昭和人だもの)。

 

 アッチの方に行ってしまった一人一人にまつわる記憶をメモしておかないと、後年このブログを読み返す際に訳がわからなくて困るかもしれないので、2023年アッチに行ってしまった知人の手掛かりだけを記しておく(このように書いていて、潜在的に自分はまだ生きているつもりなのだとrealizeした)。田巻義孝さんは、関学出身で信州大学を定年後、関西福祉科学大学に来た人で文博・医博の両方の学位をもっていた。単身赴任中の大阪の部屋で倒れていたところを運良く見つかり、一命を取り留めたのであった。教育学部申請に関して随分と助けてもらった。長野市の自宅を訪れた際に目にしたリハビリへの取り組みは、知的に優れる人の意志と根気の強さを確認したことであった。高坂祐夫さんは関西医大衛生学教室の助手の頃からの細川先生を囲む汀会のメンバーで、後年、大阪信愛女学院短大の学長をしていた。廣澤巌夫さんは同じく汀会員。山口大の公衆衛生学教室の助手の頃からの付き合いで、山林労働者の検診でずっと一緒であった。湯田温泉の営林署の宿で枕投げをしていた院生の頃から関西福祉科学大学で同僚となるまでの長い付き合いである。僕の着任時は学科長で、真面目な質なので会議が長くて皆は閉口していたものである。いつも彼の部屋で弁当を食べたことを思い出す。水嶋義次さんは先回紹介した通り、グリークラブに誘ってくれた人である。斎藤洋典さんは5-6歳年下で、彼が関学の院生の頃からの知り合いで、一緒に翻訳を出したりした。彼が誘ってくれたことで名大に移籍できたのである。名大では漢字の読み処理の国際学会を一緒にやった(中国の研究者はこちらからお金が出ないと来日できなかったので、工面に苦労したことを思い出す。研究環境は30年ほどの間に日中すっかり逆転した印象がある。日本の高等教育政策のエビデンスの一つである。政治は結果だと嘯く政治家は「精査しないと云々と言い逃れるだろうけど」)。

 アッチに行ってしまった知人の名前を書き出すと次々エピソードが蘇ってくるが、ともかくも、僕の自己形成に影響したことは確かで、改めてご厚誼にありがとうと言いたい。

 

 昨今は、幸いにも研究室をあてがわれ、週に2回ほど出かけて、機嫌よく研究者風の生活を送っている。春先には、時間に余裕があるので年内に4、5本論文を書き上げることは可能かもと考えていたが、2本目が8割程度のままで、歳を越しそうである。時間があるので、文献検索や参考文献読みの程度に歯止めがなくなる、作業課題の切り替えが下手になる、集中力が持続しないなど、振り返れば理由はいくつも見つかるが、能力と加齢が原因と帰属する事にしておこう。しかし、論文を書いて投稿し、見も知らぬ査読者の文句を聞くプロセスが自分は結構楽しいと思えるらしいことを確認した。今春から整理してきたdatabaseからは4、5本の論文が書けるはずで、来年も楽しめそうである。

 

 10月初めに研究フィールドである北海道に夏休みの検診結果の説明会に出かけ、「80歳以上でも50-60歳代の記憶機能を持つsuper-agerになりましょう」と話した際に、「エスカレーターのように、一人でに辿り着けるわけではないので、自分からの努力も大切ですよ」と締め括ったのを思い出した。「アンタもな!」と言われないように、今年は宛名ソフトを使っていたのをやめて、漢字を忘れないように、数を200枚に減らして年賀状の宛名書きを手書きにした。まだ、漢字を忘れていないことが確認できたし(自己効力感が得られた)、知人がどこに住んでいるのかが再確認できたのも良い副産物であった。

 

 上記したように、年齢が近い友人らが次々と鬼籍に入った年で、自分の順番の近づいていることをひしひしと感じ、自分の時はどのようにして欲しいとメモしておくべきか、自分ではわからないことなので、残されたものの好きにするのが良いと放念しておくべきのか、思案を始めている年の瀬である。