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今年の夏休み

 大学が決めた今年の夏休みは8月13日から19日までの7日間であった。どこにも出かけることのなかった一週間の夏休みであった。もっとも、14日はオープンキャンパス、15日は郷里への日帰り墓参り、18日は年金手続きで吹田の年金事務所へと出かけたので、まるまる時間が自由であったというわけではない。5日間が自由な休みということになるはずであったが、ボランティアや病院の検診に行く家内の運転手もしていたので、自分だけの時間というものはそれほどなかった。
 16日から19日までの間で、泊まりがけで涼しいところに出かけても良いと考え、ネットで比叡山頂とか近場の温泉宿などを検索してみたが,思わしい物件は検索できず、今年の夏休みは自宅でと決め込まざるを得なかった。先月のポーランド旅行の後遺症で、1泊2食付き3~4万、それも一人当たりと値段が呈示されると、高い!と根が貧乏性なものだから怖じ気付いてしまったことである。
 かくして、僕は低迷する日本経済に貢献することなく、自宅で論文作成と家庭菜園とTVで5日間のほとんどの時間を過ごすという、近年では珍しい過ごし方をした。論文作成はデータの処理が一通り済んでいて、書かねば書かねばと常日頃気になっていたものに着手することが出来た。ただし、1編の外国誌の修正依頼は終えて送信でき完了したが、それ以外のものはいずれも中途半端なままである。一つの論文を書き始めると、途中で肩・腕や手首などが痛くなり中断せねばならなくなる、書き進めて行くと統計分析を加えなければならないことに気づく、参考文献の検索が必要となること、などで中断してしまうためである。
 参考文献の検索は名誉教授の唯一の特権で名古屋大学の図書館を外部からネットを介して自由に使え、検索自体は不可能ではないのだが、勉強部屋のPCはインターネットとつながっておらず(つながっているのもあるが、画面が小さい),下の部屋のPCを使いに行くのが面倒なだけである。しかし、この面倒さをもろともせずに乗り越えられないのは、加齢の影響であろう。
 別の論文を書く資料もあるので、最初に着手した論文は別に機会にと放り出し,2つ目の論文に着手するのであった。それもまた、中途で進める訳に行かないことが生じて,また別のものに着手と、都合で3編の論文を書き始めて、すべてが中断状態で夏休みは終わるということとなった。手作業でχ2分析を30個ほど行なうこともしたが、途中で計算ミスや数字の入れ違いなどが見つかるので、昔のようには手際よく進まないのも、いらだちを募らせ、執筆中断の原因となった。そもそも自宅にある家庭用電卓では平方根を計算することが出来ない。エクセルで計算するやり方を探して、一通りはやったが計算結果に自信はない。
 かくして、夏休み遊び回らず論文作成に専念するという13日に立てた狙いは完遂されずに、途中まで書いた論文3編に終わった。根気がなくなっていることが中途半端の原因であることは自分でも了解している。これも加齢のせいだろう。
 家庭菜園もやりたいことはいくつもあったのだが、今年の熱さは尋常ではなく、途中で終わることとなった。それでも、食べきれないほど収穫となったキュウリの蔓をたぐり、石灰を撒くところまではできた。もっとも、キュウリの蔓を手ばさみで細かく裁断してごみに出しやすくする作業の結果は、夜中の右腕痛、手のこわばりをもたらすこととなった(夜中に目が覚め、その理由を推論し、これも年のせいだと了解するのであった)。手ばさみでの片手の作業は、日頃使わない手指の筋肉に思いの外負担を掛けることを知った。
 翌日は塀の傍に植えただけなのに健気に次々と実を付け始めたゴーヤの根下を花壇らしくしようと煉瓦を積む作業をした(買ってきた15個の煉瓦では足りずに2個は別のもので補完したが、こういう時の計画性も加齢の性が乏しくなったようである)。5時頃からの作業でも折からの猛暑のせいで汗びっしょりの作業となった。もちろん翌日はTVの前で、筋肉痛の腕にタイガーバウムを塗り込みながら高校野球を観戦するしか仕方がなかった。

 21日は人間ドックに行く予定になっており、汗びっしょり→シャワー→ビール+ジントニック、という工程は控えめにせねばならなかった夏休みである。

 何と言うことはない、老性を自覚することの多い休みであった。だが、何も特別なことが起きない日々を送れたというのも悪いことではないのだと独りごちている。書きかけ始めた論文が何時になったら完成するのか分からないが、することがあるという先月から高齢者となった者として、喜ぶべきことで幸福なことであります。はい。

ポーランドにて考えた

 前の記事にも書いたが2度目のポーランド訪問であった。10日間の滞在中、毎日が快晴で(ときに日向では汗ばむような)あった。空気が乾いていたので気分の良い気候の下での滞在となった。とくに今回は知人に会えたこともあり幸福感に満ちた大げさに言えば至福の時間を過ごせた。インターネットでときにチェックする日本の天気は雨ばかりの様子で、得をした気分でありました。育てている野菜の水やりの心配も不要で気楽に過ごすことが出来た。

 毎年のように海外には出ているが、その度にさまざまな思いをする。今回もいくつもあり、個々の事項は既に忘却されつつあるが、今でも印象深いのは、「私たちはこれで良かったのだろうか、何か間違ってしまったのではあるまいか」という思いに何度も駆られたことである。
 10数年前のワルシャワやポズナンを観ていることと、現在のワルシャワやポズナンの人々の暮らしの様相が20年ほど前の日本と類似しているためなのかも知れない。この思いは夕方にワルシャワについて、知人が依頼してくれた日本語の話せる大使館職員が世話をしてくれたこと以来ずっと付いて回った思いである。
 ワルシャワ空港に迎えを手配したと言うメールをもらっていた。迎えてくれたのはその職員と家族で、25歳と23歳と言う兄妹も一緒であった。この一家はポーランドを離れる最後の日の午後にも市内を案内してくれた。午後といっても10時近くまで明るいので、長い時間になる。知り合いでもなかった友人の知り合いを家族で世話をしてくれたことになる。Hospitalityとは本来このようなものなのだろう。思い返せば、30年ほど前には日本に来る外国人研究者がいると同僚というだけで観光案内に付き合ったものである。今では、私を含めてもうしない、なあと感じたことであった。
 ポズナンでも知人の家族はもちろん、姉家族も近郊の名所を案内するのに付き合ってくれた。したがって、2台の車でのツアーであった。現在の日本では、嫁さんの昔の指導教授が来るからといって会社を休んで言葉も分からないのに付き合う旦那さんもいないだろう。姉さんは麻酔医でそのパートナーは開業している神経心理学者だが、われわれに同行してくれた。日曜ということもあったのかも知れないが、来客は家族で歓待するという、人情の熱さというか気持の優しさを感じた。このような気持を30年前にはわれわれも持っていたような気がする。
 知人が案内してくれた場所は以前に案内してくれたお城や大聖堂などであったが、以前とほとんど変わることはなかった(このことは知人も覚えており、奥さん向けということであった)。ただ、昼を食べたレストランも夜のレストランも前と同じで、僕が食べたものも覚えているのに知人は驚いていた。人間の選択行動様式はあまり変わらないもののようである。
 私だけのことかも知れないが、面倒くささを言い訳にして客を歓待すること習慣をなくしてしまったのではないか、ということである。私だけなら老化のせいかも知れないが。
 ワルシャワとポズナンの公園を訪れた。日曜であったせいかも知れないが、大勢の人々が森の緑の中を悠々と散策している、子どもを緑の中で遊ばせている姿ばかりが眼に付いた。朝の公園にも行ったが、気ぜわしく早歩きをしてトレーニングしている人は稀で、5時前から明るい公園の小道をゆっくりと散策している姿が圧倒的に多かった。私には朝や休みの時間を「楽しんで過ごしている」ように思えた。
 翻って考えてみると私たちの周りに何時間も散策できる森のように樹木の豊かな公園などない。のんびりと乳母車を押す若い母親の姿などついぞ見かけない。若い母親らを眺めていると、直接の関わりもないのに三好達治の「あわれ、花びらながれ、おみなごしめやかに語らい歩み…」の詩が脳裏に蘇るのであった。
 自分を含めて私たちは「休む時間をゆっくりと、楽しんで取る」ことも最近ではなくなって久しい。

 ポーランドで見る車はほとんどが古い型番のマニュアル車である、道路事情もまだまだ未整備であるが、「楽しく生活を送っている」という点ではわれわれは遥かに及ばないなあ、という思いに何度も遭遇した。知人は私たちの世話をした翌日から2週間家族で海に行ったとのことである。週末は13-14Kmの位置にある夏の家にて過ごすという。「子どもが喜ぶからね」ということである。知人の生活レベルがポーランドで平均とは思わないが、私ごときには出来ることではない。私には「楽しく生活を送っている」と断言できる日はもう来ないのではないか,という思いにかられる。
 新しい車、高価ブランドの鞄、上等の服飾、贅沢な食を勝ち取ったわれわれは、それと引き換えに「楽しく生活する」、「人との交わりを大切にする」ことを失ったのではないかという思いが何度も頭をよぎるのであった。
 ポーランドはEUに加盟した(通貨の統合は未だ)。このことで、資本主義のもつ暴虐さが「楽しく生活する」ことを10年後には壊してしまうのではないか、など、いろいろなことを思ったことでありました。

 昨日から梅雨明けとか。伸び放題の菜園の草引きと芝刈りをしたせいか、何となく腰の重い朝である。今日は日曜だがオープンキャンパスに行かねばならない。これが現実であります。

ポーランドでの学会:アチャー体験

 昨年ヘルシンキであった国際神経心理学会(INS)夏季大会が今年はポーランドのクラクフで開催された。その一週間遅れで開催されるメルボルンでの国際応用心理学会にも行くつもりでエントリーしてあったが、昨今の大学の状況から判断して、出張しても影響の少ない時期のポーランドにした。13~4年前にワルシャワとポズナンには行ったことがある。クラコフは、ポーランドの京都と称される綺麗な町と聞いていたが、その折に行っていないのと、今年で終わる科研費の研究に直接関連するのでINSを選択した。
 何時ものことだが、海外に行くと「しまった」、「アチャー」という類いのエピソードが生まれる。そのうち忘れてしまうので記しておいて、自分が身動きできなくなった頃に読み返そうという意図である。だが、きっとその意図も忘れるようになるのだろう。マーフィーの法則というやつで、「患者の訴えを十分に聞けるようになる頃には医者は耳が遠くなってしまっている」、「上手に講義できるようになったら教授は定年で退職する」、「ボケたら遠慮せずに言ってくれと言っていたのがボケて理解できない」という類いかも知れないけど。
 クラコフにはポズナン→ワルシャワ経由で、国内線で入った。電車だと7時間かかるが飛行機の乗り継ぎだと4時間ほどである。
 ポズナンには2泊して別の用事(研究にも関係があるのです。念のため)を済ましての到着であった。前日に到着している共同研究者とは前日パソコンメールで連絡をしてあり「迎えに行きますから」ということであった。そのときは携帯電話が繋がることも確認した。
 クラコフ空港に到着したが、彼の姿がない。携帯電話を何度もかけるが、繋がらない。新しい機種の電話でも繋がらない。仕方がないのでタクシーでホテルに到着するが、彼はいない。チェックインしてロビーでどうしたものかと、とりあえず携帯電話をかけると、今度は繋がり、彼はクラコフ駅にて我々を待っているのが判明。ホテルに戻ってくるよう頼んでロビーでビール(ホテルのロビーでも200円ほどで500cc、水より安い?水はあまり冷やさないのでビールとなる)を飲んで待つ。10分ほどと言う話であったのに30分近くもかかってやっと合流できた。この地域では携帯が繋がったり、繋がらなかったりするものであることが確認できた。彼の言うには、電車でワルシャワから来ると思っていたらしい。
 お互いに確認しないことが原因の「しまった」第1弾であった。
 翌日は彼のポスター発表なので一緒に会場に行く。大学の中にある新しい会議場ですばらしい構造物であるが、昨年の学会に比べて参加者は少ない印象であった。それでも、4組ほどの日本人の発表があり、顔なじみなので話をしていたところ、「先生、新しい大学でもがんばってますね、オーラルですね」という。そのときはメルボルンの学会での口頭発表のことだと思ったので、いや忙しいから参加できないのだ、ということで次の日本人の発表者のところに行くと、また同じように「先生すごいねえ」と言う。何を言っているのかと聞くと、プログラムを取り出し、「明後日の8時半からですねえ」と言う。このとき始めて、自分の発表はポスターではなく、口頭発表であることを知った。「アチャー」である。大学の新しいA3サイズが印刷できるカラーコピー機を探し求めてやっと作って大切に持参したポスターは、要らなかったのである。久しぶりに「エー!!」どうしようとしばらく放心常態となった。
 日本人の発表者と話をしなければ3日目の朝にポスターを貼りに来ていたに違いない。口頭発表セッションに穴を開けるような迷惑をかけずに済んだ、「助かった!」という思いと、「自分は運が良い」ということを確認した。
 幸いパソコンは持参しているし、ポスターを作った痕跡があるので、5-6枚スライドを追加すれば済むわいと気楽に考えることにした。思い返せば1978年6月にマルセーユ大学を家族を連れて見学に出かけたとき、早朝の迎えの先生が車の中で、「スライド使いますか?」みたいなことを訊ねられて、始めて自分が講演するのだということを知った。大学に到着すると聴衆が100名ほど待機していた。あのときの驚きに比べれば軽いもんだと考えるようにした。あのときでも黒板を使って100分ほどしゃべったのだから、12分位は何とかなるはずと思い悩むことは止めにした(取り消しがあり、本番では20分の発表となった)。
 自分の研究内容の説明だし、それなりの場数も踏んで来たので、発表は特に問題なく終わった。2つの質問があったが、特段困ることはなかった。
 これが確認しないことと思い込みによる2つ目の「アチャー」体験である。その他にも細かい「アチャー」はいくつもあったが。無事7/6に帰国した。
 思えば、これまでにも何度も大きな「アチャー」というような、とんでもない思い違いや失敗をしでかして来たが、何とかなったように思う。その為に困っている人も大勢いますよという声が聞こえてくる気はしますけど。
 それにつけても自分は運が良い、有り難いことであります。

限界かな?

 忙しさが尋常レベルではなかった5月が終わり、6月に入って少し気分的には楽になったはずなのに、次々と「もう、限界かも」と感じることが出現している。明日からポーランドで行なわれる国際学会に出かけるので、帰国後は気分の転換が可能となっているかも知れないが、昨今の悩みをぶちまけておこう。書くことはストレスコーピングの一形態だから。
 悩みに共通する単語は「言っていることを相手が理解しない(出来ない)」である。
 大学では教務部長と教育開発支援センター長を併任している。現在の勤務先では各種の役職(委員会を含めて)は選挙で選ばれるのではなく、指名制度なので、かつてのように、いくつも委員会は大変だろうから投票は遠慮しようなどの配慮が機能することはない。役職の多い人とない人の格差が大きいし、それに対する対価も乏しい(と思う)。詳細に書くわけにはいかないので省くけれども、たとえば教務委員会(僕は委員長)での検討を委員にお願いしても、回答は遅く、的外れということが起きる。各委員が所属集団から選出されていないので、自分の判断は所属集団のものとする自信がない。そこで、所属集団に持ち帰って云々ということになる。問題への対応が数ヶ月遅れで(忘れた頃に)進むことになる。まとめ役のイライラはつのる。
 私学なのでその組織がトップダウンであることに異議を挟んでいるわけではないが、小さい組織から中規模になると、組織運営に参加している気がしない→帰属意識が育たない、という構成員も見受けられることになる。
 具体的なことは昼飯会のメンバーで愚痴を言いあってそこそこ発散しているつもりであるが、2年目に入るとストレスの蓄積も閾値近くになるということである。
 学生指導でも溜まってくるものが増え、限界に近くなっているのを意識する。以前にも書いたような気がするが、集団を対象に指示をしても自分が該当者という認識に欠けるものが多いようである。16名もの卒論指導生を抱えているので、年度始め(厳密には3月)から、関心のあるテーマを探す→学術論文を探して読む→計画を相談せよ、と指示をしてあるが、現時点でも相変わらずで、卒論はどうなっているのかと問うと、「先生、何しよう?」レベルのものが半分以上いる。
 言葉をきつくして指示したら「図書館で論文のコピーを頼んで来た」というので、利き目があったわいと思って具体的に聞くと、商業雑誌(それもヌード写真も掲載されていそうな)名を答える始末である。学術論文の定義を半年前から何度言ったのか分からないが、理解していない。当該の学生相手個人対象ではなかったのだろうと、頭を抱えるしかない。
 現在は教員採用試験の準備に頭がいっぱいなのだろうと慮るしかないのだが、毎日、時間を決めて受験勉強をしなさいと指示したことも、了解して実行しているかは怪しい。大半の学生は子どもが減ったせいで、受験勉強などした経験がないことを、過日訪問した実習校の校長先生から聞いた。推薦で、高校に、大学にと進学できるので、受験勉強などしないのです、ということである。そもそも受験勉強のやり方(問題集をコツコツとやる)など学んで来ていないのだ。
 7月には試験がある。昨年は僕のゼミ生は8人ほど受験して半分が1次、2名が最終的に合格したが、昨年ほど受験勉強をしている気配がないので大丈夫かなと心配である。
 昨日の朝にゼミ生個別にメールを発信して、卒論の計画書を出すように指示したら、珍しくほぼ全員が集まって来た。どうやら、全員に一斉に指示しても、我がこととは受け取れないが、個人的に情報を発信し、それを受け取らせると指示は伝わるようである。
 何か新しいタイプのように思える。だが、社会に出れば、たいていのことは一斉に情宣・連絡され、それで終わりのことが多い。後は個人の責任とされるのだが、個人向けの情報しか受け取れないようでは社会に出て大丈夫かと老婆(爺)心はつのる。
 もう、限界かな?と思いつつもスーツケースを引っ張り出さねばならない、時間となった出発前の梅雨の日であります。

久しぶりの落語

 久しぶりに落語を生で聞く機会があった。最近は忙しいですか?と聞かれると「まあまあ」などとは答えないようにしている。教務関係に次々生じる難題、教育開発支援センターでの入学前教育やFDの関連問題、さらに大学院開設の準備が重なっている。新たにIR(Institutional Research)などという、高等教育の専門家と少子化に伴う経営難に怯える大学をターゲットにして稼ごうとする教育産業共同体が火をつけようとしている課題の検討を命ぜられ、四苦八苦している。併せて6月に発刊予定の人間環境学研究(第8巻1号)の査読などもあり、忙しさは中途半端ではない。自分の書きかけの論文など一向に進捗しない。人間環境学研究も昨年からデータベースJ-Stageに採択されるようになったせいか、投稿が倍増している。嬉しいことなのだが、大変さは増している(何時も自慢げに忙しさを訴えるようで恐縮です)。
 落語を生で聴いたのは、友人の出版記念パーティの前に行なわれた、大学の公開講座の講演会に出たからである。過日たまたま見た、英語落語を米国で半年間やっていた落語家のドキュメンタリーTV番組の本人が出演したのを聴いたのである。無料だったことが作用したのかどうかは知らないが、会場をほぼ埋め尽くす観客数で、盛況であった。
 なんと言ってもプロは上手なもので、久しぶりに大笑いをさせられた。忙しい時間に追いまくられて生活に余裕がない昨今にもかかわらず、涙が出て困るほど笑った。TV番組を自宅で寝そべって観ていたときには、「名前は聴いたことがあるが、興行会社が半年も営業させずに米国に派遣させているのだから,それほどの落語家ではないのだろう」などと、不遜にも思ったことが申し訳ないほどの熱演であり、プロの噺家は声の張り、テンポ、間の取り方など流石と感服した。
 落語家はいくつもの外国での英語での落語出演の経験から、文化差に付いても興味深い見識を示していた。公開講座の後のパーティで本人から案内をもらったので、時間が取れたら独演会に行ってみようと言う気になっている。
 彼の説では、米国人は笑うことを他人より先にした方が賢い人間とされるので、ジョークへの反応が日本人よりは良いそうな。この話は自分の授業で披露すべし、と決めている。授業で笑いを取るつもりのところで,滑る率は減るはずである。
 パーティの時の挨拶でも触れたが,学部の学生の頃に時々角座に出かけたものである。歌舞伎などに女学生を誘うことは金額的に無理であったが、落語、漫才をなんばの角座では比較的安く鑑賞できたのである。誘った女の子にはにわか仕込みの落語の知識を披露するなどの見栄を張ったものである。
 そう言えば、昭和40年頃の大学生は知的虚栄心とでも言うべきものを持っていた。「エッセン」、「メッチェン」「ドッペる」などのドイツ語の単語を日常で使ったり、「世界」、「展望、「現代の眼」などの総合評論雑誌を常時携帯したものである。「実存主義って何?」などと同級生の女の子に聞かれると大慌てで調べたものである。
 最近の大学生は「あるがまま」が良いとか、「自分はそれなりに優れている」などと思い込んでいるようで、知的虚栄心を持つなどとはほど遠いように思える。知的虚栄心は自分の知的レベルを向上させる原動力という働きがあるはずなのに,「見栄を張らずにこれで良い」と考えているらしい。若者にあるまじき心根と嘆いておこう。
 久しぶりに笑うきっかけをくれた友人には感謝である。埋もれていた学生時代の角座でのエピソード記憶が想起されたので,前頭葉も少しは活性したはずである。
 ちなみに友人が出版したのは「高座心理学:あいり出版、ISBN978-4-901903-32-5である。是非購入を!

久しぶりの落語

親不孝

 この週末は久しぶりに予定がなく自由な時間が取れた。週末に出かけた文科省での折衝も,前回とは打って変わって大した文句もいわれず、土日での作業を覚悟していたのに拍子抜けということであった。もちろん、気分が悪いはずはない。金曜日には科研費申請の結果が届いており、今年は大学の採択数が倍増したらしく、申請書の書き方の講習会に講師に駆り出された者としては嬉しいことであった。講習会に参加された先生達に科研費を申請しましょうなどと言った手前、自分も出さないと後ろ指さされそうな気がしたので,自分は未だ継続中の別部門での科研費があるのだが、同時に申請できる「萌芽」部門に申請しておいた。これも採択されたとのことで面目が立った。
 かくて、機嫌良く休日を過ごしていると、天気が良いことと相まって、浮かれた気分となり、普段とは異なる方面へと散歩の軌跡は進むこととなる。あちこちに桜が満開で、桜花爛漫というのは実に気持がよい。
 人工的に植えた並木にはソメイヨシノが多いが、山裾や山肌にその存在を訴えるように、1本きりに咲く山桜の方が僕は好きである。山桜は花びらの量がソメイヨシノとは比べるとかなり少なく、概観からは花びらが3割、若葉が7割ぐらいのものが多い。ソメイヨシノは花びらの量が多いのでピンク一色となるが、山桜の場合には、色合いが複雑である。薄紅色の花びらと黄緑色の若葉と、その若葉を包むパーシモンレッド(柿色)の花軸(?)から構成されるのが良いのである。「鼻より、歯が先」と出っ歯のことを山桜と隠語で言うように、山桜は花と葉が同時に見られるのである。
 散歩道の神社にはソメイヨシノの並木に混じってモミジの若葉が芽を吹いていた。モミジの若葉もよく見ると葉先は柿色の縁取りがあり、若葉が伸びる軸には柿色の鞘が付いている。つまり、モミジも黄緑だけでなく若葉の縁取りや軸の鞘の紅い色が加わって、2色から構成されているのだ。もちろん若葉はその成長に併せて緑色の濃さを増すので単純な2色ではない。
 モミジの若葉に紅い色が加わっていることや新芽が紅い鞘で包まれて育つことを今日の散歩で始めて知った。
 そう言えば自宅の庭にもモミジがあるはずなので気づかずにいたのかと、帰って調べるべしと思ったのだが、モミジの木は見つからなかった。家内にモミジがあったのではないかと確認すると、かつては庭にあったが庭を改装したときに、日当たりの良い場所でなかったこともありあまり育たなかったので処分したとのことであった。父親が届けてくれたものであったことも家内から指摘され思い出す始末であった。
 散歩から帰る道中にある寺院の立て札に、「咲く花を愛でて喜ぶのではなく、それを育てている土に思いを馳せろ」という主旨の歌が書いてあった。どういう仕組みでこの歌に注意が向かったのかは分からないが、誠にそのとおりで、親不孝なことでありますと言うしかない。浮かれていた気分もやや沈みがちということとなりました。反省。

冬野菜

 しばらく家庭菜園(というほどの規模ではないが)のことに触れないので、もう止めたのかも知れないと推察されるのも面白くない。今年の冬野菜栽培の顛末を記すことにしょう。
 植えたのは、白菜、赤キャベツ、芽キャベツ、カブ、ブロコリー(2種)、小松菜、韓国チシャ、絹サヤ、ラディッシュなどである。何しろ欲張りなのと、どういう野菜が家の土に適合しているのかを知りたいため、2-3本の苗での栽培なので大規模農園を想像されると困る。結果の総合評価は夏野菜に比べて悪く、40点というところであまり上手くは行かなかった。
 白菜は一応の形にはなったのだが、もう収穫せよと言う家内の意見を押さえて,もう少し大きくなるはずと考え,収穫を一日延ばしにしていたのだが(市販の白菜に比べてあまりに小さいので)、切り取ったときにはすでに芯からは花芽が育っている状況であった。広がりっぱなしの葉を縛る時期が遅かったのと、思い起こせばミニ白菜の苗であったのを失念していたのである。
 欲張ってはいけない、記録を取っておかねば失敗するという教訓を得たのでありました。
 赤キャベツは三戸さんからもらった苗であるが、一向に葉が巻いてこなかった(聞き及ぶところでは彼の菜園でも同じらしい)ので、最近になって刈り取ったが、何枚もの外葉を剥いだ後のソフトボール大のキャベツは、生ではかじれない硬さのものとなった。芽キャベツは種から2階のベランダで育てた。順調に育っていたので、間引く際に1階の菜園にも5本ほど移植しておいた。この冬は急に暖かい時期があったりしたので、50センチ程の高さに育つ芽キャベツは小さな脇目をいっぱい付けていた。自分の家だけでは食べきれまい、ゴーヤの時のように配らねばと考えていたのだが、ある日見てみると10本ほどの芽キャベツ(脇芽)には灰色の小さな虫がいっぱい付いており、全て廃棄せざるを得なかった。インターネットでたまたま芽キャベツの育て方を覗くと、外の葉は取らないと脇芽は育たないとあった。立派なキャベツ様の葉が育っており、大収穫を予想していたのだが、脇芽は昆虫のためのものとなった。育て方を間違っていたのである。慌てて1階の芽キャベツには葉を取ったことで、これらはビー玉大の芽キャベツにはなった。数えてはいないが100個ほどは食べたはずである。茹でてそのままとか、グラタンの具となった。
 野菜は植えれば育つものではなく、学習し知識を得て育てるべしという教訓を得た次第であります。
 カブも種から育てたのだが、期待した大きさにはほど遠く、最大でもピンポン大で、取れ立てをオリーブ油と岩塩だけでソテーして、「さすがに取り立ての味は違う」という台詞は使えずじまいとなった。
 おそらく肥料が足りなかったのだろう。忙しさにかまけて配慮をしないとしっぺ返しを受けるという教訓を得たことでありました。
 でも、失敗ばかりではない。ブロコリーは順調に育った。スティックタイプのものも大きなものも、大きなものを刈り取ったあとの枝目に育つもものも、大量に取れた。これとラディシュは想定通り順調に育ち収穫し、お隣にもお裾分けできるほどであった。小松菜も韓国チシャも何度か食卓に上らせることはできた(チシャは焼き肉を巻いて食べるもので、家内は硬いというが、こういうものであるとしている)。絹サヤは昨日初物を3枚収穫し、自分で朝飯に食した。
 収穫が全くないわけでもなく、いくつかが成功し間欠的な強化となったので、家庭菜園行動は持続している。夏野菜に向けて土作りをやらねばと気は焦るのだが(植木屋さんが土を入れた芝生の草抜きもせねば)、3月の大学は土日も何かと出勤することが多く予定が立たない。
 とまれ、まだ家庭菜園事業は継続中という報告であります。野菜作りから学ぶ教訓は多いということにしておこう。

もうアウト?


 2/27は玉川大学の創立80周年記念のシンポジウムが東京であり、大学の方から出席するようにということで出かけた。この会合は「これからの大学教育のあり方」がテーマで、T大の教育学の元教授、現教授それにN大学の准教授が講演するのを聴くという催しで、懇親会込みの会費を払うシンポジウムである。3世代に話をさせるというのはさすが小原学長らしいなあ、と感心したことである。我が大学も2年後に70周年を迎え、記念行事の案を提案するように言われているので、何かの参考になるかも知れないし、来月には新任研修会で「学士力の保証…」のテーマで講演することになっているので参考になることもあろうと、土曜日ではあるが「宮仕え、宮仕え」と独語しつつ12時半には会場に着くべく出かけたのであった。
 シンポジウムは参考にあることもあったし、元の方が現よりも出来が良いなあ、とか、若いのはまだまだだなあ、というのが感想。英国の大学評価制度や教員研修制度の紹介程度のことは、私ですらネットからダウンロードしているし、実際取り組んでいるらしい教員研修の技法の紹介も1980年代の認知理論もののようで、授業研究を真剣に勉強している教育心理学者からは(そう言う人がいるはずという想像に基づくものだが)言いたいことがありそうな内容であった(20年前ならそういう事をして嫌がられただろうなあと衝動をコントロールできる自分を感じていた)。
 ここ10年ほど前から高等教育の専門家連中が跋扈し始め、大学数の急増と学生のレベル低下、それを繕うための認証評価、FDなどと喧しいのだが、それらに対応すべき役割を割り振られてしまうと、何処かで何か変だけどと思いつつも逆らわず、いや棹さして来てしまったかもと自省感情も浮かぶ。
 だいたい、昨今の大学の状況を生み出したのは教育学の連中がしっかりしないからだ、森戸辰男や永井道雄レベルの教育学者がいて教育政策に口を出していたのは遥か昔で、教育政策が混沌とし始めた頃から教育学者の姿が見えず、声が出で来なかったのは何故?などと、八つ当たりしても仕方のないことを思って来てはいたのだ。もっとも、教育開発支援センターという大学の教学をマネジメントをリードすべき立場におかれ、少しでも日本の高等教育の成り立ちなどを勉強すると、今日までの有り様も仕方なかったのだなあ、と一概に教育学の連中は頭が悪いなどと言っているわけにもいかない。
 社会のシステムは複雑に交錯する私的利害と公共との絡み合いで蠢いて来たので、「だって、しょうがないーじゃない」といわれれば肯んずるしかない。

 今回は、参加したシンポジウムの話をしたいのではなく、もうアウト?と思うことが続いているということを言いたいのでした。つい興奮したようです。

 東京に向かう新幹線が品川に近づいたとき、ふとパンフレットを見たのだが、行き先を思い違いしていたことに気づいた。会場はホテル・オークラなのに、ずっと赤坂プリンスホテルだと思い込んでいたのだ。ネットで経路を確認する際に赤坂見附が最寄りとなっていたので、プリンスホテルと思い込んでいたのであった。両方のホテルは近いことは近いが私は、プリンスホテルは赤坂見附から、オークラは四谷から歩くルートが刻印付けされている(こういうことには歳のせいか柔軟性がない)。思い込みによるミスはすんでのところで回避されたが、アウト寸前であった。
 2日前にもK女子大から電話があり、大学院の成績が出ていないという。実はその朝に投函していたので事なきを得たのだが、3日前に探し物をしていて成績表を見つけ慌てて投函したのであった。10日ほど前に女子大の先生と話していたときには成績はずいぶん前に提出済みというつもりで会話していたのである(これは前期の成績と思い違いをしていたらしい)。またもや思い込みによるミスである。これもアウト寸前であった。
 東京に出かける途中の新幹線で、居眠りから目覚めると膨満感を強く感じた。何時ものようにおならが出ないのである(僕は大腸検診で憩室があり、おならが頻繁に出る体質なのだ)。昼ご飯を食べるつもりも取りやめ、オークラのホテルに着くとトイレに通うだけでシンポジウムは始まってしまった。講演を聴く間も膨満感は増悪し、お腹はキリキリ痛むのであった。だいぶ我慢をしたが、パネルディスカッション終了15分前に退座し、帰えることとなった(12時半から5時まで、プラス懇親会が予定なのです)。
 冷えたのかも知れないと、急に対処法に気づき東京駅で貼る懐炉を買ってお腹を温めつつ、ひたすらガスがたまったままで、時々襲う痛みをこらえつつ9時前に這々の体で帰宅した。風呂に入った後は夕飯も食べずに寝たのであった。自宅が大学近くであったならお腹が痛いと救急病院に行くか、パンツを汚していたかも知れない。まさにアウト寸前であった。
 記憶力も体力も、もうアウト寸前なのかも知れない。9時間の睡眠後,今朝は体調が戻ったようで、昨晩は不可と思っていたスイミングも行ってきた。まだアウトでもないのかもと、希望的観測との間で気持の揺らぐことであります。

入試

 今日(1/23)も入試のために早起きである。早起きというのは適切ではなく、出勤するのが通常よりも早いと言う方が正しい。先週末のセンター入試では7時半に大学に到着を2日続けて行なった。今週末は自分の大学の何回目かも覚えられない入試である。肉体的疲労はぎりぎりのところまで来ている。
 この時期になると、センター入試では鬱々とした不満感情がひとりでに毎年わき上がる。おそらく会場となっている大学で長時間監督をさせられる人たちには共通のものがあると勝手に思っている。30年ほど前まで各大学に任されていた入試では難問奇問が多くて、それが社会問題までなって来たことを理由に始まった共通1次試験がセンター入試に代わり今日にいたっているのだが、その使命は終わったと言ってよかろう。
 全国で公平さを担保するという理由から寸刻違わない形式で試験が行なわれるのは、どう考えても非常識である。非常識とは心理学的にはエラーが出るのが人間なので非常識なのである。やり方にミス(5分早く始めてしまったなど)を、マスコミが報道するものだから実施する側のプレッシャーは並大抵のものではない。実施本部にはマスコミが何かミスはなかったかを期待でもするかのように何度も聞いてくる。そのために、監督中に居眠りしたなどと報道されてしまう。教員が試験監督で職員は裏方に回されるのもはじめの頃の国家公務員的発想の産物であろう。だいたい様々な分野の学者や研究者に専門外のことをマニュアアルどおりに間違わずにやれというのが、心理学的には間違っている(と安全心理学の研究者なら言うはずで、僕の個人的経験からもこの先生は向いてないなあ、と感じることは多かった)。彼らに本務である研究に当たらせる方が確実にコストパフォーマンスは高いことは言うまでもない。監督者に当たった教員なら誰でも、この時間を研究に配分したら実験が進む、論文が書けるのにと思う(他の暇な時間でやっているのかい?という外野の声も聞こえそうではあるけど)。
 独立法人化された入試センターは60点当たりを最瀕値とし正規分布する試験問題としては質の良い問題を作れる法人になったのだから、プールされた問題群から必要な大学が必要な科目の問題を購入させ、各大学が独自でそれを使った入試をすれば良いのだ。そうすれば、各大学が好きな時間帯に入試が可能である。
 センター入試利用の大学が増えたなどの新聞情報を流して一法人の太鼓持ちをするのを目にするのも不快である。全科目受験する者は以前よりも激減しているはずで、1~2科目だけ受験者を含めるという数字の使い方をしていることにマスコミは気づくべきである。マスコミはセンター入試の翌日に全科目の問題と答案を細かい文字で何頁にも渡って掲載する。予備校や大学の広告が取れるというので止められないのだろうが、何頁も渡ってこのようなものを掲載する価値がどこにあると言うのか(文字が小さ過ぎて読めずに腹が立つという因子の寄与は少ない)。もっと他にすることがあるだろう!と毎年突っ込みを入れている。学力偏差値の両極端にある大学ではセンター入試の成績の実質的な利用はわずかなのだから、一法人がやる事業に別の法人の職員を使われるのは拒めば良いのにと思うことしきりである。ネクタイ着用のことなどと、監督者の服装の指示までさせるというのはセンター入試の法人の傲慢さというしかない。
 いったん構成された組織は自己組織の強化に向かい、始まった事業は肥大化する(私大もしかり)、という法則は入試センターも例外ではないということで、事業仕分けの対象にならないものかと密かに思うのだが、知人も勤務しているので声高には言い難い。
 疲労が蓄積してくると、このように不満は醸成され拡大して行くのである。今週2回も飲み会をやってしまったこともあるので、入試だけがその原因でもないことのだが、センター入試のやり方は再考すべきであることは主張しておきたい。