教育実習指導から
現在の勤務校の所属学科の卒業生の主な進路は養護教諭である。関西地区では一二を争う実績を持つということで,大学の「売り」となっている。教員免許を取得するためには、当然教育実習を受けねばならない。希望学生が多いので,これ又当然の帰結として,実習担当教員以外の教員も巡回指導に出向かねばならない。私も4名のゼミ学生の出身校での実習指導に出向くことが仕事となる。加古川や和田山などの遠隔地にも半日掛りで出向くのである。
名古屋大学に移籍する前の大阪教育大学では当然の仕事であったので,面倒ではあるが、特段嫌なことではないが喜々としてでもない。昔は専門でもないのに学生の行う「国語」「算数」などの研究授業を見学して、その小学校の先生と一緒に「研究授業の反省会」に出て意見を言わねばならなかった時に感じたとまどいは、今回の養護の学生実習では味わうことがなくて済んでいる(見学はしたけれども、養護の先生の仕事の大半は授業ではないからである)。当時、私のような心理学の教員が「教科学習」に特有のことなど分かりもしなかったのに大過なく過ごせた(ように思える)のは、不思議である。「何とかなる」「何とかせねばならなかった」苦し紛れの適応規制が働いて、それらしいことを発言したせいなのか、大学の先生ということでの小学校の先生の遠慮のせいだったのだろうか。思い返せば冷や汗がでる。
昔もそうであったが、実習校を訪問すると校長先生や教頭先生との会話が必然的に伴うことになる。知らない人との所謂雑談というものが私は得手ではない。これが苦痛とは言わないまでも、重荷である。セールスマンの仕事を選ばず、正解であった。
15~20年前の当時の管理職先生相手の雑談内容は年配の教員への愚痴であった。曰く、「教授能力に欠ける」、「やる気がない」、「権利だけ主張して休みだけはしっかり取る」などなど、大量に教員を採用せねばならなかった時代にむやみやたらと教員採用をした「つけ」についての愚痴であった(そう言えば最近、このような愚痴がしみ込んでいて加齢のために前頭葉機能が低下したのか、抑制が利かなくなって大臣職を棒に振った御仁もいたが、当時の管理職の悩みはそんなことであった)。
しかし、今年15年ぶりにうかがった小学校での校長先生の愚痴は、子どもの問題と幼稚化した父兄の行動ばかりが話題であった。教員の問題よりも「躾け」ができておらず、学級での学習に適応できない子ども、子どもの問題を学校に帰属したがる父兄、父兄同士のトラブルの仲介、などであり、ずいぶん様変わりしていた。15年前には絵空事であった家庭で虐待される子ども、崩壊家族などの問題がもはや現実のものであるとの印象を強く持った。
1977年頃、英国の大学での同僚の一人が「child abuse」が専門であるというのを、そんなの日本ではあり得ないと言っていたのに、信じられない変化である。
30年間に日本では何が起こったのだろうか?社会格差だろうか。小泉政権以降に顕在化した社会における格差が原因として取り上げられることが少なくないが、それだけでもあるまい。50年前にも格差は日本の社会に厳然としてあったからである。地域には眼に見えない格差があり旧地主や名士のうちの子どもとそうでない家の子どもの間には格差があり、トラブルを起こしても対等に処理する仕組みなどなかったように思える。しかし、厳然とした地域社会での秩序があったので、授業中に先生の指示に従わない児童にたとえ身体的に罰を与えても、先生と父兄の間には相互了解的な格差があったので問題にはならなかった。当然問題を起こした子どもの父兄同士のトラブルなどは顕在化することはなかった。
封建制度の残滓が生み出す秩序ある社会は、ある側面では窮屈で住み難い訳だが、そこにはその住み難さから脱出し得体の知れない何かを変えたいとするエネルギーが満ちていたような気がしないでもない。50年あまりかけて覆っている秩序をもたらす膜をくぐり抜けてみると何も見当たらず、どうやってよいのか分からない、共同幻想もいだけない状態にあるのが現在というところか。それにしてもこのような公教育に仕組みの瓦解を許した行政の責任は大きい。政権の交代は必至のようだが、つぎは大丈夫なのかしら、などなどと、簡単には答えの見えない戯言を、帰路の車窓から見える田んぼや山々,その間を縫うように走る公教育に仕組みの瓦解と引き換えのように舗装された狭い道路を眺めつつ自問自答したことであった。とまれ、我が身に比べて小学校の先生は大変であることだけは良くわかった。私も給料に見合う働きをせねばないなあとも感じたことであります。ときにはルーチイーンの日常を離れる自問する機会というものは大切なようです。