EMINA 美奈 恋
EMINA 時を越えた4つの絵物語 美奈Ⅲ 恋 足下に連なる熱く柔らかき砂の絨毯遠くに揺らぐハーレムの蜃気楼夢幻の空白を彷徨う小さな影心を乾かす砂漠の嵐に妖精の髪は妖しく波うちオアシスの清き湿りへの道しるべを漂わす愛とめぐみの そのひとしずくは牡豹の傷ついた肉体を潤す遠く哀しき咆哮をとどろかす天の陽炎・・ 恋 今日は出版社の翻訳の仕事の打ち合わせがあり,美奈は早番で店を出ねばならなかった。 先ほどの男のことが気になっていた。 夏の夕陽の最後の日差しが急ぐ女の小麦色の素脚を水平から熱く照りつける。表情のない都会のビルの人ごみの中を潜り抜けるようにして電車に飛び乗った。 所々で執拗に自分に注がれる、日本の男の視線にもずいぶん慣れてきた頃であった。 吊り皮に両手でぶら下がる様にもたれかかり、目を閉じてイヤフォンを白い貝殻のような小さな耳にそっとあてる。 チェット・ベイカーの"Someone to watch over me "が流れてきた。ストリングスをバックに中性的な声が妖しげに少女の恋の憧れを謳う。 ・・迷える子羊の飼い主はどこ 想い焦がれる人 ずっとわたしを見守ってくれるひと・・美奈はこのアンニュイな雰囲気を持つ悲劇のトランペッターの奏でるその曲の深い暗闇に身をたゆたわせるのが好きだった。瞼を閉じる美奈の恍惚とした表情は誰の目にも美しかった。時々,その綺麗な長いまつげに、ひと滴の涙が伝わるのが見えた。人は皆その涙に何かの哀切な、時を越える彼女の心の物語を感じ取っていた・・。 私の待ち望んだひと、ある日私は時の偶然から、その見知らぬひとを見つめている。これまでも,きっとこれからも、この心ときめく瞬間は二度と再びは訪れはしまい。貴方の投げ返すその優しい眼差しは、私が待ち望んだそれ・・。深い悲しみと愛の記憶のあふれでる永遠の時の泉貴方とともに愛し合うとわの幸福の湧き出るあの熱帯の紫の花咲く 幻の泉・・・。 美奈は、先ほど初めて出会った男の、・・マスターは確か’ユウ’と呼んでいたその情熱的な瞳の奥にいる自分自身を想い描いていた。何処からともなく、こころに浮かんでは消えていく詩をトランペットのメロデーにあわせ口ずさんでみた。翻訳した原稿の入った紙袋を、柔らかな腕にそっと挟み、滑らかに波打つ黒髪からは、金のピアスの似合う白い耳が覗く。イヤフォンに片手を添え、瞼を開き、そのまま原書をパラパラとめくってみた。でも美奈の目には、あの男の面影が現れては消えるばかりだった。 愛は暮れ行く空に消えいらんとする一筋の雲。夕暮れ時の淡い木立の影に寄り添うように海辺の公園のベンチに座るもう一つの残影。そう、潮に朽ちかけた椅子を覆う孤独な影。遠く銀色の星をみつめ、幾世代も前のこの日この時のデジャビュの記憶に浸る一人の女のいのちのぬくもりのあと。 そしてそこには・・もう一人の僕がいた。 その夜遅く、出版社の仕事から戻った美奈は,部屋に入ると、汗に濡れ体に張り付いたピンクの薄いシャツと白のミニスカートを脱ぎ、黒のシルクの下着だけになって冷たいソファにもたれかかった。目の前に等身大のミラーが置いてある。美奈は目の前に映し出される裸の自分と、こうして無言でよく対話をした。"・・貴方は、ほんとうは誰?何処から来て、私と一緒にこれから何処に行こうとしているの?あなたのその身体は私のもの?心はずっと昔のままのあなた・・。そう、幾世代も前のあなたが、まだこの私の体の中に眠っているわ。どう・・、今日はあの日と同じ出会いの予感がした・・?"そこにあるのは、小振りながらよくひき締まった腰の曲線、小麦色の流れるように艶やかで豊かなラテンの女の身体。美奈はそんな借り物のような神の造形物を他人ごとのように見つめてみた。銀のシガレットケースから細長いブラウンの煙草を一本抜き出し、柔らかなルージュの唇にそっと刺しこむ。小さな丸い額を下げ眉を細め、細い指で口元のライターの火をつける。乾いた着火音が広い部屋に染み入るように響きわたる。緑色の落ち着いた厚めのカーペットに下ろす裸足の指先が心地よい。レースのカーテンからは、夜霧の中遠く都会の摩天楼のランプが薄っすらと点滅する。淡くシックな間接照明に部屋は照らされ、本棚の愛蔵の文学作品の背表紙の金文字が薄っすらと光に浮かび上がる。アンプのオレンジ色の光が動き、スピーカーからサックスの音色が静かに流れ出て、美奈の疲れた身体をそっと優しく包み込む。コルトレーンの’バラード’だ。青色の煙が一筋、女の熱い吐息とともに口元からゆっくりと宙に舞い上がる。’バラード’は、美奈を甘く切ない一人の孤独な女の心にする。微光の散乱する暗闇に、恍惚とした自分の裸の身体から、金色の霧が渦となり天井めがけ昇っていくのが見える。黄金の命の息吹だ、と美奈は思う。 魔の使いメフィストが、哀しみの香りする震える君の唇にそっと口づけし、氷の舌を差し込む。気高きジャガーが森で咆哮し、君の中で氷は解け、熱き愛の潤いの予感にその白き肌は紅に染まる。風は時を超え南から吹いてくる・・。 小さくなった煙草を細い指で灰皿にこすり、豊かな体の曲線をただ強調するだけにあるかの様な黒いシルクの下着を鏡の前でゆっくりと脱ぎ捨てる。裸のまま、ひんやりと冷えた部屋を音も無く通り抜け、浴室に入る。熱い霧が柔らかな身体を包む。シャワーの細い湯束が髪を濡らし、湯滴は徐々に重なり大きくなって遠慮するように細いうなじを降りていく。 美奈は一瞬目が眩むと、裸のままそこにひざまずいた。徐々にシャワーの音が遠くなっていき、熱い湯霧の中で茫然と,不協和音を伴ういつものあの幼い日の哀しい記憶が蘇ってくるのに、身を任せていた・・。 哀しみ ’Cuiaba’ ・・あの日、ダウンタウンの小学校で午前を過ごした後、いつものように父親孝之の運転する車の助手席に座り家に向かっていた。 滑る様にハイウェイを走り、突き抜けるようなマットグロッソの真っ青な空の向こう、遠くスコール雲が覆い始めた熱帯の緑の密林がみえる。走りゆく赤や紫の原色の花々の群れを眺めながら、車のスピーカーから流れる軽快な”ショーロ”の曲に合わせ、美奈は嬉しそうに小さな体を揺すっている。 週に数回、お迎えの父親と二人での1時間余り、車中の昼食前の幸せな時間だ。 もうすぐ家につけば、テラスに素敵なランチを準備して、大好きなママMaira(マイラ)が待っていてくれる。そして庭の緑の樹からは美しい鳥たちがショーロのリズムに歌う。美奈は、優しいパパのエスコートでダンスを踊る。 ママ はいつもきれいで、宝石のように輝く黒い瞳でふたりを見つめ、テイーカップを片手に幸せそうに笑っている・・。 家につくのが待ち遠しい・・。 でも、その日はいつもと違っていた。 隣の父親のハミングが突然やんだかと思うと、呆然と遠くを見つめ無言で車のアクセルを踏んで車を飛ばしていた。”パパ、どうかしたの?、怖いわ・・。” 幼い美奈はその様子に不安を覚えて涙顔になっていた。 ラジオの軽快なショーロの曲が、あたりに不協和音を放っているようであった。父親の目指すジャングルの先のプランテーションの方に、何かの白い煙が上がってる。森火事だろうか・・。”美奈、しっかりとドアにつかまっていなさい。じきつくから・・。”そういうと、ラジオのスイッチを切った。 ハイウェイから森に入った。10分も土埃を上げ森道を車を激しく揺らせて走ると、多くの村人たちがこちらに向かって駆けてくる。その多くはママと一緒にいるはずのグラン・パパのプランテーションの農民たちだった。 父親の孝之は車を止めると、こちらに向かってきた農場の使用人のインデイオとしばらく話していた。車に戻った父親はまるで別人の様で、額に大量の汗をかき、紅潮した顔は既に青ざめていた。そして美奈の頭を撫で、震えるもう片方の手でハンドルを固く握ったまま、こういった。” 美奈・・、賢い子だから、ペリ(Peri)おじちゃんと一緒に行きなさい。お父さんはママたちを連れて後ですぐに迎えに行く。 ママは、大丈夫だから・・。” そういうと、車から泣きじゃくる美奈を助手席からおろし、Periの汗のにじむ小麦色の腕に預けた。 彼は美奈に微笑んで何か言ってなぐさめようとしている。 孝之は美奈に一瞬視線を送って微笑むと、すぐに厳しい表情でハンドルを切り車を急発進させた。 そしてプランテーションのまだ火の手の回っていない迂廻路へと、黒い煙で空が暗くなった森の泥道にエンジン音だけを残して車とともに消えていった・・。 あたりは灰色の煙が塵とともに風に舞い、今朝と違ってジャングルの動物たちがけたたましい鳴き声をあげていた。 いつもは友達の、赤や緑の熱帯の原色の鳥たちが、森の焼ける匂いの中を方向を見失うように美しい羽を散らして空を飛び交っていた・・。 美奈は、Periの小麦色の腕の中に抱かれながらも、この世で自分だけが一人ぼっちに取り残され、何もかも失ってしまうかのような予感に怯えていた・・。