EMINA  時を越えた4つの絵物語 美奈Ⅳ 透明の愛

 
 





 闇夜に漂う蘭の薫り

一筋の稲妻に照らしだされる男女の影
柔肌に包まれる男の背の傷あと
ゆっくりと宙を舞う女の黒髪


闇の帳(とばり)に映る平安の夢の絨毯
女はその漆黒のベールのまどろみに溶け
男は 遠き戦いの儀式の場へとひとり思いをはせる




    恋


 美奈は、濡れた髪をバスタオルで拭うと、そのまま冷え切った体を覆い、一人ソファに横たわった。軽い頭痛を残して、やがていつもの幻覚が遠のいていった。まだ先ほどのコルトレーンの’バラード’のメロデイーが耳の中で反響している。窓の外に、遠くビルの光がレースのカーテン越しに音もなく小さく点滅する。深夜の都会の薄明のベールの上、はるか漆黒の天蓋に、鋭利で冷たい月がこちらを見つめ、どこか悲しげに銀色に輝いている。

’太陽の汗は黄金、・・そして月の涙は銀のしずく。’

 美奈は、遠い南米の日々を思い描いていた。

 

 美奈は幼い頃、ある事故で母親をなくしていた。母の名はMaira。 美奈は、その後大きなプランテーションを営んでいた母の実家に引き取られるより、商社マンの父親 孝之に従って生きていくことを選んだ。

 美奈の祖父の家系は、古くはポルトガル系の植民者であった。長い年月に欧州系の資産家のあいだに閨閥が築かれた。 が、時として祖母のように、純粋なインデイオの血が混じったりしていた。長い暗黒の南米の歴史の中、代々、農園経営者や国の代表的な法律家、実業家などを一族に輩出していた。

 現在も、財界や大学関係者に姻戚関係があった。祖父は、大きな農園の経営者でもあり地元大学の学者でもあった。その立場で、先住民の集落を守ろうと尽力した。当然長い歴史の中で既得権益を得たものたちは、表で裏でそれを妨害しようとした。日本人商社マンの尾崎 孝之は、Mairaと出会ってから、その義理の父親と共通した理想を抱くようになっていた。

 尾崎は、内陸のインデイオの為の統合的な医療プロジェクトの夢を、東欧支社の入社以来の親友に向けた手紙のなかで、熱く書き綴っていた。その友人は、後に商社を離れ、ひとり東欧の古くからの由緒ある大学に入り直し、医学生になる若き日の瀬川 昇である。

 

 父親と尾崎ふたりは、書斎でグラスを傾けながら、開け放った窓から美しい星々を眺めては、深夜まで夢を語り合った。幼い美奈には話の内容はわからない。ても、どこか胸躍る、そのワクワクとした二人の笑顔が好きで、いつまでもそばに一緒にいたかった。森の動物たちの声が遠くに聞こえている。窓から外の満天の星空に見とれていると、ゆっくり動いてきて、美奈にウィンクするように最後に虹色に輝く星がある。森からの風が、興奮に火照る小さな美奈の顔を優しく撫でて通り過ぎていく。宇宙がひとつにになるような不思議な高揚感がある。やがて、母親に促され、いつもやむなくベッドに向かう。添い寝して、母Mairaが、インデイオに伝わる物語をやさしい声で語って聞かせてくれているうち、天空の夢のまどろみの中にいつか溶け込んでいく。物語の中の、万物の創生主からの使者 ’星の医者’が、幼い美奈に幻の中で何かとても大切なことを話しかけてくる。言葉の意味はわからないけど、とても広く大らかで、すがすがしい幸せなイメージが小さな美奈の心を穏やかに包み込む・・。

 ふと小鳥の声に目覚めると、朝の緑の雫の香りが爽やかな風に乗って森からやってくる。動物たちが遠くからまた遊びにおいでと呼びかけてくる。美奈にとって心躍る一日の始まりだ。

いつも安心できる身近なところに、Mairaの美しい笑顔がある。両親が楽しそうにコーヒーカップを片手になにか話している。柔らかな白いベッドの上で、そっと二人を見ていたい気分だった。 幼い美奈は、穏やかで温かな愛情に包まれた自分を幸せに感じていた。

 

 やがて、美奈も少し大きくなって小学校に上がる頃、孝之と祖父が、二人で練ったプランを、具体的に展開しようと考えていた矢先のことだった。美奈のすべての幸福を無にする、あの忌まわしい事件が起きた。 父と祖父ふたりで描いたその壮大なプランも、あのジャングルを巻き込む大火事の日を境に、消え去った。

 

 美奈は、その後そのままその土地に留まれば、それなりの豊な社会的既得権に守られたはずだった。 でも自分の愛する父親が、何故そこを去ろうとするのかを、既に幼い頭なりに感じ取っていた。

 

 生まれ育ったジャングルを抜けると、そこは広く明るい草原だった。美奈にはそれまでとは違った未知の未来が、広く明るいその先に、これから自分を待っていそうな気がしていた。

 父とふたりきり、幼い足で遠く見知らぬ大地を歩いた。でも、ほんのすぐ傍に横たわる緑の広大なジャングルは、美奈にとりいつも慣れ親しんだ一つながりの大きな庭だった。

 

 旅の行く先々で、日常は、ガードされた立派な住居に落ち着いた。家のその鉄の塀の向こう側には、いつも優しい目をした粗末な身なりの子供達がいた。
 みんな素直で明るく、美奈にも分け隔てることなく親切に接してくれた。 だが、美奈は子供ながら、どこか他と違う特別な自分がいやだった。

 周囲の皆のほとんどが貧しく、でも素朴で平和な暮らしの中に生きていた。美奈はひとり森に入った。まるで浜で生まれた子供たちが、どこまでも水平線の向こうまで続く青い海の、甘い潮の薫りやリズミカルな波の音に誘われて、自然に砂浜の波に浸かるように・・。

 村から少し奥に入った豊かな森、ラテンアメリカの幻想の緑の樹海は、何処までも同じだった。

森の中の原色の花園で、美奈はいつもひとり夢と現実の間をさまよい、物心がつき初め、やがて自我が芽生えていった。

 

 不思議な既視眼的な感覚が、そんな熱帯のジャングルや、インデイオの住む霧のかかる山々の村に入ると、何の前触れもなくごく自然にも美奈の中に蘇ってきた。 どこか見覚えのある、恐らくはずっと古い時代に生きる自分自身の映像だった。時として、亡くなる前の愛する母やインデイオの祖母の、幼い頃の姿だったりもした。 幻想の入り混じるなか、過去に起きた悲劇の衝撃を、幼い美奈にはまだ受け入れることができず、時として発作をおこし、激しい頭痛を伴いその場に崩れ落ち、そのまま森の中で気を失った。

 

 でも、思春期の予兆なのか、なかには、稀になぜか狂おしく、甘美で、懐かしく胸を焦がす幻を伴うこともあった。

目を覚ますと、小鳥が緑の樹から自分を見おろして囁きかけ、また可愛らしい森の小動物たちが自分のそばに寄ってきては、鼻で腕をつついたり、頬を撫でてくれたりした。

 

 一頭の大きなジャガーが森の奥から突然現れ、美奈に近づいて頭を摺り寄せることもあった。美奈は目を閉じ、両手でそっとその大きな体を抱いた。

ある時は、小さな美奈を一飲みにできそうな大蛇のゴアが、川辺や森の’リアナ’の樹のツルから降りてきて美奈のそばに寄ってきた。美奈はその姿に美しさを感じることはできても、怖くはなかった。だから可愛い小動物に接するように、自分から近づいていった。

何故か、そんな動物たちの誰もが、美奈の小さな体と心では背負いきれぬ’傷’をそれぞれに引き受けて、苦しみを癒してくれているように思えた。

誰かが遣わした森の使者であるかのように、自然の中で生きるための知恵を、幼い美奈に心の中で語り掛けてくれていた。動物たちは、木の実や果物をどこからか集めてきては美奈の前にそっと置いた。美奈が喜ぶものを与えるのが彼らには嬉しいようだった。

 森の精のささやき、そして樹々を舞う美しい色をした鳥たちの歌、そして小猿やパカのような自分に好意を示す動物たちの、そんな心の言葉を読み取る力が、美奈には幼いころから備わっていた。 それは古いインデイオ系のメステイソである母親のMaira譲りのようであった。

 

 たった一人で森の中にさまよいこんでも、一人ぼっちの様に見えて、実はゆく先々で、自分を愛し守ってくれる仲間たちにいつも囲まれていた。

大自然の大いなる命の脈動で、皆が繋がっているように思えた。小さな動物たちや隠れた森の’精’たちと、時間を忘れいつも一緒に遊んでいた。

そこには、皆を包む共通の想いの力の’場’があり、その温かな’場’は、彼女を害しようとする毒虫や禽獣の’意思’の発動の瞬時に、不思議なエネルギーの電撃的なバリアで撃退するようにして美奈を守ってくれていた。

 旅の往く先々、何処までも続く広い森の広大なエネルギーの場として、目を閉じる美奈の目の前に、七色の霧が舞うようにしてそれは再現した。

 ジャングルの緑の高い樹々がどこまでも延々と繋がり、無数の鈴の音が響き渡るように遠くまで風のそよぎのなかに共振していった。動物たちは、森の樹々のなかに伝わるその繊細で心地よい響きをたよりに、何処からともなく幼い美奈のまわりに集まってきた。

 

  だが、商社駐在員の父親の孝之とふたり、南米の各所を滞在した後、10歳前になると、孝之の日本の横浜の実家に預けられることになった。

そして中高一貫の名門女子校に入れられた。それから改めて、美奈に純粋な日本的な伝統教育が施され、大学は推薦で都内のある私立大学の文学部に入った。


 在学中には、ブラジルに留学で里帰りし、マットグロッソの広大なプランテーションの懐かしい母の実家に10数年ぶりかで戻ってきた。

あのインディオのぺリが美奈を出迎えてくれた。歳を取らず、若い時のままだった。

 

” ミナ、よく戻ってきたね。

 とても美しくなった。亡くなった奥様と生き写しだ・・。

ここは、あなたのおうちだよ。・・覚えているかい。

森の’仲間たち’もミナを待っている。

いつまでも、ゆっくりしていきなさい・・。”

 

両親と子供時代を過ごした懐かしい森の緑に囲まれた家だった。中庭には、母親Mairaが座っていつもひとり本を読んでいた籐の大きな揺り椅子が残っていた。

美奈はそこに座ってみた。少しきしむ音がした。森からの爽やかな風に包まれ、優しい母親の腕のなかに抱かれている頃を思い出した。涙が溢れ出た。

Periとふたり、屋敷から数キロほど離れた、母方Mairaのインデイオ一族の村を訪ねた。

 

 母Mairaをよく知る年老いたシャーマンは、娘の美奈を抱擁し、歓迎した。そして、幼いあの頃の母同様、部族の神話と物語を、いく晩も星空の下、深夜まで焚火を囲んでゆっくりと美奈に語り聞かせてくれた。いつの間にか子供のころ慣れ親しんだあの森の響きが虹色の薫りとともに蘇っていた。きれいな鳥が小枝に降りたち、どこかから一匹又一匹と、森の小さな動物たちが集まって来る。 

 

 雄大な協調的な自然のリズムの中で、インデイオたち森の住人は大いなる存在を敬い、ひっそりとその自然の懐のなかで生かされていた。この神秘的な’自然則’を母Mairaやその父親、そして娘婿の孝之らは、空気のように大切なものとしていつも身近に感じ取っていた。

 森と川の豊かな資源を大切にして、その恵みの必要な分だけを受け入れ、森の住人の遠い別の種族や動物たちとも、互いに住み分けして大きなシステムの中で共存している。何万年の生態系の歴史の一過程での、バランスの取れた大自然の屋根の下にたどり着いた、無駄のない生活形態なのかもしれなかった。

 そこでは、外部の人為的な倫理や価値観、便利さや物質的満足、そして貨幣価値を基準とした市場経済や物質消費の概念は無縁だった。従って、そうした他文化に生きる外部の者には、自然発生的なインデイオの古くからの伝統や神話は異次元的で、非効率で、荒唐無稽で奇異なものであり、蔑(さげす)みの対象であったに違いない。

 

 万物創生から今日に至る自然界の霊的な摂理が、教訓的・隠喩的にインデイオの子供たちの感性に訴えやすい’語り物語’の中に、存分に込められていた。長老は成長した美奈に、いま改めてインデイオの成人の儀式であるかの様に、それを伝えようとした。

そこには記号的な暗号が込めらていた。

ある通過儀礼を経たもののみが読み解くことのできる・・。

老シャーマンは、美奈の中に眠る、母親譲りの超越的な感性を見抜いていた。

 

 ” どこにいても、こうして星を見上げれば、夢の別の世界に飛んでいける。

我々とミナはもう既に、その星の彼方まで’偉大なるスピリット’の息吹の中につながっている。

心に現れ出る美しい虹の中に、我々の世界と、無限の魂の世界をつなぐ架け橋があるんじゃ。

森の精、そして動物や植物たちは、この同じ虹色の息吹を吸って、皆が一つとなることができる。

 

 やせ細り愛に飢えたジャガーが、お前に愛を求め、知恵を授けに森より現れるだろう。 

その言葉は、’偉大なるスピリット’がつかわしたものじゃ。 

お母さんのMairaは、見えない世界に今はいて、Minaをいつも守っている。

さあ、あの星をみてごらん。虹色に今輝いたじゃろ・・。 天空には’星の医者’がいる。

どこにいても、おまえをああやって守ってくれている。 

だから、宇宙の中では、・・ひとりじゃない。”

 

 美奈は、ジャングルの中の自宅の屋敷に留まり、祖父がかつて教授をしていた地元の大学に留学して数年を過ごした。 祖父の専攻と同じ、中南米のインデイオの歴史と民俗学だった。幼い頃の、白い顎髭を蓄え銀の眼鏡をした祖父の優しい面影が想い出された。

幼い美奈は、書斎で黙って仕事をする祖父の足元に座って、静かに絵本を読んで過ごすのが好きだった。今、昔のままに再現し、保存された祖父の書斎。蔵書の多くはあの大火事で焼けたが、孝之が焼け跡の中から拾い集めた貴重な本がガラス窓のある大きな書棚に並べてあった。硝子の戸棚には、専門書と一緒に歴史的美術工芸品や壺やパイプなど、祖父の集めた民俗学的な希少な作品が陳列してあった。美奈は、広いガラス書棚を背にして、あの幼い頃の祖父がそうしていたように、大きな机の前の手すり椅子に腰かけてみた。

 そこから望める、正面の3方向の窓を開け放った深夜の満天の夜の光景が懐かしく想い出された。窓の脇の白い壁には、母親と祖父の写真の小さな額が掛けてあった。美奈は、この部屋のこの場所がすっかり気に入って、マホガニーの木の香する広い机で、窓を開けて、深夜静かに本を読んで過ごした。 

 そしてまた時々、祖父の時代の蓄音機で、書棚に重ねてあった古いレコードをまわして聴いてみた。古い時代のショーロ、そしてボサノバ、どこか聞き覚えのある心地よい女性歌手の歌もあった。

 Rudolph Kuntz・・、半分消えかかった祖父のインクの字でケースに記された名。かつて親交を深めたと思われる誰かから寄贈された、ベートーベンの’ムーンライト・ソナタ’と、アルゼンチンのタンゴのSP盤があった。 美奈は銀色の月の深夜、それにそっと蓄音機の針を下ろしてみた。遠い北国にふる冷たい雨音のような擦れた響きのなか、すすり泣くような孤独なメロデイーが零(こぼ)れ出てきた。

古き時代の、あのいつもの世界が美奈の中で蘇っていた・・。

 

 ジャングルの森の中での生活は、懐かしく、心安らいだ。

幼い頃は白かった家も、今はベージュに塗り替えてあった。が、あの頃の姿を再現してあった。 むかし母や父と幼い日を過ごした緑の樹々に包まれた中庭は、その後もPeriがきれいに世話をして、昔のままだった。 美奈は、揺り椅子に座り、ひとり目を閉じた。熱帯の鳥や動物たちの声が入り混じるなか、かすかに美しくリズミカルな空気の振動がある。。あの日の母Mairaのやさしい声が、森の奥から聞こえてくるようだった。

木陰で本を読んだり、Periの喜んで用意してくれるインデイオの郷土料理をいっしょに楽しく頬張ったりした。母親の料理の懐かしい味がした。美奈が驚くと、

Periの顔が、’そうだろ、’と・・得意げに微笑んだ。

 

 熱帯のジャングルの緑の高い樹々の天蓋に包まれるように、美しい花が咲き乱れる小さな花園がある。昔のようにひとりで入り、爽やかな風が抜ける大きなツル植物リアナの樹の下でまどろみ、目を閉じた。すぐに、あの子供の頃の神秘の世界に戻ることができた。シャーマンの長老が教えてくれた、偉大なスピリットの息吹が感じられた。 もう、寂しくはなかった。

 ほんのちょっと留守をしていた、大きな森の住処の家に戻ってきた気がしていた。

 

 里帰りは、美奈にとり深く原初的な魂、母親や祖母から受け継いだ遠い記憶を取り戻すための大切な魂のリセットの瞬間であった。

 

 

  ブラジル留学から戻り、日本の大学を卒業した後、しばらく父親のいた商社に勤めた。

が、今はひとりになって、前からしてみたかった日本の出版社の文学本の翻訳をしていた。
 美奈は、ラテンアメリカの幻想世界と、長い歴史の明暗を、もっと多くの人に知ってもらいたかった。

 偶然、幼い頃の聴き覚えのある’ショーロ’というブラジルの懐かしい曲が、この店の木の扉窓から漏れ聞こえていた。 この場所がすぐに気に入り、仕事の帰りによくこの店に寄っては、片隅の席で、ラテンアメリカ文学の翻訳の原稿を整理していた。
 彫りの深い、美しく小麦色がかった卵型の横顔はいつも彼女の座る窓際に美しく映えていた。 どこか哀感の漂う理知的な美奈の表情が、緑のつたの絡まる異国風のエキゾチックな店の雰囲気を醸し出し、通りすがりの人にハッとさせる魅力的な印象をガラス越しの窓辺にそえていた。
 そしていつの日からか、この店のマスターの勧めでアルバイトにここに通う様になっていた。今朝も、いつもの様にピンクの貝殻の掛けた店の木の扉を開けた。
   "おはよう、美奈。"  マスターが微笑んだ。

 美奈は、淡い光の店の中を何げなしに見回してみた。

美奈はふと、ため息をついた。

あの日の、その男は来ていなかった。 もう二週間になる。
美奈は、初めて見たはずのその男の目に惹かれていた。 心安らぐ、でもどこか自分と似た世界の住人であるかのような、そんな辛い孤独の陰が漂うのを感じ取っていた。

インデイオの村で長老のいっていた、愛に飢えた孤独なジャガーの姿がそこに重なっていた。
 

 

  初 恋


 

 美奈は、日本の大学に入りしばらくして、年上の男性に恋をした。当時勉学の傍ら、翻訳のアルバイトをしていたある出版社の妻子ある男だった。
 美奈はベッドの中で抱かれながら、ホテルの清潔な白い天井を見上げて自分の髪を撫でながら、男がそらんじてラテンアメリカの詩を詠うのを聞くのが好きだった。
 

 ’太陽の汗と月の涙’

 この悲しい言葉に込められた意味を、収奪された南の大地を遠く見据えるように、男は優しい目で若い美奈に静かに耳元で語って聞かせてくれた。

" 私の鏡は、夜を横切る流れ。
小川となりて我が部屋から遠ざかる。
私の鏡は、全ての白鳥の溺れ去ったあの水より深い。
それは城壁に囲まれた緑の泉。
中ほどに、錨をつけた君の裸体が眠る。
その波の上、夢遊病の空の下を、
私の幻が船の如く出港する。
船尾に立ち私を見つめ、歌う。
私の胸は、神秘の薔薇が膨らみ、
盲いた小夜啼鳥がこの指に羽ばたかんとす。

                  ビセンテ・ウィドブロ  水鏡 "


 自分が幼い頃、父とともに南米で過ごした日々。 人々の生活の背後に深淵に横たわりすべてを取り巻く大自然の影と幻想を、男のゆっくり語るそれらの詩が、若い美奈の感性に美しく髣髴と浮かび上がらせ、美奈は心安らいだ。
 

 だが、暫くの逢引の後、美奈が初めて愛したその男は、みずから過酷で政情不安な南アメリカの地域での勤務を選び、美奈の元から去って行った。
 それから何年かして一度だけ、日本に戻ったその男に美奈はやっとのことで連絡を取り、懐かしいあのホテルのバーで会うことが出来た。


 期待と不安の入り混じる中、辛い恋はでも今が引き際なのかとも思ってみた。
 美奈はグラスを手にして黙ったまま、充血した目で男の話をじっと横で黙って聞いていた。

 男は現地での切迫した情勢を、まるで美奈のいない虚空を茫然と見つめるようにして、日焼けして少しやつれた顔でゆっくり話し続けた。

 理想と信念を貫くことで、まるで自分の実ある生涯を燃焼し尽くそうとするかのような彼自身の世界であった。 美奈もよく知る森の奥地の幻覚の薬草に取りつかれたかのように、男は放心したまま話した。

 美奈はその背に、傷ついた森の動物の孤独を感じ取っていた。

そっと小さな温もりのある自分の掌をその温かな背に添えてみたかった。男の孤独を埋める永遠の、一輪の白い’蘭’の花でありたかった。

 でも、美奈はこれ以上はもう会えないだろう、と感じていた。
 二人を隔てる方向へと、無情にも重苦しくて厚い時間の壁が築かれていく・・。 

時の悪戯のもたらした縁だと思った。
 

 "どうか、お身体には、・・気をつけてください。"
 美奈は、別れ際、一言囁くように言った。

 次の再会の契りもなくそのまま無言で去る男の、懐かしい背を美奈は見送った・・。 

 これでいい、と思った。
 美奈の切ない最初の恋は、こうして消えいるように終わった。

 数年して男は赴任先の支局をやめると、日本の妻とも別れ、ひとり南米のインデイオの自立運動の中に消えていった。美奈はその後、男から一篇の手紙を受け取っていた。

男は仲間と伴に理想を追える喜びと、弱者へ永遠の愛を語っていた。
 あの人らしいと思った・・。
そしてやがて、南米のある国がクーデターで政権崩壊し、先住民族の血を引く軍人が少数の白人富裕層の支持を得ていた腐敗した中道政権を倒し、軍事的社会主義政権を築きあげた。

 あの人がよく話していた国だった。

 

 南アメリカはどこの都市も似たすえたような匂いがする。

美奈は幼い頃、父といっしょに歩いた前近代風の洋館の建物の背後に、汚れすさんだ街やその背後に横たわる緑のジャングルの暗闇にまで続く、小さな村の情景を描いていた。

 

 美奈はまたひとりきりになった。 それからしばらくして日本を離れ、ブラジルのふるさとに戻って、祖父が教員をしていた地元大学に留学することにした。何か、世俗で汚れた心を、幼い頃の森の中に戻って透明にしてみたかった。

 

 マットグロッソの実家で過ごしたのち、2年ぶりかで東京にもどった。復学してまた、あのマスターのいる恵比寿のライブハウスに通うことにした。マスターは懐かしんで喜んで迎えてくれた。

そんなある日のこと、店のカウンター脇の壁のテレビの大きな画面に、南米の政権交代劇のニュースが映し出されていた。あのひとのいた国だった。

クーデターの戦闘の混乱の中、燃え上がる街、ふとあの人の姿を現地の人たちの逃げ惑う中に見かけたような気がした・・。

 

 

 

  

 

   再 会


 数年前のあの日と同じ、暑い夏の昼下がりだった。

 

"・・美奈、何だか上の空だね。
ほら、悠ちゃんだよ。"

マスターが意地悪く笑って、ドアの方を促した。美奈は、一瞬驚いて振り向くと、顔を少し紅くして内向いた。
こんなにどぎまぎする自分に美奈は驚いた。
でも、悠というその男の目にそっと微笑みかけてみた。
それは、かつて愛したひとの孤高な憂いを漂わす目とどこか似ていた。

  "・・いらっしゃい。"

 日焼けした顔に微かな笑みを浮かべて、悠は"やあ。" と一言、女に会釈した。
美奈の黒のミニスカートから、艶やかな小麦色の健康そうな素脚が少し震えている気がした。

 眩しい晩夏の日差しから、冷んやりとした店の落ち着いた薄暗がりの中に入ると、Maisaの静かな曲が流れている。どこかで聞き覚えのある気がしていた。腰を下ろす悠の席の前に、彫りの深いエキゾチックな女の美しい笑顔があった。

白いブラウスに少し肌けた美奈の小麦色の胸元に、悠は熱帯の原色の花の香りを感じ取っていた。

" お久しぶりですね。 ・・お仕事? "

美奈の唇は派手さの無い美しいルージュに潤っている。

悠は、目を細めて煙草を灰皿に擦り付けると、"取材でね。" と一言云った。

"・・ ミナちゃんだったね。  いつから日本に? "
女は男の口からでた自分の名に、ハッとしてカウンターを振り向くと、マスターが笑っている。

" ・・日本には、小学生の子供の頃からです。 だから今は、身も心もれっきとした日本人。 "
美奈はふざけて見せた。女の唇に小粒に美しく並んだ白いトパーズのような歯が可愛らしかった。

"・・そうだね、少なくとも、
後者の方は素直に認めるよ。"

悠も茶目っ気にやり返した。美奈は顔を薄紅に染めた。
" ・・・。 "

微笑んで少しうつむくと、そのままマスターの笑っているカウンターに戻っていった。
美奈は恥ずかしそうにマスターをにらんだ。
"・・美奈、よかったね。 

ここはいいから、行って悠ちゃんと話しておいで。 "


氷を浮かべたダイキリのグラスを二つ、マスターは
美奈に差し出すと、悪戯っぽく目配せした。

 " ありがとう、マスター。 "

美奈は少し震える手でグラスを持って、
自分の素脚に男の目を微かに意識しながら男の席に向かって歩いた。美奈は悠の前のボックスに腰掛け、膝を薄いピンクの絹のハンカチで覆うと、言った。

" これマスターから・・。 よろしければどうぞ。 "

悠は美しい美奈の素脚から視線を逸らすと女の瞳を見つめた。
 "  ・・きれいな澄んだ茶の瞳だね。  どうも、ありがとう。 "
 一言そう言うと、よく冷えて露の降りたグラスを日焼けした指で握り、美奈のグラスにそっと寄せた。
" 再会を祝って・・。"  

 



" ・・ 再 会?"

美奈は男の声に、遠い記憶の世界からの不思議な反響を感じ取った。
この世に生まれ出る前の、遠い過去に生きた懐かしい恋人に巡り会えた様な、苦しく切ない感情が突然巡ってきていた。

" ずっと前から、・・何だか、
あなたのこと、知っている気がします。"
 
美奈の中のもう一人の自分がそういった。美奈は自分の口をついて出たその一言に驚いた。

"・・嘘でも光栄だよ、素敵なお嬢さんにそんな風に言ってもらって。"
悠は笑った。くつろいだおとなの男の懐かしい笑みに、美奈は心安らいでいた。


 美奈は、男の目の中に、どこか悲哀の影が漂うのを見て取り、一瞬、悲しくて切ない映像が脳裏をかすめていくのを感じていた。
 

 美奈には、こんな幼いころから持ち合わせたシャーマニックな直感があった。
母親Mairaの一族は、ブラジルの伝統的な霊的信仰の土壌の中に生きていた。
 幼いころ慣れ親しんだ、巡っては消えていったそんな恍惚とした幻想の世界。

でも当時はまだ、その深い意味がよく分からずにいた。美奈は今、無意識のうちに、’デジャ・ビュ’をともない、いつもの幻にのみ込まれ、微かな頭痛とともにしばらくの時間、一人広大な緑のジャングルの’カオスの海’に漂っていた。虹色に光る蝶がゆっくりと舞っている・・。

 だが、やがていつもの苦痛が失せ、今は 心地よい美しく官能的な脆さすら伴った既視感に変わっていた。

シャーマンの長老がいっていたジャガーが、傷つき疲れ果てた姿で、そっと美奈の目の前を通り過ぎる気がした・・。 懐かしく、どこか痛ましかった。

 悠は、目の前の女の白いブラウスの胸が微かに震えているのに気づいた。
ふと、美奈の目を見た。 悠もまるで女の内面の世界の幻に共鳴したかのように その瞳の奥に不思議な映像が去来するのを感じていた。

 どこか見覚えのある密林の中を、小麦色の肌の少女が、自分の目の前の時間の流れの中を、まるで映画のフィルムを遅送りするようにゆっくり通り過ぎていく映像だった。
その少女の面影ははっきりと見えていた。とても懐かしく、何故か苦しく切なかった。
悠は、涙がとめどなく溢れ出てくるのを抑えきれずにいた。

"ごめん、・・どうしたんだろう、突然。"

振り返ると、美奈の美しい茶の瞳が宙を見つめ恍惚と潤んでいる。

ルージュの唇はえも知れぬ悲しみに震えていた。

 悠は、この細い女の震える身体をそっと抱きしめてやりたいと思った。幾世代も前の、忘れ去られた時空間をふたりは共有し、ともに過去に向かい彷徨っていた。いつの間にか互いの心は結びつき、もう先ほどまでの他人同士ではなかった。

 "貴方に・・、あの日のように、・・また愛されたい。"


美奈のダイキリの氷が軽く弾けた。悠は女の細い指を自分の角ばった小麦色にやけた指で絡めた。
店の中の背後から、往年のブラジル歌手’マイ―ザ’のしっとりとした歌声がながれていた・・。


 色あせた熱帯のあの遠き日々
愛と残酷は いつの日も隣り合わせ
記憶がひとつ蘇り 新たに物語がまた生まれる


度重ねる喪失の想いに すでに心は枯れ

目を閉じ、紅に色づいた頬を 女は男の背に寄せる
密林の奥深く この刹那の 一輪の蘭の花の香りにむせぶ

全てを無へと消しつくす ひと時の慰めの結晶

空高く 言葉なく眉をひそめる 銀の月