1986  ウクライナの雨

 




 キエフに雨が・・。嗚呼、どうか少女に伝えてほしい・・、
やがて白く透き通る無垢の肌に降りそそぐ災厄の予兆、絶望の静寂の黒い雨、
草原の片隅にひとりぼっちで大地に震える少女を、・・守りたまえ。

 チェルノブイリであの史上最悪の事故が起きた。真っ先に現場近くに向かい、被害者の救援に当たった医者の一人がエミーナの父ユージンだった。

 若い頃彼は、パリの学校に通い、そしてモンマルトルのアトリエに集う芸術仲間の一人でもあった。娘のリザを国外へ連れ出すよう、アトリエの夫妻に託されていた。

年月が過ぎ、ユージンは故郷のキエフで苦学して医者となり、彼と成長したリザの二人は、信頼し、愛し合い結ばれた。

戦争が終わり、リザがひとりヨーロッパに向かい母親を連れ戻した時、その変わり果てた姿にユージンは驚いた。でも、パリで若かった自分を支援してくれたあの芸術家の美しい妻の面影が残っていた。彼女は立派になったユージンを細い腕に抱いて感謝の気持ちを示し、ふたりを祝福してくれた。

 やがて、二人の間に娘が生まれると、彼女はいつも窓際で揺り椅子に座り、膝の上に小さな孫を乗せ、よく外の草原の風景を眺めていた。幼いころのエミーナの記憶では、言葉少な気にも心穏やかで、幸せな余生を過ごしているようだった。

エミーナは、その祖母の生まれ育った東欧の街クラクフの大学を選んで留学することになる。

 

 

 

 ・・その日の早朝、当局から連絡があり、不安がるリザを残してユージンは急き立てられるようにして家を出た。夫婦が楽しみにしていた娘エミーナの戻る日だった。
 環境の汚染の状況はまだ一部の者にしか把握されていない。外部にも詳細は知らされぬまま、とりあえず医師ユージンは、患者に与えるヨード製剤と、何らかの塵灰から自らの呼吸器を守る簡易衣マスクなど、後から思うと無謀とも言える装備で、患者の救援に向かっていた。
ヨードの錠剤は原発から放出され人体に吸引される放射性ヨードの取り込みを未然に防ぐ為のものである。


 エミーナはひとりクラクフを出て、ウクライナに向かっていた。悠が去ってから数日後のことである。
悠との思い出、そして両親との再会に胸を暖めながら、汽車を乗り継いでいた。
車窓からは、かすかに山々に雪を残す針葉樹の黒い森の連なりから、やがて、白い花々が所々絨毯のように咲きほこる広い草原へと景色が変わっていく。そして小麦の穀倉地帯がそれに続き、空は真っ青に晴れ渡り所々に白い雲が浮かんでいる、そこにあるのは懐かしい故郷の草原の風のにおいだった。

 エミーナは、青空の中、この一年の日々を思い描いていた。

・・二人で朝日の差し込む屋根裏部屋の窓際で食事をし、身支度をして、モーターバイクの悠の腰に腕を回し、頬は悠の温かな背中に預ける。この一年半、いつもアパートからふたりで大学に通った。 教室では、何故かいつも隣の悠は居眠りばかり。その似顔絵を、悠のノートに上手に落書きするとくすっと笑い、悠が気づくまで素知らぬ顔で黒板を見つめている。

枯れ葉舞うキャンパスの中庭。黄金色の芝生の上で背中合わせになって互いの温もりを感じながら、何もいわずに本を読む。エミーナはレマルクの”凱旋門”、そして悠は何故か、遠く南アメリカの”収奪された大地”・・。
 書物の中で、決まって苦難を突き付ける世のしくみと、そこで翻弄される人々の命の縮図に触れ、いつしかふたりは少しずつ大人になっていた。

 赤い蝋燭が無数に並ぶ教会の窓の外、降り積もる白い雪・・。いつも隣で自分を支えてくれていた温かな腕・・。クラクフは、とても幸福な日々だった。


 悠と別れる前の日、二人は郊外に散歩に出て、いつかの古いホテル跡に向かった。いつか素通りしたまま何故か気にかかっていた場所だった。教会の鐘の音が遠くかすかに聞こえ、入り口際に’hotel ROND’と記された文字を、古びたランプが仄かにオレンジ色に照らし出している・・。
 窓からうかがえるロビーの大きな柱時計が、6時5分前をさしたまま止まっていた。今も、暗闇の中、ゆっくりと動く振り子の音が広いホールに響いているようだった。ふたりの知らぬ時代の、喜びと悲しみを秘めたどこか懐かしい人々の賑わいがそこには感じられていた・・。
 思い出の日々が、車窓の外に過ぎ行く景色に混じって、走馬灯のようにエミーナの心の中をめぐっていく。

 キエフの駅を降りると、何故か街は騒然として、軍用車が行きかっていた。電車の中の幸せな回想とは打って変わり、今までにない周囲の人々の浮き足たった様子に、ふと家族への不安をエミーナは感じとった。多くの人々が郊外へと車で移動する中、ひとり逆行するように駅から郊外へと向かう。タクシーでいくつかの検問を潜り抜けて、両親の待つはずの草原の家に向かった。母のリザが、二階の開き窓からエミーナに手を振って迎えた。玄関に降りしっかりと娘を抱きしめた。このまま家族が離れ々になることのないように。
”いったい何があったの、お母さん。・・お父さんはどこ?”

 やがて、来る日も来る日も、多くの近隣の人々が軍の用意したバスに乗せられて住み慣れた村々を身一つで離れていった。
留学先での悠とのこと、そして二人で誓い合った未来の夢を、今は母親に打ち明ける間もなく、ユージンの居場所を聞くと、不安な表情のリザを残し、父のいる救護班のもとにひとり向かった。
 バスで一時間ほどで、多くの人々の収容された仮の施設のひとつに到着した。父娘二人は久しぶりに再会して抱き合った。忙しそうにして、少しやつれた父親の横で、すぐに身支度してエミーナも火傷や吐き気、眩暈など次々と肉体に異常を訴える人々、子供達の看護と世話に当たった。

 当初は発電所の事故の事実さえ周辺住民には正確には伝えられず、当局の住民の安全への対応は後手後手に回っていた。当局の認識以上に、当地の放射性毒物による環境への汚染と被害は大きく、刻々と汚染が広域に広がる中、秘密裏のなか、軍や当局はその対策に右往左往していた。事故の詳細すら告げられず、上からの命令で現場に急行させられた消防隊員や警察官は、事故現場からのひどい高濃度の放射線に晒されて皆が火傷していた。
 原子力発電所の事故の起きた夜が明けて数日間は、好天で何も知らされずメーデーの祭日に人々は外出しにぎわっていた。だが、住民たちは近隣から漏れてくる人々の噂から情報を得て、不穏さを徐々に募らせていく。
 メーデーの日のお祭りが催され、おとなたちに交じって、外で可愛らしい衣装で踊り、遊んでいた幼い子供達が、身を突き刺す金属の刺激臭、目に見えぬ数々の魔の毒物にさらされることになり、やがて吐き気と高熱を発して次々と倒れていくことになる。

 空高くいったん原発の火災現場から吹き上げた高濃度の放射性元素を含むガスがまた地上に舞い降り、周辺地域に徐々に充満してきていた。

発電所の事故のあった4号炉からは、黒煙と紅い炎が夜空の暗闇に向けて悪魔の舌のように伸びている。時々暗黒の空からは黒い雨が降ってきた。

 その後数週間、エミーナは現場からかなり近い仮設の収容施設にとどまり、日夜その‘雨’に身をさらしたままで、気の毒な被災者たちの為、父ユージンと一緒に看護に当たっていた。

自分はともかく、顔色もすぐれず休む間もなく働く父を気遣った。今はただ、献身的な父の姿を誇りに思った。体調を崩して運び込まれる子供達に、エミーナもじっとしてはいられなかった。

 

 ・・だがそんな忙しい日々が続き、数週間もすると、患者たち同様の異変を、父娘ふたりもやがて心身に自覚するようになっていく。

 何故か災いは終末的なもので、限りなく自分たちに残された時間が狭められているのを、エミーナは本能的に徐々に感じとっていた。疲労と眠気の中、ふとした休息のあいだに悠との思い出が脳裏を巡っていた。だが、意識が現実に戻ると、あまりにも突然の閉ざされた宿命の予感に、若いエミーナは苦しまなくてはならなかった。

 楽しかったはずの、悠とふたりの雪のクリスマスの夜。何故かあの夜、底のない大きな闇につき落されるかのような不安と恐怖が廻っていた、・・それも今日の日々に向けての胸騒ぎだったのかもしれない、そうエミーナは思った。

 ‘ ・・悠は今頃、無事日本についているかしら。きっと私のことは忘れずにいてくれるわね。今わたしの故郷では、友人や子供達が大変な事故で苦しんでいるの。
父のもとで、私にもできるだけのことをしてあげたい。 もしかして何かとても大きな不幸に苛まれているような気がするわ。いつかあなたを悲しませてしまうような・・。

でもきっと優しい貴方ならわかってくれる・・。こちらは薄どんよりとした空に、冷たい雨。
悠のいる日本は春の暖かな日差しの中、あなたの言っていた桜花はもう咲いているのでしょうね。父母にあなたのことを話すわ。きっと喜んでくれる。 ・・はやく貴方に会いたい。’
 
 エミーナは時間を見つけて、ペンを走らせた。いつか大学の授業中に、そっと仄かな胸の祈りを込めて内緒で悠の教科書に挟んでおいた小さな紫の‘忘れな草’の押し花のこと、当時の心和む日々を思い出していた・・。

 ・・それから数週後、父ユージンが吐き気と高熱に苦しむようになり床に伏せるようになった。

母親と伴に病床の父親の世話をしていたエミーナも、やはり徐々に嘔吐や眩暈に悩まされるようになっており、父親と自分の身に降りかかろうとしている災厄の予兆の何ものかを感じ取っていた。

暫くしてユージンは政府の用意した病院に連れ去られ隔離され、エミーナたち家族も他の大勢の人々とバスで移送され、生まれ育った住居を離れ、既に当局から面会謝絶となっていた父親の病院の近くに移り住むことになった。

 その数週後、父親はあっけなく白い棺に入って家族の元に帰ってきた。リザは悲しみ苦しんだ。当局からの説明は何も伝えられない。全てが隠蔽され、闇の中で事が進む中、予想以上に事態が深刻であることが察せられた。

 

 そんな或る日、エミーナのもとにアルゼンチンのルドルフ・クンツという差出人からから大きな麻袋に入った黒岩塩や重曹、ラジウムなどの鉱石が、当地の新聞紙に乱暴にくるまれたヤドリギ草など数種の薬草とともにリザのもとに届いていた。

 

 ”サナトリウムにして体を癒すように・・。きっと大切な娘さんの力になれるはず・・。”とだけ、震える筆跡で記してあった。

 リザは、はっとした。 捜し歩いても行方知らずの自分の母の所在を伝えにきてくれた、いつかのあの黒服の紳士クンツだった。その後、リザたちがパリを離れようとするとき、彼は高額であのモンマルトルの生家のアトリエを買い取ってくれた。そして美しい’カフェ・パサージュ’として、後の世まで生き残ることになる。その時、彼はそこから一枚の絵をここキエフに携えてきていた・・。それはその後、エミーナの寝室の壁に掛けられた。

リザは、クンツの好意を信じ、手紙に書かれた処方通りに鉱物や岩塩を浴槽に入れ、エミーナの体を薬草で温めてやった。

 

 数か月して、父親のいなくなった懐かしい自宅にいったん戻った。寂しい中、母親の看病で少し改善が見られ、エミーナの白い優しい笑顔が戻ってきていた。

だが病状はその後進退を繰り返し、エミーナの身体はやはり日を追うごとに衰弱していった。

 それから数ヶ月もして、悠からの手紙がキエフのエミーナの家に届いていた・・。


 悠は、血眼になって日本の領事館から関係当局に問い合わせてみた。ビザも申請してみた。が、当地への立ち入りは当然禁止されていた。日本での報道で現地の模様が徐々に明らかになるにつれ、悠は恐怖と焦燥感に苛立ち打ちひしがれていた。

ただ新たな消息のつかめるのを待つばかりだった。半年ほどして、やっと便りが届いた。母親とキエフの故郷の家に戻っているのを短い文で伝えていた。ところどころ青いインクのにじむ、震えた文字で綴られていた。

 “悠、ごめんなさい、お返事できなくて。
あれからいろんなことがあったの・・。
・・悠といられるのも、もう長くはないかもしない。

 ・・突然こんなことをいって苦しまないで、悠。
でも、出来ることなら貴方の元にすぐにでも飛んでいきたい。
あなたの国の美しい桜花、もう風に散ってしまったのかしら。
悠、・・お願い、もう一度会いたい・・。”

 悠は一週間後、突然領事館から連絡があり、入国ビザの許可の知らせを受けた。悠の知らぬ背後で、あのルドルフ・クンツの働き掛けがあったようだった。学校に休学届けを出すと、ただ何も出来ず待つだけの毎日から解放され、睡眠不足と心労でやつれた身体を引きずって、涙で滲んだエミーナの手紙を懐に携え、悠は成田に向かった。
 “神様、お願い、エミーナを助けて・・。この役立たずの僕の命と引き換えてでも・・。”

 



  浜辺にて 

 

・・暑い日差しの中、眩暈がしていた。あの日の少女の手紙の文字は涙に所々途切れうち震えていた。
・・草原の一軒家。開け放たれた白い窓から遠く悠に涙顔で微笑みかける変わり果てた少女の青白い肌を思い出していた・・。忘れもしない
窓際にはあまりにも眩しい白い花があった。 
 それから数ヶ月、悠は運命の86年9月12日の深夜まで、この白い家の2階の静かなベッドの傍らで、力尽き衰弱してゆく最愛のひとを見守っていくことになる。   
 
 “・・エミーナ。”
 




 波打ち際の海岸に、ちらちらと蒼い太陽の光が静かに輝いていた。
悠は無言で目の涙をぬぐっていた。マリアが心配そうに悠を見つめていた。

その日マリアは、不思議な気持ちだった。自分の知らぬ悠のかつて愛した人は、限りなく自分に身近な存在のような気がしていた。悠を愛することになる女は、何かの大きな定められた時のうねりの中で劇的に出会い、そして引き離されていく。・・そんな寂しい予感だった。

“・・ノ プロブレマ (だいじょうぶ) ?

・・ポブレシート(気の毒に)、ユウ。”
マリアは、悠に声をかけた。
悠は、胸苦しさに襲われていた。エミーナが自分の傍らにいるようだった。

のどかな砂浜であった。
あの涙に滲んだ手紙の短い文面が、異国の地で夕凪の静かな波に揺らいでいるようだった・・。
 悠は、東欧での幸せな学生生活で、あの古いキャンパスでの授業中に、小さな紫色の忘れな草の押し花をエミーナが居眠りをする自分の教科書にそっと挟んでくれていたことを思い出していた。
 かわいらしい悪戯だった。悠は静かに寄せては帰る透き通った潮水に茫然と視線を落としていた。 波打ち際にピンクの貝殻が白砂に埋もれているのが見えていた・・。

マリアが、それを細い指で拾い上げると、そっと微笑んで悠に手わたした。

悠も微笑んで空を見上げた。 悠の前に、一面白い雪に覆われたあのキエフの大地が展開していた・・。



窓一杯に
つややかな新緑が風にそよぐ
春の午後の静かなひと時

木漏れ日が揺れる机の上に
一枚の写真をそっと広げる
モノクロに焼き付けられた
強烈な命の瞬き
僕は異次元に彷徨いこみ
想いは鮮明な映像の断片へと結晶する

何故かあの日あの時
僕の前に 君がいた
やがて美しい流れ星の幻のように
冷たい炎に焼き尽くされ
僕の前から 夜の虚空の彼方へと
消え散っていった

もう取り戻すことも出来ない
木蔭の静寂とともに揺れる君の素顔
辛く、ほろずっぱいセピア色の日々・・

蘇るあの日の君の髪の薫り
耳元をくすぐる甘い囁き それに
頬を触れる温かく柔らかな愛する人の吐息

僕の腕を伝った熱い一滴の君の涙
その透明な涙はどうして・・

吹雪の夜、窓をたたく風の音
暖炉の灯に映し出された
黄金色の流れるような
大理石の素肌

二人きり
でも何もかも既に知り尽くすかのような
語らいを込めた 透明の涙・・
きっとわかっていたんだろう

愛する人ともいつか別れる日が来る
それがいつどんな形にせよ

僕たちは偶然にもそんな時に出会ってしまった

だから あの日君は幸せそうに
僕に寄り添い
精一杯の愛を確かめていたんだろう
あの涙の意味はきっと・・
こうやって独りぼっちになって
追憶に浸る 哀れな
僕を思ってのことだったんだろう ・・。