EMINA '89 ハバナ
時を越えた4つの絵物語 1989 ハバナ ・・ ジェット機が大きく傾き、体の重心の変異に思わず現実に戻る。わずかな夢の間、悠は熱帯のジャングルを追っ手から逃れて一人駆け回り、何処かの海岸線に出ると、風の絶えたカリブの海の渚に一人漂っていた。 ふと隣を見ると、眩しい太陽の光を呼び込んだ窓側で、マリアが悠に微笑んでいる。 四角い窓枠の外、明るいグリーンの海に浮かぶワニの形の白い島がこちらに迫ってきている。 思わず座席から身を起こした。 いよいよだ・・。 胸の鼓動が高鳴っていた。1989年春、悠とマリアはいくつかの中米の空港を乗りつぎ、カリブの小国キューバの首都、ハバナ上空にいた。 19世紀のこの国の革命家ホセ・マルテイにちなんで空港の名がつけられていた。ここは、悠が学生時代に憧れたチェ・ゲバラの革命劇の舞台だった。バッグパックを片手に引き入国手続きを経て、空港を出ると、カリブの甘い潮風が吹きつけてくる。背の高い椰子の木陰が強烈な太陽のひかりの下、涼し気にそよいでいる。目の前に待機していた50年代の白い大きなクラッシックカーのアメ車タクシーを選び、ふたりはオールドタウンに向かった。 黒い肌の運転手は、スピーカーから流れるサルサに体を揺らしながらハンドルを軽く握っている。バックミラーから、二人に何か言って嬉しそうにウィンクする。 マリアは魅力的な笑顔を返して、軽快なスペイン語で一言やり返した。 運転手は陽気に笑った。すがすがしいカリブの潮風が、サングラスのマリアの髪をなびかせる。 髪の甘い薫りが隣の悠の鼻をくすぐった。 悠はさっそく、空港で手に入れた国産の葉巻にCoribliのライターで火をつけてみた。白い煙が風に舞う・・。マリアの柑橘系の髪の官能的な香りに、葉巻の甘い煙が溶け込んで、海岸線に飛んでいく。 サルサのリズムがよく似合っていた。マリアも悠の隣で、黄金色に光り輝く波間を見つめながら、楽しそうに軽やかに体を揺すっている。海辺に咲く原色の豊かな花の色がよく似合う。潮風の香りの中に体ごと溶け込みそうだ。表情ににじみ出る軽快さは、ラテンの血を引くものどうし生来の特権のようだった。 悠は照れくさそうに、ひとり黙って葉巻を青い空に向けてふかしてみる。 この国は、あのゲバラの時代、社会主義路線を選んでから、かの北の巨人”アンクル・サム”を筆頭に、資本主義大国からの”懲らしめ”の経済封鎖を受けていた。 大人げない金持ち国の”意地悪”により、その思惑通り、この吹けば飛ぶような小さな島国の経済は、’破綻ぎりぎり’まで追い詰められた。 でも何故か、残念ながら,’破綻’にまで至らず、その押しとどまった経済水準において、人は動揺もせず(・・いや、そうでないものは、マイアミが待っていた)、適当に憂さをも笑い飛ばしながら、賢く適応していた。 長年の物資不足で、往年の植民地時代の美しかった街の建築物も、道を行き交う磨き上げられたカラフルなアメ車のクラッシックカーとは対照的に、塗り替えや修復も行き届かず、今や荒れ放題にまかされていた。 だが、それがこの街を訪ねる旅人には、どこかアン・ビバレンツで、’ソン’の歌の響きとともに、心の奥底に不思議なノスタルジー(郷愁)を誘った。 それで,、・・いや、それだからこそ、マリアと悠は、わが意を得たりと、どこか満足げで幸わせそうだった。 ここは、知る人ぞ知る、伝説の、ゲバラが愛してやまなかった’キューバ・リブレ’(自由キューバ)の舞台でもあった。 そう、そこではじめて旅人に、内なる’哀愁’の美学が成立した。彼の瞼の裏では、あの日の革命軍の車が、人々が喜びに沸くなか、目の前を凱旋していった。街並みは、今もあの日の写真のままだった。 様々な肌の色が入り混じるこの街ゆくすべての人々の頭上に、だれかれ分け隔てることなく爽やかで温かな陽が、さんさんと自由に降り注いでいるように見える。 それほど、皆が街の造りの貧しさとは対照的に、陽気で明るかった。 ソビエトや東欧諸国の体制が崩れつつあり、そして中共の歴史の裏面が徐々に表に出始めて、様々な共産主義の虚構が、かつての学生運動の革命の情熱も燃え尽きた日本でも、徐々に浮き彫りになってきている頃であった。 でも、何故かこの国に限っては、かの’アンクル・サム’が宣伝するように、悪魔の’独裁国’と呼ぶには、人々の表情はどこか快活で自由すぎるようだった。何処かから覗き見る人の目を恐れたり、かと思えば、権力者におもねる様子もなかった。 何か底抜けの陽気さと、誰もが当然と言わんばかりの教育水準の高さ、そしてそれ故に貧しくとも、外国からの様々な横やりを受けてくじけそうになろうとも、、いつか皆が一緒になって豊かになれる日までは、あの髭の’コマンダンテ’(将軍)の粋なジョークを信じて何とか頑張りぬこうと・・。 海外からの大人げない扇動に振り回されない、そんな冷静な知的判断が、小さな国の質素で賢い人々の間に、すでに共有されているように悠には思えた。 ”武士は食わねど高楊枝” といった日本の言葉が、ふと悠の頭に浮かんだ。どこかシニカルで洗練された、そう、日本の物言わぬ”武士道”の品格に似たプライドだった。これまでの経験でも、ラテン系の人間はあれこれ欧米のように理屈をこねずとも、何か機微で通じ合うところが多かった。 それこそ、にやりと、・・無言で以心伝心する。 ここではさらに、それを幾分、知的に’ソフィストケイト’(洗練)した感じであった。 ハリウッドの映画に登場しそうな、高価な正装で決めた太った巨漢に、札束で、やせた髭ずらの頬をひっぱたかれても、相手の目の奥を黙ってニヤリと見据え笑い返せる、そんな小柄だけどマッチョで、陽に焼けた男の余裕だった。 すべてを知り尽くしたうえで、愚か者のふりをして、気の利いた一言、練りに練った皮肉な’隠喩’(しゃれ)を肴(さかな)に、ラム酒’モヒート’のグラスを髭ずらの口元に運んで笑い飛ばす。 そんな贅沢な娯楽を、どうやら特技として隠し持っているようだった。 悠は、この国のやせ我慢的な、孤独で困難な実情を知れば知るほど、何処かかっこよくて、その種をまいた革命の若い闘志たちに、エールを心から捧げたい気持ちだった。 悠は、かつて自分の両親が若かりし頃、遠いパリの街の熱気のさ中を歩きながら、この国の革命の立役者だった’チェ’という愛称の若者の’’モチーフに鮮烈に印象付けられていたわけが、現地に降り立った今、わかる気がした。 権力からの押し付けでない、苦労して皆で勝ち取った自由な祖国へのラブコールを、まんざらでも無さそうな笑顔でうったえる人々の表情に、マリア同様、悠は街の所々で羨ましく思ったものだった。 人々は、若き医者のチェと弁護士のフィデロやカミーロが達成したあの革命を、だれもが自らの国の誇りに思って自慢しているようだった。 決して、何処かの専制社会主義国家のような、観光客相手の国のお仕着せ文句でもなさそうだった。 何十年も昔のあの革命の英雄も、自分たちと同じ仲間であった。資本家’アンクルサム’の飼い犬であるパチスタの独裁的圧政。それからの苛烈な解放の戦いに立ち会った、他の多くの革命の功労者同様、そう、彼らも同朋であり 皆にとり”偶像なき英雄”であった・・。 食料と生活必需品は配給されていた。が、当然物資不足は免れず、質素でぎりぎりの日々の生活だった。 人々は、むさぼることとは無縁で、貧しい中互いに助け合い、足ることを知り、それぞれの置かれた自分の責務や役割を理解しているようだった。配給所は、いつ果てるとも知れない行列が続いていた。でも、皆のんきに笑顔で皮肉めかして、暑さに空に文句を言いながらも、政治や世間話を声を細めることもなく、楽しんでいた。’略奪’とかいう資本主義国のどこか追い詰められたニュアンスの言葉とは無縁であった。 ここには、人々の上に輝く太陽があって、海からの心地よい’自由な’風があった。 海外からの締め付けで、財政困難の中、政府関係者は、実は青息吐息だった。当然自由主義陣営の国際金融機関も、条件付きの借金をちらつかせてくる。だが、その甘い手口に乗るほど野暮ではない。 人々もそれはよく知っており、甘言に乗らず、革命を起点とした自分たちの理想を貫き通す。 風通しのよい民主的話し合いもコマンダンテ・フィデル自らが広場の国民の前に現れ、,納得するまで公の場で為されていた。そのやむに已まれぬ苦しい内情を民衆は十分に理解し、仕様なく、ともに苦闘している様に見うけられた。 ここでもやはり、’アスタ・マニャーナ’(そのうち何とかなるさ・・。)の言葉通り、ぺシミステイックに”食わねど高楊枝”ならぬ、うまいラテンのジョークで憂さを晴らしている様子であった。 決して国民を置いてきぼりにせずに、世界一の葉巻とラム酒、混血美女を自慢にして、さらに世界に誇る豊かな教養と芸術の国民への無償の普及を代償に、為政者自身も質素に自戒自制している様子で、面目躍如たるものがあった。 資本主義国の様に貧富の差がない、・・というか皆が貧しさに苦労しているだけに、ともに苦境を分かち合い、夢見る青年のように一緒に自分たちが勝ち取った自由を大切にして、日々人生を楽天的に生きようとしている。 そんな小国が世界の片隅で、どこの自由主義国にもその清貧で素朴な姿が知られずにまだ存在しているのだと、悠は嬉しく思った。 旧市街近くの海岸線で車を降りると、二人は波打ち際で並んで座った。微かに波の向こうの対岸に、きらきらと豊かな街の陽炎(かげろう)が揺れていた。 マリアは、サングラスを外すと額の汗をハンカチで拭った。 爽やかな日焼けした笑顔が輝いた。 そして、手のひらで濡れた潮の香りのする白い砂をすくうと言った。 ” ほら、あそこに物質に恵まれた贅沢と豊かさのかげろうが見える・・。 もちろん、自分が不利益をこうむることになる、特権階級や裕福な層は、海を隔てたあの国に亡命して、対岸から大きな声でその後ずっと、大声でカラフルに脚色をして誹謗中傷してきたわ。 当時六千人いた医者たちの半数が対岸に逃げたという。 即ち、彼らは、いわゆる特権階級だったのね・・。 この国にとどまることを選んだ医師たちは、ゼロから新しい医療のシステム作りの可能性に皆で取り組んだの。大変だけど、大きな夢だった。 誰もが、すべてのひとが病の苦しみから救われるようにと、未来の理想へと向かって予防医学に注目した。ひとが病気になるのを待ち受けて、どこかの国の高い医用機器を使って、高い薬をいっぱい使って、資本家と一緒になってお金を儲けるのでなく、まずは病気になるのを防ぐの・・。 感染症を克服し、病ゆえに貧しさから這い上がれない人々をなくすために、世界の貧しい辺境地にでも持って行って使えるような、安全な植物性のワクチンの開発、そして自前の植物製薬の製造へと進んでいった。途中、東洋の伝統医学なども、予防医学として柔軟に取り入れたわ。伝統医学は、器具がシンプルで、お金がかからない。人を癒そうとする情熱のみが、やがて手の内の技術を磨くの。人の愛による、人のための医術よ。そして大学では、自ら苦しむ人を救う志を持つ医者を多く養成して、ポリクリニコやファミリードクターなど、十分な数の医者とクリニックを全国津々浦々まで配備していった・・。 この国の医者は、革命前とは違って報酬は公務員扱いで、教員と変わりはしないほどで安月給・・。きっと、マイアミあたりに逃げていった医者たちは、今頃、冷房の行き届いたモダンなクリニックの椅子で胸を撫でおろしているでしょうね。危うく貧乏くじを引くところだったと・・。ここは、私のような女医の比率が多くて、お金の代償なしに、皆が使命感に燃えている。 でも、どうしてかしら・・。 命に、値段はつけられないわ。大学での医学教育も、半分は全国のポリクリニコやファミリークリニックの中で、理論偏重でない地域に密着した実践的な方法を学ぶの。 卒後はまた、まずはそちらに配置され、地域の人々の良き健康管理の相談役になる。皆が病気になる前にね。 それに、多くの医師たちは、自己の希望で、海外の難民キャンプなどに医師団のひとりとして人命救助に向かう・・。途上国の医療援助なども・・。善意と人道への誇りが、自らの意思で達成できるうらやましい人々・・。 資本主義圏では、こうした国際的な医療支援を、売名行為と自らの体制へのキャンペーンと、色んな政治的な理由付けや尾ひれを付けて、こき下ろす人々もいる。 金儲けやエゴイズムに毒された物質的豊かさでしか価値をはかることのできない国の支配者が、自分たちにはない素朴で清貧な若い医師たちの志を、汚い扇動と、薄汚れた邪推で、この国を知らない人たちに悪く印象づけようと吹聴するわ。 当たり前のようにして歴代、第三国であらゆる搾取をして稼ぎまくった潤沢なお金を使って、世界に向けて宣伝する。そうやって自分たちを正当化しようとする。これは、世界を共産化しようとするこの独裁者の国のイデオロギー的な企みなんだと・・。 でも、もううんざり。 そんな口上は、どの国でもラテンアメリカでは事あるごとに、使われてきたわ。 そうやって皮肉を口にしようとすると、南米やアジアの何処かの国では、将軍が鞭を手にして、サディステイックで獰猛な忠犬たちを連れてすぐにやってくる・・。” マリアの言うように、日本で悠が耳にするこのカリブの小国の噂はすべて、どこかの国のマスメディアを経由して、資本家や為政者に都合よく彎曲し脚色されてきたものが多いように思えた。 解釈は自由である。 視点を変えればすべて逆にもなろう・・。その基準に、生活水準や、物質的豊かさや、贅沢、そして個人の自由がある。そしてまた、素朴な人道愛や清貧さ、国や宗派を超えた慈しみや共生の思いもあるかもしれない。それはもしかして、宇宙を支配する摂理にまで繋がるものなのかもしれない。 ただ一つ言えることは、一度俗世の贅沢の密の味を覚えると、二度と、清貧さゆえの身近な大切なものへの豊かな愛や共感は、影を潜めてしまうものなのかもしれない。 北の大国から流れて来るフィデロ・カストロのイメージと映像は、決まっていつも悪役で、有無をも言わせぬ扇動家の独裁者のイメージを醸し出していた。 キャステイングも絶好調で、どの映像も無声映画時代の悪漢のように、滑稽な振り付けをしながら、地獄からの使者よろしく、毒舌を人々の前で吐いていた。 ただ何故か、それは無声映画の様で、恐らくはその素朴で’まっとうな’話の内容は、イメージを形作る観客の耳には聞こえてこなかった・・。 長い経済封鎖下で、観光収入を国民を食べさせていくための数少ない外貨獲得源としていた。 悠たち外国人のホテルやレストランでの宿泊費や食費は、欧米の先進国を旅する時と違わないほど高くついた。 でも,この国の人たちの生活の為に自分達の支払うささやかなドルが、外貨として廻りまわって役に立ってくれていると思わせるような、人の琴線に触れるしたたかさをこの国は持ち合わせていた。 マリアには、清貧でも、陽気に生きようとしているこの国の人々がうらやましく想われた。昔から、ラテフンデイア、すなわち植民地支配以来、特定の数十のヨーロッパ系の血筋の家族が、ラテンアメリカの各国の政治経済の実権を握ってきたという。 軍人はお祭りの様に、定期的にクーデターを起こしては、政権転覆をはかり独裁政権を作る。 どれも決まって拷問と圧政と、汚職そして蓄財・・。 将軍たちは、国際金融機関から返しきれぬほどの融資を受け、やがて何処かで操作された変動相場制で自国通貨が紙くずの様になり、その利息は膨大に膨らんでいく。物価は高騰して人々の生活を圧迫する中、将軍たちはどこからともなく蓄財した外貨や資産を海外の自分のプライベートな口座へと移す。そんなことは彼らには常識である。そんなお決まりの腐敗が続く中、人々は明日への希望などは閉ざされていることを皮肉を込めて、こういう。 ”アスタ・マニャーナ” (明日があるさ。だから、今日は悔いのないように思いっきり楽しもうぜ。 ・・だって、本当は俺たちにゃどう頑張ったって、未来なんてないんだから・・。) それが、陽気なラテンアメリカに生まれ落ちた庶民たちのある種、宿命的な諦念であったことは、マリアはよく知っていた。 ”太陽の汗、月の涙” その寂しげな隠喩に込められたラテンアメリカの何百年の悲哀であった。 例外にもれず、この小さな島国においても、かつては旧来からの伝統的一族の牙城であったはずだった。でも、旧市街のこの通りには、,戦禍の中米やラテンアメリカのような裸足の浮浪者や物乞いの子供たちがいなかった。 子供たちはこの暑い太陽の下、赤と白の制服に、ちゃんとソックスの上に靴を履き、手をつないで、皆で学校に楽しそうに通っている。教育はその国の未来を創る・・。 日本ではどこか当たり前のこの風景が、ここ中南米では多くの人々の間に行き渡るまでに長い時間が必要だった。 マリアは言った。 ”ゲリラ兵士に身を捧げていく恵まれない子供たちにも、こんな夢を与えてあげたかった。彼らはどんなに羨ましがるか・・。 教育と医療はこの国では一切無料。 医者にかかれず、食べものも得られずに道端に飢えて凍えて死んでいく子供たち・・。苦しい親の生活の足しになる様にと朝から晩までいくらにもならない食い扶持の為に不潔な労働に明け暮れ、学ぶ機会も得られない子供たち・・。そんな光景は、世界の貧しい国や中南米の国々ではごく当たり前のこと。 でもここでは、・・違っていた。子供達は皆が貧しいが故に、人を思いやることが自然になり、明日への夢と希望に燃え、そのいたいけな夢に、この国はささやかにでも答えようとしている・・。それは、若きゲバラたちが始めた教育の賜物・・。” この国は共産国家というよりは、改革の士であり詩人、思想家であったホセ・マルテイの生涯の生きざまと思いを、国の、そして民族の理念としているようだった。 貧しくとも、まるで夢見る若者の様に生涯変わらずに、どこまでも理想を追い求めつづけることの出来る、この国の人々をマリアは羨ましく想った。 ・・2021年7月14日、そのハバナでは革命以来の、大規模な反政府デモがあった。既にコマンダンテ・フィデロはこの世にいない。ちょうどこの年、ともに革命を生き、フィデロの跡を継いだ弟のラウロも、権力の座から降りていた。数年前には、オバマの米国との間に国交を結び、次のトランプで再び経済封鎖が始まった。革命の世代が少なくなり、米国から豊かさが雪崩れ込もうとしていた矢先の、最後の仕上げの揺さぶりとしての経済封鎖であった。 今回の大規模な反政府デモは、ある種のレトリックの様にも見える。人々は様々な憶測の中、おおよそ慣れ親しんだ左右対極の二つの価値基準に基づいてその背景を想像する。そこには、現実的な食糧不足や、住居や生活などに関するインフラ整備への国民の不満もあったであろう。そこに感染症騒ぎによる観光の外貨収入の減少も手伝った。その間、水がしみこむような他国からの商業的な民心の扇動と侵攻に焦り、強権的な弾圧も目立ってきたのかもしれない。共に戦い耐え忍んできた革命のカリスマが既に伝説となり、今の貧しさを耐える理由が革命を知らぬ若者たちの間に見いだせなくなったのかもしれない。その民衆運動は、どこかの独裁専制国家の自由と人権弾圧への反抗という、今のステレオタイプな世界の動きにシナリオ的に、並行、類似したものに見えなくもない。 何処かの誰かも、言っていた。” そうとも、 世の中はパロデイさ。 いや、レトリックそのものだよ・・ ” と。 世にいう’イデオロギー’も、実はよくできたその秀作なのかもしれない。対立軸を作っては代理戦争をさせる。火事が起きれば桶屋(おけや)が儲かる。 その対岸の火事を花火でも見物するように、他人の不幸と無関心を決め込む人々がいる。それが弱い人の性(さが)というもの・・。或いはまた、それを危機感と相互不信でもって煽り立てて、人々を火事場泥棒に走らせることも容易だ。そんなシーンは、人々の視覚を刺激する絵にもなる。そんな人々の無神経さとエゴイズムを増長させるのに、現代の巧妙なマスメデイアが一役買っている。 もっともらしい背反する修辞でもって、この世の人々を論理で欺く。 古代ギリシャの時代からの伝統でもある。豊かな土地をかすめ取ろうと思えば、そこで大風呂敷を広げて、自分の都合の良い法律や信条を大上段に開陳すればいい。例えれば、南アフリカの原住民、南米のインデイオや、北アメリカのインデイアンは、その手口に免疫がなかった。 古今、世界中いたるところ、常套手段のはずなのに・・。 どこかの誰かが、こんなことも言っていた。”労働は、罪である。”と。だから一獲千金を夢見て、傍若無人な冒険談を誇りにする。 楽して、高尚な文化活動に勤しむには、労働はその天の抽選から漏れた劣等種族に委ねるしかない。 ひと頃もてはやされた優生主義とはその程度のもの。そして、植民といっては新天地を求め、他人の聖なる大地を、土足で蹂躙する。母なる大地に杭をうち、土を引っ掻き回して、収穫は洗いざらい遠い自分の壮麗に磨き上げた寝蔵へと運び去ってしまう。 大地の民に残されたのは、争いと過酷な労働と貧困、そして何より従順さ、これは’必要悪’・・つまり学び考えることに無関心になること。こうして何百年という歴史が新大陸の上に刻まれてきた。’ 太陽の汗と、月の涙 ’ 人々は諦めと悲しみを込めてそう呼んできた。 現代の’ソフィスト’(詭弁家)の影に身を隠し、世の中のよくできたそんな仕組みを覗き見て、ほくそ笑んでいる輩がそこにもいる・・。 遠い昔にあったという、聖なる大地の伝説を信じるものの中には、信仰の知恵を授けし宣教師や、あの文豪ダンテの描きし神々しい’神曲’すらも、外来の物語であると揶揄する異教徒がいまだ絶えない・・。 さて、国交を開けば、豊かさの波が人々の心の隙に怒涛の如く襲ってくる。 ちょうど、かつての日本の明治維新をきっかけとした、欧米流の物質的豊かさと力と斬新さによる、人々の心の中の従来の伝統的価値観の切り崩しのようなものだったのかもしれない。 足ることを知る清貧の美徳が、物質的豊かさの追求と、他のより勝ったものとの際限なき競争へと、人々や社会の目指すところが大きく切り替わった。 手を変え品を変えて、北のアンクル・サムは、目障りなカリブのひねくれものにこの何十年間、飴と鞭で、頑なに洗脳された人々のこころと生活基盤を揺さぶろうとしてきた。 遂には、カリブの’独裁者’ならぬ、その革命以来一貫した人々の精神の取りまとめ役だったコマンダンテにも去られ、人々は置いてきぼりにされて、じっと耐えて引き締めてきた何ものかへの心のタガが緩んでしまったのかもしれない。 日本でも、かつて戦時下、こんなセリフがあった。’欲しがりません、勝つまでは・・。’北の巨人の財力による時間をかけた巧妙な策謀が、彼らのいわゆる独裁者が消えたことで、遅ればせながらやっとここで功を奏しはじめたのかもしれない。 でも、悠とマリアの居合わせた時代は、苦しさや貧しさは現代と変わらずとも、ゲバラやフィデルたちが成し遂げた自由に向けての伝説がまだ生きており、他の国から訪れる人間を、どこか深く新鮮な思いで、はっと振り向かせる何ものかがまだそこにはあるようだった・・。どこからか、誰かのこんな言葉が、その日の悠とマリアの前に浮かんできた・・。 ” Hasta la victoria siemple・・、 アスタ・ラ・ビクトリア・シエンプレ ’永遠の勝利の日まで・・。 ’ ”