EMINA 時を越えた4つの絵物語 フリースとルドルフ |
街道のホテルにて
・・女の前で、あの青い瞳が微笑んでいる。
“ 大丈夫かい、辛い思いをさせてすまなかった・・。”
瞬間、フリースの腕の中で女は泣き崩れた・・。
そこは、早朝、青年と二人で入った’Rond’という名のホテルの一室だった。
頭痛がしていた。・・確か自分は、一旦ここから外に連れ出されていたはずだった。
あれは、苦痛を伴ういつもの悪夢だったのだろうか。
何時間、いや何日もの空白の時が過ぎ去ったような気がしていた。
部屋の壁時計は2時22分をさしている。
恐怖から解放された女は、病から立ち直ったばかりで身も心も疲れ果てていた。
そして、今自分が頼れるのはもうこの青年をおいて無い。
女は、何故か自分に寄せてくれるこの上なく純粋な、青年の誠意と愛情を素直に受け入れようと思った。
そして、たとえ許されぬ愛であっても、何もかも捨てさり、燃え尽きるまで彼の真摯な思いに託してみようと思い始めていた。
地獄の中で何度も死を求めていた女は、今は死を恐れていた。
かすかな、何処か遠くに残された娘への再会の希望と、こうして自分を救ってくれた人の命がけの誠意を前にして、・・生への思いが再び沸き立っていた。
“ ・・多くを代償にしてでも、明日へのためになら、
・・心に恥ずることもなく、人は生き続けられるものなのかしら・・。”
エミーナはフリースの温かな腕の中に包まれて、そう自分に問うた。
・・小鳥のさえずりと心地よい髪の感触に,、目を覚ました。
すぐそばで自分を見つめ、フリースが優しく髪を撫でてくれていた。収容所で、熱にうなされている映像が徐々薄れていく中、いつも自分を手厚く見守ってくれていた、あの青年の優しい目だった。
数年来、来る日も来る日も、決まって収容所の塀の中でエミーナを襲ってきていた、夜明けのあの胸を痛める悪夢は、何故か今朝はなかった。
空腹と寒さと恐怖が続く中、眠りは浅く、不安で鈍重な心身の震えが当たり前になっていた。
灰色の朝が、突然また自分の前にやってくる。 消灯後、一枚の板のベッドの上に疲れ横たわり、寒さと恐怖と飢えに突如目が覚め、眠れぬ夜を過ごした。気が付くと、やはり昨日までと変わらぬ悪夢のような長い昼の現実を迎える。だが、寒さと飢えには、人は慣れられるものである。それが生存に向けての適応なのだろう。
永遠に終わらぬ日々・・。いや、感染症或いは栄養失調による衰弱のためか、一人また一人と、周りの人が自分の前から’何処か’へ消えていくなか、幸か不幸か、エミーナは辛い今日という現実をまた生き延びていた・・。
・・窓の外から、静かな木漏れ日が白いシーツの上のふたりの身体に影を作る。
透き通った空気の色。 遠くで子供の遊ぶ声が聞こえる。 信じられない静寂と平安・・。
当たり前の日常という、実は至上の’幸福’であるはずの時の流れが、ここでは刻一刻と有り余る甘露の雫(しずく)のように流れ、人びとは何の不安を抱くことなく生きている・・。
何という不条理なのだろう。
少しでも明日への希望をつなぎ、互いに励まし、助け合おうとしたあの’塀’の中の多くの同胞を取り残したまま、こうして一人自分だけが永遠の自由のありかに放り出されても、
それをどう受け入れていいのか、今のエミーナにはわからなかった。
“ ・・二度とは拭えぬ暗い記憶を、二人はもう心に刻みこんでしまった・・。
虐げ、虐げられる宿命を負ったもののね・・。
だが、何かの理由があってか、天はこの出会いを導いてくれた。”
フリースは宙を見上げて言った。
“ ・・でも貴方はいつか私の元から去っていくのね。 どうして?
いつも、そう・・。 私には幸せを繋ぎとめておくことは出来ないの。
外の世界の人たちにはごく当たり前の幸せすら、
私の前を無表情に通り過ぎていく・・。
聖母はいつも、私を見つめて、血の涙を瞼にたたえていらっしゃる。
でも、何もおっしゃってはくださらない・・。 ”
フリースはエミーナの額にそっと唇を寄せた。 エミーナは、男の目を見つめた。
不自由な口元から、残された己れの良心を裏切る言葉が、思わず漏れ出ていた。
“ ・・フリース、お願い、このまま私と一緒にどこかに逃げて・・。”
女はフリースの腕にすがり、身体を震わせた。
“ エミーナ、大丈夫だよ、君をもうこれ以上苦しめはしない・・。
でも、僕にはまだすることがある。あの霧の中に戻ってね。
もう後戻りは出来ないんだよ。エミーナ・・。”
”・・・。” エミーナは、自分の発した言葉の恥ずかしさに、目を伏せた。
” いいかい、悲しまないで話を聞いてほしい。
大切なご主人を奪い、君を不幸に陥れ、そして娘さんとも生き別れにしてしまった。
僕にも・・大きな責任がある。 多くの人々の牢番人のごとく、あの夜の霧の住処にいる限り・・。
・・実は、あの君にとっての悪魔のような男クンツはね・・、僕の幼年学校時代からの旧友だったんだ。 瀕死の君をこうして救おうとしたのも、当初は彼の犯した罪への僕自身の個人的な償いもあった。 ・・でも、今はそれとは違う。 君のことをいつしか愛してしまっていた。
エミーナ、どうか、心を落ち着けて聞いてほしい・・。”
|
幼年時代 ルドルフ・クンツ
” 彼の一族は昔からの諸侯の家系で城の主だった。貴族でちょっとした名門でもあった。
父親は、昔から芸術蒐集趣味があってね、いつの頃からか、権力と自由になる金でほしいものは手に入れた。
代々の家系として既に、政治家や財界人との間に、庶民にはうかがい知れぬ独自の権益を築いていた。
そんな環境で育って、幼少期に僕たちと寄宿学校で出会ってからも、彼は周りから敬遠され、孤立していった。
やがて年長になりギムナジウムで、思春期を迎え、同じ青春時代を過ごすうちに、地元の貧しくて優しかった美しい母親譲りなのか、いっぱしの人間らしい感情が芽生えるようになってきてね。
でも、ちょうどその頃父親は荒れていた。ルドルフが生まれる前に、父親の自慢の息子だった長男ジョセフが、父親の勧めで西部戦線に志願して出て、あっけなく死んでいた。塹壕戦で、フランス側の前線に突入したとき、そこで、重傷を負った敵方の学生兵を助け、何処かの豪で彼を介抱をしていたという。互いに同世代で、数時間にわたり敵味方も忘れ、打ち解けて話をした。同じ学友、いや前世生き別れた双子の兄弟であったかの様にね・・。
その学生兵は東洋系の二世で、目鼻立ちの美しい’Yu Mariani 'という名のフランス人だったという。でも、結局二人はそのまま生き残ることはできずに、短いメモ書きのような遺書を残して、爆弾をうけ、互いをかばうように塹壕に埋もれていた。その後、衛生班に助け出されたが、フランス人の若者の方は既に息がなかった。
クンツの兄ジョセフを探していた従軍看護婦がそこにたどり着いたときには、もう兄の命も幾ばくもなかった。彼女の胸の中で、しばらく涙を流して話して息絶えた。看護婦は、金髪、緑の瞳をした彼の恋人だった。
ルドルフ・クンツはやがて成長したあと、自分の資産を投じて、その名’Yu Mariani’につながる人を訪ね歩いたという。
母親は息子の戦死の知らせに、ショックから鬱気味になり、父親は何ものかに怒り、その後生まれた幼いクンツを悪魔の子のように目ざわりに避けるようになっていた。やがて、ルドルフは、事情を理解できる年頃になると、出征を引き留められずいつまでも後悔と自責の念に苦しみやつれはてた母を慰めた。そして自分の知らぬ時代にそんな兄を、一族の名誉のためだけにすすんで戦場へと送り、死なせた父親を憎んだ。
いつしか、彼は父親の二コルと決定的に対立するようになり、遂には勘当され城への出入りは禁じられた。 何でも、本人曰く、父親の大切にしていた大航海時代の南米の歴史的コレクションの宝物を休暇中、何かの拍子に粉々に砕いて、わざとそこらの塵と一緒に庭に埋めたらしい。
そして自らそれを父親に申し出た。父親は一瞬卒倒しそうになったが、壁に掛けてあった幼少期からのいつも馴染みの鞭で、気絶するまでクンツを打ちのめすと、感情はそれ以上乱さず、無言で部屋を出ていったきりだった。クンツは、床に倒れ伏せ朦朧とするなか、数々の思いが廻っていた。そして傷ついてもなお抵抗はしなかった。これで、憎くても片親を失う一抹の哀しさを味わっていた。
神経症を患う父親二コルにとり、それは歴史的な先住民族の魂の宝物というより、膨大な芸術的金銭価値をもつ個人的な多くの高価なコレクションの一つに過ぎなかったようだった。ルドルフにとり、思春期の芸術的感性の芽生えとともに、この時ばかりは、父親に向けての、’魂の集約された美への破壊’を伴う決定的な何らかの意思の表明だったのだろう。 ある朝、家族全員でいつものように会話もなく朝食をすますと、そのまま馬車にまとめられた荷物と一緒に、寄宿舎送りになった。
これでこの屋敷に戻ることも二度とないんだと、涙にくれる唯一愛する母親を遠くに眺めながら、ルドルフ・クンツは孤独な思いで馬車で屋敷を後にした。
でも、それからは、よりすさむというよりは、むしろ旧態とした.不自然な因習から解放されたことで、人らしい感情が寮生活の中、少しは醸成されていったように思う。そしてその母親譲りの素朴な人への思いやりと、芸術的感性も同時に芽生え、洗練されていった。
屋敷への出入りを禁じられ、母親とも会わせてもらえずに、クリスマスや学期末の外出休暇には、誰もが両親の待つ故郷に帰っていく中、寄宿舎にいつも一人取り残されていた。図書室でひとり涙目に、何やらいつも本に顔をうずめていた。何かの浪漫主義的な中世の騎士の寓話だったと思う。
子供なりに彼を気の毒に思い、僕はいつからか彼を誘い、母ヘレンの待つ僕の家に連れて帰るようになった。母は、僕の兄弟のようにしてルドルフを歓迎し、家族同然かわいがってくれた。
思春期
寄宿舎でのまだ尻の青い思春期の冒険好きの若者たちが作った幼い秘密結社まがいのグループにも、クンツは顔を出すようになってきた。彼にしてみれば、たとえ未熟でも、自由で啓蒙的・かつ民族的伝統の趣をすら漂わす幻想的な秘密の世界だった。
週に何度か、夜中皆が寝静まったころ、こっそりとベッドを抜け出し、近くの洞窟に集まった。大きな蝋燭の下でひとりひとり顔を照らし、メンバーの点呼を取った。皆が揃うと、どこかで水の滴る音のする静寂の中、ゲーテの物語を輪読した。
他にも、ミルトン’失楽園’や、ドイツロマン主義作家の作品を好んで読んでは、恐怖と幻想の世界を現実世界に投影することを夢見た。詩を創り、ギリシャの幾何学やエジプト由来の神秘主義のラテン語古書をよみ、青くて純粋すぎる理想を並べてみては、互いに大人ぶって批評しあった。おかげで、学校の授業では皆よく居眠りをして、教授に鞭でお仕置きされたものさ。見ると、隣の語学クラスでも例の仲間たちが、バケツをもって同じように廊下で並んで立たされている。半ズボンから出た太ももは、ミミズ腫れで真っ赤だ。皆で顔を見合わせて、目の下に涙の跡を残して、どこか満足げだったよ。何かへの高邁な秘密の合意があるかのようにね。
・・そんな時、僕たちはあの”血の誓い”をしたんだ。
同志の間の血の結束は、世界のどの辺境の地にいようとも、たとえ牢獄の中でも、地獄であっても何より優先すべし・・。 友愛の掟のもと、誰もそれを引き裂くこともできなければ、終生その誓いに我々は拘束されるんだとね・・。 ハッハ・・。今から思うと赤面するがね・・。でも、それが思春期の僕たちには真剣この上ない友愛の儀式だったんだ。
やがて、同じハイデルベルクに憧れ、ふたりで自然哲学の教養を収めたのち、彼は亡くなった兄と同じ美学科へ、僕は、尊敬していた父Fritzと同様、医科に進んだ。
大学にも、我々の寄宿舎時代の先輩たちが結成した学生結社のようなものがあってね、引き続きそのまま厳しいイニシエーションを経て、二人で会に所属することになった。幼弱なギムナジウム時代からすると、さらにその教義と秘密の儀式は、より難解かつ複雑で、世界普遍的になっていた。
深淵な哲学的真理を生涯にわたり探求し、大自然の摂理のもと、世界の恒久平和と多様なる人間への正義と尊厳を誓い、生きる限り世界のどこにいても皆が同じ魂でつながり、普遍的な真理を求め続けようとするはずのものだった。それは’ホワイト・ナイツ’という結社の学生下部組織だった。
・・そう、クンツと僕は、ともに入会を宣誓した。
僕たちクラブの仲間は、好んで拳闘やフェンシングをよくした。そして、カードやチェスもね。
クラブ仲間では、ルドルフはチェスが際立っていた。皆で、大学街のビアホールに出かけては、深夜遅くまで、政治や哲学論議をし、歌い飲んだ。ルドルフはいつも、皆からチェスで酒代を巻き上げていたよ。
彼は、神秘癖が昂じて、昔からよく部のサロンの片隅の椅子に片足を組んで長身を沈み込ませるように深く座り込み、ラテン語の神秘書片手に、黙ってタロット・カードと何時間もひとり格闘していた。テーブルに林檎酒のボトルとグラスを置いてね。・・灰皿には、燃えさしの葉巻だ。髭ずらで、頬がこけて、美しい青い目は宙を見つめ遠い黄泉(よみ)の世界を半ばさ迷っていた。
ルドルフ・シュタイナーやマダム・ブラバッキー、ダイアン・フォーチュンなど、神智学や神秘学の類の本が、多くの古い美術書や哲学書に混じり、下宿の屋根裏部屋の壁を埋め尽くしていたよ。
クンツの部屋は、天井まで書籍が積まれ、既にさながら考古学者か、中世の錬金術師の雰囲気を醸し出していた。その本の山の一角に亡くなった兄ジョセフのハイデルベルク時代の蔵書があった。大航海時代に著されたラテン語やポルトガル語のジパングに向けての航海日誌や南米大陸の探検史、そして環太平洋の山岳地の先史の考古学、先住民族の宝物や美術工芸に関する研究書の類だった。
僕は、彼の部屋にフランス産のカルバドスやワインを手土産に押しかけては、夜を徹して哲学論議に花を咲かせたものだ。時として彼は、とりつかれるようにして、南米やジパング(日本)にかつてあったという先史時代の精神文明を、まるで彼の中に蘇った淡い幻視をこの世の言葉に翻訳するようにして僕に語って聞かせてくれた。そして、彼の兄ジョセフとあの塹壕戦で出会い、ともに死んでいったユウ・マリアー二の因縁は、時代不詳のその時代、大陸の謎の場所にあったのかもしれないと・・。クンツは、自分には幻視でそれを追い、その美しい映像を辿ることでしかそこにかかわることはできないのが残念だと、悔やんでもいた。
そして、やがて近い将来戦いがこの欧州を席巻し、数々の悲劇を伴って、見かけ上の平和の過渡期を経て、ついには大きなカタストロフが世界を襲うことになるとも・・。その日には、もし君がこの世にいなければ、自分が君の敬愛すべき母上を責任をもって新しい大地の住処へといざなうとも・・。彼には、僕の人生にかかわるその後の何ものかが、既視眼でもう現れ見えていたようだ・・。
その頃はもう青年クンツは、幼い頃のように孤立した貴族の子弟としてではなく、同胞として仲間の皆から信頼され、敬意をもって受け入れられていた。我々は、互いに深い心の部分で、通じ合っているつもりでいた。
だが、やがて彼は何かの事件に巻き込まれた。そして、僕たちにも打ち明けずに、ある日突然姿を消した・・。下宿部屋には、まるで逃げる様に失踪したまま、その後何年も戻った形跡がなかった。”
事 件
” ・・数年、ひとりでルドルフは地獄の苦しみを味わったようだ。僕は、何年もたってから人伝えに聞いている。
彼の生涯に恐らくはたった一人、青春期に彼の愛した侯爵の子女の女性がいた。名はハンナといった。
気の毒な他民族の子供をかくまったのが知れ逮捕され、やがてそのまま戻ることなく獄中で亡くなっている。どうもその子の母親は、地下の活動家だったらしい。
彼自身も関係を疑われ、身の潔白を証明するため、残酷にも愛するその女性の拷問の現場に立ち会わされたと、学生時代のクラブの仲間からきいている・・。
女性は、かくまった’ハンス’という名の異民族の子供と、決して豊かではないその母親の不利になる証言は拒み続け、生き地獄の様に苦しむ恋人のクンツの目の前で、拷問の苦痛を幾日にもわたって受け、ぼろきれの様になってもかたくなに何ものかへの意思を貫き通した。
そしてついに、最後に何かを訴えかけるようなかすかな微笑みをクンツに残したまま、唇から血を流してハンナは息を引き取ったという。 その笑みはクンツの身の上への限りない同情と慈しみの愛だったんだろう。
どうして自分の命を犠牲にしてまで、一介の貧しい他人の家族を守り通さねばならなかったのか、彼は悩み苦しんだ。 いや、それこそ僕たちが青い学生結社で追い求めた普遍的な弱者への愛だった。 そんな魂を内に秘める女性だったからこそ、ルドルフの心を放さなかったんだろう。 そのころ、心から愛した自分の母親をも、何故か同じ時期に亡くしている・・。
僕の母ヘレンは、縁あってルドルフのことを幼少のころから知っていた。そして貴族の子息としてではなく、孤独な小さな僕の友人として温かな愛情をもって、まるで本当の兄弟であるかのように接してきていた。クンツはそんな母を幼いながら敬愛し、心を許していた。 だから、母は後年その恋人の事件のことを知り、自分が傷つくようにとても苦しみ悲しんでいた。
そのころからか、クンツは人が変わったように、それまでの青い潔癖な理想主義を捨て、過激で排他的・民族主義的な政治活動に身を投じていったと聞いている。
ハイデルベルクのキャンパスから姿を消し、その後、もはやかつての彼を偲ぶべくもない、まるで豹変した人格で政財界に人脈を形成し、愛する母親のいなくなった一族の城からいったん離れ、その後は莫大な権力と財を築き上げていったようだ。
いつか彼と再会したときは、昔のように額に傷を残していたが、かつての面影はなく、もう・・狂っていた。だが、狂人とは、その時代の歴史・権威への一見シニカルで、でも正当な証言者としての意義と位置づけがある。時代の流れの中で、人々が、人としての目を曇らされないようにね。
今は、確かに・・あのとおりさ。 人を人とも思わない・・。 彼自身それが許されることとは思っていまい。 彼を知る僕はそう信じている・・。
でもダンテの神曲のごとく、いつか生き地獄の日々を送った末、さらに地獄に引きずられることになったとしても、その責めを望んで受け入れるだけの諦念と覚悟が、すでにあの日あの頃からできていたのかもしれない。
人であれば誰もがもつ、’魂の美’への憧れとはいったい何なんだろうね。
時代に翻弄されるなか、魂を風化させることなく、あの亡くなったクンツの恋人のように、命を懸け、自ら信じる真理と美を追い求めることができるものなのだろうか・・。
彼は、あらゆるものが手に入り、父親をまねた異常なほどの芸術趣味にうつつを抜かし、今は自己を忘れているふりをしている。
かつての未熟な青年時代の純潔さは捨て、とっくに魂をあのファウストの’メフィスト’に売り渡しているようかのようにね。でも、彼には優しい母親の血も流れている。僕は彼の母親を知っている。 いつかあの少年期の彼が、普段見せたことのない幸福な表情を、母親のまえで見せていたのを、僕は今も覚えている。母性の輝く愛の光の中に、彼は浸っていた。
・・彼の今の理屈では、我々が信じる世界の価値基準や常識は、すべて仮のものだという。クンツを含めた彼ら選ばれた優生的なエリートの中で、周到に練り上げられたシナリオの舞台の上で、我々は彼らの劇場の珍妙なるマリオネットになって踊らされているという・・。
それは、彼らの限られた特権階級の間では公然の秘密なんだよ。
だから、僕たちが青春時代に信じ誓い合った理想などというものは、彼の所属するシンジケートの中では、衆愚を信じ込ませ、操るための都合の良い、扇動のためだけにうまく練り上げられた美辞麗句の絵空事で、何の意味も実体もないそうだよ。
・・そう彼はいつか言っていた。
チェスのゲームの駒になって勝ち負けを演じさせられているとね。そうやって、いつか彼らの偏向した理想の世界ができあがっていく。彼は、時の権力に取り入っているようで、実はそれを超えるもっと広大な闇にすでに気づいていたのかもしれない・・。”
誓 い
” きのう、車で君が連れ去られた後、僕は彼を追った。そして、君が彼の車の後部座席で気を失っている間、クンツを霧の森の中に連れ出して、男同士の話をした。
・・彼はわかってくれた。 自暴自棄になっている自分を憐れむように、彼は薄ら笑いを黙って浮かべていたがね。 彼と僕の中には、いつか若者同士でかわした、まだ青い、’純血の結束’の誓いの記憶が残っていた・・。
’ルドルフ、覚えているかい・・、あの時のことを・・。’
一瞬、この時ばかりは、奴も人らしいむかしの顔に戻ったよ。
生涯、どこかで必ず守らなければならない’一滴の血’をかけた誓いが、彼の中ではまだ生きていたんだ・・。
若いころのその’青い’誓いに従って、
霧の失せた湖の傍で、ある約束を彼とした。
あの青春時代の二人に戻ってね・・。
そして、ある交換条件で、彼が、手を引いた・・。”
”それは・・、あなたの身に何か危険が及ぶことなの?”
エミーナは青ざめた顔で、不自由な唇を震わせて尋ねた。
” 僕はね、危険は何とも考えていない。
だから、一つめの条件は、・・何でもない。むしろ求めるところだ。
彼もそんな僕のことは、若いころに承知済みだ。
幾度か彼とは、議論の果て名誉をかけて剣を取り合い決闘しては、死に損なったよ。
男同士にしかわからない、勇気と名誉をかけた馬鹿げたロマンテイシズムさ。
彼の額の切り傷は、実はそのころ僕が誤って切りつけたものさ。 僕はそれを苦しんだが、彼は、心の中で、それを若き友愛と純情の証し、その名残として名誉に思っているようだ・・。
口では、怒った総統の鞭の傷などと偽って、ナチの’勲章’とほらを吹いているが。 ハハ・・、彼には、ゆえあってか、持って生まれた自虐癖がある・・。
だから、その後いつでも彼に切りつけられ、心臓を一突きされて命がこの世にはなくても構いはしない、そんな馬鹿げた騎士道の魂の覚悟ができている。それが男の哀れな勇気というものさ。 でも、・・本心では彼は友として決してそれを許さないだろうが・・、僕がそんな決意を隠し持っているのを、彼はとっくに気づいている。
純血の儀式をしたものどうしの無言の了解だ・・。
だから、一つ目の彼とかわした執行猶予付きの無言の条件は、彼が僕の返答を待つまでもない・・。 いつか’その日’が来たら、’僕’自身の魂と引き換えに、彼の命の続く限り、いや死してなお永遠に、ルドルフは、僕の愛する君につながりのある者を・・救い守っていくこと。
そして二つ目の条件は・・、実は、君に申し訳ない約束を、彼と勝手にしてしまった。
君をひと時、彼の命を懸けて、僕に引き渡す代わりに・・、
彼が生きているうちは、君の魂の投影された絵を、彼のもとに譲るということ・・。”
女は男の腕に身を寄せると、うつむき、ふっとため息をついた。
“フリース、 私には、難しくてすべてはよくわからない・・。
・・でも、今はあなたのことが心配。
あの絵は、メフィスト・フェレスのふりをするあなたの幼馴染にさしあげるわ・・。
でも・・、とても苦しいの・・。 何もかもあの人は奪っていった・・。
まるで、弱いものが苦しむのを見るのを楽しむかのように・・。
でも、・・それは時をたがえた、犠牲者同士の哀しみの連鎖なのかもしれない・・。 ”
もう、私は何も残されていないぼろきれの様な女。もう、何も・・。
目の前の貴方だけにすがって、こうして今生きていられる・・。
あなたに何かがあったとき、私の命の炎も尽きるとき・・。”
いつの間にか開け放った窓の外には白い雪が散り、遠くの空に銀色の太陽が静かに雪の上にオレンジの光のベールを伸ばしていた。
張り詰めた冷たい空気の中、二人の命は熱く息づいていた。
もはや、理由はいらなかった。
互いをいとおしみ、全てを与え全てを受け入れること、二つの身体と命が一つに溶け込むこと、それが全てだった。 明日でないたった今の、かけがいのないこの瞬間に・・。
緑の泉
やがて二人は一面の銀世界の中にいた。針葉樹の森は美しい雪化粧。
白い鳥たちが寂しげな声を空に響かせて、いっせいに遠い夕陽を目指す。
“あの鳥たち、いつまで飛び続けなければならないのかしら。”
女は男の腕にすがりささやいた。
“生き続ける運命にあるんだよ、エミーナ。
皆それぞれわけがあって、どんなに辛くとも生かされている。
でも、・・その理由がなくなれば、もう休んでいいんだ・・。
”・・私達は?”
“僕たち二人・・、出会いとは不思議なものだ。
何処からとも無く神は与えたもう。ギリシャ神話の中のこんなお話のようにね。
シーシュポスが重い石を肩に担いで頂までたどり着くと、休むまもなくその石は反対側の底に転げ落ちる。
でも又登らねば・・。生きるって、その繰り返しだよ。
でもね、エミーナ・・、何ものかへの愛は、辛くとも生きる勇気とその大切な意味をその道程に与えてくれる・・。”
男は女の身体を自分のコートに包んで暖めた。
男の頬を触れる女の栗色の髪は、かすかな薔薇の香りがした。
白く雪に覆われた森の奥には小さな泉があった。 そこだけは紫の花々が白い雪の絨毯の上に咲き乱れていた。透き通った緑の温かな泉だった。ふたりは身に着けていたものを脱ぐと、オレンジ色の陽光に照らされる白い湯煙の中に、二つの肌を溶け込ませていった・・。
帰 郷 ヘレン
夜遅く、街道のホテル’ROND’を後にした。黒のベンツのヘッドライトをつけるとエンジンをかけ、火照る女の腕を横に感じながら、フリースは車を西へ向けて疾走させた。
途中多くの検問を潜り抜けた。南へ南へと向かって・・。イギリス軍の戦闘機の空襲にあい、車を木陰に隠して草むらで二人身を寄せ合った。
ポーランドからドイツに入ると都市を避けて、東南に迂回しフランスの国境近くまで下り、やがて夕映える美しい川の古城の町にたどり着いた。
二人きりの長い道のりだった。
車で石造りの古い城壁の屋敷の鉄門を通り抜けると、庭先でひとりの婦人に迎えられた。
フリースと同じ青い瞳の美しい女性だった。
“お帰りなさい。ようこそ、・・貴方がエミーナね。
何も言わなくていいの・・。さあ、はいって。今日からここがあなたのうちよ。”
婦人はエミーナを長く優しく抱いた。その温かさにとめどなくエミーナの目から涙が溢れた。
婦人は息子たちの間に入って、二人を両腕で抱き、茶のレンガ造りに苔むした屋敷の木のドアへと招き入れた。
暖かな暖炉の灯が玄関の広間を照らし出していた。
ソファにエミーナを座らせると、婦人は青いテイーカップにお茶を入れてくれた。
“お疲れでしょ、顔色が悪いわ。可哀想に・・。
これを飲みなさい。身体が温まるわ。
医師だった主人がよくブレンドしてくれたハーブのお茶よ。”
そういうと婦人はエミーナの冷たく冷えた手を握った。温かく柔らかな掌だった。甘酸っぱく、春の可憐な花々の香りを思い出させるそのお茶に、エミーナの心と体は温まった。
フリースはドイツの将校の軍服を脱ぎ、白のワイシャツの袖をまくると、暖炉の灯に黒くちらちらと光るピアノの前に静かに座った。
そして2人に向かって微笑むと、ピアノの上に灰皿をもっていくと、葉巻をライターで着火し、宙を見上げ一服した。そして両手を鍵盤の上におくと、そっと身体を揺らし始めた。
ガラスの大きなシャンデリアの下げられた天井いっぱいに、静かで悲しげな調べがこだまする。
暖炉の灯に照らされ、フリースと、口にくわえた煙草の煙が、影となって壁に映し出され動いていた。そこに、額に入った一枚の写真があった。
白衣に顎鬚をたくわえたフリースの父親’フリッツ’だった。
かつてフリースと同じ医学校を出て、ハイデルベルヒの地で医業を営んでいた。
第一次大戦では、軍医として東部地域ボヘミアでの前戦に従軍し、やがてそこで従軍看護婦をしていた女性ヘレンと結ばれる。
二人で夫の故郷に戻り、フリースが生まれる。 美しい金髪の碧眼の男の子だった。そして一年ほどの幸福な日々を過ごした後、夫は再び一人戦地へと戻っていった・・。
フリースはカッチーニの‘アベ・マリア’をピアノで演奏していた。
過ぎ去った辛い過去の記憶に囚われ、呆然と宙を見て怯える女に、ヘレンはそっと抱き寄せ、額にキスをした。エミーナは泣き崩れていた。
“ 今は思いっきり泣いていいのよ・・。今日からは私が貴方を守ってあげる。”
エミーナはその夜、母ヘレンと息子フリースに包まれて夜遅くまで過ごした。 久しぶりに味わう家族の温もりと慈しみの愛だった。
大学街のカフェ
翌日、フリースはエミーナを伴いネカー川に沿って歩き、母校の大学まで案内し、傍らの昔馴染みの学生時代からのカフェに入った。
金髪の若者がピアノを弾いている。茶の煉瓦の壁には数世紀も前のセピア色の学生の写真が無数にはってある。
ほんのしばらく前のフリースの学生仲間の写真。そして、これも同じころの一風変わった皆そろいのスーツを着て、ビールを傾けている複数の学生たちの写真。エミーナは、一瞬ハッと、凍り付くように身を固めた。フリースの横にはあのクンツが笑顔で並んでいた。別人のように純粋そうな若者の表情であった。 フリースはそれに気づくと、エミーナをそっと抱いた。
” ああ、これかい・・。 こんな時代もあったんだね・・。”
争いさえなければ、誰もが謳歌できる美しい青春だった。
フリースは、ずっと壁の端のほうの、古くセピア色に色あせた写真を見つけてちょっと微笑んでエミーナに指し示した。
” あそこにいるグループの中の、顎鬚の若者が、若かりし頃の僕の父の写真だ。
同じ学校で、同じ思いで青春を送ったんだと思う・・。父は、こちらに戻って小さな医院を開いたんだけど、その前に、戦線でまだ母と知り合う前に極東のいろんな辺境をひとり訪ね歩いたそうだ。そこで医療活動をしながら、日記にその頃の若い思いを書き記している。僕は、母親から膨大な量の父の書き残した手記を受け取ってね・・。
最初は音楽や文学に遊び惚けていたんだが、結局、同じ道に進もうと決心したんだ。
若い頃の父の様に、病に苦しむ人を救い、その後の幸せへの道を切り開いてあげられるようにと、いつか、熱に浮かされてね・・。
いまでは、・・もうそんな日々は、僕の人生にはもう二度と許されないことはわかっているんだけどね・・。”
“ ・・ところで、母を気に入ってくれた?
父を前の戦争でなくしてからは、よくここに連れ出しては二人で林檎酒を飲んで過ごした。
いつも嬉しそうだったよ。 僕が今あるのは、みな、彼女のおかげさ・・。
僕の苦悩を母は知っていて、何も尋ねずに、僕を今も慈しみの愛で包んでくれる・・。”
フリースは、ふと目を伏せた。
“ 素敵なお母様ね。 ・・貴方と同じく、とても理知的で優しい方・・。”
エミーナにはこの母子が羨ましかった。
” 実はね、父と出会う前に母には将来を誓った恋人がいたんだ。
いつかのクラクフの街道沿いのホテルでの、あの話の続きになるけどね・・。
若かった母と同じ年ごろで、郷里で別れを告げてその男性は西部の戦線に出た。母もいたたまれなくて同じ地域の激戦区を志願して従軍看護婦として後をひそかに追ったんだ。
でも、願いがかない、やっと会えた時には、その若者はすでに爆撃を受け塹壕の中で大きな負傷を負っていてね。 看護婦の母が見つけ出した。
既に彼は、目の前に涙ぐむ恋人の姿をすら見定めることができなかったんだ。
全身ズタズタで頭部にも小さな爆弾の破片が潜り込んでいて、その時同行していた医者の父もどうすることもできなかった。若い母の腕の中でささやかなふたりきりの別れの時間を過ごすと、この世を去ったという・・。 それが、実はあのクンツの亡くなった兄だったんだ。
母はその後、気を取り乱し、腕を切り裂いて自分も後を追おうとした・・。でも、医者の父フリッツがなんとか命を救ったんだ・・。 ’生きるんだ’、と言ってね。 どうかエミーナ、そんな哀れな母を、・・嫌わないでほしい。”
フリースがそう言い終わると、エミーナは一瞬青ざめた。自分の運命と絡み合う数奇な縁を感じ取っていた。
”・・・いいえ、そんなこと。”
“ エミーナ、どうか苦しまないでほしい。
・・さあ、君のための曲だ。”
そういうとフリースは、ホールの隅にあったピアノに向かうと、椅子に腰かけ、’アルビノー二のアダージョ’の哀切なフレーズをゆっくりと弾き始めた。
青い瞳でそっとエミーナに微笑んで奏でる美しいピアノの調べに、哀しみの中、エミーナは複雑な思いのまま酔いしれていた。
静かな異国の地で、暖炉の炎に照らされ、人に知られることも許されぬ深くつらい大人の愛に、エミーナは浸り始めることのなる。
“ ・・エミーナ、もうすべてを語った。 ・・君はもう自由だ。 好きにしていいんだよ。
ここはフランスとの国境にも近い。だからここから逃がしてあげることも出来る。
国境の向こうでも戦況は不穏だ。・・君さえよければ、今は母の元で過ごした方がいいだろう。 母は全てを知ったうえで、君の事を、大切に守ってくれるよ・・。
そして、君は二度と顔を合わせたくないだろう、あの哀れな牢番人クンツには、
君が今後、どこにいようと手出しはさせないと、古い友人として誓わせている。
だから、どうか苦しまないで・・。”
数日して、フリースは二人の愛する女性に見送られ、遠い東欧の夜の霧の中に一人旅立っていった。
別 れ
何年もして、いつかの灰色の車に乗って、あの黒ずくめの男が、ひとり屋敷を訪れてきた。
シルクの黒帽子をとって挨拶をした。額には見覚えのある一筋の傷があった。
ルドルフ・クンツは椅子に腰かけた。幼年学校の時代と同じように、フリースの母親ヘレンが微笑んでさし出してくれた白いカップの温かなお茶を黙ってゆっくりとすすった。
’ダンケシェーン、・・マダム。’ クンツは、フリースのいない黒いピアノが、暖炉の火を照りかえすのに放心してしばらく眺めていた。それから、口火を切るとゆっくりと低い声でソファの二人の女性に話を始めた。柱時計の時を刻む音が延々と背後に響いていた。
最後にクンツはその壁の時計の時刻を見上げると、うつむいたエミーナを抱き寄せている夫人のヘレンにそっと目くばせして、立ち上がった。
” Emina、・・心の準備はいいですか。
では、ご一緒しましょう。”
クンツは、腕を差し出すと、うなだれるエミーナを支えて、玄関に向かった。
そして、壁に掛けてある一枚の大きな裸婦像を眺めると、外の霧のなかに止めた車の後部座席にいつかの様にエミーナの手を取って座らせた。 しばらくの幸福な日々を過ごした家の前にヘレンが涙ぐんでたたずんでいた。
そしてやがて、数限りない悲劇を人々に演じさせ、そのささやかな愛と幸福を引き裂き、決して癒されることも無い永遠の悪夢の傷跡を人々にとどめたまま、長い大戦の終末がおとずれる・・。
” fin de la guerr ”