ホテル・ムンドス


 修理を重ねてやっと現在まで生き延びたようなアンテイックなアメリカ製のタクシーは二人を乗せ海岸線を疾走し、やがて旧市街の淡いピンク色に塗られたホテルの玄関に着いた。

 ホテル・アンブス ムンドス  スペイン内戦時代のヨーロッパを舞台にした” 陽はまた昇る ” 作者ヘミングウェイが滞在したホテルだった。 この一室で、いくつもの名作が生まれている。

 へミングウエイの部屋は511号室。 外に開かれた白い窓から明るい陽光がさし込み、かすかなカリブの潮の香りを含む微風が、部屋に涼しげに注いでいる。 

 当時愛用したタイプライターが、今にも作家が忙しく姿を現しそうに、そこに残してある。 この街に20年住みつき、食べて酒を飲み、カリブの海で釣りをした。太陽の揺らぐ海の波間を見つめ、数々の物語の構想を描いたのだろう。
 やがて、長年住み慣れたこのホテルを去ると、郊外に邸宅をもった。

今は観光客の訪れる作家の博物館になっている。 

"誰が為に鐘はなる"、・・そして"老人と海"

 

 ‘海流の中の島々’というカリブの島を舞台にした小説を、悠は高校の頃読んでいた。

これでもかと、気だるく延々と流れ続ける、世捨て人の芸術家の男の物語。故郷の日本の涼し気な信州でなく、この汗ばむ暑さと潮の香りに身をおいてやっと、その舞台の背景と主人公、そして作者自身の憂鬱が身にしみる気がしていた。
 
 そして、長い日々の記憶を残し、この国を離れてしばらくのこと・・。

パパ・ヘミングウェイは、残りの人生を足早に駆け抜ける様にして、数度の事故にあって瀕死の重傷を負い、ノーベル賞にノミネイトされ、そしてついには愛用の散弾銃で自らの命を絶つ。 カリブの島での長い夢から褪め、世俗の現実に戻り、出遅れた人生の時計の針を急いで巻き戻すようにして・・。だがいささかゼンマイは潮で錆付き、不協和音を伴ってそれを拒んだようだった。

 
 悠とマリアの二人は、ホテルの4階の部屋にいた。

涼しげで落ち着いた木目のアンチックな内装に、白とベージュのシーツに覆われた大きなベッドが所狭しとおいてある。壁に灯の消えたランプ。 シンプルだがそれで十分な気がした。 窓の外の明るい陽射し、鼻をくすぐる潮風の香り、どこからとも流れてくるサルサの響き・・。昨夜までの戦いの悪夢は去った。・・ここは’カリブ’だった。

ベッドに横たわると、上階の神経質にタイプを打つ音が窓から漏れ聞こえ、天井を通して作家の孤独な息遣いが伝わってくる。 二人はいま、熱帯の倦怠感を伴い作家の創り上げた物語の海の中に漂っていた。
 


 
 シャワーを浴びて、ベッドでふたり寄り添い、そのまま何時間も心地よく眠った。中米サルバドールは過酷だった。 けだるい午後のまどろみの中、悠は瞼を開いた。眩しい窓の光。 花瓶に小さな赤い花がある。

涼しげな微風を髪に受け、薄いシュミーズをつけたマリアの白いシルエットが瞼の中に浮かんでいた。、金色の髪をときあげながら、いすに片足を組むように腰掛け、物憂げに開き窓の外を眺めている。

遠く岸に打ち寄せる波の音が、夢の中、遠く手招きするように悠の耳元をくすぐる。


 カリブの島の暑い微風にマリアは頬を少し紅潮させている。 細くそりあがった小鼻に、長い睫毛の横顔のシルエットに、ハッと懐かしい誰かを思い起こさせる。幻は、あの日の様に白い陰りを添え、美しく陽に映えている。そこには白い’待雪草’の花があるはずだった。

 まばゆい白のシルエットは、小さな丸テーブルにゆっくり手を伸ばして、汗をかいたレモン入りのラム酒のグラスを指さきで撫でている。 淡い心地よいまどろみの中、悠は夢と現実の入り交じる白く眩しいモノクロームの映像を、このまま黙って傍から眺めていたい気がした。 
 緑の葉の浮かぶグラスの氷が、ピシッと小さく弾ける音がした。‘キューバ・リブレ’

・・自由キューバ、洒落た名のついたラム酒だ。

 

 マリアの横顔のシルエットは、むかしパリのホテル・アンテナショナルで夢うつつの中に見た白い妖精の姿に見まごうばかりだった。

 ところどころ現れては消える少女の面影、その懐かしい仕草に、少しコケテイッシュ(艶っぽい)なラテンの原色の香りをまぶして、マリアは、あたかもあの日の情景を目の前に醸し出していた。 何故だろう・・。 どうしてエミーナがここに・・。

悠は目くるめくデジャビュの幻を、南海の白日夢の中にみていた・・。

 カリブの白い光と影の静寂が、あの忘れていたはずのキエフの秋の憂愁を、悠の瞼の裏によみがえらせる・・。青い空、緑の草原、白い開き窓のレースに揺らぐ花。 懐かしいあの部屋だった。
ベッドの気配にマリアは悠の方を振り向いた。 陽を受け、妖し気に緑に輝く瞳で、悠に微笑む。 悠の中で、’少し’、時空が絡まっているようだった。
 

 

 " よく眠っていたわね、悠。 しばらく貴方の寝顔を見ていたの。寂しそうだった・・。

 ふふ、どうしたの、ユウ。 ・・私の顔の中に、誰を見ているの? ”

 

 ”‥、いつも夢の中で会う人さ。”

悠は眠気まなこに、とぼけてみせた、・・つもりだった。

でも実は、’いつも’の夢の人とは違っていた。

 

” あたしに、似ている? ” 

 と、悠を見つめ、顎に手を添えるマリア。

 

”  ・・君と見まごうばかりの美人だよ。 髪と瞳の色は違うけどね・・。

それに少し・・。”

 悠は、’少し’調子に乗りすぎていた。 白日夢のマリアの小悪魔的な問いは、冴えていた。悠の目に見えぬ隣で一瞬、女が愁眉(しゅうび)を逆立てているようにも思える。

でも悠は ’少し’ 正直すぎただけで、・・’嘘’をついてはいなかった。  

 

 ・・夢も、やはり現世の写し絵である。 

時として次元の境界上を行き交う悠にとっては、なおさらのこと。

所詮、マリアも現世の人・・。それ故、女の可愛いい誤解も、やむをえまい・・。

悠の苦しい言い分だった。

 

” ・・ありがとう、光栄よ。  

でも、あなたの夢の中の、

その可愛らしい、私に生き写しの’従妹’(いとこ)は、私と違って’少し’・・?

 ・・ふふ、馬鹿ね、いいわ。   愛していたのね・・。 

 胸に、大事に取っておきなさい。 ”   

 

” ・・・。 ”

悠は素直に胸をなでおろしてはみた。

が、この悠の最後の’間’が、マリアの中のイメージを結んだ。

悠は草むらで、時間差で穏やかに放たれた’鎌’にかかり、足が’もつれ’ていた。

マリアは、’クスっ’と微笑んだ。 悠は、遅ればせ自分の鈍さに、ハッとした。

幼い頃の、ませた女の子にしてやられた記憶が蘇る。

不完全燃焼に、案山子(かかし)のようにその場に立ち尽くす男の子。

遠くでそれを見て烏(からす)が笑っている。

 

大人になっても、そんな間抜けな場面が時として、突如実を結ぶことがある。

何処までも冴えわたる女の’感’の前に、所詮、男の言い分は、’屁理屈’ほども通用しないのが世の常だ。

ほんの数分の大人の神経衰弱ゲーム、・・取りあえずは、悠の負けの様であった。

 マリアの感性と、悠の境界上の空想の世界。 そしてさらに二人を包み込む、より大きな運命の輪。 相互に絡み合ってはいても、この先、どうも互いに交わることはなさそうだった・・。 

 ただ、マリアは、枕を濡らす悠の寝姿から、既に理解しているようだった。

 ・・そっとしておいてあげよう。

 誰にも、人に触れられたくない大切な思いは一つや二つはある。

マリアの理知的な微笑には、そんな優しさが込められている。


” ・・ねえ、フロリデイータでお酒飲まない? おなかもすいたわ。 ”

悠は、その言葉に、ふっと唇の上の汗を拭うと、やっと目の前の現実にたどり着いた。

 マリアは悠を見て柔らかな白い腕を差し出した。悠は、そっと視線をそらして女の腕をとると、ベッドから急いで身を起こした。

 よくしまった小麦色の肌の上に、新しい白のコットンのシャツに腕を滑らせ。、さらにその上には、ベージュの麻のブレザー。そして、細めのリーバイスのジーンズにぎこちなく脚を通す。

 危うく、足が’もつれ’そうだった。 化粧台の鏡に映った自分は、妙に髪の毛が飛び跳ねている。 鏡の中のマリアが微笑んだ。 

 性懲りもなく、悠は思った。 ・・やはり、’いつも’の夢の中のあの人に似ている。

エミーナ、そしてエーゲ海の女神の別の面影とあの遠い戦いの日の記憶。

悠は、’ぶるる・・’と、かき乱れた頭を振ってみた。

 

” ・・・。”
 
 フロリデイータは、”パパ”・ヘミングウェイも生前よく通った店だった。

’ダイキリ’というラム酒のカクテルグラスを手に、いつまでも端の席で時間をつぶしていたという。 

今も作家の席は空けてあり、かつての日のようにダイキリを注いだグラスがひとつ置かれていた。 壁には作家の胸像が数枚の写真とともにあった。
 その空席の残影に思いを馳せ、ふたりは微笑んだ。 作家に敬意を表し、少し離れたカウンターに座って二人は乾杯した。 悠はかき氷と蜂蜜入りの’パパ’ゆかりの砂糖抜きの”ダイキリ”、マリアはイエル・バ・ブエナの葉の入った琥珀色の”モヒート”だった。

 マリアは、悠の前でそれをゆっくり飲み干してしまうと、” さて、お腹が減ったわ。”といって、可愛い鼻もとに指を当てて豚の顔を真似て笑った。

”食べてみる? アヒアコというのよ。豚肉に青バナナとトウモロコシ、ジャガイモなどを煮込んだここの郷土料理。おいしいわ・・。”

 

  少し陽が傾いて、微かな潮風の中、ふたりはほろ酔い加減で久しぶりにくつろいでいた。

ここには、もう中米の頃の争いの影はなかった。

 悠は、ブレザーの内ポケットから葉巻を一本抜き出すと、銀のColibriのライターで火をつけた。

 麻の上着の袖口からのぞく日焼けした腕に、幾本かの古い傷跡が見える。

 初老の白人系のバーテンが、それに気づくと、首を傾け目くばせした。 

 そして、そっと自分の真っ白のワイシャツの袖をめくった。腕から胸にかけ古いやけどの跡があった。過去に何か大切なものを守ろうと命を懸けそこなった、そんな何かの孤独な冒険に取りつかれた男どうしの挨拶のように、敬意を払い、無言で微笑んで見せた。 悠もグラスを捧げ、かすかに微笑み返しそれに答えた。

 事情(わけ)を問うのは、野暮だった。ふと、遠い幼い記憶の中、母親の白い腕の傷跡を想い出していた。

この国には、過去にそんな辛どい想いをした者たちが、歩けば何処にでも潜伏しているのかもしれない。

 悠は、ブレザーの内ポケットを探りライターをなでてみた。昔初めての旅行のパリで手に入れ、以来ずっと旅の友だった。金属質の低い着火音のあと、悠はハバナの空港で手に入れた2本めの葉巻を今ふかしてみた。脳内がしびれるようだった。 今度はどこか ’幻惑’の薫りがした。あたりを際立たせ、濃厚な物語の一場面に仕立て上げる。遠い幻想の中に記憶の断片を蘇らせながらも、地底へと埋没していく。

天井をゆっくり回る大きな扇風機の羽根の中に、いくつかの想いを含んだ煙が、渦の様に吸い込まれていくのを悠は眺めていた。 マリアは、自分の知らぬ世界に浸る男の横顔を、そっと見つめていた・・。

  
 戦禍の中米から、二人はこの国にやってきて、いつの間にか張りつめていた神経がふと緩んでいるのに気づいていた。 心地よい微風が肌をなで、遠くからの潮の香りと波の音が、錯綜したまだ癒やしきれぬ心の傷をかすかに和ませてくれる。 飛び交うロケット弾や空爆の響きが耳から離れず、いつも、血と汗と泥にまみれた匂いのしみついた中米のジャングルの日常の幻から、ここはすでに遠く離れていた。

青いカリブに浮かび、岸辺に波が静かに寄せる、どこか原色の似合う、平和で陽気な島だった・・。 

 

 

 

 ” 青銅のナイト ”   フロリデイータにて

 

 

 

                      

 

 

  マリアのブロンドの髪が微風に透き通る様に揺らいでいる。薄っすらと汗のにじむ白いうなじから柑橘系の微かな香りがした。 カウンターの先ほどの髭を蓄えた初老のバーテンが軽く微笑むと、念入りに二つカクテルを作り、こちらに差し出してくれた。

” これはおごりだよ。

 神の与えたもう 不思議な出会い・・。

 恋は、きらめく星々の導く巡りあわせさ。 カリブの どこまでも深く碧い海に魅せられ

 帆を無くした小舟のように 魂を楽園に置き忘れないようにな。  

・・お幸せに。 ”

 

 マリアは、夕陽にカリブの’グリーン・ブルー’のように輝く瞳でそれに答える。

 一見、ラテン系同士の気兼ねの無い綺麗な会釈のようだった。悠は、うまいことを言うとひとり感心していた。 それからカウンター越しに二人はスペイン語で何か話しはじめた。どこか父娘のような穏やかな様子であった。

なぜか途中でドイツ語なまりの会話が始まった。 悠には、ドレスデンと、ハイデルベルヒという言葉以外は聞きとれなかった。マリアの母方がドイツ系であることは悠も以前にきいていた。 先ほどとは変わって二人の様子は、親しげながら、少し込み入っていそうだった。

 悠はひとり取り残されて、葉巻をふかすと、遠慮してスペイン語の雑誌を取りに席を離れた。 女医のマリアと自分の家族の病の相談でもしているんだろう。

 少し酔って、壁にもたれ、グラス片手に、バンドのロマンテイックでメローなラテンの演奏に、とろける様に聴き入っていた。

 窓の外の風景は妖しい’パープルブルー’に染まり、海からの心地よい風が白いシャツに日焼けした髭ずらの悠の頬を、何か底知れぬ熱帯の幻に誘うかのように、微かに心地よくくすぐっていた。

 

 ふと周りを見渡すと、カウンターの端のほうに一人孤立したように時代がかった黒いシルクのブレザーを着た老人が風に揺れる椰子の葉をバックに座っている。 老人の前には、黄金色の液体の半分残ったグラス、灰皿に煙がくすぶる葉巻、そして、白黒透明に光るクリスタルの駒を並べたチェス盤がある。

 悠は、どこか出来過ぎたような、周囲から浮いたその雰囲気に興味を惹かれた。

 近づいて、隣の席はいいかと、聞いてみた。老人は、指を微かに動かして’Si.’と答えた。

悠に見向きもせず、黙ってひとり黒白のガラスの駒を運んでいる。 

悠は黙って座った。どこかで見かけたことのあるラム酒の瓶の列、その横にはしゃれた配色の三角や丸の様々な酒のボトルが並び、風に揺らぐ照明にきらきらと輝いている。悠は一瞬見とれていた。 

酒と煙草と女の香水の匂いが、潮交じりの海からの微風にブレンドされ、何かのデジャビュに呆然と悠を誘う・・。 

ここは、・・カリブの島だと思った。  悠は、左手で氷とレモンの入ったラム酒、・・かつて旅の詩人ガルシア・ロルカが、当地の鉱山労働者に伝えたとされる酒、元祖”ダイキリ”のグラスを傾けてみた。 

氷の動く音がした。

                                        

老人が低い声で悠に何かつぶやいたような気がした。

悠は ”ペルドン・・?(失礼)”と、老人のほうを振りむいた。

 

日焼けした老人の額のしわの中には傷の跡があった。

どこか、果てもない旅に疲れはてた、遠い北の森の獣の匂いがした。 

・・そう、熱帯のマングローブの白日夢にひと時休息をとる悠と同じ、

・・先の見えぬ空虚な何ものかに獲りつかれた、錆びついた、同じ種族の孤独な匂いだった。

悠は、そんな匂いを嗅ぎ分けることができる感性を、過酷な旅の途上、いつの間にか身に着けていた。

 

 老人は、グラスの黄金色のウイスキーの残りをゆっくりと口に運び入れると

右手で、チェス盤の白のクリスタルの駒をひとつもちあげた。

コーナーに追い詰められた白のクイーンを、いくつかの黒ガラスの駒が

適度に間隔を置いて取り囲んでいる。 最後の疲れ果てた

美しい獲物を追い詰めるように・・。

その敵の間を飛び越えて、老人は手にした白の”ナイト”を、

大事なクイーンを守る様にそっとその前に差し出した・・。

ただ、この流れでは、哀れナイトは、捨て駒となり蟻地獄のごとく自滅するだろう。

 

 

” ハポネッス(日本人)か?

 ・・どうやら君も、王女の魂に魅せられ、そのありもしない幻を、

 永遠に追いつづける宿命にあるようだな・・。

 青い黄泉(よみ)の馬(死~黙示録 )を引き連れて・・。

 

 

 その腕の傷は、'青銅の騎士'の、孤独な誓いのつもりかな、・・小さな’龍’よ。

 ’ナイト’は愛と正義の前に身を捧げる。・・そう、’我々’にとり、黄金の輪のごとく、遠くより宿命的に、’それ’は刻印されている。

 

 '侍(サムライ)'の誠は、己の犠牲をも顧みず、美しく理想を貫こうとする。

 だがそれは、君自身の懐刀(かたな)の陰になって隠れている何かを忘れている・・。

 

 世界は、白黒に点滅する数多くの未熟な心の”駒”で出来上がっている劇場だ。

 その背後にうごめく、その心の中の二項対立(善悪の迷い)を突き動かす巧緻(こうち)で破壊的な欲望のシナリオは見えてこない・・。

だから世のゲームには、永遠に、自らの意思で勝敗の決まる”チェック・メイト”などは無いのさ。 それが君の生きる世界だ・・。 仄かな’ 美’の幻に心を惑わされてはいけない。

 聖母Maria(Maira)の導く旅の途上、Minar’永劫の慈しみ’、それにEmという’哀しみ’の接頭語が加わる・・。君の腕に微かに光輝く象徴は、この先、いばらの道の苦難をうかがわせる。

  若者よ、・・あわい夢はさっさと捨て、己れの命を大事にすることだ。 ”

 

 低いさび付いた声で黒の老人は横でそういうと、微かに笑った。

 

 ” ・・・。”  悠は、放心していた。

 グラスを持った自分の左手の腕に、幾本かの傷あとが浮かぶ。

悠は、もう一方の手の指で、自分の腕の傷を再度微かに撫でてみた。 悠は、ラム酒で酔い揺れる頭のなかで、過去の出来事が夢のごとく走り過ぎてゆくのにまかせていた。

 老人の言うように、確かに自分の力では推しはかれぬ、何か偶然という名の、大きな必然の連鎖に突き動かされている気がしていた。しかも不思議と筋道がかなっている。

 背後から、またバンドの演奏と店の喧騒がよみがえり、悠は老人との隔絶された別世界から、現生へと舞い戻った気がした・・。

老人は、葉巻を一服すると、また黙って駒を運び始めた。

 光を放つその’ホワイト・ナイト’は、老人によりクイーンから引き離され、チェス盤の外に’無名戦士’の如く倒された。 結果、ひとりクイーンは生きのび、取り囲む黒の駒から守るように、白の’ビショップ’が後ろに控えていた・・。 悠の中で、哀し気に目を伏せたクイーンは、ビショップにそっと背後からショールをかけられていた。

 悠は、ふと背筋が冷える気がした。 風の絶えた紺碧のカリブの潮の流れに浮かぶ、自分とマリアの小さな帆船・・。

 この見ず知らずのはずの老人が、いぶし銀のように豊かな人生の羅針盤と秘儀的な天の星々の運行を読み取り、二人の小さな舟のこの先のゆくえを、暗に示しているかのようだった。

 怪しく光を放つクリスタルのチェス盤には、悔しいが、悠にもわかりそうな、皮肉で洒落た”暗喩”(詩的なたとえ)が込められていた・・。

 かろうじて陸に着いた漂流船も、やはり人影はひとつ・・。 三角目の鮫にでも喰われたか、船倉を探そうにも、自分の姿は見つからなかった。

 

 店の中は煙草の煙がけぶり、振り向くとカウンターからこちらをうかがうマリアの柔らかいシルエットが見えた。 先ほどの白人系の初老のバーテンがマリア越しに、悠のいる方にウインクした。 悠は、黒服の老人に挨拶すると、マリアのところに戻った。

 本当は、どっちが自分の生きる世界なんだろう・・。 すでに悠は、’胡蝶の夢’の中でさ迷っていた。

 

 しばらくして振り返ると、そこに老人の姿はもうなかった。

 ’黄泉(よみ)の国’に、うっかり生きる証(あかし)をおき忘れてきたような、背筋にずっしりと重いものを引きずった気分のままだった。    悠は、”ぶるる”と、・・身震いした。


                                              


 "ムーチャス・グラシアス・・(ありがとう)、セニョール。”

マリアは離れていくバーテンにそういうと、そっと微笑んだ。  

 ” ユウ・・、どうかした?顔色が悪いわ。

いいひとだったわ・・。 名前は、ハンス。

 遠い昔、幼い頃、欧州のドイツでひとに命を救われたそう。 

・・その美しい女のひとの、命と引き換えに・・。

この国には、大きな歴史的運命に翻弄された人たちが、ひっそりと生きている。
悠、・・乾杯しましょ。  素敵な人生ね。
・・こんな幸せなふたりの日々が、ずっと続くといいわね・・。"

マリアのそんな表情の中に、

ふと一瞬よぎった瞳の翳を悠は見逃さなかった。

悠は尋ねた。

"・・君は、国に帰ってからのこと、何か考えているんじゃないかい?
僕にはいえないこと?"

 マリアは、綺麗な青い目をぼんやりと、葉ッぱの入った透明のグラスに注ぐと
しばらくし沈黙していた。 ’いつも’の夢のひとの、寂しげなまなざしだった。

シャカッと氷のはじける音がして、マリアはその大きな瞳で、悠の小ぶりの黒い瞳の中をじっと見つめて言った。

"貴方がジャングルから血だらけで運び込まれてきたとき

、・・何か、短くてもずっと約束されていた不思議な出会いなんだと直感したわ。
・・貴方とは、たとえ束の間でも幸せな日々を送りたい。

貴方は外国の人。私達の国の悲惨なできごとに異邦人のあなたを巻き込みたくはないわ・・。”

マリアは、モヒートのグラスの残りを飲み干した。

 悠は、あの時、少年兵にマリアのもとに運ばれた後、出血多量で意識をなくしていた。 マリアは、手当てを終えた悠をしばらくそっと胸に抱いていた・・。

見知らぬ熱帯のジャングルの精が、争いに傷つき敗れたジャガーをそっと癒すかのように、

背後からの何かが・・、マリアにそうさせていた。 

 悠はその間、どこかの別世界の幻想の中に漂っていた。

どこか古い欧州の戦地で、自分が負傷している。それは、懐かしく心を焦がす映像だった。

ギリシアの女神がふと天から舞い降りる気がした・・。彼女は何故か’栗色’の髪に’緑’の瞳だった。 きっと、あの微かな記憶の中にいた’ひと’は、夢うつつに見た現実のマリア自身だったんだろう・・。

そう納得した。 悠は、呆然と目の前のマリアの青い目を見た。

 
” ・・この国の人たちはいろんな意味で幸せ。

たとえ物質的には恵まれていなくても、社会に悲惨さが無い。

清貧なインテリの国。 苦しみをみんなで分かち合い克服したのよね、

すばらしいと思う。
  私の生まれ育った国は、無知で野蛮な将軍が、資本主義国の後ろ盾で秘密機関を使って何千人という人々を、虫けらのようにサディスティックに拷問し、殺してきたわ。

ほんの少しの金持ちや将軍たち、特権階級とそしてほとんどの職にありつけない貧しい人々、それを恐怖で縛り付けることに忠実な、表情のない警察や軍の飢えた番犬たち・・。

極端な貧富の二極構造、それが多くの南アメリカの国に共通する現実・・。
 
 この国をフィデルとともに革命に導いたあのチェ・ゲバラが、医学生時代旅して歩いた南米の虐げられた現実は、今になっても少しも変わってはいない・・。”

マリアは、目を伏せて、柔らかな金髪に両手を覆った。

 

” ユウ、今夜はおもいっきり飲みましょう。 ・・ね、いいでしょ。 ”

先ほどまでのにぎやかなサルサの曲が終わったかと思うと、 店の奥からバンドの演奏する静かでロマンテイックなボレロが流れてきた。 ラテン特有の甘く哀切な恋を情熱を込めて歌っている。悠はラテンのボレロが好きだった。

 ラテンアメリカは恋に生きていた。 苦しみや悲しみと裏返しの情熱的な愛・・。

恋に溺れれば、どんなに辛くとも、ほんのひと時、すべてを忘れられる・・。

 

 店の入り口のオレンジのランタンの灯が、海からの微風に揺らめいている。

 マリアは、悠の目を見て微笑むと、踊りましょうと、軽く腕を差し出した。 そして悠の手を取って立ち上がり、悠の首に少し冷えた柔らかな腕を預けてきた。そして自分を受け止めた悠の腕の中で、目を閉じ、ほろ酔い加減に頬を染めていた。 悠は、ひと時の官能、・・ボレロの恋に浸っていた。

悠は、女にこけた髭面の頬を近づけた。そして、ふっとため息をついてみた。

マリアは、そっと一瞬頬を離して悠を見つめると、

 

” ふふ、 ユウ、・・コマンダンテのにおいがするわ。”

 

そう笑うと、また悠の頬に火照った頬を寄せてきた。

 

悠は、ゆっくりと揺れる女の体を抱いて、・・ふと思った。

このメタファー(隠喩)には、悠を困惑させる玉虫色の魔法が秘められていた。

” コマンダンテ(将軍) ”とは、誰のことだろう。悠は、自分の唇に触れてみた。

あのチェ・ゲバラか・・、 悠はひとりニヤリとした。

 

いや、 ・・司令官フィデロ・カストロか。 昔のままなら、それでもいいだろう。  

・・だが、もしかして、

南米のマリアの国の、あの”危険で、サディスティック”な独裁者の将軍のことか・・。

でも、どうしてマリアが・・。 鞭を手に、小太りの髭の将軍が、悠の瞼の裏でニヤリとした。

 

 悠は一瞬混乱し、”ぶるる”と、・・身震いした。  今日は、三度目だった。

マリアが踊りながら、悠の腕の中で、くすっと意地悪く微笑んだ気がした。。

そして、細い温かな体が悠に預けられて、少し重くなった・・。

悠は、・・もう、誰でもいい、と思った。 

無意識にでた女の上品な恋の”トラップ”(わな)に、悠は又しても、嵌(は)められていた・・。

男の自尊心と、わずかな嫉妬心をくすぐり、気づかぬ恋の炎をあおることになる・・。

マリアの中のラテンの血が調合した媚薬であった・・。

悠は、ヘミングウェイの小説”海洋のなかの島々”の登場人物、娼婦リリアナを思い出していた。 ふたりは 心地よい海からの湿った潮風の香りと、つかの間のボレロの恋に酔っていた・・。

 

 いつしか、窓の外から、ナイフのように切れそうな銀色の官能的な月がのぞいていた。

揺れるヤシの樹の葉を陰らせて、スコール明けの雲間に、魔物のような夜の暗黒の顔を照らしだしていた。

   かつて、詩人ガルシア・ロルカはうたった。

 

” 月が死神から一枚の絵を買った。

不穏なその夜  憐(あわ)れ 月は狂っている。

その頃、私は暗い胸のうちでひとつの市(いち)を開く

音楽もなく 並ぶは陰の店ばかり・・  ”  

                                      ’月と死神より’