EMINA 11  時を越えた4つの絵物語  少女の夢 2

 

      
 

 

  

   出会い
 


  マリアはある事情から南米チリを離れ、ボランテイア医師として単身この戦災地エルサルバドルの難民キャンプに来ていた。’解放の神学’のシスターたち数人が、マリアの助手をしながら戦災被害者の世話をしてくれていた。 薬剤や医療器具が不足していた。やっと手に入っても、先進国でもう今は使用されていない類の薬剤が多かった。
 それでも現場の医師の裁量で、傷つき世界から忘れ去られようとしている人々を、何とか一人でも多く生き延びさせようと試みた。 混乱する戦いの中、今にも燃え尽きんとする多くの命の灯を前に、一人で苦しみ悩み、時としてその重圧と恐怖に細い身を震わせた。昨日まで元気に笑顔を振りまいていたいたいけな子供たちの、突然のあっけない死に絶望し、あまりにも医療環境の不備ゆえに、医療者として最小限の対応しかできぬ自分の無力を悔やんだ。

 精一杯のことをしているつもりでも、人々は次々と傷つき、自分の前に瀕死の状態で運び込まれてきた。時間を忘れて診療し疲れ果てても、浅い眠りの中で心は休まることがなかった。 

空腹のはずなのに、子供たちは笑顔で不平ひとつ言わず、親兄弟のため走り回っていた。そんな村の子供たちが、ある日突然、爆弾に被弾し、自分だけを頼りにして、目の前で涙を流し痛みと苦しみに耐えていた・・。 マリアは、自らに与えられたこの重苦しい試練に、強くあれ、冷静であれ・・と念じた。そして、天主のご加護を・・、そう祈るしかなかった。
 
 そんな孤独に打ちひしがれていた頃の女医マリアのもとに、数年前、旅のある自然療法家が訪れたことがあった。現地自生の薬草の知識や東洋の伝統医学の知恵を彼女に伝え、貴重な日本の珍しい鍼(はり)治療の手ほどきを、数ヶ月にわたり手取り指導してその後また村を去っていった。彼は自然に依存する東洋の哲学を、ゆっくり彼女に説いた。

 " 古来東洋に残された伝統療法は、こうして虐げられ苦しむ人々の為に、太古の自然の救いの知恵として生きながらえてきたものなんだ。

 アルプスの氷河で凍りついた1万年前に生きたひとの体にも、その治療の痕跡(針のツボの跡)がそのまま残されているという。おそらくその起源は、遠く古代の豊かな精神文明の時代にあった万人の為の叡智にあるのだろう。 


 自然の摂理にかなう癒し手の慈しみの思いは、例えばこんな小さな治療具の先にそのまま投影される。 たった一本のこの細い小さな針が、目に見えぬ力を中空より呼び寄せ、無限の宇宙の偉大な何ものかを、その小さな器具を通して、病者の心身の生命の流れに合流させ、元気を甦えらせてくれる・・。

 自然から逸脱した病という粗い小さな命のさざ波が、大きく静かな大自然の流れの中に穏やかに同化されていく。
 身体にくまなくゆきわたる聖なる水の流れは、自然の懐の穏やかな本来の大いなる姿に似せるようにして、あるべきところに導くのがこつだよ、マリア。

 これは宇宙と共鳴するための小さなアンテナだ。そこに癒し人の偽りない慈しみの心が、病者に欠けている生体組織や機能の周波数をおのずとチューニングし、それを補い、病という荒波をなだめるがごとく、必要なだけの宇宙のエネルギーを呼び寄せるんだ。あとは自己の作為を忘れて、唯々、天にゆだねる。するとやがてすぐに病者と癒し手との間に、宇宙を背景にした命の交流が始まる。 その微細で無心な命の対話だけに耳を傾けるんだよ・・・。

 

 本来、何万年も前の祖先は皆そんな感性を当たり前のように備えていた。今も、世界各所に文明を避ける様にひっそりと生きる少数民族に、自然や動植物との共存や対話のすべが、何万年も前と同じ原初的な姿で残されている。それは、我々の物質文明の歴史とは異なる細い流れを辿り、今も昔同様一貫して矛盾がないものだ。大自然の懐に抱かれ、足るを知り、同胞への愛と共存の中で、大いなる未知の尊きものへの畏敬の念と畏れを忘れない。そうすると、天は夜の眠りの夢のなかに、皆が同様、幸わせに生きるための知恵を導き出してくれる。

 現代の自然科学や医学では理解されえない別の時空間で、彼らの間に共通する潜在的な第六感で、病を癒す植物を選び、或いは精神物理的な自然療法をおのずとある確信をもって試みているんだろう。 身近なものの病は、それに至る道、よりマクロな周辺世界の時空的な変異であると直感する。そこで改めて自然の摂理をおそれ敬い、自然の懐で、万物皆が共生して生かされる意味を再度思い起こし、その原点に戻れるよう、自ら手を合わせ超自然の何物かへと祈る。

 

 古来の伝統医術も同様、そうした背景で謙虚な直感が欠かせない。野生の動物同様、現代に生きる人間も、瞑想し、自然の中で心を研ぎ澄ませれば、そんな万物への共感が芽生え、何万年も埋もれていた自らの遺伝子の情報発現や、それに応じた無駄のない脳のシナプスの回路の活性化が突如、可能になるはずだと思う。そして大宇宙に満遍なく行き渡る波の挙動をチューニングして、いま必要とされる周波数の情報とエネルギーを得る。 医術とは、万物を貫く癒しの道であり、生きとし生きるものへの慈しみの表現だ。星の導きに、時宜をうるかのように万物が動き始める・・。

 大自然の懐は無尽蔵ゆえに、 自然の摂理にかなう自己の中の意思こそが、この世界の歪みを解くための鍵なんだ。 思いは、あらゆる可能性の波を収束させて現象化し、物質化する。連鎖的にそれに引き寄せられ共鳴するかのように、母なる地球上のすべての命が、宇宙との調和へと和音を奏で始める。そしてそれが翻って、心の中の琴線に反響するんだよ。 我々は謙虚にそこに耳を傾ける。 

 今目の前に、自分が授かった聖なる使命と、母なる大地、大宇宙への感謝の想いのみに身をゆだねればいいんだ・・。東洋の古典は、科学ではなくいわば象徴だ。象徴は宇宙と結びついた直観によって、その真理を解かれるものだ。 

 我々のまだ未熟な自然科学ですべてを解釈しようとしてはいけない。量子下の世界が宇宙を支配するように、時空を超えたところで、宇宙の意思に無駄はなく、総体として整合性がある。 自分はただ、宇宙の一員として、自分たちの中に備わったその潜在的な直観を信じ、その聖なるミデイアム(仲立ち)としての役割を果たせばいい・・。 "
 始めて耳にする美しい東洋の哲学だった。マリアは、医療物資の不足から必要に迫られ、彼に教えられたこの不思議な日本の’鍼(はり)’療法を自ら試みるようになっていた。
 そのうちに繊細な何かが自分の手のひらに、そして全身へと伝わり、目の前の病者や傷ついた人の中にも行き渡り、脈動し共振する活性化された命の往来が始まり、ダイナミックな治癒へのひらめきが、自己の脳内の直感として得られるようになっていった。そこには、うっすらと迷妄の雲の途切れから見渡せる、実は壮大な生命の縮図が広がっていた。

 そして、それは肉体だけに閉じられることなく、精神と自分を取り巻く大自然の息吹がエネルギーの一貫した流れとして、ともに揺らいでいた。

 それは近代医学の教育を受けたマリアが、人々を迷妄に導くと教えられてきたあのインデイオの呪術師たちの自然観に近いもののようだった。
 マリアは思った。
 
 " もしこの感触が幻想でないとしたら、本当にそんな世界がこの世に存在するとしたら、我々の身近にもある実は豊かな伝統の叡智と向き合うことで、新しい何かを発見していけるのかもしれない。何より経済的に恵まれない人々の健康を、病になる前に予防的に、健康を増進して、貧富の差を超え誰もが心と体を癒していけるのかもしれない。あの社会主義国キューバは革命後、海外からの貿易封鎖で薬剤や近代医療資源が枯渇する中、身近な自然療法や東洋の伝統医学を導入しようとした。
 大自然の神秘の中で生きる賢者たちの声に謙虚に耳を傾けることは決して我々にとって無駄なことでないかもしれない・・。"

 

 

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 南十字星の美しい夜、マリアは空を仰ぐと、数本の銀色の流れ星が空を斜めに横切っていく。
 ジャングルの動物達のざわめきも収まり、満天に宝石をちりばめたような星またたく熱帯の夜半だった。 この夜、人としての孤立感がマリアにはなかった。
 周りの雄大な天地の静寂の中に、一瞬自分の心と体が溶け込んでしまったかのような、大いなる真理に包まれたような大自然の雄大な優しさと温かみを感じていた。

 "あの人が教えてくれたのは、この宇宙の星々のもつ穏やかな瞬きに似たものなのかもしれない・・。"

 悠は、日本で見たことのある細い一本の針を使って、マリアが自分を治療を施するのを見ていた。マリアは、膝の近くに針をゆっくりさすと、目を閉じて動かした。体に何か熱いものが流れていく感じがした。すると、先ほどまでの辛かった足の傷の痛みがはるかに和らいでいるのに気付いた。 悠の中で、いつかのあの境界上の世界に触れる、体と魂をつなぐあたたかな命の架け橋のようであった。

マリアは微笑んだ。 いつかどこかの記憶の片隅に、心を焦がす人の、今はもう忘れかけていたあの美しい微笑みだった。
 

 悠は症状が軽くなった傷口の包帯を換えてもらいながら、現地の戦況をマリアから教えてもらっていた。
 隣国の状況を取材して国境を越えてひとり隊列から離れ、ジャングルに迷って入ったところを、銃撃戦に巻き込まれ、疲労の果て流れ弾に負傷してそのまま不覚にも、意識が薄れていった場面までを今思い出していた。
ゲリラの少年が自分を肩に背負いここまで運んできてくれたこと。傷の出血がひどくて、神経も損傷しており、また敗血症も併発していたことなどから、命も危なく、足も切断寸前だったことなど・・、後でマリアから聞かされた。
・・背筋が冷えた。 


"君はどうして、その、こんな危険なところにひとりで・・?

僕が君の恋人だったら決して・・許さなかったろうね。"

"じゃ、あなたはどうして?"

"僕はひとりだからさ。男は何処ででも孤独を住処に出来るもんさ。

僕を心配してくれるひとは、もう今はいない。

それに、僕には・・"

"あなたには・・? 貴方と同じように、私にもここにいなきゃならない理由があるの。

ほら、あんなにも美しく輝く星が、わたしをここまで導いてくれたわ。
 いつも危険と孤独と隣りあわせででも、何かに突き動かされて、今あなたがここにいるように・・。

 私にも、今ここで生きる力を失いそうな人たちの為に、少しは役立てることがある・・。
 だから怖くはないの。 きっと、あなたと同じようにね・・。目を見ればわかる。

  あなたとは、どこかで会った気がするわ。
私に大切なことを教えてくれた日本人の医者の優しい目にも似ている。

この世の果ての悲しみの全てを知り尽くしているような、・・そんな眼差し。"


 " ・・そんな立派な人間じゃないよ。僕には何も出来やしない。・・大事な人を救うことも。

・・自分を慕ってくれる人々のために、満足な手をさし延べることすら出来なかった。

無力さにいつも悔しい思いをしているだけの駄目な人間さ・・ 。"

"・・不条理の中で、人は生かされていく。

でも、その生きることの不条理に、’愛’はそっと意味を添えてくれる。

天の与え給うめぐり逢いの不思議・・。
 
 ・・私の祖父の言葉だそう。

でも、私がどうしてもこんなジャングルの中にでも行くと言い張ったら、・・あなた恋人だったらどうする?"

"今こうしているように、君と一緒に、何処までもくっついてきただろうね。
・・決して離れずに、 もう、二度と・・。"

 悠のなかに、とり返しのつかぬ過去の記憶が蘇っていた。無力であったあの日の自分を恥じていた。思わず充血した目をこすった。
 

 

  マリアは、そっと手のひらを悠の手に添えて微笑んだ。

 ”ありがとう。 ・・あなたには、素敵な思い出があるのね。 うらやましいわ。”

 マリアは自分の知らない辛い過去を察し、そのまま悠の腕をそっと抱いた。


 

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 悠はいくつかの難民キャンプをマリアと回った。 マリアの弱者への疲れを知らぬ献身的な姿勢は悠にとり、女医というよりむしろ聖女のそれであった。
 ここには、殺人部隊の政府軍兵士はやってこなかった。 すでに 村々は焼き払われ、男は連れ去られ、女は殺されるか凌辱され、有無を言わさず男同様、銃を取らされ敵と戦う女兵士にされていった。 敵味方双方の兵士には、年端も行かぬ子供が多かった。
自らの意思にかかわらず、親兄弟が時として二手に分かれて戦った。
 
 いつかのあの少女アンナも、やはり自らゲリラになって目に見えぬ悪に立ち向かうことを選び、悠のまだ見知らぬ世界へと旅立っていった。 悠にとって’日常’とは、世界中のどこにいても、いつもこうした危険や不幸と同居することを強いられた人々のそれであった。みんな同じ目をしていた。日本にいる人がこうした日常を想像できないように、ここで生きる人々には何事もない平和な日常を想像するのはむつかしかった。

 マリアのような若い女が、もっと恵まれた国で医師として働くことはできたはずだった。それで十分な生きがいは得られたはずだった。でも、あえてそれをせず、泥まみれで、命がいくつあっても足りないような危険極まりない戦乱の地に一人でやってきて、世界から忘れ去られ、虐げられた弱者のための医療に身を捧げていた。

 "大地と宇宙に身を委ねるというのは、このことかしら・・。

  ユウ、あなたならこの気持ちわかるでしょ?"

マリアは、また、日本から来たあの放浪の自然療法医のことを思い出していた。

悠は、同じ日本人なら共有できるはずの感性を、自分の心の中に問いかけてみた。

"  ・・わかる気がする。 

 世の不条理を超えたところに、全てを慈しむ無駄のない大自然の流れがあるんだろうね。

 僕達に出来ることだけを精一杯すれば、それでいいような気がする。

 そうすれば、何もかも知り尽くしている自然の大きな流れの中に、やがて迎え入れられ

 ともにその一部として溶け込んでいける・・。そしていつか大きな力になれるのかも。
 

 雄大な流れの中のひとつの局面だけを僕達は見て、悲しみ、苦しんでいるのかもしれないね・・。  でも、苦しみや悲しみのさなかで、その先を想い描くには、僕はまだ小さくて未熟すぎるのかもしれない。 
・・幸せから引き裂かれた人々の思いや、失われた多くの小さな命は、一体どこに行くんだろうね、・・マリア。 ”

マリアは、悠の頬にそっと温かな手のひらで触れた。


” 僕があのままジャングルで銃弾で死んでいたら、

本当に悲しみも苦しみもぶら下げずに、この世を後にすることが出来たんだろうか・・。 
・・今、生き残ったのには何かわけがあるんだろうね。 

 君に助けられたのにも、きっと・・。"

悠はマリアを見つめた。

 マリアはは微笑んでうなずいた。

そして、杖を抱いで近づいてきた女の子を抱き寄せると、地雷に引きちぎられた脚の手当てを始めた。 女の子は痛みを一生懸命我慢して、嬉しそうに目を輝かせて、マリアに身を任せていた。

" ・・この子達はね、ここの人たち皆に、大切に見守られているのよ。
貧しくて苦しく、傷ついても、ここにはそれだからこそ私達の国では忘れられた尊い命への敬意と、それを支える愛と慈しみのほのかな灯が皆で共有されているの。
私にとっても、ここは温かな愛が湧き出す泉よ。

本当は、つらいけど、未熟で迷いのある私自身の心が勇気づけられ、ずいぶん助けられている・・。
だから、こうして今も無事を神に感謝しながら、精一杯続けていける・・。
物質的な豊かさや、ひととしての安全をまるで保障されていなくても、彼らは皆、宝石のように美しい素朴な愛の灯に包みこむことができる・・。

底辺で苦しみを知った人でなければ、土中にひときわ輝く原石のような美しい光を放てない・・。  その美しさに気づけるのもその辛苦を、心から共有できる人たちだけ・・。"

 悠は、マリアの美しい青い瞳の先にある、ほのかな愛と夢を、今感じ取っていた・・。



                                         

 

 

   Che


 悠は、カリブの革命家を思い出していた。

彼はアルゼンチンの医学校を卒業する前後に、長い南米の放浪の旅に出ていた。

先々で出会う貧しい人々の悲惨な生き様をその目に焼き付け、そのまま当たり前の医者になることを放棄していった。 かつての自分の恋人は、この若い預言者を両手を広げて愛をもって故郷には迎え入れようとはしなかった。 そして、卒業して医師の資格を取ると、マリアと同じように中米を目指しグアテマラの内戦の混乱の中で、革命家として生きていく決意を固めていった。 そして、カリブの小国の若き亡命弁護士との出会いが、彼を悲劇の革命家への道を運命付けていく。その淡く透き通った目を持つ青年の名は、エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ。人々からその後チェの愛称で知られることになった。

 
 数年前、ボリビアのジャングルの中でこの世紀の革命家の遺骨が発見された。

彼はフィデロやカミーノたちとキューバを勝利に導いた後、一人、政治の表舞台を去り、アフリカや南米の貧困と独裁の柵を打ち破ろうと、一人キューバを離れた。

  だが、アフリカでの挫折の後、失意のこの孤独な預言者を受け入れる住処はかつての同志たちのもとにはなく、再度の孤高な決意を秘めて、新たな社会主義の連帯を築く為、ひそかに南米のジャングル深く潜伏した。

 しかし天は彼には味方しなかった。袋小路のゲリラ戦のあげく、仲間に裏切られ、CIAの追求の手に落ち、逮捕銃殺された。

その腕は切り落とされ、遺体は公衆の前に曝された。
 60年代、70年代と、理想を目指して社会を変革しようとしていた若い世代達のヒーローとなっていたこの革命家の若者の悲劇の結末は、理不尽の重いくさびを、多感な若い悠の胸に打ち込んでいた・・。

 “チェ・・・。” 悠は、ふと口ずさんだ。
 こんな素朴な人たちの中にいると、あのアルゼンチンの読書好きの若い医学生が、どういう経緯で後世に名を残す革命家になっていったのかがわかるような気がする。

 

 

 S u e n o  少女の夢


 悠は、寝付かれぬまま、あの日のことを思い出していた。 マリアに出会う前、少し北部の山岳地にいた。貧しくても居心地のいい場所だった。村人たちの親切に甘えていた。少女アンナは、悠のところによく食事を持ってきてくれていた。

 そんなある日、少女に手を引かれ、ジャングルの奥に連れて行かれたことがあった。 

 

 道の途中でスコールにあった。大きな熱帯樹の葉っぱの下で雨宿りしながら、森の動物たちの声のなか、自然の石のベンチに腰掛け、少女が朝早く作ってくれた質素な手弁当を、二人で食べた。トウモロコシ粉のトルテーリャに 野菜と鶏肉を包んだものだった。

 素朴な塩味だったが手作りで美味しかった・・。 アンナは、嬉しそうだった。

 少し涼しくなった大樹の下で一眠りして雨のやむのを待った。アンナは悠の膝の上に頭を預けると少し眠った。あどけなさの残る寝顔に悠は癒された。自分の上着を脱いで起こさないようにそっとかけてやった。 鳥の声が森に響きだしたころ、悠も眠ってしまっていたのに気が付くと、少女が微笑んで見つめていた。アンナは手を引いて悠に微笑んだ。

”ユウ、眠っちゃったわね。 さあ、いきましょ。” 

ふたりはまた樹々の中を歩きだした。

 いつの間にか鬱蒼とした暗いジャングルを抜け、とつぜん視界が開けて緑の草原が広がった。 一瞬目が眩むような光に曝された。 外の光に慣れてくると、そこには七色の大きな虹の輪が青空に広がっていた。その下には、色とりどりの熱帯の花々が咲きほこっている。

 そして虹の輪に包まれるようにして、苔むした大きな山があるのに、悠の目は釘付けになった。悠は、少し頭痛を伴い眩暈(めまい)を覚えていた。懐かしい映像が突然脳裏に蘇ってくるのに身を任せていた。悠の八ヶ岳の実家の、少年の頃から親しんでいた古代遺跡と似たデジャビュの感覚だった。そこに行くと、いつも不思議な映像が蘇って、何故か南米大陸の懐かしいジャングルの匂いを嗅いだ気がしていた。それが目の前で濃厚に蘇っていた。


 目の前の小山は自然のものとはいいがたく、草やつるが周囲を取り巻く中、茶色の人工のレンガが岩肌からところどころ覗いていた。

 アンナは山の前で悠が言葉を失っているのをみて、得意そうに小さな笑顔を作った。


 ” ユウ・・、驚いた? ここは私の秘密の場所・・。
 まだ私がねここを知らない頃、

悲しいことのあった夜、涙ににじむ夢のなかに、時々現れては出てきたの、このお山。

昔々の王様のおうちよ・・。’ケツア・クワトル’の化身といわれている・・。

あの中にずっと長い間、その王様が生きていたの。 黒いお髭を顎に生やしたひと。

昔ね、はるか東の海から、何人かの彼を敬うシャーマンの人と一緒にお船でやってきたの。

 今とおなじように、すでに人同士がみな醜い争いをしていた時だったわ。

 王様は大きな石を組み合わせて、街をつくることを人々に教えたの。

そして病に苦しむ人を、薬草と蛇の刺青のある手で癒し、

お星さまからいつもお告げを受けて、みんなが仲良くお腹を満たせるように、お芋やトウモロコシの作り方を教えてくれた・・。

 そうしてみんなに争いをやめて、宇宙に両手を合わせて祈り、お互いに敬い助け合って生きていく知恵を授けてくれたの。 そのころの村の神官は、世界の終わりを恐れて、可哀そうな動物たちや戦いで敗れた奴隷たちを太陽の神にいけにえで捧げていたの。

 顎髭の王様はそんな残酷な儀式を禁じたわ。人は、王様を”翼ある蛇”と名付けて神様のように敬って、皆仲良くなり争いもなくなっていったの。

 きれいになった街は長い間とっても平和で幸せだった。 ”

 

少女アンナはそこまでくると、少しこうべを垂れ、悠を少し見上げてまた続けた。

 

” あるときね、何処か遠いところから、血に飢えた夜と暗闇の種族が街を襲ってきたの。

王様はこの闇の軍団から人々を守るために戦ったわ・・。

 でも、その獰猛な争いの神をいただく軍団の力には勝てなかった。

再び、残酷な人身御供のお祭りがはじまって、人々の心にも争いの心が再び芽吹いたわ。

 

 王様は人々に惜しまれながら、遠い東の海に帰っていったの。

でも、この石のおうちのなかに、秘密の知恵を残してくれたの。

いつか、ひとびとが愛と慈しみと平和の心に目覚めたときに、その秘密の箱を開けて、

あの頃と同じようなとても素敵な生活が皆でできるような知恵をそこに残してね。

’ケツアルクワトル’の知恵。
 いまでも王様は、心の中で私に時々話しかけてくるわ。”
  

 悠は、自分を見つめるアンナの黒い髪を撫でて、ほほ笑んだ。
” ユウ、あのお山は沢山の石でできているのよ。昔はそれを取り囲むようにして村の人々はまわりに家を連ねて暮らしていた。
あのお山の王様のおうちの三角形のてっぺんに、

東の海を越えたずっとずっと向こうの、さらに地球を超えたふるさとのお星様から光が届くの・・。

王様の魂はおうちの中で、いつもお星様を見て歌を歌っている。”
 

 少女は、幸せそうにほほ笑んだ。
” 夢でね、王様の魂は私にいろんなことを教えてくれたわ。
きれいな目とお母さんのように優しい心を持つ遠い遠い星の人々のところからね、

この青い星に生きる私たちを見守るために、この大地に降りたち、神殿をたて、

王様は東の太陽の海を越えてここまでやってきたの。

四色の光のお船に乗ってね。 銀河の彼方から、お日様を取り巻く虹をわたってきたの。
お日様、お月様、そしてお星様がね、 

色んな歌を歌ってみんなで一緒にゆっくりお空で踊っているの・・。

そんな広いお空を見上げてね、 王様はいつもなにやら考えている・・。

 

 小鳥やお猿さん、そして王様の豹や蛇のしもべたちもいっしょに姿をみせて、

時々お空を見上げて踊ったりお祈りをするの。

そうすると、みんなの前で虹が橋を作って、お日様の近くにいる青く明るい星が一段と輝くの・・。
 森の動物たちは一緒にお空の音楽に合わせてね、いっせいに歌を歌う。


王様の魂は、そうやって歌を歌ったり、お祈りして、風や雨や嵐から立ち去った後も、ひとりでここで皆を守ってきたの・・。
私の大好きなユウや、わたしのパパが、そして村のみんなが仲良く幸せになれるようにってね・・。

そんな王様は、今も夢の中の私の、優しくて大切なお友達・・。

・・昔々ね、とっても遠い海の向こうの大きな島でね、大変なことが起きてその島が沈みそうになってね、 心の清らかなお坊さんたちが、お船に乗って海をわたって、この遠い銀河からやってきた王様のおうちに集まったの。

白いイルカさんと青く光るお星様の導きでね・・。

イルカさんは本当は昔はこのお星さまの住人だったんだって。”


 少女は、悠の目に涙が浮かんでいるのを見て、小さな可愛い掌で悠の手を握った。

” ユウ・・、太陽の汗と、月の涙・・のお話知ってる?

あのね、ずっとずっと昔のある時にね・・、

暑がりのお日様の傍を、あの青いお星様が通り過ぎたの。
そしたらね、地球の悪い人たちを懲らしめるために、お日様が怒って汗をかきながら熱い黄金色の息を思いっきり吹きかけたんだって。そしたら、悪い人たちと一緒にね、地球も焦げちゃってね・・。はっはっは。

 それで、傍にいた青いお星様も真っ赤になって、お月様のほうに飛ばされてしまったそうよ。
お月様は、泣きべそで、銀色の涙がいっぱい出たの。それでね、この私たちの住む緑の大地は、すっかり大水になってしまったのよ。”


 ” 王様はね、可哀想だから、地球上の罪のない動物たちと、大空と大地を愛する優しい家族だけを葦の船に乗せてね、次の世界に旅立たせることにしたの・・。

 だからね、その青く明るいお星様とお日様、そしてお月様が皆で一緒にお空に並ぶ日を選んで、もう悲しいことはしません・・、って黒い顎髭の蛇の翼の王様に約束して、そしてお坊様みんなしてね、あの石のお山のてっぺんで、神様にお祈りしたの・・。”

 

” そのとき、このお山にね、王様のふるさとの星から、女神様のように優しくて美しい眩いばかりの光の精を呼び寄せることができたのよ・・。
それからずっとね、

その光の精は、王様が東の海に立ち去った後も、選ばれたひとの心だけに宿るんだって。

そして、王様は心の中で言ってたわ。

 

・・ねえ、ユウ、・・これはユウと私だけの秘密よ。


 その光の精はね、世界の恵まれぬ人々や、村の私たちの心の中にも、そっと生きていてくれてるんだって。
私と私の愛することになるひとの心の中にもずっとね。
そして、青いお星様の導きで、決してはなれ離れにはならないで、何度も何度も、あの平和な頃生きていたいろんな優しいひとたちに魂が生まれ変わって、また会えるんだって・・。
 

 でも、きれいな花は命が短いように、そんな幸せはきっと長くはないのかもしれないわ。
やっとつかんだ幸せは、風に花びらが散るように、どこかにいつでも奪われてしまう。”

 ” でも王様は、いつか私に夢の中でこういってくれた。

 どんなにつらく悲しいことがあっても、
お月様のように涙を流しちゃいけないよ。
強くてやさしい金色の光の精が、これからずっと
君のそばについていてくれるからって・・。

だから、なんだかとても私の胸、幸せで温かいの。

あの優しく美しい光の精のおそばの、東の海の彼方、

天のおうちにきっといつか召し上げてあげる、ってね。

そうお髭の王様は約束してくれたわ。
王様はきっと、本当はどこか遠くのお星さまの魔法使いなんだわ。”

”・・でも王様の言う、悲しくて辛い事って、ママがいなくなったときのようなことかしら。
きっと、その時は涙がいっぱい出るんでしょうね。

どういうことだかわからないけど。

わたし、王様と約束したの。

村の皆のために、体の不自由な人やお婆ちゃんやおじいちゃんのために、王様がむかし蛇の刺青のある腕で人々を癒したように、わたしきっとりっぱなお医者になって、村のみんなの痛いのや悲しいの、寂しいのを全部とってあげるの・・。”


 アンナは悠の目を見つめた。
” あのねユウ、・・そしたら、そんなわたしのこと、・・お嫁さんにしてくれる?
ユウはわたしよりずっと年上だけど、同じ色の肌をしているし、

あのおやまの王様のように優しいわ・・。

ユウがおじいちゃんになったときも、きっとわたし、

ユウのそばにずっといてあげるわ・・。

 だから、いいでしょ。  ”

 

悠は可愛らしい少女の言葉に、頭を撫でるとそっとうなずいた。

”あのねユウ、私ね、あなたに会わせたい人がいるの。
さあ、こっちよ。  一緒に、いきましょ。”

 少女は小さな手のひらで悠の手を強く握ると、先ほどの山を指差した。
少女は一人で、村からジャングルを抜け、小さな足で歩いて数時間はかかりそうなこの秘密の場所によく一人で来ていた。

悠の手を引くと慣れた足取りでその小山に向かっていった・・。

小さな山と見えたのは、緑の樹木に覆われカモフラージュされたような、大きな角ばった石を整然と積み上げたピラミッドのようだった。少女が近づくと、蜃気楼のように、半透明に空気が揺れ、二重構造のように入り口らしきものがピラミッドの前面に浮かび上がった。アンナは何故か、虹色で半透明のゼリー状の光に包まれてその入り口の中に溶け込んでいった。中からアンナが悠に向かって手を振って手招きしていた。

 この時悠は、この可憐な少女は、いつかこの世からいなくなるのではないかと直感した。何ものかが少女の身を温かい光で包み、痛みをも苦しみをも与えることなく、保護してその悲劇的な終末の日に備えているかのように、今悠には感じられた。

 そのピラミッドの主は、何処かの異次元からやってきてそこにとどまり、地球上に向けて何万年と癒しの光を放っているように、何故か悠には感じられた。そんな高次元の光の神々しさを放っている。優しい虹色の半透明の光は、少女を包み、悠をも巻き込んで、地球上の隅々まで癒しの光を伸ばしているようだ。目の前に、美しい黒と緑の羽をもつ蝶が現れ、悠の頬を撫でるように通り過ぎた。

どこからともなく、心地よい風がそよぎ、虹色の神々しい光にむけふたりを招き寄せている。

悠は、幼い日に親しんだ八ヶ岳の遺跡の草原に吹く風の匂いを今感じ取っていた。

・・あの日、風は時空を超え、悠の心の奥に眠る記憶をそっと呼び覚ますように、南から吹いてきていた。

 

 旅立ち

 

  悠は浅い眠りの中で、少女アンナの夢を追っていた。

’悠、まだ眠っている?わたし、しばらく帰国したいの・・。’とマリアが枕もとでささやいた。 

ちょうど後を任すことのできる若い医者がこの地区に国際ボランテアから配属されてきていて、少しはマリアも安心できるようになってきた頃であった。マリアが愛していた祖々母エレナが先頃なくなったという・・。
 ”悠、一緒に来てくれない?” マリアは青い目で悠を見つめた。

悠は彼女の生まれ育った国を見てみたかった。この中米での医療活動の情熱の源ともなった、現代の錆付いた前時代的遺物、独裁者のマリアの祖国の現状を、自分の目で確かめてみたかった。

ただ、何か得体の知れぬ不安、決まって待ち受けていたかのように押し寄せてくる本能的な不安が、悠の心のうちにうら寂しい隙間風のようによぎっていた・・。

それだからこそ、このままマリアとは今別れたくはなかった。
 

 数日後、二人は途中立ち寄るカリブの国キューバに向かう飛行機の中にいた。 マリアは時々緑に輝く青い瞳で窓から雲海を見つめてひとり物思いにふけっていた。南太平洋の太陽が雲の海をきらきらとオレンジ色に染めている。それを背景に、 ジェット機の騒音の中、どこか冷静で寂しげな表情をマリアは浮かべていた。

 救命のため動き回る日焼けした女医の厳しい表情とは異なる一人の女の線の細さを、白いブラウスの柔らかな息使いに漂わせているようだった。

悠は、そっと隣の席からマリアの手を握った。マリアはこちらには振り向かずに悠の指を握り締めた。 すべすべした、女の指のか細い感触だった。

 悠の袖の下の日焼けした腕には、幾筋かの刃物らしき傷跡が見えている・・。
 マリアの横顔はいつしか、自分が過去に幻の中を通り過ぎていった女の面影につらなっていった・・。

 辛い思いだった。腕の傷同様、今ではもう凍りついた記憶になっていたはずだった。

 でも今また、鮮明で、切ない青春のほろ苦い記憶の断片が去来し、いつの間にかひとり過去の幻の狭間に漂い始めていた・・・。