EMINA  時を越えた4つの絵物語      エミーナ

 

 

 
                                       

 

 

 

 悠は東欧での留学を経て、少し遅れて大学を卒業すると、日本のある放送局に就職した。

数年あちこち海外取材をした。 内外で社会の裏側の実像をいやというほど見せられた。

ただ実際に流される映像は、自分が取材したもののかなりのものが削られ、いわゆる世界標準というか、当たり障りのない筋書きに編集脚色されていた。

しばらくして悠は局を去ると、その後、ライターや写真など様々な職を転々とした。

 でも、もう青春の淡い夢や理想だけで生きていける年齢ではなくなってきていた。

 ただ、悠はそのまま味気ない食べていく為だけの日常に埋没するのでなく、もう一度学生時代のあの心切ない追憶の旅を辿ってみたいと思った。そこには、何かの大切で貴重な真実が含まれている気がしていた。

 かつて勤めた放送局時代のつてで、旅先から写真とレポートを送って、陸路を移動できるだけの原稿料を、ある出版社の編集局から送ってもらった。

 ・・それからもうずいぶん経っていた。

 

 最後にエミーナと別れてから、既に二十年近くの歳月が流れようとしていた。

 

悠はかつて歩いた道を、その後長い時間を掛けて再び遡ってみた。そして、写真に収めた。 長めに伸びた髪にはいつしか白いものが混じり始めていた。日焼けした痩せた顔にも幾筋かの皺が走り、目の奥の輝きだけは鋭さを増し、獲物を追い求める飢えた豹の如く、何ものかに取りつかれる様に、この世の地の底をひとりさ迷い歩いていた。どこか漂泊のボヘミアンの孤独な風貌を、周囲に漂わせていた。

 敢えて過酷な旅を選び、その途上、やはり多くの人との印象深き出会い、そして別れがあった。

・・カリブ、中南米、トルコ、戦乱と殺戮のパレスチナ、焦土と化したカフカス、・・そして蹂躙されるアフリカの大地。昔、恋人と行った東欧の戦時収容所跡の記憶が蘇っていた。人間のつくる愚かな歴史は、今も当事者を変え繰り返しているようだった。

 

 悠の腕や胸には、旅を重ねるごとに、何故か小さな傷跡が増えていった。まるで真実を刻んだ男の密かな勲章であるかのように・・。行く先は、紛争地か社会に取り残され、忘れ去られた危険地帯。 

数多くのフィルム缶、使い慣れたニコンのカメラ、そして傷だらけの革表紙のトラベラーズ・ノートが、人生のすべてだった。

 ある頃から、生活の場に定着する人々には感じとれない寂しげな風の音が、親しげに悠の耳に付きまとうようになっていた。
 そんな果てることのない旅の途上に、数冊の写真集と紀行文をまとめた本が、出版されていた。そのうちの一つは、世界的な権威あるノンフィクション賞を受賞した。

 
 人の営みのある限り、時と場所を変え、同じように悲惨に出くわす。そして意外にもそういう場所にこそ、人の本性に目覚めた多くの素朴な笑顔があり、悠はそれに癒された。数々の悲劇を経て、微かに真理の輝きを放ちながら、歴史はなおも繰り返されている。いや、歴史という名を借りた、人の永劫の輪廻なのかもしれなかった。 

 

 エミーナのいう’生の不条理’ を背負い生きざるをえない数多くの人々がそこにはいた。長い時代にできた地殻のしわ寄せのように、よじれた地球の矛盾を身に負いながら・・。

だが、塗炭の苦しみの中、泥にまみれた宝石のように光輝くものがそこにはあった。

悠が決まってたどり着くところは、そんな天の選んだ汚濁にまみれた聖域だった。 

悠はありのままの姿に魅せられた。

その人間の原点とも呼べる明暗を追い、今日までその’真実の世界’の住人たちと’共生’するようにして生きてきた。

 
 悠の写真にとらえた世界には、弱者の生きる苦悩、怒り、それへの温かな共感があった。人としての理性が曇らされていない限り、それぞれ見るものに、言葉を超えた素朴な疑問を掻き立てた。・・みな、写真に漂う真摯でありのままの、地平からの眼差しが故(ゆえ)であった。

 

悠は自分の写真で個展を開くのは好まなかった。 

まだ時期尚早だとも思った。 今の日本で、異国の悲惨な写真を見せて、それで一体何を感じとれるというのか、実は疑問であった。 悠にすれば、時間と空間、すべてにおいて世界はあまりにも巧妙に、それを真実と見誤る仮象の姿を人々は見せつけられているように思えた。

 虚構に生きる人々の現実世界から、真実の世界の裏の姿を切り取り遠く眺めてみても、それは所詮グロテスクな見世物にしか過ぎなくなる。

だが、それゆえか、逆にフィクションだからこそ意外性があり、真実性すら帯びてくるものなのかもしれないが・・。


 いつか若い頃、武術の師の山崎竜之介の家で、あのインテリ青年 高栁亮から、彼の信ずる世の仕組みの一端を、きかされたことがあった。世界の飢えの原因を自分達の贅沢と飽食に求めず、貧しい国の経済や教育・国民性の欠如の問題に巧妙にすり替えようとする富む者のさもしい論理と知恵が作り上げた世界観に、何処か似ている気がした。彼らには、よくある政治家のように、自己を正当化するいつもの便利な詭弁が、それが文明や自己の知性の証左のごとく、いつでも入り念に準備されていた。

きらびやかさと欲で人をけむに巻く、’文明’という名の罪過なのかもしれない。

 

 残念ながらこの国の人々の大勢も、やはりマスメデイアにより何ものかに都合よく誘導され、そうした衆愚化され、低俗な大衆的視点を持つことに慣らされている。人は本来、自分の目で見てそして考える生き物であるはずなのに。

若い頃、貧乏旅行を終えて日本に戻ると、何か突然’ぬるま湯’にでも漬かったかのような苛立たしさをいつも憶えたのは、未熟ではあったが、理由の無い訳でもなかった。学生時代悠をかわいがってくれた大学の教官も、そんな悠の、両親譲りの素朴で純粋な感性に気づいていたのだろう。 

 

 ゆえに、悠は、そんな中身のない個展を開くことには興味が無かった。

 

 ただ、自分の生きているうちに一度だけは、ありのままに写し出された命の写真を通して、人のなかの’性善’を信じて人々の魂に何かをうったえかけてもいいのではないかと、ふと考えるようになっていた・・。

でも、それは自分にとり、何かの特別な節目になる日だろうとも・・。

 

 悠はいつものライブハウスの席に座り、窓の外、久しぶりに戻った東京の街の光を眺めて、いつものラクダの紙葉巻に火をつけた。一服すると、冷え切った冬の星空に向かい煙を舞い上がらせた。灰皿の横に、そっと小ぶりのライターを置いてみた。初めての旅の記念に、若き日の父親を憧れる様にモンマルトルの店で手に入れたCOLIBRIのオイルライターだった。それからはずっと、悠の過酷な旅の仲間だった。

 

  一度、東欧に一人住む父親の徹を訪ねたことがあった。歳をとって少し細くなっていたが、むかしのままだった。長年勤めた商社を去った後、昔の悠の幼かったころの面影の残る一軒家を東欧で買い戻し、静かに一人暮らしをしていた。何か執筆をしているようだった。何日かとどまって、男どうしふたりで話をした。 パリ時代の由紀と一緒の写真が、小さな額に入れ壁に掛けてあった。

いつまでも敬愛すべき父だった。 別れ際、昔と同じ温かな手を、悠のたくましくなった肩に置いて、少し寂しそうな目で悠を見ると、

”・・命だけは大事にして、頑張れ。

・・お母さんも、お前の姿を誇らしく思っていることだろう・・。” そう言った。 

 

悠は、久しぶりに心安らいだ。懐かしい第二の故郷の家を離れ、また過酷な’娑婆’に戻る心の準備をしていた。

ふと、思い立ち、ニューヨーク行きの飛行機のチケットをキャンセルして、列車で1日かけて、あの青春の日を過ごしたクラクフの街を訪ねる気持ちになっていた。

それまで、きっかけが見つからなかった。敢えて、そこから遠ざかり、忘れ去ろうとしていた。でも、父親に会い、話をしているうちに、何かが吹っ切れた気がしていた。自分も、もうそんな歳になっていた。今まで敢えて空白にしていた人生の色褪せた断片をまた蘇らせるため、もう一度、あの地を訪ねてみようと思った。

 

 

  ・・懐かしい駅に降り立った。いつかと同じ空気の匂いだった。 乾ききっていたはずの涙が、年甲斐もなく青春の日の記憶の尾ひれを蘇らせるようにして、湧いてきた。広場の向こうの鐘楼。すべてはここから始まっていた。爽やかな空気の中、哀し気なラッパの響きが降りてくる。あの日の古都は、何も変わってはいなかった。悠の前で鳥たちが一斉に飛び立った。

 

 あの二十数年も前の東欧での、若く切ない日々の匂いが、セピア色の感慨を伴って悠の脳裏に蘇っていた・・。

 

 

 

 

   Emina' 1986  留学

白き雪の道をしっとりと覆う月の光の静寂
夜霧に浮かびあがる教会の灯
苔むす古き鐘楼よりこぼれおちる天使の詩
心を照らす無数の蝋燭のぬくもりと聖母の微笑
目を閉じる君の白き横顔
黒く長き睫毛に伝う透明の涙
風にうたうアベ・マリア

 

 

                                                   

 


 ・・1年半ほどの東欧での留学生活を終えて、またひとり日本に帰らねばならぬ日が近づいていた。留学先のヤギェヴォ大学から3キロほど離れた、郊外のこんもりと緑の森に囲まれた小さなアパート。

1986年3月のまだ肌寒い朝だった。 

悠は23歳、エミーナは20歳になっていた。 二人はいつものように寄り添って、窓の紅い花柄のカーテンの隙間から、雪のかぶった冬の木立を言葉もなく眺めていた。

 

 森で倒れて何日もベッドで寝込み、目を覚ましてエミーナの茶色の美しい瞳を始めて見たのも、この小さな屋根裏部屋だった。 そっと抱き寄せたエミーナのうなじから金髪の後れ毛が可愛らしくこぼれている。悠はそっと女の肌の温もりに頬を寄せてみた。ほのかな薔薇の薫りがする。

"もうすぐ、お別れね、悠・・。
二人のパリ。・・あの日、乾杯した。
覚えてるわ、 あなた、こういった。 
’・・ 美しき君の瞳に ’って・・。
少し恥ずかしかったけど、うれしかったわ。
またあの歌姫ジョアンのように、カルバドスで再会できるわね。


・・また、パリに行きたい。 その時は祖母のあの美しい肖像画を二人で譲り受けに行きましょう。私が嫁いだら、新しいおうちの部屋の壁に掛けるの。そこには、愛する人がいつもいてくれる。

 彼は毎朝私とお食事して、私にキスをしてどこかにお仕事に出かける。

私はそれを見送るの。壁には、大好きだったもう一人の’エミーナ’がいる・・。

 私が愛する人といつも幸せそうにしているのを見て、不幸せだった祖母は、美しく若返った絵の中からいつも私に微笑んでくれる・・。神の選びたもう不思議な出会い、とわに幸あれと・・。"

" そうだね、エミーナ。  

二人で詩人プレベールの’夜のパリ’を、もういちど歩こう。

・・僕は放浪の医者ラビック。セーヌの橋で物憂げにたたずむ君を見つける。

そして、薄もやのかかったセーヌ沿いを、二人きりでゆっくり歩こう。 "

"・・ジョアンみたいに、私を置いてきぼりにしないでね。
きっとよ・・、ユウ。"
 

 

 ラビックとジョアンは、二人の好きな小説’凱旋門’の主人公であった。

二人はこの郊外の小さなアパートの屋根裏部屋で、一年半ほどを伴に過ごした。

食糧を手に入れるのも時として半日も店先で列を成し、電球やノートなどの日常品すら事欠くような東側特有の不自由さはあったが、二人の毎日は貧しいがゆえに、あたたかで幸福だった。 

 エミーナは毎日ピクニック気分で昼食のハムと野菜のサンドイッチを作り、悠は近所の農家で行きがけに二人分の絞りたてのミルクを分けてもらった。 そしてオートバイクの助手席にエミーナを乗せてキャンパスに向かうのが、悠のそんな幸福な毎朝の日課だった。 大学の講義は二人で受けられるものは一緒に座って受けた。 
 

 言葉がわからないところは、エミーナが片言の日本語と英語で根気よく通訳してくれた。少女はこうして悠の為に何かすることがとても嬉しそうだった。

そのせいか、エミーナの日本語のほうが悠の現地語を覚えるよりはるかに上達が速かった。エミーナは、愛するものの為には、労をいとわなかった。
 

 中世さながらの厳かな大学の講義室で、ファウストの様な教授が白い口ひげを蓄えてゲーテの自然哲学を説き、また、長髪を振り乱し黒縁眼鏡の物理の教授が黒板にチョークで無言で数式を並べ、、かの天才の宇宙方程式を導き出したりした。そしてこの老練な教授は最後に一言云い添えるのを忘れなかった。

 " 自然は美しい。これらはその自然の摂理のほんの断片を数学的記号に表したものにすぎない。

 コペルニクスはその昔、この学び舎で思索し、やがて教会の描く天界の夢物語に対抗して、地球を基軸にして発想を逆転させることで、かの宇宙論的大転回を行った。 それから火刑に処せられしブルーノ、ケプラー、ガリレオと続き、教会の異教審判を受けながらも時代は地動説を完成させていく。

 やがて、ルネ・デカルトが現れ、ニュートンが機械論的な科学革命を起こしてゆく。

現在の自然科学も医学もこの時代に確立した要素還元論を礎にしている。

 

 或る頃から科学は意識と現象、心と肉体を乖離する道を選んでしまった。

それが、今の世界の文明と経済を回している。

 

それから数世紀後、やはり若き神学生が今君たちのいるその席で学び、やがて、コペルニクスの宇宙論に異議を唱えたあの教会の総本山に今や法王としておさまった。

ニュートンに続く産業革命以来の自然科学の流れ、弱肉強食と偶然に支配されるダーウィニズムとマルサスからの資本による現代の憂うべき、傲慢かつ際限なき市場主義の自然への蹂躙に対し、ここでまた天界に変わり、彼は世界に向け警鐘を発しようとしている。 

・・歴史は大きく繰り返す。

 あのファウスト博士は自分の命と引き換えにメフィストにその先にある真理への扉を求めようとした。
ファウストは若き乙女の真摯な愛と。消え入るように美しい命をも顧みることが出来なかった。
そこに永遠の真理があるにもかかわらず。・・・

 自然の大いなる営みから回帰し、また心の奥の小さき神秘に照らして、真空の海から叡知を導き出し、内なる意識の場に共振し真理が顕在化していく、そんな時代が来ようとしている。
  諸君の愛の意識のさざ波は、宇宙の海で拡大し、光速にも増して遠く南米の大地の、森の奥深くに伝わり、美しき緑の蝶の自由の羽を羽ばたかせる薫風となろう。

 
 諸君の愛と大いなる覚醒は、大宇宙の真空の場を揺らがせ、普遍のおおいなる記憶の場へと若き探求者を導いていく。
 諸君、美しき緑の森の精の声に耳を傾け、ともにひととき瞑想し、永劫の愛と命の共振から、真実を学び給え。

宇宙の真理の響きは、君たちの純粋で美しい魂の中にこそ隠されているのだ・・。 "

   エミーナはほかの学生と一緒に拍手した。悠もブラボーといって続いた。


厳かなコレギウム・マイウスの石造りの大講堂に、21世紀の未来を担う若き歓声が響き渡った。

                                                 

 


 こんな調子で愛する女性との、静かで豊かな異国での学生生活が過ぎていった。

 

 キャンパスの中庭の木陰で、ほかのカップル達と同じように悠の一枚のコートの中で身を寄せ合いながら搾りたてのミルクとエミーナの手弁当をほおばった。

 

 そして、午後の授業が鐘の響きとともに終わると、ふたりは大学の喫茶室に入って、コーヒーを飲んで暖をとった。 背後には静かにドボルザークの交響曲が流れている。 開け放った窓から散った紅葉が、ちらほらと遠慮げに二人のテーブルの上に舞い込んでくる。

 

 エミーナは悠と小さなテーブル席に静かに腰掛けると、傍らの老紳士にそっと会釈した。

 既に冷めきったコーヒーカップを前に、パイプを手にした教授らしき白髪の紳士・・。

古い大きな柱時計の永遠の時間の響きの中に溶け込むように、真理を求め難解な本の神秘の世界に身動きせずに没入していた。煙だけが虚空に舞い上がっては消えていく。 

 夢から覚醒するように、本から少し目をこちらに向けて軽く会釈すると、そのまま、また無窮の心地よい深世界へと戻っていく。パイプの灰が音もなく陶器の灰皿の上にこぼれる。
 二人でそれを見て、くすりと笑った。たった今のこの瞬間が、ふたりには限りなく永く感じられ、そして虹色のごとく幸せだった。暖炉の薪の火の、パチンとはぜる音がした。

薪の匂いと透き通った新鮮な空気の匂いが、窓の外の晩秋の景色を際立たせた。


 互いの目を見つめあっては、たわいない会話が続く。いつもの悠の白いカップのコーヒーは、ほろ苦い切ない味がした。

何故かチェ・ゲバラ好きの悠はキューバ産のキュビータのエスプレッソ。エミーナはいつものハーブテイ。 エミーナはティ^カップを手にして、悠に微笑む。

 東洋人の若者の横長の小さな目は、エミーナのきれいな大きな目にはにかむように、さらに細く小さくなる。
 キャンパスの中庭は、いつの間にか秋の一面の黄金色から白い冬化粧へと変わっていった。 二人はいつもの学生喫茶の水滴に曇った窓から、こんなにも充実して永遠とも思われる二人の時間が、いつの間にか風のように速く過ぎ去っていくのを感じていた。 二人は無言で、静かに降り積もる雪を遠く眺めていた。寒空の中、どこかへ渡り鳥たちが飛んでいく。

 



 クリスマスには、大学のすぐそばにあるゴシック建築の教会にでかけた。

ここは、いつか悠が始めてこの地に降り立って、その夜神父の好意で寝泊りした礼拝堂のある教会だった。

 

 まだほんの少し前のことが、もう遠い昔の出来事のように思えた。

いつかの物悲しいラッパの音が鳴り、続いて鐘楼の鐘の音が響きわたる。

石造りの高い天井一面を覆う天使の壁画の世界に吸収されていくようだった。

聖堂内の人々をあたたかく包み込み、窓から外に向け、遠くまで慈しみの愛の響きはこだましていった。

 レクイエムがパイプオルガンでゆっくりと響き渡る。 純白のドレスを着込んだ黒い髪の歌手がカッチーニの’アベ・マリア’をソプラノで静かに歌いはじめると、辺りの無数の蝋燭が一瞬点滅し、やがてオレンジ色に輝きを際立たせた。

 

 聖母のとわの慈しみに触れ、愛に包まれることを願い、若い二人はこうべを垂れ身を寄せあい、ただ祈った。

 ふとのぞき見ると、エミーナの端正な横顔の、その閉じられたまぶたから透明の涙が一筋こぼれていた。 透き通る虹色のクリスタルのように光輝く幸福のはずが、瞬間微かな不協和音を伴う映像がよぎったようで、悠は不安を覚えた。 エミーナの肩を強く引き寄せた。

”・・だいじょうぶ?  ・・いつか君を、迎えに来るよ。
今度はここで、ふたりの式を挙げよう。・・いいかいエミーナ?”

” ・・本当?  ・・もちろんよ。
うれしい・・、悠。  ・・ありがとう。”

 エミーナは細い眉を寄せ、涙顔をくしゃくしゃにして悠に抱きつくと、何度も何度もキスをした。 悠は、周りを見て少し照れて微笑んだ。

 

 エミーナは、身に降りかかろうとする何かの得体の知れぬ不安の影を、華奢な身体で必死に拭おうとしているのに、そのとき悠は気づいていなかった。

氷点下に凍てつく東欧の古都での、ひっそりと静かなふたりの’ホワイト・クリスマス’だった。

 

 ふたりは雪の降りしきる夜の静寂のなか、互いの命の温かみを確かめ合うようにして腕を組み、ゆっくりと住みなれた二人だけの暖かな小さな愛の巣にむけて歩いた。

 エミーナの頬が街灯の光にほんのり染まり、小さな白い吐息が宙に舞った。

時々何かを思い呆然とする少女の横顔が、悠にはどこか不安で切なかった。

 可愛い毛糸の手袋をしたエミーナの腕をとり、悠はこれは永遠に続く物語の始まりなんだと自分にいいきかせようとした。 素敵な記憶がひとつ、二人の永遠の幸せの門出に今刻まれたかのように思っていた。

 悠はいつかと同じ、物悲しい天使のラッパが、遠くから二人を追いかける様に小さく鳴り響くのを雪の道すがら聴いていた。

 



 ・・4月の終わりも近づいた日だった。今日が二度めの別れの日だった。 エミーナと二人でやってきた首都ワルシャワの旧市街。・・ここはかつてナチスドイツとの市街戦で徹底的に焼き尽くされた後、市民の手で戦後美しく復元されていた。

 悠は東京である寒い冬の日、人気の少ない夜の’哲学者’の映画館でアンジェイ・ワイダ監督の"地下水道"という映画を見たことがあった。 第2次大戦のナチ占領下のこの街の市民の最後の壮絶な抵抗を描いた作品だった。 この戦いでこの街の8割が焼き尽くされ、20万人が犠牲になったとされている。

 モノクロの、古い時代の重い空気を蘇らせる映画だった。

戦争を知らない若者のはずが、なぜか臨場感のある鮮烈な印象で、その夜、悠は興奮して眠れなかった。

 空白の大戦後のこの国に生きる、悠と同じ世代の若者を描いた、アンジェィフスキーの小説"灰とダイヤモンド"の冒頭に出てくるノルビットの詩が、悠は気に入っていた。悠はエミーナにこの詩を聞かせてやった。 東京で悠が引き寄せられるようにしていつも入っていた寂しい場末の映画館で、一人、やはりアンジェイ・ワイダ監督のこの映画を見たことも・・。

"たいまつのごと、
なれの身より火花の飛び散るとき
なれ知らずや、
わが身を焦がしつつ自由の身となれるを
 持てるものは失われるべき定めにあるを
残るはただ灰と嵐のごと
 深淵に落ち行く昏迷のみなるを 
永遠の勝利の暁に 灰の底深く、
燦然たるダイヤモンドの残らんことを "

                          アンジェィフスキー

 公園の木立の中のベンチに座り、頬を染め、じっと美しい茶の瞳で悠を見つめ、若者の口ずさむ詩を聞いていた。

悠にとり、東欧の灰色に染まる風景の中で拾った、命あるつぶらな一粒のダイヤの輝きだった。

二人で歩いた古い街の建物は、色とりどりに配色されて美しく、四十年も前の小説や映画の世界にある灰色の東欧都市のイメージとは少し違っていた。

 バルバカンとよばれる旧市街を守る円形の城砦があり、その傍らに剣を片手に持つ人魚像があった。 二人はその脇にある郷土料理の店に入ることにした。エミーナは、微笑んで、両掌をこすり合わせて、小さな息を吹きかけた。悠も、それを見て微笑んだ。店内は、暖炉があって淡い照明に包まれていた。テーブルは、赤と黄色のチェックの可愛い布が掛けてあった。二人は、まず白ワインを頼んだ。

 " ・・この街の名はね、あの人魚に縁のあった漁師夫婦の名をとっているの。

いつの時代も、外国からの侵略と破壊にあってきた街。

城砦を築き、美しい人魚にまでこうして剣を取らせて、街を守ってくれることを願ったの。

 

 戦争末期、ドイツ軍を破ってソビエト軍が近づいているとの知らせに、解放も近いと、この街の人々は勇気を奮い立たせ、希望に燃えていっせいに蜂起したの・・。

でも、ウィスワ河の前まで迫っていたソ連軍は、なぜか対岸で留まったまま応援してくれなかった。精一杯抵抗はしてみたものの、人々は悲嘆にくれ、20万人もが次々とほとんど無防備のまま犠牲になっていったわ。

 今もあのマーメイドは、髪を風になびかせて、けなげにたった一人で、ふるさとの人々を守るために城砦から街の外をじっと見つめているの・・。"

 ふたりで食事をすまし、外に出ると、夕陽が差していた。 

 冷たい風に、人々はそれぞれの愛する人の待つ家路についていた。悠はコートの襟を立てて、柔らかな毛糸のセーターを着たエミーナの身体を包んでやった。 この日のふたりには、一緒に戻るいつもの温かな部屋は無かった。


 エミーナは、悠の胸の中に黙って身を寄せた。そのままふたりは旧市街の石畳の先をゆっくり歩いた。

駅まで来ると、そのままバスでショパン国際空港までエミーナは悠を見送った。

前回の旅の別れのとき、やはりこの見送りの列車の中で、温かいエミーナの肌のぬくもりの残る細い金のネックレスをプレゼントに首に着けてもらった。悠は、今日もそれをつけていた。エミーナはちょっと嬉しそうに、そっと白い指で悠の首に触れた。
 悠はずっと日本でも、肌身離さず、お守り代わりにそれをつけていた。


エミーナは悠が見えなくなるまで、いつまでも白い手をふっていた。

まぶしい笑顔で、出発ロビーの悠を見送った。

その日は、悠の前では涙を見せようとはしなかった。

彼女らしい精一杯の悠への思いやりだった。だから男として、悠も涙はこぼせなかった。

あのクリスマスの夜、教会の天井に描かれていた天使の微笑みが、遠くで手を振るエミーナの姿に重なっていた。


 ロビーを歩き、エミーナが見えなくなってから、これでもかという程涙があふれてきた。

エミーナとの日々が、走馬灯のように悠の脳裏にめぐってきていた。

 

 ・・樹々は四季折々に緑、黄金色、純白と彩を変え、恋人達の為に優しい思い出を刻んでくれていた。 その静かな自然の情景の一つ一つに、いつも一緒だったエミーナの優しい白い妖精のような笑顔が焼きついていた。

 記憶の中の美しい色とりどりの色彩も、今悠の涙に淡くかすんでいった。

バイクの後ろで悠の背に安心したようにきつく寄りかかる若い女の温もりと頬にかかる白い吐息の生きた感触。

 大学の分厚い教科書のページに、いつの間にか仄かな香りのする紫の小さな押し花が挟まっているのに悠は気づいた。
いつも悠のすぐ横にいて、傍らを見ると、時々栗色の髪を片手で掻き上げながら、板書を見つめうつむいて筆記するエミーナの美しく長い睫毛・・。

 不謹慎にも前夜のベッドの同じ温もりを思い出してしまい、大講義室で身が入らぬままで聴く大学の授業。遠い異国でも、悠の学生時代は日本の大学と同じであった。時々そんな焦点の定まらない悠の視線に、エミーナはハッと気づいて頬を仄かに赤らめると

"・・だめね、悠ったら。フフ・・。何考えてるの・・?"
 

クスリと笑って、横目で悪戯っぽく嗜める。
 若いふたりには、一分一秒が互いの生きる実感を確かめ合うための大切で貴重な時間に思えた。

 でも、別れが近づいてきた一週間ほどは、ふたりの会話も減り、ただ無言で互いを求め合った。昼真っからこんなに人目をはばからず、行く先々で抱き合ってキスをしたのは、悠は生まれて始めてであった。

 時々エミーナは、悠のいないところでひとり隠れて泣いていた。

悠はそれに気づくと、そっと後ろから震える両肩を抱きしめた。

"ごめんなさい。辛くて・・。"
そんなエミーナが、空港で一生懸命、笑みを装っていた。

そんなけなげな少女の温かくて細い肩が恋しかった・・。


 ・・4月27日、アエロフロートで、モスクワ経由で成田にいく経路を悠は選んだ。氷に閉ざされた何処かの都市の空港で降りて、二日ほどストップオーバーした。食事に出た夜の空はオーロラが舞っていた。下船は何かの航空会社側の都合のようだった。二日後、再度乗船すると、途中、航路が何かでそれてキエフの上空あたりを深夜通過した。はるか向こうで星空の中、何か紅黒い雲の影が浮かび上げるのを見たような気がした。いやな影だった。・・・


 



  ・・5月になろうとしていた。 日本では新学期が始まっていた。いつも可愛がってくれていた文学部の教授には山ほどのみやげ話があった。

それからは、突然ぽっかりと胸に穴の開いてしまった寂しさを、悠は必死に何かで埋めようとしていた。

どう足掻こうとも、最後は辛い夜行便になってしまったことには変わりがなかった。久しぶりの東京は懐かしいけど、まるで異国の地のようだった。

 悠は日本に帰ると直ぐにエミーナに日本の桜の絵葉書の手紙を送った。
いつか日本に来たとき、自分の国、日本の伝統美を君に知ってもらいたいから、一緒に早くいろんなところを訪ねては見て回ろう、などと細かい字で、今はかなり達者になったロシア語でいっぱい書き記しておいた。

 

 新聞の一面に、ソビエトの原発事故についての記事が大きな見出しで出たのは、それからすぐだった。チェルノブイリ原子力発電所の4号機がメルトダウンして大火災を引き起こしたということだった。 犠牲者は数十人に登るだろうと現地の未確認情報からメデイアは当時推測していた。

 エミーナと一緒に暮らしていた町とはずいぶん離れている。心配なさそうに思った。エミーナの故郷がキエフであることは知っていた。でも、少女は幸い今はあの懐かしいクラクフのはずだった。

 それから一ヶ月、頻繁に送ったはずの悠の手紙へのエミーナからの返事が、数か月遅れの最初の一通を除いて、それ以降返ってきていなかった。
 そんなある日のことだった。悠は深夜得体の知れぬ悪夢にうなされ、冷や汗びっしょりになって目を覚ました。エミーナの身のまわりに、言い知れぬ不穏の影が、悠には手の届かぬ遠い場所で、密かにうごめいているのをにわかに感じはじめていた。

 ・・クリスマスの晩、あの出会った日の若い日の姿のまま、少女は悠の横で宙を見やっている。それまでちらついていた白い雪が一瞬消えている。何故か、今度はグレーの雪が不気味な音を立て少女の上に降っている。二人で出かけた教会の聖母の優しい微笑みは、いつのまにか、幼いころに母と一緒に訪ねたあの悲しげな表情で無言の’朽ちたマリア’像になっていた。

 少女はやがて、氷のような冷たい涙を流して、悠のもとから何もいわずに遠ざかっていく。

悠は呼び止めようとしても何故か声がでない。無言のまま身動きすらできず、必死で少女の名を呼ぼうとしていた。幼い頃、母の横で眠っていた時の身動きの取れないあの悪夢にも似ていた。

・・そして、遂に自分の叫び声で悠は目をさまじた。
心臓の張り裂けそうな鼓動といやな悪寒が体中を走っていた。身体がびっしょりと冷たい汗で濡れていた。来る日も、こんな同じ夢が悠を襲ってきていた。


"  悠、お手紙ありがとう。 お変わりなさそうね。
・・寂しかった。私、早く悠のいる日本にいってみたい。
とても綺麗な桜の花」・・。悠と愛するお母さんのふるさと、素敵な国なのね。
貴方とパリに行った時のこと思い出していた。
きっかけはプレベールの詩だったわね。
あなたって、女のこころを喜ばすのが上手。
素敵な’夜のパリ’だったわ。・・ありがとう、悠。
日本の女性は素敵って言うけど、恋の噂はないのかしら。
貴方初めて会ってから、ずっとずっと素敵だったわ。
私のこの今の気持ち、貴方に伝わるかしら。


パリのふたりの恋の舞台、凱旋門。そしてモンマルトルの白いアトリエ’カフェ パサージュ’、

そこにはあなたがいた。
きらきら輝くセーヌでカルバドス乾杯したわね。・・わくわくして、とても幸せだった。
貴方と過ごした長いようで短かった日々、毎日が宝石のような時間だったわ。
・・・大切な思い出、ユウ、ありがとう。

・・春の緑の森の眩しい輝き、夏の日のふたりの愛の泉。
紅葉の枯れ葉舞い散るキャンパス、窓から雪の見える暖かな喫茶室。
 

 そして、クリスマスのアベ・マリア。
・・いつも貴方と一緒だった。
でも、・・ごめんなさい。 ・・いいの。
涙がこぼれてきちゃった。

 あのねユウ、私これから母のところに帰るの。
あなたがいなくなって寂しくって・・。
母に貴方のこと話してくるわ。きっと喜んでくれる。
すぐ又大学に戻ってくるわ。この先、また貴方の手紙が届くのが楽しみ。
でも、よかったら、ウクライナの故郷のほうにも手紙いただけるかしら。
母リザにも見せてあげたい。又会えるわね。 きっとよ・・。
お元気でね、私の素敵な'ラビック'。

アディウー。  悠、 愛する貴方へ。
                
                      Emina'1986  "

悠は財布入れに大切に折りたたんだ手紙を入れ、
持ち歩いてはあちこちで開いて読んだ。

ふと、クリスマスの晩のエミーナの横顔が
悠のいない夜の虚空の世界にむけられているのを思い出した。
時が経るにつれ悠の中で胸騒ぎが激しくなり、
喜びが徐々に激しい不安に変わっていった・・。


冴えざえとした銀色の月に今宵白き君の面影を追う。
夜風に舞う秋草の群れの傍ら 透明色の水鏡の月の微笑む。
諍いの炎はあの日の君の悲しき愛の息吹と伴に
男を永遠の氷の廃墟へといざなう。
静寂の暗闇を彷徨う旅人の背に差し込む

一筋の冷たき月明かり。
失われし幻の日々に生きる君へ・・。