癒しびと Ⅱ

                                                                                                   

  

   

   こころ   


  東欧で医学生としての6年を経て、瀬川は大学を卒業すると欧州諸国で有効な医師の資格を取得した。その後、医師としての臨床はほとんどを、勉学の機会を与えてくれたこの由緒ある大学と、地域の住民への恩返しのため、当地での救急医療の研鑽に費やした。

 過酷ではあったが、やりがいがあった。 こうした分野では近代医学は大変な力を発揮できた。でも、慢性疾患や難治性の悪性疾患の薬物療法や外科的治療は、あまりにもコストがかかりすぎる割には、期待した成果を得られていないように思えた。瀬川にとり、公衆衛生や臨床栄養学、予防医学などの複合的なシステムの構築が、今後の自分には必要に思われた。

 それと救急医療で経験した心停止後の血液再灌流による全身障害で、酸素と水素の混入ガスを吸引することで、重篤な酸化的ストレスを軽減することができたという多くの治験であった。

まさに’シンプル・イズ・ベスト’であった。宇宙にあふれている水素分子の数々の特異な性質が、生体内に発生する細胞傷害性のある活性酸素のみを捕捉して還元し無害にしてくれる。あらゆる細胞臓器の炎症や傷害の原因は、こうした活性酸素による酸化的ストレスであった。身近なH2のガス吸引や希釈ガス食塩水の点滴や経口投与する。水素分子はあらゆる元素の中で最小で、量子論のトンネル効果による素早い透過性で、脳内をも含め、血管内外の生体内のあらゆる箇所に浸透移動していく。そして行く先々で細胞傷害性のヒドロキシラジカルなどの活性の強いフリーラジカルを捕捉、還元してくれる。これは神の与えたもうたマジックのような理想的でシンプルな無機単体の治療薬でもあり、画期的な自然の摂理への開眼でもあった。かつてのパラケルススのような錬金術師が、一つ一つの元素に何らかの万能性や神秘性を託そうとしたのに何か通ずるものがあった。

 瀬川の学生時代に独学した物理の領域でも、原子価1の水素のミクロな振る舞いが、将来、放射能を遊離しない、極めて安全でシンプルな構造の装置での、無尽蔵の常温での核融合エネルギー生成の可能性を期待できそうな論文も、既にその当時出始めていた。瀬川はそこに、善意の’意識’というものの、スイッチングの役割を確信していた。
                                                 

                                                


 その間、瀬川は論文を何本か書いていた。でも、重箱の隅をつつくようなミクロな世界で、局所での相互関係性は理解できても、カスケード全体をつなぐ自己組織的な動力学の原理がわからなかった。 

 何故かくも瞬時に、生命全体の動的な均衡と整合性が得られるのか。それは、生態系の他の生物種も同様であり、地球はそうしたミクロやマクロでの生命と非生命の有機的かつ合目的連鎖によって成立していた。 そこには目には見えぬ、一貫した生命の完璧なブルー・プリント(青写真)に沿う情報ネットワークがあるのだろうか。 近代医学の診断は、既存の応用科学により、様々な医療機器の助けを借りていた。人間の五感で捉えられるよう生体内の様子を数値と映像で具体化し、既知の医学理論に照らして診断検証し、エビデンスとしていた。 その基準に照らして当てはまらぬものは、科学をする者として、いわば医学の範疇外であった。

それが現代西洋医学の方法論であった。

 瀬川は、時として緻密な近代医学の研究や思索に行き詰まると、ふと、学生時代に夢中になって深夜読みふけった伝統療法の医師たちの書物を開いてみた。大学の選択講義で学んだホメオパシーや中国の伝統医学のことが、温かみを伴った古き時代のミステリーとして、脳裏によみがえってくる。 それに加え、学生時代に寮で独学したロシアのシポフの’トーション・フィールド’(捩じれ場)の物理や、米国の物理学者ハル・パソフの’ゼロポイント・フィールド(零点場)’の理論で、その古い時代の自然医学の原理をたどってみた。 そこから得たインスピレーションが、自分の今後の研究テーマのヒントとして結びついた。

 やがて大学を離れると、瀬川はある国際医療ボランテイア組織に応募した。派遣されていたアフリカでは、大学の選択科目で覚えた中国風の医療具の鍼(はり)療法も自分の臨床に取り入れてみた。 近代医療と併用するうちに、徐々に、治癒の効率が高まり、少しずつ薬剤の量も減らすことができた。

 多くの患者をみていくうちに、やがて身体の具合の悪い所に、小さな細い針をもつ手が自ずと誘導されるように動くようになっていた。 病の種類にもよるが、体の違和感を感じる部位に、皮膚から数ミリほどハリを刺してしばらくすると、患者の苦痛が波が引くように消えていった。同時に瀬川自身、患者の体に何かのエネルギーの流れを感知できるようになっていた。次第に、それがある法則性を伴う施術法として、自分の直感に沿う方法に仕上がっていった。

 

そして当初に触診で感じられた生体各部位の筋肉や結合組織の緊張と硬結が、鍼を刺しているうちに、ある瞬間に、連鎖的に緩んでいた。不思議な手ごたえだった。 嵐の様に乱れる命の海の荒波が、そこに逆行的な小さな波の揺らぎを鍼をもっていったん与えてやることで、本来あるべき雄大で穏やかな波に沿って、すべてが瞬時に大いなる大海の揺らぎへと整えられていくような、そんなイメージであった。

 

 本来あるべき波とは、人体を取り巻くホメオスタシスの脈動であり、或いは地球を巡るシューマン波動のようなものでもあった。さらには、その背後の星々をも支配する、古き時代の自然哲学者の夢想した大宇宙の聖なる振動なのかもしれなかった。

 

  

  療術師


 派遣中のアフリカで、ある時、彼の不思議な東洋治療の様子を見た同僚のボランテイア医師から、日本の伝統医療家の名人の噂話を聞かされたことがあった。 ナチュロパシー(自然療法)を専門にドイツで開業していた彼の友人の医師が、東洋の伝統的医術に魅せられて薬草と針療法を学びに日本へと旅立っていったと・・。 その話は、どこか懐かしく瀬川の心に響いていた。
 そして東欧の医科大学の特論でも学んだ漢方薬草療法と、日本人の繊細な感性に合いそうな独自の針療法をももう少し自分の故郷で深めてみたいとも思った。そこで、その噂の名人の療法家を訪ねてみようと、医療ボランティアの任期を終えると、10数年ぶりかで日本に帰国することになった。

 話に聞いていた伝統療法家の居所をやっとのことで探し当て、それまでの瀬川の経緯を伝えた。そして、その熱意が先方に伝わり、許可を得てその療法家に師事することになった。


 解剖・病態生理・生化学など、いったん慣れ親しんだ近代医学の思考から離れ、数千年前の東洋医学の古籍を漢文で、師の説く一風変わった仕方で学んでみることにした。 ほとんどが東洋の自然哲学であり、身体感覚を通じての実地での施術と診断力の養成を主眼としていた。 たがいに相補性のある漢方薬物療法と鍼灸(しんきゅう)術を並行して、師のもとで興味深く学んだ。

  瀬川の伝統医術の師は、若い頃、さる大学の理論物理の研究者であった。しかし研究生活の中、重い病を患い、近代医学の方法で思うように改善しない中、或る民間療法家の鍼と漢方薬の治療により徐々に癒されていった。

確かな生命の再生への感触を、自らの身体で確信するに及び、命を救ってくれた日本の伝統的な施術の世界に魅了されていく。周囲が惜しむ中、学究畑を去り、その恩人の施術家の下で弟子入りしてしばらく修行をして、日本の東洋療法の公的資格をも取得した。

 その師が亡くなると、彼は禅寺に入った。古書を読み,止観打座をして過ごすこと数年、ある冬の寒い朝、何かを感じ取り、山を下り、鄙(ひな)びた小さな庵を住まいとして、そこで東洋医術の治療を始めた。

 何年もすると名医の噂が海外にまで届き、フランスやドイツから近代医学を修めた若い医者たちが、珍しい東洋の医術を学びに、粗末な木看板だけを掲げたこの片田舎の庵まで尋ねて来るようになったという。

 瀬川も、自分の故郷日本の、その庵をやっと探し当て、施術家の話に耳を傾けた。

 かつて医学部の学寮で独学して、どこか聞き覚えのある物理の宇宙論の原理を、まるで象徴的に、古典医学の解釈に縦横無尽に駆使しているかのような、そんなダイナミックさを覚えた。 師の解くその深遠な東洋哲学にすっかり魅了され、その日のうちに弟子入りを願い出て住み込むことになる。

 東洋の古典は象徴体系であった。傷寒論など 漢文の古医書の字面(じづら)からは何も一貫した論旨は読み取れなかった。 西洋医学的な病態生理をそこに当てはめようとすると、かえって混乱する。

 むしろ、学生時代に読みふけった老パラケルススの著書の象徴医学体系に、どこか似たところがあった。現代医学の研究者からすると、一笑にふされるであろう話であった。


 自然の懐で、愛と慈悲をもって古(いにしえ)の老医のいわく、”自然の神の光”に照らして、患者の体の様態を掌で感じ取る。そして古典医書を改めて心の目で読んだときはじめて、背景にある、治癒に向けての命の躍動的な原理が実地に照らし、直感的に浮かび上がってくる。

それはまるで錬金術で鉛がやがて変性し、黄金に光り輝くごとく、真理の言葉として心に響き渡ってくるようである。

 瀬川の夢の中で、あの日老医パラケルススは、’医師たるもの、自然、そして原野に飛び出せ・・、’といっていた。

 瀬川は考えた。・・実はシンプルな、究極の’生命’という真実を、多様な自然の現象に照らし、老医師の生きた時代背景で、既存の生きた象徴体系の言葉で、それを表現していたのだろうと・・。瀬川は、それはある種の’記号’だと想った。ある体験的な修行を通してのみ、読み解くことのできる・・。

 人はある経験を積むことで、それに応じた触覚や体内の特殊な経路に向けての知覚が研ぎ澄まされ、脳の中でそれに応じた特殊なシナプスの回路が同時並行して醸成されていくのだろう。故に、合目的な想いと、実地の経験でその直感を養わなければ、その起点にすら立てないのかもしれない。それは自然医学の修行に限らず、ひとの天性として芸術や武術など、他の様々な領域においても、そうした脳や精神の創発性は、自発的に開発しうるものなのかもしれない。

 

 同様、我らが東洋の先哲は、超絶的な観察眼を自然の懐のなかで養い、それを暗号的・象徴的に、短い文で古典医書の中に書き残したのだと・・、瀬川はそう理解した。 

 

                        
 
 師は語った。

 " 東洋の医術は一本の針先を通しての、術者と病者の命の営みとの、交流であり無言の対話だ。 その言葉の意味を聴きとるには、まず’観の目’を養わなければならない。その為には己を高める行をせねばならぬ。ひとの病の治療は、・・その後だ。

 患者の前で瞑目し、静かに鍼を下すときには、既にそこには迷いがあってはならぬ。
まずは、ひとり静かに座ることだ。 答えは己を超えたところから必要に応じ降りてくる。
・・深山幽谷に瞑目して、まずは、大いなる命の流れを阻(はば)む自己の迷いを断て。"

 

 当初、瀬川は古典の記述の字句通り、目に見えぬ生体のエネルギールートを想像してみた。そこに近代医学の病態生理をも同時に頭に想い描きながら、必死に古典の理論を解釈し、自分の力で目の前の患者の病態を動かそうと、ただもがいていた。

 だが、なかなかその思いに実態がついてきてくれなかった。何故か、一日十人も診ると、目の下にくまができ、自分の命のエネルギーが吸い取られてしまう様な、そんな憔悴感を覚えた。 本質的に、何かが足らなかった。 まだまだ未熟のようだった。 もしかして、自分にはこの療法は向かないのではないかと、早くも自信を無くしていた。

 師の言うように、日々黙想にふけってみた。そしてある日ふと思いついて、あの学生時代に通った修道院の時のように、断食をしてみた。その時の精神の研ぎ澄まされた状態に、何かこの施術法は相関がありそうな気がした。昔の癒し人は、本能的にそれを知り、習得していた。まるで、古代中国の仙人の方法のようでもあった。

 

 数年の月日が過ぎ、徐々に針先を握る手が、患者の体の上で無心におのずと動くようになっていた。実地の経験、そして黙想を通じての第六感の養成の結果でもあった。

あれこれ作為を考えず、想いを’無為自然’に任せるにつれ、患者の治癒の手ごたえも、少しずつ得られるようになってきた。

そんな一進一歩の成果を経たある日、師の許しを得て、瀬川は、自然療法家として再び実地研修を伴う放浪の旅に出ることになった。伝統医術の施療家としての二度目のインターンであり、パラケルススの’自然の光を求めて’の修行の旅の門出でもあった・・。

 

 

   

 

 

アマゾン・インディオの儀礼音楽

 

 

 東欧での医学生時代、勉学に忙しい中、時間を見つけては、中世の錬金術医師パラケルススの書、またホメオパシーのハーネマン、そしてイスラム医学のイブン・シーナの伝記や旅行記を読んだ。 行く先々で人々を癒し、真の医の道を探し求めて放浪する医師たちの姿に憧れていた。
 商社務めをした後、再び、学生として医学部に入って以来、既に長い歳月が流れていた。ただ、東洋の自然療法家としては、やはりまだ駆け出しであり、未熟だった。

 ただ、何よりも、医療機材も薬も必要ないこの身軽な東洋の療法を、瀬川は小さな魔法のように重宝に感じていた。一見相性の悪そうな近代医学の知見をも、医師として忘れることなく、日本風の鍼灸という伝統療法でどこまで治療が可能かが、瀬川の新しい課題でもあった。 自由な旅を通じて自然の懐、それを掘り下げ、極めてみたいと思った。日本の東洋医学の師に学んでいた頃、’相似象’という物理の原理を解いたような数冊の雑誌をある人から紹介されたことがあった。瀬川にとり、日本人としてのアイデンティティー、上古から引き継がれる日本人の洗練された魂の在り方を知り、日々瞑想を通じてその原理をよみ解き、現象界と潜象界をつなぐ一貫した真理を深めていくために、大いに示唆に富む文献だった。
 

 それからまた長い時間をかけ、マレーシア、チベット、ヒマラヤ、トルコ、・・さまざまな地を、医学生時代に夢に描いたそのままに、気ままに歩きまわった。 各地に伝承されている秘教的な癒しの技の中に、自分の学んだ日本の鍼や古典医学との内的・象徴的な類似性を感じ取ってみた。インドのアユルベーダ、チベット仏教医学、アラビアのユーナ二医学・・、それぞれに共通する深い知見を瀬川は直感でみいだしていった。

 

 かつて占星術医パラケルススが述べたように、

’大自然に溶け込み自己の心の迷いを断つことで、神からの自然の光が降りる・・’のを待った。

 仏教僧からその伝承医学を学ぶため、遠くヒマラヤの山岳地をも訪ねた。過酷ながら、己のうちに眠る第六観を研ぎ澄ますための内的な秘境の旅路であった。
 トルコのコンヤで出会ったイスラムの僧侶からは、スーフィの瞑想法を習った。 伝承的な舞踊で、独自の音楽に合わせて体軸を中心に身体を回転させることで、心はトランス状態になり、自ら天地をつなぎ、やがて神とつながっていく・・。
 学生時代に独学で読んだロシアの”捩れ場の物理学”の’トーション・フィールド’の原理がそこにはあった。 踊る僧侶たちの法悦の動き、体軸の’トーラス’のエネルギーの流れの中にそれは見え隠れしているようだった。

 物理真空の無限のエネルギーと情報を、ミクロからマクロまで様々な’回転’する媒体を通じてこの3次元空間に引き出していく、それが物理学者の言う’ねじれ場’の理論であった。

 

    

 

老子 (岩波文庫)

 

 

  
   幽谷


  シルクロードのウイグルの砂漠から中国の山岳部に入り、身体と心を一体化させる道家(どうけ)に伝承する太極拳の嫡流の住む村を訪ねた。

 深山幽谷の中、数年にわたり気功法と武術太極拳を師より学び、山岳地自生の生薬や老荘の道家の医学の生きた知識をその師のもとで学んだ。木の実や雑穀をともに食し,森の動物たちと思いを交感し、あるいは断食をして、’小周転法’という瞑想法の手ほどきを受けた。

 

  日本の東洋医学の源流で、それは奇経脈や体軸を流れる任脈や督脈といったエネルギールートを呼吸法で活性化して、体軸上に眠る8つのエネルギー中枢を目覚めさせるものである。 

それにより、いわば3.5次元的な世界に通ずることができるようになり、そこから再度、自分の生きる3次元の現生に、超次元的に働きかける。 ’気’というエネルギーの流れを、自分の意識でもって心身に巡らせることを瀬川は習得した。

それから得られた直感で、金銀の細いハリ先を通して、病者の体の’気’エネルギーの流れの滞りを、より明瞭にイメージし、意識の中で動かすことが可能になっていた。

 

 準備が整ったとみた師は瀬川を伴い、急峻な岩山を登り、’道館’と呼ばれる場所を訪れた。

驚くべき世界であった。すでに百歳はとうに超えた白い髭の道士たちが、’大周転法’と呼ばれる瞑想を通じて、’彼岸’を行き来していた。瀬川は既に年齢不詳の白髪の道士の一人から、その秘儀・大周転法を伝えられた。

 なかば夢の中にいるように、瀬川は高次の意識状態になると、異次元世界を往来する仙人たちからの内なる声が聞こえてきた。 それは道家での’真理の教え’であり、内観により次から次へと夢見のようにして雄大な宇宙史の映像が展開されていた。

 修行と観想の日々を経て数日がたったころ、師と山を下りることになった。

村に戻り、そこに置いてあった自分の腕時計の日付を見て驚いた。数か月の月日がたっていた。時空が飛んでいた。

 

 

 

                    

  

大陸的旋律~中国楽器によるヒーリング

 

 

 村に戻ると、遅れた時を取り戻すように、今度は師から太極拳を教えられた。

これは体内の気エネルギーを巡らせることで淀みのない動きの中、爆発的な破壊力をも縦横無尽に繰り出すことのできる活殺自在の気功武術であった。

そして、日夜、小周転の瞑想と道家の気功法に励んだ。その貴重な武術を師について雪の降る日も岩山の崖の上で練った。それは’推手’と呼ばれる二人でする対錬であった。そこで師の誘いに乗って、思わず闘争心をもって反応すると、バランスを崩して崖から谷底に真っ逆さまに落ちそうになった。思わず身が震えた。師が笑って手を引いて支えてくれた。戦意は、まさに死に至る病、生を排除する心の敗北の始まりであった。 ある雪解けの春の日の晩、いつもの山での修行が終わると、師は言った。

 

 ” ・・お前は、異界を旅し、多くを学び終えた。 ここを離れたあとも、研ぎ澄まされた内観で、大自然がお前にその行くべき先を指し示すはずだ。

 そこには、次の叡智を伝えるものが待っている。お前は、幸運にも天より崇高なる使命が与えられた。

誰しも、人がこの世に生を受けるには理由がある。

道家の教えは、その覚醒しつつある者には、大いなる示唆を与えるはずじゃ。

愛する者が、お前を常に見守っている。 地球上の弱者のために生きよ・・。”

 

 別れ際、師は瀬川に一冊の本を授けた。 老子の’道徳経’であった。
 不思議な縁が縁を結び、世界の秘境に古来伝承された自然と一体化する様々な秘術を、その後、ゆく先々で学んでいくことになる。

 天からの導きの光が、長い時間をかけながら、機が熟せば、瀬川に次に向かうべき方向を指し示してくれた。 砂漠のオアシスでは、流れる銀色の星に導かれ、また禽獣や野生の動物が道案内し、そして雲や風の指し示す声に導かれるように幾多の山を越え、自らの’第六感’に任せ、あてもなく大地を旅した。

 太極拳の師に与えられた道徳経に”無為自然”という言葉があった。その通り、長い旅路の果てやがて自分を求める場所が近づくと、まるで何ものかの強い磁力に引き付けられ、心身にエネルギーが湧き出してくるような高揚感に山内は包まれた。 そして待ち兼ねるかのように、そこには霊的な光を背に持つ次の師が、新たな辺境の地で出迎えてくれていた・・。

 その後、今度は南下し、深いマレーの森に入り、先住民の村に世話になった。そこで貴重な信仰と音楽、そしてアユルベーダの伝統療法を学んだ。その後、国境を越え、東へと進もうとした。少し政情不安定な場所だった。医療活動のことは告げずに短期滞在ビザを申請した。

  だが、必要に応じ、やむなくある貧しい村で医療活動をし始めた。貧しくて医者にかかれぬ村人たちから心から感謝された。親が病で働けなくなると、代わりに学校を途中でやめて子供たちが街に出る。家族の家計を助けるため、わずかな日銭の為のくず拾いなどや危険な仕事をすることになる。彼らは、貴重な教育の機会を小さなころにやむを得ず放棄したため、その後の過酷な人生が待ち受けている。貧困の連鎖だ。そうした病んだ社会構造に乗って富を得るものたちもいる。子供たちは、親から捨てられることもあり、一人で生きていくために、どこかのさらに都会の片隅のさらなる貧民窟で身を寄せ合うことになる。生存本能を満たすために、唯ただ生き延びねばならない。空腹に耐えるため薬物に頼るようになる。途中犯罪にも走ることになる。親の病は家族を崩壊させるか、少しでも家族の親兄弟の役に立ちたいというけなげな子供たちの愛情から、彼らの人生の選択の幅を自ら狭めてしまうことになる。日本のような恵まれた国の人々には想像できない病と貧しさの負の連鎖がある。

村人から感謝され、瀬川は少しは役に立てるのかと感じていた。だが、子供たちの愛らしさを目の前にしても、当然彼らにもいずれ訪れるその貧困の連鎖など断ち切るわけもなかった。背景にはいびつな’社会の病’があった。さらにその背後には、貧しい国を食い物にする多国籍大資本家や、彼らに都合よく機能する国際システムがあった。IMFは多額の融資の代わりに、公共の教育費や衛生・福祉を削り、外資の支配する民営化を条件として押し付けてきた。

 瀬川は複雑な気持ちと無力感を抱きながら、当地に留まる海外からの医療支援組織を訪ねては、薬剤物資を分けてもらった。仮説の村の診療所には、近隣の村からも病人が歩いてやってきた。ただ忙しい毎日だった。深夜にやっと一人になって、満天の星空を見上げる。ふと美しく輝く十字星のそばに、あの学生の頃の恋人Evaの面影が見えていた。

・・今、どうしているのか。

 

 ’お願い、私のこと忘れないでね・・。’

そういって、瀬川の前から去っていった。

 

 忘れられるはずがない。あの日の寂しそうな若いエバの後ろ姿が蘇っていた。

あれからもう10年にはなろう。

 エバは誰から見ても魅力的な女性だ。どこか自分の知らないところで、きっとよい伴侶を得て、今頃幸せになってくれているだろう・・。子供ができたのかもしれない。きっと彼女似で可愛らしいんだろう。

自分のような男から離れて、それでよかったんだ。

・・瀬川は己れの薄汚れた貧相ななりを振り返り、自分に憐れむように小さく笑った。

だが、そんな想いが時の縁を導き、瀬川は期せずして南アジアの密林の中で、そのエバに再会することになる。

 

 

 

 

                     

 

 

  

  インデイオの教え


 

 瀬川は、カリブの社会主義国キューバを訪れた。そしてゲバラの名にちなんだピナールデリオ州のチェ・ゲバラ大学の医学生たちに、日本の東洋医術を伝えた。東欧の商社時代に世話になった会社の上司 龍崎 徹の恩に答えたかった。龍崎の話が縁で、”真理”を求める今の自由な旅が実現した。それから北上して、中米の戦災の地エルサルバドルを回った。そこで南米からひとりボランテイアに来ていた女医マリアに出会った。戦地で一緒に診療し、彼女に手取り自分の東洋療法の手ほどきをした。 

 そのまま、ひとり内戦下にある隣国ニカラグアを訪れ、そこで日本人の主催する自然療法のコミュニテイーにとどまって、ともにキャンプでしばらく診療を手伝った。

 

 やがて、中米から長距離バスで南米に下った。

瀬川は、長いバスの中でふと、温かな思いにふけっていた。そして今年のクリスマスには、ぜひスイスのジュネーブを訪れてみようと・・。じつは、数年前、南アジアで、’ある事件’をきっかけに、エバとの突然の再会があった。エバは、瀬川をいつも陰で見守っていた。

南アジアのジャングルの中、瀬川は差し迫った危機からエバに命を救われていた。

 その日以来、気ままなこの長旅も、そろそろ終りにしようと、瀬川はそう思い始めていた。

 

 バスはコロンビアを経て、最後は、一台車をチャーターして、一日かけてブラジルの奥地、隣国ペルーの国境沿いのジャングル、奥アマゾンの先住民の小さな村にまでたどり着いた。

そこであるインデイオの少数部族の村に世話になり、しばらく生活を共にすることにした。

 

 村の長老であるシャーマンから森の薬草の知恵を授かった。幻覚植物であるアヤワスカを飲み、何度も苦しい思いをして、その果て、いつか中国の’仙人の村’で見た覚えのある、あの広大無辺な異次元の世界へと再度トリップすることになる。そのアヤワスカを使った村の病人の治療をそこで見聞し、薬草としての貴重な調合法をシャーマンより教えられた。

 

 それは、東洋伝統医療の’ハリ’の治療とどこか似ていた。

瀬川のハリ治療では、病人の体の不調部位に共鳴するようにして、体表上の異常なエリアが心の目に浮かび上がってくる。同時に、体の内部を巡る特定のエネルギールート上のある部位にそれとの共鳴点が見えてくる。それが、大きな全体的な治癒の脈動へと導く、ハリで施術すべきスイッチポイント経穴(けいけつ)である。

 シャーマンの扱う薬草たちは、先ほどまで命を持っていて、どれ一つとして同じでなく、個性を有していた。瀬川はハリの施療の時と同じように、シャーマンの前に横たわるある病を患う青年の異変部を心眼で感じ取ってみた。すると、若者の生体上にいつもの様にエネルギーの’曇り’が見て取れる。

 いつか医学の専門雑誌で読んだ生物物理の論文に、生体の異常部位に’生物フォトン’の過剰な光の放出が、特殊な物理実験の計器で検出することができるという研究があった。その単一光子検知器の代わりに、瀬川の内的修行により研ぎ澄まされた視覚や触覚の精細な生体センサーが、意識を操ることでより感度を増し、何らかの電磁気的信号として統合され、脳内視覚野に、ある具体的映像を描き導いているようだった。外部からの信号をキャッチして、’非線形的’共鳴現象を通じて脳内の知覚認識の網にかかっている、そんな感じだった。

 それはまた、万物を包み込む大宇宙の一なる’ゼロポイント・フィールド’、つまり万有のエネルギーの波に刻まれた’記憶の断片’を引き出すため、意識という電磁気的な参照光が、無限のフィールドに波動’干渉’した結果、その’彼方’から、答えとして返ってきた何物かの映像なのかもしれなかった。

 

 シャーマンの師と一緒に森で採取してきた薬草を、瀬川は、いわゆる第六感でもって、目の前の青年の全身と共鳴させてみた。その体に現れた’エネルギーの曇り’が晴れる様に、試しにいくつかの薬草を組み合わせてみる。青年の体を取り囲むフィールドにある’陰り’が晴れるパワーが強い薬草ほど、分量を多めに配合する。そうやって調合し終わった薬草たちの束を、もう一度、患者の青年自身のもつ生体’フィールド’の上にかざしてみた。

 一瞬、その生体上に先ほどまであった特有の異変部位、つまり青年の肉体を取り巻く生体フィールド上の’曇り’が消散し、さらには、その体幹部に順に並ぶ古代インド医学でチャクラなどと呼ばれる部位の鈍い光が、やがて電球の光度を強めるようにして、徐々に明るい輝きを取り戻していく。 

 すなわち、これが、この青年の病にとっての’適方’、つまり最も適切な薬草の組み合わせなのかもしれない。

原理は、普段瀬川のする鍼(はり)の診断と治療の観察・方法に一致していた。 瀬川は確信した。 

 

 すると、師のシャーマンは瀬川に、” ・・それでよい。 ”と、満足げに目くばせした。

 

シャーマンは瀬川の調合した薬草の一部を、手にしたパイプの中に入れて火でくすぶらせ、口に吸い込むと、その煙を青年に吹きかけた。

すると、青年は大きく息を吸って、安心したようにそのまま眠りについていった。

 そのあとシャーマンは、残りの薬草を石鍋に入れ、一昼夜水で煎じた。夜が明けると、その濃い薬草の液を青年の体に塗りつけた。そして最後の仕上げに、片腕で青年の上体を支え起こすと、碗に入れた残りの薬草の液を、少しずつその口に含ませる。

 

 するとどうだろう、昨夜ほどでないにしろ、先ほどまでの目の前の病人の苦悶の表情は次第に緩み、体中に視覚的に現れていた以前のエネルギーの異変がみるみる消え、さらに全身の筋肉や結合織の緊張が、波が引くように目の前で解けていった。そして体全体に赤みが差し、健康な柔らかさが戻ってきたように思われた。

 

 瀬川は想った。

”東洋の’気の医学’とやはり原理は同じだ。

宇宙のゼロ・ポイント・フィールド(零点場)、あるいはトーション・フィールド(捩じれ場)とも呼ばれる無限のエネルギー場から導き出された、

’光’の癒しの技なんだ・・、” と。

 

” 聖なる志を持つものがもつことのできる、’ 星の医者 ’の知恵だ。”

シャーマンはそういうと、嬉しそうに山内の肩を強く抱くと、天を仰ぎ、夜明けの東の空にひときわ明るく輝く星を指さした。

 

                          

 

アマゾン・インディオの儀礼音楽

  

 

” ノボル、お前はやっと、生きた植物の精の穏やかな声が聴けるようになった。

森の守り神はお前がどこにいても、その魂の中に、聖なる導きの声を届けてくれるだろう。”

そういうと、こんどは師のシャーマンは悲しみを込め、少し苛立たしげな表情でこう言い添えた。

 

” ・・森の植物の精を信じない者たちが、森を荒らしに来る。

聖なる薬草を根こそぎ切り倒し、それを盗み取りにやって来る’白人たち’とは、お前は違う。

 奴らは、それを家に持ち帰り、その形だけを真似た黒い魔法の薬を作って一度に多くの人の病を治そうとする。

だが、その偽物には、生きた植物の精なるパワーはこもってない。そのかわり、

その偽物の薬には、聖なる大自然をないがしろにする’欲’という’毒’がこめられている。

 我々の先祖を殺戮し、或いはその清い魂を抜け殻にし、最後には我々を森の奥に追いやってきた’白人たち’がもつものと同じ、魂の’毒’だ・・。

いつか、今度は大自然が、彼らの偽薬では治せぬ’奇病’という怒りの毒矢を放つことになろう・・。

 

 ’病’には、生きていくことと同じ、星々の数の理由(わけ)があるんだ。

 ノボル、そのことは忘れてはいけない。 さあ、兄弟よ。

私は多くの秘儀を、お前には伝えた。

もう、いつでもお前は我々の前から去る準備はできた。

お前は我々の家族だ。いつもお前の幸運のために我々は森の精に祈る。

いつかまた戻ってきてくれ。  いつでも、むらのもの皆でノボル、おまえを歓迎する。”

 

瀬川は森の賢人のその言葉に思わず涙した。

 

 

” ・・例え、薬草の重要な一部の生体有効成分を分析し、その組成式に類似した化合物を合成したとしても、もとの薬草そのものは再生しえない。

たとえ薬物と生体分子間の相互作用を分子・量子薬理学的にAIで相互の反応分子の距離とエネルギー量を計算し活性化できる構造をシミュレートできたとしても、それですべてを合成・再現できたわけではない。シャーマンの言う’’偽薬だ。

 

 そこでは先端の量子薬学でも見えない、自然の造形である、まだ未知の多くの作用群が複雑に補い合っているはずだ。

かつて瀬川の学んだ、いわゆるフロンテイア量子論で、反応分子間のLUMOとHOMO,SOMOなど末端の電子の反応にも、そこには量子下で’意識’という観測装置が絡んでくる。

 

彼ら森の医者たるシャーマンたちが、修行による研ぎ澄まされた心で、彼らが植物の’精’と呼んだ何らかの目に見えぬ個性を有し、我々の命を救ってくれる神聖なるエネルギーの輝きに意識を向けたその瞬間、分子間の適切な相互作用が可能となるのであろう。

 

 彼らのトランス状態の研ぎ澄まされた意識による観測行為で、量子的な飛躍、波動関数の収束を、ふたつの反応分子間に引き起こすのであろう・・。大自然にかなうひとの合目的な癒しの意識と、植物の精の自然の摂理に沿った合目的な犠牲的な意思が共鳴したとき、そこに鍵と鍵穴を開くのであろう。それが宇宙の原理、癒しの技なのかもしれない・・。”  

瀬川はそう考えてみた。

 

 そこには、瀬川の学んだ東洋の伝統的な漢方薬草医学に通じるものがあった。未知のブラックボックスはそのままにして、すべて量子下のトータルなエネルギーの相互作用として治癒というものをとらえる。施術者の研ぎ澄まされた意識を介して、薬草の精のエネルギーの場を借りて、人の生命のエネルギーの流れを、背景にある自然の広範な場で、矛盾なく安定した方向へと導いていくのが、彼の考える’気’の医学の方法であった。

 唯一、’慈しみ’と’善’なる意識をもって、’真空の場’に謙虚に身を委ねることで、無尽蔵の宇宙の情報を含むエネルギーが’光’を介して、術者と病者の体に奔流するように、上から流れ降りてくるように思えた。

 

 別れの日の前夜、師のシャーマンは、村の長老の顔に戻り、弟子の瀬川の為に、最後の祭りを催してくれた。村人による歌と踊りが続いた。そこには大自然への畏敬と、兄弟である旅人の幸運への、深い祈りが込められていた。夜が明け宴が終わると まるで命の通った大きな家族のようにして、村人たちは名残惜しみ、皆で温かく瀬川を見送ってくれた。

再来を約束して、瀬川はその印象深い小さな集落をひとり後にした。

 感謝と喜びに涙し、そのまま森の中を何夜も歩いた。

 

 やがて、都会の猥雑な喧騒が近づいてきた。マナウスだった。都会はシャーマンの言う’白人たち’のもたらした’欲’という毒にまみれた世俗の街だった。

森の奥の聖域から’娑婆’(しゃば)にもどり、そこで少し滞在したあと、こんどは飛行機で南のマットグロッソへと向かった。

どこまでも続く広大な緑の魔境が、夕陽を受けてきらきらと輝いていた。その魔境を大蛇のように大アマゾン川が眼下にうねっている。その上流の人里離れたほんの小さなあの一角に、今は幻のように、瀬川の世話になったシャーマンの村があるはずだった。

 

 

                                                    

  

鳥のように、川のように 森の哲人アユトンとの旅 (徳間文庫)

 

 

  

 

   旧 友

 

 

 瀬川には、医学部の卒業以来、旅に出てずっと楽しみにしていたことがあった。

その土地Cuiaba には、かつて勤務していた日本商社の南米駐在所があった。そこで資産家の美しい女性と結婚したという入社以来親しかった友人がまだ当地にいるはずだった。 

 瀬川が東欧の支社を離れてから、医科大に入った報告をその友人に送り、南米から直ぐに励ましの返事を受け取っていた。 以来、彼とは何度か連絡のやり取りをして、ある時期から音沙汰がなかった。 瀬川も臨床に忙しかったのであきらめていた。それからもう随分経っている。きっと今頃、地元の名士になって夫婦で元気にしているんだろう。

 

 美しいメステイソ(インデイオと白人との混血)の女性と、熱帯の森をバックに豪奢な白亜の屋敷の中庭で幸せそうにくつろぐ写真を同封した便りに、達筆でこんな風に書いてあった。

 

  ” 瀬川、 ・・勉学の方はどうだ。 僕には君の未来への抱負と若い向学心が羨ましいよ。

 ぜひ、一度こちらにも遊びに来てくれ。ここは、胸躍る無限の可能性を秘めた面白い土地だ。

 君の言うように東欧も素敵だろうが、きっとここも君の気に入るだろう。

 東欧がシックなパープルか、ブラウンの枯葉色としたら、ここは原色のどこまでも濃いグリーンだ。 呪術的な神秘と情熱の同居するまだまだ未開の大陸さ。 今、大きなプランを練っている。

この広大な土地で、君と二人でしたいことだ。

先住民との共生の為の、コミュニテイーと壮大な医療プロジェクトができるかもしれない。

 またその時ゆっくり話そう。  僕の妻と、精一杯歓迎するよ・・。

       満天のブラジルの星空の下から  尾崎 孝之 Maira      ”

 

 真っ白な便せんに、ブラウンの万年筆の文字でインクの匂いが微かに漂っていた。

封には妻の家系の家紋の蝋印が施してある。 差出人は、尾崎孝之。

シックなブラウンのインクの日本語のサインだった・・。

 

 

              

 

TRANSIT(トランジット)25号 美しきブラジル (講談社 Mook(J))

 

Tree of Rivers: The Story of the Amazon (English Edition)

 

 

 

 瀬川は恋人のエバにも、南アジアで再会した折、このプロジェクトの計画の話をしたように思う。

だから、尾崎との再会後、事の次第では、エバをいずれブラジルに呼び寄せようとも思っていた。久しぶりの心温まる計画だった。

その前に、エバを喜ばせたくて、まずはジュネーブでふたりで静かにクリスマスを過ごそうと・・。

それに医学部時代の旧友ジュリオとも会ってみたい。きっと二人のことを喜んでくれるだろう。

 

 Cuiabaの空港に着くと黒人の運転手のタクシーを拾い、むかし手紙で教えられた郊外の住所を車で訪ねてみた。 長い高速道路をダウンタウンから森へ向かい、広いプランテーションを通り抜けて大きな建物にたどり着いた。住所に間違いはなかった。その屋敷は、背景が昔の写真と同じだった。ただ、贅沢だが、建物の雰囲気が少し異なっている。以前のものとそっくりに、その後再建されているようであった。手紙に添えられていたカラー写真の屋敷の色の白ではなく、ベージュの外装を施してあった。そして、名入りプレートには、既にその友人の名はなかった。

 住人のインデイオの話では、もうずいぶんになるが、あるトラブルで友人の妻が逝去した後、とうの昔に一人の幼い娘とその男は当地を離れていったとのことだった。

 

 ペリという名のその壮年のインデイオは、瀬川がかつての主人Ozakiの親しい友人であると聞き、表情を緩めて、少し苦悶の表情を伴いながら、当時の詳しい話を始めた。

 

 ”・・その頃、気候不順による不作がこの土地を襲いました。そんな折、飢えによる小作農たちの暴動がおきました。

 主人であるオザキの留守中、あなたのその写真の美しい白い屋敷は、焼き討ちされ完全に消失しました。 このプランテーションの地主であったオザキの義理のお父様は、不思議なことに喉元に毒矢を射られ亡くなっていました。その正確な矢傷は、狩猟に手慣れたインデイオのもののようでした。 でも、実はそう装った何ものかの仕業だったかもしれません。私にはそれがわかります。

 当時の大新聞の一面で大きく、警察は先住民の怨恨によるものと足早に断定しました。

 火事で屋敷が崩れ落ち、中で意識を失って倒れていた奥様も全身に火傷をおいました。オザキが助け出したあとは、ショックに言葉を失い、放心しながら生死の境をさまよっていたようです。 ただ、その後続いた原因不明の高熱と未知の何ものかへの怯えが、その後の直接の死因のようでした。”

 

 ペリは、少しうつむくと、小声で瀬川にこう言った。

”・・奥様は、ある部族のシャーマンからかけられた”ブルーハ”(原初的な黒魔術)により、その後、お命を奪われたんです・・。 彼女にはお母様から私たちの部族の血が流れていました。 奥様は、自分の存在そのものが彼らを裏切ること、白人との混血のご自分の宿命を、ご存じのようでした・・。 ”

 その悲惨な事件の後、尾崎はペリに別れを告げ、たった一人の幼い娘を連れ、失意のうちにその土地を去っていったとのことだった。 

 

 ペリは、自分たち森のインデイオのたどった長い悲劇の歴史を滔々と瀬川に語った。

 

・・この広大なプランテーションが拡大され今日までの形になるまでには、様々な先住民たちの犠牲が払われていたようだった。かつて友人として迎えたはずの白人たちの持ち込んだ感染症への免疫が彼らにはなくて、家族や仲間の多くが簡単に熱病で死んでいった。

 

 その後、農地と牧場の拡張のため、自分たちの生活の森を焼かれ、また時には、欲にくらんだガリンベイロによる砂金採掘のため、川に水銀が流れ水や魚が汚染され、奇妙な病に仲間たちは苦しんだ。やがては、先住民の抵抗を排除しようと川に毒をまいたり、何者かの指図でインデイオ狩りにやってくる者たちもいた。  

 

  かつては宣教師たちが、彼らの部族が逃げ延びた森の奥地にまでヘリで追ってきて、衣類と薬と引き換えに、物質文明とキリスト教への改信を迫った。

 70年代の’ブラジルの奇跡’と呼ばれた経済成長期の頃には、国策として物流のためアマゾンを横断する幹線道路が切り開かれ、ブラジル北部の貧民区の農民たちも労働者として呼び寄せられ、大規模な移住と開拓にジャングルが大規模に破壊された。

 

 アマゾンのジャングルは、豊富な栄養が樹木に蓄えられ、実は土地はやせている。何万年にわたる広大な共生で出来上がった現在の植生は、一度切り倒され開かれてしまうと、元のジャングルには戻らない。従って農耕にも適さず、一部の作物の畑作か草地の放牧しかない。北米の資本がハンバーガーの安い肉を求めて一時期大規模に森を焼き払って牧場に変えていった。また、その前には、ちょうどこの土地一帯のコーヒー園が霜害で不作になり、家畜の飼料として大豆の相場に目を付けた農場主たちがさらに奥地へと森を切り開いて広大な大豆畑にした。

 

 インデイオや動物たちは森を追われ、豊かな漁撈や狩猟採集の生活の場を失った。森には彼らの先祖の墓もあった。 大豆ブームで地価が高騰し、国有地の森も安く民間に売り払われ、更なる土地を求め、白人たちは非合法にインデイオを奥地へと追いつめ、殺していった。

当時のそのブラジルでの大豆の7,8割の輸出先は日本だったという。

 

 近隣の村の多くのインデイオたちは行き場を無くし、集団で自殺をはかる部族もいたという。尾崎の妻の母親は、そんな悲惨な運命をたどったこの地区のインデイオの部族の生き残りの一人だった。 美しい目をした怯える小麦色の肌の少女をここの農場主が奴隷商人からいったん買い取り、その後白人上流社会のしつけと教育を施して育て上げた。

そして親子ほど年が離れたその少女が美しく成長したのちに妻として迎えた。やがて主の白人との混血の娘を生んだが、しばらくして何かの奇病で、そのインデイオの美しい妻は急逝した。

 

 小作人たちのなかには、カトリックに改宗したが、極貧から抜け出せぬアマゾンからのインデイオ系もおり、他部族のインデイオの娘と当主との結婚をめぐり、代々裕福な白人系の家系の当主にはうかがい知れぬ様々な怨念や確執があったはずだった。当主の家系は古くは植民地時代からのポルトガル系だったが、20世紀になると東欧やドイツからの移住者との血が混じっていた。その為か、二度の大戦後、多くの欧州系の移住コミュニテイーと事業を通じての幅広い交流があるようだった。

 

 当主の時代になり、このプランテーションは、原油の採掘や牧畜業をも手掛けていた一族の資金力で近隣の土地を買収し、さらに東西へとかつての森の先住民の地にまで侵食し拡大されていた。そんなブラジルの経済成長絶頂期のころに、瀬川のかつて務めた日本の商社の支社も、この土地に豊富な熱帯の木材と地下資源、そしてブームに沸いた大豆の輸入の拠点として設置された。

 若い尾崎は日本からそこに派遣されていた。そして、この大農園の娘と、ある共同プロジェクトでのパーテイーの席で出会い、その後結ばれていた。

 尾崎 孝之は、、妻の家系の、今はほんの少数を残して絶えてしまった先住民部族のことを不憫に思うと同時に、立場上自責の念に苦しんでもいた。使用人のペリ自身が、妻の部族の家系の生き残りの一人だった。何か、彼らの為に自分の立場でできることをしたかった。

 

 妻Mairaの父Frioは、大学の教授をしていた。彼は壮年期のある頃から、過去の暗黒時代から自分の一族がしてきた罪を清算したくて、学者としての論文も含め、インデイオの教育の為の奨学金や保健衛生の為の資金援助、彼らの人権の法制化、国有地での広大な保護地区の確保法制化など、様々な政治的外部的な試みを数十年にわたり行ってきていた。 国際的にも理解と支援を集い、様々な肯定的な評価をうけてきた。アルゼンチンのある財団から、多額の資金援助がなされたこともあった。’ジョセフ・クンツ財団’というあまり世に知られていない慈善団体だった。 だがそれと同時に、活動に異議を唱える遠い一族の親戚縁者や、外部の敵を作ることにもなっていた。

 

 尾崎が瀬川に手紙を出したのは、そんな義理の父親と理想を同じくして、資金も集い、大きなプロジェクトを進めようとするその頃のことだった。でも、その同じ理想を語った父親も不慮の事故で亡くなり、かけがいの無い自分の愛する妻もその後亡くしてからは、尾崎は心身を患い、やがてそれまでのインデイオの為の理想を貫く情熱も失せた。

しばらくして、尾崎は、娘を伴い失意のもと、この屋敷を去った。

 

 瀬川は入社間もない若い頃、東京の本社勤務で、よく二人で酒を飲んでは将来の夢を語り合ったものだった。その友人尾崎の運命に、瀬川は今、複雑な思いを抱いていた。それに加え、幼い身で母親を亡くし深い心の傷を負っているはずのそのひとり娘のことも気がかりだった。

 名は・・確か’美奈’といった。

 

                      

 

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神の下僕か インディオの主人か (インディアス群書)

 

人間が好き―アマゾン先住民からの伝言