1942 良蔵 西域にて

ラ サ
良蔵は、しばらく夢見るように宙を見上げると、竜之介に向け言った。
” お前は幸福そうだった。 それ以上にお前を待っていたナターリャも・・。
ある事件で白ロシアの没落貴族の娘を官憲からかくまった。両親は、幼い娘をお前に託し、シベリアへと赤軍に連れ去られた。お前は、助け出したその少女を満鉄の日本人の家に預けてひとり内陸へと旅立った。
ナターリャはずっと、窓から外を見つめ、お前がいつか帰るのを待ち続けていた。窓際に白い花をかざって・・。南九州の別れの日のあの涼子の目を思い出したよ。
やがて少女は、美しい女(むすめ)になる。
俺はお前が羨ましかった。人を愛することのできなくなった自分自身が惨めだった。
理屈では、人々皆の平等な楽土が実現できるのを望んでいた。その為の革命なら何でもと・・。
だが、心は冷めていて、いったん落ち込んだ奈落の底から抜け出せないでいた。
俺はひとり生きようと、砂漠を超え、数年にわたり山岳地を歩いた。 疲れ果てた足でやっとたどり着いたのが、西蔵・秘境チベットだった。 どこか日本の感性に通ずる人々に出会った。幾万年昔の祖先が、俺同様この地を訪れ、長い天との交流を経て、ここに何かの偉大な魂の楔を残した。
七高時代に夢に描いた場面にそっくりな風景と人々への懐かしさだった。
そして、そのまましばらく天空の都’ラサ’にとどまった。
お前と同じように、俺はある密教の高僧から仏の教えを受ける縁に恵まれた。高峰ヒマラヤの麓での静かな瞑想と読経の日々。 時空が歪んでいるようで、まるで何百年もそこにとどまり、世のあらゆる事象が高速で目の前を流れゆくのを、座したまま第三の魂の目ですべてを明晰に垣間見ているようだった。
だが実際、現世の時間ではほんの数年のことだった。座して瞑目すると、再び夢見る様に、何一つ無駄のない鮮明な真理の映像が次々と流れでる。そこに時代を超え、様々な人格を伴った自分自身が、現世という絵巻に’絶対現在’の生き証人として居あわせているのが見える。
やがて、’拝師’の儀式を経て、俺は’チベットの青い紋章’を腕に小さく刻印することを許される。俺の師は、シャンバラのタントラ仏教のカーラチャクラの秘伝を伝える僧団のうちのひとりだった。’空の悟り’を得て、現世に時空を超えるシャンバラの至上卿を実現しようとするものだった。ユンポチェと名乗るその僧は俺を見るなり言った。
’・・’亜紀’は、天上に菩薩のもとにおる。若き日のままのお前の愛をもって、幸いあれと祈ってやることじゃ・・。その一雫の涙の祈りに、やがてお前自身が救われることになる。
絶対的な空の中に、すべてが融合して一と化す。人類、地球、宇宙の苦しみと闇をその一身に受け、それらの為に祈れ。 永遠の慈しみの光をお前の胸より世に向け放つのじゃ。
愛の悲しみの試練は、より大きな普遍的な菩薩愛に気づくことになる。お前を通じ仏の慈しみが万世に注がれる。お前は、地球上の生きとし生きるものたちの為に、万世一つにつながる魂の至上卿を築くために、この先、身を捧げなさい・・。’
これが縁となり、生涯を通じ、俺は腕に青い小さな刺青を持つ同胞たちに往く先々で出会い、同じ志を確かめ合い、助けられることになる・・。
西へむけて
俺は、その西蔵の霊脈につながる同志たちの導きで、北上し大陸を一人歩いた。 モンゴルからゴビ砂漠を経て、アルタイ、バルハシ湖・・。
南九州のあの学生の頃、湯浅の大陸の話にひとり夢想していたように、今度は何かの導きの光に従うようにして西域へ向けて歩いた。
途中、遊牧民族のキャンプに世話になった。ラクダを率いた隊商に会って旅の情報を得た。
匪賊に襲われたこともあった。青龍刀を掲げて我の首を刈らんと馬を疾走させていた。俺は落ち着いていつものように目を閉じて静かに念じた。彼の魂を救わんと・・。
”・・或値怨賊饒 各執刀加害 念彼観音力 減即起慈心・・”
手を合わせた俺の腕に掘られた小さな青い刺青を見ると、その首領格はハッとして、なにか穏やかな表情となり、やがて部下をまとめて走り去った。そんな命拾いの場面が、その後の人生で、何度となくあった。
でも、その幸運も尽きるかと思われる日が早くもやってきた。
一年も過ぎたころ、旅の途上、砂漠で嵐に会って方向を見失い、革袋の水も飲み尽くし、いよいよこれで終わりかと覚悟した。 ひとり砂漠にひれ伏して身動きもならぬまま、やがて眠気が襲ってきた。
志半ばにして、若くしてこれで運も尽きたのかと思った。
”・・悲体戒雷震 慈意妙大雲 樹甘露法雨 滅除煩悩炎 ・・念彼観音力・・”
俺は身を捨てるべく静かに読経をしていた。’観音経’の優しい響きだった。
・・その時、呆然とした意識で、ふと空を見上げると、晴れ上がった青空の向こうに、あの亜紀の微笑む姿が見える。 俺は心の中でつぶやいた。
’・・さぞつらかったろう。 ・・寂しかったろう。
どうか許してくれ。
俺もすぐにゆくから・・。’
すると、天上からこんな言葉が聞こえてくる。
’・・いいえ、あなたは、私にこの上ない幸せをくださったわ。・・それで十分。
どうかあなたのその優しさで、恵まれぬ他のひとにも、幸せを差し上げてください。
・・どうぞ私の分まで、生きてください。
きっといつかどこかでお会いできる。 その日まで・・。’
そんな言葉を残して亜紀の姿が静かに消えていった。干からびて乾ききった俺の頬を、涙が滴った。意識も遠のき、どこか高い空に天女が舞うのを見ていた。いつかどこかで目にした舞だった。俺は両手を合わせた。
やがて、青空に白い小さな雲が浮かび、自分の上にゆっくり流れてきた。そして、俺はその下で小さな雲一つ分の影に覆われた。そしてそこから穏やかな霧のような雨が俺の体を冷たく浸してくれた。 まるで、亜紀の慈しみの涙だった。
命を潤す’干天の一雨’が去った後しばらくして、砂塵の向こうに蜃気楼のように、オアシスの影が浮かび上がった。そしてちいさな人影が遠くに揺れ、やがて大きくなった。太陽を背にその人影は、遂に俺を自分の肩に担ぎ上げてくれた。 ・・こうやって、仏の導きで、人は今生を生かされていくんだと、俺は思った。
その命の恩人に連れられ、彼の住むオアシスの村でしばらく休息した。彼の導きで馬に乗り西に旅立った。アラル海を南に見て、ついにカスピ海に至った。長い旅路で苦労を共にした馬を、その親切にしてくれた命の恩人の若者に譲り、両手を合わせ互いの幸運を祈り、強く抱擁して別れた。
ふと袖を手繰り上げた彼の腕にはなんと、俺と同じ小さな青い紋章があった。
それから崖の上の細い岩道を、揺れる木炭バスで山沿いに俺はひとり内陸へと進んだ。
1942 Hotel Marcho
半日もして、霧が晴れて、美しい緑の街並みが眼前に開けてきた。以前来たことのあるように懐かしい感じがして、しばらくその街に逗留することにした。
張りつめるような新鮮な空気だった。白い橋の欄干に渡り鳥が羽を休め、遠く霧に煙るカフカスの山々を見ていた。
小さな花の絨毯に覆われたその橋を渡り終え、美しい市庁舎の建物の傍らにある石造りの小さな宿を見つけて、そこに泊まることにした。’Hotel Marcho(自由の宿)’と鉄看板にある。
重い木戸の扉を開けると、オレンジのランプに照らされて、ホールで若い男女が’レズギンガ’という民族舞踊を踊っている。老人たちも一緒に手拍子して、皆息があっていた。まるで親戚か家族のように、背筋を伸ばしどこか誇らしげな表情で楽しそうだったよ。
その夜、久しぶりにくつろげ、一眠りして部屋を出るとロビーの狭いカウンターで一人ウォッカを傾けた。静かな晩だった。窓の外から銀色の三日月がこちらを覗いている。ほろ酔い気味に、数年にわたる砂漠と山岳地の長い旅の光景を振り返っていた。すると、向こうから俺に声をかけるものがいる。
’ 君はJapaner(日本人)か・・?
・・ かの’日出る國’、数万年の輪(和)の魂を引き継ぐ・・。 ’
黒いシルクハットに黒づくめのコートのその男は、まだ、三十前の碧眼の欧州人風の男だった。
帽子を取ると、丁重に俺に頭を下げあいさつをした。 美しい目をしておったが、どこか皮肉気で、何処か世をはかなむ淀んだ光がそこにはある。 額に傷のある男だった。
彼は、俺の腕の小さな青い入れ墨に気づくと、コニャックの’カルバドス’のグラスを片手でそっと上げて隣の俺に会釈して、一気に飲み干した。
’ブルー・チベッテイアン’の紋章だね・・。一万五千年前の時代、’争いのない文明’の君たちの一族は、陸続きのアリューシャンを渡り今の北米大陸に向かった。そしてまた別の一派はシナ大陸天空のチベット山岳にまでたどり着いた。 何かの導きにより、君はそこでふたたび、稀なる聖地での魂の邂逅を得たというわけだ・・。’
しばらく二人で独逸語で話した。俺のは湯浅の’ギョエテ’以来、思うところあって独学で身に着けたものだった。そして、西蔵や新疆での俺の体験談をもな。 彼は世界の秘教的な史実に造詣が深かった。酒が進むと、原初の大陸、つまり今の南米あたりにあり、無知な侵略者によりその後消滅したと彼の信じる、オカルト的な先史文明にまで話が及んだ。彼の眼差しは、遠く異次元の幻のできごとを、まるで確かな事実の記憶を遡っているかのようだった。
やがて我らが偶然縁あって居合わせているこの時代に話が戻り、二人が今いるこの土地にまつわる哀しい歴史を、修行僧の俺の中に芽生え始めた潜在的感性に訴えかけるように、静かに語り聞かせてくれた。
表裏に無駄なく繋がる壮大な世界像への彼の該博な知識に聞き入った。
ルドルフ・クンツと名乗るその男は、悲痛な歴史的宿命を負ったこの土地の人々の、神に選ばれ定められし、その悲痛な稀有なる魂に共感していた。
数日が過ぎた或る晩、クンツは夜遅く戻り、そっと俺の肩をたたき隣の席に座った。二度めだった。その夜は、窓の外に月はなく、みぞれ交じりの風が宵闇の漆黒の中で音をたたてていた。
まずは挨拶代わりの世間話が続いた。やがて少し間をおくと、俺の心の底を見抜くようにして微笑むと、さてこれからが本題だと言わんばかりに、こんな話を始めた。
彼が、若い頃に故郷の国で経験した彼自身の恋人の悲劇だった。何故だか俺にそんな彼の内密な話をしてくれ、時間を忘れ茫然と彼の深い青い瞳の中に吸い込まれるように、俺は彼の言葉に耳を傾けていた。
フランス産のコニャックのグラスをゆっくりと飲み干すと、白いハンカチで口元を拭った。チェスの白いナイトの小さな縫い付けがあるのに俺は気づいた。最後に彼は俺を見て、こう付け加えた・・。
’・・人は皆、そんな’犠牲’に支えられ、生きながらえていくものだ。
君の目には、それに似たような悲しみの映像が浮かんでいる。
自分のあの頃と重なる様に・・、’ と。
俺は彼の青い瞳にくぎ付けになったまま、ふっと固唾をのんだ。
それ以来、度々クンツは昼間は何処かへと消えて、夜遅くになると俺のいるカウンターの隣に座るのが日課になっていた。まるで古くからの友人同士であるかのように。彼の知る、この世と平行して確かに存在するという超絶的な異次元世界に触れる話だった。どれも、仏門の道に片足をおいた俺にもどこか親しみのある話だった。既に世捨て人の彼は、この俗世では侯爵崩れの美術商という肩書だった。
親密さが増すうちに、ある欧州の中世からのオカルト結社に彼が造詣の深いことに気づいた。実際に所属していたのかどうかはわからない。
だが、少なくとも、そうした神秘的技法には彼もかなり深いレベルに通じているようにみえた。
代々からの貴族の資産家らしく、遠く秘境をめぐる形而上的な旅の途上のようだった。
彼の話に、印度や西欧のオカルティストの名がでた。ブラバッキーやグルジェフ・・。そしてお前の先ほどの話にあった’オニサブロウ デグチ’という名もそこにあったように思う。
そして、ルドルフ・シュタイナーというドイツの思想家に触れた。
’シュタイナーの残した遺稿の中に、こんな記述がある。地球は霊的な四面体に覆われており、同じく4つの霊的頂点を持つ。その地は、南極、中米、そしてここコーカサスであり、それを繋なぐ最後の聖なる頂点が君の生まれ故郷 ヤーパン‹日本›だ。
・・君とその子孫は、導きにより、その聖なる地を目指して旅立ち、最後には八百万の神々の宿る和の国 日本に再度戻り、2000年期初頭には、大いなる’神々の善悪の争いと変革’の担い手になるであろう・・ ’ と。
そんなある日の晩、彼の亡くなった兄のことを聞かされることになる。兄はジョセフという名だった。彼はハイデルベルクで中南米史を修めたという。といっても、ジョセフは、彼が生まれる前には若くして激烈を極めたヨーロッパ西部戦線で亡くなっている。その弟であるルドルフ・クンツが南米の秘境に詳しいのもその故かとも思われた。
兄の死は、愛する母親にずいぶん痛手だったようだ。クンツは何故か名門の家系の父親を憎んでいた。彼はある日、秘密結社の’交霊会’で、なくなったその兄’ジョセフ’をこの世に呼び出した。そしてこんな内容を天界のジョセフの魂から聞かされたという・・。
’ ・・父親に誇らしげに見送られ、僕は戦地に向け故郷を後にした。母は悲しげだった。
・・戦場は苛烈を極めていた。膠着状態で、弾丸が飛び交う中ただ突き進むしかなかった。
まわりで若い仲間たちが次々と倒れていった。最初は、僕も怖かった。でも、一か月もすると、その戦場の灰色の空の下のすさんだ光景にも慣れ、弾も自分をよけるようになっていた。
早く母と恋人のいる故郷に帰りたかった。そんな里心に、気持ちが緩んでいた頃だった。
遂に、僕にもその日が来た。幸運の尽きるその日が・・。
ある激戦場で突撃しているときだった。
上官の号令で飛び出し、夢中でいくつか目の敵方の塹壕を駆け抜けようとする中だった。
僕は、塹壕で敵の学生兵が負傷して一人取り残され苦しんでいるのに出くわした。
混乱のさなか、敵味方入り乱れて、無数の死体や負傷兵が塹壕を超えた平地に無残な姿をさらして横たわっている。塹壕の底には黄色い霧が停滞し、強い刺激臭が立ち込めている。敵方の放った毒ガス兵器の塩素の匂いだった。突破する塹壕の随所に横たわる息果てた若い兵士にまとわりつくようにしてなおも沈滞している。そのまま、見過ごして仲間とともに先に進もうとした。
が、何故か結局ひとり引き返して、人気のなくなった塹壕の中から、敵であるはずのその学生を背負い、安全な場所に移した。そしてそのまま彼を手当てし介抱することにした。こんな行為は、倒れていった仲間への裏切りであり、軍では反逆罪に値することだったろう。でもこの時は、異次元の何かの運命の声が僕を導いていたんだろう。
その若者を見過ごせなかった。黒い髪の東洋の血の混じったフランス人のようだ。
彼は、片腕に爆弾の断片による大きな傷を負っていた。僕は、金属片を引き抜いてどうにか止血し、包帯でその裂けた傷口を覆ってやった。ただ、その出血と傷では、長くはもちそうもなかった。彼もどうやらそれを承知しているようだった。攻撃がしばらくやんだ夜半、静かになった塹壕の中で横たわり、二人で、しばらく話をした。彼の名は、’Yu Mariani’といった。
そして、マリアー二は、父親によく聞かされた’ヴォードレール’の詩を謳った。彼は、自分の出征を引き留めようとしてくれた父親を愛し、言い争いの末の別れになってしまったことを、悔やんでいた。
僕はといえば、取り残された母親、そして恋人のことを案じていた。僕も、彼の前で好きなゲーテの詩をそらんじた・・。
戦地も、その夜は美しい月夜だった。若者は、印象的な美しい目をしていた。月の下で青白く透き通ったその肌は、祖国と、そして恋人への愛と正義を誓う’青銅の騎士’のそれのようだった・・。僕は、ふと彼の黒い瞳の中に、いつか読んだ古い日本の国の’武士(サムライ)’の姿がよぎっていく気がした。
何故か、彼が他人とは思えなかった。 このまま生き延びるか、これで最後になるか、いずれにしてもきっとここで出会えたのも、何かの遠い前世からの奇縁なんだろうと二人には思えた。二人の間に共通して浮かんだのは、’ヤーパン’、’ジャポネ’、つまり、古き日のその極東の島国が、まだ大陸と地続きだったころの鮮明な映像だった。それは、まだ若き父母とともに想い描いた、東方への冒険の夢の旅路の果ての国でもあった。
何時間かが過ぎ、再び爆撃が始まった。二人のいた塹壕も耳をつんざく爆弾が着弾し、何かの衝撃に、自分もその破片にやられてどうやら瀕死の傷を受けているようだった。もう動けなかった。やがて、あたりの爆音が聞こえなくなり、すべてが静かになった。
先ほどの若者はまだ息があった。彼とふたり無言で空を見つめていた。ふたりの目には涙が流れていた。しばらくして意識が希薄になってきた頃、医療班が僕たちのところにやってきた。ドイツ人の医者と看護婦がいた。何とその従軍看護婦はエレナという自分の知る女性だった。
彼女は、自分を追ってやってきていた。僕とエレナは故郷で親の反対を押し切ってふたり将来を誓いあっていた。・・でももう間に合わなかった。ほんの少しの、不運なすれ違いだった。
彼女は、息絶えかけた僕をそっと抱き上げた。そして涙にむせび、そっと額に口づけをした。
と、その時、傍にいた負傷したフランス人の若者のすぐそばに砲弾が落ちて、ついに、若者も命が尽き、意識が宙に浮かび上がらんとする時だった。彼は、僕に微笑んで、自分の微かな命の残り火を僕の亡骸の肉体に注ぎ込んでくれた。
エレナに抱かれた僕の体は、彼女の腕の中で微かに命を吹き返した。
そっと瞼を見開き、愛しい恋人の温かな体温が自分の冷え切って崩れた体に伝わってきた。エレナの透明な涙が自分の頬に滴るのを感じ取っていた。そしてふたりで、一言二言、ほんのしばらくの間、言葉を交わすことができた。
僕は、若者マリアー二に感謝した・・。恋人と別れの一時を過ごせた後、僕と彼はともに輝く一筋の光となり、天空の彼方へと飛び立っていた・・。’
・・俺は、クンツにそんな亡くなった兄の話を聞かされ、確かに彼岸への道筋にそんな世界があるのだろうと思った。俺は心の中で、二人の若者のために祈った。
亜紀にも、その向こうの世界で、苦しむ俺の心に寄り添ってくれているんだろうか・・と思ってみた。 すると、それを察したかのようにクンツは一言いった。
’・・君の心の中に留まるその女性の面影は、姿を変え、いつか君の前に現れるよ。’
俺は、クンツの誠意にだけ感謝して、その言葉を受け取っておいた。
彼から聞いた思想家のルドルフ・シュタイナーは、あのゲーテの研究者だったそうだ。興味をそそられ、その美術商の青年からもらった一冊のゲーテの詩集をホテルの部屋で夜通し読んでみた。朝遅く起きて、霧に煙るこの美しい街をゆっくり歩いてみた。街の人は、遠慮気に若い異邦人の俺に声をかけてきた。
’・・旅人よ、お一人かね。 今日は寒い、どうかうちで暖まっていきなさい。よければ家族と一緒に食事をしよう。・・歓迎するよ。’ とな。
優しく話し掛けてくれた。思わず涙が溢れ出そうになったよ。その穏やかな表情、素朴で擦れた声の響きは、どこか心に響き、懐かしかった。
あの七高の湯浅から勧められたギョエテ(ゲーテ)の’ファウスト’、・・クンツの愛読書だったその一冊を譲り受け、毎夜、ホテルの部屋で明け方近くまでひとり読み通した。 ふたたび、お前と過ごしたあの若き七高時代の想いが巡っていた。
第一次大戦の時に戦死したクンツの兄にまつわる話、・・親しくなった敵方のフランス人の青年’Yu Mariani ’は、東洋系フランス人の二世だったそうだ。
そうさ、だから、お前のところに若い頃通っていた、写真家の、あの’Yu Ryuzaki’,、つまりおまえが’ユウ’と呼んでいた男のことを覚えていたんだ。
時代がかった話で、何の脈絡もないのかもしれんがな・・。
ひと月ほどして自らをクンツ゚と名のるその長身碧眼の美青年は、コーカサスのこの宿を離れ、俺とすれ違うようにしてチベットへと向かった。
ドイツの将校と一緒に何ものかを求め、内密に秘境を訪ねてまわっているようだった。それが何なのか彼は言わなかったが、お前の言うその' デグチ 'という霊術家と同じく、何かオカルトがらみの欧州からの遠征だったんだろう・・。その時の俺には直感でそれと分かった。
クンツから多くの話を聞かされ、何か不思議な縁を感じて、彼に続いて翌朝、長居をしたその宿’ホテル マルショ’を俺も出ることにした。 不思議な縁を取り持つ宿だった。
カフカス
その土地が肌にあい、郊外の一民家にしばらくの間世話になった。見ず知らずの東洋人の若者をまるで家族の様に温かく迎え入れてくれた。彼らの民族にまつわる話を、ここでも彼らから直接聞かされた。
親切にしてくれる民には、旅の途上数多く出会ってきたが、この土地に入ってからは、何故か日本人の俺の心の琴線に感じ入るものが多く、不思議な深い縁を感じたよ・・。
やがて、彼らの厚い誠意に感謝して、名残惜しみながら家族に別れを告げ、そのままさらに西へと向かった。 あの別れの日の涼子のように、家族が皆で寒い中外に出てそのままじっと、見えなくなるまで手を振って見送ってくれていた・・。
やがて船でカスピ海を渡り、汽車で幾晩も揺られ、東ヨーロッパの美しい街に至った。そこが何年にもわたる俺の長い旅の終着点だった。そして、留学生として暫くそこで過ごすことになる。
ある時は孤独で、苦しみもあり、また時として、素朴な人の情けに感謝することもある・・。 旅とは、人のこころを素直に丸裸にするものだ。
あの印象的なコーカサス山間の土地の空気と、素朴で愛すべき人々に、自分もかつてそこにいたかのような不思議な親近感を覚えたものだ。
異なる民族の間でも、魂の純粋な繋がりが保てれば、この世はイデオロギーや富や名誉がなくても、皆がだれもが差別なく、互いを敬い、幸せに暮らせるはずだと、その時俺は思った。
彼らは見ず知らずの旅人を、精一杯の心づくしで迎え入れてくれていた。
そして、長老たちの言葉のなかには、その昔日本にあった’武士道’の精神の機微に通ずるものを感じた。そして、チベットの行で得た’空’の教えを他国の人の心を通じ、垣間見た気がした。
だが、第一次大戦の末期、その世話になった土地の人々は、カスピ海を越えた厳寒の雪原のカザフスタンの不毛地へとスターリンによって強制移住させられた。中央の農業政策の失敗で、カザフスタンは大飢饉に見舞われた。多くが飢え死にして、その穴埋めのための移住だったともいわれている。この国の50万の民族のほとんどがまるで流刑のように列車で移送され、そのうちの半数のあの尊き人命が失われたという・・。
この土地は、青年クンツから聞かされたあの幻視者ルドルフ・シュタイナーの予言にいう、第一の聖なる受難の地だったのだろうと、改めて思った。
俺にとって忘れがたいあの家のひとたちも、その後、一家離散して、行方が知れない・・。俺は彼らすべての魂が救われるよう、あの朝日を帯びて虹色に霞を帯びた彼らの故郷のコーカサス山の頂に向け、手を合わせ静かに祈っていた。あの日の俺には祈りという現世と隣り合わせの世界を魂でつなぐ手法を幸いにも持ち合わせていた。
あの白い橋の向こうにあった、緑に包まれた美しい街並みが今も瞼の裏に蘇る・・。
七高の湯浅は言った。帝大に上がる前に、数年ドッペり(落第)をしたと思って、大陸に出て語学を身に着け広い大地を旅せよ・・、と。そうして俺たちに遊学を勧めた。
若い日に旅に出て、素朴な人の好意に素直に感謝し、人間を一回り大きくして、体を張って大局でこの世を俯瞰できるようになれ・・、とな。あいつなりの俺たちへの配慮だったんだと思うよ。
あの珍妙なる名教授・湯浅とは、不思議な縁だった。
息子を若い時どこかでなくしていたと聞く・・。青春の自由と喜びを奪ってしまった自分の息子代わりに、俺たちを思ってくれていたのかもしれんな・・。
その湯浅も原爆で死んだか・・。
南九州の高等学校の幻の日々は、まるでいつかお前と二人歩いたゴビ砂漠に浮かぶ蜃気楼の様だ。 なあ、竜之介・・。”
良蔵は、竜之介の目を見ると、寂し気に笑った。
ホテルの窓の外はもう暗くなり、大連の街のところどころに人々の営みの灯がともるのが見えていた。
あの橋がいつか紅くなった
春の陽光に照らし出されるのでもなく
欄干の渡り鳥の
悲しげな涙のせいでもなく
秋の陽の夕霧に映えるのでもない
緑なす村々は、いつか灰色の荒野と化し
若者は何処か行方知れず
恋の契りは あの白い花々の絨毯だけを残して
はかなくも潰(つい)えた
美しき黒髪の風に揺れる
あの橋のたもと
悲しみの紅い陽炎と伴に・・



