時を越えた4つの絵物語 

    母の夏の日 

 

 
 

 

  浜辺にて

 ・・1989年、キューバ。 ハバナ マレコン通りの海岸線は、爽やかな潮風が通り抜け、防波堤の下の岩に大きな波が打ち寄せ砕けている。 遠く向こうには、マイアミの岬の灯台の微かな灯が霞に煙って見えるようだ。戦乱の中米を経て、このカリブ海の小さな島にたどり着いた。悠には憧れの国だった。
 かつてこの国は、長い’10年戦争’を経て、詩人ホセ・マルテイらの郷土の革命家が立ち上がり、スペインの支配から独立を勝ち取った。そして奴隷が解放された。 だが、さらに’米西戦争’でそのスペインを破り’漁夫の利’を得たのが、北のアンクルサム(合衆国)だった。

大国に都合の良い交易条件がこの小さな独立国キューバに課せられた。当地の砂糖産業は米国の多国籍資本に牛耳られた。そして、’クリオージョ’といわれる中南米植民地支配以来のスペイン系の少数のサトウキビ大農場地主だけが潤う、そんな産業支配構造が出来上がった。そして’ハバナ’は、腐敗したパテイスタ独裁の時代、北の資本主義国の金持ちたちの別荘やカジノとして潤った。

 やがて、あのゲバラとカストロたちが立ち上がり、”キューバ・リブレ”(自由キューバ)の革命がおこる。

 ’若造’たちの勝ち取った革命政府により、独占的な既得権益と資産をもろとも接収された当地特権階級クオリージョと、’老獪(ろうかい)’米国資本家たちは当然憤慨した。’マイアミ’に引き上げた後も、この小さな島国に、対岸から手を変え品を変え、彼らは軍事的・経済的な報復的手段にうったえてきていた。

 南米ボリビア山中でチェ・ゲバラが死んでから、あの革命劇の若者たちの一人、”コマンダンテ”(司令官)フィデル・カストロが、北の脅しからずっと今日までこの国を守ってきた。貧困に耐え、何とか経済的破綻から持ちこたえてきた。どんなに’悪魔のごとき独裁者・・’などと北のアンクル・サム(米国政府)にののしられようと・・。 マイアミに逃げたこの国の亡命者たちを使った反乱軍による政権転覆工作、そして何度となく試みられてきたフィデロ・カストロ暗殺工作・・。だがコマンダンテ・フィドロは’不死身’だった。

ついには、ケネデイの時代、自分の庭先の、のどかなカリブの小さな島に、こともあろう二枚舌ソビエトを通じて核配備がなされそうになり、史上初めての核戦争、一触即発の危機となった・・。
 

 かつて、その熱い’キューバ革命’で、解放軍の凱旋に、このマレコン通りは喜びに沸く人々で埋め尽くされていた。 そこには若きチェ・ゲバラもいた。 悠は、いま自分がいるこの場所の光景に見覚えがあった。日本の信州八ヶ岳の懐かしい家、父親の書斎の壁に、何故か小さな木枠のフレームに入って、’その日’の英雄たちの写真が貼ってあった。その小さな写真の中の背景が、いま悠の目の前に大きく広がっていた。むかしの姿のまま、今も色あせず、なにも変わっていない。そこには、多くのひとの本物の笑顔があった・・。 そしてその小さな記念すべき一枚が、悠のその後のフォト・ジャーナリストとしての原点になっていた。

  
 

 明け方近くホテルに戻ったマリアと悠の二人は、窓をあけ放ち、白いシーツのベッドの上、とろける様に眠った。そして小鳥のさえずりと、潮の香りのくすぐるような微風で悠は目を覚ました。ベッドの隣でマリアが微笑んでいる。マリアは悠の額にキスをした。けだるい朝の陽の中、二人はベッドを出ると、テラスで軽いトロピカルの果物の朝食でのどを潤し、仕上げに、ラム酒を少し垂らしたハイチ風コーヒーを啜る。シャワーを浴び、朝の9時には、ホテルに横付けしていた車に乗って、ハバナの東、風光明媚なタララ海岸へと向かった。例の50年式のアメ車であった。
 かつてホセ・マルティ・ピオニールキャンプのあった場所だ。今は複合病院施設になっている。ホセ・マルティは、あの祖国キューバ独立のため生涯をささげた詩人、国民的英雄である。
 波の打ち寄せる美しい海岸で、白い肌の子供達がひとまとまりになって、砂いじりをして遊んでいる。 ふたりがこの施設を訪れてすぐ後の90年3月、ロシア、白ロシア、ウクライナからの多くの子供達がこの施設に到着していた。 
 この国は、チェルノブイリの原発事故の被害者の子供達を、無償で、それから10年にわたり一万五千人余りを受け入れてきている。成人も3千人ほど、核放射線障害の療養を行っていた。
 その後、主に事故の後遺症で重症なウクライナからの子供達が受け入れの中心になっていく。 日本でも、北海道のどこかの病院が、いくらかのチェルノブイリの白血病の子供達を迎え入れたという話が、ちょっとした美談として日本のテレビや新聞で報道されていた。
 地理的に遠く離れたカリブの小国が、決して経済的に豊かな状況といえない中、無償でこれだけ多くの子供達を受け入れているのには、キューバの社会主義国としての外交的儀礼や政治的思惑を超える、’お国柄’としての何ものかを感じさせる。
 ゲバラを含む若者たちのキューバ革命。以来、素朴で何か人間的なエネルギーが、世界の目に見えぬ部分で、いまだにこの小国を原点でつき動かしているのかもしれない。 日本にも、今では忘れ去られた江戸の昔に、それと似た質素で共存的な社会があった。人を思いやり、己には厳しい美しい既成の道徳が、ほんの近い時代の祖先の人々の間にあったことを、悠も知っていた。 それ故に、イデオロギーや貧しさを超えたところで、日本人の心に眠る琴線にふと触れる熱い何かを、このカリブの小さな島国に、悠は感じていた。 恋人エミーナと、自分の愛した母親の由紀が、すれ違うようにして、今自分をこの場所に導いている気がしていた・・。
 
 

                                             

 

 

   赤い肖像    

 

  悠が高校生だったある暑い夏の日、風鈴の鳴る庭先で、母親の由紀にこんなことを聞かされたことがあった。 白い頬をして、緑の木陰から遠く青い空を見上げ、悠の前で少し幸福そうな微笑みを浮かべていた。 

 

 ・・・ 1950年代も終わりの頃、革命後、チェ・ゲバラがキューバの工業大臣として諸外国を歴訪していた時に、日本に立ち寄っていた。

そして米国を気遣う日本の政府の対応を逃れるように、自らの意思で数名で広島を訪れたという。

彼は、原爆慰霊碑の前に立つと、苦悩の表情で黙祷した。

その慰霊碑には、”安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませんから。” と記してあった。

ゲバラは、沈痛な面持ちでこうつぶやいた。

  ” この碑文には、何故主語がないんだ・・。 ”  と。

そして原爆資料館を訪れ、一時間にわたり数々の遺品を見て、あの透き通るような目にひとつひとつ刻み付けていった。そして最後にこう言い放ったという。

 ”君たちは、こんな残虐なことをされて、どうして怒らないのか・・。”  

ゲバラは、その足で、まだ何百人もの被爆者たちが入院していた広島赤十字病院の原爆病棟を訪ねた。

 ” お具合は、いかがですか・・。  どうか、頑張ってください・・。

   私たちは、・・あなたたちと伴にいます。”  

 ゲバラは涙を流して、手や足をもぎ取られ或いは床に臥せた白血病などの患者たちに、ひとりひとり声をかけ勇気づけて回ったという。 

 

   母 由紀はあの日、夫の徹から聞いたその印象的なシーンを思い描きながら、蝉の鳴き声の中、遠く空を見上げていた。そして時々休んでは、悠にゆっくりと話をつづけた。

 

 若き日の旅行記で、オートバイで出掛けた南米の旅。ベネズエラのハンセン氏病病院に向かう、’虐げられた人々’を手当てするあの医学生ゲバラの素顔が、パリの5月革命のポスターのあの哀し気な表情と相まって、若い悠の心の中を何か熱いもので満たしていた。

それは、貧困・差別・悲しみという名の、非日常の’他者’のうちに隠れた神の’顔’を正面から見てしまったもの。そんな孤独な宿命を負ってしまったものだけが持つ澄んだ目であった。そして我々すべての人間の内なる自我を直視し、無言でそのありかを問う眼差しでもあった。悠は、英雄と主客同一して、そのまなざしに投影される英雄の人生を想った。すると、そこに同一の次元に溶け込んで生きる原初的な自分自身がいた。時間と空間、人種を超えた主客未分の自分が、知則行で英雄自身を追い同じ’場’(シーン)の中で行動している。そしてその後の悠の過酷な半生は、敬愛する父母の、そしてあの英雄のなかに垣間見える、真理の場を辿(たど)る’デジャ・ビュ’の旅でもあった。 

 

 

  Paris    母の青春

 

 68年、その英雄ゲバラがボリビアのジャングルの中で死んだ。

そしてその年の5月、まだ若かった由紀はパリにいた。ベトナム反戦、アルジェリア、権力からの学問の自由を訴え、若者たちがこの英雄の肖像をかかげて行進するのを、恋人の龍崎 徹と、黙ってカルチェ・ラタンのカフェ セレクトのテラスから眺めていた。

 ゲバラは、”第2第3のベトナムを作れ”といった。 若者たちは、それぞれの心の内に、それを思い描こうとしているようであった。 龍崎は当時、日本の大手の商社に在籍しながら、こちらの大学に留学していた。だが、今は授業も集会で中断され、講義棟は閉鎖されていた。

 二人の目の前で、警棒を持った黒服の無表情な警官隊の列が、じわじわと、興奮する若者たちを取り巻く。それに対して、学生たちは石畳を一枚一枚剥がして投石し、バリケードを築き始めた。

 街のマロニエの樹々の緑に色づく5月、学生や労働者たちのそれぞれの主張に市民の共鳴者も増え、徐々に周囲の情勢は緊迫しつつあった。 この年は象徴的な年でもあった。 ここパリから遠く離れた、カリフォルニア、ローマ、ベルリン、ワルシャワの街でも、歴史的な何か大きなうねりの予兆があった。その小さな火種は、既成の枠組みに収まり切れぬ若者たちのエネルギーの中で、にわかにくすぶり始めていたようだった。そこでも、写真家アルベルト・コルダの撮ったあの一枚のチェ・ゲバラの絵が、まるでイコンのごとく、そして未来の世界の悲劇を象徴するように若者たちの列に掲げられた。

 

 徹は愛車の白のルノー・ドーフィンの助手席に由紀を乗せると、彼女が通う美術学校のある大通りの喧騒から離れることにした。窓から新鮮な春の薫風が流れ込み、二人を包み込む。緑の街路樹を両脇に見ながら数十分、しばらく曲がりくねった石畳の道を走らせると、丘の上の白い小さなカフェにたどり着いた。 ’カフェ・パサージュ’、ここはふたりにとって馴染みの店だった。

 見晴らしの良い静かなテラスに落ち着くと、興奮冷めやらぬまま、少し空腹感からふたりはワインとバケット、それに幾種類かのチーズを頼んだ。 春の白い花々に覆われる石畳の歩道の頂にあるそのレンガ造りの建物は、古びた石壁をi一面ツタに覆われ、少し露に潤い、新緑の香りを放っているようだ。 

 徹は、コートの内ポケットからラクダの絵の煙草を一本ぬきだすと口にくわえた。そして、少しうつむくと、銀色の’Colibri’のライターを丘の風から守る様に着火した。黒い髪が額にこぼれ落ちる。このイギリス製の個性的な革のライターは、数か月前、由紀が徹の誕生日にこの近くの店で買ってプレゼントしたものだった。革の胴にToruのイニシャルが刻まれていた。由紀はロゼの入ったグラスを白い指にとり、徹を見つめている。 宙を舞う甘い葉巻の香りが由紀のひと口含んだワインのほろ苦さにブレンドされる。 ” CAMEL”というパッケージの米国製の紙葉巻だった。

 一服すると、徹は目を細めて遠く先ほどの学生街のほうを見やった。何かの黒煙が上がっている。 ただ二人のいるこの場所は、そんな世間の喧騒に無関心であるかのように静かだった。

 徹はグラスのワインを一杯飲み干すと、少し頬に赤みのさした由紀の目を見つめた。そして、カルチェラタンの学生たちが掲げていた肖像の英雄・チェ・ゲバラの、広島での先ほどのエピソードを語りはじめていた。灰皿に乗せた紙巻き葉巻の灰が落ちた。

 

 ちょうど一年ほど前、モンマルトルの芸術家たちの集うという、サクレ・トゥール聖堂わきのこのカフェで、由紀は徹と出会っていた。 その後、若い二人はいつもカフェで落ち合い、テラスでコーヒーやワインを頼んでは一時間ほど過ごした。ここはかつてはアトリエだったらしい。どこかから伝え聞いた戦時ここに集った芸術家たちのこと、カミュ、プレベールなどの文学の話、ル・モンドのアルジェリアやドゴールなどの記事、緊迫したベトナム情勢、そして先の戦時下での少し古い凱旋門のエピソードなど・・、いろんな話をしていた。

 背後には、二人を包み込むようにブラジルの歌手Maysaの穏やかなボサノバやサンバ・カンソンがよく流れていた。 異邦人のふたりには、一歩喧騒から離れると時代の傍観者であり、穏やかな日常でもあった。

 ふたり、オルセーやルーブル美術館に通い、冬の寒い雪の日は図書館で日がな過ごしたり、近くの古くからある小さな映画館にも一緒によくいった。

 

 徹に誘われて観た革命期のキューバを美しく描いた”Soy Cuba", 

大学の学生の自主上映で二人で見た”アルジェの戦い”、

独立までのアルジェリアの話は、徹によく聞かされた。滞在中に、ふたりで一度海峡を渡った。今は国境が敷かれてあった。その向こうは広大な砂漠、作家カミュの心のふるさとだった。

 

 ” ・・その昔 自ら命をなげうって、国と家族を守るため敵艦に飛び込んでいった若い航空兵たち。

 そして、母国の敗戦を知った後も、南海の島で、世話になった住民たちの独立のためにともに戦って散っていった兵士たち。・・両者の心は、日本人として同じだったに違いない。

 僕は、それを誇りに思う。 そして、それが巡り巡って、遠くこの砂漠の植民地アルジェリアの人々の心に、独立の勇気の灯をともしていたのかも知れない・・。 ” そんな風にあの日、徹は東の空を呆然と見上げ、由紀に語っていた。

 

 ジャック・ゴタールの”小さな兵隊”,”中国女”、”東風”・・。当時の学生たちの左翼の革新的な空気を、映像で象徴的に描いたものだった。 そしてベルモンド主演の”勝手にしやがれ”

 当時、学生たちが車を転倒させ、石畳を剥がしてバリケードを築いたその道を、少し前に作られたこの映画の最後のシーンで、勝手気ままに生きてきたベルモンド扮するパリの若者が、警察の銃に撃たれよろめいて走る・・。

ルイ・マル監督、ジャンヌ・モローの” 死刑台のエレベーター ”

斬新で色彩豊かなドヌーブの” シェルブールの雨傘 ”

その背景には、海峡の向こうの’アルジェリア戦争’があった。

 

 そしてルルーシュ” 男と女 ”。

由紀は、この映画の中に流れる"L'amour est bien plus fort que nous"

(愛は自分たちより強い)のジルベルトの歌が好きで、

徹のルノーの助手席でよくフランス語で口ずさんでいた。

前方を見つめる由紀の長いまつ毛と少し陰りのある黒い瞳、端正な白い顔立ちは、振り向く徹を幸せな気持ちにし、いつまでも飽きさせなかった。

 でも徹には、ふとそこに漂う由紀の憂いの影を、まだ理解できていなかった。

由紀は人を愛することを恐れていた。

互いの愛が深まれば深まるほど、いつかきっとその人を不幸にする。

そこにはもうその人を愛してあげられる自分はいないのだから・・。

愛が深ければ、それだけ深い苦しみと悲しみをその人に残していくことになる。

 

学生たちのデモ隊がときどき前方に現れては、徹の小ぶりのルノー・ドーフィンを石畳の裏道へと迂回させた。

 

 この一年のあいだ、まるで異郷の街の孤独から、そして生き続ける孤独から逃れるように、ふたりはいつも一緒だった。

マロニエの枯葉舞うセーヌ河畔、そして静かな雪に覆われたボン・ヌフ橋。

新緑のプラタナスのサンミシェル大通りの人の賑わい、さらに初夏の日差しの下モンマルトル、カラフルな衣服に装うサングラスのパリジェンヌの客たちのカフェ・・。

 でも、そんな色彩の風景から浮き出て、まるで’モノクローム’のシックな写真の中におさまるようにして、二人はそこにいた。

 

 美しく光る雨上がりの坂の石畳を腕を取り合って歩いた。 もの静かな日本人男女が互いを見つめあう姿、そしてほんのひと言ふた言、語るたび、霧のように白い息が口元から漏れる。その情景は、それなりの、人知れぬふたりの運命のゆくえを漂わす、’哀愁’とでも呼べそうな、一篇の詩になっていた。 

 そしていつかふたりは、パリのマロニエの香り漂う中、互いを愛し合うようになる・・。

 

 遠く市街に車のライトの流れと無数の家々の灯がともされ、空に星が輝き始めるころだった。少し二人を包む風が冷たくなっていた。遠くエッフェル塔の空へ映し出した光の帯が見える。 少し寂しげなMaysaの歌が静かにいま終わろうとしていた。薄闇の中 灰皿の上の紙葉巻の灯が赤く小さくともっていた。

 

 

   朽ちたマリア  母の夏の日

 

 ゲバラにまつわる一連の広島での話を徹から聞き終わると、由紀はうつむき、白い掌で目を伏せた。そして思いあまって嗚咽した。

 

” あのね、徹さん・・。 お話が・・。”

 由紀は、まるで堰を切ったように涙がとめどなく流れていた。 徹に内緒にしていたことがあった。由紀は、白い腕にかすかに残る何かのやけどの跡を細い指でさすってみた。

由紀は徹を見つめると、誰にも語ったことのない辛い心の内を、目の前の愛する人にすべて打明けようとしていた。 でも、あまりに重すぎて言葉にはならなかった。徹は、そんな彼女をそっと抱き寄せるといった。 

 ” ・・いいんだよ、いまは言わなくても。 何も驚きはしない・・。

 僕は、この先ずっと、君のそばにいるから・・。 ”

 

 昔、春の日の寒い朝、郷里にある航空隊の基地から粗末に塗装された零戦に乗った父親が、東の空に昇ったばかりの朝日に向け爆音を挙げて飛び立っていく姿を、その時徹は脳裏に描いていた。小さな薄紅の桜の花びらが舞い散っている。戦闘機の向かう先は南九州のある小さな飛行場だった。 傍らには、震える幼い徹の手をとり涙ぐむ若い母親がいたはずだった。

 今、目の前に打ち震えるこの若い女も、あの記憶の時代からずっと、その爪痕の悲しみと苦しみを秘めて、今日までひとり孤独に生きてきたんだと、徹は由紀を見つめ改めて思いを致していた。

 

 由紀が徹の温かい胸の中、テラスからふとその先を見ると、涙に曇ったカフェ・パサージュの窓から、中に一枚の大きな壁かけの絵が見える。そしてその下の席に、自分と同じ年頃の若い女性が座っていた。彼女は、ベージュの質素なコートを着込んだ小柄にやせ細った白髪の気品のある女性を、そっといたわる様に抱いていた。由紀と互いにふと目があった。そして、どちらからともなく小さく微笑んだ。 天に導かれた過酷な試練を受け入れた者どうしのみが持てる、心優しい共感であった。

 物静かにうつむく、傍らの母親らしきその女性の手首は白いハンカチに包まれている。その姿に、何か同じような運命に翻弄された人の息遣いを彼女は感じ取っていた。 誰にも知られず、理解されることもなく過ぎ去っていく、でも、かき消すことのできぬ宿命の影・・。

 

 由紀は、長崎で生まれていた。幼い身で被爆し、そのまま両親を亡くしてから今日まで、言葉では言い尽くせぬ心身の苦しみと無言の差別に、じっと押し黙って耐えてきていた。 

 あの暑い夏の日、教会の公園の前で愛する父と母に両手を握られて歩いていた幸せな映像のまま、幼い記憶は途切れていた。 夢の中に現れた光と静寂、そして多くの悲しげな亡霊の彷徨う灰色の闇。

 ・・廃墟の中から、既に命果てた何処かの老人に抱かれたままで見つけ出され、近くの病院の医者に預けられたようだった。

老人は、何処かの高等学校の教師で、若い頃、洗礼を受けていた。何人かの進学希望の生徒を引率して長崎医大を見学した折、この天主堂にマリアに祈りを捧げにひとり訪れていた。閃光の中とっさに、自分の胸に、見ず知らずのひとりの女の子を固くかばい、自らは強い光に背をさらされて無言のまま息絶えていた。そして瓦礫の中、息絶えた老人の胸の中から、誰かに由紀は助け出されていた。

 燃えるように熱く、のどが渇き、涙に歪んだ目の前に、手当てをする白衣の男の人の姿が一瞬よぎっていた。 ”お母さん、・・お父さん・・。” 幼い由紀は周りを見て囁いた。男の人は微笑んで、涙を拭ってくれた。傍らには、両親の姿はなかった。

 

 今、恋人徹の温かい腕の中、あの運命の夏の日の、長崎の教会の物言わぬ朽ちたマリア像が、今パリのカフェの窓の中に見える寂しげな一枚の女性の肖像画に重なって、彼女の前で無言で微笑んでいるようだった。

 あの夏の日の、天主堂のマリア様・・。

たった一発の爆弾が閃光とともにさく裂する音のない空白の時間、

爆風により幼い由紀とその両親をも呑み込んでともに宙を舞った。 

聖女の像は、やがて朽ちた物悲しい姿となって教会の瓦礫とともに、そこにとり残された。 そして戦後再建された天主堂の中で、その朽ちた姿のまま今も安置されている。

 由紀は、教会のがれきの陰に何処かの老人に抱かれて埋もれたまま、奇跡的に大きな火傷を負うこともなく、一人命を取り留めた。首には、誰かがつけてくれたマリアのメダイがあった。

 その後、孤児院に預けられたが、ほどなくある外国籍の夫婦に養女としてもらわれ愛情をもって育てられた。夫は外交官で、夫妻で日本に滞在していた。妻は戦前、フランスで過ごした。先の第一次大戦では愛する兄を失っていた。若い兄は純粋すぎるが故、父親と確執し、引き留める両親の腕を振り切り、フランス ソンムの苛烈を極める塹壕戦へと自ら旅立った。そして、そのまま戻らなかった。それが故にか両親はその後離婚して、父親は失意でひとり祖国へと戻っていった。

 原爆で戦争が終わり、老父の最期の話を人から伝え聞いた。その時、父親が固く胸に抱いていた幼女を、娘夫婦は探し求めていた。そしてやっと、長崎のある孤児院に暮らす子供たちの中に、皆に隠れるようにして、黒い澄んだ目で自分たちを見据える小さな女の子を見つけ出す。その細く白い首筋には、見覚えのあるマリアのメダイがあった。父親が大切にしていたものだった。彼女は、少女の前でしゃがむと、そのメダイにそっと口づけした。

 ” あなたが、由紀ちゃんね。・・やっと会えた。 私の名はジュリア。

 ・・よければ、あなたの、お母さんになってもいいかしら? 

 どうぞ、よろしく・・。 ”

 そういって目を閉じると、呆然としたままの少女をそっと抱きしめた。

そして白い絹のグローブを外して腕を差し出すと、まだ傷のある白く小さな由紀の震える手をそっと温かな手のひらで包んだ。夫婦は、そのままゆっくりと、孤児院の小さな庭から、夕焼けの大きな空の下の野へと少女を連れだした。少女の背中には、数多くの小さな仲間たちがいた。由紀は、心を寄せ合い、皆で辛さを耐え忍んできた仲間たちを、振り向き小さな目で最後まで見つめていた。 由紀は幸運を目の前に、’何故だろう・・’と思った。幼い頭で、ふと底の見えぬわびしさにとらわれていた。

 その後由紀は、心身の不安に苦しむこともあったが、有り余るほどの愛情と、教育の機会を与えられ成長して芸術大学に進み、公費でここパリの国立美術学校に留学する幸運まで得られた。 由紀は誰かの善意に支えられ必死で生きることで、か細い命の重みを感じていた。それだけに由紀にとり、パリは不思議な縁が取り持つ花開くばかり幸運の街だった。 

 そして何よりも、徹がそこにいてくれた・・。

 

 

 

 

 

   戦いの不条理

 

 ゲバラは日本からキューバに戻った後、当時の広島での印象をこう述べている。

 

” 日本では、かつて武士が名誉を汚されれば自ら腹切りをした。 そしてさきの大戦では美しい笑みを口元に残して敵艦にぶつかっていった若き特攻兵たちがいた。

 だが今、周囲の諸国は占領国としてのこの国の基地から核弾頭のミサイルの危機にさらされている。

 広島や長崎での核被爆国として、彼らの報復による悲劇をよくわかっているはずだ。

 この国は今、あのかつてのような民族的な誇りを失っている・・。

 広島は、・・世界の平和に向けての我々の戦いの原点となるだろう。 ”  ・・と。

 

 悠の祖父は父が幼い頃、家族と別れを告げ零銭のパイロットとして南洋へと飛び立ち”散華”していた。 悠は、決して饒舌でない質実で素朴な日本の武士、非情な選択肢の中、身を犠牲にして家族同胞とこの郷土を守ろうとした祖父を誇りに思っていた。

  いわば詭弁を弄し、様々な戦略的理由付けをして周囲を同調させ、日本での無実の一般市民への無差別大量殺戮を推し進めた敵軍の代表的将校ルメイ。その後、あの一触即発のキューバ危機の際にも、核弾頭の引き金を先制的に引く進言を強く時の米国の大統領ケネディにせまっていたという。 広島や長崎と同じ悲劇が、双方の一般市民の犠牲を伴ってゲバラがいた小さな島国でまさにで起ころうとしていた。そんな経緯を、悠は以前ゲバラと広島を扱った本で読んだことがあった。原爆開発は研究者により当初イギリスで行われ、その後米国のロスアラモス研究所に舞台を移して共同開発された。日本人に最初にそれを使うことをルーズベルトに進言したのは、イギリスのチャーチルだった。そして次の大統領トルーマンがそれを引き継ぎ、現実に行使した。そこに人としての躊躇はなかったのだろうか。いや、むしろいずれ地獄の責め苦を自ら負わねばならぬことへの自覚と恐怖は・・。

 

  運命の歯車が狂うと、何らかの少数の狂人的扇動が様々なシナリオを準備し、まるで政治的駆け引きから遠く離れた無実の一般市民の生命と素朴な家族の幸せを、一瞬にして堂々と奪うことが正当化されてしまう。 憎悪を意図的に最大限まで練り上げることで、この世の”悪夢”の引き金を引く・・。

 その構図は、あの悲劇から何十年も経た今日でも変わっていない。むしろ戦略的により先鋭化されて、我々に知らされない世界のどこかで局地的に常に何ものかにより紛争が生み出され、小型核による殺戮や人権の侵害がいまだに引き続き起こされている。 悠は、取材で戦地を訪れるたび、また此処(ここ)でもか・・、としばし思う。 悠の母親の被ばくによる長い苦しみは、今のより進んだ核戦略のための最初の人を使った実験によるものなのだと悠は思った。

 

 広島の人為的惨劇にあきたらず、数日後長崎までも 7万数千人もの婦女子を含む無実の一般市民が、あの浦上天主堂の近くの上空500メートルで、B29から落とされた一発の核爆弾の炸裂により、熱線と爆風の破壊の中で、悶え苦しみ死んでいったという。幸か不幸かその後の”黒い雨”が、火炎地獄の熱を冷まし命を取り留めた者たちも、その後の生き地獄のような苦しみが待ちうけていた。 悠の愛するチェ・ゲバラは、虐げられた者を底辺から見つめることのできる澄んだあの目で、短い広島の滞在の数時間に、地獄絵のすべてを脳裏に想い描いて、涙していたのだろう・・。

 

 悠は、人はそこまで残酷になれるものなのかと、母を見ながら思春期にずっと苦しみ悩んできた。 そんな時いつも、いつか幼い頃母親に手を引かれながら見た長崎の”朽ちたマリア像”が思い浮かんだ。 叶わなかったが、あの日ゲバラは、その足で長崎を訪ねることを望んでいたという。

 

 戦いへの敵方の抵抗の士気を奪うためには、大量の殺戮や生活基盤の消尽による市民の恐怖を植え付けねばばらない。 そうやって内部からの揺さぶりをかける。そうしなければ、戦いが長引き、自らの側の犠牲が増え、世論はそれを許さない。従って、何らかのプロパガンダで憎悪が拡大され、核による効率的な大量殺戮も許されることになる・・。 現在の戦略論でいうところの、’ショック・ドクトリン’ の走りである。 そんな詭弁と悪魔の論理が少数の為政者と軍人の間で、あの頃展開されていた。 長崎の次の目標は・・、いくつもの日本の都市の’日本人’が候補に挙げられていたという。片や、日本の軍指導部は、国民にはその壊滅的な破壊力の詳細については口を閉ざしたという・・。

 

  敵味方に分かれた双方の同じ”しもべ”が耳をそばだてると、地獄の魔の頭目が、’そうせよ’と、たった一言その耳元に囁いたのだろう。 もはや希薄になった’人間’としての魂と引き換えに・・。彼岸の境界は、心の中で取り払われ、魂で交通する。

  

 人々の憎悪の拡大をあおりたてる、彼ら以外の肌の色の異なる他民族’日本人’への優生学的な偏見と蔑視、差別意識も、さらに少なからずそれに加わっていたように悠には思われた・・。

かつて、戦前日本は国際会議の場で世界に向け、’人種差別’の撤廃を訴えていた。が、イギリスをはじめとした欧米諸国の強い反対により即刻却下された。主要都市での住民を巻き込む焼夷弾による無差別爆撃、一度に飽き足らず二度までの、戦時国際法を無視した何万もの非戦闘員の婦女子の命をも一度に奪う壊滅的な原爆の投下。そして研究者による戦後の被爆地での綿密な検証と医学的調査。その非人道は、大量のものを言わぬモルモットや類人猿を使った軍事医学的な基礎研究にも匹敵するように、悠には思われた。

かつて欧米で囁かれた’黄禍論’。 あの’黄色い猿’たちが遠い自分たちの庭で跋扈(ばっこ)し、災いしている・・、とそんな声が何処かから聞こえていた。

 

 だがそれも、多かれ少なかれ、人種・民族を超えて地球上に生きるすべての人間のうちに潜む、拭いきれぬ悲しいひとの”さが”なのかもしれないと、悠は思った。 うちに潜む善と悪、それが生み出す弱く悲しい宿命から人は永遠に逃れられないのだろうかと・・。 

 それが、悠がこれまで、戦地でのジャーナリストの旅を通じて感じ取ってきた、争いの共通した構図でもあった。それだからこそ、悠は日本の古い武士道の清廉さ、そして卑怯を嫌う’恥’の文化に憧れた。そして今を生きる自分の、存在の意味を噛みしめていた。

 

  フロリデイータで会った黒服の老人が、こんな趣旨のことを言っていた。

 ” 世界は善悪の点滅する万人の心の駒で成り立っている劇場だ・・。

 だから、世にいう勧善懲悪の勝負などなく、故にそのゲームにチェックメイトもない・・”、と。

 

 さらに、悠の武術の師匠の山崎老人も、かつてこんなふうに言った。

 ・・その弱い人のさがを、背後から巧みに煽り立てて、世人には理解できぬ無明の目的を得ようとする、魂をメフィスト(悪魔の使い)に売った輩がいるのだと・・。

ただ、その劇場をこの世に浮かび上がらせるのは、おのれ自身の魂なのだとも・・。”

 

 

 

   晩 夏

 

 悠が高校の最終学年の時、母親は幾度か入院して、無菌室で過ごした。 強い薬の副症状で母は、あの美しい黒い髪が抜け落ち、顔は白く小さくなった。夫の選んだ可愛い毛糸の頭巾を被っていた。 ベッドで幼子をあやすように、寄り添う悠の頭をそっと無言で微笑んで撫でていた。 父親が東ヨーロッパの赴任先から休暇を取っては帰国し、3人で過ごした。久しぶりに濃縮された言葉少ない家族の幸福だった。病室を出ると、椅子に座る父親が首をうなだれ、涙顔になっていた。

 でも、・・最期の日には、後ろ髪を引かれる想いでいったん赴任地に戻った父親も、帰国が間に合わず、妻の死に目に会えなかった。 一人とぼとぼと遅れて妻の亡骸の安置された信州の自宅にたどり着いた父親は、やつれ果ててはいたがもう悠の前では涙を見せなかった。かつて病弱な妻の為、八ヶ岳の見えるこの場所に小さな家を建てた。苦しみの失せた白い穏やかな由紀の、その首筋には、小さな銀のメダイが掛けてあった。39年の短い人生であった。 母はいつも夫の徹のことを愛し、悠に自慢にしていた。きっと、そんなふたりの深い愛の中で、幼かった頃の自分は幸せに包まれて過ごしたんだろうと思った。

 母親にとってのあの最後の夏の日、悠の前でこんなことを言った。

 

 ” 世の中にはね、どこまでも、虐げられた人に成り代わって自分を苦しめつづける人と、 自分のためにどこまで自分以外の人を蔑すみ虐げても苦しみを感じない人がいるの・・。

 わたしは、病気の苦しみ以上に心の苦しみを、前者の清らかな魂に勇気づけられ救われたわ。 彼らは、天に選ばれた人たち。 だから、私はもう何も怖くなくなったのよ、悠・・。

 

 長崎の思い出の教会の、朽ちたマリア様。

そして自分を盾にしてその命と引き換えに幼い私をかばってくださったあの方・・。

あなたの名は、そのご家族のひとり、’Yu Mariani’からいただいたのよ、悠・・。

それに、ヨーロッパの異邦の地で、澄んだ目で遠く理想を見つめていた、赤い十字架の肖像の革命家・・。 若い日、パリで私たちを助けてくださった見知らぬ異邦人の紳士・・。

 そして、最後に、誰よりも優しい、・・あなたのお父さん。

 

 皆、世界の底のすべての苦しみを、黙って自らの身に引き受けようとしていた。

眩いばかりの愛の光を放ちながら・・。

生きているって、そんな美しい魂の同朋に守られているという幸せがあるのよ・・。

悠も、・・虐げられた弱い人のために、やさしくできる人になりなさい。”

 


 
 悠は、ほんの少し前まで母親と同じ名の病の床に伏せていた自分の恋人を、一緒にこのカリブの国に連れてきてやりたかった。そして愛する母親をも・・。 何かを黙示するかのように、熱くて大切なものが、次々と不思議な縁を結びながら悠の前を過ぎ去っていった。

運命の悪戯・・、時のすれ違いで、全てが悠の前で、むなしく終わってしまっていた。
悠は、辛い記憶の淵に今再び浸ろうとしていた・・

” ポブレシート(気の毒な)、ユウ。 ”

 遠く波の間を目を赤くして見つめる悠を、何も聞かずマリアはそっと抱きしめた。