亮 アリゾナ
・・高柳 亮は、モスグリーンの愛車のポルシェを一人走らせていた。
陽炎に揺らぎながら、どこまでもまっすぐに目の前に伸びるルート66。まるで変化のない情景のまま数時間、唸るようなエンジン音に身を委ねていた。
小ぶりな車ながら重い安定感の走行、ふと眩暈を覚え亮は黒のレザーハンドルの脇のサングラスを片手に取ると、髪を掻き分け小麦色に日焼けした額にかけた。
この大陸に来てからの10数年の日々を、レザーの匂いのまう車中で思い起こしていた。
窓の外は見渡す限りのアリゾナの赤い砂漠、そして空は様々な亮の回想を映し出すターコイス・ブルーの雄大なスクリーンだった。
車の進行方向、視界のかなたで小さく稲光がするのにふと我に返る。1,2,3,・・。
5秒ほどして頭上で雷鳴がとどろいた。・・いや、まだ遠い。
だが、あのかすかな暗雲が嵐の予兆となり、やがてその中にこの車もろとも突入することになるのだろう・・。周辺には砂と陽炎以外は何もなく、あの雷雲が頭上から襲ってきても、どこにも逃げ場など無い。爽やかな空のブルーが、徐々に端から墨を流したように暗転していく。
・・始めて大陸に降り立った日の、あの若い自分の姿が懐かしく思い出される。
どうやら肝試しをしながら、ただそのまま一人嵐の下、豪雨をかき分け車を突っ走らせる他ないようだった。 その遥か先には、長老’ホワイトイーグル’の待つ赤い渓谷がある。長い悪路の旅路の果てにたどり着いた大いなる安らぎであり、叡知の場であった。さらに、その先には、遠くマヤの神々の眠る中米の大地が続く。
亮は近づいてくる暗雲の下で、妻の玲と二人、ロサンジェルスに降り立った日の回想に耽っていた。そして、さらに、イギリス、アメリカ東海岸での学生時代、そして東京・・。
玲との初めての出会いは、私立中学入学で瀬戸内の故郷から上京した折の、父の旧友 山崎竜之介の屋敷だった。亮は、6年間の多感な思春期を、山崎の書生としてその家で過ごすことになる。娘の玲は、妹のようにいつも亮の傍にいた。ふたりは一緒にその思春期のさなかを成長していった。
そして、さらにさかのぼって、幼い頃の母との故郷での二人きりの日々。ほんのりと暖かな、でも、鮮明な中にも所々、その記憶は途切れている。
目の前に不穏な風が砂を巻き上げ駆け抜けていく。数10キロ先でまた、鍵型の稲妻が大地を突き刺す。そして2秒ほどして天地を揺るがすような音がとどろいた。
・・何故か、父親の高栁 良蔵の姿は、その幼い記憶の淵のどこにも残っていない・・。
事業と称して、まるで出奔するようにして母と自分のいる故郷を離れ、ひとり大陸を住処とする良蔵が理解できないでいた。
郷里の広い屋敷。寒々とした自室で一人すすり泣く若い母の声に、幼いながら父親を恨むことも多々あった。いまこの広い砂漠の中で、亮は心を研ぎすましてみた。むかし師の山崎竜之介から教わった瞑想法だった。
・・疲れ果てた若い良蔵の姿が、遠く砂塵の渦巻く彼方に見えている。ふと、亮の走らせる車の外でぽつぽつと雨粒が落ち始めた。すると暗い雨雲の塊の中に、若き日の母親 彩だろうか、その面影を残す美しい女性の姿が見えている。
”・・いいえ、私は十分に幸せでした。 この同じ幸せを、どうかほかの人にもさしあげてください。
貴方をずっと、見守っています。 いつかどこかで、きっとお会いできる日まで・・。”
そんな声が天から聞こえてくる。
見ると、恵みの雨を頬に受け、良蔵は苦し気に涙をうかべている・・。
そんな父親のありのままの姿を、もはや亮には、恨めるはずもなかった。
何かの小さな運命の必然を、心の中で亮は得心した気がしていた。
謎の多かった父 良蔵と同じ道を、やはり亮もいま歩み始めようとしている。
・・血は争えぬものなのかもしれない。