EMINA  時を越えた4つの絵物語  美奈 Ⅱ  Dejavu

                                                                        
                             
 

   


 男の奥深くに微かな銀色の琴線を探り女は白き指にて爪弾く
空白の記憶の波間に 熱海の嵐のうねりが注ぎ
怒涛の如く飛散し 虹色に散る
幻にたゆたう愛の調べは ひととき
青銅の騎士を 果てのない憎しみから解き放つ
血と哀しみの 鎧の下の孤独な傷の勲章
 

 

 

  デジャビュ   
 
 尾崎 美奈 23歳。 龍崎 悠が始めて彼女に出会ったのは、
都内の或るジャズのライブハウスだった。恵比寿の
悠がいつも原稿を届ける出版社の社屋の裏手にあった。
ツタの絡まる煉瓦造りの古い洋館風の店が
緑の多い公園の前にひっそりと佇(たたず)んでいた。

 
  東欧のある古い大学街で、悠は若い頃を過ごしたことがあった。
街外れの森に入る道筋に、今は廃屋になり、苔むしてツタにすっかり覆われた古びたレンガ造りのホテルが一軒ぽつんとあった。 消えかかった文字で、Hotel ’ROND’
当時悠は、そこを通りかかると不思議な既視感に誘われたものだった。ほんのりと命の通った温かな窓明かりが漏れでているようで、今はセピア色になった切なくて美しい、かつてそこで過ごした人々の大切な物語を語りかけてくる。
昔から何一つ変わらず、静かに柱時計が時の音を刻み続ける。 愛すべき人々の語らいを振り返るかのように・・。

  悠は、恵比寿の煉瓦造りのこの店の前に立つと、若い日、異国の街道に確かにあったその小さなホテルを重ね見ていた。 そしてそこにはやはり、幻のように今は消え去った、あの日悠の愛する人がいたはずだった・・。 その名は、確か Emina ・・。

  ビル・エバンズの落ち着いたピアノの音が
オレンジ色の暖かい灯と一緒に窓から漏れ出ている。ふと夢から目覚める。
悠はここのマスターの気取らない心やすさがよくて、
煙草を吸い、原稿を眺めて、半日も片隅の席で過ごすことがあった。
  
  暑い夏の昼下がり、海外から久しぶりに日本に戻った悠は、ベージュの麻のジャケットを腕に掛けて、精悍に日焼けした顔でいつもの様にオレンジの灯の漏れる店に入った。黒い髪には銀色の筋が所々混じっていた。悠は東京にいても異邦人のような落ち着きの無さを覚えていた。 四十も近づき、その男の表情には、ある種諦念の暗い影がしみつき、いっぱしのボヘミアンを名乗っても今はもう恥かしくは無かった。

 跡形も無い、果てしなき旅の彼方、人知れずただ一人の男の真実の時間が過ぎ去ろうとしていた・・。

 入口の黒塗りの木戸には、どこか南洋の綺麗なピンクの貝殻の装飾が掛けてある。その涼しげな音色を放つドアをくぐり、マスターの笑顔に迎えられると、久しぶりに悠はほっとした。

"いらっしゃい。"  少しかすれた若い女の声。
初めてみる美しい笑顔だった。
アルバイトらしい。優しく微笑みかけた女の
その彫りの深い顔の瞳の奥に、悠はどこか懐かしいものを感じていた。
端正で気品ある日本の女性らしい顔立ちである。

  翳りのあるその表情には、危険で脆いどこか官能的な趣すら感じられ、透き通る白磁の陶片の様に危うげな艶やかさを漂わせている。
悠は澄んだ女の茶の瞳の奥深くに、ほんの二十代の頃、放浪先の東欧か中米で見た少女の消え入りそうに悲しい瞳の輝きを重ね見ていた・・。時を越えて重なり合う、蒼い棘をもつ紅い薔薇の、あの芳醇な香り・・。香りは辛い記憶を一瞬に、鮮明なまでに立体像へと結晶化させる・・。
 
  映像は突如フラッシュバックのように時空を超えて襲ってくる。
こんな鮮明なデジャ・ビュの経験は久しぶりだった。
悠は女の顔にじっと見入ったまま、その微笑の奥にある
深い憂いの匂いを、さび付いた記憶のガラクタの中に求めていた。

 あの頃は俺も若かった・・。 とんだ怪物を相手にして、世間知らずの蒼い正義感で、ドンキホーテよろしく果敢に驢馬のロシナンテの背に乗って、ひとり巨悪に立ち向かっているつもりでいた。襤褸布(ぼろぞうきん)の様に無様(ぶざま)な

今の自分の風体からは、お笑いぐさだが・・。

 無鉄砲さは若者の特権である・・、と誰かが言っていた。
当時の若い自分は、無邪気にそこに浸りきれていたような気がする。
いつの間にか歳ばかり重ねてきてしまった。
筋骨の衰えた老騎士が、蒼い大儀を掲げ、奇声を発し
・・戦火の野山を走り回る図は、どう見ても絵になりそうもない。

まさに、キホーテの物語の、’悲劇’たるゆえんである。彼は’あえて’それを演じて見せた。
あのころの自分の蒼い純粋さが、今の悠にはむしろ愛おしく、懐かしくもあった。

あの日、思い焦がれる人を通し、かすかな生の刻印をひとつまたひとつと植え付けられてきたように思う。

どう乞い願っても、必死に受け止めようとするわが腕をすり抜ける様に、悠の前から早逝していったあのキホーテの’想い姫’たちであった。それから悠は孤独な、儚い世捨て人のような人生のなかで、天の’想い姫’たちに静かな誓いをたてていた。

 

 陽に焼けた悠の頬を撫でるように何処からともなく流れ込む片隅の席の隙間風が無性に淋しい。背後にはマイルス・デイビスの曲 ‘ My Old Flame’ が流れていた。
 ジャズの名盤は不思議なものである。何度も聴き返すうち演奏者の魂の息吹が聴く者の琴線に深く触れてくる。 時を超え、温もりのあるその調べは、今の悠の孤独な感性に共鳴し、数え切れぬ傷痕をそっと記憶の淵に浮かべ、そして癒してくれているようだった。 


 痛み疲れた背筋に、いつかの通りすがりの女の温かな吐息がそっと一筋こぼれ落ちるような、そんな中途半端な心地よさに、悠は一人酔っていた。 現実世界でない、いつか何処かで、ともに過ごしたはずの ほのかな愛しく切ないデジャビュの印象だった。 

揺らめく熱い炎の様に、心焦がす遠き日々の記憶・・。
 
 今にして想う・・、我が過ぎ去りし 時の香り・・。

 悠は日焼けした腕に浮き出た幾筋かの古傷をもう片方の指でなぞってみる。

遠き昔に残してきた男の身を賭した戦いの炎の翳・・。その鍛えた小麦色の腕も、愛する大切なものを最後まで繋ぎとめておくことは出来なかった。そのたびに又一筋、忘れがたき灰色の傷跡が男のその腕には刻まれていった・・。

 

 

 

ワーキン(SHM-CD)

 

 

                                   

 

 

 

 


  

  風のいぶき


 悠が旅先での護身術代わりに、学生時代こっそり始めた
日本の伝統武術は、途中で途切れることもなく
その修行はもう二十数年にも及ぼうとしていた。
 まだまだ未熟だった。身を切るような孤独な緊迫感の中に
自己を追いやることで、一筋の霊的直感を生死を超越した所でうる
事をその本来の武術修行の旨としていた。 ひとり山に入り、悠は、風に溶け、樹木となり、そして霊気と化した透明な自己と対峙した。

  実を捕らえ虚に入ること無風の音の如し・・。
 
 現実の世界の自分と、霊気の中に生きるもうひとつの自分・・。今という現実を、心に生きる時空を超えるもうひとつの世界の自分が静かに眺めることで、この世という仮の姿形を留めたまま、そこに存在することの意義を知ることができる・・。
 ちょうど、過去に起きた出来事の数々が、今になってどれ一つとして無駄のない、自分にとっての大切な意味の鎖として今を生きる自分に繋がっていくように・・。

 物理学に多世界解釈と言う考え方がある。
数限りない無数の可能な世界のうちの一つに、自己の意識をフィルターにして、今現在
こうして自分自身が存在するというものだ。
別の世界には、別の自分が、別のやり方で別の可能性を生きている。

 自己の存在の可能性は、過去にも未来にも無限に広がっていく。
ただ、悠は長年の孤独な修行の中から、そして過去の全ての縁ある不思議な出会いの中から、ひとつの確信をえていた。
 どんな可能性も、たった一つの自己の”意識”を通じて
時空間を越え、今ここに呼び寄せることが出来る。
そのために過去の出来事と縁が準備されてきた。
過去は今の為、今は過去を知る為に用意され、
自己の霊的感性の高まりに呼応するかのように、
今もなお、より熟成した次の縁を呼び寄せ、花開かせている。

だから、花はより多様な芳しさで、なおも人を惹きつけ続ける。

 今ここに展開している現象への想いが、過去の縁を作り未来の縁を導いているんだと。

一つの世界の中で意識は多くの世界を同時に共有することが可能なんだと・・、

悠はよくそんな風に想った。

 自己のこころを軸にした”絶対現在”の時の流れの中で、悠には過去と未来が融通無碍につながっていた。 悠の今のこの孤独は、その不思議な時の縁を招く為には、いつの”今”にも必要とされているものかもしれなかった・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                  



  悠にとり武道とは、大いなる自然が教えを授けてくれる為の云わば"花”であった。
その花の形に自然は共感し、新たな花の芳しさ、美しさを目の前に漂わせてくれる。
それがまた、より深い自然の美の造形への悠自身の内での直感となり、洞察となった。

花は、悠の内面の変化を映し出し、様々な彩(いろどり)を悠の前に放っていた。 

 大自然は、一つ一つの生きたその小さな姿の中に、愛おしく、また時として辛く哀しい、生きていくことの普遍の真理をそっとひとに教えてくれていた。

 痛み疲れた旅の途上、ふと目をとらえる、精一杯咲き誇ろうとするその愛らしい姿は、果てのない人生をさすらう者に、明日へのささやかな希望を与えてくれる。そして、美への感動と真理への洞察を与えたのち、静かに散り去っていく。

 風のそよぎの中で、悠は無となり微細な風の呼吸となり、
夜の月明りの中で、透明な翳となり大地の静寂に溶け込んだ。
澄み切った月の怜悧な光の下、永遠に消えることの無い悠の心の翳が

湖氷の青い鏡に映し出されているようだった。
 

 悠は深山幽谷にたった一人で瞑想し、風のそよぎに耳を傾け、己の技を練った。

永遠に変わることも無い、そして一瞬たりとも留まることの無い自然の営みのなかに、

小さく浮かび、流されるようにして、大いなる宇宙の創造主の掌の中で

悠は何かの響きを聴き取ったように感じた・・。

 無となした相手に対峙する己れを、同じく無として相互の実を抜けきるという、

いにしえの無住心剣の“相抜け”の秘技・・。生死を超克した構えのない構えであった。
悠は、武術の理想は、宇宙の真の像を、自己と相手の枠を超えて瞬時に双方のこころに反映するこの‘相抜け’にあると知った。 師の山崎 竜之介から受けた教えであった。

 

 今から遡ること二十数年、若き日の悠はこの武術家の老人と出会うことになる。

 その白髪の老人の武技は不思議で、対峙した瞬間にもはや敵ではなくなっている。
たとえ悠が若さで挑みかかっても、その老人の言わば完成された大らかさに、肉体が当たった感触すら無いまま虚空に吸収されるように投げ出されている。

 気がつくと傷一つ作ることも無く、でも身動きすらできない形で老人の下で地に伏せられていた。

 しかし伏せられた自分は、何の屈辱感も覚えることもなく、むしろ宇宙の大いなる何ものかを老人の動きを通して垣間見たような不思議な至福感に満たされ、喜びすらこみ上げてくる。
 神技だ、見事だと・・。 

 

 まるで錆びついた流浪者のような悠の今の人生も、その若い頃を起点とする武術修行に並行するようにして、数々の人との出会いと別れの中で少しずつ熟成し、歳を重ねてきていた。

 

 

 

                   

 

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      回 想

                                                                                  
                                                                                                                                                                                   

    

  

 ライブハウスの中は薄暗かった。窓から差し込む光が、タバコの青い煙を通して男のシルエットをいぶし銀のように浮かび上がらせていた。足を組み、角ばった小麦色の指で燃えかけの煙草を挟み、もう一方の手には数枚のモノクロの写真を挟み持っている。首を微かに傾け、写真に見入る男の瞳は外の光を吸うようにして孤高に、情熱的に、ブラウンにひっそりと輝いていた。

 白い陶器の灰皿の横には、ラクダの絵柄の煙草の空箱が無造作に潰してある。

旅ですり切れた茶の革表紙に覆われたトラベラーズノートに、モンブランの緑の万年筆と数枚の写真がバンドで挟んであった。 傍には、コリブリのオイルライター。

そしてブルーブラックのインクの力強い筆致で何かを書き綴った原稿用紙の束が傍らにある。


 悠は煙草の煙に目を細め、ふと自分の前にたたずむ女の姿に気づいた。まるで自分の淋しい夢の中で度々出会う人のように思えた。視線を見覚えのある女の棲んだ瞳の、その奥深くに暫く注いでみた。 悠には、目の前の女が他人でない気がしていた。

背景から、ブラジルの女性歌手の淑やかな曲が流れていた。悠には、どこか聞き覚えのある響きであった。

 

  ”どうぞ・・。” 女は氷の入ったモヒートのグラスを悠の前に置いた。

 

 

 

 

 

 

Esta Chama Que Nao Vai Passar

 

 

 

 

 

 

    美 奈

 一瞬、女は茫然と、悠の瞳の中に、同じ夢幻の世界を覗き見ていた。
ずっと見失っていた大切なものに再び出会ったかのような、愛しさに我を忘れた。

頬を紅く染め、小さく会釈すると逃げるように男の前から離れた。

何かの熱帯の蘭の花香をほのかに残し、流れるような細く綺麗な脚のラインだった。


 誰にも知られるはずの無い心の奥底の闇に、すっと何処かから懐かしい一筋の光が注ぎ込む、そんな思いがしていた。 ふと注がれた視線の温もりの中に、まだ美奈の知らぬその男の、大人の嘘のない優しさを感じ取っていた。

 美奈は商社マンの父親 孝之と二人っきりで、幼い頃から
ラテンアメリカを転々とした。行く先々で出会う、
貧しい身なりをした親も誰だか分からない子供達の、飢えた、でも穢れの
無い澄んだその瞳に美奈はいつも魅かれていた。
母方の資産家の一族の子供達には無い、透き通った
素直で曇りの無い目だった。 美奈の母親はブラジルでも有数の
地元資産家の娘だった。

祖父は、代々白人系で大農園を営み、祖母はインデイオだった。

大きなプロジェクトを進める日本人の父に
地元の名士とのパーテイーで紹介され、恋愛して結ばれた。
しかし、美奈を生み、やがて美奈が小学校に上がる頃にはメステイソ(混血)のその母親Mairaは亡くなっていた。 それから父娘二人はブラジルを後にした。
 

 美奈は日本人離れした美しい容姿と、外国人には無い、
そして今の若者にも失われてしまった、かつての日本女性の繊細な感性
に恵まれた。何故か彼女は何処の国に行っても他とは違っていた。
特に父親の母国日本では、好奇の目で見られることが多かった。

 "美奈、お疲れさま。・・今日は本業の方だったね。
もうあがっていいよ。気をつけてね。"

 "ええ。 ありがとう、マスター。"

マスターの声に、女はさわやかな笑顔で会釈して店を出て行った。


 "あの子・・、いつから?" 
悠は女の後姿を最後にそっと見やると、尋ねた。

 ” 最近だよ。
ユウちゃんも、・・惚れたかい?
あの綺麗な顔立ちは日本人だけど、実は南の情熱の大陸とのハーフさ。
近頃の女の子には珍しい賢く気の利くいい子だよ。
男は皆、彼女を見ている・・。
でも、何かを知り尽くした穢れ無き女の気高さがあって、
男の軽い邪心はいつも見事に打ち砕かれる。 
・・日本の男は情けないね。 ”

 マスターは、そういうと笑った。 久しぶりの悠の前でも、いつもの調子だった。

ただ、ボヘミアンのように流浪する国籍不明のこの男には無縁な話のようだった。

目の前の日焼けした腕に微かに浮き出た古傷は、悠にとり一種の’ジンクス’だった。

少し気が引けた。 もう充分だ・・、とも思った。 背後から先ほどの女性の歌が流れていた。

”ああ、・・この歌手ね、Maysa(マイ―ザ)といってね、あの子が持ってきたレコードだよ。”



 悠は氷だけになったモヒートのグラスをコースターの上に置いた。

飲代の札をその下に挟むと、腕を軽く上げて会釈し、席を立つ。
マスターがそれに無言で軽くウィンクする。

 ドアを開けるとまとわりつくような熱気が悠を包んだ。 

西の空には、月が微かにオレンジに煙って揺れている。
悠は一瞬、眩暈を覚え、遠くに何か見覚えのある奇妙な映像がよぎる気がした。
街はもう陽が降りて、淀んだ都会の夜の匂いがあたりを漂い始めていた・・。

 

 

                                             

 

 

 

 

MONTBLANC モンブラン Meisterstueck platinum-coated 149万年筆114229

 

 

 

Colibri 1927 ライター コリブリ