霧の大連にて 竜之介

 

 

 

                   



 約束の時刻に間に合うよう、山崎は30分前にはここスイシュホテルの窓際の二人用のテーブルにつき、今はぼんやりと雨に煙る街の風景を眺めていた。9月の始めなのに半袖のワイシャツでは肌寒い。傍らの椅子にかけてあったベージュの麻のブレザーに腕を伸ばした。

年齢を感じさせない浅黒い筋肉質の腕の柔らかで機敏な動きである。その道に心得があれば、いやそんな狭い世界に生きていればこそ、すぐに何かピンとくるものがあるのかもしれない。だがそういう者は山崎の周囲にはいないようだった。

 老齢のロシア人夫婦と、東欧風の若い二人連れの宿泊客が、ゆっくりした会話の合間にフォークの音を遠慮がちに響かせている。でも、山崎のもの静かでどこか洗練された仕草とは、少し異なっていた。  山崎はコーヒーカップを手にとった。 上品な厚手の白い器の温もりが今の季節、冷えた掌には心地よかった。

 

  あれからどれだけ時が流れたのだろう。街も人もすっかり変わってしまった。
 ただ、この窓の外に広がる薄煙のような繊細な霧雨の光景と、逆に無骨ともいえる力強い土混じりの大陸の空気の匂いは、昔と同じままだ。

 心なしか季節でもないのにアカシアの花の香りが、何処からとも無くその霧雨に乗って漂ってくる気がする。

その香りは忘れかけていたまだ若かった頃の、往年の記憶を蘇えらせてくれる。


  “竜之介、待たせたな。”

約束の10時を15分ほど回った頃、細身のウェイトレスの心地よい中国語に案内され、白い顎鬚を湛えた一人の老人が、霧の街を背景に、窓に映る山崎の姿に向かって低い声で呼びかけた。

 “・・どうした、いっぱしの武人がそんな寂しげな心の内を外に曝け出すものじゃないぞ。

 ハハッ・・。まあいいだろう。ここはおまえの故里だ、

 ’遠方より朋(とも)来たる・・又楽しからずや

 人知らずして怒らず・・また君子ならずや’
 そうして、いにしえの亡国の情に浸るのも一興だろう。
 どうだ、・・元気でやってるのか。 ”


 山崎は、顎髭の老人のほうを振り返り、少し照れて見せた。
  

 “良造か・・、しばらく。
 ご挨拶だな。こちらは見たとおりの老いぼれさ。
 いつも間の悪い奴だ。 昔から、おまえは俺のぼさっとした横ズラを狙うようにして体よく入り込んでくる。 俺の兵法でもそのお前の抜け目なさにはかなうまい・・。
 そのなりと色艶(いろつや)では、どうやら当地での羽振りも悪くなさそうだな・・。”

 山崎は、やりかえした。

“ ハッハッハ。そうでもないさ。
最近は、知っての通り、権力構造が入れ替わって、色々と政府筋もうるさくてな。
あの頃のように、何でもかんでもこともうまくは運ばない。”


 ”だがな、竜之介・・、

 この国の奴らは荒削りだが、組織と人脈さえ時をかけて固めていけば、世界中どこに居ようが、必ず頼りになる奴が何処からとも無く現れでてくれる。  

 長い人生を通して、互いにそれなりの犠牲を払い、あげく義で強く結びつき、血を分けた‘好漢‘どうしとしてな・・。 お前も知っての通り、梁山泊(りょうざんぱく)での血の誓いは、生涯続くのさ。

 あの水滸伝の英傑どもは、この大陸のどこかに、いや世界中どこででも、今も身を隠して、いつでも命を張って呼び出されるのを待っている。 熱く濃厚な陰の盟友どうしとしてな。
 いうならば、古き良き時代の日本の侠客(きょうかく)の仁義のようなもんさ・・。”

 顎髭の老人は、腕に微かに浮かぶ青い刺青を見て、そっと撫でると続けた。

 

”・・侠客といえば、むかしそんな腹の座ったやくざもんがひとりいたなあ。 奴には一本取られたよ・・。それに、俺とお前を見事な策略で大陸に送り込んだあの七高の湯浅・・。 教授の頭に降り注いだ”臭か霧雨”の寮雨からすべてが始まった・・。

奴の策にすっかりはまり、艶(えん)なるフランス文学の教養はともかくも、その艶(つや)っぽさにたまらなくなり二人て花街へと繰り出したな。確か、湯浅に与えられた翻訳課題は、アポリネールの作品だったかな。無鉄砲なあの頃が懐かしい。振り返ると恥ずかしい限りだが、あの頃はほかに何も失うものもなかった。・・若気の、至りでな。 もう遠い昔の話だが・・。”

 

 白い顎鬚のこの老人高柳良蔵は、髭の口を少しすぼめるとパイプの煙をおもむろに宙にくゆらせた。

一瞬、寂し気な表情で何かを振り返るようにして黙していた。竜之介は、すぐにそれと気づいた。 が、何も言わずにそっとしておいた。 やがて良蔵は気を取り直し、椅子から少し身を起すと続けた。

 

  ” ・・昔、お前と走り周った頃の、あの満州の大地に跋扈した馬賊達の信頼関係のような血による結束が、何故かこの混沌とした社会の中で、自分の信じたシンジケートの中には今も確実に生きている。

 だから、俺も命を張って、彼らの為に尽くせたし、大筋において彼らも俺を裏切る理由は無かった。

 ここでは裏も表も無い、まさに渾然一体となった大きな流れが、まるで自分の身体の一部のようになって、自分を生かす熱い血脈となっている。
 それが表が赤かろうが黒かろうが問題ではないのさ・・。善悪も、歴史や社会では人の前には相対的なものだ。 緻密で堅牢そうなこの世の楼閣も、所詮人の欲望が作り上げたものだ。いつかは壊される日が来る。 だがいつも人間は、そんな蜃気楼のような哀れな夢を抱き続けるのさ。 それがこの国の歴史であり、この世の人のさがでもあろう。


 ナイーブな日本人の道義感では理解に苦しむところであろうがな。

信義に生きる者の冷めた信条とはそんなものさ。これもお前と同じ、’仏の道’の上に被さる’墨子’を気取った世の仮の姿だが・・。しかし長くなるといささか心地よい。
一端その味を覚えたものにしてみれば、恐らくもう抜け出すことはできまい。

’人知らずして怒らず また君子ならずや’ 世俗にいて、世俗を超越する道に生きる。

これまでのお前と俺の人生のようにな。巷間の人にはおおよそ理解はできぬだろう。

どれもこれも、あの半世紀も前の造士館旧制七高の恩師、いや’策士’ 湯浅のおかげじゃ・・。 ”

 そういうと、高柳は山崎に微笑み、顎鬚をなでながら椅子にゆっくりともたれかかった。でも、すぐにまたどこか哀切な空気を拭いきれず、ひとり窓の外の霧に煙る樹木を眺めてみた。

朋友 山崎の前だからこそ、無防備にそんな表情を顔に出して甘えられた。決して普段は人前でそんな心の隙間を見せることはなかった。

 失われたいにしえの日々へのほろ苦い感傷でもあった。 山崎は、思わず口火を切ってみた。

・・もう時効だろう。

 

” あれは、 亜紀というおなごじゃったな・・。年の頃、十八、九か。

それを妹代わりに可愛がっていた涼子も、あれから数年して結核に侵されて血を吐いて死んだそうじゃ・・・。 俺は、帝大進学で帰国して、京都で三年上に進級していたあの七高・国士寮時代の先輩からそれを聞いて知った。 おぬしとは暫く会えなかったからな・・・。

ひとり、涼子の四国の貧しい実家に墓参りをしてきたよ・・。

あの、亜紀の時のようにな。

 

湯浅が、あの日、こんなセリフを吐いておったな。

’濁世に咲いた可憐な白き蓮の花’だったと・・。

その湯浅も、それから何年もして、

生徒を連れ長崎に行った折、原爆におうて死んだ・・。

誰もかも居なくなってしもうて、まるで夢の様じゃ・・。”

 

”そうか・・。” 良蔵は一言そう答えると、頭をうなだれた。

 そして、黒光りする愛用の樫のパイプに黙ってライターの火をつけ、一服煙をくゆらせた。パイプを取った手が少し震えていた。そして片手をあげ、慣れた中国語で先ほどの若いウェイトレスを呼ぶと、コニャックをもう一杯注文した。
 

 この地域では格式の高いスイス・ホテルでも、良蔵は従業員に知らぬ者の無い常連のようであった。政府関係や、軍の要人、海外からの現地法人との間に今はしっかりと根をおろし、うまく潤滑油の働きをしながら、派閥間の軋轢の調整も怠ることなく、自らのシンジケートの網の目をより強固にしてきているようだった。 あの純粋さ以外、何もなかった頃の良蔵が思い出された。

 いまは、何処となく精一杯見栄を張った様子で、磨き上げた黒塗りのベンツの愛用車を走らせながら、今もテリトリーの東北地域を駆け回り、高齢をものともせず多忙な日々を過ごしているのであろう。 でも、竜之介には目の前の本当の良蔵は、あの日と同じだった。息子の亮の純真さは、やはり親譲りだった。そう思うと山崎はそっと微笑んだ。

 良蔵と竜之介のふたりには、老齢となった今日に至るまで、例え家族であっても明かせぬ’顔’があった。ふたりの属する組織は異なっていたが、目指すところのものは同じであり、互いに遠く離れていてもそれぞれつかず離れずに連携を保っていた。今の良蔵の実業家として根を張った大陸でのフィクサーとしての顔は、仮の姿だった。そのため、自分から妻子は遠ざけておかねばならなかった。良蔵の中には、いつでも自ら信じる’義’のためには死ねる覚悟があった。あの若き日の’ノブリス・オブリージュ’・・和の武士道の誉(ほまれ)でもあった。

 

 良造は、パイプをふかし、竜之介を見ると少し身を乗り出して話をつづけた。

 

 

 “先週、アメリカの西海岸に行って来たよ。
 玲さんは良くやってくれているようだ。
 こんな一癖も二癖もある頑固者の老いぼれにも優しくしてくれる。
まるで、空気のように痒いところに手が届く。
息子には出来過ぎた賢くて優しい嫁だ。
内からかもし出される美しさに、ますます磨きがかかっておる。


 生粋の日本女性のように、古き大和撫子の芯の強さと気品、清楚さを持ちあわせてな。
あの可愛らしくて小っちゃなレ-ニャがなあ・・、男手一本で、よくあそこまで育ったものだ。”

  竜之介は、だまって窓の外の霧を見つめていた。


 高柳の子息、亮は、米国の大学を出ると、そのまま英国の名門の大学院に進み英国流のOxonのカレッジの寮生活を経て学位を取った。その後、帰国し日本のあるシンクタンクに属して国際情勢を分析し、日米欧の政財界にも多くの人脈を築いていった。しかし、その本旨は、いわゆる国際的な巨大な資本家のネットワークの利権構造の中にうまく組み込まれるのとは別のところにあった。
 本来旧藩の父親譲りの保守的な風土の元に育ったが、13歳になると東京の山崎の宅に下宿して文武両道の教えを受けながら、そこから中高一貫の有名進学校に通った。

 

 良造は山崎のほうを向くと、コニャックのグラスを傾け、続けた。


“ 亮もな、若い頃のお前に似て、日本人の古い義侠心が好きと見える。
 思春期にお前の刷り込んだ一風変わった、あの厳格な反骨教育の賜物かな。ハッハ・・。

 だが、俺たちが若い血気盛んな頃そうであった様に、いくら洗練されようと、やつの頑ななまでの純粋な心は、闇の世界の恐怖すら麻痺し尽くした俺からすると、清すぎるが故に、ふと危うさすらおぼえる。俺たちのように、何かの真理への信仰ゆえ確固たる信念があれば話は別だが・・。


 欧米の巨魁どもを相手に回して、亮はいにしえの武士道を貫き通そうとしている。奴の懐に秘めた刀というか何ものかへの堅い信念と志が、却って行く先々の国の権力者の信頼と共感を招き、あいつなりの人の輪を、地味なところから徐々に築き上げているようだがな。

 まだまだ、わしからすれば、経験に疎い青白い若造にはちがいないが・・・、

しかし、昔の時代のあの志士の熱い心意気を目の前に蘇らせたようで痛快だ。  


 まあ、何かと心配はかけても、賢く優しい玲さんの夫としてもまずまず遜色はないと思うのも、親馬鹿かな・・。”

 パイプの煙の後ろで顎鬚をなでながら、良造はハッハッハ、と笑った。

 

 少し間をおくと、山崎は少し微笑んで口を開いた。

 

 “お前がそこまで喜んでくれると、俺も安心して尻こそばゆい思いだよ。

でもな、大陸では、玲には辛い思いをさせた・・。まだ幼子だったし、一言も辛かった記憶を語ろうとしないから、もう覚えてはいないかもしれないが、生長するにつれ、人を思いやる優しい娘に育ってくれた。
老いぼれの俺が傍にいると、嫁には行きたがらなかったがな・・。

 でも、亮君のことは、俺が見込んだとおりに、あの思春期の試練を乗り越えて、今は立派に、自力で自らの道を切り開こうとしている。玲も、彼の若き書生時代の誠実な姿を兄のように慕っていたようだ。
 

 無我夢中で限られた時間の中、もがき苦しむうちに、いつの頃からか青年の胸に確固たる志が芽生え、自ずと日々の辛い勉学にも拍車がかかったようだ。書斎では夜中までこうこうと灯がともり、朝は早くから、俺自身が文武両道で叩き上げた。
可哀想に思ったことも何度もあるよ。 しかし、一端お前から預かった限りは、俺も鬼の師にならねばならぬ。おかげで、よく娘からは涙ながらにしかられたもんだ。”

 

 良造は、身を起こしてパイプの灰を灰皿に払った。

 ““そうか・・、それはすまなかったな。でもお前にはこのとおり感謝している。

母親の彩も、近頃は髪に白いものが混じり、若い頃のような元気もないが、息子に良い嫁がついてくれて、安心している様子じゃ・・。

俺もそろそろ’裏社会’の重い任から解放され、娑婆(しゃば)に出られてほっとしているところだ。・・もうこの先、身の周りに危険が及ぶこともないだろう。

 彩も、ひとりで寂しい思いをさせた。そろそろこちらに呼ぼうとも思っている。 いにしえの大陸の詩情に、これから先、ふたりで浸るのもいいじゃろう・・。 あとは、亮が志を継いでくれるだろう。”

 良蔵のその言葉に、竜之介はハッとした。でも、安堵したようにそっと微笑んだ。

 

  初めて出会った頃の若い彩は、驚くほどあの日の亜紀に似ていた。いや、自らこの世に生まれ変わり、前世での記憶を消し去ってなお、奇跡的に良蔵の目の前に戻ってきたとも思えるほどだった。

良蔵は、何十年も経て準備された天の采配というか、その運命の偶然を、黙って信じることにした。ただならぬ苦労を不憫にも、自分の妻となるこの若い女にこの先負わせることになるとしても。そんな芯の強さを良蔵は若い彩に感じ取っていた。竜之介も、初対面の彩を見て不思議な運命の出会いに驚き、何も言わず良蔵の気持ちを察している様子だった。

 彩の母親は難産の末に亡くなっていた。おなかの中の女の子もすでに息がなかった。が、産婆が息絶えた母体をあきらめ、蘇生させようとお腹の子を取り出したとき、臍の緒を首に巻いたその子は、不思議と紅く血色を蘇らせ息を吹き返した。何処かの魂が赤子の身に降りてきたようだったと、その場に立ち会った祖母は後ほど物心ついた頃の彩に、涙ながらその日の出来事を語って聞かせた。その夜、西の空には、光り輝く小さな銀色の彗星が飛んだという・・。

 彩自身、思春期となったころ、何かの淡く懐かしい情景に自身の夢の中でしばし出会うことがあった。そこには、何故か自分の知らないはずの若い良蔵の姿があった。少なくとも夢の中で出会った良蔵から注がれるそのまなざしは、自分のことをいとおしみ、かけがえなく思ってくれていた。所詮わびしく消え去る夢とは思いながらも、’愛’とはこのような心焦がすものなのかと、幾度も思春期の娘心を温めたものだった。 

 不思議な縁で良蔵と一緒になった彩は、決心していた。遠く離れていても、できうる限りそんな夢で出会った良蔵の思いに沿う人生を送り、そっと邪魔にならぬ様、良蔵を陰で見守り支えていこうと・・。そうしてふたりの間にできた息子亮を、夫の分も含め愛情を注ぎつくし大切に育て上げた。それから今日まで、日陰のようにして30数年の彩の人生の歳月が過ぎ去った。
 

 

” ・・思えば、お前と二人で大陸に渡ってから、まるで大陸浪人のように、満州の地を巡ったな。それぞれに課せられた影の使命のもとでな・・。
幾たびか、・・お前には心配をかけ、若気の至りか、組織のいざこざで死ぬ思いもして、その度にお前に助けられている。
この恩は、この世では返しきれぬほどかもしれないな・・。 でも、良かった。
今俺とお前が、こうやって顔を突き合わせて、老いぼれ同士で昔話をできることがな。 親孝行な娘と息子に恵まれた・・。”
 良造は、一瞬目頭を熱くしたように竜之介を見つめ、静かにそうささやいた。

 

”でもな、良蔵、お前の今あるのは、彩さんのおかげだよ・・。”

竜之介は一言いい添えた。

”ああ・・。”

良蔵はうなずいた。

 

’ 友の憂いに我は泣く・・。’

若い寮生時代の青い感傷が、残念ながらこんな歳になった今の自分にも、相も変わらず拭えずにいた。良蔵の前で、竜之介も目を赤くしていた。

良蔵もやっと遠い過去の幻から離れようとしているのを思い、竜之介は今ほっとしていた。

 

 

 

                       

                                   

 

   “ところでな、竜之介。
 お前のところに通っていたあの若者は今はどうしている?
一度だけ、お前の屋敷で会ったあの青年だ。・・あの頃はまだどこかの学生だった。

寂しそうな目を時々しおったが、優しくて芯のある中々の青年に見受けられた・・。
お前が弟子を取るなんていうのは、よほど相手を見込んでのことだ。

アメリカの息子の所に行った折に、空港の書店に並べてあった一冊の写真集の表紙に何故か目が惹き付けられてな・・。

ロシアか何処かの草原の小さな家を撮ったものだった。
青い格子扉を開いた人のいない窓際に、可憐な白い花が飾られている。
誰かを待ちわびるようにな・・。

 遠い昔のお前のかみさんの姿が、何十年ぶりかでふと思い出されたよ。
ああやって、窓際に花を毎朝きれいに並べて、何処かへ行ったまま帰ってこないお前のことをずっと待っていた。名は確かナターリャ・・、だったな。

 俺は黒髪で美しい瞳をしたあの娘が、・・まるで玲さんに生き写しだが、・・不憫でな。
それに、同じように若かったあの頃の無鉄砲な俺達の姿が重なって・・。
あんな古い日々の郷愁に駆られたのも何十年ぶりかじゃった・・。あの頃の大連のロシア酒場の喧騒が今も耳に響いてくる・・。そんな半世紀も昔の若い記憶に浸れるような風景だ。

 何処か、親しみというか、写真から訴えかけてくる命の温かさのようなものを感じてな、手にとって、思わず時間も忘れて見入ったよ・・。
 作者を見ると日本人の写真家だった。Yu Ryuzaki ・・。  あの 'Yu' か・・。

むかしカフカスかどこかで、ある人物を通じてそんな名を耳にしたことがあった。

’Yu Mariani・・’
だが、写真の脇の短い添え書きを読んでな、確かにこの感性は日本人のものだと合点した。


 幾多の修羅場をくぐり、底辺に身を置いて、人の本当の情念とやさしさを知らずして、この写真の中の主人公達がさりげなく眼で語りかける物語は描ききれない・・。
 著者の小さな顔写真が裏表紙にでていた。サングラスをしておったがな、その下に隠れた世の無常を見据えるような輝く目は、若い頃のお前の目とおんなじじゃったな・・。
 ハハッ、そうじゃ。・・そこで、その男が昔お前のところにいたあの寂しそうな目をした若者だったと気づいてな。 頬もこけて、いっぱしに髪も白くなり、精悍そうになっていたがな・・、奴じゃ、間違いない。確かお前がユウと呼んでいた。
サングラスの下に隠したあの男の目を見れば、おなごはほっておかんな。
ナタ-リャが若いお前にぞっこんであったようにな・・。”

“・・・。” 竜之介は、じっと窓の外にけむる霧雨の街を見ていた。

“ 俺たちの青春の情熱と挫折、そして零(こぼ)れ出る哀愁をそのまま絵にすると、あんな風な画像になるんだろうな・・。
一冊買って、息子のところに持っていったよ。玲さんが懐かしそうにしてな、優しい目で大切そうにひとつひとつ奴の写真を見ていた。
苦労しておる人間のことは、見てすぐわかるんじゃろな。涙しておったよ・・。

 俺には、もう奴のような純真さはとうの昔に失せたがな。
若い頃のお前の蒼くさい夢と情熱を、あの男は、別の形で命をかけて世に訴えかけようとしている・・。
 大義への真の共感者こそ、次の世にその真理を伝えるべくして天から選ばれた者なのだろうな。
 天命とは、彼のような男にこそ、血反吐を吐くような苦難を課して与えられているものなんじゃろう・・。 
してみると、無骨者のお前にしては、その弟子たちは皆一人前になって、立派に巣立っているといえそうだな・・。”
竜之介はその言葉に、軽くうなずくと薄霧の大連の街並みを又ぼんやりと見やった。
そして、遠いセピア色の記憶に想いをはせるように小さなため息をついた。

“ ・・玲がな。嬉しかったのだろうな。
 龍崎は、大学を卒業して就職すると、すぐに勤務で海外に飛ばされた。辺境のどこかの紛争地だったように思う。玲が何年ぶりかで一人アメリカから帰国した時、偶然あいつが報道番組で特派員報告をしておるのを見た。奴の顔がテレビに数分映ると、何もいわずにじっと見て涙しておった。あいつの背後にある地獄が、いや地獄というものを知ってしまった男の苦悩が、その瞳の中に燃え渦巻いているのが、玲には痛いほどに良く映っていたのだろう・・。
 なあに、俺が奴を立派に鍛え上げたから、少々のことにはへこたれん・・。心配はいらん・・、などと、慰めにもならん言葉をその日の娘にかけたものじゃ。
悠からは何回か手紙がきておった。
 人の世の矛盾と、底辺に這いつくばって生きようとする虐げられたもの達を思いやる心性は、もう一介の恵まれた日本の国の特派員という立場を超えていた。ある頃からふっと、便りも途切れた。何かあったのじゃろう・・。何か、己の愛するものとの幸せには見放されておるような奴じゃ。

 玲が、お前の息子のところに嫁に出たのは、その数年前だったかな・・。
亮君にはすまんが、もしかして、玲は、あの男を弟のこと以上に慕っておったのかも知れんな。

 ニューヨークで写真の修行をしてその後あちこち歩いているとは、何年もすぎた頃、風の噂に聞いた。プロとしても一人前になって、書店で、例の黒いサングラス姿の顔写真が目に付くようになった。国際的にも何かの賞を授賞しておったのか、時々日本にも帰国はしておったようだな。 ・・でも、奴の行き場はもう日本には無かったように思う。
 それから、もう20年にもなる。何処にいるのか、今は音沙汰も無い・・。

だが、いずれ奴も、自らに課せられた’小さな竜’としての’霊的使命に気づく日がくるのだろう・・。”

 

 そんな悠のことを山崎は心の何処かに寂しく気に留めながらも、目の前の良蔵の現在の落ち着いた様子を見て少し安心していた。 むかし若き日々をともに過ごした南九州の旧制高校時代の良蔵の面影を思い出していた。あの頃の良蔵は、どこか悠の生来の純粋さに似たものがあった。

奔放でハチャメチャな青春であったが、こうして二人、これから先何十年生きられるかわからない今となっては、あの日々は、、掛け替えのない美しく薫り高き月日でもあった・・・。