亮 Ⅱ    書生時代

 

                  

                   

 

 

  山崎竜之介の旧制七高そして満州時代の旧友 高栁良蔵には、一人息子がいて、名は亮といった。

彼は、米国東海岸のアイビーリーグの大学のひとつを卒業後、そのまま英国の名門の大学院に進み英国流のカレッジOXONの伝統的寮生活を経て、国際関係論の学位を取った。 

その後帰国して、日本のあるシンクタンクに所属していた。米英時代の学生生活の人脈を通し、米欧の政財界にも多くの人脈を築いていった。しかし、その本旨は、将来を約束されるエリートの一人として、巨大な国際的資本のネットワークの利権構造の中に、’無言の制約’と引き換えに、組み込まれようとするのとは別のところにあった。

 歴史に偶然はなく、・・歴史は作られるものともいう。 もっと言えば、歴史に明示された事柄の背後には、必ずその影が付きまとっている。明と暗が合わさりひとつの整合性のある真実となる。勝者の歴史、すなわち陽の当たる史実は、幾多の忘れさせられた暗部、或いは今も厳然と尾を引いて生き続ける闇を背景に世に浮かび上がるものなのだろう。

幾多の真実の姿を葬り去って・・。

 

 過激な競争社会を、数々の駆け引きを経て、必死に何とかレールから逸れず登りつめてきたある日、自分の立ち位置が見えなくなっているのに、人は気づくことがある。 

 そんな頃から、世間が寝静まる夜半、魔の使い”メフィスト・フェレス”が、夜の闇のとばりから黒衣で現れいで、その夢枕に足しげく通い詰めては、蜜のように甘く危険な、如何にももっともらしい’箴言’(しんげん)をささやくようになる・・。

 

 何の因果か、この世で幸運に恵まれ、少しは人に抜きんでた才に気づき、様々なチャンスを多くの報酬とともに、行く先々で提供されるようになる。

 すると、ひとは自尊心と自惚れで盲目となり、天に選ばれるがごとく己の才と可能性を過信し、傲慢になり、勢いに乗った自己の基準に劣るものを蔑(さげす)む癖を身に着けるようになる。

 やがて、人としての道を逸脱して、いつの間にか、自己の望むと望むざるをかかわらず、巨大なシステムの一環の’駒’として組み込まれ、己の意思では身動きのとれぬようになっている。彼にとって、ほかの何よりもそれが生涯にわたり自己を責め続ける重荷となる。

 時として巨大な組織や、或いは一国をすらも、左右する立場に至った場合なおさらである。 

 己の才能が高い対価で報われ、同時に社会的信用と重い責務が課せられる。それに見合う’人徳’がなければ、責務の重圧に耐えきれぬようになる。それ故にそうなる前に、慣習的に、ひとは巧妙な自己保身のための策を講ずるようになる。そこにメフィストのささやきが、何処からともなく聞こえてくる。

目の前の霧が晴れた先は、頑強な一糸隙入る間のない、一見完璧に築き上げられた利権の構造が見えてくる。勢い込んでいた目の前の自分は、実はほんのちっぽけで些細な新参者に過ぎない。

だが、自分にとり、そんな世俗の栄誉の門前に建てたことは、千歳一隅のチャンスに映る。天に選ばれた自分の稀有な幸運と才能がそれを呼び寄せたのだと・・。

 やがて身近に自分を取り巻く周囲の者もかつては、今の自分と同様の幻想を抱いたことに気づく。 我こそは・・、と。

そこに同じ穴の狢(むじな)のごとく、互いに共通した狭い価値観と利権の暗黙の防護ネットワークが自己組織的に構かれる。その虚妄の網の目の、上下左右の世俗的利権の頑強なヒエラルキーの中に、まさに今自分も組み込まれようとしている。

 それが弱い人の’性’(さが)が、眼前に築き上げた、蜃気楼のような世のなかの虚構(しくみ)なのであろう。

 

 さらに、どこかでネジが狂い、何かをはき違え、他を蹴散らしてまで、人に抜きん出ることに快感を覚える輩(やから)が、そうした世界には必ず居る。それと似かよった自分が、寄りによって好んで選んだ目の前の社会だ。そんな狭い世界の中で、幼稚で姑息な席取り合戦が展開される。

いわゆる弱肉強食、適者生存の合言葉のもとに培われた世俗の知恵は、ひとつは自己弁護のその場しのぎの周到な詭弁を練りあげることに費やされる。 周りを潰した先に、彼の心の中には目指すべき虚構のピラミッドがなおも暗然とそびえたっている。

 今は暗雲に閉ざされているその楼閣の上層にいる、利権と天文学的な財貨に世界の麻痺しつくした鼻持ちならぬ輩たちにまみえる身分を自分が得る頃には、驕慢で排他的な優生主義の世界に、知らぬ間に己の魂が吸い込まれているのに気づくことになる。

 まさに20世紀初頭にジョージオーウェルや、ハックスリーの描いた’デイストピア’の’素晴らしき新世界’が眼前に広がっている。そう、そこでの自分は、積年の成果を得て、今や勝者の妄想に組して、まさに下界を見下ろしている・・。 かのメフィストフェレスの分身となって・・。

 

 この世は彼の世の写し絵だとよく言われる。

ただ、それはどうやら逆像のようで、現生のこの巨大なピラミッドは、彼の地では、暗い先の見えぬ地の底へと伸びている。その果てには、自然の摂理へ暗然と立ち向かいし堕天使ルシフェルが今も静かに住まう闇の王国があるのかもしれない・・。

 

 一見頑強に映るこの世の巨大な砂上の楼閣も、その脆さ故、人がそこに生きるのは永遠ではないことを気づけぬ者の住処(すみか)なのだろう。 或いは我も堕天使のごとく、地の底へと落ちるのをよろこんで覚悟の上でのことか・・。

 風のごとく幾十年も星霜をつくせば、世俗的位階の何たるかにかかわらず、逃げようもなく過去に世俗で積み上げた罪科を購う日がいつかやってくる・・。 その瞬間から、自らの想いが築き上げたこの世の楼閣と、そこに広げられた劇場は霧のごとく消え失せ、現れいでるは、あのダンテ翁も描けし”神曲”物語の、永劫の住処である奥深い暗闇の”真実”の世界であるのだろう・・。

 たとえ有り余る金銀財貨のほんのわずかばかりを慈善という名の、この世のさもしい罪滅ぼしにあてたところで、その財貨たるもの己の欲を量る為の世の幻であり、天に唾(つば)せし盲目の穢れはもう拭うべくもない・・。

 地獄に待つという三つ首の貪欲なる怪獣’ケルベロス’に食されるおのれの姿がそこに見えている。 俗世のきらびやかで、あくなき飽食は、一方で飢えの悲劇を世に生み出していることは、さかしい頭ですでに承知ずみである。

 

  ・・日本の古人は、なにゆえか質素と克己を貫こうとした。自然の摂理を敬い、人の道から逸脱する世俗の無軌道に取り込まぬための心構えを、幼い頃より道徳で啓発し、大方の日本人が自ずとわきまえてきたのかもしれない。

 江戸期の武士道・・。 その時代、幼少時からの人格陶冶のための学問があった。

 俗世の負の連鎖に、各々が已むに已まれずとも巻き込まれることの無き様、武士としての矜持をもって人倫により自己を陶冶し、質素に克己勉励すべし・・と、先賢が身をもって築き上げてきたものがあったのだろう。腰にはいつでも、仁と義、名誉のためには死をも覚悟する武士の象徴としての’刀’があった。

 

 

 亮の文武の師、山崎竜之介は、こんなことをよく言っていた。

 

 ” 太極・・。

 それは宇宙的な大自然の摂理のことをいう。 そこからちっぽけな自己の今置かれた位置を眺めてみよ。 

 虚心になって、静かに瞑目すことじゃ。宇宙はいつもお前の身近なところで真理を照らして居る。 自然の声が,目を閉じれば聞こえてくるはずじゃ。

 眼前の人同士の道理に惑わされるな。 そこには幾重にも世俗的な人の欲が絡んでおる。

 それを世俗の一段上から得意げに虎視眈々と眺め、自らの無明の欲を満たすがため、人々の営みに非道で巧妙な仕掛けを施して、漁夫の利を得ようとしている人の道を欠いた輩(やから)がおる。

 物質的な富に裏付けられた安逸を、いかに自ら労せずして効率的に摘み取ることがこの上ない知恵であるがごとく、取り違えておる。 お前の生きる世の中の仕組みは、そうした人間どもの小賢しい卑俗な習性の築き上げた虚構の橋下駄の上にできあがっておる。

 

 むしろ、目立たぬ日陰で苦しむ人に声をかけ、自ずと湧き出でる’惻隠’の情をもって彼らに接することじゃ。そこから、小さい点ながらも、眩い光沢を放ってあまねく地球上のすべての人のこころを平和に繋げていく鍵がある。

我々日本人の祖先が備えていた美しい和の徳に想いをいたすべきじゃ。すなわち平和とは、人の魂のうちに眠る善を、ひとの相互の共存の上に気づかせることだろう。

 

 いまの欧米の覇権大国の、傲慢な差別意識と性悪説に基づく自己欺瞞的な国際戦略では、たとえ建前で自由と民主主義を謳ったところで、それは名ばかりで、独りよがりで稚拙な詭弁をもって自分の覇権と利益だけのために、堂々と世界の弱小国を侵略支配する手段・口実になっている。覇権国の政権支配層やそこに絡みつく商人が、そうした人を惑わす稚拙な大義名分に酔っているうちにも、世界の常識的な知性人はそれに異議を唱え、マスメデイアのデマゴーグに踊らされる人々の分断は深まり、疑心暗鬼となり他を疑い憎み、人類の調和への真の達成は程遠くなる。

 際限のない自己の欲得と傲慢な差別主義の果て、軍事力や経済力に相対的に劣る弱小国に無理難題を押し付け、手前勝手な価値観に従うことを強いて、支配の口実にする種をまく。そうやって他国の伝統文化、価値観や信仰、人々の平和な生活を強引に踏みにじり消し去ろうとする。

国際社会での覇権とはそうしたものだ。人の欲が作り上げた大きな幻影だ。

都合の良い理屈と詭弁をうたい文句に、本源的な良心に顧みることをしない。

若いお前のこれからの人生で、自分のあるべき場所を、時々立ち止まってはよく考えてみることじゃ。

 ・・もうお前には、瞑目し大自然と共感することで、ことの洞察はできるはずじゃ。

 

 お前の母親の彩さんがしてくれた幼少からの魂の教育と躾のたまものじゃ・・。

お母さんがお前を涙ながらに私に預ける際、唯一つ願っていたのは、優しく思いやりを持って世の弱者のため天の理に従う道を求めていく人におまえが生育することじゃった・・。

 母親とは、霊妙なものじゃ。 南無、観世音菩薩の横顔を誰もが備えておる。

 

 縁あって、お前のように霊的な光の萌芽を大事に温めてきたものには、ある使命が天から与えられておる。  それは、この地上に天の理にかなう理想の場を築くための礎となることなのかもしれぬ・・。 そしてやがては、日本人の魂として、やはり世の各所で人知れず霊的光を照らす同胞どもと一緒に、宇宙の摂理に沿った大いなる霊脈をこれから先、この惑星上に築きあげることじゃ。

それを指し示す、地球を取り囲む碁盤の目のように紡がれた輝きが、自ずとおまえにも見えてくるであろう・・。

’・・真に与えられたもの、真の現実は見出されるものでなければならぬ。

どこに現実の矛盾があるのかを知る時、真に我々に与えられたものを知る。’

西田幾多郎先生はそう仰った。

 

お前は自己の内に与えられた無言の真理を、広く旅に出て、世界の亀裂の目に分け入ることでその意味を知っていかねばならない。 ”

 

 海外に旅立つとき、亮は師匠 山崎 竜之介のその言葉を思い出し、五月晴れの故郷の空を見上げた。

青春のさなか、師から授けられた文武の道とともに、自分の今後貫くべき人生の絵図が、その真っ青な全天に瞬時に展開していくのが見えるようだった。

 

 

   彩(あや)


 亮は、本来旧藩の父親譲りの保守的な風土の元に育った。だが、父親良蔵の意向もあり、小学校を卒業すると母親のもとを離れ、昔の時代の旧制中学・高校らしき自由な校風を残す教育の場を求め、東京の山崎の宅に下宿しながら中高一貫の進学校に通うことになった。

 それまでは、父親が不在のまま、まだ若い母親の彩から伝統的な躾を施され、十分な愛情を注がれた。 胎教からはじめ、既に幼児期前には、日本の江戸以来の倫理道徳も含めた一風変わった潜在教育らしきものを、母親から受けていた。

 

 母親の彩は京都の大学を出て、大阪で大手の商社の秘書をしていた。そんなまだ若い頃、日本に戻っていた事業家の高柳に、財界人や文化人の集うあるパーテイーで見初められ、その後すぐに良蔵の郷里で結ばれた。夫の良蔵は、その頃もうすでに五十を過ぎていた。

 事業でほとんどを大陸で過ごす良蔵から、彩はお腹にできた赤ん坊を、自然豊かな日本の夫の郷里で伝統的な育児と教育をするように託されていた。

 

 京都での学生時代、彩は20世紀初頭ドイツのルドルフ・シュタイナーの霊的自然哲学に惹かれていた。パーテイーで、社長に付き添っていた席で、初対面の実業家の高柳が、何かの拍子に話がシュタイナーの芸術と哲学に及んだ。彩が驚くほどそれに造詣が深いのに良蔵はまず驚いた。そして、そのまま何かにとりつかれたかのように、ただじっと彩の美しい目を見つめている。遠いむかし、いつかどこかで共に過ごした記憶を追うが如く・・。彩は、その熱い視線に戸惑い、途中でつい言葉を詰まらせた。それから高柳良蔵との交際が始まった。

 何かの天に導かれた’定め’を、この初めての出会いの時、既に 彩は感じ取っていた。

だがそれは何処かの別のひとを、自分の内に親しく感じ取っている目だった。だが彩は、その向う先の異なる対象への男の思いを、自然に受け入れている自分に気づいた。そして、何故かそれを覚悟でこの人のために生きていくという決心をしていた・・。

 彩には祖母譲りの霊的直感が備わっていた。遠く離れた大陸で、良蔵の身に何かの危険を感じ取ると、すぐに白装束で身支度し、冬の寒い夜でも、井戸で水垢離(みずごり)をして身を清め、夜明け方まで雨や雪の舞う中、鎮守の社にお百度参りを繰り返した。

 そして数々の修羅場から、高柳良蔵は、不思議と生き延びた。 そんなことが彩の人生で、もう数え切れぬほどあった。でも、そうした日本の古くからの信仰に基づく女の過酷で孤独な儀式は、夫の良蔵には内緒だった。

そんな、世間では既に失われた日本の古い時代の、自己犠牲的な美徳というか、女の情念が、彩にはまだ残されていた。ただそれも、秘して夫の良蔵に課せられた崇高な使命とでも呼べる何かを、妻の彩も薄々気づいていたが故であった。彩は、そんな何かに命を無心に張れる夫がうらましくもあり、尊敬もしていた。

 

 その良蔵との交際の契機ともなったのがドイツの神秘学者ルドルフ・シュタイナーだった。

まだ一人だった若い女学生時代、彼の唱える自然な魂の発育段階に応じた育児と教育法が、彩には新鮮だった。自分もいつか子供を持った時、そんな環境で伸び伸びと自然の懐に抱かれて子供の発育を見守りたいと思っていた。

 その後、高柳のもとに嫁いでから、米国で話題を集め始めていたというグレン・ドーマン博士の育児法を知った。そして、乳児の無限の先天的知性の開発の可能性を述べた博士の初期の原著に目を通していたちょうどそのころのことだった。郷里にてある教育者の講演があり、夫の良蔵の紹介で、その講師の山陰のある無名の教育者との知遇を得ることになった。彼の話に彩は、これだ想った。そして彼から、江戸期からの日本の伝統教育をドーマン法のそれに融合加味したような独自の方法を直接教えてもらっていた。そこには、彩の親しんでいたドイツのシュタイナーの育児法にも、やり方次第では微妙な接点が得られそうな、日本の伝統的な精神と方法に基づく、魂と知性の発育を促す早期教育の方法が述べられていた。

 

 彩自身、母親を早くに亡くしていた。幼少の頃から、山陰地方の旧藩で明治期を生きた祖母により武家の女子の質素で厳しい躾を施されていた。

 それに培われた彩の清楚な気品と慎ましやかさが、相手をしかと見つめる美しい目と、才気あふれる優しい語り口に醸し出されていた。

 長い間愛せる女を持てずいつも孤独で一匹狼だった高柳だった。だが、その良蔵の

心の琴線のどこかを、まるで頑なな氷を解かすようにして、柔らかに射留めたようだった。

 

 ”竜之介、遅ればせながら自分も、生涯連れ添えそうなメッチェン(乙女)にリーベ(恋する)ったぞ・・。子供ができたら以後よろしく頼む・・。”などと、たったそれだけを旧制高校時代の無邪気な青年に戻ったように、古い俗語まじりで書き送ってきていた。 満州時代、白系ロシア人の没落貴族の娘で、その後政変で両親と生き別れて以来自分が面倒を見ていた、まだ若いナターシャを連れ添い、山崎竜之介は事業のため当時香港にいた。 

 山崎は、その手紙をナターシャに見せ、”あの良蔵がなあ・・。”などと、二人で微笑をうかべたものだった。 青春時代をともに過ごした友の吉報に、大連で少女の頃から良蔵をよく知っていたナターシャと、ともに喜び幸福を祈った。

 

 まだ彩が身重な時期は、良蔵は一旦落ち着いた日本の自分の屋敷から離れず、いつも家から大陸へと仕事の指示を出していた。良蔵がやっと授かった子は、親子ほど年の離れた二人にとっても嬉しかった。良蔵も、彩との出会いのきっかけがそれであっただけに、シュタイナーのいう魂の発育の思想には共感しており、彩からもその後色々と教えられていた。

 

 かつて若い頃良蔵は、ハルピンから西域をひとり旅したことがあった。長い旅の途上、カスピ海の傍らの小さな国のまちを訪れていた。市庁舎の近くにある石造りの宿Hotel Marchoで、ドイツ人の画商の青年に出会った。縁あって酒を飲み交わしながら、彼から聞かされた印象的な話の中に、このシュタイナーの名が出てきていた。その思想家は、あの感慨深き文豪’ゲーテ’の研究者でもあることを、彼に聞かされていた。 

 

 ・・彩の勧められるままに、まるで好々爺のようにして綾のおなかをさすっては何事かささやいてみたり、母子の心の落ち着くお気に入りのクラシックのレコードをかけては、傍らで離れずに本を読んでみたり、彩とふたり、既に見慣れたはずの、四季折々の郷里の美しい自然の風景を心に擦り込むようにして、夫婦ふたり手を取り歩いたものだった。

 彩は幸せだった。そんな幸福感は、何故かお腹の子にも深い霊的な共感で伝わっているように彩には感じられた。

 やがて、地元の古くからの産婆に玉のように元気な男の子を取り上げてもらった。

そして3年ほど親子水入らずで過ごした。そしてやっと重い腰を上げて妻子を残し、良蔵は大陸へと何か後ろ髪を引かれる想いで旅立つことになった。黒のベンツが迎えにやってきた。彩は、小さな亮を抱き、西陽が山々を赤く照らす中、屋敷の前で夫を見送った。 良蔵は、中からそっと腕を上げていた。彩は、寂しげにほほ笑んだ。 また長い別れになるはずであった。

 

  

    母 と 子 

 

一見、魂と感性の発育段階に応じた教育を施すシュタイナーの方法と 早期からのドーマン式の英才式教育とは水と油のように融合しえないもののように思えた。だが、そこに、日本の伝統的な早期からの藩校や寺小屋式の小児教育を取り入れた独自の方法は、不思議な寛容性を示すようだった。乳児期の綾の腕の中から始められた亮のその情操的な教育は、彩も驚くほどのその後の知的能力の発達と感性の発現を促していたようだった。すでに1歳には、グレン・ドーマンの創案したドッツ・カードを用いていた。彩は、亮の目の前で、次から次へとページをめくり、カードにたくさん描かれた点(ドッツ)や文字や絵画を映像的に瞬時に右脳で認知・記憶させていった。幼い亮には、それが遊びの様で楽しそうだった。論理的理解は望まず、左脳に渡すのはその後だった。それを繰り返すと、それを見守る亮の脳の中で、総体的な点の位置関係の画像認知による足し算や掛け算などの暗算的な数値計算が行われていた。 

絵画のカードは、一瞬見せるだけで、光がフィルムに瞬時に映像を映しこむように、隅々まで目の中の網膜のフィルムに映され、視覚神経を通してそれが右脳にイメージ記憶化されていた。目を閉じると真っ白なキャンバスの上に美しい画像が見えていた。後は自分の中に映しこんだ芸術の宝物をゆっくりと堪能するだけだった。意識をその局所に移すと、全体像の細部が隅々まで鮮明に拡大された。

 文字の認識も同じだった。4,5歳にもなると、文章は、全体として活字群がそのまま映像記憶され、その文の趣旨、意味するところがやはりイメージとして物語り風に瞬時に想起された。人間の幼い脳の神経細胞シナプスの瞬間的な結合能の蓄積はそれこそ無尽蔵であった。こうした脳の神経細胞の驚異的な開花は、グレンドーマンによると、生後、胎児期から3歳頃までは続くということだった。彩はそんな亮の中に眠る潜在的な可能性を、自分の助けで亮の幼いうちに伸ばしてやりたかった。

 夜になると、庭先で鈴虫が鳴くなか子守唄をうたい、赤子を抱いて美しき星々に子の幸を祈った。時々、白い月光の漏れる庭で、彩は日本の横笛の流れるような美しい旋律を幼子に聴かせた。亮は彩の幻想的な笛の音に聴き入り、揺りかごの上で何を夢見ているのか、すぐに眠りに溶け込んでいくようだった。

 彩は、まるで一人格として幼子を扱うように大人の言葉で亮に語り掛け、愛情を込めて暖かな胸でいつも抱きしめることを忘れなかった。それも、山陰の教育者から教わった知恵だった。

 自分も幼い頃、祖母から教わってそうしたように、亮が少し言葉が話せるようになると、江戸期の幼少期、寺小屋教育の道徳書である”童士訓”や’実語教’をはじめ、地元藩の旧藩校の教育法を参考にして、儒書’小学’からはじまり昔の中国大陸の聖人賢者の漢書をふたりで声を出してそらんじてみた。意味が分からずとも、母親の彩の優しい声を真似るのが、幼い亮にも、まるで歌でもうたっているように楽しげだった。そうした古典の素読も、江戸期までは日本でごく普通に行われていた伝統教育の優れた潜在的な記憶能と情動の開発法でもあった。彩は、これがやはり日本人の魂と知性の教育法には適っていそうな気がしていた。

 

 彩は、幼い頃より祖母から、伝統的な武家に残された礼法のみならず、茶や花、詩歌のたしなみを教えられた。そして弓や薙刀も祖母の育ったその旧藩に伝わるものを身につけていた。その伝統的な躾(しつけ)の中にある一貫した大切な意味あいを、彩は自分の身体を通して成長とともに理解していった。

 したがって、世界に稀な伝統的な日本人としての美徳を息子の亮にも伝えたかった。先哲の優れた教えが、子の成長に伴いその意味が自ずとかみ砕くように理解されていく。それに並行して文武両道、男の子としての忍耐を養い、精神が強く自立できるよう、夫の郷里に古くから伝わるある剣術の師範の道場にも幼いころから通わせた。師匠の武術家としての人徳に影響され、その優れた武術の自然の理合いにかなうよう、亮の身体感覚は自ずと目覚め、磨かれていった。

 

 亮は、すくすくと育ち、友人たちと夕刻まで、野趣に富む野山を駆けまわるようになった。泥んこになってうちに戻ると、彩の手伝いをして母子で手料理をほおばりながら、会話を楽しんだ。そして、食事をかたずける母親のそばで黙って眠くなるまで本を読むのがいつもの習慣だった。

 

 時々彩のアイデアで、ふたりで爪楊枝を用意して、次から次へと粘土で連結し、考えうる限りの様々な立体を組み立てては積み木遊びを楽しんだ。

最初は4面体、8面体、12面体など、簡単なプラトン立体から。そしていつの間にか、たくさんのカラフルに色付けした爪楊枝で、バックミンスターフラーの”テトラ・スクロール”という絵本の中に出てくる立体の模型を、本を読み進めながら、二人で作ってみた。そして、創作欲はとどまることを知らず、果てはフィボナッチの中世の建築模型から、日本の五重塔、そこに密かに含まれる神聖幾何学まで・・。その台本は、良蔵の書棚にあった日本の歴史建築物や中世ヨーロッパの建築物を美しく描いた洋書の大型本からであった。

 爪楊枝の軸を、3角形を一ブロックにして、粘土で繋いだ複雑な多面体のカラフルな木工細工が、居間のその大きな本棚に順に並べられていった。 亮にとっては、親子で楽しみながら試行錯誤工夫して模型を創作し、左右の脳を同時に育てる理想の教材になっていた。実は幼い亮にはその母子二人で作った幾何学的な模型の随所、特定の場所に、母親の彩には見えぬ、凝縮されたエネルギーの光の点が見えていた。幾何学的な構造体は、未知の真空のエネルギーを凝集させる場のようだった。 亮は時としてひとりじっとそれを眺めては、生まれでる前に見たことのある宇宙の記憶を呼び覚ますが如く、まるでいにしえの西欧の神秘主義者の魂にとりつかれたかのように何かの想いにふけっていた。 彩は、そんな幼子を見て、昔読んだドイツのルドルフ・シュタイナーの育児法を思い出した。

 水彩画もほんの少しの彩の手ほどきのあとは、自由に幼い亮に描かせてみた。

 彩は、学生の頃に読んだシュタイナーの講演録に、色彩と幾何学的図形の中に、人間と宇宙につながるエネルギーの原理が内包されているとあったのを思い出していた。 創作的な絵画は、魂の絶対的表現でもあった。

 

  いつしか、まるで図形をイメージするように、漢字を象形文字のように画像認識し、亮は彩が与えた漢字交じりの文章の物語本をどんどん絵本でも見る様に、読み進めていった。 亮は、本の中の物語をそのまま流れる映像か絵画のように具象化して楽しんでいるようだった。字を読んで意味を理解するというより、ページを開くたびに文字のすべてから一瞬、何かの情報をイメージの中で瞬時に築き上げ、そのままメルヘンの中の映像のように目の前に生き生きと再現している様子であった。

 やがて数年もすると、集中するとあっという間に厚い本も読み終えて、物語の中の登場人物のやり取りを、情景を夢の中から想い起こすようにして上手に母親の彩に語って聞かせた。

 

 母親譲りの旺盛な知的好奇心に、彩は亮の感心の方向を満たす科学、歴史などの様々な図鑑や事典、小学生向けの漢字交じりの世界の文学作品にいたるまで、どんどん与えていった。 父親 高栁の蔵書の漢籍や、古書、南九州の旧制高等学校時代の文学・哲学書、大判の美術書などに加え、父親の書斎の隣、母子がいつも過ごす居間にも父親の蔵書の並ぶ重厚な本棚が備え付けてあった。その下段の片隅に、幼い亮のためのスペースが新たに設けられ、少しづつ亮の読んだ本で埋められていった。良蔵は、何を思ったか自分の使い古しの戦前の尋常小学校の国語と修身、そして東洋史・世界史の古びた教科書をそこに残していた。彩は、息子の亮の目線の高さに合わせて書棚にそれを並べ変えておいた。亮は、好奇心からそれを手にとっては、年少から読んでいた。

 亮が成長していくなかで、多くの書籍を通して父親の存在を常に身近に感じ、威厳とそれへの敬意を常に呼び起こすための母親として、そして良蔵の妻としての彩の配慮でもあった。

 

 背丈が伸びた分だけ、亮の本の枠は広がり、年長向きの新書版の文学ものや科学ものに置き変わっていった。、亮が楽しみにして待つ、何かのご褒美のプレゼントの次の本を選びながら、彩はそんな息子の知性の成長と感性の芽生えをそっと楽しんでいた。 

 

 不思議な第六感的な潜在能力が時として、亮のどこかからふと湧き出てくることがあるようだった。森に行けば、どこかの善なる妖精の影と一人でしゃべったりしていた。そしてそれを後で母親の彩に楽しそうに話して聞かせた。彩は驚いたが、それを否定せずルドルフ・シュタイナーの言う、霊的成長の萌芽だとして大切に見守った。

 居間の大きな本棚の横には、父親の良蔵がどこか海外から持ち帰った大きなアンテイックな地球儀が置いてあった。 彩が、それを夫の書斎から居間へ移していた。亮は自分の体くらいあるその地球儀がお気に入りで、小さな手でゆっくりと転がしていた。

 かつて冒険心旺盛だった父親の遺伝子がそうさせているらしく、すでに、その幼い心のイメージのキャンバスに本で読んだ地球上の遠い世界を引き寄せて、世界を駆けめぐる自分をも一足先に夢うつつに眺めているようだった。 小さい頃に母親とした模型の幾何学の中にエネルギーの宿る点の場を見ていたように、目の前の地球儀の各所に、それと同じ様な凝縮されたエネルギーの光の点が亮のイメージの中に映し出され見えていた。亮にはそれがなんだかわからなかったが、どこか懐かしい、美しく雄大な宇宙に地球をつなげるそんな性質を感じる場所であった。地球上にそんな場所が、ある幾何学的な配置を伴い、数限りなく散りばめられていた。その中に、母親に買ってもらった本でも読んだ北米アメリカインデイアンのいる山や、中南米の歴史遺物やアマゾン奥地、そして中欧、アフリカ、インドそして、どこか懐かしさを誘うチベット・ヒマラヤの高峰など、地球上に各所に点在していた。成長したら、いつかそこにむけ、この宇宙の真理の手がかりを求めて、旅立ってみたかった。

 母親の彩は、そんな亮をみて、いつか読んだシュタイナーの本の中にあった地球を覆う霊的な4面体の話を思い出していた。その頂点には、南極、中米、それにかつて夫の良蔵から聞かされたことのある土地、コーカサスがある。そして最後にそれらをつなぐ霊的頂点、それが日本列島であった・・。

 子供心に、冒険心を駆り立てるギリシャ神話や’ホメロス’の冒険談から、中国の聖人賢者の書、アメリカン・インデイアンの悲劇の物語、中南米の歴史物語。さらにはヨーロッパでは’フランダースの犬’、ユゴー’ああ無常’、ジュール・ベルヌの全集、そしてポーまで、地球儀を眺めながら本の中の世界を夢想してみた。大きな本棚の片隅から、彩が成長を楽しみながら一冊づつ与えた日本と世界の子供向けの文学本で埋まっていった。

 小学校に上がってからも、友達と野山を走り回り、特別に勉強をせずとも利発でいつも総合的に学校の成績は良くかった。明るく思いやりもあり、どこか年齢を超えた不思議な精神的吸引力があり、ほかの子供たちからもその心の内の純粋な部分での共感を得てか、皆から信頼されていた。 

 

   別 れ

 

 東京の有名私立の中高一貫校に進学が決まる時も、よくある進学塾通いや、受験勉強などというものも取り立ててしなかった。 最終学年になって、幼少期から続く地元の古くからの剣術の道場にも毎日通いながら、帰宅して母親の用意した何冊かの受験参考書を、いつもの調子で知的好奇心に任せてぺらぺらとめくっていた。

 そうするうちに、幼児期からの右脳的認知力が研ぎ澄まされたまま、まだ生きていると見えて、何故か写真記憶的に自ずと綿に水がしみこむように、左右脳の無限の情報のやり取りがおこり、亮のまだ十分余裕のある記憶の引き出しに、不思議と多くの情報がコンパクトに効率よく収められているようだった。

 

 こうして時間も忘れて居間の母親のそばで、一見空想の世界にいるもう一人の亮がそうしているかのように、まるで放心したまま受験参考書のなかに没入していた。そして、何冊かの参考書を数回廻した頃に、願書を出した東京の中学の入学試験の日がやってきた。

 母親と二人、遠く東に向けて電車で旅だった。瀬戸内の海を右に見て、冬の雪の残る京都の野、雪が積もる琵琶湖のほとり、そして浜名湖を超え、左手に富士山の雄大な姿を仰ぎ見た。そして伊豆の美しい海岸線を車窓から眺めながらふたり駅弁を頬張り、早朝から夜遅くまで長い時間をかけて走り抜けた。深夜品川についた。そして山崎の屋敷に泊めてもらって、数日後、試験会場に向かった。雪の降る寒い季節だったが、亮の目指す中学は、樹々に囲まれた静かで峻厳とした洋風の歴史的な校舎で、これまでにない新たな期待と夢を少年の亮に膨らませてくれた。

 

  桜の咲くころ合格通知が郷里に電報で届いた。大陸にいる父親にも連絡した。

中学入学後は、父良蔵の旧知の山崎竜之介の東京の家屋に一室を与えられ、初々しい書生として、郷里の彩の元から預けられることになった。

  そして、故郷で最後に、母親と水入らず一月ほどを過ごした。

亮は、最後の春休み、父親の書斎の大きな地球儀をひとり転がしながら、少し心細くなっていた。そして、大陸の良蔵のことを思った。

どうして、父さんはお母さんのもとに戻ってこないんだ・・。

これからお母さんは、たったひとりで寂しくはないんだろうか。

 

 

                                                 

 

 そんな亮の気がかりを残して、母子二人、再び上京した。 入学式から戻ると、亮は学校でもらったまっさらなインクのにおいのする新しい教科書を和室の机に並べてみた。山崎宅の自分のため用意された六畳の部屋だった。 母彩と幼いころから過ごしたこれまでの日々を振り返り、何か急に寂しくなり、一人机の前で涙ぐんでいた。

 山崎の家の洋室の部屋にも、家にあったと似た大ぶりの骨董品のような地球儀がひとつあった。それを亮は片手で回してみた。ぎしぎしと音を立てた。少し重かった。幼き日々心に温めてきた何かが、東京のこの古い屋敷で、より洗練されてやがてこの地球儀の上に、将来具体化されていくのを、亮は13歳になったばかりの少年ながらに胸を躍らせて夢想した。

 

 母親の彩と、山崎竜之介は、居間でふたりで長く話し込んでいた。

積もる話があるんだろう・・。 父親の良蔵と山崎竜之介は古くからの親友ということだった。

 

 山崎の娘の玲が、ふすまの陰からその愛らしい目で亮を見つめ、そっと顔を出した。

” ・・君が玲ちゃんだね。はじめまして。・・亮といいます。 

これからずっと、このおうちでお世話になります、どうぞよろしく。” 

 亮がそういうと

 

”・・どうぞよろしく、お願いします。” そういって恥ずかしそうに首をかしげ、玲が微笑んだ。

 

やがて、山崎と話を終えた母親の彩は、少し不安げな亮の前に来ると言った。

 

 ” さあ、涙はお拭きなさい。・・お母さんはもうすぐ帰るけど、・・だいじょうぶ。

 あなたは自信を持っていいのよ。

・・そうできるよう、私がこれまでちゃんと見守ってきたから・・。

お父さんのお友達 山崎おじさんは、あなたのこれからの先生。 

とても立派な方だから、山崎先生を信じて、一生懸命ついていきなさい・・。

玲ちゃんもいる。寂しくはないわ。あなたの妹のように、可愛がってあげて。

・・お母さんのことは心配しなくていいのよ。ありがとう、だいじょうぶ。”

 

  数日後、亮の頭を最後にひと撫でして少し寂しそうに微笑むと、彩は郷里へと一人帰っていった。 凛とした後ろ姿だった。 

亮は、自分が何か少しおとなになった気がしていた。

 

 

 

   ノブリス・オブリージュ

 

 

 山崎は、半世紀も昔の、自分の旧制の中学から高等学校の頃を振り返っていた。何か熱いものがこみあげてくる。 北九州の地元の旧制中学では、外国語や数学に興味を抱き、そして漢文の名句や古典の名文を好んで暗唱したものだった。中学では剣道をしていた。 

 その後、受験で南九州の第七高等学校に合格して、造士館の学生寮に入った。その頃の寮は自由と自治を学生に任せられていて、いわば慣習的に治外法権で、外部のものは校長たりとも一切学生の自治に口出しはできなかった。それゆえに若いながらも大人としての対社会的義務と責任を自覚せざるを得なかった。そして、旧制高校に許された特殊な恵まれた環境のなかで、青春の若き日に人生を問い、哲学し、体を養い、むさぼるようにして本を読んだ。

世俗に超越する普遍的な真、善、美とはなにか。第一に、哲人による国家の政治とは。 儒学と仏教思想のもとでの日本の風土と伝統的な精神。古代ギリシャの哲学とと日本の伝統文化をつなぐものとは・・。 歴史、哲学、文学、そしてそれに必要とされる原書を読みこなせるように、ある教授との奇妙な縁から、積極的に数か国語をかなりの時間を費やして学んでいた。

 

 若い優秀な学生たちは、真綿に水がしみ入るように、知的好奇心から新しい先賢の叡知を吸収した。 竜之介は外の空気も吸いたいと、示現流のお膝下である地元には珍しく、市郊外の、ある一刀流の名人の剣術道場に通いながら、会津のお留技の合気術をも学んた。その老齢の師は、何故か薩摩の官軍と敵対したはずの庄内の出であった。熱心に通ってくる竜之介を可愛がってくれ、一対一で手取り教えてくれた。

 稽古を終えて、寮に夜遅く戻ると、疲れて半分眠気眼で、部屋の同期の仲間や先輩と談話し、議論をした。容易に論破されぬように、先輩から紹介された本を読んでは知恵を積み、人生と哲学を論じて互いに切磋琢磨した。

 

 泥臭いながら、質素は当たり前として、豊かな教養に裏付けられた純粋な人格の陶冶と、あるべき人の道を求めようとした。日本の良き時代の先人の武士道の精神を引き継ぎ、寮での生活はハチャメチャで蛮からながらも、皆が人の道を欠く言動は恥として憎んだ。 そして、寮歌を口ずさんでは、ひろく暗雲に覆われていた時の世を憂いもした。

 そうした特殊な純粋培養された集団での生活の中、心身と志を磨きながら、いずれ祖国を背負って立つべく気概を、皆がそれぞれに持とうとしているようであった。

 

 寮歌を学生たちで創作した。時代を反映した純粋な若者たちの悲壮な思いが込められていた。万年布団の上にあぐらを組み、焼酎のコップを前に、ともに肩を組み謳った。いつの時代も武骨な若い男どもの共通のテーマ、メッチェン(女学生)の話題で盛り上がり、馬鹿を言っては布団の上を笑い転げまわった。そうかと思えば、寮の窓から夕陽を望み、乙女のように涙ぐみ、古き遠き異国の漢詩、シラーやギョエテの詩を皆でうたったものだった。

 

 ”ノブリス・オブリージュ・・”、学ぶことを許されたものだけが許された、世への秘せられた高貴なる責務でもあった。

 山崎は、戦前期の同世代に生きた若者たちの数パーセントにも満たぬ選ばれた学生たちだけに許された、自由にリベラルアーツ(教養)を学ぶことの贅沢、今はもう失われたあの旧制高校の”教養主義”のロマンの幾たりかを、若い純粋な亮にも伝えてやりたかった.。

山崎とともに亮の父親である良蔵も、その後の疾風怒濤へと続く、あの熱き青春時代を共に生きた。

 亮の母親 彩も祖母より躾けられたのは、江戸期の武士の子弟に藩校で施されていた、文武両道により人を養う伝統教育に類するものだった。明治以前の武士道による、自己を克し、気概をもって世の為に尽くすという、質実で世界に誇るべき日本の伝統的な心をここで見直すことだった。

 幸い、亮の入学した中高一貫の私立校は、単なる進学校ではなく、創立者の建学の主旨で、押し付けでない高度な応用力と個々の知的好奇心を育てフォローしながら、自己研鑽と自由を尊重する旧制中高校のようなところを残していた。そこでの柔軟性と懐の深さは、師の山崎にとっても、なにより自由な潜在性を持つ亮の相性には合っていそうだった。

  

  修 養

 

 早速、翌日から、亮は師匠となる山崎竜之介より、早朝から毎日、漢籍を読まされることになった。盛りだくさんであったが、山崎も驚くほどに、亮の吸収力はスムーズだった。

いわゆる’小学’から始め、”四書”つまり論語・孟子・大学・中庸による武士道的修身の教え、古来日本の兵法書”闘戦経”と、山鹿流兵法の教え、そして中国の歴史書”一八史略”など・・。それらを漢文のまま教わった。そして和文では、美しい草書で描かれた”太平記”と”平家物語”を与えられた。

 

 ”祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす 奢るるものも久しからず ただ春の夜の夢のごとし・・” 中国の戦史とは異なり、日本人に生まれたならば、誰もがその魂に通じる 世の無常を説いていた。

 亮が幼いころから潜在教育の一つとして母親からなされていた論語や孟子、漢詩、日本の古典などの名文名句の素読により、美しい日本語の響きがすでに亮の記憶に残されていた。いまは、そらんじていた懐かしい言葉の響きを記憶の隅から蘇らせ、山崎流の優れた解釈と若い亮の感性で、それに込められた重厚で美しい日本語と漢文の意味を改めて汲みとっていくことであった。そして、やがて明治以降の文豪、鴎外、漱石なども並行して全集で読んでいった。

 

 ’千の書も一の師の教えには及ばぬ’、ともいう・・。

思春期の亮は、改めて伝統的な叡智の奥深さと、美しさ、それを自分にもわかりやすく現代風に翻訳する竜之介の慧眼に感動を覚えていた。 亮は、幕末期、自分と同じ年頃に書いたとされる橋本佐内の”啓発録”や、獄中で吉田松陰が囚人たちにもわかるようかみ砕いて説いたとされる孟子の教え、”講孟余禄”の文庫を持ち歩いた。

 学校の帰り道の堤防わきの草むらにひとり寝転んでは、虫の音や鳥の声をきき、青い空を見上げてはそれを読んだ。風の心地よいそよぎに、夢うつつそのまま草むらで気持ちの良い少しの仮眠をとった。

 

 

 

 夜は山崎からの講義が待っていた。 

 そして早朝は、武術の修行だった。 山崎の剣の理合いは、郷里で習ったものとは異なっていた。もっと柔らかでほとんど剣を交えず、向いゆくものを風で包み込むように泳がせ、いつの間にか自分の体の各所の”急所”に刃先が添えられていた。

山崎の美しい身のこなしに、亮は若く未熟なりにも何か深く感じ入るものがあった。 どこか原初的で懐かしく、自然の懐から生み出されるような、凛として武術でありながら慈みを奥底に含むもののように感じられた。それは、母親の彩のお腹にいる頃から、或いは潜在的教育を通じて生後授けられた奥深い何ものかと、どこか近い感覚だったのかもしれない。

いずれも人のうちに秘められた天性であり、大自然の摂理にかなう無駄のない身の所作であった。

 

 あっという間に、時を忘れて竜之介からの貴重な武術の手ほどきが終わり、残された数時間で学校の勉強にあてた。体が火照り、脳内神経物質が活性化され、何かのエネルギーが若い体中を巡り、幼い頃のあの直感が蘇っていた。

 その後、いろりを囲んで三人でする食事は、家族同士のようにくつろげる玲の手料理であった。竜之介もこの時は、穏やかで無口な老人に戻り、二人に優しかった。玲の朝げの味わいは、郷里の母親のそれにどこか似ていた。

 

 書生をして数年もすると、今度は山崎からラテン語を教えられた。古代ローマの思想家キケロをはじめ、山崎の蔵書の中世の西欧の美しい古籍を課題に読まされることになった。そしてやがて読みに慣れてきた頃から、フランス語、イタリア語、ポルトガル語、スペイン語の文法と語彙を同時並行で教えられることになった。大学の教養の第二外国語の先取りであった。山崎の旧制高校時代の恩師 湯浅教授から授かった知恵でもあった。

 亮ははっと驚いた。どれも、どことなく先のラテン語の仕組みや言葉に似ている。言葉を語源から学ぶことが面白くなってきた。山崎の選んだ文の中には、意味深いヨーロッパの哲学者や文豪など先賢の格言、聖書の預言書からの引用文もあった。さらに、’国家’など古代ギリシャのプラトン哲学を岩波新書で読ませた。 

 山崎は、古今の世界の歴史を読み解くうえで聖書は必要であるととらえていた。聖書の記述による世界観を信奉する人口が欧米では多数を占め、そこから欧州の中世史が形成され、それに乗ずるように世界を左右するような重要な戦略が現在なお、青写真をなぞる様に組み立てられている場合が多くあるように見えた。 ・・’彼ら’は、隠喩(メタファー)を好んだ。

 

 それと並べて、山崎は、亮に自分の戦前の旧制第七高等学校時代からの蔵書の、日本のイスラム研究者の著書を亮に与えては読ませた。 今日の中東情勢の本源をやがて、将来機が熟す頃、亮がおのずと冷静に共感をもって理解できるようにするための配慮でもあった。

’・・眼光紙背に徹す’という。悠の旺盛な吸収力に、山崎も遠慮はなかった・・。

 

 

 青 春

 

 東京の山崎の書斎にも所せましと並んでいた旧字体の古びた世界の哲学書と文学全集を、竜之介に与えられた多くの課題の時間の合間を見ては読んだ。インドの’バガダット・ギーダ’、古代中国の老荘思想、そして特異なところでは’墨子’の不戦の思想。

プラトンの’ソクラテスの弁明’、そして’国家’。山崎はかなりの時間を、この古代ギリシャの哲学者の思想の解説に注いだ。新プラトン主義という神秘主義哲学もあった。むかし子供の頃に母と積み木遊びをした立体や建築物模型の構造の神秘学的意味が説かれていた。

文学は、’ホメロス’の冒険譚から、’ハムレット’’オセロ’、’マクベス’などシェイクスピア全集、そして、ゲーテの’ファウスト’、バルザック、ユゴーの’レ・ミゼラブル’、ロマン・ロラン’ジャン・クリストフ’、トルストイ’戦争と平和’、さらに、ドストエフスキー’罪と罰’’貧しき人々’’カラマーゾフ’・・。そして、英国の詩人エリオットの文明批評。そしてジョイスの’ユリシーズ’。これらを亮は持ち前の潜在的感性で速読した。

それぞれの時代に生きる物語の登場人物を、五感で映像を描くようにして追い、心のスクリーンにその歴史的な背景を浮かび上がらせながら読み進んでいった。亮の豊かな思春期の感性に、いにしえの文豪たちはドラマチックで深い感慨を刻み付けているようであった。

 小さなころ読んだ物語の内容が、今度はより深い哲学的な意味あいを伴って、思春期の亮に蘇ってくる。 亮は数々の文豪の深淵な問いかけへの回答を求め、時として眠るのをも惜しみ、星々の降る広大な夜空の下で静かに何時間も夢想し、思索した。 

 

 学校の帰りには、ひとりいつもの喫茶室”椿坊”によっては、今読んでいる文学の主人公と同時代に生きていたであろうロシアや欧州の作曲家の名曲を聴いては、しばらく世紀末の遠い世界に想いを馳せた。 時として、山崎の娘 玲をその’椿坊’に誘っては、一緒にお茶をした。 

 玲とは、何気ない日常の話題から、茶や能の’わび’や’寂び’、そして和歌の世界の’幽玄’など、日本の文学や能など古典芸能に流れる美学の話をよくした。

やさしく繊細な、玲の女らしい素朴な言葉の内に、亮ははっと感じさせられるものが多くあった。幼かった玲も、いつのまにか思春期の美しい少女となっていた。

世阿弥の’風姿花伝’、西田幾多郎の’哲学概論’、和辻哲郎の随想を読んだ。そして九鬼周造の’いきの研究’。何故か日本人の心が古くから持ち合わせるこの’粋’という言葉に、懐かしく心惹かれるものがあった。この言葉が出ると、なぜか師の山崎良蔵の表情が穏やかになる。何かの記憶をふと辿っているようにうかがえた。

 

 何冊かの’相似象’という一風変わったタイトルの雑誌が書棚に並んでいた。手に取って見ると、不思議な文字で、世の一切の潜在、顕在の物事の原理を解いてあった。亮は今までにない新鮮味をもってそれら’88のうた’に込められた句の意味を、目を閉じ、自らの潜在能の中で直感的に解釈してみた。万葉の歌のようでもあり、すべての現象界をつなぐ何かの力を秘めた千古の言霊の響きのようでもあった。

 

 下宿先で、月夜の晩、縁側で亮は雲間を見上げ物思いにふけっている。ふと気づくと、玲がそっと傍にいて美しい目で自分を見つめ、遠慮気に微笑んでいた。そんなふうに玲が妹の様につかず離れずそばにいてくれると、山崎の家での修行のつらさや孤独もいやされ、穏やかな心持になれた。 その頃からか、亮は今までとは違った仄かな甘酸っぱい恋心を玲に抱くようになっていた。

 

 青年 山崎 竜之介が大連時代に出会ったロシアの没落貴族の少女ナターリャと、10数年を経た後、大陸で再会して、美しく成長したナターリャと結ばれて生まれた、たったひとりの娘が玲であった。ナターリャは幼い娘を残し、若くして病のため急逝した。 

 長い旅ののち父娘二人、日本の古くからのこの屋敷に落ち着いた。何故か竜之介の武骨な男一人の教育にもかかわらず、この日本家屋に似つかわしい、日本人女性らしい清楚な美しさを、成長とともに醸し出していった。

 

 

 

  そして 旅立ち

  

 哲学者のバートランド・ラッセルの”幸福論”をはじめ、オーダス・ハックスリーの”素晴らしき新世界”、オーウェルの”1984”などの近未来小説を英文で読むよう山崎から勧められた。デイストピア未来小説でもあり、 ’トランスヒューマニズム’のはしりであった。

これは山崎流のやり方であった。耳に美しく響く中、ある種の不協和音を覚え、いつか時間をへて青年はそこに違和感と問題意識を抱くようになる。やがて若い亮にとって、世界を俯瞰し、日本人として’武士道’の志をもって己の信念をささげる、長い人生を通じての課題となる。

 

 シェイクスピアそれに詩人TSエリオットの詩と文明批評。理系の分野では、’ネイチュアー’や’サイエンテフィックアメリカン’など、自然科学領域の英語の論文にも辞書片手に多く目を通すようになっていく。やはりこれも、亮の幼い頃に培った特殊能力で映像的にイメージで全体像が把握できるようで、学校でも、国語は言うに及ばず、英語と自然科学の成績も良かった。竜之介は、3年後、進級して高校生になった亮に、大学の物理のテキストのシリーズを与えてみた。力学から、電磁気、熱力学、振動、量子力学、相対論に至るまで・・。亮は、それらをひっくり返して、自学自習してはページは赤線と数式の書き込みで埋まり、そのあとは’サイエンス’など科学雑誌を読んでいった。

 そんな中で、若い亮がひとつ気になったのは、彼ら欧米の知識人の著書の中に所々にあらわれる’優生学’的で差別的な人間観と、最先端の科学の冷徹緻密で機械論的、一見非人間的に冷たく映る世界観だった。ノーベル賞クラスの自然科学の発展が、そのまま核や地球的大量破壊の軍事技術に転用されていく。

 かつて、罪もない民間人の頭上に、2発の破滅的大量破壊兵器を何の躊躇もなく投下したのも、戦略論や外交論でその理由を覆い隠す前に、日本人には疎遠な、背筋の凍るような動物以下の黄色民族への差別意識がごく自然にその大量虐殺の執行者側に共有されていたのではないか。そう、亮は真摯に悩み、今の文明の進歩の行く末に壁に突き当たる思いをしたことがあった。戦後の米国追随的な経済や防衛・外交政策はすべて、このタブーの延長線上で行われてきているように思われた。

 多くの人類にエネルギーを恒久的に供給する原子力発電といっても、産業革命以来の蒸気機関を使ってお湯を沸かしてタービンを回し、発電しているに過ぎない。なぜ、科学の進展が、人の命を奪うような野蛮な技術へと転用されうるのだろうか。地震などの自然災害による損傷で、周囲の生命環境の壊滅的汚染もありうる。世は、’核の脅威’という核弾頭の先制攻撃による相互の壊滅的な大量殺戮の不可避性による戦争抑制装置として核配備を捉えている。何かそこには、このような袋小路に陥る自然科学の根本的な隠ぺいと矛盾がどこかに隠されているのではなかろうか。何十万の無実の日本民族は、何ゆえあってか国際法に違反するその大量無差別殺戮の人体実験にさらされ、以後それに目をつぶることを強いられたのか。

科学の進むべく道筋は、どこかでもっと有効で非破壊的な別の道筋が本来あって、何かの事情で過去の歴史のどこかで、それが封印されてしまったのではなかろうか。そこにはやはり、偶然の歴史を装った一部の人間の欲と傲慢が絡んでいるのか。そんな風に亮は若い頭で夢想し始めていた。もし広い宇宙に我々より何万年も進化した生命がいるとして、彼らはこうした自分たちも経験したであろう歴史的過渡期をどうやり過ごしていったんだろう・・。

山崎から手ほどきを受けた’リモート・ビューイング’で、その解決のヒントを求めて、ひとり何度も時空をさ迷い、異次元の未来の生命と思わしき存在にそれを問うたこともあった。そして、やがて北米インデイアンや世界の辺境に生きる少数の先住民族に象徴的な神話で代々受け継がれ、現代のような危機の時代を待つかのようにそれを予測し、まさに今に生かされうるべく封印され残された偉大な’叡知 ’があることを知ることになる。我々日本人の祖先が大切にした伝統的な精神と、彼ら先住民の豊かな知恵は多くの近親的な類似性を持っていた。

 

亮には、 西欧の自然科学や合理主義を受け入れる前の日本では、人のあるべき徳をとことん追求し、その上で社会万般を眺めていく厳格な人格形成のための伝統的学問が主であったように思えた。それが同時に、江戸幕末期の知識人が外来の学問を受け入れざるを得なくなる際の、彼ら個々の内なる葛藤だったのかもしれない。 師の山崎はあえてそれを承知の上で、若い亮がいずれ世界に飛び出し、その本質を今後自ら読み解いていく基本を養う素材として、亮にそうした広範な部類の’テキスト’を与えていた。それをどう解釈していくかは、若い亮の中の魂の成長により、自己の感性の中での融和と超克に委ねることにしていた。 

 

 そんなころに、山崎は、亮にある不思議な訓練を施した。先ほどの’リモートビューイング’の方法であった。それは、竜之介が大陸にいた頃、或る東欧系の諜報工作員から学んだ特殊技能だった。東西冷戦下で、米ソ東欧圏で巨費を投じて互いに競うようにして秘密裏に研究されていたという。亮には、母親から受けた潜在能を養う幼児教育があり、既にその新しい試みを受け入れるための礎(いしずえ)はできていた。

 ある種の’遠隔視’を養う訓練だった。高校生になった亮は、知的好奇心をもって山崎からのその訓練を受け入れた。そして、水が真綿に浸透するように、亮の脳の中のどこか未知の領域で、密にシナプスを形成するように特殊な神経回路が形成されていった。それは外界と繋がっていた。まるで無線でもするように情報は脳の中にとどまらなかった。遠くの映像が山崎の訓練を通して、亮のイメージの中にぼんやりと現れ始めた。やがてそれは時空を超えて明瞭なストーリーとして展開されていった。

 

 山崎は、むかし京都の学生時代、綾部で霊術家の出口王仁三郎から直接、日本の古事記と神道の祝詞集の’言霊’的な解釈を伝え聞いていた。霊術家は、旺盛な’千里眼’を駆使して、様々な預言的な示唆を自らの著書にも書き記していた。その千里眼の能力は持って生まれた宗教家としての潜在能と、厳しい古神道の’禊’(みそぎ)の修行を通じて磨かれたものだった。若き日の帝大生 山崎は、自分の耳で直接聞いたその霊術家の口にした述懐の一部が、近い未来にほとんど現実化していることを、当時身をもって体験していた。その後何十年も経て戦後、大陸で東欧の知人から山崎が教わったものは、軍事的目的のために東西冷戦下の研究機関で秘密裏に実験研究されている方法だった。だが、若い亮の柔軟な潜在能でもそれは充分にたえうる内容に想われた。

山崎は、高校生になった亮に、そのノウハウを教え始めていた。そしてその後、時間を経ずして目覚ましい成果が得られているようだった。

 それが終わると、今度は自分の蔵書の、出口 王仁三郎の口述’霊界物語’を読むことを許可した。そこにはどの時代にも普遍的に、自在に解釈できる長大な霊術家の預言的示唆が込められているようであった。亮は、目を閉じ、イメージを膨らませた。その後は、亮だけに見える膨大な霊術家の描いた、時空を超越する広大な生きた世界絵図がそこに展開した・・。

 

 少年の頃より、郷里の古くからの道場で亮は剣術を学んでいた。武道家としての竜之介の洗練された剣の理合いに感銘して、屋敷の庭でさらに師のもとで修業し、その奥行きを深めていった。 そして5年もたつと、山崎の武術の理合いが、体感で自ら再現できるようにもなっていた。 ここまでくると、無限の囲碁の石の取り合いのように先の先がイメージで把握されるようになる。亮の第6観的な自然流の素直な剣の理合いに山崎も大いに満足した。

 

武蔵の”五輪書”や柳生宗矩の”兵法家伝書”、そして山岡鉄舟”剣禅話”など江戸や幕末期の武芸者の書、能の世阿弥や茶の古典芸能の本から、若い亮は洗練された師の山崎の武技に通じる多くのヒントを得た。 体感を反映した日本の文武芸能の方法論は、無駄を一切排除した洗練されたもののように亮には思われた。

 山崎は、高校生の亮に、植芝守平の’武産合気’という一冊の本を与えた。先に、出口王仁三郎の’言霊学’の手ほどきを山崎から受けていた亮は、この本に書き連ねられた暗号のような古神道的名称、一字一句の文の流れから、師 山崎 竜之介の合気系の武技や心構えの背景にある一貫した奥義を、独自の直感で読み取っていった。それは亮にとり、日本人として世に和をとき、、己自身を超越するための修行、生涯を通じての魂の’禊’(みそぎ)であった。

これは、かつて山崎から教えられた’遠隔視’の訓練と何処かつながるものがあった。

 目標を座標として心にイメージし、いったんそれをペンで一筆書きの線に描く。むかしの霊術家が神がかって描いた’自動書記’と呼ばれるものにどこか似ていた。次にその一筆書きをさすりながら、再び今度は脳裏にイメージとして描き出るものを、ノートの上に言葉の単語で筆記していく。それを絵に描くこともある。そうして遠隔地の現実に存在する情景を目の前に描き出していく。方法は比較的単純だった。後はその精度をひたすら訓練によって高めていく。それが亮には楽しかった。母親の彩から教えられた幼児期の特殊な教育法と似ていた。熟練すると、視覚的風景のみならず、時として、そこにいる生の人の心の内も感じ取ることができるようになる。

 その後、随分してから玲とふたり亮は北米大陸に渡ることになる。そしてそこで今は各地に分散して定住するネイテイブ・アメリカンと交流するうちに、彼らの崇拝する異次元空間に今も生きるという偉大な’スピリット’の存在に触れる日がやって来る。その頃までには、若い日に山崎のもとで訓練した遠隔視の能力はより成熟している。亮の潜在能は時空を超え、その未知のスピリットの存在を感じ取り、その真の声を魂に刻み込むように聞き取ることになる。さらには、彼ら先住民族の古くからの同朋であった、今も常に身近な異次元時空に留まるという’star people’たちとも・・。 

 

 ”△〇□。 合気とは愛である。万有愛護の精神をもって世に理想郷を築かねばならぬ。

 天の浮橋に立ち、自らが天の御中主となり、天の御柱を建てねばならぬ・・。

我にむかおうとする者は、その思いが、天を敵とすることで、既に負けておる・・。”

 

 山崎が京都の帝大生であった若い日に、霊術家 王仁三郎の綾部で、そこにいた武術家 植芝守平から教えを受けていた。その植芝が、戦後に書き記した’合気道’の口述集がその’武産合気’(たけむすあいき)であった。山崎の言う通り、その口述の神々の象徴的な響きから、武術の’理合い’と、一貫してその背景に流れる’宇宙の理’を見出していった。

そこには日本古来からの言霊(ことだま)の世界があり、まさに’戦わずして勝つ’、いや’敵の戦う心無からしむる随神(かんながら)の’武’の原理があった。それを植芝は’武産(たけむす)’と呼んだ。万物と気を合わすこと、つまり’合気とは宇宙の普遍の愛’であった。

 

 東京での6年間は文武両道で苦しかったが、学校は全国でも有数の進学校にもかかわらず、教養と自由な自主学習を大いに奨励していた。かつての日本のエリートを養成する海軍学校や旧制高等学校のような伝統的な学風で、ウィットに富んで、柔軟な深い学識を有する教授陣と、将来の大いなる夢を語れる愉快で利発な友人が何人もでき、若い亮には知的好奇心の満たされる豊かな青春の日々であった。 学生服のポケットにその頃いつも旧字体の薄い岩波文庫の”南洲翁遺訓”と、南洲による佐藤一斎の手抄”言志四禄”を入れて歩いていた。ボロボロになるまで、薄い文庫本を開いては川辺で空を見上げて将来の自分に関わる何かに想いをはせた。思春期のある時期の亮にとり、西郷南洲隆盛が心の師であった。

 

 ” 文明とは道のあまねく行わるるを賛称せる言にして、宮室の壮麗、衣服の美麗、外観の浮華を言うにあらず。・・実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導くべきに、さはなくして、未開蒙昧の国に対するほど、むごく残忍のことを致し、己を利するは野蛮じゃと申せし・・。”西郷は夢見る亮の前で、そう述べていた。

 

 高校の卒業とともに山崎のもとでの6年の書生生活も終わり、東京の下宿から離れることになる。親友たちは東京や京都の旧帝大系や医学校に進学したが、亮は自らの希望も込めて、進学先は米国の東海岸のアイビーリーグのひとつにした。

 欧米流の思考様式を知り、探索的なデイベート術をまずは大学で現地語で身に着け、国際的な場で対等にやり合えるようになるためでもあった。学内で読まされるであろう参考図書も、おそらくは山崎のもとでしてきた原書の多読で、何とかこなせそうであった。

アメリカの大学では、哲学や経済学のほか、ステファン・ウオルツやモーゲンソー、ジョージ・ケナンといったネオ・リアリストの国際政治学を学んだ。米国の覇権主義の思想的背景と戦後の日本の脆弱な国際的軍事的位置づけが理解できた。

 世界の歴史と現代の情勢を知り、国際政治を動かすダイナミズムの背景である哲学を知り、プラトンなどのギリシャ哲学やキリスト教的価値観をも交えた思考によりフィードバックする。

それと、幼少期から潜在的に漢文古籍で身に着てけてきた日本の旧来の武士道の伝統的な道理に照らして事象を判断する、一風変わった思考形式を今後身に着けることが亮にとっての課題だった。   亮は生来、母親に愛情を込めて豊かな感性と教養を養うべく大切に育まれ、さらに引き続き自分の師である山崎のもとで多くを学ぶうち、豊かな感性と直感により、幅広い知的状況判断が冷静にできるようになっていた。

 

 詭弁でない東洋的な、むしろ日本の伝統的道理を背景にした、排他的でなく協調的で実践的論理を、様々な背景のもとで冷徹に構築することを学ぶ、という山崎竜之介の意向にもかなったものだった。

 もちろん、若い青春時代を山崎と共に大陸で過ごした父親の高柳良造自身も、その趣旨にはに共感していた。

 高校時代も終わりに近づいてきたころ、山崎は亮の部屋の机にマルクスとレーニンの文庫本が数冊積んであるのに気付いた。そして、そのころから社会主義系の経済誌を亮はよく読んでいるようだった。 山崎も若かりし旧制高校時代、当時そうした’禁書’を友人間で回し読みしていた。また、亮の父親である若い頃の高柳良蔵と、ふたりで熱く議論した満州の語学学校での青春時代を思い出していた。良蔵も、かつてはマルキストだった。

 ・・”貧乏物語”、”愛と認識との出発”、”三太郎の日記”、”学生叢書”など、竜之介たちは多感な青春時代、むさぼる様に知的好奇心をかき立てられるまま多くを読んだ。 総合雑誌の”中央公論”や”改造”を持ち歩いては、粋がっていたものだった。そのなかの論文が、当時の旧制高校の文科の学生の話題の中心となっていた。

 

 ある時、学校に出た亮の机の上に左翼系の経済誌が置いてあった。開いてみると、”欧米帝国主義に疲弊した中南米の歴史”が特集されていた。 山崎は微笑んで、亮らしい思春期の情熱と正義感の発露をそっと静かに見守った。 亮が高校を卒業して渡米するまでの間、一か月ほど山崎は書生生活仕上げの講義として、公務員の上級職試験用のコンパクトな’経済原論’の出題テキストを亮に用意して、微積分の数式もちりばめられたミクロとマクロの経済学を速習させた。 亮の今関心のあるマルクスの経済学とは趣が異なっていた。

山崎は、若い頃の自分同様、それも思春期の風邪のようなものだと思っていた。同じ道を亮の父親である良蔵も辿っていたのを山崎は知っていた。 とりあえず近代経済学は、いずれ渡米後の大学の予備学習となるものでもあった。新自由主義の市場の自由放任論と、強引な国際一極覇権主義が、時のホワイトハウスの政権指導者たちの指導原理となり始めた頃だった。 ’命が金で買える時代’が訪れていた。

 竜之介は、日本の政治家石橋湛山と、経済学者 宇沢弘文の著作を一冊づつ選んで、亮に贈った。 亮はそれらの数冊の経済学の本を、自分の鉛筆による書き込みで埋められた多くの漢籍、それらはすべて、同時に山崎竜之介の6年にわたる講義録の集積でもあったが、ともに渡米時に大学の寮に持っていった。それは亮がそれから洗脳されることになるアメリカでの欧米流の学問の方法論に、独自の東洋的な視点で一歩立ち止まり、自ら再考を促すものでもあった。
 

 娘の玲は、兄のように亮のことを慕い、屋敷に滞在する六年の間、父親の影に隠れては若者の身の回りの世話を献身的にしてきた。

夏も終わりに近づき、蜻蛉が庭の池に舞うようになると、やがて二人にも、別れの秋の気配がただよってきていた・・。 玲は、ここ数年、ほのかに花香る様に美しくなっていた。

 

別れ際、山崎は屋敷を去ろうとする亮にいった。

 

” おまえは、良蔵に似ておる。純粋で自分の志を曲げずに突き進もうとする。

危ういが、良蔵も長い生涯で決してその道を逸れようとしなかった。他人からは、その実体は決して見えぬが・・。だが、彩さんはとっくに気づいておった。それ故に、なおさら敬愛し、人一倍寂しくもあったろう。

だから、いずれお前にもわかる日が来るが、決して父親を憎んではならぬ・・。

旧制高校からの旧知である俺の目からは、良蔵はだれにも負けぬ、立派な人間じゃ・・。 

だから父親を誇りにして、お前は安心して旅立ち、この先、自分の高い理想を求めていくことじゃ。”

 

 亮はある時、目を閉じて、郷里の彩の安否をうかがっていた。山崎から教えられたあの遠隔視の方法だった。ふと魂が時空を泳ぎ始めた。すると、遠くに彩が額に汗して一人せっせと野良仕事をしているのが見える。

亮は微笑んだ。懐かしい山陰の郷里の村である。そして、なぜか少しづつ彩が時代を遡り若返っていくのが見える。亮はそれにイメージを任せていた。美しい女学生、おさげの少女時代から、可愛らしい目のおぼつかぬ足取りの幼児の頃、そして誰か知らぬ女性のお腹の中の小さな命の宿りまで・・。だが、母体のその女性は難産の挙句その命の灯がそこで途絶えていた。その胎児の魂も一緒に高く天を目指していた。 と、その瞬間、温かな光を放つ何かが息絶えた胎児の冷え切った身の上に降り立ち、再び、熱い血潮が流れ始めることになる。産婆の手で新生児は取りだされ、その小さな体をした未熟児の女の子は蘇生することができた。

亮はイメージの中で驚きの光景をただじっと見つめていた。

ふとそこで、’・・ア・・キ’という懐かしい響きが浮かんでいた。

自分の母親の誕生のシーンで、自分の知らぬ時空の連鎖が起きているようであった。それは、父親の良蔵に何かの縁のある魂であったのだろう。そう想うと、思春期に父親に対して持ち始めていた強い不信感がスーッと何故か解消していった。すべての命の縁は、穏やかな天の采配で結びつけられていた。