EMINA 時を越えた4つの絵物語 悠 旅立ち |
二十数年前だった。 あの日大学生の悠は、自分を”小さな龍”と呼んだその老人を
生涯の師とすることに決めていた。
深い哲学が、美しいその武技の中に込められているようだった。
師の内奥に潜む深い知恵を、生涯を通じて学び取っていきたいと思っていた。
日々の夜の屋外での肉体労働が、自分の足腰を練る為の修練にはなっていた。
しかし、’力を抜き自然体となり、天地と一つになり内から湧き出る大いなる知恵をもって事をなせ・・。’ という、師に与えられた課題は、依然解らないまま、唯々体力の任せるがまま身体を動かすことで、その’理合い’を探ろうとしていた。 若さゆえ、遠回りもやむを得ぬことでもあった。 人生の紆余曲折が、一見無防備の様でも、未熟な他に隙を与えぬ存在感を示すものであり、自己を敵の前に投げ出し、相手を包み込む余裕で成立するのが、山崎竜之介のたどり着いた武術の極意でもあった。
悠はその長い道のりの端緒に、まだ今ついたばかりに過ぎなかった。
梅雨も上がり、試験も終わる頃になると、あたりは草いきれに薫りたち、
蒸せるような夏の空気の中、炎天の陽の輝きが空一杯に広がった。
数年前、母とひととき過ごした、同じあの日本の夏だった。
あの若きチェ・ゲバラの’旅行日誌’に、悠も憧れた。母もそんな旅が好きだった。
やっと悠なりの世界貧乏旅行 決行のその日が近づいていた。
初めての海外旅行にいささか不安がよぎった。
チェ・ゲバラは、悠の大好きな、あのカリブ海の小国キューバをカストロと伴に“キューバ・リブレ”(キューバの自由)へと導いた若き革命家である。
そのゲバラが医学部の学生時代、友人とオートバイク、”ボルテローサ号”に乗り、南米周遊の旅に出る。行く先々で若き医学生ゲバラは、“太陽の汗、そして月の涙・・”、今も変わらぬ南米大陸の悲劇をつぶさに目の当たりにしていく。
目の前の苦しい現実を若いうちに心に焼き付けることで、経験を積むにつれやがて何かが内に醸成され、いつか大きな揺ぎ無い信念と行動へと繋がっていく。 悠は、半世紀も前に生きたこの医学生の若き日の’旅’日記からそんな予感を抱いていた。 今はもう誰もいない信州の八ヶ岳の実家の、父親の書斎で見つけた本だった。部屋の机には、東欧の写真家ブラッサイの写真集が一冊、そしてパリで撮った若き日の両親の一枚のポートレイトがぽつんと置いてあった。 悠は、’夜のパリ’と題されたその作家の写真集を時あるごとに開いては、モノクロの美しい古き時代のパリの情景に想いを馳せたものだった。
何とか、無事帰って来れるんだろうか・・。
格安航空券を探し回って,新宿のある旅行代理店で南周りのフリーチケットを手に入れた。何箇所かでストップオーバーができた。
旅の日、バッグパックに必要最小限のものを詰め込むと下宿のアパートを出た。如何にも学生といったブルージーンズに白の無地のTシャツ姿。 空は限りなく青かった。蝉が鳴いていた。母と過ごしたあの夏の日の草いきれの匂いを、今思い出していた。
空港の出国審査で、緊張した面持ちで出したパスポートはまっサラで、子供のような長髪の若者の写真が貼り付けてあった。Studentという日本の国家に守られた身分だった。審査官は表情もなく、”どうぞ・・。”と促した。 そしてこの先は、もう心は日本を離れ、解放されたひとりの旅人だった。
指定されたジェット機の座席につくと、何故かもう不安はかき消されていた。
ゲバラの’旅行記’というよりは、最近、あの”文芸座”で珍しくカラー映像でみた活劇の、考古学教授インデイアナ・ジョーンズ博士になった気分で、腰のシートベルトを締めながら、,旅先での冒険と出会いの期待に胸が膨らんだ。
”文芸座”の館の主(あるじ)も、そろそろ困窮していると見えて、館を維持するためには、市井の哲学者としてのプライドもかなぐり捨て、ハリウッドの娯楽映画に妥協するも、やむを得ぬようであった。 ともかく、哲学者の映画館のおかげで、モノクロの数々の美しい映像で醸成されたイメージを胸に抱き、悠は、今日めでたく青春の旅の門に立つことができた。
こだわりの名画をたっぷりと見せてくれた哲学者には、感謝するばかりであった。
ジェットの隣の席はビジネスマン風の背広の上品な紳士だった。
"どこまで?" 紳士は優しい口調で若者に尋ねた。
” たどり着ければ東欧までと思ってます。・・でも初めてなんです。だから今回は限られた日数で、懐の許す限り、いける所まで・・。 色々見てみたくて。 ”
” ああ、そう・・。
若いうちに世界を見ておくといい。 私も君ぐらいの頃、よく日本を飛び出しては、ぶらぶらとその日暮らしの旅をしたものだよ。若い日の新鮮な感動は、その後の人生の大きな糧となる。
私はテヘランからオーストリア経由でプラハに行く。また会うこともあるだろう。
その時は、私のオフィスを訪ねなさい。美しい街を案内してあげよう・・。”
こういうと紳士はオフィス名を記した横文字の名刺を悠に手渡した。悠にも微かに幼い日の記憶のあるはずの国だった。名刺を見るといくつかの世界の主要都市にオフィスを持っていた。
何かの実業家のようだった。 名前は漢字とローマ字で、佐々木 恭介 と記してあった。やがて紳士は煙草を吸っていいかと悠に尋ねると、横文字の分厚い書類に目を通し始めた。英文タイプの文字とビリオンと最後に表記した数字がぎっしりと詰まっていた。どうやら若者には関わり知らぬ世界らしかった・・。
一か月半ほどがあっという間に過ぎ去った。 初めての旅先では、貧しい国々ほど、ひとは皆優しかった。でも必ずそこにはいくつかの貧しさ故の悲惨の影が隣り合わせていた。
若い多感な悠には、まるで映画や小説にある世界を間近に見ているような、何事も初めて体験するばかりの、ただ刺激に満ちた日々であった。 悠が生きていく上での数限りない課題を、たった一月余りの間で一気に抱え込んだ気がしていた。まだ自分には消化不良で、ちと重すぎるような気がしていた。だが、旅は悠の心の奥底に、生涯消えぬ何かの小さな熱い灯をともしてくれているようであった。いまはただ程よい疲労感に酔うだけだった。
・・結局、今回のはじめての海外への遠出は、南アジアが長くなり、その後トルコを経由してパリまでで時間切れとなった。
午前8時ごろ、薄もやの残るパリのドゴール空港に、薄汚れた身なりの長髪の東洋人の若者がたどり着いた。 両親が若き日にパリにいた頃の大統領の名だった。
寝ぼけ眼で何とか空港で中クラスのホステルを確保した。 南周りの旅では、安宿が普通だったが、ここでは最後の贅沢であった。 だいぶ旅慣れてきていたが、途上国の居心地のよさを味わった彼には、久しぶりの近代的な大きな空港は、何か落ちつかなかった。 そして長いようで短い、駆け足の初めての旅の終焉への感慨を、ラウンジに水平に差し込むオレンジ色の陽の光の中で、今感じ取っていた。くたびれ果てたバックパックにもたれかかり、悠はほんの数週前の、途上国での印象的な出来事をぼーっと、振り返っていた。
現地のパリっ子には、この髭ずらで薄汚れ、旅疲れした東洋人の風貌は、奇異で場違いに映るようで、それらしい他人行儀な視線に迎えられた。 どうやら、もう既にいっぱしの旅慣れた貧乏旅行者の風格が若者のなりにはにじみ出ていたようだった。 何故か悠は、あの”文芸座”の主人の憮然としたなりふり構わぬ、でも哲学者しかりとした美しき何ものかへの憧れ、矜持、こだわりの訳が、いまにしてわかる気がしていた。 そして同様 海外一人旅を勧めてくれた大学のあの白髪まじりの教授の数々の思いや、戦時下の祖父の旧制高校での濁世に向けての質素ながら若きプライド・・。 それらが、旅のごった煮の情景を未整理のまま心に焼き付けた今の悠の素朴な感性に通じるものであったことも・・。 まだ言葉にはならぬが、何かかけがえのない、若さゆえに得られる充足感だった。
自分もいっぱしにそんな風に誰かに見られているようで、どこかひとりうれしい気がしていた。
旅する哲学・・。まだまだ、そんな立派なものでないことはよくわかってはいたが・・。
パリのホテルの広くて硬い清潔なベッドで少し仮眠を取ると、夕刻、近くのレストランで食事を取り、そのままメトロに乗ってひとり夜の”凱旋門”を訪ねた。
悠が思っていたより大きかった。 いつか見たレマルク原作の映画”凱旋門”の最後に出てくる映像を思い出していた。
恋人ジョアンを自分の腕に看取った亡命医師ラビックは、何もかも喪失したまま、パリのジョアンとの想い出のホテル、”アンテ・ナショナール”に別れを告げ、東欧の捕虜収容所へとロシア人のポリスとともに連行されていく・・。 そのあとに、凱旋門が映し出される。まるで冬の冷たい雨にさらされているような、ノイズ交じりのモノクロの何処か淋しくて心揺さぶられるシーンだった。 悠の前で、凱旋門は大きく、夜空に向けて照明に照らし出されていた。
父親の書斎でいつか見たブラッサイの写真集’夜のパリ’。ふと、その中に写し取られた半世紀も前のこの同じ街の情景を想い出していた。
一人夜のセーヌ沿いに歩いてみた。サンミッシェル橋から先を見ると、ノートルダム大聖堂の灯が川面に揺らいでいた。ノートルダムとは、’聖なる貴婦人’という意味だ。
幼いころ、母 由紀の生まれ故郷である長崎をいっしょに訪ねたことがあった。 そして、浦上天主堂に立ち寄り、聖母マリア像の前で祈りをささげた。爆心地だった天主堂は原爆で崩壊し、当時祭壇にあった美しいマリア像は、爆風に飛ばされた。そして当時の崩れ果てた痛ましい姿のまま、今も再建された聖堂内に、像は静かに安置されていた。
血で張り裂けるような人々の苦しみを、聖母像はあの日、その一身に引き受けていたのだろうか。そして、幼い悠の奥深くから湧き出た不安と憤りの涙に、無言の許しを訴えかけていたように思う。
幼い母は、運命のその日を生き延びた。記憶の途切れた辛い空白の日々ののち、やがて孤児院を経て、幸い遠方の夫婦に養女にもらわれた。病弱の身ながら大切に育てられ、それからは幸せな日々を送ったという。その後、芸術大学にまで進み、若き日、ここパリに公費で留学することができた。 父の徹とはここで出会った。
あの日、母は天主堂のマリア像の前でひざまずき、頭を垂れ、目を閉じ祈っていた。 美しく白いブロンズのような横顔だった。その姿をじっと見つめていた悠の小さな頭を撫で、何も言わずに聖堂を後にした。悠の中では、なぜか澄み切った音のない記憶である。 悠と手をつないだあの日の母の白い腕には、火傷の微かな傷があった。
セーヌに照らし出されたパリの大聖堂は、幼い日の、母と二人きりのあの物悲しい長崎の聖堂に似ていた。
ホテルに戻り、眠れない夜を一人過ごした。走馬灯のように旅先でのシーンが走り巡る。
翌日は、疲労感を伴ったまま、シャンゼリゼのウインドウをただ呆然と眺めて歩いた。
それから、ふと思い出したように、メトロでモンマルトルに向かった。そして、風車レストランの傍らにある石畳のユトリロ坂を丘へと登った。緑のマロニエの葉に覆われた通りをしばらく登りきると、こじんまりとした画廊風の白いカフェを見つけた。 ’カフェ・ペイサージュ’
可愛いらしい鈴の音の響くドアを開けると、ひんやりとした空気が流れた。火の消えた暖炉があって、あたりにはコーヒーの香りが漂っていた。パリらしい上品で温かみのあるシックな内装だった。むかしは、誰かの画廊だったそうだ。それを戦後しばらくして、今のこの店の主人が買い取っていた。
大きな腕の中にそっと包み込まれるように、柔らかな年代もののソファに腰を下ろした。昔この家の主だった芸術家の体温が時空に蘇えってくるような気がしていた。やがて熱くほろ苦い白カップ一杯のコーヒーが、悠の体を少しずつ温めてくれた。豆はゲバラの国のクリスタルマウンテンだった。悠のこだわりだった。
店の白い壁には、何枚もの大きくカラフルな近代画が掛けてあり、淡い照明に照らしだされていた。 ブラジルの女性歌手のしっとりとした音色によく溶け込んでいた。
衣服もくたびれ薄汚れ、顔は日焼けして、黒い髪も伸び、長旅の疲れが若者の表情にもやはり隠せなかった。
周囲の席では、以前は若い悠も憧れたことのある洒落た響きのフランス語で、洗練された身なりの若い男女が気取りのない会話をしているようだ。 ただ、今の悠のその脳裏にはこの一ヶ月間の南アジアの旅先での鮮烈な映像が焼きついていて、まだ消化しきれぬままに、今もぐるぐると熱く心の中を反芻していた。 やはり、旅は若者をそれなりに’哲学’させていた。
太陽、飢え、そして大河。 泥の中に溶ける生と死、いつも道端に漂うどこかすえた果物の腐敗臭・・。
ふと見ると、煙草の煙る中に浮かび上がるようにして、壁の片隅に光に照らし出された一枚の絵がある。一風変わった緑のトーンの、美しく、もの悲し気な眼を持つ女性の裸婦像だった。悠は何気なしにそこに惹きつけられていた。どこか身近で東洋的な哀感と郷愁すら誘う。うちに動的なエネルギーを秘める静的で抑制的な美しさでもある。いつか観た能楽の舞の空気に似ていた。 この絵だけが、時代を超えて悠の心の孤独をも包み込んでくれる不思議な懐かしい印象を醸し出している。その手前の窓からは、丘を越え遠くにエッフェル塔が小さく薄もやに煙っている。
その下の席に、葉巻をくゆらせながら、往年の名優ジャン・ギャバンのような黒のスーツの老人が座っている。周りの喧騒をも気にかけず、遠い情景を追うように、古びた皮の手帳に万年筆でゆっくりと何かをしたためていた。皴だらけの大きな掌の中の金色のペン先から、太く柔らかい黒い文字が流れ出てくる。一人の老人の重厚で秘められた歴史が、芳醇なインクの薫りとともに空間に浮かび上がるのを悠は黙って傍らで垣間見ていた。穏やかな空気がその裸婦の絵の周りを取り囲み、どこか1940年代風のアナクロニズム(時代錯誤)な黒スーツの老人を、その生きざまごと時空を切り離し、周囲からそっと隔離しているようであった。
’凱旋門’の映画の中の、あのセピア色の切ない戦時下の懐かしさと哀しみの入り混じったシーンを、悠は裸婦像の下に座るその黒の老人の姿に重ね合わせてみていた。
コーヒーと香水と煙草の匂い、食器のすり合わせる音が落ち着いた室内に響いていた。
悠は、自宅の父・徹の書斎に染み付いた煙草の匂いを思い出していた。海外の出張先へと帰っていった徹が吸いさした煙草が冷え切った書斎の机の灰皿に残っていた。Camelという駱駝のパッケイジの紙葉巻だった。悠は、青春のパリ到着の日の記念に、父と同じ煙草を始めてみようかと思った。悠にとり父親の存在は、信州の母の寝室の壁にあった若き日の小さなポートレイトのそれのごとく、どこかダンデイで子供心に微かな憧れを感じさせた。 モンマルトルのこの近くの店で、ほんの先ほど、父親が使っていたと同じ’Colibri’のライターを見つけだし、思い切って買い求めていた。
悠は、紙葉巻を一本駱駝のパッケイジから抜くと、ライターで火をつけてみた。シュっと心地よい音が響いた。煙が鼻腔を通過して脳内をしびれさせるように巡っていった。
噂に聞いていたパリの上品さより、東南アジアの旅の雑音や据えた匂い。目の前のどこか前時代風の老優もどきの収まる異空間の原風景が、不思議な葉巻の香りとともに、どこかシュール・レアリズムの絵のようにごったに脳裏でブレンドされ、そして構成される。醸成前の未完成な蒸留酒のごとく、若者の心拍を高鳴らせ、頭の中を幻影が意味もなく渦巻いている。 しばらく視線を老人の背後の裸婦像の絵に留めたまま、コーヒーカップを傾ける悠の想いは、既にこのエレガントで粋なパリの街の情景からは遠ざかっていた。
ふと、先の老人が皮のブックノートを手に、ソファから腰を持ち上げると黒のコートをまとい、ゆっくりと前を通り過ぎていった。悠はその場にひとり取り残され、自分と関わり知らぬ他人のデジャビュの物語の幻から、現実に引き戻された。こんな時、いつもかすかな頭痛を伴う。どこか身近な時空の窓から、遠い時の狭間に彷徨いこんだしるしだった。悠はふうと、ため息をついてみた。 自分もいつか歳を重ねて、一人ぼっちになった後も、あんなふうに自分の実りある人生を一人回想してみたいとも思った。
パリから成田への帰路は10数時間の長い飛行だった。機内の自分の座席の周囲は、当たり前の様だが日本人の観光客が多かった。 久しぶりに聴く日本語だった。
2か月ほど前までは見慣れていた自分と同じ日本人の、観光の旅の表情で室内は溢れていた。
ただどこか以前とは少し違う気がした。人が変わったのでなく、自分が少し変わってきていた。 でも、とりあえず何事も無く、無事日本に戻ってこれてホッとしていた。
大切な何かの大きな課題を心に蓄えこんで、ひとつ未熟な自分が大人になったような気がしていた。
パリのドゴール空港の売店で手に入れた例の’駱駝’の煙草をポケットから一本取り出した。ずっしりと重量感のある黒光りするColibriのライターで灯をつけてみる。静かな着火音が何度聞いても心地よかった。 が、若者は煙にむせて、軽く咳をした。あの父親の徹のように、渋く恰好よくはいかなかった。母親の由紀が、空の何処かでくすっと笑っている気がした。
これで、若者の生まれて初めての単独貧乏旅行の完遂であった。
ゲバラのモーターバイク旅行のようにその後の人生を変えるほど鮮烈でもなく、かといって、インデイアナジョーンズ博士のように恋と冒険のはてに、ポケットに貴重な宝を持ち帰れたわけでもなかった。どちらかというと、未熟ゆえの不完全燃焼で、どれもこれも中途半端でガス欠気味だった。 だが初回にしては、中身に乏しくとも、まずまずの第一歩の気もした。何とか度胸もついて、無事生きて帰ってもこれた。 成田の空港から都心への高速道路は、新しくきれいに磨いた車が整然と規則正しく走っていた。
都心のビルの建物のつくりは何処も不完全さがなく整然としていた。ただそれも、今の悠からすると南の途上国にはない冷たい他人行儀な清潔さでもあった。 何もかもが出来上がりすぎていた。未熟な自分の飢えた何ものかへの情熱がそこに留まれるような、不完全さゆえの温もりのかけらが、ここには探しても無かった・・。